FLORAISON-フロレゾン-

  その日の空も、快晴だった。
 早朝と言っていい時刻の気温は、日中のそれとは明らかに異なる冷気の残滓を含む。砂漠の行程にも備え、薄い布を重ねた防備の少女は、屈託なく青天を見上げた。
「いいお天気だね!」
 明るくそう言って、アヴェ国大統領官邸の正門前で伸びをするマルーの背後から、シスターアグネスの相槌が返る。
「ええ。この分ですと、砂嵐の影響もなさそうですし、昼過ぎにはノアトゥンに到着しますわね」
「楽しみ~。今回は、フェイたちも来るんだよね?」
「ええ、そのようにうかがっております。このたびは、イグニス大陸の国交情勢に関するサミットですので」
「早く会いたいなぁ」
 にこにこと笑うマルーの背後から、のっそりと顔を出したバルトは、容赦なく降り注ぐ太陽光線に眉をしかめた。
「今日も暑くなるな…あ~うだる」
「サンドバギーで行くから、快適でしょ?」
「体感温度が問題だろ。まあ、フッ飛ばしてきゃいっか…」
「…って、まさか若が運転するの!?」
 ぎょっとした様子のマルーに、バルトはにやりと笑う。得意げなその表情に、マルーは大げさに眉を寄せた。
「え~~~っ! 本気?! だって今回は、BASILISKで行くんでしょ?! 若、あれの運転上達したの?」
「なんだよ、馬鹿にすんなよ。この俺様に、出来ねぇことはねえ!」
「なに言ってんの! そんなこと言ってこの間、岩肌に突っ込みそうになってひっくり返って、九死に一生を得た人は誰さ!」
「お前なあ、一年以上前の古い話もってくんじゃねえよ。人間は、日々日進月歩してんだぞ」
「じゃあ若、練習したんだね?」
「…まあ、公道じゃプロ級の腕だぜ」
「BASILISKは、高速で砂の上を走るから難しいんでしょ~っ! やだだめ、ボク若の車には乗らない! シ~グ~、乗せてって~~」
「なんだとう!? オイこらマルー、お前ぜんっぜんひとのこと信用してねぇな?」
 そんな風に、楽しげにじゃれあう大統領と大教母の一幕に、おそらく周囲は慣れたのだろう、誰一人構う様子はなく黙々と準備が進められていた。
 都合五台の改良型サンドバギー、通称『BASILISK』が、正門前に整列する。砂漠と雪原の両用タイプのそれは、従来のバギーよりも走行速度が速く、往年のスレイブジェネレーターに匹敵すると目される開発燃料の、第一試作品でもあった。
「とにかく、若もおとなしくシグの車で行こう、ね?」
 諭すようなマルーの言葉に、バルトは不貞腐れたように顔をそむける。なにがどうでも、自分で運転するときかない彼に、マルーは大仰に肩を竦めた。
「はぁ~…じゃあ、いいよ、しょうがないなあ…」
「観念したか?」
 にやりと笑うバルトに、マルーは腰に両手をあてて、窺うような上目で答える。
「せっかく、バギーの中で若と食べようって、いろいろお菓子とか作ってきたり、爺にお茶いれてもらったりしたけど…あ~あ、若が運転するんじゃあ、一人で食べるしかないのかあ」
「……」
「久しぶりに会えたんだから、ノアトゥンへの道々、ゆっくり景色でも見ながらおしゃべりしようと思ってたんだけどなあ」
「……」
 小悪魔め。バルトは苦々しく口内で呟いて、ちらりとこちらを見上げるマルーの額をピンと指で弾いた。
「…ったよ! しょうがねぇなあ、今回は、運転は見合わせてやるよっ」
「え? ほんと? やったあ、じゃあ、いっしょに後部座席に座ろうね」
「……なに、作ってきたんだよ」
「えっとねえ、前に作ったとき若に好評だった、ぐるぐるうずまきのクッキーとねえ…」
 結局は、いつものパターン。アヴェ国大統領閣下の扱いにかけては、他の追随を許さないほどの腕前を見せる可憐な大教母の策略に、まんまとはまっているバルトの背後から、頃合いを見計らったようにシグルドが顔を出した。
「若、マルー様、そろそろ出発しますよ」
「あ、はーい。行こう、若」
「おう」
 促されたバルトが、すいと視線を流す。その先には、見送りに出ていた官邸関係者にまぎれて、ミシェル・シナモンの小作りな顔があった。
「…あとのことは、任せたぜ、ミシェル」
「はい、大統領…お気をつけて、いってらっしゃいませ」
