HAPPY×2 MARRIAGE BLUE?
「今日はお疲れさま、マルー」
アグネスの淹れてくれた香りの良い紅茶を傾けながら、エリィがマルーを労う。ほとんど分刻みのスケジュールはこれで六日目で、全ては明日の、ニサンでの式本番のための事前準備でもある。
ほっそりとした小さな身体に、意外なほどのバイタリティを秘めるマルーといえども、さすがに疲労の色が見えて、アグネスは心配そうに、彼女の傍らに腰を降ろした。
「本当に…随分お疲れのようですわ。本日は、お早くお休みになられた方がよろしいようですね」
「あ…そうね。ごめんなさい、マルー、私ったら調子に乗って押しかけてしまって…」
すまなそうに言うエリィに、マルーは心からの気持ちをこめて首を振った。
「ううん、そんなことないよ。ボクは、今、ここにエリィさんとアグネスにいて欲しい…亡くなったママと、お祖母ちゃんと過ごすはずだったこの時間に、二人にいてほしいんだ」
そう言って微笑む大人びたマルーの表情を見やり、アグネスは目頭が熱くなるような思いに、そっと両手を握り締めた。
婚前の新婦のもとに、母親と祖母が訪れるのは、ファティマ王家に伝わる慣習のひとつであり、これから王族の一員として暮らす花嫁に、心構えなどの助言を贈るひとときを持つ。それは女性の家族にのみ許された大切な愛惜の時間でもあり、その場面に自分が選ばれたことを、心の底から誇りに思った。
「それでも…やはり、マルーさまのお身体が大切です。このお茶を頂いたら、我々はおいとまいたしましょう…」
本物の母親のように、慈愛に満ちた微笑みを浮かべるアグネスに、マルーは複雑な笑みを返した。寂しいような、ありがたいような、大人と子供の中間の顔。
「そうね。長居しておしゃべりしたい気は山々だけど、明日に障るといけないしね。それに…」
優雅にカップを傾けていたエリィが、ちらり、と大きな瞳を上向かせる。対岸のマルーがきょとんとすると、ふふ、と含むように微笑った。
「マルーのお母様やお祖母様の代わりは到底つとまらないけれど、お二人が伝えたかった『新妻の心得』の、ほんの僅かは、代弁できたと思っているし」
「!」
その途端、白桃のようなマルーの頬に朱が走った。正直な反応に、エリィとアグネスが視線を交わす。満足そうな笑みが浮かぶ。
考えてみれば、幼いころに家族を失い、小さな双肩にひとつの国を預けられた『大教母』として育ったマルーにとって、『夫婦』というものはぼんやりとした記憶の底か、窓越しに眺める他人の生活、という距離感しかなかった。
このたび積年の思いを実らせ、無事華燭の典を上げる運びとなった相手だとて、甘い恋人関係というよりは、家族に近い無邪気な従兄妹であった時間の方が、何十倍も長いのだ。
そのため、宣誓の儀式のためにアヴェ入りする直前、アグネスによってニサンへ招かれたエリィは、この晩熟で愛らしくどうしようもないほど純粋な親友のために、『新妻の心得』の指南役を買って出ていた。
その内容がどのような種類、またレベルで教授されていたのかは、この場の三人にしかわからない。けれど、エリィの多少度が過ぎたマルーへの友情をして、新妻の心得、ひいては夫婦というものへの講釈を、磐石のものにせしめたのは、疑うべくもない。
赤い顔を隠すように俯いて、砂糖も入っていない紅茶のカップをスプーンでカラカラとかき混ぜるマルーに、エリィは親友というよりは、姉にも似た心境で唇を開いた。
「まあ…マルーのことだから心配はいらないと思うんだけど、何しろ相手はあの、年中思春期男でしょ。女心の欠片もわからないだろうし、ましてや新妻なんて…ああもう、どうせならバルトにも、新郎の心得ってものを叩き込んでやればよかったわ」
半ば本気でそんな事を言うエリィに、マルーはようやく、くすくすと楽しそうな笑みを零した。
「心配いらないよ。多分それは…フェイが、教えてくれてるんじゃないかな?」
「…そうかしら。フェイ、ねえ…」
「そうだよ。フェイなら適任だね、だって素敵な旦那様だもんね?」
意趣返しのようにマルーが言うのに、エリィはうっかり赤面しそうになる頬を引き締めて、優雅にカップを傾けた。
「ええそうね。バルトが、フェイの忠告や助言を素直に聞き入れる性格なら…ね」
「あ、それはちょっとねえ」
