FLORAISON-フロレゾン-
片っ端からブレイダブリクの街を探した。
使えるコネはすべて使って、時には大統領官邸の権力にものを言わせ…思えば、自分がこんな風に、高圧的に権威を振りかざしたのは、後にも先にもこれっきりだと思う…しらみつぶしに、宿という宿を探した。
すべての手を打ち尽くし、一縷の望みをかけて大統領官邸に立ち戻った時。
待っていたのは、シスター・キュラン・ヒューイットの不在という、最悪の事実だけだった。
「クソッ!!」
暴力的にドアを開き、ミシェルは通信設備が集結する部屋に闖入した。
「シナモン補佐官!?」
普段の彼らしからぬ、その粗暴な訪問に驚いたのか、通信士たちがざわめく。すでに深夜に近い時刻であったが、いついかなる時に舞い込む情報にも素早く対処できるよう、この部屋には常時数名の通信士たちが張り付いていた。
「早急に! ノアトゥンの大統領プライベート回線へ繋いでください!」
吠え立てるようなミシェルの叫びに、通信士たちが混乱を見せる。中でも年かさの、室長を任じられた男がミシェルの傍に近寄ってきた。
「落ち着きたまえ、シナモン補佐官。一体何事だ」
「緊急事態です!! いいから、急いでくださいッ!!」
「しかし、大統領の極秘回線は、使用権限がある。迂闊には使えないのだよ」
噛んで含めるような室長の言葉に、ミシェルはぎらぎらとした視線を向けて、大人しい、控えめな、慎み深い補佐官見習いらしからぬ、粗暴な動作に移った。
「!!」
だん、と、衝撃音が響く。室長の肩を押さえつけ、壁際に寄ったミシェルは、低く唸りをあげるような声音で言った。
「急げ、と、言っているんだ……!」
「シ、シナモン…」
「責任はすべて僕が取る。だからさっさとして下さい。それとも、これで脅した方が危機感が増しますか?!」
言って、ミシェルは懐から鈍色に光る銃を取り出した。ごり、と銃口が室長の顎を捕らえ、脂汗を浮かべた彼の唇が震える。
「こ…こんなことをして、大統領が……ッ」
「繰り返します。急いでください」
「……ッ」
室長が、目線を通信士たちに向けた。部下たちは、慌てたように機材に向かい、回線が開かれる。
大統領の極秘回線は、彼の筆頭補佐官であるシグルド・ハーコートに直接繋がるようになっていた。
<……ハーコートだ>
回線の向こうで、落ち着いたバリトンが返る。極秘回線を使われているということは、なにごとか不測の事態があったことを示すのだが、彼の声音には動揺の欠片も見えなかった。
「筆頭! ミシェルです」
<どうした>
マイクを奪うように取り上げ、ミシェルはシグルドの声に噛り付くように怒鳴った。
「キュランが…! キュランが、いなくなりました!!」
<…どういうことだ、きちんと説明しなさい>
「キュランが探っていたのは、アヴェとニサンのウェルス種における不正取引の証拠でした。彼女はアレクシス次官に目星を付け、彼の邸宅で証拠の書類を手に入れ、そのまま失踪したんです!」
一息に言い切ったミシェルの言葉の向こうで、シグルドではない人物の声が返った。
<ミシェル!! てめぇなにやってんだ、あれほどキュランから目ェ離すなって言っただろうが!!>
「ッ!! 申し訳ありません、大統領!!」
<申し訳ありませんじゃねえ! てめぇの女くらいてめぇで守ってみせろっ!!>
<若、落ち着いてください。マルー様に気付かれてしまいますよ>
<…ッ、とにかく、キュランが証拠を握った事、他に誰が知ってるよ!>
問われた言葉に、ミシェルは弾かれたように答える。
「もちろん、アレクシス・レブルック次官が……」
しかしその時、通信室の扉の付近で、低く冷たい声があがった。
「魚が網にかかりました、大統領」
「っ!? …ア…アレクシス…次官!?」
まさに、思いもかけない人物の登場に、ミシェルは驚愕に引きつった声でふり返る。アレクシスは、少々乱れた前髪をかきあげながら、つかつかとマイクに近づいた。
「油断しました。まさか、シスターである彼女が、あれほどの事をするとは」
<だから、最初っから言っただろうが。キュランには気をつけろって>
「面目ありません」
アレクシスの返答に、ミシェルが目を白黒させる。まるでその光景が見えているかのように、回線の向こうからバルトの声が響いた。
<ミシェル、アレクはシロだ。不正の犯人は、他にいる>
「ええっ!?」
<俺たちも、うすうす目星はつけてたんだが、おそらく複数の犯行らしく、なかなか物的証拠があがらなかった。だから、アレクに一役買ってもらって、網を仕掛けたのさ>
「網を……」
ミシェルが呟くと、傍らのアレクシスが僅かに苦笑のようなものを浮かべる。
「俺のウェルス嫌いを逆手に取ってね。ウェルスへの援助額を引き下げる立役者になったんだ。そうすれば、今までそれで私腹を肥やしていた者たちが、何らかのアクションを起こすと、大統領は考えられた…」
<ああ。そうしたら案の定、一部の奴らが噛み付いてきた。ただ、それが本当に不正の犯人かどうか、確たる証拠がねえ。いや、ひとりは目星をつけて、密かにそいつから不正の証拠書類を盗み出したんだが、敵も巧妙でな、それだけじゃあ物的証拠としては弱い上に、トカゲの尻尾だ>
「まさか! キュランがアレクシス次官の部屋から盗み出した証拠書類って…」
ミシェルの言葉に、アレクシスは軽く頷いて見せた。そして、彼にしては珍しい、柔らかな苦笑を見せる。
「とは言え、まさかシスターキュランが、あれを手に入れるとは思っていなかった。彼女、怪盗の才能もあるんだな」
アレクシスの言葉に、ミシェルは思わず彼の胸倉を掴みあげた。
「なにを呑気な!! あんたがその時、すべてをキュランに打ち明けていたら、彼女が失踪するなんて事はなかったはずだ!!」
ミシェルの剣幕に、しかしアレクシスは静かに答えた。
「はたしてそうかな? 彼女は、根拠もなく俺の屋敷に来たわけじゃないだろう。おそらく、二サンで手に入れたなにがしかのヒントを元に、俺が不正の犯人だと目星をつけていたはずだ。そんな俺の言葉を、はいそうですかと素直に聞くようなタマか?」
「…ッ」
「それに、間違えるなシナモン。彼女の護衛を任されていたはお前だ。理由はどうあれ、彼女を一人にし、あまつ失踪させたのはお前の落ち度じゃないのか?」
「!」
その言葉に打たれたように、ミシェルは唇を噛んだ。アレクシスは静かにミシェルの手を胸倉から外し、そのままマイクに向かう。
「しかし、大統領。彼女のおかげで、不正当事者の面は完全に割れました」
<本当か!>
「ええ。おそらく、彼女が自分の名をあかしたのが、決め手となったのでしょう。ウェルス種直轄の部署にあるシスターが、単身乗り込んできたことに危機感を抱いた連中が、とうとう尻尾を出しましたよ。雑魚はすべて押さえました。ただ……」
言葉尻を濁すアレクシスに、回線の向こうから苦々しい声が返ってきた。
<主犯格が行方不明か>
「はい。…おそらく、彼女は奴らに捕えられている可能性が高いかと。あるいは、すでに…」
そう、言葉を区切った瞬間、鞭打たれたようにミシェルが叫んだ。
「嘘だ!! そんなことがあるはずない!! キュランが…死ぬわけないッ!!」
「落ち着け、シナモン!」
がし、とミシェルの肩を押さえて、アレクシスが怒鳴る。ミシェルは必死の形相で、アレクシスを睨みあげた。
「誰ですか…! 誰が、主犯ですか! 誰が、キュランを捕えている!? 教えろッ!!」
今にも飛び掛らんばかりのミシェルに、アレクシスは僅かにためらった。その雰囲気を読んだのか、回線の向こうから声があがる。
<…アスワン・ダズリーだ>
「…!? ダズリー…さん…?」
愕然とするミシェルに、アレクシスが頷いた。
「そうだ。恥ずかしながら俺の部下の、アスワン・ダズリーだ」
「ダ…ダズリーさんが……」
わなわなと震えるミシェルに、バルトの声が響く。
