FLORAISON-フロレゾン-

  昼なお暗い兵舎裏、彼はひとときの休息を得るためそこに居た。
 久方ぶりに登城したにもかかわらず、ひとの目を盗んで早々と行方をくらました自分を、今ごろは額に青筋を立てて捜しまわっているであろう父や叔父の顔を思い浮かべて、微苦笑が漏れる。
 日の光の眩しい荘厳なアヴェ王城内で、最もみすぼらしく、居心地の悪いであろう裏庭の一角が、彼にとっては唯一息の吸える場所のように思えた。
 相変わらずこの城は、腐っている。
 充満する腐臭にあてられて、無意味に張り詰めていた肩を凝り解すよう首を曲げ、手にした書類を無造作に投げ出す。
 それは、乾いた土の上に散乱し、わずかな埃を浮かべた。
「……アレクシス」
 その時、ひょんな方向から声が降ってきた。驚いて顔を上げると、ちょうど彼がもたれていた兵舎の窓から顔を覗かせ、若い娘がこちらを見下ろしている。
「来ていたのか」
 端的に述べて、アレクシス・レブルックは曲げていた首を前に戻す。頭上からは、明らかに憮然とした声が再び降ってきた。
「貴方こそ。ここで何をしているの?」
 咎めるというよりは呆れたような声音に、アレクシスは再び兵舎の土壁に背を預けて、喉をそらす。
「別に何も」
「嘘おっしゃい。どうせまた、レブルック卿から逃げてきたのでしょう。今日は何がお気に召さなかったの?」
 娘の声に、アレクシスはいささかむっとした様子で首を曲げた。垂直に上向いた先に、赤い髪を散らしてこちらを見下ろす顔がある。
「知った風な口を利くじゃないか。そういうおまえは、兵舎の二階で何をしている?」
「そっちこそ、解っていて意地の悪いことね、相変わらず」
 憎らしげに舌を出し、娘は窓枠に手をついた。アレクシスは一瞬、まさか、という顔をする。
「リオン! よせ…」
 けれども、アレクシスの制止の声に後押されたように、リオンはひらりと窓枠を飛び越え、彼のすぐ傍の草地に軽々と足をつけた。
 とても、二階の窓から飛び降りたとは思えないほど軽々とした彼女の身のこなしに、アレクシスは感心を通り越して呆れ返る。
「……なんて恥知らずな女だ」
「あら、二階の窓から飛び降りるくらいでそこまで言われるのは心外だわ」
 つんとそらした細いあごの線が、自信たっぷりにアレクシスを見下ろしている。アレクシスはその紫紺の瞳をすがめ、彼女の高い鼻をへし折るべく口を開いた。
「少なくとも、スカートをはいている人間の行動としては軽率だ」
「っ」
 あわてて、リオンはすその長い巻スカートを押さえる。が、そんなことをしてももはや遅いことは、目前に涼しい顔をして座る男の顔を見れば知れた。
「……助平」
「見たくもないものを見せられたのはこちらだ」
「あら、ご自分の婚約者のスカートの中身にも興味が無いの? 堅物のレブルック・ジュニア」
「相変わらず下品な女だ」
「貴方も相変わらず、面白味が無い男ね」
 つんとあごをそらして、リオンが空を向く。アレクシスはそんな彼女の長い髪に目を移し、それからまた、土壁に背を預けて瞳を閉じた。
「ならば面白味のある男のところにでも行けばいいだろう。こんな薄暗い場所で、陰気な婚約者の相手などせず」
 その言葉に、リオンはきょとんと丸い瞳を開き、それからわずかに苦笑した。
「そうね。何もわざわざ、くさくさした気分の時に目いっぱい気の滅入る相手と話なんかしなくてもいいわね」
「お互い様だ」
 言い捨てたアレクシスだったが、自分の傍らに腰を下ろしたらしい雰囲気を察して、薄く目を開く。すぐそこに、彼女の蜜色の瞳があった。
「わたし、天の邪鬼だから」
「……手におえんな」
 ふうと嘆息し、アレクシスはわずかに瞳を上向かせて、抜けるような青い空を見やった。
「…相変わらず、ここは鬼が住むに相応しい場所だな」
 彼の独白に、リオンは頷く。
「せっかく美しい城なのにね」
「美しい…か」
「そうは思わない?」
 首を傾げるリオンに、アレクシスは視線を返す。それからゆっくりと、息をついた。