「でしょ? 今ごろ、無謀な酒盛りなんかに突き合わされてないか心配だわ」
「あはは、まさか、いくら若でもそんな」
笑い出したマルーに、エリィがぴくりと細い眉を上げる。それからずい、とテーブルを乗り越えて、マルーへ顔を近付けた。
「マルー? …新妻の心得、忘れてない?」
「え? …あ…ぅ」
再び顔を真っ赤にして、硬直したようになったマルーの傍らで、アグネスがころころと明るく笑った。
「まあ、エリィ様…そんなにすぐには、無理でございますわよ」
「それはそうだけど。ちゃんと努力はしなきゃ」
「う…ん…」
ちょん、と白い指先でマルーの鼻をつついたエリィに、マルーはまるで、叱られた子供のようにしゅんと俯いた。その時になって初めて、マルーの様子がおかしいことに気づいたエリィとアグネスが、心配そうに眉根を寄せる。
「マルー? どうしたの? やだ、ごめんなさい冗談が過ぎたわね…気にしなくていいのよ」
「マルー様、そうあまり考え込まずに…エリィ様も仰いましたでしょう、すべては緩やかな時の中で、移ろいゆけば良いことと…」
「ううん、ごめんなさい二人とも…そうじゃないんだ…」
心を砕いてくれるエリィとアグネスに、マルーは咄嗟に申し訳ない思いに駆られ、懸命に首を振った。さらさらとした大地色の髪が、柔らかな部屋着を滑る。
「心配かけてごめんなさい。…でも…ただ、ちょっと…」
瞼を伏せ、言葉を選ぶようにするマルーを見つめて、エリィとアグネスが沈黙する。明日に結婚を控えた少女の、ピンと張り詰めていたものがたわんだ、酷く心細い様子に、真摯な気持ちで言葉を待った。
やがてマルーは、たどたどしいながらも、心のうちを明かしていく。今、ここにいるこの二人だからこそ打ち明けられる感情を。
「…なんだか、このお城に来た時から、どんどん思い出してきて……。パパと、ママの事。二人と別れたのは、ボクが四つかそこらの時だったから、ほとんど記憶はないって思ってたんだけどね…」
小さな言葉に、アグネスの肩が僅かに震えた。亡き主の面影を強く残す少女の言葉に、記憶が濁流のように蘇る。
「でもやっぱり朧で、淡くて…しっかりとはしてない記憶なんだけど、でも、そのどれをとってみても、あの二人はいつも…幸せそうで、仲が良くて…」
「…ええ、そう、そうです…その通りでございます、マルー様」
僅かに滲むような声音で、アグネスが頷いた。
「エルヴィラ様とフランシス候…マルーさまのお母様とお父様は、それはもう、本当に仲がおよろしいご夫婦でいらっしゃいました。お互いが御公務で忙しい時も、ほんの僅かな時を惜しんで、御一緒にいる時間を大切にされ…特に、マルー様がお生まれになってからは、ますます仲睦まじくあそばされて」
静かに語るアグネスの言葉を、マルーは優しい表情で聞き入っていた。その表情が、エルヴィラの眼差しに重なって、アグネスは一瞬、声を上げて泣きたくなった。
何年たとうが、幾つになろうが、忘れられない思い出。癒えない傷と表裏一体の、アグネスの心の一番柔らかなところにそっと納められた大切な記憶を愛しむように、マルーがアグネスへ微笑む。
「ボクのわずかな記憶も、みんなそうだよ。とても仲が良くて…今思えば、ちょっと困った人たちだなあって思うくらい、お互いが好きだって言う気持ちを隠さない二人だったね」
わざとおどけたように、そんな事を言うマルーに、アグネスが滲んだ涙をごまかすように目を細めて笑った。対岸のエリィが、軽い羨望の溜め息をつく。
「そんな素敵なご夫婦だったの…。私の両親も、仲が良かったけれど、父が軍人だったせいもあって、それほどわかりやすく愛情の交感をするタイプじゃなかったから、そういうの、少し羨ましい」
穏やかなエリィの言葉に、マルーは頷いた。
「うん。…羨ましいと思う、ホントに…」
語尾に滲んだ複雑な響きに、敏感に気づいたエリィとアグネスが顔を見合わせる。マルーは多少俯くように、紅茶のカップを意味もなく持ち上げながら続けた。
「そう言う両親の姿を思い出すにつれて…実は、少し不安…ううん、とても不安になってしまうんだ。今さらだけど、ボクも、…若、と、夫婦になるんだ、あの人たちと同じになるんだなあって思うと…大丈夫かなあ、なれるかなあ、あんな風に、ちゃんと夫婦に…って」