<もっともウェルス種に理解があると目されていた、人徳のある男だ。…ミシェル、世の中ってのはそんなもんだ。口先だけじゃ誰も信用できねえ…呆れたことにな>
「大統領……」
力の抜けたようなミシェルの傍らから、こんな時ですら冷静さを損なわない、低い声が響く。
「それでは、大統領。早急にシスターキュランの救出に向かいたいと思うのですが…」
「キュランがどこにいるか、わかってるんですかっ!?」
がば、と顔を上げて、ミシェルは縋るようにアレクシスの胸元に詰め寄った。アレクシスはわずかに眉根を寄せ、ミシェルの肩を叩く。
「…残念ながら、現段階での特定は困難だ」
「え?」
<おそらく、不正に搾取されていたウェルス種を収容する地が、ブレイダブリク周辺の廃虚の、いずれかにあるはずだ。しかし、我々が入手している情報では、複数の候補地を断定することができない。現在捕縛されている末端の者たちに、収容地の場所の分かる者がいればいいが…>
回線から通るシグルドの言葉に、ミシェルは愕然と目を見開いた。
「そんな…そんな悠長なことっ! その間に、キュランにもしものことがあったら、どうするんですか!!」
「落ち着け、シナモン」
「落ち着け!? 無茶言うなッ!! 彼女になにかあったら、僕は、僕は…っ」
がくりと膝をつき、ミシェルは憤りをぶつけるように硬質な床を殴った。武門よりも学問を好む、彼の骨張った拳はすぐにその肌を裂き、赤い血が滲む。しかしミシェルは、その痛みも傷も、まるで気がづかないように、執拗に床を殴り続けた。
「キュラン…っ…キュウ…っ…」
「………」
その様子を、アレクシスが黙って見つめている。自虐に走るミシェルに、諌めも慰めもかけず、ただ沈黙を守る彼の瞳には、冷徹なものの欠片も見えなかった。
そこにあったのは、まるで懐かしいものを見るような、眩しげな色。
<おい、ミシェル。自分の無力を嘆いてヤケんなるのはまだ早ぇぞ>
不意に、回線越しに力強い声が上がる。バルトの言葉に、ミシェルが胡乱な瞳を上げた。顔色は極限に悪く、大きな瞳は生気が見えない。
鈍く光る通信機から、どんな時でも希望を失わない、若き大統領の言葉が降ってくる。
<俺達が特定しているウェルス収容地候補は、三つだ。東のエレナン、北のガナシュス、そして西のマチカ。奴らが使ったのは、官邸に常駐する通常のサンドバギー。それよりも高性能の、BASILISKで兵を向ければ、あるいは間に合うかもしれねえ…だが、現在官邸にあるBASILISKは、都合ニ台……捕縛に必要な人数を動員する事を考慮すると、三つの候補地に分散するわけにはいかねえ。キュランが助かる確率は…三分の一だ>
バルトの言葉に、力なく床に座りこんでいたミシェルの瞳が、大きく見開かれた。彼は俊敏に立ち上がり、通信機器が壊れるほど乱暴にマイクを掴む。
「マチカですッ!!」
<あ?>
「大統領、キュランはマチカにいるはずです! いや…絶対にマチカです!」
断言するミシェルに、背後からアレクシスが声をかける。
「根拠はあるのか? 判断の誤りは、言葉通り命取りだぞ」
「根拠はあります。キュランはブレイダブリクに来てすぐに、マチカへ行きたいと言っていました。おそらく、彼女はニサンでなにがしかの証拠を得、ウェルス種収容地の見当をつけていたんだと思います。そしてそこへ赴き、有効な証拠を得ようと…」
<待て、ミシェル。マチカは君とキュランの故郷だ。望郷の念で彼女がマチカへと言ったのではないと、何故言える?>
落ち着いたシグルドの声に、ミシェルは確固たるものを含む声音で答える。そこにはもう、混乱と焦燥で我を失っていた少年はいなかった。
「仮に、キュランがただ懐かしく、マチカの地を思っていたのならば…あんなに、険しい表情はしなかったはずです。そしてなにより、僕の同道をしぶったりはしない」
<…自信だな>
「確信です」
答えたミシェルに、アレクシスは低い口笛を吹いた。
「では、大統領。大統領私設警護班の精鋭を率いて、マチカへ向かいます。BASILISKの使用の許可を」
<当然だ。必ずキュランを助けろ>
答えたバルトの声に被るよう、ミシェルが高く叫んだ。
「僕も行きますっ!!」
しかし、ミシェルのその言葉をなかば予測していたように、アレクシスは間断なく言い捨てた。
「駄目だ。武官でもない君がついてきたところで、邪魔になるだけだ。ことは一刻を争い、BASILISKの乗員にも制限がある。ここで待て」
「いいえ! 絶対に行きます!!」
まっすぐにアレクシスを見すえ、華奢で頼りなげ見えた幼い少年が、微動だにせずそう言い張るのに、アレクシスは冷徹な眼差しを返していた。
「……君が来たところで、犬死するだけかもしれないぞ」
「例え死んでも、僕はキュランを守ります!」
打てば響くような答えに、アレクシスは一瞬きょとんとしたような顔を見せ…これは彼にしては大変に珍しい顔だ…それから、くっくっく、と、喉奥で笑った。
「…なるほど、君たちは似たもの同士ということか」
「え?」
「まあ…それもいいだろう。もしも坊やが死んだとして、嘆き哀しむ彼女を慰める役も、悪くない」
「はあ!?」
「では、早急にマチカへ向かいます。行くぞ、シナモン」
さっさと言い捨てて、アレクシスがきびすを返す。ミシェルは納得していないような顔をしながらも、足早にそれに続いた。
会話の一部始終を拾っていた、遠く離れた地であるノアトゥンの二人は、思わず顔を見合わせている。
「……なんだか、すげぇ珍しい台詞を聞いたような気がしねぇか?」
「はあ…アレクにも、あの手の冗談を言う余裕が出てきたということですかね」
「…冗談ねえ…俺にゃ、そうは聞こえなかったが」
バルトは言い捨てて、ふうと嘆息をつく。現在、ノアトゥン時刻はアヴェのそれよりも数時間進んでいる。従って、もはや夜半過ぎといっても過言ではなく、アヴェ大使館内も、安息の眠りに包まれていた。
バルトはとんとん、と数回自分のあごを指で叩き、そのままがしがしと金髪をかきむしった。腰の重そうな彼を眺めやり、シグルドはひそかに苦笑をかみ殺す。
「……私が行きますか」
「いや…俺が行くよ」
「黙秘主義のツケは、きちんと支払ってくださいね」
「…ってるよ」
はあ、と重々しい嘆息をついて、バルトが立ち上がる。向かう先はもちろん、今ごろは幸せな夢の中に浸る、彼の最愛の婚約者のもと。
一歩ごとに増える、彼女の抗議と文句のレパートリー。長年のつきあいで、なにを言えばどう返るか、大体は把握できる。
「はぁ~あ……」
ついには大仰なため息をついて、のろのろと部屋を出る大統領を見送って、彼の筆頭補佐官は淡い微苦笑を浮かべた。そしてそのまま、手元の通信機器に手を伸ばす。それは、ノアトゥンアヴェ大使館内の部下の宿直室に直結された回線だった。
「…私だ。緊急事態につき、早急にアヴェに帰還する。準備を…」
いい子だから…そう言われると、なにも返せない自分がいた。
『ママは、お病気なんだよ』
優しい口調で、父が言う。彼の背後には、ベッドで眠る母親の姿がいつもあった。
『ママも、本当はキュランと一緒にいたいんだ』
くりかえされる言葉。噛んで含めるようなそれに、だったら何故、一緒にいてくれないの? …そう、わめきたかったのは、ほんのほんの小さなころの話。
『いい子だから、お外で遊んでいなさい』
白いシーツに包まれた、痩せた母親の微笑。今ならはっきりとわかる。幼い我が子に向けられたそれは、申し訳なさでいっぱいの、切ない笑顔だ。
母親として我が子に接する事もままならない、病弱な自分へのジレンマ…そう、今ならわかる。
だが、あのころの自分は、そんな母親の葛藤など、知りようもなかった。
ただ。
ただ、その笑顔がとても。
…辛かった。
『…わかった。キュウ、おそとであそぶね…ママ』
答えると、母親の笑顔は深くなった。キュランの辛さも、深まった。
母親は、病気というにははっきりしない、言うなれば虚弱のたちのようだった。
