FLORAISON-フロレゾン-
ノアトゥン領内アヴェ大使館、深夜。
華美を控えた重厚な屋敷内は、安息の眠りに包まれていた。
その中を、足早に過ぎる影が、一つ。目的の部屋は、邸内で最も安全性の高い、東館の一室。
長い足を器用にさばき、颯爽とした身のこなしで歩く彼こそが、砂漠の大国アヴェの大統領であり、夜半を過ぎたこの時間、東館内を自由に闊歩できる唯一の人物。
バルトロメイ・ファティマは、普段は片流しの三つ編にされている陽の色の髪を無造作に散らし、回廊を警備する警備兵に視線を投げた。
「ご苦労」
警備兵は、一瞬緊張したように身を竦ませてから、彼が何者であるかを悟り、恭しくこうべを垂れてその道行きを譲った。視線に見送られて、バルトはさっさと回廊の奥に消える。
窓のない道の向こうには、ひとつの部屋の扉があった。
「……」
扉の前に立ち、バルトはふと考える。
……ノックをすべきだろうか。
室内の人物は、間違いなくもう眠っているはずだ。昼間の強行軍での入国に加え、午後から催された各国首脳とのサミットにおいても、緊張を強いられたのは傍目にも明らかで。
現に、夕食後のひとときでは、バルトの傍らでいかにも眠そうに舟をこぎ、結局彼に抱えられてこの部屋のベッドに沈んだほどだ。
しばし逡巡し、バルトは闇をはばかるように弱く、その重厚な扉を殴打した。
「……」
もちろん応答などなく、むしろそれを期待していない素早い動作で、静かに扉を開く。部屋は漆黒ではなく、窓際に配されたルームランプが、ほのかに橙色を広げている。
バルトは確信めいた足取りで、ルームランプの許を進んだ。柔らかな絨毯の不安定な感触に、居心地の悪さを感じるのは何故なのか。
中央の壁際に配された、天蓋付きのベッドの向こうに、小さな人影が見える。当然のことながらそれは横臥状態で、闇に凝らした視界の中、規則正しい寝息に上下している様も見えた。
薄いヴェールに阻まれた状態で、バルトは歩を止める。柱時計の秒針の音が、耳に酷く響いた。
「……マルー」
呼びかけて、答えがあればそれでよし。しかしもとより、深い夢の世界に旅立っている少女を前に、そんな蚊の鳴くような声が役に立つはずもなく。
二度視線を転じて、柱時計の示す時刻を確認してから、バルトは一呼吸ゆっくり吸った。
「マルー、起きろ」
無造作に言って、ヴェールを振り払う。小柄な少女が眠るには、ありあまった造りの巨大なベッドの真ん中で、埋もれるように小さな顔が見えた。
「……おい」
安らかな寝顔にざわめいたものを、懸命にひた隠しながら、バルトはマルーの枕辺に身を乗り出す。手をついた瞬間、スプリングのききすぎたベッドが大きく揺れた。
「……ん……」
目覚めの遠いうわごとめいたものが、マルーの唇から漏れる。ベッドの歪みに従うように、自然とマルーの顔がこちらを向いた。
「……」
幼い頃から見慣れたはずの、マルーの寝顔。それなのに何故、今更のように動揺が走るのか。
「……勘弁してくれ……」
情けなく一人ごちり、バルトは再び時計に目を走らせた。物言わぬ秒針が告げている。『自分の婚約者を起こすのに、これほど手間取る阿呆がいるか』
聞こえない換言に後押しされるよう、バルトはその大きな手の平をマルーの頬に滑らせた。叩くかつねるか、そんなつもりで。
だが。
「……ん……わか…」
温もりに、擦り寄ってきたあまりに柔らかな感触に、一瞬頭が真っ白になったのは、弱冠二十歳の若さをもてあます男としては、至極当然の反応で。
しかも、その桜色の唇が漏らしたのが、他の誰でもない自分の名前だったのだから。
これは。
つまり。
「……襲って下さい、と…」
ごくり、と喉仏が上下する。浅ましい己の独り言にも気づかず、バルトはぐぐっと身を傾けた。
自分の名を呼ぶ甘い声。声があれほど甘いなら、唇はどれほど甘露だろうか。