「………」
マルーの独白じみた呟きに、沈黙が流れた。エリィはわずかに困ったように、細い眉を寄せる。今まで、マルーのためにと、自分が与えられる限りの助言をしてきたつもりだが、…この不安だけは、多分。
「大丈夫でございますよ」
エリィの視線の先、そしてマルーのすぐ傍らで、アグネスが力強く請け負った。マルーが視線を上げると、穏やかな微笑みを浮かべたアグネスが、そっとマルーの手を包み込んで言う。
「マルー様…これは恐らく、エルヴィラ様がここにいらしたら、マルー様にお伝えになると…僭越ながら私、そう思います。ですから、お教えいたします」
「アグネス…?」
聡明な腹心には珍しい、回りくどい言い方にマルーが眉を寄せる。その視線の先で、アグネスは不思議と晴れ晴れとした表情で続けた。
「エルヴィラ様とフランシス候。お二人は、初めてお会いになった当初は…それはそれは仲がお悪かったんですのよ」
「……えぇ??」
頓狂な声を上げるマルーと、目を丸くするエリィ。二人の様子に、アグネスはころころと笑い声を上げた。
「ほほほ……わたくしがこんなことをお話して、もしかしてエルヴィラさまに酷く叱られてしまうかしら…かまいませんわ、その当時、わたくしも大変苦労したものです。それを思えば、エルヴィラ様もきっとお許しくださいますわね」
「あ、アグネス…それ、本当? 本当にパパとママって、仲が悪かったの…?」
酷くセンセーショナルな事実に、マルーが勢いこんで問うてくる。そんなマルーに、アグネスは穏やかに頷いた。
「ええ、それはもう。…お二人ともお若かったですし、いわゆる政略結婚とも言える、予定調和の御婚姻でございましたから…」
「そ、そうなんだ……」
仲が良いと信じていた両親の、意外な出発点。自分もいわゆる『大人』であるから、様々な理由や障害は理解できるけれど、それでもショックは隠し切れない。
そんなマルーの複雑な様子に、エリィが助け舟を出すように切り込む。
「でも、アグネスさん。マルーのご両親は、自他ともに認める鴛鴦夫婦だったんでしょう? 例え出会いはどうであれ、それはまぎれもない事実よね?」
「ええ、その通りでございます、エリィ様」
力強く請け負って、アグネスはこれこそが本意、と口を開いた。
「出会いは確かに、あまり宜しくはありませんでした。けれど、お二人は心から愛し愛され、まさに片翼同士が手を取りあうように睦まじくおなりになりました」
「片翼…」
視線を向けたマルーに、アグネスが優しく頷く。
「はい。お二人はまさしく、定められた片翼同士だったと、わたくしは確信いたします。たとえ出会いがどうであれ、どんな始まりであったにせよ」
その言葉に、マルーは安堵したように微笑んだ。
「…そっか。パパとママにも、いろんな歴史があるんだね…」
「ええ。マルー様が望まれるのであれば、わたくしにわかる範囲で、お二人のご結婚までのお話や、その後の出来事などをお教えいたしますわ」
「本当?」
嬉しそうにマルーが言う。今までも、アグネスから両親の話を聞いたことはあるけれど、それはどちらかといえば円熟期に入った夫婦の様子だけであり、二人が『夫婦』になる過程というものは、考えてみれば何も知らない。
「マルー様も、もう充分大人におなりあそばしました。今ならば、エルヴィラ様とフランシス候の、ドラマティックな『恋』のお話も、ご理解いただけると思います」
アグネスの言葉に、エリィも瞳を輝かせるようにして身を乗り出す。
「アグネスさん、私もそのお話、とても興味があるわ。一緒に聞いてもいい?」
「もちろん。ニサンの歴史を紐といても、二つとないほど素敵な恋のお話ですわよ」
茶目っ気たっぷりに瞳を瞑り、アグネスがマルーを見やる。
「ですが、そのお話はまた今度。明日は大切な結婚式ですから、今宵はこのへんでおいとまいたしましょう」
「え~…残念。じゃあ、今度必ずね?」
子供のように約束を乞うマルーに、アグネスは笑って頷いた。それからゆっくりと、その指をマルーの頬に伸ばし、大地色の髪を柔らかくすくう。
「でも、マルー様…お分かりですね? どれほど素晴らしいご夫婦も、どれほど睦まじい恋人も、初めからすべてが上手く行っていたという例は少ないです。アグネスがマルー様にお伝えできる数少ない助言…ご理解くださいますか?」
