FLORAISON-フロレゾン-

 降るような星空、と言うところか。

 真っ黒に塗り潰したキャンバスに、偏執的な絵描きが点々と染みを付けたような。いっそ全てを星色に、塗り潰せばいいじゃないか。そう思えて仕方がないような、豪華な星空の下。

 僕は気の抜けたビールを片手に、大した防寒具も纏わないまま、ベランダに出ていた。

 アヴェの極寒の夜の中、薄手のシャツと夏用のジャケット、だけではもうこれは、凍死したいと言わんばかりだけど。厚着をする暇も隙もないまま、ホウホウノテイでここまで逃げてきたのだから、ビールというにはあまりにもあっさりとした味わいの液体を、手にしてきただけでも誉めてもらいたい。

 階下からは、まさに宴もタケナワ、と言ったところの声が響く。ああこれでまた、ご近所から白い目で見られるのかなあ、あそこの家族はまったく飲んだくれだよ、とか。

 あ、大丈夫みたいだ。僕は、宴会から響く大合唱の中に、向こう一体のご近所さんたちの上機嫌な声を見つけて、安堵するとともにため息をついた。

 ああ一体全体、何だっていうんだこの展開は。

 思わず恨みごとを呟いて、遠い骨色の月を睨む。

 別に不満じゃないけど、や、ちょっとは不満だけど、でも、彼女が楽しいなら、それはそれで良いかな、とか。

 このところの深刻ないざこざを忘れて、少しでも元気になってくれるんなら、わだかまりを忘れてくれるんなら、悪ふざけと悪い冗談が大好きな、まったくもって油断ならない親兄弟やご近所様たちの暴挙にも、目を瞑ってやろうとか、仏心を出したばっかりに。

 延々三時間近く、昔の失敗談やらマルヒ情報やら恥ずかしいからやめてくれよー的な思い出話盛りだくさんの宴会に付き合わされて。

 いかな温厚な僕と言えど、臨界点はすでに遠い昔だ。

 塞いでも塞いでもキリがない口たちに、いわゆる敵前逃亡と言われても仕方がないけど、僕はそうっと場を抜け出して、防寒もそこそこにベランダに上るしかなかった。

 僕ってここの家の長男じゃなかったっけ? なんでこんなに立場弱いんだよ、ちくしょ。

 こうなったら一日も早く、一刻も早く、独立して結婚して暖かい家庭を作ってやる。

 誰も僕の過去を笑わず、誰も僕の失敗を貶さず、誰も僕を玩具にしない。

 そんなあったかマイホームを作ってやる!

 そんな決意も新たに、ぐっとこぶしを握ると。

「なに力んでんの、ひとりで」

 と言う声とともに、僕の頭から何かがぶわさっと覆い被さってきた。

「わ?」

「寒くないの? あんたそれで。それでなくても肉付き薄くてさ、燃焼するにも脂肪がないくせに」

 呆れたように言いながら、ちゃんとあったかそうな格好をしてきた彼女が、僕の頭にこれまたあったかそうなショールをかぶせつつ、狭いベランダによいしょと登ってきた。

「ああ……りがと」

 ショールから頭を出して、零れそうになったビールのコップを床に置き、彼女が座りやすいように身をよじる。

 なんてったって狭いんだよ、うちのベランダは。

「下、いいの?」

「うん、なんかねえ、若い娘にはちょっと居心地が悪い雰囲気になってきたから、逃げてきた」

 あっけらかんと言う彼女に、僕はぎょっとして目を剥いた。

「えっ!? それって何セクハラ!? ちょっと誰だよそう言う命知らずなことするの…」

「あんたもすこぶるつきの馬鹿ねえ。違うわよ、誰もあたしになんか見向きもしないわよ、自分の世界を展開したわけ」

「へ?」

「肉体美? って言うのかしらねえ。どうして呑むと、ひとって脱ぎたくなるのかしら」

「って、まさか裸踊り?」

「そういうこと」
 あっけらかんと頷いて、彼女は手にしてきた葡萄酒をちびりと傾けた。

「あ、なんだ、そうなんだ…」

 僕はまた、てっきり近所の酔っ払いオヤジが、キュウの美貌にトチ狂って、彼女に変なことを…とか。おや? なんだか僕も、酔いが回ってるなあ。美貌、だって。本人には言えないよね、コッパズカしくて。

