FLORAISON-フロレゾン-

  優しい手 暖かい手


  ずっとずっと欲しかった このぬくもり



  これが欲しいって言っても 許してもらえる自分になりたかった


  今ならどう? 許してくれる…?



 我知らず、ちいさな吐息が唇をくぐった。
 ちょうどそれがきっかけとなって、瞼が自然に開かれる
 目覚めは、思ったほど悪くはなかった。
 本当に久しぶりに、夢も見ないで眠った。背中から追いかけてくるような恐怖も、喉元をふさぐような不安も何も感じずに、ただひたすらこんこんと眠れば、そりゃあ寝起きは素晴らしく良かろうと、キュランはぼんやりと思う。
 薄紅色の高い天井を見つめながら、キュランはふと、光刺す窓辺に視線を流した。陽光にきらきらと輝くそこに、小さな白いものが見える。
「……?」
 なんだろう、そう思って身を起こそうとした時。
 枕辺に座るひとの姿に、初めて気がついた。
「……気分はどう?」
 そのひとは静かに、そしてとても優しく、問い掛ける。窓枠に反射する陽の光が、さらさらとした茶褐色の髪を照らしていた。
「……ッ!! 大…教母、さま…っ」
 驚きすぎて、息ができない。口をパクパクとさせたキュランが、急いで上半身を起こした瞬間、くらくらと視界が揺れた。
「無理しちゃだめだよ。二日も眠っていたんだから」
「ふ…二日!?」
 さらに驚いて、キュランは気力で目眩を押さえつけた。本当ならベッドから飛び降りて礼をとるべきところだが、確かに身体に力が入らないので、仕方なく可能なかぎり身を折る。
「申し訳ありませんでした!」
「……」
 ブロンズグレイの髪を散らして、ベッドに額をこすりつけるようにしているキュランに、マルーは無言だった。僅かな沈黙のあと、キュランの頭上でくぐもった言葉が返る。
「……何が?」
「え……っ」
 問いかけに、キュランは驚いて顔を上げる。そして、じっとこちらを見つめる大きな蒼い瞳にぶつかり、躊躇しながらも唇を開いた。
「報告が…遅れてしまいました。二日も人事不省に陥るなんて…ニサンにとって大事な時期に、不甲斐無い事を」
「怒るよ、キュラン」
「え?」
 低いマルーの声音に、キュランがきょとんと目を上げる。するとそこには、今まで見た事もないほど険しい顔をしたマルーが、僅かに唇を噛むようにして端座していた。
「自分が…どれだけボクに、みんなに、心配をかけたか、わかって言ってる?」
 激情を押さえるように、低く震える声。凛とした眼差しが、キュランを捕えて離さない。
「今度のことは…若に全部聞いたよ。ニサンのピアシュ司祭にも連絡した。事後処理はすべて、滞りなく行われているよ…見事なくらいにね」
 普段のマルーらしからぬ、どこか投げやりな声。キュランは思わず、眉根を寄せて困惑した声を上げた。
「あの…事後処理、とは…」
「今度の件について、ニサン正教は一切関与しなかったということになってる。すべてはアヴェの官僚の独断として、公式に断罪される手はずだよ」
「……」
「お礼を言うべきだよね。キュランがその身を呈して暗躍してくれたおかげで、ニサン正教には…ニサンの大教母には、毛先ほどの傷もついていないよ。見事に清廉潔白なままだ」
「……大教母さま…」
 俯いたキュランの瞳が、白いシーツの色を吸った。傍らに座す少女から、ひしひしと伝わるのは、決して自分が求めていたような感情ではない。
 だけど、それはある意味、当然のことかもしれない。キュランは心の中で自嘲した。
 自分が良かれと思ってやったことは、結果としてこの、慈悲深き大教母をないがしろにし、自分たちが望む理想を押し付けたに過ぎない。臭いものにはふたをして、目の前の少女には、ただ美しいもの、安全なものだけを享受したかった、自分たちのエゴに過ぎない。
 それがわかっていたからこそ、キュランはマルーの憤りに応えることができなかった。謝ることも、反することも、できなかった。
 しかし、僅かな沈黙の後口を開いたマルーは、キュランにとっては思いもかけない言葉を吐いた。
「……キュランと同じことを、ボクもしたことがある」
「…え?」
 ふと視線を上げると、そこにはもう、穏やかな眼差しのマルーがいた。憤りもやるせなさも、すべて飲み込んで端然としている、ニサンの大教母。