 応えたミシェルの傍らに、凛とした表情のシスターを見つけて、マルーが声をかける。
「じゃあね、キュラン! 久しぶりのお休みを、楽しんでね」
「ありがとうございます、大教母様。道中お気をつけて、ご無事のお帰りをお待ちしております」
「うん」
 にっこりと笑って手を振るマルーに、キュランも優しい微笑みを返した。マルーの小さな肩を押すようにして、バルトが長い足を運ぶ。アヴェの炎天下の元、二人のシルエットがバギーの中に吸い込まれていった。
「では、出発」
 そう言って、シグルドがバギーの運転席に乗り込む。軽快なエンジン音を響かせて、アヴェ国自慢の改良型バギー、BASILISKが次々と滑り出した。アヴェの公道はもちろん、凹凸のきつい砂漠の行程でも、車内にまったく影響を与えないという特殊な車体の騒音は、ほとんど聞こえない。
 一行を見送った官邸の関係者たちは、三々五々に散会した。その中で、ミシェルがふう、とため息をつく。
「なによ、ため息なんかついちゃって」
 目ざとくそれに気付いたキュランが、小首を傾げるようにしてミシェルを見上げた。気のせいか、一ヶ月前よりも少し、目線の高さに差が出て来たかな? と、ちらと思う。
「いや…別に。ところでキュラン、今日はどうするの?」
 さりげなく言葉を濁して、ミシェルが問いかけた。キュランは眉根を寄せて、考えるそぶりを見せる。
「う…ん、そうねえ…」
「マチカに行くの?」
 問うてきたミシェルの、薄水色の大きな瞳を斜に睨んで、キュランは唇を突き出した。
「バギーが借りられないんなら、なにか他の方法を考えなきゃ」
「歩くんじゃ、なかった?」
 意地の悪い事を言うミシェルの足を、キュランは軽く踏みつける。
「それは最終手段よ! …まだ、完全にバギーがだめって決まったわけじゃないもの」
「いてて…だから、僕が一緒に行ってあげるって。何で僕じゃだめなのさ」
「だめってゆうか……」
 ふ、と言葉を濁して、キュランは眼差しを深くした。わずかにミシェルから視線をそらし、遠くの蒼穹を見やる。早朝の今、空気は肌に刺さるほど、清冽で気持ちがいい。
「…も少し、考えるわ。あんただって、仕事あるでしょうし…」
「あ、僕今日からしばらくオフ」
「…は?」
 にっこりと笑うミシェルに、キュランは目を点にした。ミシェルはそんなキュランの反応には頓着せずに、さっさと歩き始める。
「っていうか、ニサン正教シスター・キュラン・ヒューイットさんの、アヴェ国滞在中のつつがない休暇をサポートする任を、直々に命じられたんだ」
「はあ!? なによそれ、誰が…」
「大統領閣下」
「……なんで?」
 唖然としているキュランに、ミシェルはくすくすと笑った。
「さあ? よっぽど、この間の一件で感謝されてるんじゃないの? 僕たち」
「この間の…て、別にそんな特別なことされるほど、大したことしたわけじゃないじゃない!」
「まあね。でも、僕は大統領の補佐官で、大統領がご命じになられた任務をこなす事が仕事だから。よろしくね、シスター・キュラン・ヒューイットさん」
「……なぁによ、それ……」
 苦々しく呟きながらも、キュランははあ、とため息をついて、どこか吹っ切れたように顔を上げる。
「しょうがないわねえ。今日くらいは、つき合わせてあげるわよ」
「それは光栄。で? どこか行きたいところはあるの?」
 マチカ、という答えを想定していたミシェルに対して、しかしキュランは思いもかけない返答を返した。
「あんたの家族に会いたいわ」
「………へ?」
 突拍子もないキュランの言葉に、ミシェルはしばし、大きな瞳をますます大きく見開いて、絶句していた。



 アヴェ国首都、ブレイダブリク。
 以前は王都として栄えていたそこは、首都という呼び名に変わった今も、相変わらず人で賑わっていた。
 世界崩壊寸前から、三年足らず。並々ならぬ尽力でもって、世界一の復興を遂げたとされるその街に、キュランは都合二度目の足を踏み入れた。
「やっぱり活気があるわよねえ、この街は」