それは歳をとるごとに重くなり、キュランを生んだ後は、年の半分は床に伏すという状態になった。はっきりとした原因のない病のため、特効薬も対処法もなく、ただただ、緩慢にやせ衰える母を、見守るだけの幼少時。
キュランの自立心は、この頃に培われたものだった。
キュランは、雨の日も風の日も家の外に出た。病弱な母親には、ただ子供が傍にいると言うだけでも、体調に変調をきたす。それは、母親の愛情でも、子供の努力でも克服し得ない、病魔の摂理だった。
毎日、外に出て遊ぶ。一見健康的なことのように見えて、それは本当は、母親の手を乞うていた少女には、とてもとても寂しいことだ。
だけど、キュランは『とてもいい子』だったから。
誰にも、その寂しさを見せることはなかった。
たった一人を、除いては。
『ね~きゅ~う~、ぼくもぉ、つかれちゃったよぉ~』
自分のあとをほてほてとついてくる、二歳年下の少年。キュランは、それに構わずにずんずんと歩いた。
遊びに行こう、そう誘ったのはキュランだ。彼女が言えば、少年はいちもにもなくついてくる。毎日そうだった。
だが、今日に限っては。彼はキュランの誘いに逡巡し、無邪気に彼の母親を仰いだ。
『ねえママ、きょうはママといっしょにおかいものにいくんだよね、ねえ、キュウもいっしょにいっていい?』
それは、本当に何気ない一言で。
でも、今日もいつも通り、母親の手から離れて家を出たキュランにとっては、とても、ものすごく、残酷な一言で。
気がつけばキュランは、ミシェルの返答なぞお構いなしに、くるりときびすを返してさっさと歩き出していた。
そのあとを、僅かの時差のあと必死でついてくる少年。
『ねぇ~、キュウったらぁ~』
『うるさい! そんなにママがいいんなら、さっさとおかいものにでもいっちゃえばいいじゃない!』
みっともなく八つ当たりながら、キュランはじゃり道を進んだ。後ろからついてくる足音は、それでも懸命に彼女に従う。
『ねえ、なんでおこってるの?』
『おこってないよ!』
『じゃあ、どうしてそんなにぷんぷんしてるの?』
『してないもん!』
『ねえ、きゅう~』
『うるさいなあ! なによ、ミーシュなんか、ミーシュなんか』
どうせ、わたしよりもママがいいくせに。
どうせ、ママといっしょにいられるくせに。
どうして、わたしばっかり。
どうして、ママとはなれていなくちゃ。
どうして。
溢れてきた思いに唇を噛んで、キュランは懸命に涙を堪えた。
小さな小さな胸が痛んでも、彼女はそうやって、必死に耐える事を、もうこの歳で覚えていた。泣けば、母が心配する。今まで以上にきっと、あの哀しい笑顔を見せるだろう。不甲斐無い自分を呪って、可愛そうな我が子を哀れんで、か細いあの身体を折って、きっと夜には泣くのだろう。
だから。
キュランは、泣かない。
『ね~、キュウ…あっ!!』
じゃりじゃりじゃり、ざざっ!!
見なくてもわかる、じゃり道につまずいた音。程なくしてあがる、ミシェルのべそをかいた声。
『う、うわ~ん、いたいよぉ、きゅう~~』
『…もー! どうしてあんたって、いつもいつもここで…』
苛立ったように振り向いて、キュランは乱暴にミシェルを立たせた。ミシェルはべそべそと泣きながら、キュランに手をひかれて井戸に進む。
キュランは、なれた手つきで清水を汲んだ。
『もお、ほら、けがしたとこみせて…』
そう、いつものようにお姉さんの顔で、言った瞬間。
ぱしゃっ!
『きゃっ!』
突然、ミシェルの小さな手が、キュランの顔に水を弾いた。
驚いたキュランが、きょとんとしてミシェルを見やると、彼は女の子のように可愛らしい顔をくしゃくしゃにして、今の今までべそをかいていたのが嘘のように晴れ晴れと笑った。
『や~い、キュウひっかかった~』
『な……』
『ほら、キュウ、つめたい?』
そう言って、無邪気に自分に水をかける、少年の意図がわからない。キュランは呆気に取られたまま、怒っていいのか笑っていいのか判断に困った。
と。
『あれれ~? キュウ、ないてるの~?』
『えっ?!』
驚いて、キュランは思わず自分の頬に手をあてる。けれどそれは、ミシェルが弾いた井戸の水でしかなくて。
ミシェルは、びしょ濡れのキュランの顔を見上げて、にっこりと笑った。
『な~んだっ! ないてないね、おみずだね! ないてるのかとおもったけど、おみずだっただけだね』
『……』
言われて。
キュランは、まるでなにか、スイッチが切り替わったかのように、ぽろぽろと泣きだした。
『…そ、だもん…ッ、おみず…おみずだもんっ』
そう言って、ぽろぽろ、ぽろぽろ。びしょ濡れになった顔をくしゃくしゃにして、キュランは次から次へと涙を流した。
こんなに安心して泣ける場所を、キュランは他に知らなかった。目の前で笑う少年は、無邪気に井戸水を撒き散らして、自分だってびしょ濡れになっている。
涙に、気付いているのか、いないのか。
彼女の心を、察したのか、どうなのか。
なにもわからなかったけれど、その時から、キュランが泣けるのは、この幼い、頼りない、少女のように愛らしい、二才年下の幼馴染の前だけになってしまった。
それは大人になっても変わらなくて。もちろん二人が離れていた、十年という時間の中でも変わらなくて。
そう、だからキュランにとっての、ミシェルは……
「………ん……」
ふ、と、身体が浮遊するような感覚に、薄く目を開いた。
僅かに鈍痛する頭。吐き気に似たものが喉奥にはりついている。キュランは静かに、恐る恐る身を起こそうと、肘をつき……
「!?」
両手を、鎖のようなもので繋がれている、自分に気付いた。
「お目覚めかな?」
不意に、薄暗い部屋の隅で男の声があがる。するとそこには、テーブルに差し向かいに座る数人の男が、なにか酒のようなものを口にしながらにやにやとこちらを見ている光景があった。
その中の、今声をかけた男…平凡で、人の良さそうな、特徴の薄い見覚えのある男が、グラスで唇を潤わせてからにこりと笑う。
「少々、手荒な真似をしました。申し訳ありません、シスター」
「…あなた…確か、ダズリー…アスワン・ダズリー」
「さすが、記憶力がいい」
にやりと笑い、ダズリーが席を立つ。鎖で両手を縛り付けられ、柱のようなものにつながれたキュランは、嫌悪を含む視線で男を睨んだ。
「そう、怖い顔で睨むものじゃないよ、シスター。さすがの私たちだって、ニサン正教のシスターに、そう無体なことはしない…まだ、ね」
そう言って、凡庸な顔を一瞬にして下卑た笑いで染めたダズリーの背後で、テーブルについていた男たちの嘲笑が漏れる。
キュランは、そんな男たちの視線にさらされることすら汚らわしいとでも言いたげに、可能なかぎり身をよじった。
「…あんたたちも、グルなのね」
問わずもがなの問いかけに、しかしダズリーは奇妙に眉を上げる。
「グル? …ああ、あなたはなにか勘違いをしているのかな」
「え?」
「今さら取り繕う必要もないので、率直に言うとね。今回の不正は、我々が主犯格だよ。君はどうやら、他の人間に目星をつけていたようだね? 察するに…あの、冷血漢のレブルック次官殿かな」
「!」
顔色を変えたキュランに、ダズリーは愉快そうに笑った。
「やっぱり! はは、しかしシスターがそう思っても仕方がない。あの男は本当に口が悪い。そして、本気でウェルスを憎んでる…まったく、非情な男だな」
その言葉に、キュランはかっとなって怒鳴った。
「あんたにそんなこと言う資格ないわ! ウェルス種を利用して、私腹を肥やしていたのはどこのどいつよ!」
「…これは、少々口が悪いね、あなたも。だが、そう、確かに我々は、ウェルス種となったモノたちを、多少非合法に搾取し、その分美味しい思いをしましたがね…しかし、あのレブルックも言っていたじゃないですか。ウェルスなんぞには、生きる価値もない、あんなモノに回す金があるのなら、今生きている『人間』に与えるべきだ……いけ好かない男ですが、あの言葉だけには大いに喝采を与えたい」