「昔、まだあの大戦が続いていたころ、ボクは若のために動いて、足を撃たれた事があった」
「……」
「とっても痛かったよ。それこそ、死ぬほどね。…でも、その時はただ、満足感でいっぱいだった。こんなにちっぽけなボクでも、若の役に立てたんだって、それがただ嬉しかったんだ」
 マルーの言葉に、キュランは唇を噛んだ。自分の心に巣食っていた、ひそかな自己満足を、暴かれてなじられているような気がした。
 しかし、マルーは微笑んで、そっとキュランの手をとった。柔らかで暖かな感触に、キュランはどきりと鼓動を早める。覚えのあるそのぬくもりは、遠い昔を想起させた。
「あのころのボクは、それが正しいことだと思っていた。若は、ボクなんかよりもずっと素晴らしいひとだ、だから、ボクが身を呈して庇うのはあたりまえだ。…そんなふうにね、思っていた」
 きゅ、とキュランの手を握り、マルーは僅かに苦い微笑みを浮かべる。
「でも……今なら解るよ。あの時どうして、若が苦しそうに、とてもとても苦しそうに、ボクを見ていたのか…」
「……」
「ねえキュラン。ボクはね、ずっと支えたい、守りたいって願っていた人間なんだ。ずっと、ずっと…それしか考えていなかった。自分が支えられる、守られるって言うことを、どうしても考えられなかった。…考えたら負けだ、って思っていたのかもしれない」
「!」
 ぴくん、とキュランの肩が揺れる。キュランの深緑の瞳を射抜くように見据えて、マルーの碧玉の瞳は語った。
「なにに対して負けるって思っていたんだろうね…。きっと、守られるっていう事自体に、ものすごく、不甲斐無い思いがあったんだ。自分は守られるんじゃなく、守るんだって…そればっかり、強烈に考えてた」
 それはいっそ、妄執といっても良いほどの願い。それが『自分』の基盤だったから、死ぬかもしれない恐怖より、死ぬほど辛い痛みより、あの人の無事を願った。守った。
「それはある意味、すごく辛かったよ。足を撃たれた時だって、自分で選んで動いた結果とは言え、激痛は現実なんだ。それだけじゃない、若を守りたい、支えたいって思えば、自然と自分の身体や心に無理を課すよね。だって、自分本来の能力以上のものを求めるってことなんだから」
 でもね。マルーは言って、キュランの手をそっと離した。ぬくもりの消えた手のひらは、けれどもう寂しいとは思わなかった。
「でも、本当は、若だって辛かったんだと思う。…ううん、辛かったんだ。身を呈して若を庇う、ボクの痛みの何倍も、何十倍もの痛みを、若は負っていたんだと思う……こころに」
「……」
「そのことに気付くまで、ボクはたくさん回り道をした。でも、その回り道があったから、今、ボクは若の隣に立てるんだと思う」
 ふわり、と、花がほころぶように微笑んで。ニサン正教を束ねる慈愛の大教母は、少女めいた瞳を輝かせた。
「きっといつか、キュランにもわかるよ」
「……大教母さま……」
 呟いて、キュランは静かに瞳を閉じた。マルーの言葉は、透き通る清水のように、心を渡る。けれど。
「…でも、私はまだ、わかりません…。私は、自分がどうなろうとも、ニサンを…あなたを、守りたかった。傷つけたくなかった。それは別に…正義とか、大義とか、そんなものじゃなく、ただのエゴだと、わかっています。でも」
 死にゆくものは、みんな馬鹿だ。…そう言って、死者を悼んだ不器用な男の顔を思い出す。
「…でも、例えそれが愚かなことだとしても、きっと何度でも、私は同じことをしてしまいます。だって…ウェルスと化した父と、その父に殺された母を亡くし、世界中でひとりぼっちだった私を救ってくれたのは、大教母さま…あなただから」
「……ありがとう」
 そう、呟いて。マルーは心からの笑みをひらめかせた。キュランはその笑顔に、泣きそうになった瞼を瞬かせる。
「…だったら、キュラン。ボクは、あなたが自分を省みず、ボクを守ろうと思わなくてもいい世界を作るよ」
 ささやかれた言葉に、眼差しがあがる。傍らに座る華奢な少女は、ゆっくりと、一語一語を慈しむように語る。
「キュランを救ったのは、ボクだけの力じゃない。だけど、キュラン自身が、ボクに助けられたと、思ってくれるのなら…ボクは、その責任を取るよ。キュランが無駄に自分を犠牲にしないように、精一杯頑張るよ」
「大教母さま! そうじゃありません、私…」
