HAPPY×2 MARRIAGE BLUE?

その日、膨れ上がった人々の熱狂と喝采が、砂漠の大国アヴェの大地を揺るがせた。
 首都街道沿いを囲む防護壁から、延々と人々が参列し、巨大な方舟に歓迎の言葉を叫ぶ。方舟はこのほどキスレブ共和国より贈られた砂漠仕様の空陸両用移動車種で、往年のスレイブジェネレーターに匹敵する画期的新燃料の本格搭載機である。これによって、アヴェ-ニサン間の移動時間が大幅に短縮され、今後の両国の交流に多大なる貢献をもたらしたのは言うまでもない。
 壮麗な方舟(名称はまだ未定。『ユグドラシル』の名を継がせようとする一部の動きあり)に乗って、遥かなる緑の都からやってきた女性の名は、マルグレーテ。かつてこの地を治めた高貴なる血に列なる彼女は、一週間後、名実共にアヴェの民と還る。
 霞けぶるようなまろやかな色合いの方舟は、王都までの道のりを、人々の熱狂と歓呼によって迎えられ、さらに都心部に至って後は、大統領官邸から遣わされた幾台ものバギーに恭しく乗り換えた一行を、何倍にも膨れ上がった熱気が歓迎した。
 人々は、この地を正しく導く青年の、生涯の伴侶を心から慕っていた。困難と絶望に何度となく喉を塞がれた彼らの前に、その都度手を差し伸べてくれた尊い少女が、とうとうこの国に嫁して来たのだ。みな、何よりもこの日を待ちわび、まるで国そのものが、美しい彼女に恋をしているような、そんな熱望ぶりであった。
 けれど真の意味で確実に、この国に住まう者の中で、最も彼女を待ち焦がれていたのは、都を縦断する主街道を緩やかにこちらへと向かうバギーを見つめる碧玉の瞳。
 バルトロメイ・ファティマの片粒の瞳が、期待と切望をもって輝いていた。
「大統領、そろそろ広間の方へお越しください。間もなく大教母ご一行が到着されるとの報が」
「ああ、こっから見える。あと数分だ」
 その昔、王宮と言う名を冠していた頃には物見の塔と称された、国中で一番高い塔の最上階に陣取って、彼は米粒大から金貨ほどに近づいてきたバギーを眺め、満足げに笑う。彼の後ろに控えた部下は、一向に焦る風のない主のかわりに、上ずった声でもう一度注進した。
「ですから…お早く、お迎えの準備を」
「準備? そんなもん、ここから広間まで走りゃ3分で着く」
 そのギリギリまで、彼女がこちらに向かう様を眺めていたいのだという、大統領の思いのほか情緒的な態度に、けれど部下はとんでもない、と首を振った。
「すでに、アヴェ国官吏一同は広間に整列しております。歓迎の儀式の段取りもあります、駆け込み入室などはお止め下さい!」
「歓迎の儀式ねぇ…。なんかやっぱどっか旧態式なんだよなぁ、あれ」
 何しろ、民主国家として産声を上げたばかりのアヴェである。国家元首の計らいで、王制の頃より連綿と続く様式や形式は端から改革されていったが、こと冠婚葬祭等厳粛なものに関しては、国家の威儀を正すという名目で、王制来の長老方が頑として譲らない。
 中でも、元首の育ての親でもあり、嫁して来る花嫁を目の中に入れても痛くないというほど溺愛する老侍従(現役)などは、自らが采配を振るって最高の婚儀にするのだと、半年も前からそれは楽しそうに東奔西走していたのだ。
 一言でも文句を言えば、滂沱の涙で『老い先短いこの爺の楽しみを取り上げると…』と来る。すでにバルトは、この件に関しては諦めの境地にいた。
 もっとも、復興著しいとは言えまだまだ不完全国家のアヴェである。老侍従が夢描くほど絢爛たる華燭の典はもとより不可能。ならばせめて、現時点でのできうる限りの贅と労を尽くし、いかにこの国が、花嫁となる少女を待ち望み、焦がれ、歓喜しているか。それを表してご覧にいれましょう、と、老侍従はますます盛ん。
 まあそれで、老境に入る彼が生き生きと暮らせるならばと、バルトは広い心で容認していた。
 だが。
「何で、結婚披露だけに三日もかけなきゃなんないんだ? しかも、一週間も前からなんだかんだの儀式の雨あられ…さらに式は、一旦マルーをこっちに迎えてから、またすぐニサンに帰って挙げると来る。いっそ全部アヴェでやりゃいいのによ」
