FLORAISON-フロレゾン-

  水と緑の美しい都、ニサン法王府。
 夏も深まるこの時期、暑気を和らげる穏やかな気候のこの国に、近隣諸国から避暑に訪れる者は少なくない。
 世界崩壊寸前からまだ3年足らずの過酷な現状ゆえ、以前のように人波に活気付くということは少ないが、それでも夏のニサンは華やかで、また穏やかだった。
 その、ニサン法王府の中心、大聖堂と呼ばれる荘厳な岩城の中で。
「……わたくしが、参ります」
 厳しい声音で、彼女が言った。
 ニサン正教のシスターたちが着る修道服は、控えめな意匠ながら彼女のしなやかな容貌に良く似合っている。すんなりと伸びた手足は長く、女性としては背高の方だが、小作りな顔と長く伸びた髪が女性らしさを際立たせていた。
 薄暗い室内の中央に、凛々しげな表情の彼女が一人いるだけで、ぽっと灯りがともったような華やかな印象を受ける。
 そんな彼女に向き合う形で、壮年の男性がじっと視線を合わせていた。岩のように頑強な体躯を、白を基調とした高貴な司教衣に包んでいる。
 実年齢の何倍も若く見える彼の、薄い唇が開かれた。
「…しかし、危険だよ」
 男の返答はよどみのないものだった。まるで、彼女がそう言うことを、予期していたように。
「承知しています」
 対する彼女の返答も、まるで最前から用意されているような断固としたものだった。いつにもまして意志の強い双眸が、まっすぐに男の視線と絡み合う。
「誰にも、頼ることはできないよ」
 視線をそらさぬまま、男の唇がいやにはっきりと動いた。挑発しているようにも取れるその断言に、彼女のまなじりが上がる。
「わたくしは、ニサン大教母、マルグレーテ・ファティマ様に従うシスターです」
 そう答える事で、自分の価値も、意味も、誇りすらいくらでも見いだせる。彼女の迷いのない口調に、男は初めて視線をそらした。
「…大教母様にも、内密にしておかねばならないことだ。下手をすれば、事実隠蔽の咎に及ぶかもしれない…そんな橋を、君は渡れるかね?」
 男の言葉に、彼女の視線が初めて揺らいだ。
「……無論です」
 沈黙のあと、彼女はきっぱりと頷く。わずかの間に、その瞳からは迷いもためらいも消えていた。美しい輝きを宿す深緑の双眸に、男ははっきりと頷いた。
「では、頼む。ことは一刻を争う…明朝、大教母様たちの一行にまぎれ、アヴェ入りしてくれ。その手はずは私がつけよう…シスター…」
 男は一旦言葉を区切り、真っ直ぐに彼女を見据えた。
「シスター・キュラン・ヒューイット。成功を祈る」
「お任せ下さい」
 きっぱりと頷いた細い首が、カーテンの隙間からこぼれる西日に反射して、朱赤の光を放っていた。



 あたしが行く、と、彼女は自信満々に言った。
「だめだよ、これはぼくの勝負だよ」
 そう、これは男と男の勝負だ。売られた喧嘩から逃げるなんて、それこそみんなの笑い者だ。まして、かばってくれるのが、女の子だなんて!