そう言って、得意げに笑うダズリーに、キュランはありったけの憎悪をこめて叫ぶ。
「ウェルスはモノじゃないわ、人よ!! 私利私欲に肥え太った、ブタのようなあんたよりも、よっぽど人間だわ!!」
「!」
瞬間、ダズリーの太い腕が空を切り、キュランの頬を強かに殴った。キュランは咄嗟に身構えたが、鎖に囚われた不自由な体勢から、そのダメージをモロに受ける。
横向いた彼女を嘲笑うかのように、ダズリーが腕をさすりながら言った。
「ウェルスが『ヒト』…? 笑わせる。貴様はお気楽にも、ウェルスに身内を殺されら人間の痛みを、知らずに生きているらしい。よくそんな偽善的なことをほざくものだ」
我知らず、キュランは痛みに唇を噛んだ。しかし、こんな男の与える苦痛なぞに、一言だって呻き声をあげまいと、歯を食いしばって視線をあげる。
「…なんだ、その目は。気に入らない…気に入らないぞ、シスター」
ぎり、とキュランのブロンズ・グレイの髪を掴みあげ、ダズリーは彼女の顔面スレスレまで顔を近づけると、粘着質な囁きをもらす。
「貴様にはわからないんだろうなあ。ウェルスに、肉親を殺されたものの痛みが。知り合いを殺されたものの悲しみが。なあ? ここにいる奴らは、みんなそんな痛みを抱えているんだよ。みんなウェルスの被害者なんだよ。わかるか? みんな、ウェルスに大事なものを奪われたんだ。そんな俺たちが…ヤツらのことを、モノ扱いしてなにが悪い? ん?」
じりじりと、キュランの白い頬を舐めるように指を這わせるダズリーに、キュランはまっすぐに眼差しを向けて、答えた。
「…おあいにく。不幸自慢がしたいならよそをあたるのね」
「…あ?」
「あんたのお好みに合わせてあげるわ…。あたしの母も、ウェルスに殺されたの」
キュランがそう言うと、ダズリーは一瞬ぽかんと口を開き…それから、まなじりをあげた。
「それでよく!! それで、よく、ウェルスが『人間』だなんて…言えたな、シスター! ええ!? あんたは悔しくないのか、哀しくないのか、ウェルスが憎くないのか!!」
興奮してそう叫ぶダズリーに、キュランはこともなげに答えた。
「憎くないわ。だって、あたしの母を殺したウェルスは…あたしの父よ」
「な…?」
「母は、止めるあたしを振り捨てて、狂気と化した父の傍にいたの。彼女は、どんな姿になっても、例え自分を殺そうとする相手でも、それが父である限り、最後まで愛し続けた。ウェルスだって、元は人間よ。…誰かを愛し、誰かに愛されていた、人間なのよ」
まっすぐにダズリーを見すえ、キュランは一言一句を噛み締めるように呟く。
「あんたは…ウェルスに、家族を殺されたって言う。だから、ウェルスを憎むって言う。虫けらのように殺しても、当然のことだって言う。…だけど、結局は自分の欲のためじゃない。お金が欲しかっただけじゃない」
「ッ……!」
ダズリーの顔色が変わった。キュランは眦を上げたまま、両手を拘束された不利な状況をものともせず、毅然と前を向いていた。
「あんたこそ、綺麗事言ってんじゃないわよ! どれだけ自分の不幸を振りかざしたところで、あんたのやってることはただの犯罪よ! しかも、この世で一番品性下劣な、最低の犯罪だわ! あんたたちみたいな人間に、それこそ生きる価値なんてない!!」
そう、きっぱりと言い捨てたキュランに、ダズリーが憤怒の形相で再び手をあげる。
「黙れ、売女!!」
「ッ!」
再び打たれたキュランは、手加減なしの男の力で軽い脳震盪を起こしたように、くらくらと揺れる視界をこらした。力なく項垂れた彼女の肩を引き上げ、ダズリーは狂ったように笑う。
「そうだ、そうさ、だから何だ!! 俺は金が欲しかった! そしてウェルスが憎かった! だから奴らを利用した! それのなにが悪い? なにが悪いんだ?! ウェルスが憎い憎いとほざきながら、体制に従って間抜けにもウェルス援助の急先鋒の任についている、あのレブルックのような腰抜けと、俺は違うんだ!」
言いながら、叫びながら、ダズリーはキュランの衣服を引き裂いた。野獣のような男の勢いに、朦朧としていたキュランの意識が悲鳴をあげる。
「おい、ダズリー」
「女に、情報を吐かせないでいいのか」
強く止めるでもなく、背後の男たちの声がする。キュランの身体をまさぐるダズリーは、なかば以上に狂ったような声で答えた。
「情報…? ハッ、かまうもんか、こいつの持っていた書類はここにある。その前に、ニサンかアヴェに俺たちの名前を上げていたとしても、ヤツらがここを知るのはもっとずっとあとだ…俺たちが楽しんで、この女を始末し、優雅に亡命するくらいの時間はあるさ!」
そう言って、自分の首筋に顔を埋めるダズリーの…『男』の感触に、キュランは思わず声をあげた。
「嫌!! やめて…触らないで!!」
嫌悪が蘇る。あの時…『男』を振りかざして、力づくでキュランを押さえつけた、ミシェルが…
いや、違う。
こんな男と、ミシェルは違う。全然、違う!
あの時は怖かった。でも、その恐怖は今感じている、嫌悪感を伴ったものではなくて。
例えるなら、そう。自分が自分でなくなるような、今まで張り詰めていたものが、力強くさらわれて、すべて溶けてしまうような、そんな恐怖があって。
だから、あの時の気持ちは、嫌悪や憎悪では、決してなくて!
「…シェル…っ!」
震える歯列を割って、キュランはありったけの叫び声をあげた。
「ミシェルーーーーーーッッッ!!!!!」
今、心から会いたい人。他の誰でもない、今一番、助けて欲しい相手。
その名前を、夢中で叫んだ瞬間。
「キュランっ!!」
奇跡のようなタイミングで、その人は現れた。
「な!?」
突然扉を蹴破って乱入してきた兵士たちに、室内は騒然となった。テーブルについていた男たちは、悲鳴をあげる暇さえ与えられず、手馴れた様子で次々に取り押さえられる。
キュランの名を叫んで、一直線にこちらにやってきた少年は、振り返るダズリーの顔面を渾身の力で蹴り倒した。
「ぎゃっ!!」
無様な悲鳴をあげて転がるダズリーに、ミシェルは夢中で懐から小銃を取りだし、銃口を合わせる。激鉄をあげる前に、アレクシスの鋭い制止の声が飛んだ。
「殺すな、シナモン! 半殺しは許したが、息の根を止めるのはまだ早い」
「っ! …んの、クソやろう!!!」
叫ぶと、ミシェルは顔中を血まみれにするダズリーの仰向けになったみぞおちに、容赦なくかかとを振り下ろした。その衝撃に、ダズリーが吐瀉物を撒き散らす。
「キュウっ!!」
何度かダズリーを蹴り倒したあと、ようやくこちらを振り返ったミシェルは、キュランの散々な様子に再びまなじりをあげた。そのまま迷わず銃をつきだし、彼女の手首を拘禁していた鎖に向かって、二度、三度発砲する。
「シナモン!!」
「下衆は撃ってません!!」
アレクシスの抗議の声に、怒鳴るように答えて、ミシェルはぐったりと倒れこんだキュランを力強く抱き締めた。
「キュウ…ッ、キュラン、…キュランっ!!」
そう言って、自分をかき抱くミシェルの力に、キュランはやっぱり…と、内心思う。
やっぱり、この力は違う。これは、自分を包む力だ。
衝撃と混乱と、助けが来た安堵感とで、ほとんど茫然自失となったキュランの耳元で、ミシェルが絞り出すような声で囁いた。
「キュウ…っ、僕の傍を離れちゃ、だめじゃないか! 僕を、守ってくれるん…だろう? キュウ…、だったら僕から離れないでよ! お願いだから……っ」
「……ミー…シュ」
ゆっくりと囁いて、キュランはそっと、ミシェルの背中に腕を伸ばした。彼の琥珀の髪を指先にからめ、優しい手つきで撫でてやる。
「……ごめんね」
一体、なにに謝ったんだろう。たくさん謝らなくてはならないことがあったはずなのだが、その時の言葉は、そのどれにあてはまるものでもなくて。