「……って!」
寸前で、わずかに残っていた理性が叫ぶ。自分が何をしにここに居るのか、こんなに簡単に忘れてしまえる、マルーの魅力は全く恐い。
べちべちと自分の頬をはたき、バルトは赤い顔をようやく持ち上げて、マルーを正面から見据えた。
「おい、マルー…マルー! 頼む起きろこれ以上試すな!」
「んん…ん~…?」
耳元で騒ぐ悲しい男の声に、マルーはようよう夢の中から戻ってきた。不機嫌そうに眉を寄せ、ぽかりと目蓋を開けると、焦点の合わない碧玉の瞳がゆっくりとバルトにかぶさる。
「……わか……?」
「起きたか。あのな、マ……」
若干ほっとしたような口ぶりで、バルトはとりあえず夜中の訪問の理由を説明するべく唇を、開き。
「っきゃああああああ!!!!!!」
その突拍子もない絶叫に、舌を噛んだ。
「おい、マルー!?」
「うわあのちょっと若どうしてここに!?」
「落ち着け、マルー」
「まってまってそれは待ってちょっとボクにだっていろいろと心の準備が」
「マルーっ」
完全に我を失って、巨大なベッドにもぐりこんで叫ぶマルーを見下ろして、バルトはわしわしと頭をかきむしる。
……考えてみれば至極もっともな誤解だ。
「…あのな、マルー」
「うわーんアグネスのうそつきー絶対だいじょうぶって言ったくせにー!」
「聞けよ、おい」
「あのバルト様にかぎってって言ったくせにうそつきー!」
「こら!」
寝具をかぶっているとは言え、声は高くよく響く。重厚な扉の向こうで、回廊の警備をしている不寝番がなにごとかと踏み込んできたら、男として立つ瀬がない。
公的ではないにしろ、列記とした自分の婚約者の寝室で、拒絶されまくる大統領の姿など、警備の者だって見たくはないはずだ。
ち、と舌打って、バルトは寝具の下で丸くなっているマルーの両脇に、覆い被さるように手をついた。
「あんまり騒ぐと、期待に応えたくなる」
「……!!」
「つーわけで、まずダマレ。潜ったまんまでもいいから、俺の声聞けるな? …聞けないっつーなら…」
「き、聞けます聞けますっ」
寝具の下で、もぞもぞと頷く気配がする。バルトはその両手で寝具ごとマルーの身体を縫いとめるように、ベッドの上に膝をついた。
「あー…と、まずはだな。夜中にすまん」
「……」
無言のなかにも、どうやら落ち着いてきたような気配が伝わる。とは言え、反論できるほど回復されても面倒だと、バルトはなるべく早口で言った。
「こんな時間に押しかけたのは、大事な話があったからだ。急で驚くかも知れねえけど、帰るぞ、今すぐ」
「……え?」
寝具の下から、くぐもった声があがる。ついで、もぞもぞと動き出した丸みに、バルトはしぶしぶ片手を上げた。
「って、一体どういうこと?」
寝具の端からひょこりと顔を出して、ぐしゃぐしゃになった茶褐色の髪のまま問うてくるマルーを見下ろして、バルトは眉を上げた。
「いや、どーゆうってか…緊急事態だよ」
「それはわかってるよもちろん。で、どういう事態?」
「……」
さ、と視線がそらされる。普段はみつあみでまとめられている金の髪が、さらりと肩から滑り落ちて、マルーの頬に届いた。
見上げた顔に覚えがある。何かまずい事を隠す時の表情だ。
「……若? なにをかくしてるの?」
「……」
「ねえ」
「……」
ここまで来て、だんまりはない。バルトは何からどう手をつければ、被害を最小限にできるか、こんな時ばかりよく働く頭を賢明に動かしていた。
その、彼に。
「……ふうん。言えないんだ。じゃあ、ボクだって起きないもんね」
軽く言って、マルーは眉を寄せたバルトに小さく舌をだし、そのまま目をつぶった。
そんな彼女を見下ろして、バルトはふと妙な気分になる。
…そんな場合じゃないのに、そんな場合になってしまいそうな体勢を、彼女はもう忘れたのだろうか?