「いいから、あんたはひっこんでなさい。ケガするだけなんだから」
 年上らしくしたり顔で、さも自分が一番正しいと言わんばかりの様子に、少年はむっと下唇を突き出した。
「だめだよ! だってこれは、ぼくがジェラルドとする決闘だもん! キュウは行っちゃだめだよ!」
「ミーシュがジェルに勝てるわけないでしょ。また泣かされるだけなんだから、大人しく向こうで見てなさい。大丈夫、絶対勝ってみせるから」
 そう言って勇ましく笑うキュランに、ミシェルはなんだか泣いて、泣いて、地団太を踏んで泣き叫びたい衝動にかられた。
 大体、なんでキュランが出てくるんだ。この勝負はもともと、ジェラルドとミシェルの一騎打ちで、その原因にしたって、あんまりキュランがミシェルの面倒をみるから、やきもちを焼いたジェラルドが、ミシェルに難癖をつけてきたのだ。
 お前、キュランに甘えすぎんだよ。
 一人じゃなーんにもできないくせに。
 キュランのうしろからじゃないと、お外も一人で歩けない、泣き虫み~しゅっ。
 …と、こうだ。
 こんなことを言われて、黙っていたら男じゃない。いくら町中で一番ちびで、年上の子供の方が多いから、自然みんなの弟分のような立場に甘んじていたとしても、自分は男なんだ。強い男になるんだ。
 だから、ガキ大将のジェラルドに、決闘を申し込んだのに。
「キュウが行ったら何にもならないじゃないか! おとことおとこの勝負だぞっ」
 悔しくて地団太を踏むミシェルを見やって、キュランは一瞬きょとんと目を丸くして。
「……きゃ~っははははっ!」
 ……爆笑した。
「何言ってんの、泣き虫ミーシュ! あんたまだ子供でしょ、力だって弱いくせに、決闘なんて十年早いわよ」
「な…なんだよっ! キュウだって子供じゃないか、ふたつしか違わないじゃないか! 自分ばっかりずるいよ、ずるいよ!!」
 なんだか無性に悲しくて、泣き虫ミーシュはぼろぼろと涙をこぼした。キュランは慌てて笑いを止めて、それからいつも通り、優しい手をミシェルの頭に乗せる。
「よしよし、泣かないのよ、ミシェル。大丈夫、あたしは絶対に勝つから。そうしたら、もうジェラルドになんか、ミシェルをいじめさせないから。だから安心してなさい、ね?」
「っ…がうよぉ…っ、ぼくが、ぼくがキュウを…」
 守りたかったんだ。
 だけど、キュランはそんなミシェルの気持ちになんかさっぱり気づかずに、優しくて強くて、うらやましいほど明るい笑顔を向けて、ミシェルに言った。
「心配しないで、あたしは強いんだから。誰よりも強くなって、ミシェルを守ってあげるから」
 ……それは逆だよぉ……
 そう言いたかったけれど、言えなかった。涙が口に入って、そのしょっぱさにすら泣けてきたから。
 その間にも、キュランは勇ましくきびすを返し、ミシェルを背後に庇うように立った。その細い背中が無性に悲しくて、切なくて、自分が死ぬほど情けなくて。
「僕が……」
 見上げていたはずのブロンズ・グレイの髪が、いつのまにか目線の下になってすら、その背に庇われている事が、どうしても。
「僕が君を…」
 細い肩。細い首。それは決して自分を庇うべきものじゃなくて、自分がこの手で。
「僕が君を守りたいんだ!」
 叫んだ瞬間、ブロンズ・グレイの髪がふり返った。吸い込まれるほど大きな、美しい深緑の瞳。意志の強そうなそれが、自分をはっきりと見据えて…
「起きろ! ミシェル・シナモン!!」
 野太い声で、そう、叫んだ。



「……え?」
 一瞬、現実と夢が交錯する。
 ミシェルはぼんやりと頭を上げ、今の今まで目の前にあったはずの、ブロンズ・グレイの髪を無意識に目で探した。
「…なぁにきょろきょろしてんだよ」
 けれど、目に映るのは金色の、見慣れた人の髪しかなくて。
 ミシェルはきょとんと目を瞬かせて、目前に立つ人物を見上げる。
「…だいとうりょう…?」
「グ~ンモ~ニ~ン、ミシェ~ル。会議室の寝心地はどうだ?」
 にっこりと意地悪く笑って、精悍な顎の線をそらせた青年…弱冠二十歳の若さで、世界一の復興を遂げたとされるアヴェ国の初代大統領を務める、バルトロメイ・ファティマが言った。
 ミシェルはしばし呆然と、その整った顔を見つめ……そしてようやく、我に返った。
「うわわわわっ!!! もも、もうしわけ、あ、ありませんっ!!」
 がたがた、と音を立てて立ち上がり、すでにがらんとしている会議室の末席で叫ぶミシェルに、バルトは呆れたように肩を竦めた。
「珍しィな、ミシェル。おまえが会議で寝こけるなんてよ」
 いつもならばそれは、自分の特権だとでも言わんばかりのバルトに、ミシェルは恐縮して身体を縮こませる。机に突っ伏すように身を折って、情けない叫び声をあげた。
