FLORAISON-フロレゾン-

  人類にとって、地獄の苦しみを味わった大戦直後から、大教母という名のひとりの少女の慈愛を求め、世界各地から身体と心に傷を持った難民たちが、ニサンに集ってきた。
 その中には『ウェルス』と呼ばれる、その身を異形のモノに変じた者たちも多く…もっとも、完全にウェルス化してしまった者は、遠からず理性を無くし、獰猛な本能に従って次々と自滅していったが…一度ウェルスに変じて、運良く助かった者、または身体の一部にウェルス化に匹敵する異変を生じて、日常生活に支障を来たす者…混迷の世界では、生き難い弱き立場のものが、多くニサンに流れてきた。
 もちろん、ニサン国外でも、国をあげての難民救助は懸命だった。中でも台頭していたのは砂漠の大国アヴェであり、若き指導者の下、砂漠に埋もれていた難民の救助は、驚異的な速度で進められていた。
 しかし。それでも、人々の求めるものは、力強き『国力』でも、誇り高き『人の意思』でもなく、ただひとりの少女…無償の愛を体現した、大教母という名の癒し、そのものだった。
 それゆえに、世界各国のウェルスを抱える指導者たちは、こぞってニサンとの提携を望んだ。金銭的援助、人足的補助、それらすべてを補償する代わりに、自国に溢れる難民たちを、ニサンの慈愛で癒して欲しいと。
 世界崩壊寸前直後の、混沌とした世界が選んだのは、適材適所というにはいささか短慮に過ぎる、ひとりの少女の限りないカリスマへの、依存の道だった。
 だが、いつまでもそのままでいいはずがない。区切りすぎた国のあり方は、混乱の世には安心と自意識を生んだが、それが長引けば長引くほど、やがて人々の心に、本末転倒的な堕落や腐敗が生まれる。
 世界が復興を見始めて三年足らず。暫定的な制度を打開するには、僅かに気急いても感じられる、微妙な時期。
 始めは、ほんの些細な違和感だった。
 月に一度の割合で報告される、アヴェからの難民の数が、ここしばらく下降の一途をたどっていることに、気付いた。
 最初は単純にそれを、世界復興の兆しと見て、良い方に受け止めていた。ウェルスと呼ばれる異形に転じ、苦しみ喘いで孤独に暮らす者たちの数が、減少していく…それは、時の癒しに思えた。
 しかしある日、右半身にウェルス化の後遺症を負った、幼い少女と対面した際、心細げな彼女が、上手く回らない舌でこう、問うたのだ。
『……お母さんは、どこにいますか……?』
 聞けば、彼女とともにアヴェの救助隊に保護され、ニサン正教のウェルス種収容所へ送られたはずの母親の姿が、どこにも見当たらないと。
 本来、ウェルス化された者たちは、多くがあまり、人語を解さない。そのため、少女がはっきりとした問いをしてきたことに、まず驚いた。
 そして、その問いの意味を考えて、不意に胸騒ぎを感じたのだ。
 少女の言葉を信じれば、彼女は母親とともに、ウェルス化した身を隠すよう、アヴェの砂漠にあるオアシスに、潜んでいたという。
 そこへ、アヴェ国の難民救助隊が現れ、彼女たちを保護し、一度アヴェ国の施設に収容された後、ニサンへとつれてこられたそうなのだが…
『お母さん、どこにもいません…お母さん、どこですか?』
 たどたどしく、ゆっくりとそう問い掛ける少女の瞳には、ウェルス種特有の混乱も狂気も見えなかった。幻想や妄想を語っているわけではないと、その時はっきりと感じた。
 だから。
 キュラン・ヒューイットは、単独で行動し、ウェルス種保護を任ぜられた男を探り、そして、証拠を掴んだ。
 彼は、密かにアヴェ側の人間と手を組み、しばらく前からウェルス収容の二重帳簿をつけていたのだ。
 アヴェ側の人間が、国に報告するウェルス種の数で援助額を手にし、実際ニサンに送るウェルスの数を、それよりニ割程度減少させておく。ニサン側では、実人数を下回った報告書を作成し、不正に捻出された援助金は等分され、それぞれの懐に納められる。
 その、帳簿を目にした時。
 キュランは、目の前が真っ赤に燃えるような感覚を覚えた。
 隠蔽された報告書には、はっきりとこう書かれてあった。