「…なあ、マルー」
「……もう寝た」
「あんま軽々しく、目ェつぶんな」
「は?」
「……わかんねぇ?」
言われて、マルーはぱちくりと瞳を開き。
片手を自分の頭の横へ沈め、覆い被さるように膝をついてこちらを見下ろす従兄弟の……婚約者の、意地の悪い碧玉に出会って。
赤面した。
「わわわ、わかったよ! もう、なんなのさまったく! でもちゃんと理由を言ってくれなきゃ、ボクだって考えがあるよっ」
照れ隠しに怒鳴るマルーの、その可愛らしい表情にくらりとめまいを覚えて、バルトはゆっくりと上体を下降させた。
「ちょ、ちょっと若!」
「あー……なんか止まんね」
「そ、そんなこといったってだって急いでるんじゃないの?! 緊急事態って、緊急だから緊急っていうんじゃないのっ??」
ピントがボケるほど近づいたバルトの肩を、細い腕で押しやって、マルーは必死に声をふるった。
その瞬間、堅く目をつぶったマルーの鼻先に、柔らかい感触が下りてくる。
「そーだった」
わざと不機嫌そうに呟いて、バルトはマルーの鼻先に軽くキスを落としてから、がばりと上体を起こした。
「ったくよお。……自分の理性に拍手喝采だ」
こぼしつつ、くるりと背を向けてベッドの端に腰かけたバルトの背中に、マルーは鼻を押さえて真っ赤になったまま眉を寄せる。
「どこが理性……」
「あン? 理性的だろうがよ、病的なほどに。普通、自分の女のベッドに入って、なんもしねえで笑ってられる男なんざいねえぞ」
こちらを向かずに言い放ったバルトの言葉に、マルーはぎくりと身をすくませてから、唇を尖らせる。
「…でも、ボクたちまだ婚約してないよ」
「表向きはな」
「…ボク、ちゃんと若に言葉、まだ、もらってない」
「……」
「それに…ボクたち、あの晩餐会以来、まともに顔をあわせたの、今回が初めてだよ? …それなのに、そんな急に、困るよ……」
「……」
ぼそぼそとしたマルーの言葉に、バルトは背を向けたまま天井を見上げた。彼の金色の髪がさらりと流れ、マルーの視界の端で踊る。
「……あのな、マルー」
「……うん」
上向いた彼の喉が、わずかにかすれた声を上げる。マルーはバルトの背中に視線を転じて、不安そうな瞳を瞬かせた。
「俺が理性的な男じゃなかったら、おまえ、二度とニサンの地面を踏めなかったとこだぞ」
「え?」
「ほんとならこのまんま、かっさらって閉じ込めて、カギかけて一生、手ばなさねえくらいわけねえんだ」
「……」
「そんなこと、簡単なんだよ。……お前の気持ち、無視するんならな」
言って、バルトはくるりと振り返る。マルーは、たぐり寄せた寝具を抱きしめるようにしながら、不安げにこちらを見つめていた。
そんな彼女の柔らかな頬に、バルトはゆっくりと右手を伸ばす。触れる直前、かすかに緊張したかのように彼女が震えるのを見て、碧玉が苦笑した。
「……けど、たとえ俺の理性の糸が根こそぎ焼ききれちまっても、そればっかりはできねえんだ」
「…どして? …」
小首をかしげ、バルトの瞳を見つめるマルーに、バルトは小さなころから変わらない、優しい苦笑をひらめかせた。
「さあなあ。理由なんてわからん。……あえて言うなら、本能かな」
「本能?」
「そ。本能的に、俺はマルーの気持ちを無視できねえように作られてんだよ。理性とか、衝動とか、そーゆーのとは全然次元の違うハナシ」
そう言うと、バルトはにやりと笑って、頬にかかるマルーの髪を優しくかきあげた。
マルーはされるがまま、じっとバルトを見つめている。そこには、怯えもためらいも何もなく、ただ一途に、彼のなにかを見守るように、そっと唇を開いた。
「…じゃあ、ボクも本能だ」
「え?」
きょとん、と聞き返したバルトの手のひらを、小さな両手が包む。それからにっこりと、花がほころぶようにマルーは微笑んだ。