「そういうわけにもいきません。アヴェ王家は代々ニサン大聖堂で式を挙げられ、その際必ず、花嫁はご夫君と共にアヴェより向かわれるのが習わしです。さらに、このたびの華燭の典には、比喩ではなく世界各国からの要人も招き、さらに民衆レベルに至っては、どれほどの数がアヴェ入りするかわからないほどの、大掛かりなものなのです。三日でも足りないほどですよ」
 そういう部下の言葉に、バルトはあからさまにげんなりと肩を落とした。
「ったく…絶対、この体制は改革してやるぞ…」
「それは、大統領のお子様の代でも遅くはありませんよ。さあ、とにかく今は、定められた様式も形式も盛りだくさんなのです! お急ぎ下さい、大統領!」
 再び促され、見れば花嫁御寮(と、言うのだろう。バギーでも)はすでに官邸から通り一本挟んだ先まで近づいていた。さすがにここまでか、と、バルトは急かされるまま物見の塔を後にする。
 まろやかなバギーの色が、アヴェの陽光を浴びで燦然と輝く様が、目の端に眩しかった。



 大広間には、鮮やかな朱赤のロールカーペットが中央を縦断し、その両端には数百人からなるアヴェ国官吏たちが控えていた。
 カーペットの先、一段高くなったところに鎮座したバルトは、些か大仰に過ぎる現状に呆れている。ぶすくれた視線を隣に流すと、溌剌とした老侍従が満足そうに一同を眺め、入り口を見つめていた。
「…どぉも、こういう窮屈なのは性に合わんな…。珍獣にでもなった気分だ」
 溜め息と共に呟くと、すぐ後ろに控えていた腹心が、苦笑を噛み殺したような声音で答える。
「残念ながら、本日のあなたは珍獣ではなくただの『添え物』ですよ。すぐに皆の興味は遥か異国より訪れる麗しの宝重に移りますから、ご安心を」
「…シグ、何のフォローにもなってねぇよ、そりゃ…」
 というよりむしろ、端から主のフォローなど歯牙にもかけないシグルドの様子に、浮かれてやがるなあと再度溜め息。アヴェで最も深慮遠謀を謳われる彼からしてこうなのだから、この国は全く彼女に振り回されっぱなしだ。
 やがて、花嫁到着の先触れがやってきた。バルトはきりりと表情を引き締め、正面の扉を見つめる。格式張った荘厳な扉が恭しく開かれ、さらさらと衣擦れの音すら響く静寂が訪れた。
 先導してやってきたのは、ニサン正教最高位に属する司教二名。式典用の典雅な法服に身を包んだ初老の男性に導かれるようにして、やがて粛然と姿を見せた少女に、室内は感嘆の溜め息に埋もれた。
 バルトは、一歩ずつ真っ直ぐに自分の元へとやってくるマルーを、半ば陶然と見つめていた。小柄な彼女であるのに、悠然と歩を進める様は堂々と美しく、幼い頃から見慣れた幼馴染だと言うのに、まるで見知らぬ女性を前にしているような、言いようのない緊張を覚えてバルトは息を詰まらせる。
 圧倒される。いつの間に、彼女はこれほど大きくなったのだろう。自分の掌で護られるように過ごした幼い日々が、瞬間走馬灯のように駆け巡った。
 粛々と進むマルーは、緻密な意匠の施された薄いヴェールを被って俯き加減にやって来る。見た目によらず快活な彼女の、まるで借りてきた猫のように楚々とした様子に、ますますバルトの居心地が悪くなった。
 会場の全ての視線が集中する。育ち柄、注目されることに慣れていたバルトですら、緊張と言う名の鎖に戒められて、表情がぎこちない。白い頬に長い睫毛の影を落とす少女の表情は窺えないが、静々と歩む歩調は躊躇っているようでもあり、怯えているようでもある。
 彼女の緊張を肌で感じて、逆にバルトの肝が座った。
 すぐ傍らまでやって来たマルーは、先導の司祭たちに恭しく一礼され、バルトの立つ段差に進んだ。式典前に耳にタコができるほど叩き込まれた形式に則り、バルトが純白の手袋を嵌めた手を差し伸べる。
 ふと、マルーの視線が上向いた。
 ばちりと目が合った瞬間、バルトの心臓がこれでもかというほど血液を送り出す。式典用に作られたマルーの顔容は、普段から化粧気のなかった彼女を神々しいほど美しく変化させていた。
