FLORAISON-フロレゾン-

 女三人寄れば、かしましいとはよく言ったものだけれど。
「え~っ!! じゃあ、その時ミシェル兄ちゃん、ひとりだけ登れなかったのォ?」
「そうよ。だからしょうがなく、あたしが手を引っ張ってね」
「やっだぁ~! カッコ悪~い!」
 きゃははは、と明るい笑い声が、リビングの方で響いている。とっくの昔に居心地が悪くなって、台所の方へ避難していたミシェルは、それでもびんびん伝わってくる声に、はあ~っと重い嘆息をついた。
「大変だな、お前も」
 完全に他人事のように言って、ミシェルの母方の従兄弟であるラスが呟いた。
「昼飯食ってから、ずーっとあのテンションだもんなあ…」
「もうすっかり、ジャスティもディアも、キュラン姉ちゃんに懐いてるぜ」
 ココアを飲みながら、先ほど夕飯前に帰って来て、みっちりしぼられたシナモン家の次男、ステファンがしたり顔で言う。ミシェルはそんな二人の眼前で、ずず、とコーヒーをすすった。
「しっかし、よく飽きねえよなあ。さっきから、ずーっとミシェル兄ちゃんの、ガキの頃の失敗談ばっかじゃん」
「というか、何時間もぶっ続けでそれが話題になるほど、失敗してるミシェルもミシェルだよな」
「あのねーラス。あれは、キュウの誇張も入ってんの! ったく、キュウもキュウだよ、すっかり面白がっちゃって…」
「面白がってんのは、キュランだけじゃねえみたいだぞ」
 赤毛のラスが呟いて、くい、とあごでリビングをさす。
「いやでもねえ、毎日三回は、泣きべそかいてキュランに慰めてもらってたよねえ、あのボンクラ息子は」
「ふふふっ、そうそう、なんかあると、すーぐこっちに飛んでくるのよー」
「マチカじゃ、ステフが生まれててんてこまいのあたしにかわって、キュランがミシェルの母親になったんだ、って、ずいぶんからかわれたよねえ」
「あはは、そうなのォ~?」
「でも、ミシェル兄ちゃん泣きすぎよねー。何でスナハミの赤ちゃんに指かまれたくらいで泣くのよー」
「だから、泣き虫ミーシュって言われてたのよ」
「きゃははは~」
 がくう、と、ミシェルの肩が大仰に下がった。机に突っ伏して、何か念仏のような恨み言を呟いているミシェルの、琥珀色の髪をつんつんとつついて、ラスが言う。
「お前さん、一生尻にしかれるな」
「…一生、って……」
「ミシェル兄ちゃんには、あれくらいのアネさん女房がお似合いだけどな」
「ステフ!!」
 がた、と勢いよく椅子を蹴倒したミシェルに、ステフが身軽に逃げ出す。ミシェルは紅潮した顔を怒らせたまま、唇を尖らせて座り直した。
 女性陣のお喋りは、昼過ぎからノンストップで続いている。初対面なのに、すっかり意気投合してしまった妹のジャスティナとディアナは、まるで本当の姉のように、キュランによく懐いて、おもにミシェルの小さかった頃の話をせがんでいた。
 長兄の威厳は、もはやこの時点で砂塵と化している。
「…しかし、綺麗な子だよな」
 しんみりと呟いて、ミシェルよりもひとつ年上の従兄弟はコーヒーを傾けた。昼間、アヴェの炎天下で働く日に焼けた肌が精悍な、ある意味ミシェルとは対照的な雰囲気の青年に、ミシェルはじろりと視線を向ける。
「…確かに美人だけど、悪漢に飛び蹴りを食らわせるシスターだよ」
「う~ん、そのアンバランスさもなかなか」
「…ラス、変な気を起こすなよ。肋骨のニ、三本、覚悟の上なら止めないけど」
「まさか、そこまで過激じゃないでしょう」
「…キミは、キュウの恐ろしさを知らないね」
 馬鹿にしんみり呟いて、ミシェルはずぞぞ、とコーヒーをすする。ラスはそんな従兄弟を、にやにやとからかうように見やった。
「…じゃ、ミシェルはその『オソロシサ』を克服して、彼女をゲットしたわけだ」
「っぶー!!」