「たとえどんなことされたって、どんな風になったって、ボクは若が若なら、それで全部許せちゃう。……本能だね」
「……マルー…」
微笑む彼女の唇に、バルトの長い指が触れる。彼の意図を汲むように、ぴくりと震えた長い睫毛が、そっと白い頬に影を落とした。
ぎしり、と、柔らかなスプリングが音をたてる。吸い寄せられるように上体をななめにしたバルトが、マルーの唇を捕えようと薄く唇を開いた瞬間、
とんとん
「っ!」
闇を裂くノックの音が、薄暗い部屋の隅から響いた。肩を震わせたバルトとマルーが、至近距離で目を見開き合う。
先に動いたのはバルト。
「…ちくしょ」
忌々しげに吐き捨てて、ぽかんとした風のマルーの唇に、かすめるようなキスを落とす。そしてそのまま、風のように素早くベッドを降りて、扉に向かって声を返した。
「今行く! …マルー、説明は後だ。なるたけ早く準備してくれ」
「え、あ、うん」
ぼんやりとしていたマルーは我に返り、慌しく夜具を取り払った。バルトはすでに、扉の方へ大股に進んでいる。
「それとな、マルー」
扉の取っ手に手をかけて、こちらを振り返ったバルトの声に、ベッドを下りかけたマルーがきょとんと視線を返した。
「この次は、叫ぶなよ」
「え?」
それだけ言って、扉を開いたバルトは、回廊に控えていたらしきシグルドになにごとか呟いて、部屋をあとにした。
その、後ろ姿を呆然と見送って。
「……なんだよ、もう……」
唇にそっと指を這わせたマルーが、悔しそうに呟いた。
結局、緊急帰国の理由を走行するBASILISK内で聞かされたマルーが、激怒してバルトに噛み付いたことは、ある程度予想していた主の不手際に嘆息するシグルドによって、どうにかおさまりを見せたのだが。
それはまた、別の話である。
華美を控えた重厚な屋敷内は、安息の眠りに包まれていた。
その中を、足早に過ぎる影が、一つ。目的の部屋は、邸内で最も安全性の高い、東館の一室。
長い足を器用にさばき、颯爽とした身のこなしで歩く彼こそが、砂漠の大国アヴェの大統領であり、夜半を過ぎたこの時間、東館内を自由に闊歩できる唯一の人物。
バルトロメイ・ファティマは、普段は片流しの三つ編にされている陽の色の髪を無造作に散らし、回廊を警備する警備兵に視線を投げた。
「ご苦労」
警備兵は、一瞬緊張したように身を竦ませてから、彼が何者であるかを悟り、恭しくこうべを垂れてその道行きを譲った。視線に見送られて、バルトはさっさと回廊の奥に消える。
窓のない道の向こうには、ひとつの部屋の扉があった。
「……」
扉の前に立ち、バルトはふと考える。
……ノックをすべきだろうか。
室内の人物は、間違いなくもう眠っているはずだ。昼間の強行軍での入国に加え、午後から催された各国首脳とのサミットにおいても、緊張を強いられたのは傍目にも明らかで。
現に、夕食後のひとときでは、バルトの傍らでいかにも眠そうに舟をこぎ、結局彼に抱えられてこの部屋のベッドに沈んだほどだ。
しばし逡巡し、バルトは闇をはばかるように弱く、その重厚な扉を殴打した。
「……」
もちろん応答などなく、むしろそれを期待していない素早い動作で、静かに扉を開く。部屋は漆黒ではなく、窓際に配されたルームランプが、ほのかに橙色を広げている。
バルトは確信めいた足取りで、ルームランプの許を進んだ。柔らかな絨毯の不安定な感触に、居心地の悪さを感じるのは何故なのか。
中央の壁際に配された、天蓋付きのベッドの向こうに、小さな人影が見える。当然のことながらそれは横臥状態で、闇に凝らした視界の中、規則正しい寝息に上下している様も見えた。
薄いヴェールに阻まれた状態で、バルトは歩を止める。柱時計の秒針の音が、耳に酷く響いた。