 人いきれに目を配りつつ、キュランはなかば呆れたような声をあげる。その傍らで、ミシェルがさりげなく人波からキュランを守るようにして、露店を冷やかしていた。
「中心街だからね、ここは。一本道をそらせば、案外閑散としているんだけど」
「物流と情報の発信地なのね。特にこのメインストリートは、大統領官邸に続くものだから、なおさら…あ、ミシェル、あのお店ちょっと見て」
 自分の腕を引き、颯爽と歩くキュランを追いかけるようにして、ミシェルはどことなく落ち着かないような、さりとて胸の中を暖かくするような懐かしさに、そわそわと視線をさまよわせていた。
「ほら、なんか美味しそう。これなに?」
「え? ああ…これは、特製のパイ生地で生クリームとフルーツを包んだお菓子だよ。この、茶色のやつがココア味で、黄色いやつが多分、バナナかな」
「好きなの?」
「うん。僕は好きだけど」
「馬鹿、誰もあんたの好みなんか聞いてないわよ。あんたの家族。何人いるんだっけ?」 
 呆れたように眉を上げるキュランの顔をまじまじと見つめ、ミシェルは間抜けな声をあげる。
「え、なに、手土産持参なわけ?」
「あったり前でしょう。礼儀よ、礼儀」
「そんな、気を使わなくったって」
「いいのよ。こういうものは、気持ちなんだから。で、何人家族?」
 ショーケースを眺めつつ、キュランが問い掛ける。ミシェルは、なんだかくすぐったいのを堪えているよな面持ちで、懸命に言葉を捜した。
「えっと~…母さんと、弟のステファンと、妹のディアナとジャスティナ、大叔母と従兄弟のラス…かな」
「へぇ~。いつのまにやら大家族ねえ!」
 感心したようなキュランの言葉に、ミシェルは軽い笑い声を上げた。
「そうだね。キュランがマチカを出て行ってから、ディアとジャスティが生まれたから、初対面だよ。あ…ステフも、生まれるか生まれないかの時だっけ?」
「ステフは知ってるわ。確か引っ越す一年位前に生まれたのよ。おばさんがそっちの世話で奔走しちゃって、あたしがあんたのお守りするのが増えたの、覚えてるもの」
「お守りってー。二つしか違わないくせにさ」
 ちょっと拗ねたように言うミシェルに、キュランはくすくすと笑った。
「だって二つ違いでも、お姉さんだもーん。…と、じゃあ、八個くらい買ってけばいいかしら。あら? おじさんの分は?」
「ああ…」
 キュランの問いに、ミシェルは静かに微笑む。
「父さんは死んだんだ。もうずいぶん前だよ」
「え」
 きょとんとして、キュランが動きをとめた。自分を見上げる深緑の双眸に、ミシェルは穏やかなものを返す。
「事故でね。もう、五年くらい経つかなあ…マチカの街にいたころだからね」
「そう…そうだったの。全然知らなかったわ…」
 呆、とした感じで呟いて、キュランはわずかに沈黙した。忙しないブレイダブリクの喧騒が、ミシェルとキュランの空間から消え失せる。
 ミシェルはわざとおどけたように、大仰に肩を竦めた。
「だからそれ以来、この僕がシナモン家の大黒柱ってわけ。なんてったって、長男だしね」
「…あんたが大黒柱ぁ~? うわ、なんだかものすっごい欠陥住宅みたい」
「ちょっと、なんだよそれは」
「ふふ、うそよ、うそ。でも、イメージじゃないのよねえ…あたしにとっては、あんたっていつまでたっても『泣き虫ミーシュ』なんだもん」
「……」
 何気ないキュランの言葉に、一瞬ミシェルの表情が強張った。けれどキュランは、ショーケースの中のお菓子に夢中で、それに気付かない。
「……いつまで…」
「え?」
 低く、囁くように呟かれたミシェルの言葉に、キュランは聞き取れずに顔を上げる。けれどミシェルは、軽く首を振っただけで、すぐにショーケースを指差した。
「ディアとジャスティは、ココア味がお気に入りなんだ。ステフはなんだったかな…あいつ、なんでも食うよ」
 屈託のない彼の様子に、キュランもすぐに上げていた顔をショーケースに戻す。
「じゃあ、少し多めに買っていこうか。すみませ~ん、これ、どれくらい日保ちしますか?」
 キュランのよく通る声を耳にしながら、ミシェルはショーケースにぼんやりと映る、覇気のない自分の顔をなんとなく見つめていた。



 ブレイダブリクの中心地から、わずかに南にそれた、閑静な住宅地。
