FLORAISON-フロレゾン-
本来ならば、正午に入国予定だった隣国ニサン法王府の大教母一行が、正式な手続きを経て大統領官邸に訪れた時、真っ先に出迎えたのは誰あろう、歳若き大統領閣下その人だった。
「マ…マルー??」
「…若!」
互いに、まさかこんなに早く会えるとは思っていなかったのだろう、驚きを通り越して呆気にとられたような顔で見つめ合う。大統領官邸の正門から続く、豪奢なホールでの一幕だった。
「若っ!」
はしゃいだ声をあげて、大教母が走り出した。旅装束を身にまとった数人のシスターが道を開け、彼女を護衛していた僧兵たちが、示し合わせたようにあらぬ方向を向く。
瀟洒な修道服のすそをさばき、まっすぐにこちらに駆け寄ってくる少女に、バルトは呆気にとられていた自我を取り戻して、条件反射のように腕を広げた。
「久しぶり~っ!」
まるで磁石の対極が重なるように、不自然なく腕に収まった小さな身体を抱きしめて、バルトは嬉しそうに笑った。
「なんだよ、早いな、マルー! 昼ごろ着くっつってなかったか?」
「うん、その予定だったんだけどね、途中で天候が変わって、砂嵐に遭いそうだったから、強行軍で来たの…もうくたくただよ」
「そっか。あーあ、お前砂まみれじゃねえか、よっぽど急いだんだな」
「えっ? あっ! やだ若、ちょっと離して!」
「あん?」
じゃれるようにしていた従兄弟、もとい婚約者の腕からもがき出て、マルーはぱっと距離をとった。バルトは突然空虚になった両手を苦々しく広げたまま、不機嫌そうになる。
「なんだよ?」
「だって~! こんな埃まみれの砂まみれじゃ…」
「なに言ってんだ、今さら」
「今さらだけど! …だって若が悪いんだよ、こんなところに突然いるからさ。ホントはもっとちゃんと支度してから会う予定だったのに…」
「俺のせいかよ」
「っていうか…も~、計画ぐちゃぐちゃ~」
一ヶ月ぶりなのに、とかなんとかぶつぶつと呟きながら、パタパタと自分のすそや髪の埃を払うマルーに、バルトは何かを言いかけてふっと笑みを深めた。
なんだか、こんなかけあいは新鮮じゃないか?
本人たちの気持ちはどうあれ、単なる従兄妹同士として接していたころには感じられなかった、どこかくすぐったいような甘い感慨を胸に、バルトは満足げに口端を上げた。
人が見ればそれは、完璧にやに下がった笑み。幸せを満喫しまくっている大統領が、再び大教母の元へ歩を進めようとした瞬間、ホールの向こうから低いバリトンが飛んできた。
「マルーさま! お早いお付きですね」
「シグ!」
ぱっと顔を輝かせて、マルーが叫ぶ。そのまま、バルトの横をひょいとすり抜けて、パタパタと駆け出し…
「……」
「久しぶり、シグー!」
ひく、と頬を引きつらせるバルトの背後で、嬉しそうなマルーの声が上がった。振り返らずとも、おそらく自分と同じ再会の抱擁をかわしているのは明白で、結局こうかよ、と、哀れな大統領閣下は苦々しく吐き捨てた。
「おいコラ! マルー、お前埃がどーとか言っといて、シグにも抱きつくのかよ!」
「えっ? あー!! そうだった、つい…ごめんねシグっ」
「え? いいえ別に、気になりませんよ。それよりもマルー様、だいぶお疲れのご様子ですね。お部屋をご用意いたしましたので、そちらでおくつろぎください」
そつのない筆頭補佐官が、ちらりとニサン一行に目を配る。大教母と大統領のかけあいに遠慮して、慎み深く視線を外していた一行のうち、にこにこと微笑むシスターが一人。
「これは…お久しぶりです、シスターアグネス」
「ご無沙汰いたしております、シグルド卿」
落ち着いた声音に、ニサン一行の不自然な緊張がほぐれた。それを潮に、バルトとじゃれていたマルーがはっと我に返る。
「あ! ごめんね、みんなをほったらかして…シグ、みんな砂漠の強行軍で疲れているから、休ませてあげてくれないかな」
「承知しております。ノアトゥンへの出立は、予定通り明朝になりますので、その間ゆっくりと旅の疲れを癒してください」
シグルドが言って背後を振り返ると、何人かの官邸関係者が心得た様子で動き出した。シスターたちから荷物を預かり、それぞれに用意された部屋へ案内する様子を見ていたシグルドが、おや、と声をあげる。
「あなたは…シスターヒューイット?」
声をかけられて、すらりとした背の高いシスターが慌てたようにふり返った。アグネスが、そつのない様子で彼女を手招く。
「こちらへ、シスターヒューイット」
「あ…はい、シスターアグネス」
おずおずと歩を進め、シスター・キュラン・ヒューイットは、改めてシグルドと、そしてバルトの前に立ち、優雅に一礼をした。
「お久しぶりでございます、大統領閣下、ハーコート筆頭」
「なんだ、あんたも随行メンバーに入ってたのか?」
気安い様子でバルトが声をかけると、キュランに代わってアグネスが答えた。
「本来は、構成人員ではなかったのですが、このたびシスターヒューイットは長期休暇を取りまして、アヴェに里帰りすると申していましたので、同行させたのです」
「里帰り?」
「キュランは、アヴェの出身なんだよ、若」
マルーの補足に、バルトはああ、と得心する。
「そういや、あんたミシェルと同郷っつってたよな。とすると、出身は……マチカか?」
ふ、とバルトの表情が改まる。キュランはそつのない様子で、静かに頷いた。
「はい、そうです」
「マチカ…でも、マチカって言やあ…」
そこまで言って、不意に言葉を濁したバルトに、キュランはかすかに頷く。
「はい。今はもう、故郷であるマチカには、なじみの者は誰一人おりません。ですので、里帰りというには語弊があるのですが…」
そう言って微笑むキュランに、バルトは少し考えるように顎をさする。彼の鋭い碧玉の瞳が、誰にも気付かれぬようにわずかにすがめられた。
「…ま、そういうことなら、存分にブレイダブリクを満喫してってくれよ。そうだ、あんた滞在中の宿とか決めてんのか? なんなら官邸使ってくれていいぞ」
「ええっ?!」
妙に気のきいたバルトの言葉に、キュランは驚いて声をあげた。慎み深いシスターの仮面がはがれかけてきたキュランに、アグネスはちらりと横目をくれる。
「シスターヒューイット、特に予定がなかったのならば、大統領閣下のお言葉に甘えさせていただきなさい」
「し…しかし、シスターアグネス! 一介のシスターであるわたくしの私用で、アヴェ行きの一行に加えていただいただけでもありがたいというのに、この上…」
「いいのいいの、キュラン」
恐縮するキュランを、マルーが可愛らしく微笑んでさえぎる。
「若はね、この間キュランにいっぱい迷惑かけちゃったから、この機会に恩返しするつもりなんだよ」
「って、おいマルー! なに言ってんだよっ」
慌てたように声を荒げるのは、図星をつかれた時のバルトの癖である。それを知っている人物たちは、マルーの台詞に深く頷いた。
「そういうことだ、シスター。到底こんなことでは帳尻はあわないだろうが、若の一方的な恩返しに付き合ってやってくれないか」
「シグ!」
「そうですね、一国の大統領ともあろうお方が、恩を受けっぱなしというのも問題があります。シスターヒューイット、ここはお言葉に甘えるのが筋というものですよ」
「アグネス!」
「というわけだから、キュランはボクたちがノアトゥンから帰るまで、ここでゆっくりしていてね」
「~~~~っ」
最後、マルーが決定事項のように言いきって、誰も逆らえない笑顔を浮かべるに至り、バルトは悪あがきをやめて、おとなしくあらぬ方を睨んだ。浅黒い頬をわずかに紅潮させながら「んなつもりじゃねえよ…」などと、往生際の悪いことは呟いていたけれど。
「あ……ありがとう、ございます…」
自分にとって、雲の上にも匹敵する人たちの一方的な決定に、逆らえるキュランではない。もとよりありがたいことには違いない申し出だったので、ここはひとつ、素直に感謝の意を述べる事にした。
「さーて、話は決まったんだから、さっさと行こうぜ。多分、今ごろ爺が手ぐすねひいて待ってるぞ、マルー」
ぱっと話を切り替えたバルトに、マルーはにっこりと頷いた。
「うんっ! あ、その前に、お風呂~」
「だぁから、いいって別に」
「よくない!」
「ちぇっ…変なところでこだわるよなあ、女って…」
「若はこだわらなさすぎなの! 行こ、アグネス、キュラン」
振り返ったマルーに、キュランが頷こうとした瞬間、前を歩いていたバルトが思い出したように声をあげた。
「そうだ! …おいキュラン、疲れてっとこ悪ぃんだけど、うちのミシェルを呼んできてくんねえかな」
「え?」
きょとんとしたキュランに、バルトはにやりと微笑む。