「それが、誰かに守られるってことだよ、キュラン」
 マルーの言葉に、キュランが大きく目を見開いた。そんな彼女に、まっすぐに眼差しを向けたマルーは、桜色の唇を静かに開く。
「誰かに守られるってことは、それだけの気持ちを請け負うってことだ。相手に無理をさせたくないと思うなら、自分が頑張れば良いだけのことなんだ。…誰かに支えてもらうってことは、決して、自分のすべてを相手に依存するってことじゃあ、ないんだ」
「……!」
「もしかしたら、ボクやキュランのような人間にとっては、守る事よりも守られる事の方が、はるかに難しいのかもしれないね…」
 そう言って、苦笑するマルーの顔を凝視して、キュランはなかば呆然としていた。
 何か、心の奥に巣食っていた何か…そう、堅い檻だ。堅い檻が、今、開かれた。
「……大教母、さま…」
 呟いて、息を呑む。得体の知れない感情が身体中に渦巻いている。だけど、何をどう言っていいのか、わからない。
 ……ミシェル。
 無性に会いたくなった。
「…それから、キュラン。あなたの正教除名申請は、無効になります」
 ふと、居住まいを正すように声音を改めて、マルーがまっすぐにキュランを見据えた。
「今回のことは、一方から見れば、正教における公然とした犯罪の隠蔽工作です。本来ならば、その責をとるべきは大教母である私ですが…それでは、大教母を想って働いてくれた者たちを踏みにじる事になります。ですから、今後決してこのような事がないよう、また、今回の事件に公的ではないにしろ責任をとるという形で、大教母周辺は当分、慌しくなるでしょう」
 じっとキュランを見据えていた蒼の双眸が、意志の強い光で断言した。
「…ですから、シスター・キュラン・ヒューイットには、今後は大教母直属の随行シスターとして、職務にあたっていただきます」
「…え!?」
「なお、これはシスターヒューイットへの、罰則措置も兼ねておりますので、異論反論はうけつけません」
 ぴしゃりと言い切って、マルーはにっこりと微笑んだ。唖然としたキュランが、失っていた言葉を取り戻すように息をつく。
「…大教母様、それ…全然、罰になってないんですけど……」
「そんなことないよ。これから、すっごく忙しくなるからね。キュランには、もういやだーってくらい働いてもらうから、覚悟しててよ!」
 悪戯っぽく笑うマルーに、キュランは泣き笑いのような笑顔を返した。
「……ありがとう、ございます……」
 やっと、それだけを返したキュランが頭を下げると同時に、純白の部屋の扉が静かにノックされた。マルーが返事を返すと、それは静かに開かれて、真っ先に目に飛び込んできたのは、圧倒的な深紅。
「失礼しまー…あっ、キュラン! 目が覚めたのね!」
 膨大な量の深紅の薔薇を両手に、顔を覗かせたのは、幼女のように美しい黒髪を流した、小柄な少女。思いがけない来客に、キュランが目をまるくした。
「シャンティ? どうしてここに…」
「シャンティは、ずっとキュランを看病していてくれたんだよ」
 マルーの言葉に、キュランはさらに驚いた。おそらく、百は下らないであろう薔薇をさした巨大な花瓶を手に、よたよたと机に向かってそれを置いた少女は、にっこりと可愛らしく微笑む。
「兄さまに拝み倒して、世話焼きに来ちゃった。でも良かった、熱もすっかり下がったし、痛いところや苦しいところはないね?」
「え……ええ。あの、ありがとう、シャンティ…」
「お礼は言わないで。一応これ、罪滅ぼしみたいなものだから」
「え?」
 きょとんと目を丸くするキュランに、シャンティは僅かに苦笑して、ベッドに近づく。
「今回の件。なんだか、うちのバカ兄が一枚噛んでたって聞いて。というか、あの晩、キュランがうちの窓割って逃げたあたりから、どーも変だとは思ってたんだけどね」
「あ! あれはその……ゴメン」
「いーっていーって。どうせ兄さまの部屋だし、適当に直しておいたから。それより…ごめんね、キュラン。うちの兄さまの言葉が足りないせいで、あなたによけいな怪我をさせちゃって…」
 そう言って頭を下げるシャンティに、キュランはぶんぶんと手を振った。
「なに言ってんの! 違うわよ、レブルック次官は全然悪くないわよ」
「ううん。今回のことにはね、珍しくあの冷血漢も反省してね。もっと他に、やりようがあったって。運良く助かったけど、悪くしたらキュランを死なせるところだったって…だからほら、お詫びの大枚」