「……マルー」
呼びかけて、答えがあればそれでよし。しかしもとより、深い夢の世界に旅立っている少女を前に、そんな蚊の鳴くような声が役に立つはずもなく。
二度視線を転じて、柱時計の示す時刻を確認してから、バルトは一呼吸ゆっくり吸った。
「マルー、起きろ」
無造作に言って、ヴェールを振り払う。小柄な少女が眠るには、ありあまった造りの巨大なベッドの真ん中で、埋もれるように小さな顔が見えた。
「……おい」
安らかな寝顔にざわめいたものを、懸命にひた隠しながら、バルトはマルーの枕辺に身を乗り出す。手をついた瞬間、スプリングのききすぎたベッドが大きく揺れた。
「……ん……」
目覚めの遠いうわごとめいたものが、マルーの唇から漏れる。ベッドの歪みに従うように、自然とマルーの顔がこちらを向いた。
「……」
幼い頃から見慣れたはずの、マルーの寝顔。それなのに何故、今更のように動揺が走るのか。
「……勘弁してくれ……」
情けなく一人ごちり、バルトは再び時計に目を走らせた。物言わぬ秒針が告げている。『自分の婚約者を起こすのに、これほど手間取る阿呆がいるか』
聞こえない換言に後押しされるよう、バルトはその大きな手の平をマルーの頬に滑らせた。叩くかつねるか、そんなつもりで。
だが。
「……ん……わか…」
温もりに、擦り寄ってきたあまりに柔らかな感触に、一瞬頭が真っ白になったのは、弱冠二十歳の若さをもてあます男としては、至極当然の反応で。
しかも、その桜色の唇が漏らしたのが、他の誰でもない自分の名前だったのだから。
これは。
つまり。
「……襲って下さい、と…」
ごくり、と喉仏が上下する。浅ましい己の独り言にも気づかず、バルトはぐぐっと身を傾けた。
自分の名を呼ぶ甘い声。声があれほど甘いなら、唇はどれほど甘露だろうか。
「……って!」
寸前で、わずかに残っていた理性が叫ぶ。自分が何をしにここに居るのか、こんなに簡単に忘れてしまえる、マルーの魅力は全く恐い。
べちべちと自分の頬をはたき、バルトは赤い顔をようやく持ち上げて、マルーを正面から見据えた。
「おい、マルー…マルー! 頼む起きろこれ以上試すな!」
「んん…ん~…?」
耳元で騒ぐ悲しい男の声に、マルーはようよう夢の中から戻ってきた。不機嫌そうに眉を寄せ、ぽかりと目蓋を開けると、焦点の合わない碧玉の瞳がゆっくりとバルトにかぶさる。
「……わか……?」
「起きたか。あのな、マ……」
若干ほっとしたような口ぶりで、バルトはとりあえず夜中の訪問の理由を説明するべく唇を、開き。
「っきゃああああああ!!!!!!」
その突拍子もない絶叫に、舌を噛んだ。
「おい、マルー!?」
「うわあのちょっと若どうしてここに!?」
「落ち着け、マルー」
「まってまってそれは待ってちょっとボクにだっていろいろと心の準備が」
「マルーっ」
完全に我を失って、巨大なベッドにもぐりこんで叫ぶマルーを見下ろして、バルトはわしわしと頭をかきむしる。
……考えてみれば至極もっともな誤解だ。
「…あのな、マルー」
「うわーんアグネスのうそつきー絶対だいじょうぶって言ったくせにー!」
「聞けよ、おい」
「あのバルト様にかぎってって言ったくせにうそつきー!」
「こら!」
寝具をかぶっているとは言え、声は高くよく響く。重厚な扉の向こうで、回廊の警備をしている不寝番がなにごとかと踏み込んできたら、男として立つ瀬がない。
公的ではないにしろ、列記とした自分の婚約者の寝室で、拒絶されまくる大統領の姿など、警備の者だって見たくはないはずだ。
ち、と舌打って、バルトは寝具の下で丸くなっているマルーの両脇に、覆い被さるように手をついた。
「あんまり騒ぐと、期待に応えたくなる」