その言葉に、マルーは気恥ずかしそうに睫毛を震わせ、小さく頷いた。それから、にっこりと屈託なく笑う。
「うん。ありがとう、アグネス」
そっと、自分の頬を包むアグネスの手を握り返し、それからエリィへと視線を転じた。
「エリィさんも。本当に、色々ありがとう。教えてもらったこと、…うまくできるかまだ自信がないけど、焦らないで頑張るよ」
「あら、頑張らなくたって平気よ」
マルーの言葉に、エリィはこともなげに答えた。きょとんとする親友に、そのすべらかなマリーゴールドの髪を背に払いながら、エリィはうっとりするほど美しく微笑む。
「だって、あなたとバルトは『片翼の天使』だもの。頑張ったり焦ったりしなくたって、きっと上手くいくわ…あなたのご両親が、そうだったようにね?」
「…エリィさんってば」
赤くなったマルーに、エリィは子供のように笑って舌を出した。
「でも、新妻の先輩としては、後輩指導の結果は非常に気になるから、またチェックにくるからね? 覚悟してなさいよ~」
「うぅっ…やだなあ、エリィさんのチェックって厳しそうなんだもん」
「当然よ」
芝居がかった台詞に、お互いが少女のような笑い声を上げる。その様子を微笑ましく見守りながら、アグネスは手早くテーブルの上を片付けた。
「さあ、エリィ様。本当に、そろそろおいとまいたしましょう」
「そうね。じゃあ、マルー、今日はゆっくり休んで。明日は本番よ、気合入れてね」
「気合ですか」
「そう。そして根性」
軽やかに笑って、エリィが部屋を辞す。その後にアグネスが続き、丁寧に頭を下げて扉が閉まった。
一人になると、マルーはゆっくりと微笑みを消していく。二人の痕跡をたどるように、ソファの方へと歩み寄ると、ぽふ、と腰を降ろした。
「気合と根性…か」
ぼんやりと呟いて、苦笑する。綺麗な顔をして、親友は意外と熱血漢だ。
そしてそのまま、シャンデリアの電光へと顔を向けた。きらきらとした光の奥に、ぼんやりと浮かぶ、両親の笑顔。
アグネスから、意外な二人の遍歴を聞いても、やっぱりその印象は変わらない。仲睦まじく、互いを慈しむ光景に目を細めて、マルーはひっそりと吐息をついた。
焦ることはない。気負う必要すらない。
何も心配することはない。
頭では解っている。アグネスやエリィの助言で、心は信じられないほど軽くなった。
けれど。
「……大丈夫…だよね」
明日、自分はバルトの元へ嫁ぐ。大切な従兄が、大切な夫に変わる。
それは呼び名が変わるだけのことだと、以前は思っていたのだけれど。
「…片翼、か」
大好きなニサンの教え。自分の価値観すら左右するその言葉を唇に乗せて、マルーがころりと横を向き、大窓に映る自分の姿をぼんやりと見つめた時だった。
ドンッ…がしゃんっ!
「っ!?」
突如、バルコニーの方から上がった不協和音に、マルーがびくりと身体を跳ねさせる。顔を向けていた大窓が、何かにぶつかったようにぶるぶるっと震え、カーテンの端から金色のものが覗いた。
ごくりと唾を飲み込み、マルーが大窓に近づく。不審な物音に、警備兵が駆けつけてくる前に、彼女が確認したのは、バルコニーに片膝を付く大柄な身体。
「……っわかぁっ!?」
頓狂な声を上げて、マルーが思わず大窓に手を付いた。月明かりの下、冴え冴えと光る金色の髪は、俯いたまま二、三度首を振り、やがてのっそりと顔を上げる。
窓越しに、お馴染みの従兄弟の顔が、バツが悪そうにへらっと笑った瞬間、背後の扉が恭しくノックされた。
「大教母さま、今、なにやら物音が致しましたが…?」
部屋のすぐ前で待機していたらしい警備の言葉に、マルーは一瞬扉と窓とを交互に見やり、慌てて普段通りの声音を返す。
「あ、その、風が強かったようです。庭の方で、鉢植えか何かが倒れたのではないでしょうか」
「そうですか。では、念のため中庭の方へ人をやってみます。大教母さまにおかれましては、どうぞご懸念なくお休み下さい」
「ええ、ありがとう…」
扉越しの会話を終えると、マルーは急いで大窓の鍵を開けた。
「若っ」
「あー、いや、暗くてちょっと目測がよ…」
「いいから、早くっ」
なにやら言い訳じみた言葉をバルトが並べる前に、マルーの細い腕が、問答無用で彼の袖を引いた。わずかに斜めに傾ぎながら、バルトは逆らわずマルーの部屋へ入っていく。