 言って、シャンティは大量の薔薇の花を指さした。唖然としたキュランの傍らで、マルーが無邪気な声を上げる。
「じゃあ、これアレクからの贈り物なの? すごいねー!」
「本人が来たがってたんですけど、病後の淑女の部屋に押しかけるのはどうかってぼやいてました。変なところでカタイっていうか、…でも、妹としては少し、安心してます」
「安心?」
「はい。なんだか、キュランの存在が、意外な方向で兄に働きかけているみたいで…」
 言って、シャンティは悪戯っぽくキュランを見やる。キュランは眉を寄せ、不思議そうに首を傾げた。
「なによ、それ?」
「さあ? まあとにかく、この花を買ってきたのは間違いなくあの、鉄面皮嫌味大魔王の兄さまだから。一体どんな顔して、こんな派手な花を買ったのか、想像して笑うのも楽しいじゃない?」
「…シャンティ…」
 今となっては、とっくに猫かぶりの仮面を捨てているシャンティの言葉に、キュランは疲れたように肩を落とした。そんな彼女に、シャンティはそう言えば、と呟く。
「もう、顔見せに来た?」
「え?」
「もう一人の、英雄よ」
 シャンティの言葉に、キュランはわけがわからず眉を寄せる。傍らで、マルーが困ったように呟いた。
「…いや、無理だと思う…」
「え?」
 マルーの呟きに、キュランはおろか、シャンティも視線を返す。マルーは眉を寄せたまま、軽く肩を竦めた。
「…実は、今朝早く、自主的に謹慎処分を申し出たんだ……ミシェル」
「え…謹慎? ど、どういうことですか?」
 思いがけない言葉に、キュランがマルーに詰め寄った。マルーはうん、と頷いてから、眉を寄せたまま語る。
「今回の事件で…ミシェルは、ひそかに若からキュランを見張る…というか、護るよう、指令を受けていたんだ。だけど、結果的にミシェルはキュランを見失い、キュランを危険な目に…」
「そんな! だってあれは、私が勝手にやった事ですよ!? ミシェルには、ちっとも責任なんて…」
「うん。だから若もボクも、その必要はないって言ったんだけど、ミシェルががんとして、謹慎するって聞かなくて…謹慎っていうか、その、つまり、免職をね…」
「免職…!? 補佐官職を、辞任するってことですか!?」
 シャンティが、上ずった声を上げる。キュランはぐっとシーツを掴んで、そのまま素早くベッドからたち下りた。
「キュラン!?」
「ちょっと、どこ行くの!」
 唐突な彼女の行動に、マルーとシャンティが驚き慌てる。しかしキュランは、決然とした表情で部屋を横断し、シャンティをふり返った。
「どこって、決まってる。あのバカのところに行かなきゃ」
「あのバカって…ミシェルのこと? キュラン、無茶だよ、まだ身体だって本調子じゃないのに…大丈夫、ミシェルのことなら、ボクも若も悪いようにはしないから…」
 マルーの言葉に、キュランは強くかぶりを振った。そして、今にも泣きそうな眼差しで答える。
「いいえっ! …これは、私の責任です。私がちゃんと、『守られる』ってことを理解していなかったから…」
 言って、キュランは迷いのない瞳でまっすぐマルーを見つめた。
「…大教母さま、私、今わかりました。『守られる』側の責任と、重さを」
「……キュラン」
 決意の固いキュランに、マルーは軽くため息をついた。傍らで、シャンティが腰に手をあてつつ、同じような吐息をはく。
「…まったく、無茶ばっかりするんだから…。いいわ、ちょっと待って、今服を出してあげるから」
「ありがと、シャンティ」
「ホント、キュランって見ててちっとも飽きないわね…と、あら?」
 窓辺にあるクローゼットへ向かったシャンティは、その時奇妙なものを見つけて足を止めた。窓わくに輝く白いものを摘み上げ、怪訝そうに眉を寄せる。
「なにかしら、これ……花?」
「……それ…!」
 シャンティの手から、小さな可愛らしい花を受け取ったキュランは、驚いたように目を丸くした。
 それは、遠い昔。まだ、故郷のマチカで暮らしていたころ、何度となく二人で出かけた、緑の少ない広場に咲いた、可憐ながらもたくましい花。
「……チュレイン」
 思い出の花の名前は、何故だかとても、胸に染みていった。



 日がな一日くさくさしてるんなら、買い物にでも行って来ておくれ!