「……!!」
「つーわけで、まずダマレ。潜ったまんまでもいいから、俺の声聞けるな? …聞けないっつーなら…」
「き、聞けます聞けますっ」
寝具の下で、もぞもぞと頷く気配がする。バルトはその両手で寝具ごとマルーの身体を縫いとめるように、ベッドの上に膝をついた。
「あー…と、まずはだな。夜中にすまん」
「……」
無言のなかにも、どうやら落ち着いてきたような気配が伝わる。とは言え、反論できるほど回復されても面倒だと、バルトはなるべく早口で言った。
「こんな時間に押しかけたのは、大事な話があったからだ。急で驚くかも知れねえけど、帰るぞ、今すぐ」
「……え?」
寝具の下から、くぐもった声があがる。ついで、もぞもぞと動き出した丸みに、バルトはしぶしぶ片手を上げた。
「って、一体どういうこと?」
寝具の端からひょこりと顔を出して、ぐしゃぐしゃになった茶褐色の髪のまま問うてくるマルーを見下ろして、バルトは眉を上げた。
「いや、どーゆうってか…緊急事態だよ」
「それはわかってるよもちろん。で、どういう事態?」
「……」
さ、と視線がそらされる。普段はみつあみでまとめられている金の髪が、さらりと肩から滑り落ちて、マルーの頬に届いた。
見上げた顔に覚えがある。何かまずい事を隠す時の表情だ。
「……若? なにをかくしてるの?」
「……」
「ねえ」
「……」
ここまで来て、だんまりはない。バルトは何からどう手をつければ、被害を最小限にできるか、こんな時ばかりよく働く頭を賢明に動かしていた。
その、彼に。
「……ふうん。言えないんだ。じゃあ、ボクだって起きないもんね」
軽く言って、マルーは眉を寄せたバルトに小さく舌をだし、そのまま目をつぶった。
そんな彼女を見下ろして、バルトはふと妙な気分になる。
…そんな場合じゃないのに、そんな場合になってしまいそうな体勢を、彼女はもう忘れたのだろうか?
「…なあ、マルー」
「……もう寝た」
「あんま軽々しく、目ェつぶんな」
「は?」
「……わかんねぇ?」
言われて、マルーはぱちくりと瞳を開き。
片手を自分の頭の横へ沈め、覆い被さるように膝をついてこちらを見下ろす従兄弟の……婚約者の、意地の悪い碧玉に出会って。
赤面した。
「わわわ、わかったよ! もう、なんなのさまったく! でもちゃんと理由を言ってくれなきゃ、ボクだって考えがあるよっ」
照れ隠しに怒鳴るマルーの、その可愛らしい表情にくらりとめまいを覚えて、バルトはゆっくりと上体を下降させた。
「ちょ、ちょっと若!」
「あー……なんか止まんね」
「そ、そんなこといったってだって急いでるんじゃないの?! 緊急事態って、緊急だから緊急っていうんじゃないのっ??」
ピントがボケるほど近づいたバルトの肩を、細い腕で押しやって、マルーは必死に声をふるった。
その瞬間、堅く目をつぶったマルーの鼻先に、柔らかい感触が下りてくる。
「そーだった」
わざと不機嫌そうに呟いて、バルトはマルーの鼻先に軽くキスを落としてから、がばりと上体を起こした。
「ったくよお。……自分の理性に拍手喝采だ」
こぼしつつ、くるりと背を向けてベッドの端に腰かけたバルトの背中に、マルーは鼻を押さえて真っ赤になったまま眉を寄せる。
「どこが理性……」
「あン? 理性的だろうがよ、病的なほどに。普通、自分の女のベッドに入って、なんもしねえで笑ってられる男なんざいねえぞ」
こちらを向かずに言い放ったバルトの言葉に、マルーはぎくりと身をすくませてから、唇を尖らせる。
「…でも、ボクたちまだ婚約してないよ」
「表向きはな」
「…ボク、ちゃんと若に言葉、まだ、もらってない」
「……」
「それに…ボクたち、あの晩餐会以来、まともに顔をあわせたの、今回が初めてだよ? …それなのに、そんな急に、困るよ……」