 途端、霧状のコーヒーがテーブルに舞い散る。しかしラスは慣れたるもので、さっさと身をひるがえしていたので、被害状況は濡れたテーブルと、器官に液体を入り込ませ、地獄のような苦しみを味わうミシェルだけだった。
「げほげほげほッ!!」
「冗談だよ、相変わらず単純だなあ」
「げほッ…ら、らぁすぅぅっっ!!」
 涙目になってラスを睨むミシェルに、ラスがまあまあ、と手をかざす。何の侘びにもなっていないそれに、改めてミシェルがなにごとか怒鳴ろうとした瞬間、
「なにやってんのよ、ミーシュ」
 いつのまにか廊下を越え、台所にひょっこりと顔を出していたキュランが、呆れたように呟いた。
「えっ? うわ、キュウ!」
「なによ、うわ、って。あ、まさか何か、あたしの悪口でも言ってたとか?」
「いえいえ、そうじゃないんですヨ、キュランさん」
「ラスっっ!!」
 面白がっているラスの口を、ミシェルは乱暴に塞いだ。キュランは納得いかなげに細い眉を寄せていたけれど、すぐに気を取り直したように、柱時計を指さす。
「ねえ、そろそろ帰らないと…」
「え、ああ、そうだね」
 言われて、時計に目をやったミシェルは頷いた。昼食のあと歓談を始め、興に乗ったそれが続く中早めの夕食もふるまわれて、気がつけばもう、とっぷりと日が暮れている。
「泊まっていけばいいのにー」
 キュランの両脇から、そっくりの面差しの、双子の妹が顔を出す。琥珀の色の髪がジャスティナ、薄茶の髪がディアナ。二人は、髪の色がちがうことを除けば、どちらとも区別がつかないほど、よく似た双生児だった。
「ねえ、キュラン姉さん、今日泊まっていってよ。あたしたちの部屋にお布団ひいてさ」
「そうしようよ、ね? 明日は、あたしたちがブレイダブリクを案内してあげるから」
 そう言って、キュランの両腕に絡みつく双子に、キュランは困ったような苦笑を向ける。
「んー、ごめんね、今日は帰らなきゃ。官邸に宿泊届出しちゃってるし、無断外泊はやっぱり…」
「じゃあ、お兄ちゃんだけ帰って、キュラン姉さんがこっちに泊まるってこと、伝えればいいじゃなーい」
「ねー」
「…お前たち…」
 あまりにも薄情な妹の言葉に、ミシェルはがっくりと肩を落とした。昔は、それこそひよこのように、自分のあとをついて回った双子だというのに……
「ごめんね、また来るから。今日は帰るわ」
「えー」
「ほらほら、ディアもジャスティも、あんまりキュランを困らせるんじゃないよ。まだ早いけど、帰った方がいいって言うんならそうしな」
 鶴の一声で、マギーが言うと、双子はしぶしぶながらも従った。キュランはマギーに笑顔を向けて、そっと手を取る。
「今日はありがとうございました、マギーおばさん」
「こっちこそだよ。またおいでね。いつでも待ってるよ」
「はい」
 嬉しそうに笑うキュランに、双子が声をあげる。
「私もー、私も待ってるね、キュラン姉さん」
「私も待ってるー。だから絶対来てね、それで、今度はラシュアン編み教えてくれる約束だからねっ」
「うん、わかった。絶対遊びに来るからね」
「はーいっ」
 可愛らしい合唱に、キュランが優しく微笑んだ。そんな表情の彼女を見るのは稀で、ミシェルは我知らず呆然と見つめている。
 そんなミシェルの傍らから、悪戯小僧が声をあげた。
「キュランねーちゃん、今度来る時は、別にミシェル兄ちゃんと一緒じゃなくってもいいぜー」
「そうそう、自分の家だと思って、好きなときに遊びに来てよ」
「こら! ステフ、ラスっ!!」
 ミシェルが怒鳴ると、二人の少年はくっくっく、と意地悪そうに笑いあった。ミシェルははあ、と嘆息をついて、不機嫌そうに歩き出す。
「じゃあ、行こうか、キュラン」
「うん。本当に、ごちそうさまでした」
 改めて全員を見やり、キュランが深々と頭を下げる。名残惜しそうな家人に見送られながら、ミシェルとキュランは、小さな暖かい家をあとにした。