急いで大窓を閉め、厚いカーテンをしゃっと閉めると、マルーは改めて目を丸くして、闖入者の顔をまじまじと見つめた。
「わ、若…? 一体、どういうことかな、これは…?」
「あー…まあその」
ばつが悪そうに苦笑うバルトは、呆れた風のマルーの様子に観念したのか、かりこり、と後頭部をかきながら、小さな少年のように率直に答えた。
「鞭で、隣のバルコニーから飛び移った時、うっかり足を手すりに引っ掛けちまって、窓に衝突したんだよ」
「………」
突拍子もない、けれど現在の状況にはこれ以上なく納得のいく顛末に、マルーは何も言わず深いため息を付いた。そのまま俯いて押し黙った彼女に、さすがのバルトも心配そうに、濃い眉を寄せる。
「おい…マルー? 怒ってんのか?」
「……」
殊勝なバルトの言葉に、マルーはもうだめ、と小さく呟いて、次の瞬間盛大に腹を抱えて笑い出す。
「あははははははっ…! わ、わかってばぁ~っ…!」
久しぶりに、掛け値なしで爆笑するマルーに、瞬間呆気に取られたバルトは、次に怒るでもなく拗ねるでもなく、ほっと安心したように微笑んだ。
「…んだよ。人がせっかく苦労して会いに来てやったってのに、笑い飛ばすことねえだろ」
「会いに、って…っ、あ、そうだった!」
はっと我に返ったマルーが、慌てて自分の口をふさぐ。扉の外で控えているはずの警備兵は、マルーの笑い声に気づいたのか気づいていないのか、今度は声をかけてくる様子はない。
ほっと息をついて、マルーは軽く肩をすくめた。
「もう、若? 式前夜の新郎新婦は、ホントは自分の部屋から出ちゃ駄目なんだよ。シグにも爺にも、散々教えられたことでしょ?」
まるで姉か母のように、したり顔でそう説くマルーを見下ろして、バルトが片眉を上げる。彼女の屈託のない表情は、今日までの六日間では、ついぞ見ることの出来なかったいつもの顔。
「なんだよ。心配させやがって…」
「え?」
ぼそり、と呟かれたバルトの独り言に、マルーがきょとんと顔を上げる。視線の先で、従兄弟が少々真剣な表情をしていることに気づき、知らずに心拍数が上がった。
「わか…?」
馴染んだ呼び名を呟きかけた瞬間、マルーははっと何かに気づいたように、唇を押さえる。それに気づいて、バルトが訝しんだように彼女を見やった。
「どうした?」
「あ、いえ…なんでもない、の…」
相変わらず、嘘の下手なマルーに、バルトは呆れたように半眼を閉じ、さっさと長い足を動かしてソファに座る。そこには、アグネスが簡単に片付けていった茶器などがあり、先ほどまでの来訪者に当たりをつけて、バルトがのそりと問いかけた。
「…エリィたち、来てたのか」
「う、うん。ママや、お祖母ちゃんの代わりにね…」
「ふうん」
ソファの背もたれに体重を預け、どこかぼんやりと相槌を返すバルトに、マルーが困ったように眉根を寄せる。彼の背後で、彼の視線がないことをいいことに、何か深刻な表情をしているマルーに、バルトは振り返らずに呟いた。
「何かあったのか」
「え」
唐突な切り込みに、マルーの息が止まる。とくとくと走り始めた鼓動の上から、更にバルトの声が響いた。
「俺が気づかねえと思ったのか。お前、この城に来てからこっち、ずっと様子が変だっただろ」
「そ、そうかな…」
下手と承知のとぼけ方に、バルトはゆっくりと振り返った。彼の視線を受けて、マルーが益々困ったように肩をすぼめる。
ここ数年来、一層男ぶりの上がったバルトの表情が、苦々しく変化した。
「俺には言えねえか」
責めるでも詰るでもない、淡々とした確認のような台詞に、マルーの心臓がずきんと痛む。
再びそらされたバルトの視線が、すがるように感じられた。
「わ…」
再び、口をつぐむ。何と言ったらよいかわからないように、苦しそうに表情を歪めるマルーに、バルトは視線を返さず呟いた。
「さっき、フェイに言ったんだ。…もし、お前がこの結婚を後悔しているとしても、俺は何もしてやれねえって」
「…え?」
瞬間、体中の血液が、足元に下るような気がして、マルーは無意識にバルトの方へ、一歩踏み出した。バルトは一点、どこか遠くを見つめながら続ける。
「一国の天辺としても、一人の男としても、今更お前を自由にしてやることは出来ねえ。お前にはもう、逃げ場はねえんだ」