「さっき、会議室で寝こけてやがってよ、この頃たるんでんだよなああいつ。もしかしてまだ会議室にいるかもしんねえから、迎えにいきがてら、一発がつんと言ってやってくれよ。幼なじみのよしみで」
「はあ…」
「ちょっと若、キュランだって疲れて…むぐっ」
「あ? 何? さっさと風呂に入りたい? しょうがねぇなあ、じゃあ俺の部屋の使わせてやるよ、トクベツに」
「むぐぐ~っ」
小柄なマルーを抱えるようにして、バルトがさっさと歩いていってしまう。呆気にとられたキュランに、シグルドが苦笑じみた声をかけた。
「すまん、シスター。…会議室への最短ルートは、この中庭を突っ切って、噴水の向こうの棟に行く道だ。ミシェルに会ったら、先日メイソン卿にお茶をふるまわれた部屋へ来てくれ」
「あ…はあ…」
片手で拝むようにしてきびすを返すシグルドと、それに並んで歩いていくアグネスとを見送って、キュランは呆気にとられたように立ち尽くした。
「…何なの……?」
誰にともなく呟いて、キュランはぽりぽりと頭をかく。そうして、おもむろに修道服のすそをちょいちょいと整えてから、言われた通り中庭へ向かった。
本格的な夏を迎えたアヴェの蒼穹は、吸い込まれるほど鮮やかだ。
時折流れる白い雲とのコントラストが、記憶の底にある故郷のそれと重なって、キュランは思わず上空を見上げたまま深く息を吸い込む。
「あぁ……相変わらず綺麗ねえ、ここ…」
砂の大国であるはずのアヴェの大統領官邸には、しかし水と緑の都と称されるニサンにもひけをとらぬほどの、美しい中庭が広がっていた。
まるでそれそのものが、いつか迎えるニサンの象徴である少女を、密かに待ち望むアヴェの意思のように思えて、キュランは嬉しさに頬をゆるめる。
煉瓦色の小石が敷き詰められた、瀟洒な石畳をこつこつと進みながら、キュランは我知らず手にしていたハンドバッグに手を添えた。
アヴェ滞在中に必要な諸々の日常品は、僧兵たちが運ぶ荷物の中に紛れ込ませてもらっている。このバッグに入っているのは、身軽に動く際に必要な雑貨と、あと……
「……なんでこんなもの、持ってきちゃったのかな~…」
今さらの自嘲を呟いて、キュランは困ったように細い眉を寄せた。こつこつと進む歩調は変わらないけれど、目的の場所に近づくにつれて、言い知れぬ緊張が浮かぶ。
緊張…違う、これはきっと、嬉しいのだ。
久しぶりに会える、幼なじみとの邂逅が…多分、嬉しいのだろう。
そう考えて、キュランは軽く首を振った。一度ぴたりと歩を止めて、改めて背筋をのばす。大きく吸い込んだ空気を肺に留め、凛として前方を見据えるその深緑の瞳にはもう、幼なじみへの懐かしさも、故郷の空への感慨も、見えなかった。
その時である。再び進みだそうとしたキュランの前方から、巨大な水音が響いてきた。
「え?」
ばっしゃーん、という派手な音が、荘厳な中庭に不恰好に響く。あまりにも異質に過ぎるその騒音に、キュランは無意識に歩調を速めた。
音の震源は、目指している噴水のようだった。
「…あら?」
急ぎ足になりながら、キュランはふと眉を寄せる。前方から流れて来る人声に、どこか聞き覚えがあった。
まさかと思って走り出す。瀟洒な中庭の石畳が、彼女の細いつま先の音を響かせた。
「い、い、いえ、あの、けっこうです~っ…」
高く、はっきりと声がする。噴水を迂回しようとしたキュランは、それが誰のものであるのか完全に理解した。
ぱっと開けた視界の中央に、ずぶ濡れになってへたりこむ少年と、彼ににじり寄る少女の姿が飛び込む。キュランは半ば無意識的に、目前の光景に口を開いた。
「……ミシェル?」
唖然としたような響きを持って思わずついて出た呟きに、彼は硬直するように目を見開いて、雫のたれる髪のままゆっくりとふり返った。
「……キュウ…?」
「…ナニやってんの、あんた」
ぽかんとしたミシェルの顔に、置き忘れていたようなキュランの意識が蘇る。
目前の光景はひどくセンセーショナルで、自然と視線がななめになった。無意識にドスのきいた声になり、みっともないと思いながらも、顔が般若になるのを止められない。
そんなキュランの視線にさらされて、ミシェルは少女に押し倒されるような体勢のまま、ぼんやりと唇を開いた。
「……えーと……」
煮え切らない彼の様子に、瞬間的にキュランの沸点が下がる。
「えーと、じゃないでしょっ!! あんた、真昼間っからこんなところでナニやってんのよ!!」
「え?! い、いやちが、それ誤解!」
今更のように慌てて、ミシェルは真っ赤になって首を振った。その瞬間、濡れた髪から雫がはねて、ミシェルの胸元に手を伸ばしていた少女が小さく悲鳴をあげる。
「あっ…すみません、ミス・レブルック…」
「いいえ、平気ですわ」
にこりと微笑んで、シャンティ・レブルックはそっと懐からハンカチを取り出すと、それをやんわりとミシェルの頬に滑らせながら、ちらりとキュランに視線を返した。
「ところで…こちらの方は?」
いっそはっきりとした挑発に、キュランの眉が跳ね上がる。けれど彼女はぐっと堪えて、慎み深い微笑みを浮かべた。
「…はじめまして。わたくし、シスター・キュラン・ヒューイットと申します。シナモン大統領補佐官とは、幼なじみの間柄です」
ハキハキとした涼しげな声音に、ミシェルは背筋の冷えるような感覚を覚えた。それはもちろん、水に濡れたせいだけじゃない。
キュランの言葉を受けて、シャンティはすっくと立ち上がった。艶やかな黒髪が肩口で切りそろえられ、どこか異国情緒のある面持ちの可憐な少女は、キュランに負けず劣らず優雅な様子で微笑みを返す。
「まあ、シスターでいらっしゃいますの。申し遅れました、わたくしはアヴェ国官房政務次官アレクシス・レブルックの妹で、シャンティ・レブルックと申します」
「官房政務次官…」
告げられた言葉に、打たれたように呆然と呟いて、キュランは目を丸くした。その反応が気に入ったのか、シャンティは気分よく微笑む。
「はい。本日は、兄について官邸へ参りましたの。月に数回、行儀見習として官邸入りしております関係で、ミシェル様とも懇意にさせていただいております」
「……まあ」
にこり、と微笑んで、キュランはそのままミシェルを見やった。深緑の大きな瞳が笑っていない。ミシェルはぞっとするようなものを感じて、へたりこんだままの足からさらに力が抜けていくのを感じた。
「…とにかく、着替えた方がよろしいのではないですか? シナモン補佐官」
微笑みを浮かべた唇で、キュランは怜悧な刃物のような声で言った。ミシェルはずぶ濡れの冷えた身体を揺するように、ひどくぎくしゃくと頷く。
「え、あ、うん」
「ミシェル様、さあ、早く参りましょう。風邪をひいてしまいますわ…それでは、申し訳ございませんけれどもシスターヒューイット、ミシェル様のお召し変えがすみましたのち、改めて…」
まるで、そうする事が当然とでも言いたげに、ミシェルの腕をそっと取ってその場を仕切る少女に、キュランは貼り付けたままの笑顔を向けていた。しかし、遠目からはわからないが、こめかみのあたりがわずかに波うっている。
その時だった。言い知れぬ奇妙な緊張が走る三人のもとに、官邸の方向からにぎやかな声音が近づいてきた。
「その件は、もう取り次がぬ約束だが? ダズリー」
「しかし、レブルック次官…」
忙しないやり取りは徐々に近づいて来る。それにいち早く反応したのは、ミシェルの手を取っていた小柄な少女だった。
「アレクシスお兄様」
「ああ…シャンティ。ここにいたか」
不意に造園の間をぬってこちらにやってきたのは、襟元まできちんとした官服を着こなした若い男。目前の少女と面差しを良く似させた、どこか冷たい雰囲気の彼は、観察と判断に長けた視線でミシェルたちを一瞥する。
「…いくら真夏とは言え、中庭で水浴びをするのは酔狂だな、シナモン」
「いえ、これは…」
迫力に屈するように、ミシェルの言葉尻が切れる。そんな彼を庇うように、シャンティが鈴音のような声をふるった。
「違いますわ、お兄様。ミシェル様は、わたくしをかばって噴水に落ちてしまいましたの。わたくしが悪いんですわ」
「いえ、私の不注意です、ミス・レブルック…」
「どちらにどう非があろうとも、濡れ鼠の状態で呑気に歓談できる神経は理解に苦しむな」
さらりと言い分を撥ね付けて、官房政務次官アレクシス・レブルックは、冷たい眼差しを背後に向けた。
「いつまでそこに突っ立っているつもりだ? アスワン・ダズリー。これ以上の論議の必要性は感じられないが」
その言葉に、凡庸を絵に描いたような男が背筋を伸ばした。