 辻を曲がるまで、懸命に手を振り続けた双子に応えながら、キュランは楽しそうに笑う。それから、角を曲がり、家も見えなくなり、満天の星が見下ろす閑静な住宅地の一角までくると、初めて、ふう、とため息をついた。
「疲れた?」
 キュランの傍らを歩きながら、ミシェルがそっと問い掛ける。西の空が薄ぼんやりと明るい、夕方とも夜とも言えないような微妙な時間帯だけど、日の落ちたアヴェの空気はやはり肌に突き刺さって、ミシェルは自然と身を縮こませるように歩いていた。
「ううん。…っていうか、うん…まあね」
 曖昧なことを呟いて、キュランは大きく伸びをする。ゆっくりと歩く彼らの歩調は、まるで名残を惜しむかのようだった。
「ごめんね。うちの家族、なんかテンション高かったろ」
「ふふっ、そうだね。でも、おばさんとかはちっとも変わってないし、すぐに引っ込んじゃったけど、大叔母様も、覚えがあったから懐かしかった。そう言えばラスともあたし、会ったことがあるわ」
「うん。年に何回か、うちに遊びに来てたからね、ラスは」
 そう言いながら、ミシェルは無意識に、官邸への直線コースは避けて、市街の中央にある巨大な公園に足を向けていた。キュランは地理が解らないのか、それともまっすぐ帰る気にはならないのか、なにも言わずにミシェルの傍らを歩いている。
「ねえ、キュウ…」
「ん?」
 公園に入り、あまりひとけのない散歩道をてくてくと歩く道すがら、ミシェルがぽつんと問い掛ける。キュランはまっすぐ前を向いたまま、何の気なしに応えた。
「…どうして、急に僕の家族に会うなんて、言ったの?」
「……」
 静かなミシェルの問いかけに、キュランは黙って唇を閉ざした。僅かな沈黙の間に、西の空はすっかり夜空に塗りこめられ、完全な闇が訪れる。
 満天の星々の下、キュランがそっと骨色の月を見上げた。
「…会いたく、なったのかな。『思い出』に」
「え?」
「あたしの両親、死んじゃってるじゃない。だから」
「……」
 ふと、足を止めて。ミシェルはキュランを見つめた。キュランもつられるように歩を止め、ミシェルを見上げる。
 月の光は、十分に眩しかった。公園の至る所に点在する、外灯の明かりも手伝って、お互いが、お互いの表情を難なく読み取れる。
「…僕じゃ、だめかな」
「え?」
 口をついて出た言葉に、キュランよりもミシェル自身の方が驚いたようだった。ミシェルはきょとんとしているキュランにはっと瞠目し、すぐに小さく首を振る。
「いや、…だから。もしも、キュウが、今日みたいに、寂しくなったり、思い出に会いたくなった時…僕が、キュウのそばにいることは、全然、力にならないかな…って」
「…ミーシュ…」
 僅かに、キュランの声音が震えた。ミシェルは勇気を振り絞って、視線の下にある深緑の双眸を見つめる。長い睫毛に覆われた、穏やかな湖面のようなそれは、呆気に取られているように、ミシェルを見やっていた。
「…いや、だから…つまり……」
 その、状況と沈黙に耐えられなくて、ミシェルは思わず視線をそらす。懸命に言葉を探そうと、しどろもどろになった時、キュランが小さく、微笑んだ。
「ううん。…十分ありがたいよ、ミーシュ」
「え?」
「なんてったって、幼なじみだもん。なんだかんだ言って、あたしだってミーシュがいてくれて、すごく嬉しいよ」
 そう言って笑う、綺麗なキュランの表情に、ミシェルは胸が締め付けられるような情動に襲われた。
 思わず、伸ばしかけた腕を押さえるようにして。
 そのかわり、ミシェルは少しだけ、険しい声を出した。
「…じゃあ、教えて、キュラン。君はどうして、アヴェに来たの?」
「!」
 唐突な質問に、思わずキュランは息を呑んだ。そんな彼女の様子に、ミシェルは低い呟きをもらす。
「…やっぱり、仕事で、なんだね」
「…ど、どうして…」
「どうして知ってるの、って? ……キュウ、それを話せば、キュウは僕を信用して、全てを打ち明けてくれる?」