けれど結局、その一言が、意識を手放す前の最後の言葉となったのだった。
使えるコネはすべて使って、時には大統領官邸の権力にものを言わせ…思えば、自分がこんな風に、高圧的に権威を振りかざしたのは、後にも先にもこれっきりだと思う…しらみつぶしに、宿という宿を探した。
すべての手を打ち尽くし、一縷の望みをかけて大統領官邸に立ち戻った時。
待っていたのは、シスター・キュラン・ヒューイットの不在という、最悪の事実だけだった。
「クソッ!!」
暴力的にドアを開き、ミシェルは通信設備が集結する部屋に闖入した。
「シナモン補佐官!?」
普段の彼らしからぬ、その粗暴な訪問に驚いたのか、通信士たちがざわめく。すでに深夜に近い時刻であったが、いついかなる時に舞い込む情報にも素早く対処できるよう、この部屋には常時数名の通信士たちが張り付いていた。
「早急に! ノアトゥンの大統領プライベート回線へ繋いでください!」
吠え立てるようなミシェルの叫びに、通信士たちが混乱を見せる。中でも年かさの、室長を任じられた男がミシェルの傍に近寄ってきた。
「落ち着きたまえ、シナモン補佐官。一体何事だ」
「緊急事態です!! いいから、急いでくださいッ!!」
「しかし、大統領の極秘回線は、使用権限がある。迂闊には使えないのだよ」
噛んで含めるような室長の言葉に、ミシェルはぎらぎらとした視線を向けて、大人しい、控えめな、慎み深い補佐官見習いらしからぬ、粗暴な動作に移った。
「!!」
だん、と、衝撃音が響く。室長の肩を押さえつけ、壁際に寄ったミシェルは、低く唸りをあげるような声音で言った。
「急げ、と、言っているんだ……!」
「シ、シナモン…」
「責任はすべて僕が取る。だからさっさとして下さい。それとも、これで脅した方が危機感が増しますか?!」
言って、ミシェルは懐から鈍色に光る銃を取り出した。ごり、と銃口が室長の顎を捕らえ、脂汗を浮かべた彼の唇が震える。
「こ…こんなことをして、大統領が……ッ」
「繰り返します。急いでください」
「……ッ」
室長が、目線を通信士たちに向けた。部下たちは、慌てたように機材に向かい、回線が開かれる。
大統領の極秘回線は、彼の筆頭補佐官であるシグルド・ハーコートに直接繋がるようになっていた。
<……ハーコートだ>
回線の向こうで、落ち着いたバリトンが返る。極秘回線を使われているということは、なにごとか不測の事態があったことを示すのだが、彼の声音には動揺の欠片も見えなかった。
「筆頭! ミシェルです」
<どうした>
マイクを奪うように取り上げ、ミシェルはシグルドの声に噛り付くように怒鳴った。
「キュランが…! キュランが、いなくなりました!!」
<…どういうことだ、きちんと説明しなさい>
「キュランが探っていたのは、アヴェとニサンのウェルス種における不正取引の証拠でした。彼女はアレクシス次官に目星を付け、彼の邸宅で証拠の書類を手に入れ、そのまま失踪したんです!」
一息に言い切ったミシェルの言葉の向こうで、シグルドではない人物の声が返った。
<ミシェル!! てめぇなにやってんだ、あれほどキュランから目ェ離すなって言っただろうが!!>
「ッ!! 申し訳ありません、大統領!!」
<申し訳ありませんじゃねえ! てめぇの女くらいてめぇで守ってみせろっ!!>
<若、落ち着いてください。マルー様に気付かれてしまいますよ>
<…ッ、とにかく、キュランが証拠を握った事、他に誰が知ってるよ!>
問われた言葉に、ミシェルは弾かれたように答える。
「もちろん、アレクシス・レブルック次官が……」
しかしその時、通信室の扉の付近で、低く冷たい声があがった。
「魚が網にかかりました、大統領」
「っ!? …ア…アレクシス…次官!?」
まさに、思いもかけない人物の登場に、ミシェルは驚愕に引きつった声でふり返る。アレクシスは、少々乱れた前髪をかきあげながら、つかつかとマイクに近づいた。
「油断しました。まさか、シスターである彼女が、あれほどの事をするとは」
<だから、最初っから言っただろうが。キュランには気をつけろって>
「面目ありません」
アレクシスの返答に、ミシェルが目を白黒させる。まるでその光景が見えているかのように、回線の向こうからバルトの声が響いた。
<ミシェル、アレクはシロだ。不正の犯人は、他にいる>
「ええっ!?」
<俺たちも、うすうす目星はつけてたんだが、おそらく複数の犯行らしく、なかなか物的証拠があがらなかった。だから、アレクに一役買ってもらって、網を仕掛けたのさ>
「網を……」
ミシェルが呟くと、傍らのアレクシスが僅かに苦笑のようなものを浮かべる。
「俺のウェルス嫌いを逆手に取ってね。ウェルスへの援助額を引き下げる立役者になったんだ。そうすれば、今までそれで私腹を肥やしていた者たちが、何らかのアクションを起こすと、大統領は考えられた…」
<ああ。そうしたら案の定、一部の奴らが噛み付いてきた。ただ、それが本当に不正の犯人かどうか、確たる証拠がねえ。いや、ひとりは目星をつけて、密かにそいつから不正の証拠書類を盗み出したんだが、敵も巧妙でな、それだけじゃあ物的証拠としては弱い上に、トカゲの尻尾だ>
「まさか! キュランがアレクシス次官の部屋から盗み出した証拠書類って…」
ミシェルの言葉に、アレクシスは軽く頷いて見せた。そして、彼にしては珍しい、柔らかな苦笑を見せる。
「とは言え、まさかシスターキュランが、あれを手に入れるとは思っていなかった。彼女、怪盗の才能もあるんだな」
アレクシスの言葉に、ミシェルは思わず彼の胸倉を掴みあげた。
「なにを呑気な!! あんたがその時、すべてをキュランに打ち明けていたら、彼女が失踪するなんて事はなかったはずだ!!」
ミシェルの剣幕に、しかしアレクシスは静かに答えた。
「はたしてそうかな? 彼女は、根拠もなく俺の屋敷に来たわけじゃないだろう。おそらく、二サンで手に入れたなにがしかのヒントを元に、俺が不正の犯人だと目星をつけていたはずだ。そんな俺の言葉を、はいそうですかと素直に聞くようなタマか?」
「…ッ」
「それに、間違えるなシナモン。彼女の護衛を任されていたはお前だ。理由はどうあれ、彼女を一人にし、あまつ失踪させたのはお前の落ち度じゃないのか?」
「!」
その言葉に打たれたように、ミシェルは唇を噛んだ。アレクシスは静かにミシェルの手を胸倉から外し、そのままマイクに向かう。
「しかし、大統領。彼女のおかげで、不正当事者の面は完全に割れました」
<本当か!>
「ええ。おそらく、彼女が自分の名をあかしたのが、決め手となったのでしょう。ウェルス種直轄の部署にあるシスターが、単身乗り込んできたことに危機感を抱いた連中が、とうとう尻尾を出しましたよ。雑魚はすべて押さえました。ただ……」
言葉尻を濁すアレクシスに、回線の向こうから苦々しい声が返ってきた。
<主犯格が行方不明か>
「はい。…おそらく、彼女は奴らに捕えられている可能性が高いかと。あるいは、すでに…」
そう、言葉を区切った瞬間、鞭打たれたようにミシェルが叫んだ。
「嘘だ!! そんなことがあるはずない!! キュランが…死ぬわけないッ!!」
「落ち着け、シナモン!」
がし、とミシェルの肩を押さえて、アレクシスが怒鳴る。ミシェルは必死の形相で、アレクシスを睨みあげた。
「誰ですか…! 誰が、主犯ですか! 誰が、キュランを捕えている!? 教えろッ!!」
今にも飛び掛らんばかりのミシェルに、アレクシスは僅かにためらった。その雰囲気を読んだのか、回線の向こうから声があがる。
<…アスワン・ダズリーだ>
「…!? ダズリー…さん…?」
愕然とするミシェルに、アレクシスが頷いた。
「そうだ。恥ずかしながら俺の部下の、アスワン・ダズリーだ」
「ダ…ダズリーさんが……」
わなわなと震えるミシェルに、バルトの声が響く。