「いえ…しかし、レブルック次官。何度も申しげますが、これ以上経費の削減案をたたれては、ニサンとの国交にも差し障りが生じます。ひいては…」
ちらり、と、ダズリーという名の男の視線がミシェルに注がれた。ミシェルはさっと表情を改める。彼に遠慮するように、ダズリーが声音を潜めた。
「…ひいては、ニサン大教母と血縁関係にあたる、我が国の大統領のご不興も買うおそれが…」
「この国は未だに専制君主国とでも言いたげだな、ダズリー」
鋭い言葉に、ダズリーははっと言葉を飲んだ。居たたまれなく視線を外す彼を、蔑むように見やって、アレクシスが皮肉な唇を曲げた。
「大統領は国の統治者であると同時に、国の指針でなければならない。その彼が、自らの血縁だからといって一国の元首と私情にまみれた国交をもてば…どうなるか想像できるか? シナモン」
水を向けられたミシェルは、唇を噛んだ。
「国は腐敗するばかりだ」
ためらいなく断言すると、にやり、という形容が似合う笑みを浮かべ、アレクシスは再びダズリーに視線を向けた。
「アヴェ国におけるウェルス変異体及び変異後種への援助金予算額は、先日の臨時総会で決定しただろう。それに従え、ダズリー」
「しかし! 今回の総会で、従来の援助執行額から二割削減となったのは、どういうことですか、レブルック次官!」
堪えきれぬものを吐き出すように、ダズリーが言った。愚直な彼の言葉に、レブルックが視線を斜めにする。
「どういう、とは?」
「年度始めの予算会議では、今までの援助額で決議されていたはずです。それが何故、臨時総会で覆されるのですか? 噂では…」
そこまで言って、ダズリーがはっと口を閉ざした。蒼白になった彼に、レブルックがじり、とつま先を向ける。切れ長の瞳が、狡猾そうな光をたたえていた。
「噂では? なんだ、ダズリー。私は貴様と違って、女のように四六時中井戸端会議に興じる暇もないのでね、恥ずかしながら世情に疎いのだよ。良ければ聞かせてくれるか? その『噂』とやらを」
「…ッ! 官邸中を席巻している噂では、レブルック次官、あなたはウェルス変異体へ私怨を持っていると! そのために、本来正当な権利を有するべき変異種の対偶が、悪化しているのだ…と…」
ダズリーは言いきらぬうちに、何かに喉を塞がれたように立ち尽くしてしまった。ミシェルは思わず、無言でダズリーと対峙するアレクシスの背に、弾かれたような声をあげる。
「…アレクシス次官!」
「…騒ぐな、シナモン。愚にもつかない戯れ言を、下劣に垂れ流す脳の足りん連中相手に、本気になるほど俺は暇じゃない」
言って、アレクシスは挑発するような視線をミシェルに合わせた。
「…もっとも、我が国の大統領閣下ならば、この程度の安い挑発でも、簡単に我を忘れるかもしれんが」
「…ッ」
ミシェルの肩が震えた。彼の燃えるような視線を受けて、アレクシスは嘲笑を深める。そしてそのまま、硬直したダズリーに向き直った。
「ダズリー。その噂のニュースソースは知らんが、半分だけは当たっていると認めよう。私は私怨で政治を行うほど単純ではないが、貴様の言う通り、ウェルス変異体にはなみなみならぬ思い入れがある……それは、この世界に住む人間、誰しもが抱くものだろうがな」
言いながら、アレクシスは骨ばった指で黒髪をかきあげた。
「本来、ウェルス種などに経費を回すこと自体馬鹿げている。そんな余裕があるのならば、復興に喘ぐ国民に少しでも還元すべきだ。ものの役にも立たない、ただ生きているだけの『化け物』などに、何故余力を回す必要がある」
「レブルック次官…このようなところでそれは…、少々言い過ぎでは…」
苦いものを含めるように、ダズリーが唸った瞬間、彼とアレクシスとの間に、風のような気配がすべりこんだ。
と。誰もが理解する前に、アレクシスの左頬が高らかに音を立てた。
「……っ」
息を呑んだのは、ミシェルとシャンティだった。アレクシスの頬を打った白い手は、そのまま虚空をゆっくりと泳ぎ、胸の前に戻る。
衝撃に横を向いたアレクシスの眼前で、キュランが白い手を胸に添えたまま唇を開いた。
「はじめまして、レブルック次官。手荒な御挨拶になりましたことはお詫びいたしますけれど、わたくしはニサン正教に帰依する者としての、当然の責務をまっとうしたまでです。どうか悪く思わないで下さいませね」
にっこりと、冷ややかな笑みを浮かべたキュランが、まっすぐにアレクシスを睨みつけた。アレクシスは顔を斜めにしたまま、静かに打たれた頬に拳を当てる。口のはしが歪んでいた。
「…ニサンの? シスターか……これは、失礼」
ゆっくりと呟いて、アレクシスはまっすぐにキュランと対峙した。何の感情も浮かべないアレクシスの紫紺の瞳が、キュランのそれにまっすぐに重なる。
沈黙。おそらくはそう長くはないそれに、しかし耐え切れなかったのはミシェルだった。
「アレクシス次官! 彼女は、正教の教えに忠実なシスターで、ウェルス種への慈愛も深く、つい感情的に…」
アレクシスとキュランとの間に強引に割り込んだミシェルに、アレクシスは皮肉げな笑みを向けた。
「シナモン。私は、職務に忠実なシスターの暴挙に目くじらを立てるほど、狭量な男ではないよ。…言葉の撤回を要請しないその心意気も、なかなかのものだ、シスター」
「一度唇を離れた言葉に、撤回も訂正も意味はありません。そして、その言葉を生み出した人間の心に、口はしを挟むほどの含蓄も、わたくしにはありませんわ」
「ほう…口は出さぬが手は出すと。最近のシスターは過激だな」
「お褒めに預かり、光栄です」
自分の前後で繰り広げられる舌戦に、ミシェルは蒼白になった。しかし彼が必死にその場を取り繕う前に、不意に興味が失せたようにアレクシスがきびすを返す。
「話はこれまでだ、ダズリー。まだ不服があるというのなら、貴様自身が議会にでも大統領にでも談判にいけ。もっとも、私の下で今後も働こうという気があるのならば、もう一度その腐れた脳味噌で愚考する事を勧めるがな」
「……」
唇を噛みしめたダズリーには一瞥もくれず、アレクシスは半ば硬直したような妹に歩み寄る。
「行くぞ、シャンティ。もう用はすんだ」
「え…では、大統領とはお会いに?」
「ああ。もともと下らぬ些末事だ。…では失礼する、シナモン。シスター……」
不意に言葉を区切ったアレクシスが、すいと視線を流した。キュランはまっすぐに深緑の瞳を向けたまま、涼しげな答えを返す。
「シスター・キュラン・ヒューイットと、申します」
「……シスターキュラン。次に会う時は、お手柔らかに頼むよ」
酷薄な笑みのまま、アレクシスはシャンティを伴って中庭を去っていった。
しばらく、呆然とした様子でそれを見送っていたミシェルだったが、すぐに我に返ったようにキュランをふり返る。
「キュランッ! なんだってあんな事…」
「嫌な男だからよ」
ふん、とあごをそらして、キュランは自信たっぷりに言った。ミシェルは、乾ききらぬ琥珀の髪をかきむしりつつ、特大のため息をつく。
「嫌なって…あのねえ、あのひとは、官房長官の有能な懐刀の、政務次官なんだよ? ものすごく地位のある人なんだよ? そんな人にこんなところで手をあげるなんて…」
「そんなの関係ないでしょ! 嫌なことを言う男だから、殴ってやっただけよ。あーせいせいした。でも手が痛いわ。なんでグーで殴らなかったのかしら、あたし」
「キュラン!」
ミシェルが再び声を荒げた瞬間、二人の背後からおずおずとした声がかかった。
「あの…シナモン補佐官」
「あ…ダズリーさん、すみません、ヘンなとこ見せて…」
気付いたように謝るミシェルに、ダズリーは人のよさげな笑みを浮かべた。
「いや、いいんだよ…でも、すごいですね、シスター。あのレブルック次官を殴るなんて」
「え…まあ、ほほほ……」
今更のように、しとやかなシスターぶりを取り繕うキュランを呆れたように眺めやって、ミシェルはダズリーに向き直った。
「そんなことよりも、ダズリーさん…あの…」
「いや、シナモン補佐官…今のは、聞かなかったことにしてくれるかな。ウェルス種については、レブルック次官以下、僕たちに任された政務だから…他の人間には、なるべく内部のごたごたは…さ」
「ああ…ええ、他言はしません。ですが、大変ですね…ダズリーさん」
「…ははは、まあね…。ほら、あの人は家柄も正しい『王国崩れ』だからさ…おっと、いけない、こんなところで立ち話してたら、またどやされてしまうよ。では、失礼します、シスター」
気の弱い笑みを見せて、ダズリーはそそくさと立ち去っていった。その後ろ姿を見やって、キュランが呆れたように肩をすくめる。