「……」
 ミシェルの静かな問いかけに、キュランは唇を閉ざした。じっと、ミシェルの喉のあたりを注視して、頑なに沈黙するキュランに、ミシェルは嘆息をつく。
「…大統領だよ」
 やがて、沈黙を裂いたのは、ミシェルの低い、静かな声。
「昨夜、夕飯のあとに呼ばれて…こう、言われたんだ。『キュランは、多分なにか、正教とアヴェとの国交に関わる任務で、アヴェに来ているはずだ。彼女から、目を離すな』…ってね」
「……その、任務の内容は?」
 キュランが、擦れたような囁きを落とす。ミシェルは首を振った。
「そこまでは…」
「…そう。でも、それをあたしに話して、どうするの? ミーシュ」
 初めて、キュランの瞳が上向いた。まっすぐにミシェルの薄水色の瞳を見据えるキュランに、ミシェルはいつもの頼りない風情の欠片も見せず、穏やかに返す。
「君を助けるよ」
「……ミシェルが? あたしを?」
 ふ、とキュランが苦笑する。ミシェルは僅かに、眉を寄せた。
「なにか、おかしい?」
「…違う。でも、あんたわかってないわ」
「なにが?」
「全部よ。あたしが、何のためにアヴェに来て…なにを探って、なにを狙って、なにをしようとしてるのか。わかってないから、そんなこと言えるのよ。無責任だわ…」
 ぽつりぽつりと呟かれる、重苦しいキュランの言葉に、ミシェルは眉根のしわを濃くする。
「だから、それを話して欲しいって言ってるんだよ。そうしたら、僕だってなにか力に…」
「無理よ」
「キュウ!」
 頑なな彼女の言葉に、ミシェルは思わず叫んでいた。キュランは、ミシェルをそっと見上げて、静かな眼差しのまま唇を開く。
「これは、あたしだけの問題じゃないの。下手をしたら、アヴェとニサンの国交にも関わる…ううん、大統領と、大教母さまの将来にも関わる事なの。あたしは、死んだって失敗なんか出来ないの」
「だから! そんなに大切な任務だったら、なおさら君を助けたいよ、キュウ!」
「わからないヤツね! あんたはアヴェの人間、あたしはニサンの人間! それだけで、もう、解り合えない事なのよ!」
 思わず、といった風に叫んで、キュランははっと唇を閉ざした。ミシェルはなかば呆然としながら、言われた言葉を噛み締めるように、喉を鳴らす。
「……ウェルス問題?」
「! ……」
 ミシェルの問いかけに、キュランが息を呑む。肌を刺す夜の風が、さあっと二人の間を滑った。キュランのブロンズ・グレイの髪が、彼女の白い肌を這う。
 やがて、キュランが重々しく唇を開いた。
「…そう、よ。アヴェとニサンの摩擦問題と言ったら、それだけでしょ」
「なにか…不正があったんだね?」
「…あんた、大統領からどこまで聞いてるのよ!」
 かっとなったように叫ぶキュランに、ミシェルは静かに首を振った。
「なにも聞いていないよ。キュラン、アヴェはなにも知らない…少なくとも、知らない、という姿勢をとっている。まだ、ことが公になる心配はない」
「心配!? そんなの、してるわけないわ! 公になんか、させるもんですか! あたしは絶対に、絶対に、死んでもニサンを…大教母様を守るわ!!」
 そう言いきったあと、はあ、と肩で息をして、キュランは興奮気味だった語調を取り繕うように、ぐっと自分の額に手をあてた。対照的に、ミシェルは静かな面持ちのまま、キュランを見つめる。
「…キュウ。君が、僕を信じられないのは、僕がアヴェの人間だから?」
 穏やかな問いかけに、キュランが眼差しをあげた。じっとこちらを見つめる薄水色の瞳から、目をそらそうとして…できない自分に気付いた。
 懐かしい感覚だった。恐ろしい感覚だった。このままでは、いけないと、頭のどこかで警鐘が鳴っていた。
 今、地面についている自分の足が、本当に自分のものか、わからなくなるような気分だった。