「それはっ」
違う、と言いかけたマルーの目の前で、バルトは突然立ち上がった。びくり、とマルーの肩が震える。幼いころから見知った従兄弟が、ゆっくりこちらを振り返った。今まで見たこともないような顔で、聞いたことのない言葉を話す。
「お前は俺の片翼だ。だから俺は、お前を離さねぇ」
「………」
マルーが固まる。大きな碧玉の瞳を真丸に見開いて、ぽかんと唇を開くマルーへと、バルトは構わず歩み寄った。
しかつめらしいバルトの表情を凝視して、マルーが呼吸をするのも忘れている。ふう、と軽く吐息をついた瞬間、見る間に彼女の頬が薔薇色に染まっていった。
「あ、あの……」
生まれた時から一緒に居る従兄弟。大切で、かけがえのない、ただ一人の愛しい男。
けれどこんな風に、直接気持ちを打ち明けられたのは、初めてだ。明日に結婚を控えた二人でありながら、その絶望的なコミュニケーション不足に今更のように気づいて、マルーは免疫のない我が身を震わせる。鼓動が早鐘のようだ。
硬直したように、視線すらそらせずにいるマルーの正面で、バルトの精悍な表情が近づいてきた。ひどく男性じみたその視線の先で、マルーが瞳を潤ませる。
マルーに触れるか触れないかの位置で、バルトの大きな手が止まった。
「…わかってると思うが」
「…え?」
「こういうのは最初で最後…に、近い」
言って、バルトはゆっくりとマルーの頬に無骨な手を添えた。そっと上向かせたマルーの顔を包み込むように、彼にしては驚くほど繊細な仕草で唇を寄せる。
反射的に瞳を瞑ったマルーの鼻先で、掠れるように囁いた。
「愛してる…」
まるでその想いを、言葉ごと吹き込むように、バルトの熱い唇が、マルーのそれに重なった。
とても本当とは思えない、その愛の囁きと繊細なくちづけに、マルーはほとんど恍惚状態でひたすら瞳を瞑る。たった一言、使い古された愛の言葉を吹きかけられただけで、判断力も思考能力も、身体中の力さえ失って。
ごくわずかな間の優しい口付けを終えたころには、マルーはすでに、一人では立っていられなくなっていた。
「…っと」
危なげなく、小柄な彼女の身体を支えて、バルトが満足そうにため息をつく。本当なら、のた打ち回って叫びたいほど気恥ずかしいこの睦言も、今までの心の葛藤を思えば、天国とも思えるほど心地よく感じた。
自分の腕の中で力をなくし、全幅の信頼を寄せる初心な少女を大切に抱きしめて、その大地色の髪に鼻面を埋める。心地よい暖かさと柔らかさを、心底手放したくないと思った。
強く力を込めた瞬間、マルーが微かに抗議の声を上げる。
「わか…いたいよ…」
ぼんやりとした言葉は、歯切れが悪い。まだ戻ってこない彼女に、バルトは苦笑して腕を伸ばした。軽々と抱き上げられたマルーは、そのままソファに座ったバルトの膝の上で、猫のように大人しい。
さすがに少々心配になってきて、バルトが俯いて自分の肩に頬を寄せるマルーの前髪を、軽くすき上げる。
「おい…大丈夫か?」
色気のない問いかけに、マルーはむずがるように眉を寄せ、上気した頬のまま悔しそうに答えた。
「…だいじょうぶ…じゃない…」
「…ぷっ」
素直なマルーの言葉に、バルトはうっかり噴出した。不謹慎な男の態度に、マルーはようやく力の戻り始めた身体を硬くして、きりりと目元をきつくする。ふちの赤い、潤んだそれでは、怒りはちっとも伝わらなかったけれど。
それでも、笑いを収めてこちらを向いたバルトに、マルーは小さな子供のように、赤い唇を尖らせた。
「…ずるい」
「あ?」
心底意外な台詞に、バルトが間抜けな声を上げる。彼の膝の上で、その厚い胸板に体重を預けていたマルーが、白い腕を突き出して身を起こす。それでも、バルトの両腕は、しっかりとマルーの腰に巻きついていた。
「ずるいよ。ひとがこんなに悩んでるのに…自分ばっかり、なんでもない風に!」
「…だから…何を悩んでんだよ。言ってみろよ」
粗暴な印象の強いバルトであるが、こんな風に、染み入るように穏やかな声音で話すことも出来る。そんなことを、あと他に、何人の人が知っているのだろう。そう思うだけで、マルーの心臓は、焼ききれるような熱さを感じて悲鳴を上げた。