 おそらく、大戦後にブレイダブリクに身を寄せた、近隣地の避難民を集めている区画なのだろう。家並みはいずれも最近建てられた簡素なもので、ブレイダブリク特有の生活感があまりない。
 ミシェルは、軽い懐かしさを覚えながら、自宅への道を歩いていた。
 とは言え、ブレイダブリクに身を寄せてからすぐに、ミシェルは大統領補佐官に就任したために、その後のほとんどの生活は官邸内で過ごしている。ブレイダブリクに居を構える『実家』は、年に数回足を向ける程度の思い入れしかないものだった。
 それでも。
「…なんか、懐かしいな」
 ぽつりと呟かれた言葉に、キュランはきょとんと顔を上げる。彼の傍らを歩いていた彼女は、周囲の景観を物珍しそうに眺めていた。
「なにが?」
 問い返されて、ミシェルは口に出していたことに初めて気付いたようだった。少し照れくさそうに、鼻の頭をこすりながら答える。
「ん…実は、僕自身実家に足向けるの、すごい久しぶりで…」
「久しぶり? って、いつぶりよ」
「え? えーと…」
 指を折り、改めて疎遠の期間を数えれば、今さらひょっこり顔を出せるほど気軽な長さではなかった。ミシェルはどことなく後ろめたいような風情で、ポツリと答える。
「二…いや、三ヶ月ぶり、くらいかな」
「…あっきれた!」
 心底そう思うように、キュランは大きな瞳を半分閉じて、大仰に眉根を寄せている。
「同じ街に住んでて、なんでそんなにご無沙汰してんのよ! それともなに? 大統領補佐官って言うのは、家族にもちょくちょく会えないほどご多忙なわけ?」
「いや、その…ここんとこちょっと、忙しくて…」
「理由になってない! あんたねえ、それでなくとも今この時期、ひとはみんな一生懸命立ち直ろうと、一丸になって頑張ってんでしょ? そんな中、最も大事にすべきは、ひとの絆! 家族の絆じゃない! もー、どうして男ってこう、薄情なのかしらね!」
「は…面目次第もございません」
 ぷりぷりと怒るキュランの説教を、ミシェルは大人しく頭をたれて拝聴していた。けれど俯いたその表情は、どこか嬉しそうな、くすぐったそうな、とにかく『反省』しているようにはあまり見られない。
 幸いにもその不謹慎な様子には、本気で怒っているらしいキュランは気付かなかったようだけれど。
「はーまったく…。この分じゃ、おばさんだって相当寂しい思いさせられてんでしょうね。長男がこんなに不義理なんだから…」
「…あの人が、そんな殊勝な事思うタマかなあ…」
「え?」
 ぽつりと呟いたミシェルに、キュランがひょいと眼差しをあげた。その、瞬間。
「お待ちー!! この、馬鹿息子ッ!」
 のんびりとした住宅街に、響き渡る怒号。次いで、がらがらがっしゃーん、と、鍋かなにかのようなものが崩れる音が響いた。
 驚いたミシェルとキュランが、音のする辻を見やると、転がるように駆けてくる琥珀の髪の少年が、一人。
「ひっでェ!! なにも、鍋投げる事ねーだろっ! 鬼ババア!!」
「おだまり! くだらないことほざいてないで、さっさとノアル先生のとこ行ってきな!」
「もう授業も終わってるって!」
「サボってしまってすみませんって、三百回くらい謝ってきな! それとも、その髪丸刈りにして、地肌に直接彫ってやろうか?!」
「ひぇ~! 勘弁してよォ!」
 泣き言を言いつつも、小猿のように身軽に駆けてくる少年は、突っ立っているミシェルたちに気付かないらしい。唖然としているキュランの傍らで、ミシェルが軽く嘆息をつくのが聞こえてきた。
「こら! またなんかやったのか、ステフ!」
「げっ!?」
 身体を低くして、突進してくる少年をひょいと抱き上げたミシェルに、キュランは思わず驚いてしまった。華奢で頼りないとばっかり思っていたミシェルなのに、小柄で痩せぎすとはいえ、元気いっぱいの少年を難なく抱き上げてしまえるなんて。
「離せよっ、なんだよお前…」
「馬鹿。実のお兄様の声を忘れるなよ」
「おにい…えぇっ!? ミシェルか!?」
「ミシェル兄さん、だろ!」
 じたばたと暴れる少年を肩に担ぎながら、ミシェルはすっかり『兄』の顔で笑っていた。キュランは何故か猛烈な寂寥感に襲われ、そっと視線を流す。