 そう怒鳴られて、ほとんど追い立てられるように実家をあとにしたミシェルは、絶対に今必要なはずがない、適当な調味料の入った小袋を小脇に、広い公園の芝生の上で寝転んでいた。
「…一応、謹慎中ってことになってんだけどな…」
 遠く広がる青空を眺めながら、ミシェルはぽつりと呟く。いくら、自主謹慎だと言っても、一応自宅で大人しくしているのが謹慎というものではないだろうか。
 そう思いつつも、ミシェルは思い切り吸い込んだ午後の風が心地よくて、なかなか腰を上げることができない。
 言いつけられた買い物は、少量の、しかも日持ちのするもので、おそらくマギーは、買い物帰りにミシェルがどこかで息抜きをする事を見越して、差し向けたのに違いない。
 聡い母親の温情に浸かりながら、ミシェルは広い公園の真ん中で、手足を投げ出して寝ていた。
 ……キュラン、もう目が覚めたかなあ…
 ふと、そんなことを思う。思った端から、苦いものを感じて唇を噛んだ。
 何もないぼーっとした時間は、否が応にも彼女の事を考えさせられた。それがいやで、辛くて、家の雑事を手伝おうともしたが、働き者の母、及び妹たちに『役立たず』の烙印を押されて追い出された。
 力仕事ならば。そう思っても、拳に巻かれた包帯の白さが、虚しく瞳を刺す。キュランの捜索に向かう前、無造作に床に打ち据えた拳は、皮を破り肉を痛めていた。
 白い両手をぼんやり眺めつつ、ミシェルは重い嘆息をついた。
 こてんと拳を芝生に下ろし、高い空を眺める。上空の風は強く、雲は急ぎ足で西に流れていた。流れた先の空は、もうすでに茜色に滲んでいる。
 今、こうやって空を眺めて、自虐的に息をしているのは、多分『逃げ』だ。
 本当に、今回の事件を自分の責任だと思うのならば、自主謹慎など申し出る前に、せめて一言、彼女に詫びるべきだった。
 無意識に唇を噛んで、ミシェルは瞳をつぶる。日陰とは言え、アヴェの日差しは強い。だがそれも、あと半時ほどで涼しい夕景をつれてくるだろう。日暮の近い公園からは、徐々にひとの声が遠ざかっていった。
 すべての人間が、自分の元から去っていくような、奇妙な寂寥感に眉を寄せた。
 一番先に離れていくのは、きっとブロンズグレイの長い髪。
 まだ、まともに顔を合わせていない。最後に病室(としてあてがわれた、官邸内の一室)に行った時、彼女の穏やかな寝顔に安堵して、胸の痛みに追い立てられるように逃げ帰ってきた。
 窓辺に一輪、諦めの悪い『想い』を残して。
 彼女は気付いただろうか。自分が、あの小さな花に託した想いを。
 幼いころ、二人でよく遊んだ公園。砂漠の町には珍しい、たくましく根を張るちいさな花を、彼女はことのほか気に入っていた。
 少女趣味だ、と思う。贈る花に思いを託す…あまりにも『らしい』自分の女々しさに、笑うことさえできない。
 だけど。
「……」
 淡い自嘲の嘆息をついて、ミシェルは閉じた瞼をゆるりと開いた。だいぶ日差しが傾いている。夜はもうすぐそこ。
 明日はキュランが目を覚ますだろうか。そうしたら、自分の事を真っ先に、どう思うだろうか。
 馬鹿な男の意地に振り回されて、守るべきときに守りたい人を守りきれなかった、こんなに情けない自分を。
 今さら、どんな顔をして、彼女に会えるだろう。
「……ムリ……」
 二度と、会えない。これが逃げだとはわかっている。だけどもう、平気な顔で彼女に会えない。
 それだけの事を、した自覚はあるから。
「……旅に出ようかなあ…」
 短絡的、かつ逃避的独り言に、薄暮の風があざけるように通り過ぎていった。
「……どこによ」
 その風に乗って、呆れたような声が届く。ミシェルは大きく目を見開いて、瞬間、呼吸も鼓動も忘れてしまった。
油の足りないブリキ人形のように、苦労して身を起こして視線を転じたその先には、長いブロンズグレイの髪をおろした、見知った幼馴染の姿が。
「………」
 あまりの驚きに、ミシェルはぽかんと口を開いたままだった。そんな彼にお構いなしで、キュランはずかずかと彼に歩み寄り、ストン、とその隣に腰をおろす。
 それから。
 ばぢん!!