 一瞬目を見張ったバルトの視線から逃げるよう、再びマルーが俯く。差し出された男の手に、そっとその繊手を預け、地を滑る純白の法衣を軽く摘むと、バルトの傍らに一層より添うように、進んだ。
 添えた手の感触が、互いに手袋越しでもどかしい。衆目の中、バルトは力の限り腕を引き、目の前の美しく愛しいものを、思うさまかき抱きたい衝動とひたすら戦っていた。
 式典は粛然と続く。新生アヴェ共和国の初代大統領の忍耐力を試すがごとき時間が流れ、バルトはほとんど上の空でただまんじりともせず佇んでいる。
 花嫁がアヴェの地に渡ってすぐに行われるこの式典は、婚姻の誓いとは別の、アヴェ王家に忠誠を約す古式ゆかしい伝統だった。王制を廃止した今となっては、アヴェの大地に骨を埋める覚悟の宣誓と言う側面も持つ。
 当初は、仰々しいと難色を示したバルトだったが、戦後の混乱を経たアヴェの民衆が、国土の安寧をなによりも望む現状においては、国家元首の婚姻は大仰であればあるほど好まれる。一種のパフォーマンスとも言える式典の中には、そういった民衆心理の誘導の意味も多いために、流石のバルトも無下にできるものは少なかった。
 二人の眼前で、アヴェの国家宗教でもあるニサン正教の最高司祭が朗々と祝詞を謳いあげている。そのほとんどがアヴェ古語で、正直バルトにはさっぱり意味は解らない。幼い日、まだ戦艦暮らしだった頃にシグルドあたりが熱心に教え込んでいた気もするが、当座に必要な知識ではないと端から興味を殺いでいた。ここにきてようやくその意義の在処を悟ってももはや後の祭りである。
 この流れからすると、一週間後の結婚の儀本番では、古語のやり取りが必要不可欠になるだろうことを予想して、バルトはげんなりした。
 その時ふと、すぐ傍らから視線を感じて、何気なくそちらを見やる。
 すると、不謹慎な表情のバルトを盗み見るように、マルーが横目でこちらを仰いでいたのとばっちり目が合い、バルトがリアクションを返す前に、マルーは素早くそれをそらしてしまった。
(なんだ…?)
 その不自然な態度に、バルトの柳眉が寄る。
 衆人環視の中、悠長にアイコンタクトをするほどマルーにも余裕がないのかもしれない。けれど、それでも、その頑ななほど素早い反応は、まるでバルトを避けているようにも見えて。
 ひたすら厳粛な雰囲気が続く中、バルトは胸のうちに沸いた不可解な思いに、悶々と臍を噛む。
 長々と続いた式典が終わるまで、マルーは二度とバルトの方を見ようともしなかった。



 それでもバルトは我慢した。
 古式ゆかしい式典や儀式が、ほとんど分刻みで行われる中、バルトとマルーには一切自由な時間は与えられなかった。食事の時や短い休息の間などは、必ず誰かしらが傍についていたし、その時はマルーも、いつも通りの快活で明るい笑顔を崩すことなく、バルトに接していた。
 けれど、準備と準備の間、ふと訪れた短い二人きりの瞬間などは、マルーの態度が目に見えて急変する。
 あからさまにバルトの視線を避け、早口でどうでもいいことをぺらぺらと喋り、やけにわざとらしく『いつも通り』を演出しようとするその努力に、さしものバルトだとて気付かないはずがない。
 いや、バルトだからこそ、マルーの変調にいち早く気付いたのかもしれない。その証拠に、周囲の人間はマルーとバルトの間に時折訪れる何ともいえない微妙な空気になど微塵も気付かず、嵐のようにやってくる数々の予定をただひたすらこなしていた。
 そういう状態が、実に6日間も続き、バルトの苛々と疲労が、まさにピークに達しようとした時。
 天は、哀れな新郎に千載一遇のチャンスをお与えになった。
 明日は、朝からニサン本国へ向かい、大聖堂で正式な成婚の儀式を執り行う予定になっており、そのために、新郎も新婦も疲れを残さないよう、早いうちからそれぞれの居室に引き上げていた。
 ちなみに、明日と言う日を迎えるまでは、二人は別々の部屋で起居している。