 流した先には、辻からこちらを眺めている、小柄な女性が映った。
「あ…」
 壮年のその女性は、薄茶の髪を一つにまとめ、クリーム色のエプロンを揺らしている。記憶の中の彼女よりも、多少歳を取った感はあったけれど、それは見間違えようもない…
「あらやだ! ミシェルじゃないか! なんだよ、帰ってくるならくるって、先に教えておきなっていつも言ってるだろ!」
 そう言って、屈託なく笑う気風のよい女性を、キュランはまじまじと見つめていた。
「ああ…ただいま、母さん」
「ただいまじゃないよ、このドラ息子! 何ヶ月も音沙汰ナシだったから、ついにあんた、大統領のご不興でも買って、闇から闇へ葬られちまったんじゃないかって、うちではもっぱらの定説だったんだけどねぇ」
「あのねえ!」
 からかうように笑って、ミシェルの母親がこちらにやって来る。キュランは硬直したように、その場から動けなかった。
「今日はどうしたんだい? 急に帰ってくるなんて、珍しいじゃないのさ。今度こそ本当に、クビにでもなったのかい?」
「そう、縁起でもないことぽんぽん言わないでくれる?!」
「あながちありえねーことでもねーからなぁ」
「ステフ! 生意気だぞおまえッ!」
 じゃれ合う兄弟を尻目に、母親はふう、と満足そうに息をついた。それからふと、初めて気付いたように、その場に立ち尽くすキュランを見上げる。
「……あ……」
 まっすぐに、薄水色の瞳を向けられて、キュランは言葉を忘れたように硬直した。淡い茶色の髪を揺らし、僅かにしわの寄った目元を見張って、母親がキュランを見つめる。
「……キュラン……かい?」
 ぽつ、と呟かれた名前に、キュランの心臓が音をたてて震えた。なにかに包まれるような、頼りない浮遊感を感じて、キュランは思わず眉根を寄せる。
「あんた、マチカで一緒だった……ユリシアのとこの、キュランだろう? ねえ…」
 染み入るような声音で、母親はそう呟くと、ゆっくりとキュランの方へ歩を進めた。キュランは瞬間、弾かれたように目を見開いて、頷く。
「…はい…お、お久しぶりです、マギーおばさん…」
「…ああ!」
 マギーは言って、感極まったようにキュランに手を伸ばした。小柄な彼女では、背の高いキュランの首にしがみつくようにしかできなかったけれど、無意識に身を屈めたキュランは、暖かく自分を包む両の腕に、すがりつくように顔を埋めていた。
「あんた、生きていたんだねえ…よく、よく生きていたねえ…!」
「……っ」
 それは、同じ地獄を味わった者しか出し得ない、慈愛と労わりの言葉。人口の何割をも滅ぼした過酷な大戦を経て、十年来の知り合いに会えた、その僥倖に感謝する声音。
 キュランは震える腕で、マギーの柔らかな背中を抱き締めた。
「ほんとによく、よく生きて…よく会いに来てくれたねえ…!」
「おばさん……」
 ぎゅ、とマギーはキュランを抱きしめ、それからぽんぽん、と彼女の背を叩いた。
「嬉しいよ…ほんとに嬉しいよ。あんたがこうして、こんなに綺麗になって、ここにいてくれて…しかし、やだよキュラン、なんだってこんなに美人さんになっちまったんだい。そりゃ、子供のころから可愛い子だったけどねえ…」
「やだ、おばさん」
 照れたように笑って、キュランはそっと目元をぬぐった。溢れ出しそうになった涙を、おどけたように笑うことによって、お互いにごまかしているのがわかる。
「それで? どうしてうちのドラ息子と一緒なんだい? …あ、まさかあんたたち…」
 目を見張るマギーに、キュランはきょとんと小首を傾げる。マギーはミシェルをふり返り、にやりと瞳を三日月にした。
「あんたも隅に置けないじゃないか、ミシェル! どうにもドン臭い子だと心配してたけど、ちゃっかりキュランを捕まえてくるなんてねえ…! 三つ子の魂ってやつかい?」
「母さん!!!」
 真っ赤になって絶叫するミシェルの隙をついて、彼の肩から小柄な少年が飛び降りた。
「へ~んだ! このミシェルに、そんなカイショウあるわけねーだろっ!」
「なんだと、こらステフ!!」