 派手な音を立てて、ミシェルの両頬がキュランのてのひらに挟まれた。
「……???」
 呆気にとられて、声さえ出せないミシェルを正面から見据え、キュランは強い眼差しを向ける。
「…馬鹿! ばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばか!!」
「…キ、キュウ…?」
「あんたってホント馬鹿!! 世界最大級のバカの見本市!!」
「あ、あの……」
「何で、あんたが補佐官やめる必要があるの?! そんなことされたら、あたし、寝覚めが悪くてしょうがないっ!」
 ぎゅ、と頬を挟んだまま、キュランは一瞬泣きそうな顔を見せた。ミシェルははっとして、キュランの両手首を掴む。
「ご、ごめんっ! でも、今回のことは別にキュウのせいじゃないから!」
「…っ! だから!! なんであんたがそこで謝るの!? 謝るのはこっちでしょお!?」
 だだっこのように怒鳴るキュランに、ミシェルは困ったように眉を寄せた。いつのまにか強く掴んでいた手首の、そのあまりの細さにはっとして、慌てて手を引っ込める
「いやっ…だって、キュランは本当に、悪くないから…」
「だから、どうしてよ! あたしが、勝手に動いて、勝手に捕まって、みんなに迷惑かけたんでしょ!? あたし、あんたに助けてもらったのよ!?」
「……だって、僕があんな事しなきゃ…キュランはそもそも、一人になったりしなかったはずだよ」
 そう言って、不意と視線を外すミシェルに、キュランはぐっと眉根を寄せた。彼女の沈黙に、ミシェルは急きたてられるように言葉を募る。
「ごめん。ホントにごめん。謝ってすむ事じゃないとは思うけど…今回は、運良く無事だったからよかったようなものの、僕のせいで、キュランをあんな危ない目に…本当に、ごめん!」
 がばっと、勢い良く頭を下げた琥珀の髪に、キュランは視線を落とした。それから、じっと息を詰め、それからぽつりと問い掛ける。
「…何故、あんな事をしたの?」
「…!」
 問いかけに、びくりとミシェルの肩が揺れた。彼のなだらかな背中の線に、夕日が眩しく照り返している。琥珀の髪が燃えるように輝いた。
 しばらくしたのち、ミシェルはゆっくりと顔を上げた。視線をキュランから外したまま、彼は薄く唇を開く。
「…悔しかった…んだ」
 擦れるような囁きに、キュランは黙って耳を傾ける。
「…キュウが…ひとりでなんでも、できるってことは知ってる。僕よりずっと、強くて立派だってことも、知ってる。でも…僕は、キュランに、もっと頼って欲しかったんだ。幼なじみとして、そして…」
 男としても。
 だけど、そんなことは言えない。今さら、どんな顔をしてそんなことが言えるだろう。
 男として、一番最低なことをしでかした、自分なのに。
「…今考えると、子供っぽくて呆れるね。あんな事して…それで、どうやってキュランに頼ってもらおうっていうんだか…。結局僕は、馬鹿だったんだよ、キュウの言う通り」
「……」
「ごめんね。謝ってすむことじゃないとは思うけど、でも、僕にはそれしか言えないから…。それから、補佐官辞任の件はね、本当にキュランは関係ないんだ。大統領のご期待に添えられないばかりか、取り返しのつかない失策を犯しかけた自分に対する、僕なりのけじめだから…だから、キュウはホントに、気にしないで…」
 そう、言いかけた瞬間、
「うわっ!?」
 突然、ミシェルの薄い胸にキュランが腕を突き出した。そのてのひらから、何か紙のようなものがぼとぼとと零れ落ちる。ミシェルは唖然として、思わずそれらに手を伸ばした。
 それは、色とりどりの、封筒。
「……キュウ?」
「…あんたに……見て欲しいの」
 低く呟いて、キュランは一通の封筒を掴み上げた。リターンアドレスには、まぎれもないキュランの名前。そして、アドレスは…
「……僕への、手紙?」
 唖然として、ミシェルは手元に散らばった何通もの封筒を手にする。七通ほどのそれは、すべてキュランがミシェルにあてた手紙だった。
 ミシェルが呆然と封筒を見つめていると、キュランが彼のすぐ傍らで、小さな囁きを落とす。
「……この一ヶ月、ずっと出したくて、出せなかった手紙よ」
「え…!? え、まさか、あの手紙の返事…?」
「返事もあるし…聞いてほしかったこととか、相談に乗ってほしかったこととか、全部…今回の事件のあらましは、その黄色い封筒」