「キュウ、もしもそうだとしたら…誓うよ、僕は、アヴェよりも君を信じる」
「…!」
 きっぱりと断言した言葉に、キュランの深緑の瞳が見開かれる。ミシェルはまっすぐにキュランを見つめたまま、頷いた。
「君から、例えなにを聞いたとしても、誰にも口外しない。もちろん、大統領にだって」
「ミシェル! 軽々しいことは言わない方がいいわよ。下手をしたらそれは、国家への反逆罪にもなるわ!」
「うん。なったとしても」
 なんでもないことのように答えるミシェルから、キュランは弾かれたように視線をそらした。
 ああ。
 なにも変わっていない。
 彼は。
 なにも変わっては、いなかった。
 だから……
「…ッ、裏切ったら、殺してやるわ」
「いいよ」
「嘘をついたら、すぐに解るのよ」
「うん」
「………あたしの言葉を、全て信じられる?」
「生まれた時から、信じてるよ、キュウ」
 頷くミシェルに、キュランは瞬間、泣きつきたくて仕方がなくなった。
 けれど、その細い腕はミシェルには伸びなかった。その大きな瞳は、涙を見せなかった。
 代わりに彼女は、ふ、と短く息をついて、強い瞳をミシェルに返していた。
「…アヴェからの、ニサンへのウェルス援助金…それが、アヴェとニサンの両国の人間によって、不正に着服されている証拠があがったの」
 静かな。あたりをはばかるような、キュランの囁き。
「だけどれそれは、一方的にニサン側の不正者だけが検挙されるもので…アヴェ側の、共犯者の名前は、あがらなかったわ」
「それじゃあ、罪状は一方的にニサン側に?」
「ええ。今のまま、ことが公になれば、ニサン正教は独断でアヴェからの援助金を着服していたことになるわ。もちろん、主犯格はニサン内ですでに捕縛されて、アヴェの共犯者の名前も、審議にかけられてる。でも…」
「お互いに、相手の正体はわからないように、取引されていた、ってことか」
 ミシェルの言葉に、キュランは重々しく首を振った。
「いいえ…アヴェ側が、一方的にニサン側の正体を、知っていたのよ。だから、切り捨てられたの…。ニサン内で、不正が発覚した時、アヴェ側の共犯者に繋がる証拠は、すでに全て盗み出されていたわ。おそらく、アヴェ側は、最初からニサンの共犯者を、捨て駒にするつもりだったのよ」
 苦々しく吐き捨てたキュランの肩を、ミシェルがそっと支えた。
「…それで? アヴェ側の、共犯者の目星は、ついてるんだよね…?」
「……」
 キュランが、疲れたようにミシェルを見上げた。ミシェルはまっすぐにキュランを見つめる。
「そうじゃなければ、君が単独でアヴェに来るなんて事はない。共犯者の目星はついて…だけど、証拠が足りなくて、君はここにきた。証拠をそろえるために」
「…そうよ」
 頷いて、キュランはミシェルの腕を、そっと自分の肩から外した。
「そうしないと、ニサン正教はおしまいよ。ウェルス援助金の着服なんて…正教が、一番犯してはいけない罪だわ。それが世界に公になれば…不安と怒りに駆られた人々の、攻撃の対象になってしまう。そうしたら…そうしたら、大教母様はどうなるの? 大統領は…どうするの?」
「キュウ……」
「でも、アヴェ側の証拠をあげさえすれば、事態は緩和するの。卑怯な言い方だけど…ニサンだけの罪じゃなくなるの。二つの国の、端役の罪…大教母様への弾圧も、格段に減るわ。だから、だからあたし…っ」
「キュウ」
 ぐ、と、ミシェルの腕に力がこもった。キュランの細い肩を掴み、そのまま胸に抱き寄せる。
 瞬間、キュランのブロンズ・グレイの髪から、甘い香りが立ち込めた。
「……大丈夫だから……」
 そっと、ミシェルが囁く。身長差のあまりない彼の唇は、キュランの耳のすぐ傍にあって、その瞬間、キュランは何か、得体の知れないものが胸の中を駆け巡る感覚に怯えた。
 地面に、ついている足は。
 ほんとに、あたしの足?