自覚を伴った、大層強い『嫉妬』の感情に振り回されるように、マルーは両腕を突き出して、バルトの首に抱きつく。突然の抱擁に、バルトは驚いて目を丸くした。
「どうせ若にはわかんないんだよっ! いっつも、ボクよりずっとずっと先にぽーんって、一人で行っちゃってさ。ボクだって一生懸命がんばってるのにさ…っ」
「おい、マルー?」
珍しいマルーの弱音と八つ当たりに、バルトは不謹慎な笑みを抑えることが出来なかった。けれど、マルーの台詞はそっくりそのまま、お前にこそ返したい、と、バルトは思う。
いつも、マルーの包容力に安堵している、なんて。恐らく、一生口には出せないけれど。
マルーは、そんなバルトの心情になど気づかないように、バルトの首筋に頬を寄せたまま、悔しそうに続けた。
「ボクなんか、若のこと、名前で呼ぶだけで緊張しちゃうのにさ…っ」
「あ?」
突拍子もない台詞に、思わずバルトが声を上げる。そこに、呆れたような色を見つけたのか、マルーは怒ったように身を起こし、正面からバルトと対峙した。ひどく赤く染まった頬に、大地色の髪が数本張り付いている。
「どうせボクはお子様ですよ。明日結婚するのに、そんなことくらいで照れて悩んで、バカみたいって思ってるんでしょ?」
「いや、」
「名前を呼ぶタイミングとか、雰囲気とか、いろいろ考えてるうちに若の顔もまともに見れなくて、そうだよ、この六日間はずっと困ってたよ。ずっとずっと緊張して、自分でもやんなっちゃうくらいっ」
「………」
「だけどエリィさんが言うんだもん。新婚なんだから当然よって。一生一度の新婚時代、思う存分いちゃいちゃしなきゃ嘘よって…でも、ボク、そう言うの慣れてないんだもんっっ」
「………」
「でも、でも、ママやパパのこと思い出すと、そー言えばいつもいちゃいちゃしてたし…若のパパとママだって仲良かったし、夫婦ってそういうもんだよね、ボクだって若のこと大好きだよ、一緒にいたいよ、い、いちゃいちゃだって…でもさ、急には無理なんだよ~~っ」
「……ぶっ」
半分べそをかくようにしてマルーが叫んだ瞬間、バルトが堪え切れないように噴出した。そのまま額を押さえて、くっくっく、と、極力声を抑えて笑い続けるバルトに、マルーは眉を吊り上げる。
「わっ…笑うなー!!」
「ってか…おま、それ…そんなことで、悩んで…?」
ぶはっ、と、とうとう全開で笑い始めたバルトの膝から、マルーが怒って降りようとしたけれど、彼の強靭な左腕が、決してその腰を離さない。
「もぉぉぉっ!! 離してよ、バカ若!」
「くくっ…『若』じゃねえんだろ?」
「~~~っ…ひ、ひどいよぉ~~、ボク、これでもしんっけんに悩んでんだからねっ!?」
とうとう、大きな瞳に涙さえためて抗議するマルーに、バルトは無理やり笑いを納めながらも、一欠けらも真剣味のない表情で、満足そうにマルーの頬を撫でた。
「俺もしんっけんに悩んだぜ? どうやってマルーを、つなぎとめようかってな」
「え?」
はた、と怒りを静めたマルーの眼前で、バルトがわずかに唇を歪めながら言う。
「…ま、フェイに言ったことは、ほとんどはったりだったけどよ…お前の様子がおかしいことは確かだったし、俺に言えない、何か重大な悩みでもあんじゃねえかと…心配した」
「あ……」
途端、申し訳なさそうにしゅんとするマルーの頬をぺちぺちと軽く叩いて、バルトは優しく微笑みかける。
「で、まあ、考えてみりゃ、明日夫婦になるってのに、俺たちはまったく、お互いの気持ちを知り合う時間ってのも持たずに来ちまったなって、思ったんだよ。だから、強攻策に出たわけだ」
言って、くい、と大窓の方を指差すバルトに、マルーは苦笑するように、小さく肩をすくめた。
「ホントだね…。子供のときから、ずーっと一緒にいるから、大体のことは話さなくてもわかっちゃうことに、甘えてた…」
「…多分、それが、俺たちの今後最大の課題だな」
おどけたように言うバルトに、マルーはくすくすと笑いながら頷く。
「そうだね…。でもね、アグネスが言ってたけど、最初から何もかもうまくいく夫婦なんてないって…ボクのママとパパだって、始めとっても仲が悪かったらしいよ?」
「お前の親父さんとお袋さんが? へえ…」
意外そうに目を丸くするバルトに、マルーはにこにこと続ける。