 以前は王太子(または未婚の国王)の間としてあつらえられていた部屋は、今はもっぱらバルトの執務室兼私室として使用されていた。公私が混同されているのは、ひとえに若き大統領閣下の激務の弊害であり、つまり引きもきらない仕事にあっぷあっぷの状態ということでもある。
「とはいえ、何だよなーこの殺伐とした部屋…書類分類くらいきちんとしとけよなだれてるぞこの辺」
「うるせー。一番使い勝手がいいんだよ、そうしてんのが…おいフェイ、やたら触んなよ、辛うじてまだ」
 来客をもてなすべきソファにまで蔓延している資料の数々をわきに追いやりながら振り返った先で、バルトは愛すべき親友の無骨な手が無造作に積み上げられた書類の塔を案の定崩しやがる光景に天を仰いだ。
「あ・あ・あーっ…」
 情けない声を上げて、フェイが慌てて書類を追うも、恐らくバルト本人にすら分別不可であろう紙の束は軽やかに机上をすべり、床に散乱した。
「…す、すまん…」
 殊勝に頭を下げる親友の黒髪をじと目で睨んで、バルトはため息を零した。
「…気にするな、新婚生活がまた一日削られただけだ」
 一般で言うところの蜜月など、望むべくもないけれど、それでもとりあえずは、それなりにそれなりな新生活の期間を確保しようと、ここ一ヶ月ほどバルトが奮起した結果が、この部屋の惨状でもある。けれど、やればやるほど仕事は増え、こなせばこなすほど難易度が上がるのは、まさか誰かの陰謀じゃねえだろうなと、少々やさぐれていたところだったりするので、今更残務が増えようが、もうどうでもいい。
 それよりも、今問題視すべきところを思い出すように、バルトは書類の散乱する雑多なソファにどっかりと腰を下ろし、高く足を組んだ。
「マルーが変だ」
「は?」
 唐突な話題に、バルトの対岸に腰を据えかけたフェイがきょとんと固まった。中腰のまま己を凝視する親友に、バルトは不機嫌そうに、一言一句をかみ締める。
「マルーのやつ、何か俺に隠し事をしてやがる」
「…って。まさかお前、大事な大事な相談があるって、そのことか?」
「おう」
 あっさりと頷いた国家元首に、曲りなりとも彼の統治下にある国民の一人である自分がなんだか哀れに思えて、フェイは気の抜けた息を吐いて腰を下ろす。
「…オマエなあ。まるで明日にでも国が潰れるみたいな悲壮な顔で人を連れ込んどいて、そのオチかよ…まあ、究極にお前らしいっちゃお前らしいけどな」
 国が沈もうが星が無くなろうが、最後まで豪気だった戦友の、唯一にして最大の弱点。たった一人の少女の一挙手一投足で、おろおろと顔色を変えていた親友の相変わらずな様子に、フェイは呆れもし、また安堵もしていた。
 そんなフェイの斜向かいで、バルトは豪奢な金髪をがしがしとかきむしる。ここ数年で一層男ぶりの上がった顔に、少年のような情けない表情が浮かんでいた。
「そう言うがな…これは結構大ごとなんだぜ、フェイ」
「あん?」
 相槌を返すと、バルトは片粒の碧眼でぼんやりとシャンデリアを仰ぎ、呟いた。
「…今更結婚はイヤだって言われたところで、俺はどうしてやることも出来ねえしな」
「……はぁ?」
 正真正銘、呆れた声を上げるフェイに、バルトはむっとしたように眉根を寄せる。傷心の親友に対して、思いやりがなさすぎじゃねえかこのやろう。目は口ほどにものを言った。
「…って、お前、はあ? …何言ってんの?」
 飲み込みの悪いことこの上ないが、フェイはふざけているわけではない。本気で、この突拍子もない相談を持ちかけた親友の真意を、汲み取れずにいるのだ。
 バルトはそれでも大真面目に、無骨な指を交差させた。
「だってそうだろ? もう、式は明日に迫ってんだ。各国からの参列者もニサンで手薬煉引いてる。アヴェにしたってそうだ。国家元首の花嫁を迎える準備は、万端整ってんだぜ」
「いや、そうじゃなくてだな」
 どこかぼんやりとしたバルトの呟きに、らしくもない弱気な影を見つけて、フェイは話の腰を折るように手をかざした。
「何で、マルーが結婚を嫌がってるなんて、そんな馬鹿げたことを言い出してるんだ? 頭大丈夫か? 仕事のしすぎじゃないのか、バルト」