「どこの世界も、いつの世も、権力に逆らえない人間っているのよねえ」
「ダズリーさんだって、苦労してるんだよ。なんてったって、ウェルス種専門室の、室長だからね…実質、アレクシス次官の直属の部下さ」
「ふうん…。あんな男に四六時中付き従ってて、世の中イヤになんないのかしらねえ」
「まあねえ…いろいろあるさ、イロイロ………って!」
はた、と気付いて、ミシェルは改めてキュランをふり返った。
「キュラン! なんでここにいるの!? 大教母さまの随行メンバーに、入ってなかったじゃないかっ」
「ああ…うん。まあね。厳密にはあたし…プライベートでアヴェに来てるから」
「プライベート?」
その言葉に、なぜかミシェルの胸が高鳴った。向かい合って、まじまじと自分を見つめるミシェルに、キュランは怪訝そうな顔を向ける。
「なに?」
「いや…その…め、珍しいよね、キュウがプライベートでこっちに来るなんて…」
「珍しいっていうか、初めてよ。シスターになってから、休暇とって、ニサンの外に出るなんて」
「ふ、ふうん…。で? なんで急に、アヴェに来た…の?」
くりくりと指先を合わせつつ、ちらりとキュランを見やったミシェルに、ブロンズ・グレイの髪を背中に払いのけながら、キュランはあっさりと答えた。
「里帰りみたいなものかしらね。マチカに行くつもりなの」
「ふうん、マチカに……って、ええ!? マチカぁ?!」
素っ頓狂な声をあげるミシェルの口を、キュランは乱暴に塞いだ。
「うるさいわね!叫ばないでよ、誰かに聞かれたらどうすんのよ…」
「だ、だってキュウ…マチカって、今は廃墟になってるんだよ? 街の人たちも、無事な人はみんなブレイダブリクに来ちゃってるし…今さら、あんなところに行ったって何もないよ?」
「いいのよ、別に…何もなくても。でも、一度はやっぱり見ておきたいじゃない。故郷なんだもん」
そう、静かに呟くキュランの瞳が、どことなく寂しげに見えて、ミシェルはそっと彼女の手に触れた。力強い張り手を飛ばす手のひらは、しかし華奢で柔らかかった。
「なっ…なによ」
「僕も行く」
「はぁっ?」
言ってのけたミシェルの言葉に、キュランは真ん丸に目を見開いた。ミシェルはさりげなくキュランの手のひらを離しつつ、ぽりぽりと鼻の頭をかく。
「いや…だってさ、マチカっていったら僕の故郷でもあるじゃない…。なんか、話聞いてたら急に、懐かしくなったっていうか…」
「ばっ…馬鹿ね! あんた仕事はどうするのよ」
「休みもらえると思うんだ、一日くらい。ちょうど今、大統領がノアトゥンのサミットに向かわれて、補佐官は仕事少ないし…」
「だ、ダメよ! 遊びじゃないんだからっ」
「え?」
キュランの言葉に、ミシェルがきょとんと首を傾げる。キュランははっとしたように口元を押さえ、強い口調でミシェルを睨んだ。
「だっ…大体、ブレイダブリクからマチカまで、どれくらい距離があると思ってんのよ。少なくとも、まる一日潰れちゃうわよ」
「うん、まあ…」
「うんまあって…とにかく、いっしょになんて冗談じゃないわよ、ダメ!」
「なんで?」
「なんでって……ダメなものはダメよ! あんたはおとなしく、ここで仕事してなさい!」
一方的に言い切るキュランに、ミシェルは怪訝そうな顔を向ける。そして、きゅ、と眉根を寄せた。
「…キュウ、またなんか、変なことに首突っ込んでない?」
「なっ…なに言ってんのよ、馬鹿じゃないの?」
「ふうん…まあいいけど。でも、知ってた? ブレイダブリク外の廃墟に行く場合は、身分証明を呈示して砂漠用のバギーを申請しなきゃならないって」
「知ってるわよ」
「その申請、国外の人間だと受理まで最低五日かかるって…それは知ってる?」
「……!」
ぎょっとした風のキュランに、ミシェルはしたり顔で肩を竦めた。
「知らなかったんだ? じゃあ…きっと、休暇はそれより短いね。ああ…帰りも、大教母様たちの一行と一緒なら、三日くらいしかないのかな」
にやにやと、意地の悪そうな顔をするミシェルに、キュランはわなわなと唇を震わせる。きめの細かい白い頬が、あっさりとピンク色に染まっていた。
「どうするの? 僕と一緒に行くなら、僕が申請して明日にでもバギー使えるけど」
「…あ、歩いて行くわよ!」
「歩いて?! 冗談でしょ、マチカまでどれくらいあると思ってんの! それに、砂漠の独り歩きなんて危険だよ!」
ぴしゃりと言い切るミシェルに、キュランは眉根を寄せた盛大に不機嫌そうな顔のまま、つんとそっぽを向く。
「危険じゃないわよ。知ってるでしょ? あたしは強いんだから」
「そう言う問題じゃないよ!」
「そう言う問題よ!」
「あのねー!」
そのまま、喧々轟々と続くはずだった言い争いは、しかし凛としたバリトンによって遮られた。
「なにをしてるんだ? ミシェル、シスターヒューイット」
「え? あ…ッ筆頭!」
はっと我に帰って、ミシェルとキュランは仲良く同時に振り返る。呆れたような面持ちでそこに立っていた褐色の肌の青年は、まず初めにミシェルの散々な状態に目をやって眉を潜めた。
「…ミシェル。この暑さで泳ぎたくなる気持ちもわかるが、服くらい脱いだらどうだ?」
「え? あ……へっっくしゅッ!!!」
言われて、改めて濡れ鼠の状態に気付いたミシェルは、盛大にくしゃみをした。キュランは呆れたように眉をあげ、そのまますたすたとシグルドの方へ向かう。
「先に参りましょう、ハーコート筆頭。この分では、ミシェルが着替えるのを待つだけで日がくれてしまいますわ」
「キュラン!」
「ホント、昔も今もかわらず、ドンっくさいわねっ!!」
先ほどまでの怒りを持続したまま、キュランは捨て台詞を残してすたすたと歩き去ってしまった。
残されたミシェルとシグルドは、しばし無言でブロンズ・グレイの髪が消えていくのを見送る。
「…相変わらずだな、彼女は」
「…はあ」
苦笑を噛み殺したようなシグルドの言葉に、ミシェルは力なく頷いた。シグルドの言外に「…そしてお前もな」という幻聴が聞こえる。おそらく気のせいではないだろう。
「行くか。本当に早く着替えないと、夏とは言え風邪をひくぞ。濡れた服は」
「ええ、すみません、筆頭…」
「ミシェル」
言いさしたシグルドに、ミシェルはきょとんと顔を向ける。シグルドは深い碧玉の隻眼をミシェルに合わせたまま、ひっそりと声を潜めた。
「…今晩、夕飯がすんだら、東棟の大統領第二政務室に来なさい」
「え?」
「大統領が、お話があるそうだ」
「は……はい」
シグルドの静かな声音に、ミシェルはとりあえず頷いた。
けれどなにか、その声音に不穏なものを感じて、肌に張り付く服の不快な感触に後押しされるよう、その背筋をブルリと震わせる。
アヴェの炎天下が、じりじりとミシェルの濡れた身体を焼いていた。
「マ…マルー??」
「…若!」
互いに、まさかこんなに早く会えるとは思っていなかったのだろう、驚きを通り越して呆気にとられたような顔で見つめ合う。大統領官邸の正門から続く、豪奢なホールでの一幕だった。
「若っ!」
はしゃいだ声をあげて、大教母が走り出した。旅装束を身にまとった数人のシスターが道を開け、彼女を護衛していた僧兵たちが、示し合わせたようにあらぬ方向を向く。
瀟洒な修道服のすそをさばき、まっすぐにこちらに駆け寄ってくる少女に、バルトは呆気にとられていた自我を取り戻して、条件反射のように腕を広げた。
「久しぶり~っ!」
まるで磁石の対極が重なるように、不自然なく腕に収まった小さな身体を抱きしめて、バルトは嬉しそうに笑った。
「なんだよ、早いな、マルー! 昼ごろ着くっつってなかったか?」
「うん、その予定だったんだけどね、途中で天候が変わって、砂嵐に遭いそうだったから、強行軍で来たの…もうくたくただよ」
「そっか。あーあ、お前砂まみれじゃねえか、よっぽど急いだんだな」
「えっ? あっ! やだ若、ちょっと離して!」
「あん?」
じゃれるようにしていた従兄弟、もとい婚約者の腕からもがき出て、マルーはぱっと距離をとった。バルトは突然空虚になった両手を苦々しく広げたまま、不機嫌そうになる。
「なんだよ?」
「だって~! こんな埃まみれの砂まみれじゃ…」
「なに言ってんだ、今さら」
「今さらだけど! …だって若が悪いんだよ、こんなところに突然いるからさ。ホントはもっとちゃんと支度してから会う予定だったのに…」
「俺のせいかよ」
「っていうか…も~、計画ぐちゃぐちゃ~」
一ヶ月ぶりなのに、とかなんとかぶつぶつと呟きながら、パタパタと自分のすそや髪の埃を払うマルーに、バルトは何かを言いかけてふっと笑みを深めた。
なんだか、こんなかけあいは新鮮じゃないか?