「うん、でも、ボクが生まれるころには、自他共に認める鴛鴦夫婦だったって。今思い出しても、あの二人はちょっと珍しいくらい仲が良かったよね」
「あぁ…そういや、そうだったか」
目を細めて追憶に耽るバルトに、マルーはだからね、と囁く。
「ボクたちは、『いとこ』としては、多分これ以上ないくらい仲良しじゃない? だから、出足は上々なんだよ…あとはそれを、上手に『夫婦』に変えていくだけ。そのためには、いっぱい話をしよう。照れないで、飾らないで、いっぱい…」
囁きの途中で、マルーはごく自然な仕草で、バルトの唇にキスをした。驚いたような顔を見せたバルトに、マルーは悪戯っぽく笑う。
「へへ…これも、エリィさんに教わったの。相手がキスしたそうだったら、自分から仕掛けてもいいんだって。知ってた?」
「…知ってた」
蕩けるように呟いて、バルトがお返しとばかりにマルーにくちづける。三度目のキスは、今迄で一番長く、深かった。
「…っふ…」
唇が離れると同時に、マルーが吐息を漏らす。その艶やかな風情に、バルトの瞳が真剣味を増した。
それから瞬間的に、頭の中で計算する。明日は朝早くアヴェを発ち、午後にはニサンで式を挙げる…ハードスケジュールだ。だからして、新郎新婦は早々に自室に引き上げ、疲れを残さないように早めに休むように言われていて…
「…明日の予定、明後日に繰り上げらんねえかな…」
「え?」
突拍子もないバルトの呟きに、マルーが目を丸くする。冗談ではなさそうなバルトの様子に、けれどマルーは一言のもと切り捨てた。
「無理に決まってるでしょ? …さ、明日も早いし、そろそろ休まないと」
「…もうちょっと…あと一時間くらい、大丈夫じゃねえ?」
どこか切羽詰ったようなバルトの言い分に、マルーは眉根を寄せて、それから決然と首を降る。
「だーめ。若、それでなくても朝弱いんだから、早く寝ないと、寝坊しちゃうよ? 明日はまだ、ボクは起こしてあげられないからね」
「…起こしてくれてもいいんだぜ」
「え?」
その言葉に、一瞬きょとんとしたマルーだったが、真意を汲んだ瞬間ばばっと頬に朱を走らせた。
「だだ、だめだよっ!! 今日はもう、寝るの! 結婚式は明日だよ?」
「…今日も明日も変わんねえだろ…」
デリカシーのないことを呟く男の後頭部をぺんとはたいて、マルーはさっさとその膝から降りた。絡んでいたバルトの腕は腰の辺りでずるりと滑り、言葉ほど強引に我を通すつもりはないことを知って、心中ほっとする。
だけどもう一方で、離れていった体温に、微かに寂しさを感じたことは、一生の秘密だけれど。
「さ、もう部屋に帰った方がいいよ、若。帰る時は、転ばないように気をつけてね」
「…お前は、また俺をバルコニー伝いに帰そうってのか。落ちて怪我したらどーする」
「それは自業自得でしょ。明日は包帯ぐるぐるででも、式には出てもらうからね」
半ば本気のように怖いことを言って、マルーは無理やりバルトを立たせた。明らかに名残惜しそうな男の背中をぐいぐいと押しやって、大窓を開く。
「なあ…」
諦め悪く振り返るバルトに、マルーはちょっと呆れたように、腰に手を当てた。
「もう。明日でしょ? 明日になったら…もう、別々の部屋じゃないんだよ」
「……」
だからその、明日、というのが待てない男の心境を、どうしてわかってくれないのだろう。勝手なことを思いつつ、バルトが半分、諦めたように踵を返しかけた瞬間。
「…お休み…バルト。ボクも愛してるよ」
背中に届いた小さな囁きに、一瞬惚けたバルトの耳に、がちゃん、と窓の閉まる音が響いて。
「っ」
慌てて振り返ると、硝子越しに手を振るマルーが、次の瞬間勢いよくカーテンを閉じた。
ひゅう、と冷たい風が、バルトの火照った耳たぶを撫でる。婚約者の部屋のバルコニーで呆然とたたずむ間抜けな男に、骨色の月が柔らかな光を注ぐ。
「……ど、どうしろってんだ……」
帰るに帰れない切なさに、バルトが情けない声を漏らしても。
再び、窓が開かれることはなかった。
歴史に残る傑物と謳われたアヴェ国初代大統領が、その生涯のほとんどにおいて、決して一人寝をすることのなかった理由を知っているのは、冷たい夜の風と、骨色の月だけだったという。
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