「…俺の頭は至って正常だ」
 正常すぎて、新妻(になるはずの女性)の、ほんの些細な違和感にさえ敏感に気づいてしまっている。
 まったく正常だ。もう一度呟いて、バルトは沈黙した。その様子に、フェイはようやく事の重大さに気づいたように、顔を引きつらせる。
「だけど…そんなのありえないだろ。マルーの様子がおかしいとしても…それが、結婚を嫌がっているからだと、直結するのは早いんじゃないか?」
「ああ…俺も、そう思おうとした。だが、考えれば考えるほどマルーの態度は、この結婚を後悔しているような、そういう風にしか見えねえんだよ…」
「バルト……」
 それが本当なら修羅場である。
 いや、修羅場どころの話ではない。下手をすれば、ようやく復興しかけたこの大切な時期、それこそ世界を牽引してきた二大国家の存続さえ危うい。ことは、平凡な男女のすれ違い、では済まされないのだ。二人の双肩にかかるものの大きさに、改めてフェイは眩暈を感じた。
「も、もし、もし仮に、だぞ? 仮に、マルーが本当に結婚を後悔していたとしたって…お前の言うとおり、今更、どうしようもないだろう……」
 ああ、そうか。だからこそ、自分がこの場に呼ばれたのだ。
 老若男女問わず、知己の多いこの男にとって、自分が唯一『親友』と呼ばれる立場にあることを、フェイは自覚していた。互いに改まって口にしたことこそないけれど、命を賭けて戦い抜いた、あの濃密な時間によって育まれた信頼は、きっと墓の下まで絶えることはないと思う。
 ここ一番というときに、バルトが頼れる人間は少ない。その中でも、今回一番相談役に適していたのは、確かに自分である。
 推察し、納得し、飲み込んだフェイが、表情をがらりと変えた。
「それで、お前はどうしたい」
 問いかけに、バルトの視線が向けられた。深い蒼の瞳の先で、フェイが真摯に言葉を続ける。
「どうすべきとか、どうあるべきとかじゃなく…お前は、どうしたいんだ」
「…俺、か」
 ぼんやりと呟いて、バルトはあごに手を這わせた。かさついた皮膚が、最近の激務を思わせる。その苦労の先にあると信じていたものを、手放す勇気が彼にあるのか。フェイはじっと、バルトの言葉を待った。
 やがてバルトは、顎から指を離し、ふう、と軽く息をつく。
「お前は協力してくれるか?」
 結論から先に問うてよこした親友に、フェイは苦もなく頷いた。
「当然だろう。俺に出来ることなら」
「なんでも?」
「ああ、なんでも…」
 する、と結んだ瞬間、にやりと笑ったバルトと目が合って、フェイはこの男と知り合ってから何度目になるかわからない後悔で、胃の腑をじっとりと重くした。
「おい、バル…」
「もちろん、このまま黙ってたんじゃこのバルト様の名が廃るってもんだぜ。女一人捕まえらんねえ国家元首じゃあ、国民も情けねえやな」
「って、どうする気だよ」
 本当はものすごく聞きたくはないが、とりあえずそう問うと、バルトは晴れ晴れとした表情で無造作に立ち上がった。
「ん、聞いてくる」
「は?」
「マルーにだよ。話しねぇ限り、どうにもしょうがねえだろ」
 あっさりと、なんでもないことのように言い出した男に、けれどフェイはだめだだめだ、と首を振った。
「忘れたのかよ? しきたりだかなんだかで、今夜は新郎も新婦も、自室から一歩も出るなって言われてんだろ? お前やマルーの部屋の前に、物々しい番兵が居るの知ってるか?」
「あぁ。なんだかな、災厄から王を守るだとかなんとか…前時代的もはなはだしいぜ。来月早々には、こんな慣習廃止してやる」
「だが今は、まだ廃止されてない。慣習を破るってのは、どんなことであれ悪いように取られるのが通例だ。お前の身勝手で、マルーにも累が及ぶかもしれないだろ? よせよ」
 ことに、この婚姻に向ける国民、ひいては全世界の期待の大きさといったら凄まじい。そこには、チリひとつでさえ手抜かりが生じる余地はないのだ。