「ね、そう言えば、強いのね、あんた」

「ん?」

 きょとんとした僕に、キュウはちょっぴり赤い顔を向けて(断っとくけど、これは僕に照れてるわけじゃなくて、酔いが回ってるだけ、念のため)意外そうに続けた。

「さっきから見てたけどさ、結構強いお酒、勧められるままに呑んじゃってさ。ひとは見かけによらないのねえ」

「そう言うキュウこそ、見たとこ酒豪、って感じのくせに、意外や意外、グラスワインでそこまで赤くなりますか」

「うっさい」

 むっとした風に唇を尖らせて、軽く小突いてくる彼女。

 ああどうしたことだろう、そんな仕草、キュウらしくないくらい可愛いじゃないか。…とか言ったらきっと、鳩尾確実の肘鉄が来るだろうから、言わないどこ…っと。

「満天の星空ねえ」

 とろんとした目を向けて、キュウが言った。

「そうだね、落ちてきそうだ」

 星空の下、彼女と肩を寄せ合って(ベランダが狭いから、比喩じゃなくそうなんだ)こんな風にのんびりと、話ができるなんて。

 ちょっと前には考えられなかった。

 あの時…キュウが、悪漢の手に落ちて、アヴェから失踪したと、知らされた時。

 物理的な原因はなにもなくても、ひとは死ねるかもしれないと、思ったんだ。

 日常特に意識もせずに、ただ諾々と血液を流すこの心臓が、キュウがいない、ただそれだけ(それだけ、っていう言い方は語弊があるけど)のことで、あっさり動きを止まらせる。

 そんなオソロシイ事実を実感した、数日前の僕。

 そう、アレからまだ数日なんだ。

 なのに今の僕は、傍らに彼女の温もり。優しい声。いい匂い。

 現実感、なくてもしょうがないじゃないか。

「あのね…」

 なんだか、どこか舌ったらずなキュウの声。普段の、キビキビ、ハキハキした声とは比べ物にならないくらい、頼りなくて可愛い声に、僕は不覚にもどきりとしたり。
 これってオトコのサガですよねえ?

「昔、星が欲しいって、あたしが言ったことあるの、覚えてる?」

 そしてキュウのこの、甘えたような口調とか、甘い香りとか、柔らかい体温とか、そういうのってつまり、オンナのワナ…?

「覚えて、マス」

 ああ、悲しいよな男って、急にギクシャクしちゃうんだもんな。こんな事ならもっと強い酒で、僕も大胆になっちゃえば良かったなあ。

「そうしたらさ、あんたさ、町で一番高い塔のてっぺんに登ってさ…あたしのために、星を取ろうとして、それで結局降りられなくなって」

「だからその、自警団出動シリーズはもういいってば」

 せっかくちょっと、ロマンティックな気分に(僕だけだよ)なってたってのに、また昔話かい。しかもシリーズ。自警団出動要請率ナンバーワンを誇っていたミシェル・シナモンの武勇伝ですか。

「だって、ちょっと忘れられないわあ。あの時、アンタ、泣きながら自警団のオジサンに下ろしてもらって、そんであたしにさ…」

「キュウ、キュウやめてよもう、ああもう」

「べそべそしながらいっちょまえにさ、『キュウ、ごめんねとどかなかったよ、でももうちょっとなんだ、大人になったらきっと、キュウのために一等きれいな星、捕まえてあげる』って」

「嬉しそうだね、キュウ」

 恨んじゃうよ、幼なじみ。

 本気で拗ね始めた僕の傍らで、キュウは肩を揺らして笑った。その震動はすぐに、密着した僕の腕に伝わる。

「だって、嬉しかったもの。星、欲しかったから。ねえ、ミシェル? あたしたちもう、大人じゃない? 十分」

 言って、その大きな深緑の瞳をじっと、こちらに向ける。

「それはつまり、星、欲しいってこと?」

 この歳になっても、まだ僕に、夜空に手を伸ばして歯噛みしろって?