「真昼間っから女連れで、ちゃらちゃら歩いてんじゃねーやッ! 馬鹿ミシェル!」
「こらー!!」
 捨て台詞も鮮やかに、そのまま脱兎のごとく走り去る少年を追いかけようと、ミシェルが足を踏み出した。しかし素早くその襟首を掴み、マギーがにっこりと微笑む。
「まあ待ちな。あの生意気坊主には、あとであたしがみっちり説教してやるからさ。それよりも、せっかくキュランが来てくれたんだから、腕によりをかけてご馳走を作ってやるよ」
「ああ、ありがと、かあさ……」
「だからお前、ちょいとひとっ走りいって、新鮮なつちのこ肉と、カミナリ大根と、サラダ用の野菜とコーンと、ああそう、ビールも買ってきておくれよ」
「はあ??」
 唖然とするミシェルを無視して、マギーはキュランの手を取りながらすたすたと歩き去る。その背中に、ミシェルが絶叫した。
「ちょっと、母さん!」
「キュランのことは、あたしがちゃんともてなしてやるから、心配いらないよ! ああそう、買い物のついでに、ディアたちが広場で遊んでると思うから、迎えに行ってつれて帰ってきておくれ」
「ちょっ…」
「頼んだよ、長男」
「……」
 有無をも言わせぬ迫力で、マギーは言いきってさっさと辻を曲がった。彼女に手を引かれていたキュランは、一瞬振り返ってミシェルを見やったが、悔しそうに腕を組む彼が、それでも苦笑を浮かべていることに、何か言い知れぬものを感じて、さっと視線をそらせる。
 マギーはキュランの手を取ったまま、辻を曲がってすぐのところにある小ぢんまりとした家に入っていった。
「さあ、むさくるしいところだけど、おあがり」
「あ…お邪魔します」
 丁寧に言って、涼しい石造りの玄関に入る。一階は台所とリビングが両わきに配され、階段の奥にはもう一室あるようだった。マギーは廊下の右手にある、こざっぱりとしたリビングにキュランを案内した。
「うわあ…懐かしい」
 チェストの上や廊下の隅、壁など至る所に、マチカを思わせる装飾品や調度品が溢れており、キュランは十年ぶりに感じる懐かしい空気を、胸一杯に感じていた。
「全部、マチカから引き上げる時もってきたのさ」
 廊下の向こうの台所から、マギーが通る声を返す。キュランは子供のように目を輝かせ、リビング内をぐるりと見渡した。
「さあさ、立ちっ放しじゃ話もできないよ。座っておくれ、今美味しい紅茶をいれてあげるからね」
「あ、おばさん、手伝うわ」
「いいよ、すぐだもの。ああ…でもキュランは相変わらずだねえ。そう言う、よく気のつくところなんざ、子供のころからちっとも変わらない」
 そう言って、湯気のたつティーポットと茶菓子を盆に乗せ、にこにこと笑いながらマギーがリビングにやってきた。促されるまま、キュランは僅かに固いソファに腰を落ち着ける。
 その向かい側に座り、マギーは丁寧にティーポットを傾けながら言った。
「本当に、あんたはちっとも変わってないね。そりゃあ、外見はずいぶんと綺麗になっちまって、ひとめ見たときとっさにはわからなかったけど…その目、意思が強くて、まっすぐに相手を見据えるその深緑の瞳は、あのころのままだよ」
「……」
 こぽこぽと、淡い茶褐色の液体がティーカップに注がれる。キュランは神妙な顔つきで、マギーの手元を見つめていた。
「年々…あんたの母さんに似てきてるよ、その目は」
「……おばさん」
「ユリシアは、今どうしてる? リフィスは…」
 言いさして、マギーはキュランを見やった。キュランは静かにティーカップに手を伸ばし、僅かのためらいのあと、首を振る。
「…そうかい」
「…母さんは、八年生きたわ、おばさん」
「…八年…」
「マチカから、気候のいいニサンに移って…それが良かったのね。あれから、ずいぶん身体の調子が良くなってね…亡くなる前なんて、家の事も一通りできるようになってたのよ」
 そっとティーカップを傾けて、喉を潤す。キュランはじっと茶褐色の紅茶を見つめながら続けた。
「父さんなんて、この分だったら、もしかしてまた…マチカに、戻ることもできるかもな、なんて。他の誰でもない、母さん自身が、生まれ育ったマチカにずっと帰りたがっていたの、知ってたから…」