 『削減された二割のウェルス種は、収容地により処分』
 ……処分。
 その言葉を目にした瞬間から、キュランは心の中に固い檻を作った。
 その中には、怒り、悲しみ、悔しさ、切なさ、ありとあらゆる感情を閉じ込めた。
 自分自身への、労わりや慰めさえも。
 そうやって、全ての情動を封印して、キュランはウェルス種を自らの私利私欲に利用した者達を、必ず暴きだし、断罪する事を固く誓った。
 例え、そのために、自分自身の身が危うくなろうとも。自分自身の悲しみや苦しみが、燃え上がるように膨らもうとも。
 そう、せざるを得なかった。
 今まで、彼女を生かしてきた全てのものが、彼女の内にある限り。
 そうして、彼女は今、ここにいる。
「……」
 静かに息を潜め、キュランは猫のように俊敏に、回廊を渡った。
 アヴェ国官房政務次官、アレクシス・レブルック邸には、何故だか仰々しい使用人や、召使の数が少なかった。
 それは、いわゆる不法侵入という罪を犯しているキュランには、大変ありがたい事だったが、聞けばファティマ王朝より続く由緒正しい家柄であるレブルック家にしては、面妖な事だとも思う。
 しかし、キュランは先日相対した若きレブルック当主の、冷酷で無遠慮な態度を思いだし、あれでは人もつかないだろうと納得した。
 だが…それと同時に、先刻彼の妹が話した事実に、キュランの中のなにかが、今までの先入観にわずかな波紋を投げかけていた。
『にいさまは、婚約者をウェルスに殺されたの』
 確かに、そんな事実はごまんとある。この世に生き残った人間の中で、ウェルスに対して憎悪や妄執を持たない人物を探す方が難しいだろう。
 だが。
 もしも、ただそれだけのことで、ウェルス種となった人間たちを、虫けらのように処分し、私腹を肥やしているのだとしたら……
「……」
 高ぶりを感じたおのれの心臓にそっと手をあて、キュランは素早く扉を開いた。
 そこは、回廊の突き当たりにある、アレクシス・レブルックの私室。
 こそ泥のような真似をして、キュランは後ろ手に扉を閉める。
 闇に埋もれた室内は、しかし整然としていた。持ち主の気性を表すように、それはどこか冷徹で、静かにキュランの暴挙をなじっているようにも見えた。
 キュランはふところから、小さな携帯ランプを手にした。カーテンの隙間から漏れる、明るい月光にも手伝ってもらい、彼女は室内の奥へと進む。
 部屋は、古くからある屋敷らしい、解りやすい造りをしていた。寝具の傍らには重厚なチェストがあり、その上にはなにか、フォトスタンドのようなものがある。
 ……もしかして、婚約者との、思い出の写真だろうか。
 ふと、そんな疑問が浮かんで、キュランは軽く頭を振った。今、そんな感傷に浸っている暇はない。あの男の私情にも、関わる必要はない。
 想いを切り替え、キュランは再び室内に目を配った。そこには、古い意匠の頑丈そうな執務机があり、整然と片付けられた机上をさっと眺めやって、キュランは足早に近づく。
 引出しには、いずれもカギがかかっていた。
 キュランは、再び懐から細い針金を手にした。この任務を命じられる前から、密かに特訓してきた技術だ。まるで、本当にこそ泥になった気分になり…そして、それが事実だということに我知らず微苦笑を浮かべ、キュランは鍵穴の奥を探った。
 一番大きな引出しには、アヴェ国の議会に関する資料があった。
 その隣、一番上の引出しにはこれといったものがなく、愛用らしいシガーケースが数個。
 下段には、古い資料が数冊。その中のひとつに、現存保護区画の草案があった。
 素早くそれらに目を通しながら、キュランはじりじりと迫る時間を気にするように、手早く鍵を開いていった。
 一番最後の、最も大きな引出しを開ける。
 中には、古ぼけた写真が一枚と、見覚えのある、文書があった。
「…あった……」
 なかば呆然と、キュランが呟いた。無意識に、肩が落ちる。解っていた事だったはずなのに、何故か酷く落胆している自分に気付いた。
 あの男が。