本人たちの気持ちはどうあれ、単なる従兄妹同士として接していたころには感じられなかった、どこかくすぐったいような甘い感慨を胸に、バルトは満足げに口端を上げた。
人が見ればそれは、完璧にやに下がった笑み。幸せを満喫しまくっている大統領が、再び大教母の元へ歩を進めようとした瞬間、ホールの向こうから低いバリトンが飛んできた。
「マルーさま! お早いお付きですね」
「シグ!」
ぱっと顔を輝かせて、マルーが叫ぶ。そのまま、バルトの横をひょいとすり抜けて、パタパタと駆け出し…
「……」
「久しぶり、シグー!」
ひく、と頬を引きつらせるバルトの背後で、嬉しそうなマルーの声が上がった。振り返らずとも、おそらく自分と同じ再会の抱擁をかわしているのは明白で、結局こうかよ、と、哀れな大統領閣下は苦々しく吐き捨てた。
「おいコラ! マルー、お前埃がどーとか言っといて、シグにも抱きつくのかよ!」
「えっ? あー!! そうだった、つい…ごめんねシグっ」
「え? いいえ別に、気になりませんよ。それよりもマルー様、だいぶお疲れのご様子ですね。お部屋をご用意いたしましたので、そちらでおくつろぎください」
そつのない筆頭補佐官が、ちらりとニサン一行に目を配る。大教母と大統領のかけあいに遠慮して、慎み深く視線を外していた一行のうち、にこにこと微笑むシスターが一人。
「これは…お久しぶりです、シスターアグネス」
「ご無沙汰いたしております、シグルド卿」
落ち着いた声音に、ニサン一行の不自然な緊張がほぐれた。それを潮に、バルトとじゃれていたマルーがはっと我に返る。
「あ! ごめんね、みんなをほったらかして…シグ、みんな砂漠の強行軍で疲れているから、休ませてあげてくれないかな」
「承知しております。ノアトゥンへの出立は、予定通り明朝になりますので、その間ゆっくりと旅の疲れを癒してください」
シグルドが言って背後を振り返ると、何人かの官邸関係者が心得た様子で動き出した。シスターたちから荷物を預かり、それぞれに用意された部屋へ案内する様子を見ていたシグルドが、おや、と声をあげる。
「あなたは…シスターヒューイット?」
声をかけられて、すらりとした背の高いシスターが慌てたようにふり返った。アグネスが、そつのない様子で彼女を手招く。
「こちらへ、シスターヒューイット」
「あ…はい、シスターアグネス」
おずおずと歩を進め、シスター・キュラン・ヒューイットは、改めてシグルドと、そしてバルトの前に立ち、優雅に一礼をした。
「お久しぶりでございます、大統領閣下、ハーコート筆頭」
「なんだ、あんたも随行メンバーに入ってたのか?」
気安い様子でバルトが声をかけると、キュランに代わってアグネスが答えた。
「本来は、構成人員ではなかったのですが、このたびシスターヒューイットは長期休暇を取りまして、アヴェに里帰りすると申していましたので、同行させたのです」
「里帰り?」
「キュランは、アヴェの出身なんだよ、若」
マルーの補足に、バルトはああ、と得心する。
「そういや、あんたミシェルと同郷っつってたよな。とすると、出身は……マチカか?」
ふ、とバルトの表情が改まる。キュランはそつのない様子で、静かに頷いた。
「はい、そうです」
「マチカ…でも、マチカって言やあ…」
そこまで言って、不意に言葉を濁したバルトに、キュランはかすかに頷く。
「はい。今はもう、故郷であるマチカには、なじみの者は誰一人おりません。ですので、里帰りというには語弊があるのですが…」
そう言って微笑むキュランに、バルトは少し考えるように顎をさする。彼の鋭い碧玉の瞳が、誰にも気付かれぬようにわずかにすがめられた。
「…ま、そういうことなら、存分にブレイダブリクを満喫してってくれよ。そうだ、あんた滞在中の宿とか決めてんのか? なんなら官邸使ってくれていいぞ」
「ええっ?!」
妙に気のきいたバルトの言葉に、キュランは驚いて声をあげた。慎み深いシスターの仮面がはがれかけてきたキュランに、アグネスはちらりと横目をくれる。
「シスターヒューイット、特に予定がなかったのならば、大統領閣下のお言葉に甘えさせていただきなさい」
「し…しかし、シスターアグネス! 一介のシスターであるわたくしの私用で、アヴェ行きの一行に加えていただいただけでもありがたいというのに、この上…」
「いいのいいの、キュラン」
恐縮するキュランを、マルーが可愛らしく微笑んでさえぎる。
「若はね、この間キュランにいっぱい迷惑かけちゃったから、この機会に恩返しするつもりなんだよ」
「って、おいマルー! なに言ってんだよっ」
慌てたように声を荒げるのは、図星をつかれた時のバルトの癖である。それを知っている人物たちは、マルーの台詞に深く頷いた。
「そういうことだ、シスター。到底こんなことでは帳尻はあわないだろうが、若の一方的な恩返しに付き合ってやってくれないか」
「シグ!」
「そうですね、一国の大統領ともあろうお方が、恩を受けっぱなしというのも問題があります。シスターヒューイット、ここはお言葉に甘えるのが筋というものですよ」
「アグネス!」
「というわけだから、キュランはボクたちがノアトゥンから帰るまで、ここでゆっくりしていてね」
「~~~~っ」
最後、マルーが決定事項のように言いきって、誰も逆らえない笑顔を浮かべるに至り、バルトは悪あがきをやめて、おとなしくあらぬ方を睨んだ。浅黒い頬をわずかに紅潮させながら「んなつもりじゃねえよ…」などと、往生際の悪いことは呟いていたけれど。
「あ……ありがとう、ございます…」
自分にとって、雲の上にも匹敵する人たちの一方的な決定に、逆らえるキュランではない。もとよりありがたいことには違いない申し出だったので、ここはひとつ、素直に感謝の意を述べる事にした。
「さーて、話は決まったんだから、さっさと行こうぜ。多分、今ごろ爺が手ぐすねひいて待ってるぞ、マルー」
ぱっと話を切り替えたバルトに、マルーはにっこりと頷いた。
「うんっ! あ、その前に、お風呂~」
「だぁから、いいって別に」
「よくない!」
「ちぇっ…変なところでこだわるよなあ、女って…」
「若はこだわらなさすぎなの! 行こ、アグネス、キュラン」
振り返ったマルーに、キュランが頷こうとした瞬間、前を歩いていたバルトが思い出したように声をあげた。
「そうだ! …おいキュラン、疲れてっとこ悪ぃんだけど、うちのミシェルを呼んできてくんねえかな」
「え?」
きょとんとしたキュランに、バルトはにやりと微笑む。
「さっき、会議室で寝こけてやがってよ、この頃たるんでんだよなああいつ。もしかしてまだ会議室にいるかもしんねえから、迎えにいきがてら、一発がつんと言ってやってくれよ。幼なじみのよしみで」
「はあ…」
「ちょっと若、キュランだって疲れて…むぐっ」
「あ? 何? さっさと風呂に入りたい? しょうがねぇなあ、じゃあ俺の部屋の使わせてやるよ、トクベツに」
「むぐぐ~っ」
小柄なマルーを抱えるようにして、バルトがさっさと歩いていってしまう。呆気にとられたキュランに、シグルドが苦笑じみた声をかけた。
「すまん、シスター。…会議室への最短ルートは、この中庭を突っ切って、噴水の向こうの棟に行く道だ。ミシェルに会ったら、先日メイソン卿にお茶をふるまわれた部屋へ来てくれ」
「あ…はあ…」
片手で拝むようにしてきびすを返すシグルドと、それに並んで歩いていくアグネスとを見送って、キュランは呆気にとられたように立ち尽くした。
「…何なの……?」
誰にともなく呟いて、キュランはぽりぽりと頭をかく。そうして、おもむろに修道服のすそをちょいちょいと整えてから、言われた通り中庭へ向かった。