 キュランの言葉に、マギーは神妙に頷いてみせた。
「ユリシアは、人一倍砂を読むのが上手くてね。子供のころなんか、マチカの大人たちに、そりゃあ重宝にされたもんさ。おしゃまで利発な子だったからね、ユリシアもずいぶん楽しそうだった。誰かの役に立つ事が、心底嬉しい子だったんだ」
「父さんも言ってた。自分の体調が悪くったって、目を離すとすぐに、ひとのために駆けずり回ってたって…」
 くす、と微笑んで、キュランはティーカップを傾ける。穏やかに話す両親の思い出は、ひとりきりのときに思い出すよりもずっと、何倍も胸に染みた。
 マギーはキュランの差し向かいで、自分のために入れた紅茶を口に含む。
「…八年ってことは、大戦直後に亡くなったのかい?」
「……ええ」
 僅かに沈黙して、キュランが頷く。マギーは一瞬、いたましいものを見るような視線で、白い肌の美しい娘を見やった。
「病気で?」
「…いいえ。ウェルスに、殺されたのよ」
 きっぱりと言いおいて、キュランはティーカップをソーサーに戻す。かちゃん、と軽い衝撃音が響き、マギーはそっと嘆息をついた。
「…そうかい。それは、辛かったね…。…じゃあ、リフィスは?」
「……父さんは……」
 答えようとして、キュランは何気なくティーカップに指を戻した。しかし、カップに触れた指先が、かちゃかちゃと細かな音をたてるのに気付いて、はっと瞠目する。
 震えが止まらない、自分の両手をそっと胸に抱くキュランの傍らに、マギーが急いで移動した。ぎゅっと、横抱きにキュランの細い肩を支えるマギーは、彼女の柔らかなブロンズ・グレイの髪をなでながら、優しく囁く。
「ごめんよ…もう、いいよ。聞かないよ…ごめんよ」
「…ごめ…おばさん、ごめんなさい、あたし…」
「いいんだよ。いいのさ、それで…まだ三年も経っちゃいない。まだ、哀しみが癒えるには早すぎる…誰でもそうさ、あんただけじゃない。だから、我慢おしでないよ」
「…おばさん……っ」
 不意に、熱いもので喉を塞がれるような感覚に、キュランは身を折った。マギーはぎゅっと力をこめて、その細い、震える身体を抱きしめてやる。おそらくは、母親のかわり…いや、正真正銘の母親のような、慈愛をこめて。
 キュランは、泣いてはいなかった。涙は流れてはいなかった。けれども、目を開けていられなくて、息が上手く出来なくて、必死になってマギーにしがみついていた。
 温もりが、どうしようもなく彼女を追い立てていた。
「……ひとりで、頑張ったね…」
 マギーが、幼い子供をあやすように、キュランの背を優しく叩きながら呟く。キュランは何度か喉を鳴らして息を整え、ゆっくりと顔をあげた。
「…ううん。ひとりじゃなかったわ。…おばさん、あたしね、今、ニサン正教のシスターになっているの」
「へえ、シスターに?」
「うん。大戦のあと、身寄りがない人たちを、正教が保護してね。…その時、あたし、シスターになりたいって、お願いしたの」
 ふ、と吐息をついて、キュランはマギーの腕を軽くさする。穏やかな笑みを浮かべて、彼女はマギーの薄水色の瞳を見つめた。
「最初は、ただ、ひとりぼっちになったんだってことを忘れたくて…忙しなく働いていれば、寂しいのも悲しいのも忘れられると思ったからだったの。だけどね、シスターとしてたくさんの人に接して…なによりも、大教母様という方にふれて、あたし、本当に救われたの」
「…そうかい。あんたは、面倒見のいいリフィスの血も継いでるからね…そう言う、ひとのために走り回るのが、性にもあってたんだろうね」
 満足そうに呟いて、マギーがキュランの手の平を握った。優しくて暖かい感触に、キュランは照れくさそうに微笑む。
「ええ…でもおかしいの。昔は、そんな父さんのこと、不器用なんだから、って、お小言いってたはずなのに…今じゃあ、父さんそっくり。頼まれもしないことで奔走して、気がつけばくたびれ果てて眠る、の繰り返し」
 くすくす、と明るく笑うキュランに、マギーは優しい眼差しを返した。
「そう…あんたはそれでいいんだよ、キュラン。それでこそキュランさ、マチカいちのおてんばで、うちの坊主の面倒を、よくみてくれた気働きのいい娘さ」