「どうかな。確かに、悪趣味なほど豪華な城だ。だが、美しさからはかけ離れている」
「貴方……美的感覚が変ね」
 同情したように言うリオンに、アレクシスはむっと眉根を寄せた。
「おまえに言われたくない」
「あらどうしてよ。わたしはまともよ、貴方と違ってね」
「俺の婚約者なんかしている時点で、おまえの審美眼もあやしいものだ」
 言ってから、アレクシスはまるでうずらの卵を一飲みにしたような奇妙な顔をして、不意に視線を逸らした。不機嫌そうな彼の横顔に、リオンは目を丸くしてから、おもむろに笑う。
「ふふふっ……そーね、わたしも大概、趣味が悪いわ」
「……お互い様だ」
 憮然と囁くアレクシスの肩に、リオンは静かにもたれかかった。彼女の赤毛が肩口を滑り、アレクシスのしかつめらしい官服を滑る。
「…なんだ」
「別に? 頭が疲れたの。だって、朝からずっと死ぬほどつまらないお茶会に出ていたのよ。貴方と違って、途中で抜け出すなんてこともしないで」
 心底うんざりとした口調でリオンが言うと、アレクシスは彼に似ず優しげな眼差しで微苦笑を浮かべた。
「……そうか」
「そうよ。だって、わたしまで無礼者と呼ばれたら、将来レブルック夫妻は宮廷からつまはじきよ」
 それでなくとも、レブルック・ジュニアの奔放な振る舞いは、一部のお偉方に煙たがられているのに、と、リオンは他人事のように語って笑う。
「つまはじきか。それはいいな」
「不遜な人ね」
 諦めたように囁くリオンの肩に、アレクシスは身体をずらして腕を回す。彼女は逆らわず、アレクシスにもたれかかった。
 わずかに湿った風が、二人の肌を滑る。ふわりと香る甘い匂いに、アレクシスは目を細めた。
「……近々、また不穏な動きがあるらしいわ」
 辺りをはばかるようにして、リオンが囁く。アレクシスは瞳を閉じたまま、彼女の言葉に耳を傾けた。
「おそらく、ニサンの大教母に関わる何か…宝玉がどうとか、言っていたけれど…」
「誰が」
「宰相と、側近連中よ」
「またおまえ、危険なことを…」
「大丈夫、十分注意してる」
 自信げなリオンの言葉に、アレクシスはあからさまなため息をつく。
「自信過剰もいいかげんにしろ」
「本当のことよ。それに、今更城の小娘になにを聞かれたところで、あいつらが動揺するとも考えられないわ。恥ずかしげもなく王家簒奪を企てた下衆よ」
「リオン」
 厳しげなアレクシスの言葉に、リオンははっと言葉を切った。
「……ごめんなさい」
「…まったく…。おまえがいつまでも、その向こう気の強さを改めないつもりなら、俺にも考えがあるぞ」
 しかつめらしいアレクシスの言葉に、リオンは小首を傾げた。そんな彼女の顔を見やり、憮然とした風を装ってアレクシスが言う。
「気は進まんが、父上に式の日取りを早めるよう、進言する」
「……」
「レブルックの屋敷奥深くに閉じ込めて、余計な好奇心の騒ぐ暇も無くしてやろうか」
「……アレク」
「なんだ」
「……嬉しい」
 ぽつりと呟いたリオンの、蜜色の丸い瞳から見る間に水の膜が盛り上がった。突然泣き始めた彼女にうろたえ、アレクシスは珍しく声を上ずらせる。
「な、泣くことはないだろう!」
「だって…貴方わかってる? わたしが、この3年、どれほどその言葉を待っていたか…」
「……リオン…」
「親の決めた許婚として、初めて貴方に会った時…貴方、わたしに何て言った? 『この縁組みは、歴然とした政略結婚だ。私は夫として君を養う義務は持つが、男として君を愛する義理は持たない。しかもこの時勢、何がどうなって状況が変わるかわからない。君も、暫定的な縁だと思って、割り切っていて欲しい』……」
 つらつらと、涙声で囁く彼女の言葉に、アレクシスは我ながら何という冷血ぶりだと改めてため息をついた。それに、リオンが怒ったように唇を尖らせる。
「なによ! ため息をつきたいのはこっちでしょう? わたし、それを言われた時まだ16だったのよ。親の決めた婚約者とはいえ、生涯を共にする殿方相手に抱いていた夢も希望も、木っ端微塵にしてくれた張本人が、なにを図々しい!」