 ぶっきらぼうに言って、キュランが指さす封筒に目を転じて、それからミシェルは呆然とキュランを見つめた。
「これ……いつ書いたの?」
「……不正を知った日」
「それって、司教様に相談する…前?」
「……そうよ」
 頷いて、キュランはそらしていた眼差しをじっとミシェルに合わせた。大きな深緑の瞳に、ミシェルは我知らず鼓動を速める。だけど、呆然とした表情はなかなか変わらない。
「今見たら…笑っちゃうわ、ニサンの国家機密も、なにもかもぜーんぶ、あんたにぶちまけようとしてるんだもん。われながら、ぞっとする…」
「…キュラン…」
「何度も、何度も、出そうと思って踏みとどまったわ。でも、踏みとどまるたびに、なにかに喉をふさがれるような不安が生まれて、何通も何通も、書いた。そのうちに、ただ書き記して、手紙の中であんたに呼びかけるだけで…不思議と、気持ちが落ち着いた。あんたに聞いてもらってるみたいな気がして」
「僕に…?」
 心底驚いて、ミシェルは目を丸くした。子供っぽい彼の表情をちらりと見やって、キュランは不承不承頷く。
「…そう。そしてね、そう言う自分を自覚するたびに、ああやっぱり、って思ったのよ」
「え?」
 不可解なキュランの言葉に、ミシェルは眉を寄せた。キュランは一度大きく息を吸い込んで、それからまっすぐにミシェルを見つめる。
「ああやっぱり、あたしは、ミシェルの前でしか泣けないのね、って、思ったのよ」
「……は??」
 思わず、間抜けに問い返したミシェルをじろりと睨んで、キュランはぷいっと視線をそらした。結っていない彼女の長い髪が、夕映えに照りかえってきらきらと輝く。
「だからよ」
「え?」
「…だから、あたしは、あんたにだけは、甘えられないって言ったの」
「……?」
 キュランの言葉に、ミシェルは本格的にわけがわからないという顔をした。困惑げに眉を寄せるミシェルを見やって、キュランは怒ったようにまなじりを上げる。
「あんたは気付いてなかったでしょうけどっ! あたしは、昔っからあんたの前じゃないと泣けなかったの! だから、そのあんたに甘えたり、頼ったりしたら…どこまでも、それこそなにからなにまで、あんたに任せっきりになっちゃう気がして…そんなのいやだったの!」
「…キュウ……」
 呆然としたミシェルの囁きに、キュランは耐え切れなくなったように顔をそむけた。夕景に映えた彼女の白い頬が、そればかりではない赤みを刺していることに、ミシェルは気付いた。
「だから…っ、別に、あんたがどうこうっていうわけじゃなくて、もちろん、あんたが頼りにならないとか、そう言うわけじゃなくって、むしろ逆っていうか…ああもう、なんだかよくわからなくなった!」
 癇癪を起こしたように怒鳴って、キュランはびしっ! と人差し指をミシェルに突きつけた。
「とにかく!! そういうことだから、あんたが責任を感じる必要なんて、これっぽっちもないの! わかった? わかったわね!? じゃあ、今から大統領のところに行って、辞任を取り消して来なさい!」
 勢いよくそう言いきって、キュランは素早く立ち上がろうとした。そんな彼女の腕を取り、ミシェルは畳み掛けるように問い返す。
「待って! …ねえ、キュウ、今の、本当の話?」
「…っあんたバカ!? っていうかバカ!! こんな恥ずかしい話、ウソや冗談で言えるわけないでしょう、このあたしが!」
「…じゃあ、ホントなんだ。ホントに、僕の前でしか、キュウは泣けないんだ…」
「ちょっと! 復唱しないでよ、恥ずかしいわ…っ」
 ね、と怒鳴ろうとした瞬間、キュランはミシェルに強引に引き寄せられ、バランスを崩したまま彼の胸に抱きこまれた。
 ひゅっ、と、キュランの息を呑む音が響く。ミシェルは風に散ったブロンズグレイの髪に顔を埋めるようにして、渾身の力でキュランを抱き締めた。
「……てよ…」
「…ちょ、ミシェ…」
「…泣いてよ、キュウ…僕の前で、泣いてよ…」
「な、に言って…」
「もう、無理しないで、もう、我慢しないで…見るなって言うなら、僕は君の泣き顔は見ない。聞くなって言うなら、泣いてる理由は聞かない。だけど、絶対に、僕の前でだけ泣いて。僕の知らないところでは、泣かないでほしいんだ…」
「……っ」
 どくん、と、鼓動が高鳴った。そしてそれは持続して、キュランの喉の奥で暴れている。こんなに密着していたら、もしかして、それがミシェルに伝わってしまうんじゃないか。そう思うと、羞恥でどろどろに溶けてしまいそうだった。