 フェイの諫言に、けれどバルトは不思議と上機嫌に頷いて、手元にあった資料を無造作に蹴散らした。そこから現れたのは、見慣れた彼の愛用の鞭と、用意のいいことこの上ない、簡易梯子。
 それらを目にして、親友の言わんとするところを正確に読み取ったフェイが、思わず地の底を這うようなため息をついた。
「…つまり、お前は俺が何をどう言おうとも、最初からこうするって決めてたってわけだな」
 自分が連れ込まれたのは、相談役ではなく共犯者のキャスティングだったわけだ。
「悪いな」
 ちっとも悪びれずに言うバルトの晴れやかな顔を眺めて、フェイが半眼を閉じる。
「明日を前に、バルコニーから転落死、なんて洒落になんねえぞ」
「この俺を誰だと思ってやがる。そんなへまするかい」
「マルーの部屋、確かこの下の階の、部屋みっつくらい先だろ。ちなみにここ四階。落ちたら怪我じゃすまねえぞ」
「そんときはそんときだ。俺に運がなかったのさ」
「ああ、もう!」
 がしがし、と黒髪をかきむしって、フェイは諦めたように嘆息した。バルトはにんまりと笑い、長年の経験からかとても物分りのよくなった親友の肩を力強く叩いた。
「ありがとよ!」
「ったく…その代わり、見つかっても知らねえぞ。俺が共謀したなんて口が裂けても言うなよ、エリィに殺される」
「心配すんな。エリィだって、マルーのためだって言えばぐうの音もでねぇよ」
 都合のいいことを言いつつ、さっさと梯子を持って窓辺に向かうバルトの背中に、フェイはやれやれと視線を向ける。そしてふと、躊躇うように唇を開いた。
「……そう言えば」
「あん?」
 肩越しに振り返った碧眼に、フェイが複雑な表情を返す。
「思い出した。…バルト、『マリッジ・ブルー』って知ってるか?」
「知らん」
「…だろうともさ。まあ、簡単に言うと、結婚前、神経過敏になって気鬱になる症状、だったかな? シタン先生に聞いた時はもっと詳しかったんだが…俺もうろ覚えなんだ」
「…結婚前、ね」
 ふん、と鼻を鳴らして、バルトはさっさとバルコニーに出る。真鍮の柱に縄梯子の先端をくくりつけるバルトに、フェイが続けた。
「思い出したよ。俺も手を焼いたっけ、そういや」
「はん? じゃあ、お前も結婚前は神経過敏になったクチかよ」
「馬鹿。俺なわけねえだろ…エリィ、だよ」
「えりぃ~?」
 素っ頓狂な声を上げるバルトに、フェイが半眼を閉じる。
「なんだその意外な顔は」
「だって意外だもんよ。あのエリィがねえ~」
 エリィが聞いたら、超高速の肘鉄でも飛び出しかねない不遜な態度には目を瞑り、フェイはバルコニーの手すりに寄りかかりながら笑った。
「そんなもんさ。別に、結婚を嫌がった、ってわけじゃない…ただ、なんだろうな、気持ちの整理が、上手くつけられないのかもしれない」
「……」
「ことに、マルーとお前は、小さい頃から知ってる仲だろ? 今まで培ってきた関係を、崩して作るってのはでかいぜ…そのへん、お前がちゃんとフォローしてやれよ」
 したり顔でそう説く『結婚の先輩』に、バルトは不敵な表情で軽く舌を出した。
「言われるまでもねえってんだ。だからこうして、こんなもんまで用意してるんだろうが」
 言って、バルトは縄梯子に手をかけた。手すりを乗り越え、ぎしりとロープを伝うバルトに、フェイはやれやれと頬杖をつく。
「ちなみに、俺はいつまでここにいればいいのかな?」
「とりあえず、寝る前の様子伺いに、たまに人が来るからよ。適当に言い訳しといてくれ。でもって、この梯子片付けといてくれよな」
「はいはい。…見つかる前に帰ってこいよ」
 仮にも結婚式前夜の新郎新婦だぞ、と嘯く親友に、バルトは悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「そのつもりだがな…一時間たっても帰らなかったら、部屋に戻っていいぜ」
「……言う言う」
 からかうように笑って、フェイははしごを降りるバルトを満足そうに見送った。
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