 口汚くウェルス種を罵っていた、あの男が。最愛の婚約者をウェルスに殺された、あの男が。
 ……全ての。
「……」
 ぐ、と唇を噛んで、キュランは細い携帯用ランプを引きしぼった。証拠となる書類は一枚。それは、ニサン側のサインと、アヴェ側の共犯者のサイン…『A』の頭文字のある、不正の事実。
 キュランは、素早くそれを懐におさめ、引出しに鍵をかけようとして、ふと動きをとめた。
 一番下の、最も重厚な、引出しの中に。
 自らが犯した不正の証拠とともに、丁寧におさめられたそれは。
 美しい赤毛の、芯の強そうな、若い女性の写真、だった。
「……」
 キュランは一瞬目をつぶり、そして静かに引出しを閉じた。細い針金で鍵をしめ、そのまま立ち上がった瞬間。
「……探しものは、見つかったか? シスター」
「!!」
 酷く落ち着いた、温度の測れない声音が、部屋の扉から上がった。
 キュランは硬直したような足で、無意識に後じさった。ちょうど背後から、カーテンの隙間からこぼれる月光が注がれる。戸口に立つ男は、それに僅かに照らされていた。
 心臓が、早鐘のように鳴る。キュランは、ともすれば震えだしそうな唇を、懸命に引き結んでいた。
「こんな時間に、わざわざ屋敷の私室までおいでとは…私はそれほど気に入られたのかな? シスター」
 くつくつと、わざと不愉快な言葉を吐きながら、アレクシス・レブルックは一歩室内に入る。そしてそのまま後ろ手で、内鍵をかける音が響いた。
 キュランは無意識に、身体を移動させていた。アレクシスはそんな彼女を舐めるように眺めやり、再び笑う。
「さて…。夜半に男の部屋に忍び込む、女としての不名誉と、アヴェ国官房政務次官の私室に忍び込む、ニサン正教関係者としての不名誉と、君はどちらがお好みだろうね?」
「……どっちもごめんだわ」
 あえて、強気に反応するキュランに、アレクシスは笑みを深めた。けれどそれはいつもの皮肉げな笑みではなく、何故か心底面白そうなものに見えて、キュランはキッと眦をあげる。
「…ずいぶん、余裕じゃない。あたしが、なにを探ってここにいるか、わからないでもないでしょうに」
 すると、アレクシスは笑みを消して静かに答えた。
「なんのことかな」
「とぼけるのが巧いのね。それとも、あたしごときでは証拠も得られないと、タカをくくってる?」
 じり、とアレクシスのつま先が動いた。それに呼応するように、キュランの足も背後に滑る。
 アレクシスは、しばしの沈黙のあと、低く呟いた。
「……よけいなことには首を突っ込むな。この先、平穏なシスターとして生きていたければな」
 脅しのようなそれに、しかしキュランは嘲笑を返した。
「この世に『平穏なシスター』なんて職業はないわ。あたしたちはいつだって、ニサン正教と、ニサンの大教母様に、全てを捧げてる」
「究極的な他力本願だな。君たちは、自分の意思というものがないのか? ニサンが死ねと言えば、迷わず死ねると?」
「その命令が、自分の意思に添ったものなら、死ぬのなんか怖くないわ」
 きっぱりと答えたキュランに、アレクシスはく、と笑った。そしてそのまま喉奥で、く、く、く、と声を立てる。
「死ぬのが怖くない…? それは立派な心がけだ。大したものだ。だが…なあ、シスター? それでは、君が死んだあと、この世界はどう変わると思う?」
「え?」
 思いがけない質問に、キュランは眉根を寄せた。軽く腕組みし、アレクシスは冷たい双眸で蔑むようにキュランを見据える。
「自分ひとり死んだところで、この世界は変わらない…いや、自分の犠牲で、もしも、ほんの少しでも、この世がいい方へ変わるなら、それでいい…こんなところか?」
「……なにが、言いたいの?」
 喉の奥が干からびるような感覚に、思わずキュランの声がかすれた。アレクシスはにやりと口元を曲げて、キュランの瞳を射ぬく。
「その自己犠牲精神。尊いね、実に尊い馬鹿な女だ」
「……」
「君が死んだあと、この世界は変わるだろうか。答えはノーだ。しかし、確実に変わるものがある。そう…たとえば、あの、愚直で幼い大統領補佐官の、人生」