 だけど、全然いやじゃない。こんなに強引に、抱きすくめられているというのに、恐怖も嫌悪も感じない。
 ただあるのは、自分の足元がゆらゆら揺れるような、不安定で掴み所のない、想い。
 その想いが怖くて、逃げ出した事もあったけれど。
「……うん」
 ほんの少しだけ勇気を出して、素直に頷いた。すると今までキュランを悩ませていた、足元を震わせるつかみ所のない困惑が、彼女の中で芽吹いて、花開く。
 心に咲いた小さな花の名を、キュランはぼんやりと考えていた。
「……よかった」
 照れたように囁いて、ミシェルはそっと、キュランの肩を離した。至近距離から覗く薄水色の大きな瞳は、心底嬉しそうに微笑んでいる。
 その、色に。温度に。光に。
 キュランの中の花が、なお一層美しく開いた。
「……あの、ね」
「うん? なに? キュウ」
「あの……あのね。あたし…」
 言いさして、言葉がまとまっていない自分に気付く。たった今芽吹き、自覚を伴って花開いた気持ちに、早急に言葉をつけようとしても、それは無理な話で。
 とりあえず、彼女は、自分を支える二本の腕に、精一杯の勇気で指を這わせた。
「……アリガト」
「……」
 彼女らしからぬ素直な言葉と、潤んだような眼差しに、ミシェルの鼓動が一気に跳ね上がった。
 ぐ、と、彼女の腕を掴む手に力がこもる。その変化に驚いたように、はっとキュランの瞳が見開かれた。
 時間にしてわずかの間、視線と視線が交錯する。至近距離の互いから、何かじかに伝わってくるような感情があった。
「……お礼を言うのは、こっちの方だよ…キュラン」
 ふわっと、柔らかく微笑むミシェルの頬を染める夕景に、キュランは引き絞るような痛みを心臓に感じ、耐え切れずに視線を外した。
 どきどきと、鼓動がうるさい。ミシェルの顔がまともに見られない。こんなこと、今まで一度だってなかったのに。
「……あんたがお礼言ってどうするのよ……バカ」
 けれど、唇をくぐるのはいつもの憎まれ口。今までずっとこうだったから、今さらどうやって素直になればいいのか、心に芽吹いた花を見せればいいのか、わからない。
「はは…いいんだよ。言いたかったんだ」
 屈託なく笑って、ミシェルは立ち上がった。自分を見上げるキュランの細い腕をとり、彼女を立たせてやる。
 彼の輪郭を覆うように、今、西の空から太陽の光が消え失せた。
「ねえ、キュウ、これからどうする? よければ、家に寄って行かない? 母さんたちも、君のことを心配して…」
 病後の彼女を気遣うように、ミシェルはわずかに身を屈めて、そう問いかけた。
 その、瞬間。

「……!?」

 ふわり、と、甘い香りが鼻腔をくすぐった。羽のように軽く、触れるか触れないかで唇をかすめていったものに、呆気にとられたミシェルが固まる。
 わずかに爪先立ちをして、ミシェルの胸倉を掴んでいたキュランが、硬直しているミシェルからぷいと視線をそらした。
「……お礼」
 言って、彼女はすたすたと歩き去る。ミシェルは身を屈めた姿勢のまま、完全に固まっていた。
「あー! キュラン姉さん!」
「うそー! どうしてここにー!?」
 遠くから、聞きなれた妹の声がする。おそらく、夕飯かなにかで自分を探しにきたのであろう双子は、歩き去るキュランを見つけてはしゃいだ声をあげていた。
「もう体いいの? 出歩いて平気?」
「うん、ごめんね、心配かけちゃって…」
「ううんっ! ねえ、うちこれからご飯なの、食べてって!」
「そうしてそうして! 母さんもキュラン姉さんのこと心配してたから、顔見せてやって!」
「う~ん、じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかなあ」
「きゃ~あ♪」
 宵の風に乗って、女たちのかしましい声が聞こえても、ミシェルはそのまま微動だにする事ができなかった。
 ただ、その唇の感触だけが、いつまでもいつまでも消えずに。
「ミシェルにいちゃーん! 早くしないとご飯食べちゃうよー!」
「変なの、なに固まってるのかしら?」
「……さあ?」
 とぼけたように小首を傾げるキュランが、それでも楽しそうに微笑んでいる事なんて、わかるはずもなく。
 一番星が輝く空の下、ミシェルはいつまでも、その場に立ち尽くしていたという。
7/10ページ