 解らなくなって、このまま、ミシェルによりかかって、そうすればきっと、胸の中にいつもあった、重くて苦しいものが、じんわりと溶けて、身体の外に流れ出す。
 そんな確信があった。
 だけど。
 だから。
「……っ、はなして」
 ギリギリの感覚で、キュランが腕を突っぱねた。ミシェルはその細い腕に阻められ、思わず離してしまった自分の腕から、彼女の温もりが消えていくのを感じて、はっとする。
「あ……ゴメンっ」
 慌てて、謝って。俯いたキュランを、まっすぐに見れなくなって、夜空を見上げた。
 やっぱり、だめなのか。
 瞬間、去来した思いに、胸が潰されそうだった。
「……アヴェの……」
「え?」
 ぽつり、と呟かれたキュランの言葉に、ミシェルは我に返ったように視線を向けた。キュランは俯いて、ミシェルから少し距離をあけたまま、再び唇を開く。
「…アヴェの、共犯者の目星は、ついてるわ」
「え…だ、誰?」
「…おそらく……」
 そう、キュランが口にしようとした、その時。
「…ミシェル様?」
 二人から、だいぶ離れた場所から、鈴音のような声が上がった。



「本当に、偶然ですわあ。まさかこんな時間、あんな場所にミシェル様がいらっしゃるなんて」
 にこにこと微笑みながら、シャンティ・レブルックがお茶菓子を片手にテーブルにつく。
 レブルック家の、来客用の応接室の真ん中で、ミシェルは身を縮こませるようにして座っていた。傍らのキュランは、落ち着いた風情で黙々と紅茶のカップを傾けている。
「わたくし、お友達の家から帰るのがついつい遅くなってしまったんですのよ。近道をしようと公園に入ったら、なんだか見覚えのある方がいらっしゃるじゃありませんか。思わずお声をかけてしまいましたが…ご迷惑でした?」
 にっこりと微笑むシャンティに、ミシェルは曖昧な笑みを浮かべた。
 あのあと、薄暗い公園で唐突に声をかけられたミシェルとキュランは、シャンティのたっての誘いを断り切れずに、ここ、レブルック家の重厚な屋敷に招かれていた。
 最初は、なんとしても固辞しようとしたミシェルだったが、何故かキュランの態度が柔和で、あれよあれよという間に、公園から程近いここに連れ込まれたのだ。
 問えない問いかけを向けるように、キュランを見やったミシェルを無視して、キュランはにっこりと余所行きの笑顔をシャンティに向けて言った。
「迷惑なんて、とんでもありませんわ。わざわざおうちにお誘いいただいて、ありがたく思います」
「まあ、本当に?」
 くすくす、と笑って、シャンティは悪戯っぽくキュランを見やった。
「シスターヒューイット…ああ、長くていやね、キュラン、とお呼びしても? わたくしのことは、シャンティと呼んでくださいませ」
「ええ、わかりました、シャンティ」
「では…」
 にこ、と笑って、シャンティは唐突に口を開いた。
「あたし、どおーしてもキュランに、もう一度会いたかったの! だって、あんなところで突然、兄さまをひっぱたくなんてひと、今までいなかったんだもの!」
「へ?」
 ぽかん、と、目と口を『O』の字にあけて、ミシェルが間抜けな声をあげた。
 美しい黒髪の、異国情緒のある可憐なお嬢さまの唇から、ぽんぽんと飛び出すコレは…ひどく聞き覚えのある、馴染み深い、そんな言葉遣いで。
「あ、ごめんね、ミシェル様。あたし、官邸内では猫被ってろって、兄さまに口酸っぱくして言われてんのよねー。だって、あそこっていわば、あたしのダンナサマ候補の巣窟なわけじゃない? 少しでも良縁に恵まれるようにって、お前、その本性を巧く隠せよ、なーんて…」
「…はあ……」
「でも、おうちの中でくらいお上品ぶったりしたくないじゃない? ああでも、一応ミシェル様も、あたし的にはチェック入ってるヒトだったからなー。うーん…ま、いっか。ミシェル様が、も少し出世した時にでも、またアタックすれば」