<もっともウェルス種に理解があると目されていた、人徳のある男だ。…ミシェル、世の中ってのはそんなもんだ。口先だけじゃ誰も信用できねえ…呆れたことにな>
「大統領……」
力の抜けたようなミシェルの傍らから、こんな時ですら冷静さを損なわない、低い声が響く。
「それでは、大統領。早急にシスターキュランの救出に向かいたいと思うのですが…」
「キュランがどこにいるか、わかってるんですかっ!?」
がば、と顔を上げて、ミシェルは縋るようにアレクシスの胸元に詰め寄った。アレクシスはわずかに眉根を寄せ、ミシェルの肩を叩く。
「…残念ながら、現段階での特定は困難だ」
「え?」
<おそらく、不正に搾取されていたウェルス種を収容する地が、ブレイダブリク周辺の廃虚の、いずれかにあるはずだ。しかし、我々が入手している情報では、複数の候補地を断定することができない。現在捕縛されている末端の者たちに、収容地の場所の分かる者がいればいいが…>
回線から通るシグルドの言葉に、ミシェルは愕然と目を見開いた。
「そんな…そんな悠長なことっ! その間に、キュランにもしものことがあったら、どうするんですか!!」
「落ち着け、シナモン」
「落ち着け!? 無茶言うなッ!! 彼女になにかあったら、僕は、僕は…っ」
がくりと膝をつき、ミシェルは憤りをぶつけるように硬質な床を殴った。武門よりも学問を好む、彼の骨張った拳はすぐにその肌を裂き、赤い血が滲む。しかしミシェルは、その痛みも傷も、まるで気がづかないように、執拗に床を殴り続けた。
「キュラン…っ…キュウ…っ…」
「………」
その様子を、アレクシスが黙って見つめている。自虐に走るミシェルに、諌めも慰めもかけず、ただ沈黙を守る彼の瞳には、冷徹なものの欠片も見えなかった。
そこにあったのは、まるで懐かしいものを見るような、眩しげな色。
<おい、ミシェル。自分の無力を嘆いてヤケんなるのはまだ早ぇぞ>
不意に、回線越しに力強い声が上がる。バルトの言葉に、ミシェルが胡乱な瞳を上げた。顔色は極限に悪く、大きな瞳は生気が見えない。
鈍く光る通信機から、どんな時でも希望を失わない、若き大統領の言葉が降ってくる。
<俺達が特定しているウェルス収容地候補は、三つだ。東のエレナン、北のガナシュス、そして西のマチカ。奴らが使ったのは、官邸に常駐する通常のサンドバギー。それよりも高性能の、BASILISKで兵を向ければ、あるいは間に合うかもしれねえ…だが、現在官邸にあるBASILISKは、都合ニ台……捕縛に必要な人数を動員する事を考慮すると、三つの候補地に分散するわけにはいかねえ。キュランが助かる確率は…三分の一だ>
バルトの言葉に、力なく床に座りこんでいたミシェルの瞳が、大きく見開かれた。彼は俊敏に立ち上がり、通信機器が壊れるほど乱暴にマイクを掴む。
「マチカですッ!!」
<あ?>
「大統領、キュランはマチカにいるはずです! いや…絶対にマチカです!」
断言するミシェルに、背後からアレクシスが声をかける。
「根拠はあるのか? 判断の誤りは、言葉通り命取りだぞ」
「根拠はあります。キュランはブレイダブリクに来てすぐに、マチカへ行きたいと言っていました。おそらく、彼女はニサンでなにがしかの証拠を得、ウェルス種収容地の見当をつけていたんだと思います。そしてそこへ赴き、有効な証拠を得ようと…」
<待て、ミシェル。マチカは君とキュランの故郷だ。望郷の念で彼女がマチカへと言ったのではないと、何故言える?>
落ち着いたシグルドの声に、ミシェルは確固たるものを含む声音で答える。そこにはもう、混乱と焦燥で我を失っていた少年はいなかった。
「仮に、キュランがただ懐かしく、マチカの地を思っていたのならば…あんなに、険しい表情はしなかったはずです。そしてなにより、僕の同道をしぶったりはしない」
<…自信だな>
「確信です」
答えたミシェルに、アレクシスは低い口笛を吹いた。
「では、大統領。大統領私設警護班の精鋭を率いて、マチカへ向かいます。BASILISKの使用の許可を」
<当然だ。必ずキュランを助けろ>
答えたバルトの声に被るよう、ミシェルが高く叫んだ。
「僕も行きますっ!!」
しかし、ミシェルのその言葉をなかば予測していたように、アレクシスは間断なく言い捨てた。
「駄目だ。武官でもない君がついてきたところで、邪魔になるだけだ。ことは一刻を争い、BASILISKの乗員にも制限がある。ここで待て」
「いいえ! 絶対に行きます!!」
まっすぐにアレクシスを見すえ、華奢で頼りなげ見えた幼い少年が、微動だにせずそう言い張るのに、アレクシスは冷徹な眼差しを返していた。
「……君が来たところで、犬死するだけかもしれないぞ」
「例え死んでも、僕はキュランを守ります!」
打てば響くような答えに、アレクシスは一瞬きょとんとしたような顔を見せ…これは彼にしては大変に珍しい顔だ…それから、くっくっく、と、喉奥で笑った。
「…なるほど、君たちは似たもの同士ということか」
「え?」
「まあ…それもいいだろう。もしも坊やが死んだとして、嘆き哀しむ彼女を慰める役も、悪くない」
「はあ!?」
「では、早急にマチカへ向かいます。行くぞ、シナモン」
さっさと言い捨てて、アレクシスがきびすを返す。ミシェルは納得していないような顔をしながらも、足早にそれに続いた。
会話の一部始終を拾っていた、遠く離れた地であるノアトゥンの二人は、思わず顔を見合わせている。
「……なんだか、すげぇ珍しい台詞を聞いたような気がしねぇか?」
「はあ…アレクにも、あの手の冗談を言う余裕が出てきたということですかね」
「…冗談ねえ…俺にゃ、そうは聞こえなかったが」
バルトは言い捨てて、ふうと嘆息をつく。現在、ノアトゥン時刻はアヴェのそれよりも数時間進んでいる。従って、もはや夜半過ぎといっても過言ではなく、アヴェ大使館内も、安息の眠りに包まれていた。
バルトはとんとん、と数回自分のあごを指で叩き、そのままがしがしと金髪をかきむしった。腰の重そうな彼を眺めやり、シグルドはひそかに苦笑をかみ殺す。
「……私が行きますか」
「いや…俺が行くよ」
「黙秘主義のツケは、きちんと支払ってくださいね」
「…ってるよ」
はあ、と重々しい嘆息をついて、バルトが立ち上がる。向かう先はもちろん、今ごろは幸せな夢の中に浸る、彼の最愛の婚約者のもと。
一歩ごとに増える、彼女の抗議と文句のレパートリー。長年のつきあいで、なにを言えばどう返るか、大体は把握できる。
「はぁ~あ……」
ついには大仰なため息をついて、のろのろと部屋を出る大統領を見送って、彼の筆頭補佐官は淡い微苦笑を浮かべた。そしてそのまま、手元の通信機器に手を伸ばす。それは、ノアトゥンアヴェ大使館内の部下の宿直室に直結された回線だった。
「…私だ。緊急事態につき、早急にアヴェに帰還する。準備を…」
いい子だから…そう言われると、なにも返せない自分がいた。
『ママは、お病気なんだよ』
優しい口調で、父が言う。彼の背後には、ベッドで眠る母親の姿がいつもあった。
『ママも、本当はキュランと一緒にいたいんだ』
くりかえされる言葉。噛んで含めるようなそれに、だったら何故、一緒にいてくれないの? …そう、わめきたかったのは、ほんのほんの小さなころの話。
『いい子だから、お外で遊んでいなさい』
白いシーツに包まれた、痩せた母親の微笑。今ならはっきりとわかる。幼い我が子に向けられたそれは、申し訳なさでいっぱいの、切ない笑顔だ。
母親として我が子に接する事もままならない、病弱な自分へのジレンマ…そう、今ならわかる。
だが、あのころの自分は、そんな母親の葛藤など、知りようもなかった。
ただ。
ただ、その笑顔がとても。
…辛かった。
『…わかった。キュウ、おそとであそぶね…ママ』
答えると、母親の笑顔は深くなった。キュランの辛さも、深まった。
母親は、病気というにははっきりしない、言うなれば虚弱のたちのようだった。