本格的な夏を迎えたアヴェの蒼穹は、吸い込まれるほど鮮やかだ。
時折流れる白い雲とのコントラストが、記憶の底にある故郷のそれと重なって、キュランは思わず上空を見上げたまま深く息を吸い込む。
「あぁ……相変わらず綺麗ねえ、ここ…」
砂の大国であるはずのアヴェの大統領官邸には、しかし水と緑の都と称されるニサンにもひけをとらぬほどの、美しい中庭が広がっていた。
まるでそれそのものが、いつか迎えるニサンの象徴である少女を、密かに待ち望むアヴェの意思のように思えて、キュランは嬉しさに頬をゆるめる。
煉瓦色の小石が敷き詰められた、瀟洒な石畳をこつこつと進みながら、キュランは我知らず手にしていたハンドバッグに手を添えた。
アヴェ滞在中に必要な諸々の日常品は、僧兵たちが運ぶ荷物の中に紛れ込ませてもらっている。このバッグに入っているのは、身軽に動く際に必要な雑貨と、あと……
「……なんでこんなもの、持ってきちゃったのかな~…」
今さらの自嘲を呟いて、キュランは困ったように細い眉を寄せた。こつこつと進む歩調は変わらないけれど、目的の場所に近づくにつれて、言い知れぬ緊張が浮かぶ。
緊張…違う、これはきっと、嬉しいのだ。
久しぶりに会える、幼なじみとの邂逅が…多分、嬉しいのだろう。
そう考えて、キュランは軽く首を振った。一度ぴたりと歩を止めて、改めて背筋をのばす。大きく吸い込んだ空気を肺に留め、凛として前方を見据えるその深緑の瞳にはもう、幼なじみへの懐かしさも、故郷の空への感慨も、見えなかった。
その時である。再び進みだそうとしたキュランの前方から、巨大な水音が響いてきた。
「え?」
ばっしゃーん、という派手な音が、荘厳な中庭に不恰好に響く。あまりにも異質に過ぎるその騒音に、キュランは無意識に歩調を速めた。
音の震源は、目指している噴水のようだった。
「…あら?」
急ぎ足になりながら、キュランはふと眉を寄せる。前方から流れて来る人声に、どこか聞き覚えがあった。
まさかと思って走り出す。瀟洒な中庭の石畳が、彼女の細いつま先の音を響かせた。
「い、い、いえ、あの、けっこうです~っ…」
高く、はっきりと声がする。噴水を迂回しようとしたキュランは、それが誰のものであるのか完全に理解した。
ぱっと開けた視界の中央に、ずぶ濡れになってへたりこむ少年と、彼ににじり寄る少女の姿が飛び込む。キュランは半ば無意識的に、目前の光景に口を開いた。
「……ミシェル?」
唖然としたような響きを持って思わずついて出た呟きに、彼は硬直するように目を見開いて、雫のたれる髪のままゆっくりとふり返った。
「……キュウ…?」
「…ナニやってんの、あんた」
ぽかんとしたミシェルの顔に、置き忘れていたようなキュランの意識が蘇る。
目前の光景はひどくセンセーショナルで、自然と視線がななめになった。無意識にドスのきいた声になり、みっともないと思いながらも、顔が般若になるのを止められない。
そんなキュランの視線にさらされて、ミシェルは少女に押し倒されるような体勢のまま、ぼんやりと唇を開いた。
「……えーと……」
煮え切らない彼の様子に、瞬間的にキュランの沸点が下がる。
「えーと、じゃないでしょっ!! あんた、真昼間っからこんなところでナニやってんのよ!!」
「え?! い、いやちが、それ誤解!」
今更のように慌てて、ミシェルは真っ赤になって首を振った。その瞬間、濡れた髪から雫がはねて、ミシェルの胸元に手を伸ばしていた少女が小さく悲鳴をあげる。
「あっ…すみません、ミス・レブルック…」
「いいえ、平気ですわ」
にこりと微笑んで、シャンティ・レブルックはそっと懐からハンカチを取り出すと、それをやんわりとミシェルの頬に滑らせながら、ちらりとキュランに視線を返した。
「ところで…こちらの方は?」
いっそはっきりとした挑発に、キュランの眉が跳ね上がる。けれど彼女はぐっと堪えて、慎み深い微笑みを浮かべた。
「…はじめまして。わたくし、シスター・キュラン・ヒューイットと申します。シナモン大統領補佐官とは、幼なじみの間柄です」
ハキハキとした涼しげな声音に、ミシェルは背筋の冷えるような感覚を覚えた。それはもちろん、水に濡れたせいだけじゃない。
キュランの言葉を受けて、シャンティはすっくと立ち上がった。艶やかな黒髪が肩口で切りそろえられ、どこか異国情緒のある面持ちの可憐な少女は、キュランに負けず劣らず優雅な様子で微笑みを返す。
「まあ、シスターでいらっしゃいますの。申し遅れました、わたくしはアヴェ国官房政務次官アレクシス・レブルックの妹で、シャンティ・レブルックと申します」
「官房政務次官…」
告げられた言葉に、打たれたように呆然と呟いて、キュランは目を丸くした。その反応が気に入ったのか、シャンティは気分よく微笑む。
「はい。本日は、兄について官邸へ参りましたの。月に数回、行儀見習として官邸入りしております関係で、ミシェル様とも懇意にさせていただいております」
「……まあ」
にこり、と微笑んで、キュランはそのままミシェルを見やった。深緑の大きな瞳が笑っていない。ミシェルはぞっとするようなものを感じて、へたりこんだままの足からさらに力が抜けていくのを感じた。
「…とにかく、着替えた方がよろしいのではないですか? シナモン補佐官」
微笑みを浮かべた唇で、キュランは怜悧な刃物のような声で言った。ミシェルはずぶ濡れの冷えた身体を揺するように、ひどくぎくしゃくと頷く。
「え、あ、うん」
「ミシェル様、さあ、早く参りましょう。風邪をひいてしまいますわ…それでは、申し訳ございませんけれどもシスターヒューイット、ミシェル様のお召し変えがすみましたのち、改めて…」
まるで、そうする事が当然とでも言いたげに、ミシェルの腕をそっと取ってその場を仕切る少女に、キュランは貼り付けたままの笑顔を向けていた。しかし、遠目からはわからないが、こめかみのあたりがわずかに波うっている。
その時だった。言い知れぬ奇妙な緊張が走る三人のもとに、官邸の方向からにぎやかな声音が近づいてきた。
「その件は、もう取り次がぬ約束だが? ダズリー」
「しかし、レブルック次官…」
忙しないやり取りは徐々に近づいて来る。それにいち早く反応したのは、ミシェルの手を取っていた小柄な少女だった。
「アレクシスお兄様」
「ああ…シャンティ。ここにいたか」
不意に造園の間をぬってこちらにやってきたのは、襟元まできちんとした官服を着こなした若い男。目前の少女と面差しを良く似させた、どこか冷たい雰囲気の彼は、観察と判断に長けた視線でミシェルたちを一瞥する。
「…いくら真夏とは言え、中庭で水浴びをするのは酔狂だな、シナモン」
「いえ、これは…」
迫力に屈するように、ミシェルの言葉尻が切れる。そんな彼を庇うように、シャンティが鈴音のような声をふるった。
「違いますわ、お兄様。ミシェル様は、わたくしをかばって噴水に落ちてしまいましたの。わたくしが悪いんですわ」
「いえ、私の不注意です、ミス・レブルック…」
「どちらにどう非があろうとも、濡れ鼠の状態で呑気に歓談できる神経は理解に苦しむな」
さらりと言い分を撥ね付けて、官房政務次官アレクシス・レブルックは、冷たい眼差しを背後に向けた。
「いつまでそこに突っ立っているつもりだ? アスワン・ダズリー。これ以上の論議の必要性は感じられないが」
その言葉に、凡庸を絵に描いたような男が背筋を伸ばした。
「いえ…しかし、レブルック次官。何度も申しげますが、これ以上経費の削減案をたたれては、ニサンとの国交にも差し障りが生じます。ひいては…」