「!?」
 その言葉に、キュランの双眸が揺れた。アレクシスは、キュランのその動揺につけいるように、ゆっくりと言葉を吐く。
「君が死んだ、大義で死んだ、誰かのために死んだ、自分から死んだ。その事実で、あの坊やがどれほど傷つくか…残されたあの坊やが、これから先、どれほどの苦しみにのたうちまわって生きていくか。君は想像できるかな?」
「……」
「想像できないだろう。君には想像できないはずだ。何故なら、君は残された側じゃない。残していく側なのだから。自分の信念とやらに固執して、好き勝手に死んでいく人間なのだから」
「……違う…わ」
 辛うじて、声帯が震え、声が出た。思わず自分の耳を覆いたくなるような、頼りなく情けない声だった。
「好き勝手に…自分から、死ぬわけじゃ、ない。あたしは…死にたいから死ぬんじゃない、生かしたいから! だから…っ」
「君の死の上でしか生きられないものになど、それこそ生きる価値がないと、思わないか?」
 冷ややかな一言。キュランは弾かれたように叫んだ。
「思わないわ! 人の命に優劣なんかないけど…それでも、あたしには、あたしよりも大事なものがあるのよ! それを守ろうとして、なにが悪いの!?」
「悪くはない。ただ、愚かなだけだ。救いようもない馬鹿なだけだ」
 吐き捨てて、アレクシスはつかつかと歩を進める。キュランは思わず身構えたが、彼はキュランの方へは目もくれず、自分の寝具の傍らにあるチェストの上へと手を伸ばした。
 そこにあったのは、古びたフォトスタンド。
「死にいく者はみんな馬鹿だ。誰かのために? 自分よりも大事なもののために? だから命を投げ出すと言うのか。残された者の痛み、苦しみ、そんなものは関係ないとでも言いたげに。傲慢で、卑怯で、罪深い……それこそ思い上がりだ」
「……それは実体験?」
「……」
 キュランの問いに、フォトスタンドを持つアレクシスの手が震えた。じろり、と彼女を見やる紫紺の双眸は、感情を映さない硝子のようだった。
「…妹さんから聞いたわ。あなた、婚約者をウェルスに殺されたんですってね。だから、ウェルス種となった人を、憎んでるって…」
「……」
「あなたの気持ち、半分だけ解るわ」
「…は」
 キュランの言葉に、アレクシスは心底馬鹿馬鹿しそうに鼻で笑った。それからまた、フォトスタンドをチェストに戻して、低く呟く。
「そう、みんな解るんだよ。この世に今生きている者たちは、みんな解るんだ。誰もが味わった事なんだ。だれかを、だれかに殺される。不条理に奪われる。みんな経験者なんだ。だから…俺の気持ちも、みんな、わかると言いたいんだろう?」
「いいえ。みんななんてわからないわ。半分だけわかると言ったのよ」
 言い捨てて、キュランは一歩、後ろに下がる。
「ウェルスに大事な人を殺されて、失った痛みを抱える気持ちと、多分……あなた、婚約者に庇われたのでしょう? 自分の分まで生きて欲しいと、その身を盾にして生かされたのでしょう?」
「!?」
「……そうやって、大切な人が自分を庇って、死んでいった時の怒り、悲しみ、喪失感……それは、解る」
「……それは実体験?」
 わざと、笑みを浮かべつつ。アレクシスは紫紺の瞳をキュランに向けた。キュランは頷くかわりに、また一歩下がる。
「でも、残念ながらそれで、ウェルスを憎む気持ちはわからないわ。だって、あたしとあなたは同じような体験をしてても、結局は違う人間なんだから。だから、あなたの考えている事なんて、実際全然わからないわよ」
「ウェルスを憎む気持ちが解らない? …本当に?」
 探るような、試すような、嫌な言い方だった。キュランは今度こそ頷いて、そして。
「ええ、解らないわ。自分が辛いからって、哀しいからって、それを全て他にぶつけて、また辛く悲しい人たちを増やそうとする、あんたみたいな最低男の気持ちなんてね!」
 言い捨てた瞬間、キュランはふっと腰を落として、カーテンごしに窓を叩き割った。
 がしゃーん、という派手な音が響き、彼女の肘で強打された窓は粉砕される。アレクシスが反応する前に、キュランは猫のように俊敏に、窓枠を蹴っていた。