それは歳をとるごとに重くなり、キュランを生んだ後は、年の半分は床に伏すという状態になった。はっきりとした原因のない病のため、特効薬も対処法もなく、ただただ、緩慢にやせ衰える母を、見守るだけの幼少時。
キュランの自立心は、この頃に培われたものだった。
キュランは、雨の日も風の日も家の外に出た。病弱な母親には、ただ子供が傍にいると言うだけでも、体調に変調をきたす。それは、母親の愛情でも、子供の努力でも克服し得ない、病魔の摂理だった。
毎日、外に出て遊ぶ。一見健康的なことのように見えて、それは本当は、母親の手を乞うていた少女には、とてもとても寂しいことだ。
だけど、キュランは『とてもいい子』だったから。
誰にも、その寂しさを見せることはなかった。
たった一人を、除いては。
『ね~きゅ~う~、ぼくもぉ、つかれちゃったよぉ~』
自分のあとをほてほてとついてくる、二歳年下の少年。キュランは、それに構わずにずんずんと歩いた。
遊びに行こう、そう誘ったのはキュランだ。彼女が言えば、少年はいちもにもなくついてくる。毎日そうだった。
だが、今日に限っては。彼はキュランの誘いに逡巡し、無邪気に彼の母親を仰いだ。
『ねえママ、きょうはママといっしょにおかいものにいくんだよね、ねえ、キュウもいっしょにいっていい?』
それは、本当に何気ない一言で。
でも、今日もいつも通り、母親の手から離れて家を出たキュランにとっては、とても、ものすごく、残酷な一言で。
気がつけばキュランは、ミシェルの返答なぞお構いなしに、くるりときびすを返してさっさと歩き出していた。
そのあとを、僅かの時差のあと必死でついてくる少年。
『ねぇ~、キュウったらぁ~』
『うるさい! そんなにママがいいんなら、さっさとおかいものにでもいっちゃえばいいじゃない!』
みっともなく八つ当たりながら、キュランはじゃり道を進んだ。後ろからついてくる足音は、それでも懸命に彼女に従う。
『ねえ、なんでおこってるの?』
『おこってないよ!』
『じゃあ、どうしてそんなにぷんぷんしてるの?』
『してないもん!』
『ねえ、きゅう~』
『うるさいなあ! なによ、ミーシュなんか、ミーシュなんか』
どうせ、わたしよりもママがいいくせに。
どうせ、ママといっしょにいられるくせに。
どうして、わたしばっかり。
どうして、ママとはなれていなくちゃ。
どうして。
溢れてきた思いに唇を噛んで、キュランは懸命に涙を堪えた。
小さな小さな胸が痛んでも、彼女はそうやって、必死に耐える事を、もうこの歳で覚えていた。泣けば、母が心配する。今まで以上にきっと、あの哀しい笑顔を見せるだろう。不甲斐無い自分を呪って、可愛そうな我が子を哀れんで、か細いあの身体を折って、きっと夜には泣くのだろう。
だから。
キュランは、泣かない。
『ね~、キュウ…あっ!!』
じゃりじゃりじゃり、ざざっ!!
見なくてもわかる、じゃり道につまずいた音。程なくしてあがる、ミシェルのべそをかいた声。
『う、うわ~ん、いたいよぉ、きゅう~~』
『…もー! どうしてあんたって、いつもいつもここで…』
苛立ったように振り向いて、キュランは乱暴にミシェルを立たせた。ミシェルはべそべそと泣きながら、キュランに手をひかれて井戸に進む。
キュランは、なれた手つきで清水を汲んだ。
『もお、ほら、けがしたとこみせて…』
そう、いつものようにお姉さんの顔で、言った瞬間。
ぱしゃっ!
『きゃっ!』
突然、ミシェルの小さな手が、キュランの顔に水を弾いた。
驚いたキュランが、きょとんとしてミシェルを見やると、彼は女の子のように可愛らしい顔をくしゃくしゃにして、今の今までべそをかいていたのが嘘のように晴れ晴れと笑った。
『や~い、キュウひっかかった~』
『な……』
『ほら、キュウ、つめたい?』
そう言って、無邪気に自分に水をかける、少年の意図がわからない。キュランは呆気に取られたまま、怒っていいのか笑っていいのか判断に困った。
と。
『あれれ~? キュウ、ないてるの~?』
『えっ?!』
驚いて、キュランは思わず自分の頬に手をあてる。けれどそれは、ミシェルが弾いた井戸の水でしかなくて。
ミシェルは、びしょ濡れのキュランの顔を見上げて、にっこりと笑った。
『な~んだっ! ないてないね、おみずだね! ないてるのかとおもったけど、おみずだっただけだね』
『……』
言われて。
キュランは、まるでなにか、スイッチが切り替わったかのように、ぽろぽろと泣きだした。
『…そ、だもん…ッ、おみず…おみずだもんっ』
そう言って、ぽろぽろ、ぽろぽろ。びしょ濡れになった顔をくしゃくしゃにして、キュランは次から次へと涙を流した。
こんなに安心して泣ける場所を、キュランは他に知らなかった。目の前で笑う少年は、無邪気に井戸水を撒き散らして、自分だってびしょ濡れになっている。
涙に、気付いているのか、いないのか。
彼女の心を、察したのか、どうなのか。
なにもわからなかったけれど、その時から、キュランが泣けるのは、この幼い、頼りない、少女のように愛らしい、二才年下の幼馴染の前だけになってしまった。
それは大人になっても変わらなくて。もちろん二人が離れていた、十年という時間の中でも変わらなくて。
そう、だからキュランにとっての、ミシェルは……
「………ん……」
ふ、と、身体が浮遊するような感覚に、薄く目を開いた。
僅かに鈍痛する頭。吐き気に似たものが喉奥にはりついている。キュランは静かに、恐る恐る身を起こそうと、肘をつき……
「!?」
両手を、鎖のようなもので繋がれている、自分に気付いた。
「お目覚めかな?」
不意に、薄暗い部屋の隅で男の声があがる。するとそこには、テーブルに差し向かいに座る数人の男が、なにか酒のようなものを口にしながらにやにやとこちらを見ている光景があった。
その中の、今声をかけた男…平凡で、人の良さそうな、特徴の薄い見覚えのある男が、グラスで唇を潤わせてからにこりと笑う。
「少々、手荒な真似をしました。申し訳ありません、シスター」
「…あなた…確か、ダズリー…アスワン・ダズリー」
「さすが、記憶力がいい」
にやりと笑い、ダズリーが席を立つ。鎖で両手を縛り付けられ、柱のようなものにつながれたキュランは、嫌悪を含む視線で男を睨んだ。
「そう、怖い顔で睨むものじゃないよ、シスター。さすがの私たちだって、ニサン正教のシスターに、そう無体なことはしない…まだ、ね」
そう言って、凡庸な顔を一瞬にして下卑た笑いで染めたダズリーの背後で、テーブルについていた男たちの嘲笑が漏れる。
キュランは、そんな男たちの視線にさらされることすら汚らわしいとでも言いたげに、可能なかぎり身をよじった。
「…あんたたちも、グルなのね」
問わずもがなの問いかけに、しかしダズリーは奇妙に眉を上げる。
「グル? …ああ、あなたはなにか勘違いをしているのかな」
「え?」
「今さら取り繕う必要もないので、率直に言うとね。今回の不正は、我々が主犯格だよ。君はどうやら、他の人間に目星をつけていたようだね? 察するに…あの、冷血漢のレブルック次官殿かな」
「!」
顔色を変えたキュランに、ダズリーは愉快そうに笑った。
「やっぱり! はは、しかしシスターがそう思っても仕方がない。あの男は本当に口が悪い。そして、本気でウェルスを憎んでる…まったく、非情な男だな」
その言葉に、キュランはかっとなって怒鳴った。
「あんたにそんなこと言う資格ないわ! ウェルス種を利用して、私腹を肥やしていたのはどこのどいつよ!」
「…これは、少々口が悪いね、あなたも。だが、そう、確かに我々は、ウェルス種となったモノたちを、多少非合法に搾取し、その分美味しい思いをしましたがね…しかし、あのレブルックも言っていたじゃないですか。ウェルスなんぞには、生きる価値もない、あんなモノに回す金があるのなら、今生きている『人間』に与えるべきだ……いけ好かない男ですが、あの言葉だけには大いに喝采を与えたい」