ちらり、と、ダズリーという名の男の視線がミシェルに注がれた。ミシェルはさっと表情を改める。彼に遠慮するように、ダズリーが声音を潜めた。
「…ひいては、ニサン大教母と血縁関係にあたる、我が国の大統領のご不興も買うおそれが…」
「この国は未だに専制君主国とでも言いたげだな、ダズリー」
鋭い言葉に、ダズリーははっと言葉を飲んだ。居たたまれなく視線を外す彼を、蔑むように見やって、アレクシスが皮肉な唇を曲げた。
「大統領は国の統治者であると同時に、国の指針でなければならない。その彼が、自らの血縁だからといって一国の元首と私情にまみれた国交をもてば…どうなるか想像できるか? シナモン」
水を向けられたミシェルは、唇を噛んだ。
「国は腐敗するばかりだ」
ためらいなく断言すると、にやり、という形容が似合う笑みを浮かべ、アレクシスは再びダズリーに視線を向けた。
「アヴェ国におけるウェルス変異体及び変異後種への援助金予算額は、先日の臨時総会で決定しただろう。それに従え、ダズリー」
「しかし! 今回の総会で、従来の援助執行額から二割削減となったのは、どういうことですか、レブルック次官!」
堪えきれぬものを吐き出すように、ダズリーが言った。愚直な彼の言葉に、レブルックが視線を斜めにする。
「どういう、とは?」
「年度始めの予算会議では、今までの援助額で決議されていたはずです。それが何故、臨時総会で覆されるのですか? 噂では…」
そこまで言って、ダズリーがはっと口を閉ざした。蒼白になった彼に、レブルックがじり、とつま先を向ける。切れ長の瞳が、狡猾そうな光をたたえていた。
「噂では? なんだ、ダズリー。私は貴様と違って、女のように四六時中井戸端会議に興じる暇もないのでね、恥ずかしながら世情に疎いのだよ。良ければ聞かせてくれるか? その『噂』とやらを」
「…ッ! 官邸中を席巻している噂では、レブルック次官、あなたはウェルス変異体へ私怨を持っていると! そのために、本来正当な権利を有するべき変異種の対偶が、悪化しているのだ…と…」
ダズリーは言いきらぬうちに、何かに喉を塞がれたように立ち尽くしてしまった。ミシェルは思わず、無言でダズリーと対峙するアレクシスの背に、弾かれたような声をあげる。
「…アレクシス次官!」
「…騒ぐな、シナモン。愚にもつかない戯れ言を、下劣に垂れ流す脳の足りん連中相手に、本気になるほど俺は暇じゃない」
言って、アレクシスは挑発するような視線をミシェルに合わせた。
「…もっとも、我が国の大統領閣下ならば、この程度の安い挑発でも、簡単に我を忘れるかもしれんが」
「…ッ」
ミシェルの肩が震えた。彼の燃えるような視線を受けて、アレクシスは嘲笑を深める。そしてそのまま、硬直したダズリーに向き直った。
「ダズリー。その噂のニュースソースは知らんが、半分だけは当たっていると認めよう。私は私怨で政治を行うほど単純ではないが、貴様の言う通り、ウェルス変異体にはなみなみならぬ思い入れがある……それは、この世界に住む人間、誰しもが抱くものだろうがな」
言いながら、アレクシスは骨ばった指で黒髪をかきあげた。
「本来、ウェルス種などに経費を回すこと自体馬鹿げている。そんな余裕があるのならば、復興に喘ぐ国民に少しでも還元すべきだ。ものの役にも立たない、ただ生きているだけの『化け物』などに、何故余力を回す必要がある」
「レブルック次官…このようなところでそれは…、少々言い過ぎでは…」
苦いものを含めるように、ダズリーが唸った瞬間、彼とアレクシスとの間に、風のような気配がすべりこんだ。
と。誰もが理解する前に、アレクシスの左頬が高らかに音を立てた。
「……っ」
息を呑んだのは、ミシェルとシャンティだった。アレクシスの頬を打った白い手は、そのまま虚空をゆっくりと泳ぎ、胸の前に戻る。
衝撃に横を向いたアレクシスの眼前で、キュランが白い手を胸に添えたまま唇を開いた。
「はじめまして、レブルック次官。手荒な御挨拶になりましたことはお詫びいたしますけれど、わたくしはニサン正教に帰依する者としての、当然の責務をまっとうしたまでです。どうか悪く思わないで下さいませね」
にっこりと、冷ややかな笑みを浮かべたキュランが、まっすぐにアレクシスを睨みつけた。アレクシスは顔を斜めにしたまま、静かに打たれた頬に拳を当てる。口のはしが歪んでいた。
「…ニサンの? シスターか……これは、失礼」
ゆっくりと呟いて、アレクシスはまっすぐにキュランと対峙した。何の感情も浮かべないアレクシスの紫紺の瞳が、キュランのそれにまっすぐに重なる。
沈黙。おそらくはそう長くはないそれに、しかし耐え切れなかったのはミシェルだった。
「アレクシス次官! 彼女は、正教の教えに忠実なシスターで、ウェルス種への慈愛も深く、つい感情的に…」
アレクシスとキュランとの間に強引に割り込んだミシェルに、アレクシスは皮肉げな笑みを向けた。
「シナモン。私は、職務に忠実なシスターの暴挙に目くじらを立てるほど、狭量な男ではないよ。…言葉の撤回を要請しないその心意気も、なかなかのものだ、シスター」
「一度唇を離れた言葉に、撤回も訂正も意味はありません。そして、その言葉を生み出した人間の心に、口はしを挟むほどの含蓄も、わたくしにはありませんわ」
「ほう…口は出さぬが手は出すと。最近のシスターは過激だな」
「お褒めに預かり、光栄です」
自分の前後で繰り広げられる舌戦に、ミシェルは蒼白になった。しかし彼が必死にその場を取り繕う前に、不意に興味が失せたようにアレクシスがきびすを返す。
「話はこれまでだ、ダズリー。まだ不服があるというのなら、貴様自身が議会にでも大統領にでも談判にいけ。もっとも、私の下で今後も働こうという気があるのならば、もう一度その腐れた脳味噌で愚考する事を勧めるがな」
「……」
唇を噛みしめたダズリーには一瞥もくれず、アレクシスは半ば硬直したような妹に歩み寄る。
「行くぞ、シャンティ。もう用はすんだ」
「え…では、大統領とはお会いに?」
「ああ。もともと下らぬ些末事だ。…では失礼する、シナモン。シスター……」
不意に言葉を区切ったアレクシスが、すいと視線を流した。キュランはまっすぐに深緑の瞳を向けたまま、涼しげな答えを返す。
「シスター・キュラン・ヒューイットと、申します」
「……シスターキュラン。次に会う時は、お手柔らかに頼むよ」
酷薄な笑みのまま、アレクシスはシャンティを伴って中庭を去っていった。
しばらく、呆然とした様子でそれを見送っていたミシェルだったが、すぐに我に返ったようにキュランをふり返る。
「キュランッ! なんだってあんな事…」
「嫌な男だからよ」
ふん、とあごをそらして、キュランは自信たっぷりに言った。ミシェルは、乾ききらぬ琥珀の髪をかきむしりつつ、特大のため息をつく。
「嫌なって…あのねえ、あのひとは、官房長官の有能な懐刀の、政務次官なんだよ? ものすごく地位のある人なんだよ? そんな人にこんなところで手をあげるなんて…」
「そんなの関係ないでしょ! 嫌なことを言う男だから、殴ってやっただけよ。あーせいせいした。でも手が痛いわ。なんでグーで殴らなかったのかしら、あたし」
「キュラン!」
ミシェルが再び声を荒げた瞬間、二人の背後からおずおずとした声がかかった。
「あの…シナモン補佐官」
「あ…ダズリーさん、すみません、ヘンなとこ見せて…」
気付いたように謝るミシェルに、ダズリーは人のよさげな笑みを浮かべた。
「いや、いいんだよ…でも、すごいですね、シスター。あのレブルック次官を殴るなんて」