「…それは、悪かった」
 存外素直に謝ったアレクシスに、リオンは膨らませた頬を戻して、それから涙を拭ってくすくす笑った。
「……いいわ、許してあげる。わたしもあの時、かっと来て思わず、貴方の頬っぺたひっぱたいちゃったしね」
「…そう言えば、そうだったな。なんだ、謝って損した…」
「そういう問題じゃないでしょ? もうっ」
 そう言いながらも、リオンは幸せそうにくすくす笑って、さらに深く、甘えるようにアレクシスにもたれかかる。
「……でも、それから少しずつ、貴方という人を知っていって…最初は、単なる冷血漢だと思ってたのが、だんだん…そうね、薄皮一枚をはがしていくようにゆっくりと、わかっていったの」
「…なにを?」
「貴方は冷たいんじゃなくて、言葉が足りないんだってこと」
 言って、リオンは自分の言葉に吹き出した。アレクシスは憮然と眉根をよせ、それからふと嘆息をつく。
「……言い訳も無いな」
「でしょうね。それに加えて、不器用、鈍感、意地っ張り…およそ扱いやすいとは言えない性分ね」
「……お互い様だ」
 今日、何度目にかなる言葉を吐いて、アレクシスは軽く前髪をかきあげた。
「でも、もういいの」
 ふと、リオンが囁く。アレクシスは視線を彼女に向けると、その蜜のような輝きの瞳と静かに見つめ合った。
「もう、わたしは貴方という人を知ったわ。冷たい言葉も、不器用な手も、全て知ったわ。そして、貴方を好きになった…それだけで、もう、いいの」
「……」
「……ふふっ、馬鹿ね、無理して答えようとしなくてもいいの。貴方がこういう雰囲気が苦手で、甘い言葉が嫌いだってことも、もうちゃんと知ってるわ。だから、いいの」
「……いいのか」
「……いいの」
「……そうか」
 言って、アレクシスは優しく微笑んだ。リオンの滑らかな頬を、慈しむようにそっとなでると、その赤い唇にくちづける。
「……そう言えば」
 離れがたいように唇を外し、額を合わせたままアレクシスが囁く。
「初めてお前にくちづけたとき…殴られたな」
 しかも、拳だった。その時の痛みを思い出したのか、アレクシスが眉を寄せて左頬をさすると、リオンは頬を染めた。
「……ごめんなさい。でもだって、あの時の貴方、まるで知らない人のようで、恐かったの」
「…緊張していたんだ」
「ええ?」
 思いがけない言葉に、リオンは唖然としたように目を丸くする。アレクシスは不機嫌そうに視線を外し、彼女の赤い髪に指を絡ませた。
「…悪いか」
「…いいえ。でも、とってもミスマッチ…」
「…おまえが、どういう目で俺を見ていたか、わかったよ」
「あら、それこそ『今さら』ね?」
 くすくすと、小さく微笑むリオンの頬に、悔し紛れに唇を寄せて、アレクシスは再び沈黙した。
「……できるだけ早く、式の日取りを決めたいところだが…すまん、今はまだ無理だ」
「……わかってる。シャーカーン一派の動きが、不穏な時期だものね」
「せめて、もう少し宮殿内が落ち着いたら…」
「いいの、わかってるから…大丈夫、今までだって待てたんだもの、これからだって待てるわ」
 言って、リオンはその柔らかな唇を、伏せたアレクシスの瞼に落とした。彼の漆黒の髪に指を潜らせ、母親のような慈愛でそれを包む。
「認めなさい、アレク。こんなに聞き分けのいい婚約者は、世界中探しても見つけられない…って」
「…ああ」
 静かに瞳を閉じて、アレクシスはリオンの柔らかな腕に頭を預ける。
「本当に…おまえは、見かけに寄らず素直だな」
「見かけに寄らず、は、よけいよ」
 こつん、と軽くアレクシスの頭を小突き、リオンは楽しそうに笑った.


 そんな彼女が唯一彼の言葉に従わず、自分の意思を貫き通したのは、皮肉にも彼をウェルスの凶刃から庇う、その瞬間だけだった。
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