 二階の窓である。下は、闇に埋もれた裏庭。キュランは音もなく芝生の上におりたち、おそらく自分を見下ろしているであろう男の視線をふりきるように、一目散に駆け出した。



 夜の、闇を、ひた走る。
 向かった先は、無意識だった。
 小さくて、暖かくて、懐かしい家。
 その家へ向かう道をひた走っていたことに気付き、キュランは瞬間足をとめた。
「…はっ……」
 情けなくて、笑うしかない。
 誰にも頼らず、自分一人で。そんなことを思っていたはずなのに、気がつけばこの足は、自分を守ってくれるだろう人たちのもとへ。
 自分を癒してくれる人のもとへ。
 ぐ、と拳を握って、キュランはきびすを返した。とにかく、逃げなくては。
 キュランが証拠を握った事実は、おそらくすぐにアレクシスの知るところとなるだろう。そうしたら、彼はすぐに手を打つに違いない。一番手っ取り早いのは、証拠をもつキュランを消す事……
 キュランはあらためて走り出した。こんなこともあろうかと、事前に宿を手配している。しばらくはそこに身を潜めて、大教母一行が帰ってきたら…
「…この、証拠さえあれば」
 おそらく、ニサン正教が犯した不正は、アヴェ国との関連性も考慮され、大教母への弾劾までは繋がらないだろう。悪ければ、ニサンとアヴェの国交にわだかまりが生じるかもしれないが、大統領と大教母にあの絆があれば、二つの国は必ず上手くいく。
 この、証拠さえあれば。
 キュランは走りながら、懐の書類の存在を確かめた。月光だけに頼った暗い辻を抜け、角を曲がろうとした、瞬間。
「!!」
 何者かの腕に阻められて、キュランは思わず声をあげるところだった。だがすぐに、低いたしなめの声があがる。
「しっ! …キュウ、落ち着いて、僕だよ!」
「ミ……シュ…?」
 聞き慣れたその声に、柔らかな体温に、力強い腕に。
 キュランは、堪えていたものが流れ出すような感覚を覚え、唇を噛んだ。
 ミシェルは素早く、裏路地にキュランを引っ張っていく。月光さえ届かないような薄暗いそこで、彼は改めてキュランの肩を掴んだ。
「大丈夫? どこにも怪我は…ないね?」
「あ……な、ないわ」
 毅然とした彼の瞳に、キュランは混乱しかかっていた自我を取り戻した。
 そう、こんなところで挫けるわけにはいかない。
 こんなところで、彼に。
「それで……証拠は?」
 ミシェルの言葉に、キュランは深く頷いた。ミシェルは僅かに瞠目し、沈黙する。
「……やっぱり、アレクシス次官が……」
 落胆したような彼の声音に、キュランは眉根を寄せた。
「…じゃあ、急いで官邸に戻ろう、キュラン」
 そう言って促すミシェルを振り払い、キュランは首を振った。
「だめよ! 今官邸に帰ったら、それこそ敵の思うつぼじゃない。この証拠は、アヴェ国の不利になるものなのよ」
「だからって、いつまでも逃げているわけにもいかないだろう。それに、それほどはっきりした証拠があるのなら、今さらアレクシス次官に言い逃れは出来ないよ」
「そんなの、解らないわよ! アヴェの高官が、みんなグルだったらどうするの? 証拠を見せた途端、奪われて、殺されるかもしれないじゃない!」
「アヴェは、そこまで腐敗してない!」
 思わず、といった風に声を荒げたミシェルに、キュランはふ、と苦笑を浮かべた。
「…やっぱり、あんたはアヴェの人間よ、ミシェル」
「違う! そうじゃない、アヴェとか、ニサンとか、関係ないよ! キュラン、もっと僕を信じて!」
 そう言って肩を掴むミシェルを振り払うようにして、キュランが言い捨てる。
「信じられない! だって、あたしがもし、独断でだれかを信じて…それに裏切られたら、すべておしまいなのよ! あたしの肩には、ニサンが…」
「だから! …だから、君ばかりにそんな重いもの、持たせたくないんだよ! どうして、僕にそれをわけない!? そんなに僕は頼りにならない!? 君にとって、僕は、甘える価値もない人間なのか!?」
 強い口調で。まるで泣き叫ぶように、ミシェルが言った。