「え…まあ、ほほほ……」
今更のように、しとやかなシスターぶりを取り繕うキュランを呆れたように眺めやって、ミシェルはダズリーに向き直った。
「そんなことよりも、ダズリーさん…あの…」
「いや、シナモン補佐官…今のは、聞かなかったことにしてくれるかな。ウェルス種については、レブルック次官以下、僕たちに任された政務だから…他の人間には、なるべく内部のごたごたは…さ」
「ああ…ええ、他言はしません。ですが、大変ですね…ダズリーさん」
「…ははは、まあね…。ほら、あの人は家柄も正しい『王国崩れ』だからさ…おっと、いけない、こんなところで立ち話してたら、またどやされてしまうよ。では、失礼します、シスター」
気の弱い笑みを見せて、ダズリーはそそくさと立ち去っていった。その後ろ姿を見やって、キュランが呆れたように肩をすくめる。
「どこの世界も、いつの世も、権力に逆らえない人間っているのよねえ」
「ダズリーさんだって、苦労してるんだよ。なんてったって、ウェルス種専門室の、室長だからね…実質、アレクシス次官の直属の部下さ」
「ふうん…。あんな男に四六時中付き従ってて、世の中イヤになんないのかしらねえ」
「まあねえ…いろいろあるさ、イロイロ………って!」
はた、と気付いて、ミシェルは改めてキュランをふり返った。
「キュラン! なんでここにいるの!? 大教母さまの随行メンバーに、入ってなかったじゃないかっ」
「ああ…うん。まあね。厳密にはあたし…プライベートでアヴェに来てるから」
「プライベート?」
その言葉に、なぜかミシェルの胸が高鳴った。向かい合って、まじまじと自分を見つめるミシェルに、キュランは怪訝そうな顔を向ける。
「なに?」
「いや…その…め、珍しいよね、キュウがプライベートでこっちに来るなんて…」
「珍しいっていうか、初めてよ。シスターになってから、休暇とって、ニサンの外に出るなんて」
「ふ、ふうん…。で? なんで急に、アヴェに来た…の?」
くりくりと指先を合わせつつ、ちらりとキュランを見やったミシェルに、ブロンズ・グレイの髪を背中に払いのけながら、キュランはあっさりと答えた。
「里帰りみたいなものかしらね。マチカに行くつもりなの」
「ふうん、マチカに……って、ええ!? マチカぁ?!」
素っ頓狂な声をあげるミシェルの口を、キュランは乱暴に塞いだ。
「うるさいわね!叫ばないでよ、誰かに聞かれたらどうすんのよ…」
「だ、だってキュウ…マチカって、今は廃墟になってるんだよ? 街の人たちも、無事な人はみんなブレイダブリクに来ちゃってるし…今さら、あんなところに行ったって何もないよ?」
「いいのよ、別に…何もなくても。でも、一度はやっぱり見ておきたいじゃない。故郷なんだもん」
そう、静かに呟くキュランの瞳が、どことなく寂しげに見えて、ミシェルはそっと彼女の手に触れた。力強い張り手を飛ばす手のひらは、しかし華奢で柔らかかった。
「なっ…なによ」
「僕も行く」
「はぁっ?」
言ってのけたミシェルの言葉に、キュランは真ん丸に目を見開いた。ミシェルはさりげなくキュランの手のひらを離しつつ、ぽりぽりと鼻の頭をかく。
「いや…だってさ、マチカっていったら僕の故郷でもあるじゃない…。なんか、話聞いてたら急に、懐かしくなったっていうか…」
「ばっ…馬鹿ね! あんた仕事はどうするのよ」
「休みもらえると思うんだ、一日くらい。ちょうど今、大統領がノアトゥンのサミットに向かわれて、補佐官は仕事少ないし…」
「だ、ダメよ! 遊びじゃないんだからっ」
「え?」
キュランの言葉に、ミシェルがきょとんと首を傾げる。キュランははっとしたように口元を押さえ、強い口調でミシェルを睨んだ。
「だっ…大体、ブレイダブリクからマチカまで、どれくらい距離があると思ってんのよ。少なくとも、まる一日潰れちゃうわよ」
「うん、まあ…」
「うんまあって…とにかく、いっしょになんて冗談じゃないわよ、ダメ!」
「なんで?」
「なんでって……ダメなものはダメよ! あんたはおとなしく、ここで仕事してなさい!」
一方的に言い切るキュランに、ミシェルは怪訝そうな顔を向ける。そして、きゅ、と眉根を寄せた。
「…キュウ、またなんか、変なことに首突っ込んでない?」
「なっ…なに言ってんのよ、馬鹿じゃないの?」
「ふうん…まあいいけど。でも、知ってた? ブレイダブリク外の廃墟に行く場合は、身分証明を呈示して砂漠用のバギーを申請しなきゃならないって」
「知ってるわよ」
「その申請、国外の人間だと受理まで最低五日かかるって…それは知ってる?」
「……!」
ぎょっとした風のキュランに、ミシェルはしたり顔で肩を竦めた。
「知らなかったんだ? じゃあ…きっと、休暇はそれより短いね。ああ…帰りも、大教母様たちの一行と一緒なら、三日くらいしかないのかな」
にやにやと、意地の悪そうな顔をするミシェルに、キュランはわなわなと唇を震わせる。きめの細かい白い頬が、あっさりとピンク色に染まっていた。
「どうするの? 僕と一緒に行くなら、僕が申請して明日にでもバギー使えるけど」
「…あ、歩いて行くわよ!」
「歩いて?! 冗談でしょ、マチカまでどれくらいあると思ってんの! それに、砂漠の独り歩きなんて危険だよ!」
ぴしゃりと言い切るミシェルに、キュランは眉根を寄せた盛大に不機嫌そうな顔のまま、つんとそっぽを向く。
「危険じゃないわよ。知ってるでしょ? あたしは強いんだから」
「そう言う問題じゃないよ!」
「そう言う問題よ!」
「あのねー!」
そのまま、喧々轟々と続くはずだった言い争いは、しかし凛としたバリトンによって遮られた。
「なにをしてるんだ? ミシェル、シスターヒューイット」
「え? あ…ッ筆頭!」
はっと我に帰って、ミシェルとキュランは仲良く同時に振り返る。呆れたような面持ちでそこに立っていた褐色の肌の青年は、まず初めにミシェルの散々な状態に目をやって眉を潜めた。
「…ミシェル。この暑さで泳ぎたくなる気持ちもわかるが、服くらい脱いだらどうだ?」
「え? あ……へっっくしゅッ!!!」
言われて、改めて濡れ鼠の状態に気付いたミシェルは、盛大にくしゃみをした。キュランは呆れたように眉をあげ、そのまますたすたとシグルドの方へ向かう。
「先に参りましょう、ハーコート筆頭。この分では、ミシェルが着替えるのを待つだけで日がくれてしまいますわ」
「キュラン!」
「ホント、昔も今もかわらず、ドンっくさいわねっ!!」
先ほどまでの怒りを持続したまま、キュランは捨て台詞を残してすたすたと歩き去ってしまった。
残されたミシェルとシグルドは、しばし無言でブロンズ・グレイの髪が消えていくのを見送る。
「…相変わらずだな、彼女は」
「…はあ」
苦笑を噛み殺したようなシグルドの言葉に、ミシェルは力なく頷いた。シグルドの言外に「…そしてお前もな」という幻聴が聞こえる。おそらく気のせいではないだろう。
「行くか。本当に早く着替えないと、夏とは言え風邪をひくぞ。濡れた服は」
「ええ、すみません、筆頭…」
「ミシェル」
言いさしたシグルドに、ミシェルはきょとんと顔を向ける。シグルドは深い碧玉の隻眼をミシェルに合わせたまま、ひっそりと声を潜めた。
「…今晩、夕飯がすんだら、東棟の大統領第二政務室に来なさい」
「え?」
「大統領が、お話があるそうだ」
「は……はい」
シグルドの静かな声音に、ミシェルはとりあえず頷いた。
けれどなにか、その声音に不穏なものを感じて、肌に張り付く服の不快な感触に後押しされるよう、その背筋をブルリと震わせる。
アヴェの炎天下が、じりじりとミシェルの濡れた身体を焼いていた。