 今のままじゃちょっとねー、もうちょっとガンバってもらわなきゃ! などと無邪気に笑うシャンティに、ミシェルはくらくらと揺れる頭を押さえた。
 ……女って……
 つくづくと、その深遠なものへの畏敬の念を深めるミシェルの傍らで、さっさと話を変えたシャンティがはしゃいだ声をあげる。
「で、ね! あたし、びっくりしちゃったわけよー。だって、キュランってば、そんな顔して、おしとやかそうなシスター服着てるくせに、ものすっごいことするじゃない! あの兄さまをよ? 鉄面皮、冷血漢、人の皮をかぶった鬼悪魔…そういう楽しいあだ名の総合商社みたいな兄さまを、初対面でひっぱたくなんて! あたし、すかーっとしちゃって!」
 興奮気味のシャンティに、さすがに圧倒されかけていたキュランが、気を取り直したように微笑んだ。
「いえ…でもね、あれはだって…その」
「あ、今さら取り付くろわなくったっていいわよう。だってねー、あれはひどいわよね、兄さまが。もう、いつ後ろから鈍器で殴られても、おかしくないってくらいの嫌味っぷりでしょ? …でもねえ、キュラン」
 一息に言って、シャンティは優雅な仕草でこく、こくと紅茶を傾けた。
「兄さまもね、昔からあんなじゃなかったんだ。今みたいな、周囲に壁作って、敵作って、喜んじゃうようなマゾ君になっちゃったのは…大戦後のコトなの」
「え?」
「ほらー、ダズリーさんも言ってたじゃない。兄さまって、ウェルスに対して私怨があるって。あれって、マジなの。ま、あんまりおおっぴらにはしてないけどねー、結構有名な話」
 シャンティの言葉に、キュランは少し身を乗り出すようにして問い返した。
「それって、どういうことなの? くわしく聞かせてくれる?」
「う~ん…。まあ、よくあることって言っちゃえば、それまでなんだけどね…」
 そう言って、シャンティは艶やかな黒髪をぱさりと背中に流した。
「兄さまの婚約者だった人が、ウェルスに殺されちゃったのよ」
 さらりとした言葉に、キュランの息を飲む音が重なる。傍らで、ミシェルの身も固くなった。
「しかも、兄さまの目の前でね。なんてゆーか…兄さまって、基本的に性格は昔からああなのよ。だから、その婚約者って人はさ、そういう兄さまでもいいっていうか…うん、すごーく、好きあってたんだ」
「そうだったの……」
「そ。でも、こんな話、今じゃゴロゴロあるでしょ? だから、別に特別不幸とか、そういうことじゃないからね。兄さまも、おおっぴらにはしてないみたいだけど…あのひとほら、暗いじゃない、ベースが。だからね、引きずってるんだよね」
 ふう、と嘆息をついて、シャンティはにっこりと微笑む。
「だけど、ホント、根は悪いひとじゃないんだよ。って、身贔屓みたいだけどね。キュランはさあ、あの、兄さまの挑発的な面しか見てないでしょ? だから、ひっぱたいたのはえらい! って思うけど…それだけじゃないんだよ、って、ちょっと言いたかったの。だから今日、ここに引っ張ってきたんだ。ごめんね?」
 そう言って、艶やかな黒髪をさらりと揺らして小首を傾げるシャンティに、キュランは苦笑じみた笑みを向けた。
「…ううん。こっちこそ、事情も知らないで暴力に訴えちゃって、それは悪かったわ。…まあ、言ったことは結局、許せないんだけどね」
「うん、うん。それはそーだよね。あたしもあれ、むかついたもん。怖いからできないけどさー、あたしだって、たまーにぴしゃ! っと兄さまのこと、殴り倒したくなるよー」
 屈託なく笑いながら、とんでもないことをいう深窓の令嬢を恐る恐る見やって、ミシェルはおざなりな笑みを浮かべた。