 キュランは瞬間、呆然としたように目を見開く。『ミシェルにだけは、甘えられない』…マギーに語った、その言葉を。彼は聞いていたのだろう。
 ミシェルは、燃えるような強い瞳をキュランに向けていた。至近距離の彼から、強いなにかが流れ込んでくる。
 この思いに、覚えがあった。ずっと、小さい頃から。
 彼に、だけは。
「……ッ、そうよ! あたしは、あんたにだけは甘えない! だってそうでしょう? あたしはあんたよりも、強いんだから!」
 そう、吐き捨てて。
 それがどんなに残酷な言葉か、その時は、気づけなかった。その余裕さえなくて。
「……」
 目前で、息を呑む音が聞こえた。一瞬だけ、月の光が裏路地に注がれる。骨色の光に照らされたミシェルは……
 一切の感情を、失ったような顔をしていた。
「……強い?」
 低く、ミシェルが呟く。キュランの肩を押さえる手に力がこもり、それは痛みを伴った。
「いた…ッ、ミシェル、離し…っ」
 苦悶に歪むキュランの表情を、観察でもするような無機質な瞳で見つめて。ミシェルは酷く冷静な声で言った。
「キュランは、強いんだろう? だったら…その力で、切り抜けてごらんよ」
「!?」
 低い囁きに、キュランが愕然とした表情を見せる。そんな彼女の肩を乱暴に押さえつけ、背後の壁に縫い付けた。
「ちょっ…ミシェル!!」
「解らない? キュラン。君は自分で思っているほど、強くないんだよ」
 冷静な。温もりの通わない、まるでミシェルのものとは思えない、声。
「お…怒るわよ! 怪我をしても知らないからね!!」
「いいよ」
 あっさり答えて、ミシェルはさっとキュランの両手を掴みあげる。ねじるようなそれに、虚をつかれたキュランは声をあげた。
「痛ッ…!」
 彼女の細い両手首を、軽々とひとつ手でまとめて、ミシェルはあいた手を再び肩に這わせる。
「ほら…。非力でドン臭い僕でも、男の力だからね。動けないだろう?」
「…本気で、怒るわよ……ッ!」
「君の武器は、技とスピード。でも、力の勝った人間に、こんなに至近距離から押さえつけられたら、どうやって逃げる?」
 言いながら、ミシェルの顔が近づいてくる。幼い頃から変わらない、キュランをいつも優しく見守っていた、その薄水色の瞳が。
 とても。
 怖い。
「君はいつも言ってたね。『泣き虫ミーシュ。あんたは引っ込んでなさい。あたしの方が強いんだから』……いつまで僕は、君の『泣き虫ミーシュ』でいればいいの!?」
「!! ……」
 言われた言葉に、はっとして。
 キュランは、深緑の瞳を一杯に開いた。
 目の前で、苦しげに表情を歪める少年の。
 身を切るような、それは想いのたけだった。
「僕には、君の知らない十年がある。十年で、なにも変わらないとでも思った?」
「ミ……ッ」
 不意に、瞳を細めて。
 ミシェルは、ゆっくりと、キュランの唇に、自分のそれを近づけようと身を屈め…
「……いや……」
 擦れるような呟きに、はっと、瞠目した。
 自分の片手で、簡単に自由を奪われて、なすすべなく壁に縫い付けられた幼なじみは。
 意志の強い、毅然とした深緑の瞳を一杯に開いて、まっすぐに自分を見つめて、こう言った。
「こんなのは、嫌よ」
「……ッ」
 はっきりとした拒絶に、一瞬、ミシェルの身体から力が抜ける。
 その隙を、キュランが見逃すはずがなかった。
「ッ!!」
 唐突に、彼女の膝が空をきる。油断していたミシェルのみぞおちに、それは綺麗にヒットした。
 衝撃と激痛に、身を折ったミシェルの腕からするりと抜け出すと、キュランは軽やかに走り出す。
「キュ…ッキュウ!!」
 ふりしぼるようなミシェルの叫びに、キュランはふり返らなかった。



 走って、走って、闇雲に走って。
 息の上がるころには、自分がどこにいるのか、わからなくなっていた。
 東の方に、大統領官邸の城壁が見える。手配した宿は、おそらくここからそう遠くないはずだ。
 夜半近いこの時刻、ブレイダブリクの街は、安息に静まり返っていた。
「……っ……、」