「欲しい」

 にっこりと笑って、キュウはまたじっと、僕を見つめた。

 ああこれは謎かけ? 問答? 駆け引き?

 それとも…合図?

「大人になったミシェルくん、もうあなたは幼なじみのために、星を捕まえるなんて無茶は、したくないのかね?」

 急に真剣になった僕の視線から逃げるように、キュウはおどけてまた星空を見上げた。

 その頬が赤いのは、たぶん、酔いのせいだけじゃないよね?

「そうだね…『幼なじみ』のためには、無茶はしたくないね」

 君は知らないだろうけど、昔から僕はそうだよ。

 『ただの幼なじみ』のためなら、指一本動かさないよ。

 いつになったらわかってくれるの?

「…じゃあ、『何』のためなら無茶をするの?」

 そう、問い掛けたキュウの瞳が、こちらを向いた。

 試すような、確認するような、縋るような、そんな目で見て。

 合図をありがとう。

「…『キュラン』のためなら、無茶をするかな」

 ついでに酔いもありがとう。素面じゃとても言えないけど、今なら言える、勢いもある。

 僕の台詞に、キュランの深緑の瞳が揺れた。

 恥ずかしいけど、尋常じゃなく恥ずかしくて居心地が悪いけど。

 この沈黙の向こうに、多分、欲しかったものがあるはず。

 昼間君がくれた、騙し討ちのようなものじゃなく。

 ちゃんと、気持ちをこめた、きちんとした、区切りのような…合図。

 『幼なじみ』から違うものへ、変化するための合図を。

 キュウの唇が柔らかいって、もう知ってるから。引力でも重力でも、何でもいいから味方して。

 痛いほど暴れる心臓を押さえつつ、僕の気持ちを後押すように、煽るように、そっと瞳を閉じた彼女へ、上半身を傾けた。

 時。

「あ~~~~っ!!! ずるい、ミシェル兄ちゃんっ!」

「こんなところで、キュラン姉さんを独り占めにしてえ!!」

 金切り声に近い双子の絶叫を背後に、僕とキュランは同時に飛び上がるように立ち上がって、バランスを崩した。

「きゃあっ!!」

「うわああっ!」

 どてどて、と後ろに倒れる僕達を見下ろして、双子は据わった目をして腕を組む。

「もお~、ミシェル兄ちゃんは官邸に戻ったあとも、キュラン姉さんと会えるでしょう~?」

「あたしたちなんか、これを逃すとしばらく会えないんだからあ」

「少しはミシェル兄ちゃんが遠慮すべきだと思うの!」

「というわけでえ、行こっ、キュラン姉さんっ」

 有無をも言わさず、双子はキュランの両腕を取り、ずるずると彼女をひきずって、上機嫌に部屋を出ていった。

 残されたのは。

 さっきとは違う意味でどきんどきんうるさい心臓を抱えて、宙ぶらりんの気持ちをもてあました、無様な僕。

 と、満天の星空。

「……で…」

 ぎりり。奥歯を噛んで、噛み締めて。

「出てってやるこんな家ぇぇぇっ!!!」

 まるで思春期の非行少年のような絶叫を上げる、僕の耳に。

「あ~あ、あとちょっとだったのになあ」

「双子のヤツ、美味しいとことりすぎだよな」

 ぼそぼそと囁く、隣室から聞こえる弟と従兄の声が届いた。



 勿論その日は明け方まで、僕らが眠らずにいたことは言うまでもない。

 ちなみにそれから、肝心の『続き』が果たせたかと言うと。

 ………世の中そんなに甘くない、と言う話。

 はあ。
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