「そ…その、アレクシス次官は、今日は?」
「ああ、また仕事かなんかでしょ。あのひと、大戦からこっち狂ったみたいに仕事人間になっちゃってさ。廊下のつきあたりが部屋なんだけど、電気ついてないから、まだ帰ってきてないんだわ。だからつまんなくって…あ、そうだ! プディングがあるんだあ! 食べてって、ね?」
「あ、シャンティ、構わないで…」
「ううん、すぐだから、ちょっと待っててー」
 元気に言って、パタパタと部屋を出て行くシャンティを見送ると、ミシェルはふう~っと重苦しいため息をついて、ソファに沈んでいった。
「す、すごい子だね…全然わかんなかったよ、あんな本性……」
「そう? あたしは初対面から、なんかあるなーって思ってたけど」
 言いながら、キュランはすっくと立ち上がった。唐突な彼女の行動に、ミシェルは驚いたように顔を上げる。
「キュウ?」
「…あんたは、ここでシャンティをごまかしてて」
「え?」
 簡潔に答えるキュランに、ミシェルは眉根を寄せた。それから、はっとしたように目を見開く。
「…まさか!」
「…そうよ。ニサンで、アヴェ側の共犯者と目されてる人物…それが、アレクシス・レブルックよ」
 言い捨てたキュランの腕を取って、ミシェルが素早く叫ぶ。
「待って! まさか、家捜しするためにここに来たんじゃないだろうね?」
「…シャンティと、偶然公園であったとき、これって運命かと思ったわ。こんなに早く、証拠に近づけるなんて」
「キュウ! 危険すぎるよ! 仮にも、ニサン正教のシスターの君が、アヴェ国の高官の邸宅で、家捜しなんて…見つかったら、それこそ国際問題だよ!」
「……あたし、厳密には今、ニサン正教関係者じゃないのよね」
 ミシェルの腕を振り払うようにして、キュランはあっさりと答えた。ミシェルは瞬間、呆然と目を見開く。
「……まさか……」
「あたしがもしも、ヘマをやったとき、責が正教に及ばないように、除名してもらったの」
「そんな! キュウ、それは大教母様はご存知なの!?」
「まさか。お教えするわけないじゃない。それこそ、心配させちゃうわ。今回のことは、最初から最後まで、大教母様には一切伝わっていない事なの」
「だったら! だったらなおさら、そんな危険な真似して、大教母様が知ったら…」
「ねえ、ミシェル」
 凛とした声音で、キュランがミシェルの言葉を遮る。まっすぐに自分を見下ろす深緑の瞳に、ミシェルは一瞬息を詰めた。
「今回の不正事件はね、実はあたしが発見した事だったの」
「え?」
「あたし、もともとウェルス関係の部署についてたから…偶然、アヴェから流出されるウェルス難民の数と、援助額の裏帳簿を見つけてね。それで、司教様に報告して、内々に事件を解決するために、アヴェに来る任に立候補したの」
「そんな…何でそんな、危険なことを!」
 怒ったように声を荒げるミシェルに、キュランはさっと人差し指をつきだし、彼の唇にあてた。
「…許せなかったの、あたし…ウェルス種となった人々を、自分の欲や得のために、利用するやつらが」
「……キュウ……」
「そして、それが大教母様を苦しめることになるのも、耐えられなかった。だから」
 言って、キュランは素早く身をひるがえした。思わず腰を浮かし、追いかけようとしたミシェルをふり返り、キュランが厳しい声をあげる。
「あたしのこと、信じるって言ったよね!」
「!!」
「だったら……おねがい、協力して。大丈夫、あたしは強いわ、失敗なんかしない」
 にっこりと微笑んで、キュランが言った。絶句するミシェルから視線をはずすと、滑り込むように、応接室を出て行く。 その後ろ姿を、ミシェルは無言で見送るしかなかった。自分の無力さを呪いながら、爪が食い込むほど強く、拳を握って……
4/10ページ