そう言って、得意げに笑うダズリーに、キュランはありったけの憎悪をこめて叫ぶ。
「ウェルスはモノじゃないわ、人よ!! 私利私欲に肥え太った、ブタのようなあんたよりも、よっぽど人間だわ!!」
「!」
瞬間、ダズリーの太い腕が空を切り、キュランの頬を強かに殴った。キュランは咄嗟に身構えたが、鎖に囚われた不自由な体勢から、そのダメージをモロに受ける。
横向いた彼女を嘲笑うかのように、ダズリーが腕をさすりながら言った。
「ウェルスが『ヒト』…? 笑わせる。貴様はお気楽にも、ウェルスに身内を殺されら人間の痛みを、知らずに生きているらしい。よくそんな偽善的なことをほざくものだ」
我知らず、キュランは痛みに唇を噛んだ。しかし、こんな男の与える苦痛なぞに、一言だって呻き声をあげまいと、歯を食いしばって視線をあげる。
「…なんだ、その目は。気に入らない…気に入らないぞ、シスター」
ぎり、とキュランのブロンズ・グレイの髪を掴みあげ、ダズリーは彼女の顔面スレスレまで顔を近づけると、粘着質な囁きをもらす。
「貴様にはわからないんだろうなあ。ウェルスに、肉親を殺されたものの痛みが。知り合いを殺されたものの悲しみが。なあ? ここにいる奴らは、みんなそんな痛みを抱えているんだよ。みんなウェルスの被害者なんだよ。わかるか? みんな、ウェルスに大事なものを奪われたんだ。そんな俺たちが…ヤツらのことを、モノ扱いしてなにが悪い? ん?」
じりじりと、キュランの白い頬を舐めるように指を這わせるダズリーに、キュランはまっすぐに眼差しを向けて、答えた。
「…おあいにく。不幸自慢がしたいならよそをあたるのね」
「…あ?」
「あんたのお好みに合わせてあげるわ…。あたしの母も、ウェルスに殺されたの」
キュランがそう言うと、ダズリーは一瞬ぽかんと口を開き…それから、まなじりをあげた。
「それでよく!! それで、よく、ウェルスが『人間』だなんて…言えたな、シスター! ええ!? あんたは悔しくないのか、哀しくないのか、ウェルスが憎くないのか!!」
興奮してそう叫ぶダズリーに、キュランはこともなげに答えた。
「憎くないわ。だって、あたしの母を殺したウェルスは…あたしの父よ」
「な…?」
「母は、止めるあたしを振り捨てて、狂気と化した父の傍にいたの。彼女は、どんな姿になっても、例え自分を殺そうとする相手でも、それが父である限り、最後まで愛し続けた。ウェルスだって、元は人間よ。…誰かを愛し、誰かに愛されていた、人間なのよ」
まっすぐにダズリーを見すえ、キュランは一言一句を噛み締めるように呟く。
「あんたは…ウェルスに、家族を殺されたって言う。だから、ウェルスを憎むって言う。虫けらのように殺しても、当然のことだって言う。…だけど、結局は自分の欲のためじゃない。お金が欲しかっただけじゃない」
「ッ……!」
ダズリーの顔色が変わった。キュランは眦を上げたまま、両手を拘束された不利な状況をものともせず、毅然と前を向いていた。
「あんたこそ、綺麗事言ってんじゃないわよ! どれだけ自分の不幸を振りかざしたところで、あんたのやってることはただの犯罪よ! しかも、この世で一番品性下劣な、最低の犯罪だわ! あんたたちみたいな人間に、それこそ生きる価値なんてない!!」
そう、きっぱりと言い捨てたキュランに、ダズリーが憤怒の形相で再び手をあげる。
「黙れ、売女!!」
「ッ!」
再び打たれたキュランは、手加減なしの男の力で軽い脳震盪を起こしたように、くらくらと揺れる視界をこらした。力なく項垂れた彼女の肩を引き上げ、ダズリーは狂ったように笑う。
「そうだ、そうさ、だから何だ!! 俺は金が欲しかった! そしてウェルスが憎かった! だから奴らを利用した! それのなにが悪い? なにが悪いんだ?! ウェルスが憎い憎いとほざきながら、体制に従って間抜けにもウェルス援助の急先鋒の任についている、あのレブルックのような腰抜けと、俺は違うんだ!」
言いながら、叫びながら、ダズリーはキュランの衣服を引き裂いた。野獣のような男の勢いに、朦朧としていたキュランの意識が悲鳴をあげる。
「おい、ダズリー」
「女に、情報を吐かせないでいいのか」
強く止めるでもなく、背後の男たちの声がする。キュランの身体をまさぐるダズリーは、なかば以上に狂ったような声で答えた。
「情報…? ハッ、かまうもんか、こいつの持っていた書類はここにある。その前に、ニサンかアヴェに俺たちの名前を上げていたとしても、ヤツらがここを知るのはもっとずっとあとだ…俺たちが楽しんで、この女を始末し、優雅に亡命するくらいの時間はあるさ!」
そう言って、自分の首筋に顔を埋めるダズリーの…『男』の感触に、キュランは思わず声をあげた。
「嫌!! やめて…触らないで!!」
嫌悪が蘇る。あの時…『男』を振りかざして、力づくでキュランを押さえつけた、ミシェルが…
いや、違う。
こんな男と、ミシェルは違う。全然、違う!
あの時は怖かった。でも、その恐怖は今感じている、嫌悪感を伴ったものではなくて。
例えるなら、そう。自分が自分でなくなるような、今まで張り詰めていたものが、力強くさらわれて、すべて溶けてしまうような、そんな恐怖があって。
だから、あの時の気持ちは、嫌悪や憎悪では、決してなくて!
「…シェル…っ!」
震える歯列を割って、キュランはありったけの叫び声をあげた。
「ミシェルーーーーーーッッッ!!!!!」
今、心から会いたい人。他の誰でもない、今一番、助けて欲しい相手。
その名前を、夢中で叫んだ瞬間。
「キュランっ!!」
奇跡のようなタイミングで、その人は現れた。
「な!?」
突然扉を蹴破って乱入してきた兵士たちに、室内は騒然となった。テーブルについていた男たちは、悲鳴をあげる暇さえ与えられず、手馴れた様子で次々に取り押さえられる。
キュランの名を叫んで、一直線にこちらにやってきた少年は、振り返るダズリーの顔面を渾身の力で蹴り倒した。
「ぎゃっ!!」
無様な悲鳴をあげて転がるダズリーに、ミシェルは夢中で懐から小銃を取りだし、銃口を合わせる。激鉄をあげる前に、アレクシスの鋭い制止の声が飛んだ。
「殺すな、シナモン! 半殺しは許したが、息の根を止めるのはまだ早い」
「っ! …んの、クソやろう!!!」
叫ぶと、ミシェルは顔中を血まみれにするダズリーの仰向けになったみぞおちに、容赦なくかかとを振り下ろした。その衝撃に、ダズリーが吐瀉物を撒き散らす。
「キュウっ!!」
何度かダズリーを蹴り倒したあと、ようやくこちらを振り返ったミシェルは、キュランの散々な様子に再びまなじりをあげた。そのまま迷わず銃をつきだし、彼女の手首を拘禁していた鎖に向かって、二度、三度発砲する。
「シナモン!!」
「下衆は撃ってません!!」
アレクシスの抗議の声に、怒鳴るように答えて、ミシェルはぐったりと倒れこんだキュランを力強く抱き締めた。
「キュウ…ッ、キュラン、…キュランっ!!」
そう言って、自分をかき抱くミシェルの力に、キュランはやっぱり…と、内心思う。
やっぱり、この力は違う。これは、自分を包む力だ。
衝撃と混乱と、助けが来た安堵感とで、ほとんど茫然自失となったキュランの耳元で、ミシェルが絞り出すような声で囁いた。
「キュウ…っ、僕の傍を離れちゃ、だめじゃないか! 僕を、守ってくれるん…だろう? キュウ…、だったら僕から離れないでよ! お願いだから……っ」
「……ミー…シュ」
ゆっくりと囁いて、キュランはそっと、ミシェルの背中に腕を伸ばした。彼の琥珀の髪を指先にからめ、優しい手つきで撫でてやる。
「……ごめんね」
一体、なにに謝ったんだろう。たくさん謝らなくてはならないことがあったはずなのだが、その時の言葉は、そのどれにあてはまるものでもなくて。
けれど結局、その一言が、意識を手放す前の最後の言葉となったのだった。