「ふふ…っ、そうね、あたしちっとも変わってないわ、おばさん。あのころの…マチカで、ミーシュの面倒を見ていたころと、なーんにも。……でも…」
 不意に、言葉を区切って。キュランは僅かに瞳を揺らした。マギーがじっと彼女を見つめて、促すように手の平をさする。
 キュランは少しだけ困ったように、細い眉根を寄せた。
「…でも、ミーシュは…なんだか、変わったわ」
「うちの坊主が?」
「ん…。あのね、あたしとミーシュが、偶然再会したのは、ちょうど一ヶ月前のことだったの。あたしは、大教母さまの随行シスターとしてアヴェ入りして、ミーシュはなんと、大統領補佐官なんてなってるじゃない。ほんとに、驚いたわ」
「ああ」
 言って、マギーはくすくすと笑った。キュランの手のひらを離すと、テーブルを乗り出して、差し向かいにあった自分のティーカップを引き寄せる。
「あたしも、驚いたよ。突然に、『母さん、僕、大統領官邸で働くよ』なんて言ってね…あのドン臭い息子が、大丈夫なのかねえと心配したけど…なんとかやってるみたいで、ほっとしてるんだ…。今じゃ、名実ともにうちの大黒柱さ」
 マギーの言葉に、キュランはしみじみと頷く。
「そうね…今じゃもう、『泣き虫ミーシュ』なんかじゃない…。『お兄さん』の顔して、家族を養って、支えて…大人になっちゃったのよね。なんだか、それが…寂しい、のかなあ……」
 そう言って、俯くキュランの腕にふれて、マギーは優しく言った。
「…ねえキュラン。あんた、今まで誰にも甘えることなく、ひとりで立っていただろう? あんたのことだから、ニサン正教にだって、自分を依存したりしないで、あくまでも自分のことは自分で、って、きっちり考えているんだろう」
「…それは、そうね…。甘える、とか、そういうのじゃないわ」
 マギーの言葉に、キュランはぼんやりと頷いた。そんなキュランの手をぽんぽん、と軽く叩き、マギーはまっすぐに彼女を見つめる。
「もうそろそろ、あんたも、誰かに甘えて…支えてもらうってことを、覚えてもいいね。そしてその相手が、うちのボンクラ息子だったらいいって、今、あたしは思ったよ」
「おばさん…?」
 言われた言葉に、キュランはきょとんとした顔を見せる。マギーはそんな彼女に、苦笑のような笑みをひらめかせた。
「ミシェルが大人の男になっちまって、戸惑うあんたの気持ちもわかるよ。あんたとミシェルの時間は、十年前からまだ、ちっとも動いちゃいない。だから、あんたは寂しいんだ」
「……」
「だけどさ、じゃあ今度は、改めて『十八歳のミシェル・シナモン』を見てごらん。十年前と、どこがどう変わって、どこがどう変わらないのか…。その上で、あんたの胸につかえている、いろんな想いを、あの子に打ち明けられるかどうか…考えてごらんよ」
「……おばさん……」
 呟いて、キュランは困ったような表情になった。マギーはゆっくりと目を瞬かせて、促すように小首を傾げる。
「ん? なんだい?」
「…あたし…ミーシュには、甘えられないわ…」
「え?」
 虚をつかれたようなマギーに、キュランは俯いてしまった。
「あたし……ミシェルにだけは、甘えられないの…だめなの、おばさん…」
「…キュラン……」
 とっさに、なんと言っていいのかわからないようなマギーが、そっとキュランの名を呟いた時、玄関先から賑やかな声が上がった。
「ミシェル兄ちゃん、どいてよー、突っ立ってたら、入れないじゃなーい。ただいまーママー、またおなべが道に転がってたよー」
「あー重かった! ねえママー、つちのこ肉は台所においていいのー? あ、ミシェル兄ちゃん、お野菜は地下だからね」
 途端に、キュランとマギーの空気が融解する、マギーは、ぽんぽん、と優しくキュランの肩を叩いて、ソファから立ち上がった。
「ああ、ご苦労だったね。…ディアとジャスティ、ちょっとこっちへおいで、お客さんを紹介するから…」
 そう言いながら扉に向かうマギーの小さな背中を、キュランはなかば呆然とするように見つめる。
 何故か、胸に巣食った得体の知れない寂しさが、どんどん育っていくような、そんな焦燥感が、彼女をぼんやりとさせていた。
3/10ページ