「……」
ぼそぼそとしたマルーの言葉に、バルトは背を向けたまま天井を見上げた。彼の金色の髪がさらりと流れ、マルーの視界の端で踊る。
「……あのな、マルー」
「……うん」
上向いた彼の喉が、わずかにかすれた声を上げる。マルーはバルトの背中に視線を転じて、不安そうな瞳を瞬かせた。
「俺が理性的な男じゃなかったら、おまえ、二度とニサンの地面を踏めなかったとこだぞ」
「え?」
「ほんとならこのまんま、かっさらって閉じ込めて、カギかけて一生、手ばなさねえくらいわけねえんだ」
「……」
「そんなこと、簡単なんだよ。……お前の気持ち、無視するんならな」
言って、バルトはくるりと振り返る。マルーは、たぐり寄せた寝具を抱きしめるようにしながら、不安げにこちらを見つめていた。
そんな彼女の柔らかな頬に、バルトはゆっくりと右手を伸ばす。触れる直前、かすかに緊張したかのように彼女が震えるのを見て、碧玉が苦笑した。
「……けど、たとえ俺の理性の糸が根こそぎ焼ききれちまっても、そればっかりはできねえんだ」
「…どして? …」
小首をかしげ、バルトの瞳を見つめるマルーに、バルトは小さなころから変わらない、優しい苦笑をひらめかせた。
「さあなあ。理由なんてわからん。……あえて言うなら、本能かな」
「本能?」
「そ。本能的に、俺はマルーの気持ちを無視できねえように作られてんだよ。理性とか、衝動とか、そーゆーのとは全然次元の違うハナシ」
そう言うと、バルトはにやりと笑って、頬にかかるマルーの髪を優しくかきあげた。
マルーはされるがまま、じっとバルトを見つめている。そこには、怯えもためらいも何もなく、ただ一途に、彼のなにかを見守るように、そっと唇を開いた。
「…じゃあ、ボクも本能だ」
「え?」
きょとん、と聞き返したバルトの手のひらを、小さな両手が包む。それからにっこりと、花がほころぶようにマルーは微笑んだ。
「たとえどんなことされたって、どんな風になったって、ボクは若が若なら、それで全部許せちゃう。……本能だね」
「……マルー…」
微笑む彼女の唇に、バルトの長い指が触れる。彼の意図を汲むように、ぴくりと震えた長い睫毛が、そっと白い頬に影を落とした。
ぎしり、と、柔らかなスプリングが音をたてる。吸い寄せられるように上体をななめにしたバルトが、マルーの唇を捕えようと薄く唇を開いた瞬間、
とんとん
「っ!」
闇を裂くノックの音が、薄暗い部屋の隅から響いた。肩を震わせたバルトとマルーが、至近距離で目を見開き合う。
先に動いたのはバルト。
「…ちくしょ」
忌々しげに吐き捨てて、ぽかんとした風のマルーの唇に、かすめるようなキスを落とす。そしてそのまま、風のように素早くベッドを降りて、扉に向かって声を返した。
「今行く! …マルー、説明は後だ。なるたけ早く準備してくれ」
「え、あ、うん」
ぼんやりとしていたマルーは我に返り、慌しく夜具を取り払った。バルトはすでに、扉の方へ大股に進んでいる。
「それとな、マルー」
扉の取っ手に手をかけて、こちらを振り返ったバルトの声に、ベッドを下りかけたマルーがきょとんと視線を返した。
「この次は、叫ぶなよ」
「え?」
それだけ言って、扉を開いたバルトは、回廊に控えていたらしきシグルドになにごとか呟いて、部屋をあとにした。
その、後ろ姿を呆然と見送って。
「……なんだよ、もう……」
唇にそっと指を這わせたマルーが、悔しそうに呟いた。
結局、緊急帰国の理由を走行するBASILISK内で聞かされたマルーが、激怒してバルトに噛み付いたことは、ある程度予想していた主の不手際に嘆息するシグルドによって、どうにかおさまりを見せたのだが。
それはまた、別の話である。