 息を整え、キュランは手足の震えを必死に押さえようとする。
 捕まれていた肩が、手が。
 どうしようもないくらい、震えていた。
 ついさっき、自分を射抜いていたミシェルの瞳。
 あれは、キュランのよく知る『泣き虫ミーシュ』のものでは、決してない。
 そう、あれは……おそらく『十八歳のミシェル・シナモン』の瞳。
 キュランの知らない、瞳だった。
「……やだ……」
 ごし、と、自分の肩をこする。強い力の感触が消えない。背筋がぞっとする。
 初めて、自分が『力のない女』なのだと、自覚した。
 そして、ミシェルが『力のある男』なのだと。
「……ッ」
 乱暴に、壁に押さえつけられた瞬間、キュランは心底恐怖を感じた。
 ミシェルが、自分に酷い事をするはずがない。心のどこかで、そう、信じていたけれど。
 でも、あの時のミシェルの目は。
 ぶるぶる、と、頭を振って、キュランは息を整えるように胸に手をあてた。徐々に震えは収まっている。
 ミシェルに、酷い事を言ってしまった自覚はある。
 自分の本当の気持ちをごまかすために、わざと酷い言葉を選んで、ためらいなく吐き出した。
 ミシェルなら、傷つかない。怒らない。許してくれる。
 そう、思っていた。
 それこそが、キュランの、彼に対する甘えだったと、今ならわかる。
 だけど……
「……ミーシュ……」
 呟いて、泣きそうになる気分に気付く。
 慌てて目元をこすり、背筋を伸ばした。こんな時に、こんな場所で、『ミシェル』に囚われてはいけない。
 『ミシェル』にだけは、甘えてはいけないのだ。
「……行かなくちゃ」
 無理やり気持ちを切り替えて、キュランは辻を曲がった。僅かに見覚えのある道に出て、あたりをはばかるように小走りになる。
 この道をまっすぐに行けば、手配していた宿だ。大統領官邸から少し距離がある、目立たない界隈の宿だから、見つかる心配は…
「あれ…? シスター?」
「!!」
 呼ばれて、キュランの背筋が凍った。彼女を呼び止めたのは、通りの向こうの、おそらくまだ賑わっている界隈からやってきた、ひとりの男。
「どうしたんですか? …こんなところで、こんな時間に」
 気安い口調で呼びかける、その顔には見覚えがあった。正直、しまった、と思う。
 こんな場面を見られては、この先の宿には駆け込めない……なぜなら彼は、官邸関係者だ。
「え…ええ、ちょっと、知り合いのところに…」
 慎重に言葉を選びながら、キュランは何気ない様子でこちらにやってくる男を警戒した。
「もう遅いですよ。官邸にお帰りなら、お送りしましょう」
 紳士的にそう言う男を、キュランは注意深く観察した。少なくとも、まだ、アレクシスが手を打つ心配はない。可能性は薄いが、万が一この男もアレクシス一派だったとしても、キュランが証拠を掴んだという情報は、流れていないはずだ。
「いえ、大丈夫ですわ。ここからすぐですから…」
 そう言って、さりげなく男から離れようとしたキュランに、何気ない口調で男が言った。
「遠慮しないでください、シスター・キュラン・ヒューイットさん…ニサンの、ウェルス管轄の、シスター」
「!?」
 突然口の端にのぼった、不自然な役職名に、キュランがはっとした瞬間。
 彼女の背後から、何者かが薄い布ごしに、彼女の口と鼻を覆った。
「ッ! …っ……」
 思わずもがいたキュランだったが、完全に油断していたために、やがて身じろぎすらできなくなった。
 意識を失った彼女を抱えるように、第二の男が辻に立っていた男に囁く。
「やっぱり、ここで張っていて正解だったな……」
「手配した宿に来るということは、何か掴んだということだろう…仕方がない、ここで殺すか」
「いや、まだどこまで掴んで、なにを伝えたかがはっきりしない。一度『収容地』に連れていって吐かせよう」
「…わかった」
 そう言って頷いた男の顔に、骨色の月光がかかる。
 人好きのする、気の弱そうな、凡庸を絵に描いたような顔が、そこにはあった。
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