「ほ、ほんとに申し訳ありません! 次からは気をつけます、決して二度と、このような失態は…」
「まーいーよ、別に。寝てた、つっても終わりっきわギリギリだろ。見てたぜちゃんと」
 そう言うと、バルトは豪奢な円卓に遠慮なく腰を下ろし、長い足をしなやかに組んだ。
「お前、いつもいつも真面目すぎんだよ。たかが定例会議だろ? んな、かちこちに気張ってるから最後の方で緊張の糸が切れるんだぜ」
「は、はあ…」
 言われて、ミシェルは赤面しながら頭をかいた。
 気負いすぎ、という自覚は、ミシェルにもあった。しかし、ほんのひと月前までは、大統領補佐官とは名ばかりに、ただの雑用を専門にしてきたミシェルにとって、端役とは言え国のトップ会議に出席することに、緊張するなと言う方が無理である。
 そんなミシェルを見越してか、バルトは魅力的な笑みを浮かべた。
「まあ、そこがお前のいいところだけどな。期待してるぜ、ミシェル」
「は…はいっ!!」
 思いがけない激励に、ミシェルが気合の入った返事をする。相変わらずこの少年は、筋金入りの大統領フリークのようだ。
 しかし、少年の憧れの的であるところの若き大統領は、突然にやりと微笑むと、あまり品のよろしくない表情でぼそりとミシェルに囁いた。
「…んで? なんの夢見てたんだよ、このスケベ」
「は…はァ??」
 言われた言葉に、ぱちくりと目をむくミシェルに、バルトは大げさに肩を竦めた。
「ずいぶん熱烈な告白だったよなあ…『僕が、君を守りたいんだ!』とか言ってよう。それで? 夢の中ではよろしくやれたのか? あの、幼なじみのシスターと…」
「え! わ! うわ!! な、なんで大統領それ…」
「お前、み~んな声に出してたんだよ。起こしちゃ悪いかと思ったぐらいだぜ」
 からかうように笑うバルトに、ミシェルは極限まで真っ赤になった顔でぶんぶんと首を振る。
「いいい、いえ! 別にそんな、不埒な夢を見ていたとかそういうことでは決してなく…」
 首がちぎれるほど激しく否定するミシェルを前に、バルトは訳知り顔でうんうんとうなずいた。
「ああ、わかってるわかってる。お前も、何だかんだ言って健全な青少年なんだよなあ…気持ちわかるぜ、安心しろミシェル。男ってぇのはそんなもんだ」
「ちちちがいます! なに言ってんですか大統領!!」
「ごまかすなっての。ある意味それは、健康的なことなんだぜ。お前、その歳で女に全然興味がねぇなんつったら、そっちの方がやばいだろう」
「だだだから!! なんでそれで、相手がキュウになるんですかっ!!」
「だってお前、キュランの事が好きなんだろ?」
 けろっとした顔で言うバルトに、ミシェルはもう、血管が爆発しそうなほど真っ赤な顔になった。ぱくぱく、と唇は動くのだが、肝心の言葉がでてこない。
 そんなミシェルには取り合わず、バルトは男臭い仕草で髪をかきあげ、ため息が出るような流し目でミシェルを見やった。
「へへっ、図星みてぇだな。つーか、お前もう、見ててバレバレなんだよ。さっさと告白して、嫁にでももらっちまえよ、じれってえな」
 御自分のことは綺麗に棚上げされておられる大統領閣下に、従順な補佐官見習はそれでも反論できずにいた。涙目になっているミシェルに、バルトが気安くぽんぽん、と肩を叩く。
「ま、しかし残念だったな。今日の大教母随行メンバーに、目当てのカノジョがいなくてよ」
「……」
「あれ? するってぇとなんだ? ここ一ヶ月、お前ら会ってねえのか? まさかなあ。プライベートでは会ってんだろ?」
「……」
「ん?」
 絶句するミシェルを覗き込むように首を傾げるバルトの背後から、その時冷ややかな声がかかった。
「ミシェルをいじめるのは、そのへんにしてくださいますか、若」
「シグ」
 深みのあるバリトンに、バルトがひょいと肩をすくめる。開け放たれていた会議室の扉をくぐって、銀髪の青年が呆れたような面持ちでこちらにやってきた。
「別にいじめてねえよ、なあ? ミシェル」
「はあ…」
 しょんぼりと肩を落とすミシェルを同情的な眼で見やって、シグルドはバルトにちらりと目をくれる。
「ときに若、ご自分の方の準備はおすみなのでしょうね? 明日は早朝から、ノアトゥンに出立ですよ」
「ああ、解ってるって。ガキじゃねえんだから、たかだか数日の出張準備ぐらいできるに決まってんだろ」
 そう言って顎をそらせるバルトに、シグルとはすいと碧玉の瞳を細めた。
「…ではなく。久方ぶりにお会いするマルー様への、簡単なプレゼントなどは…」
「はぁ?」
 怪訝そうな顔を見せるバルトに、シグルドはふう、とため息をついた。整った顔立ちは皮肉なことに、苦悩する表情が一番魅力的に見える。
「はぁ? ではありませんよ。若だって、ミシェルのことは言えないではありませんか。先の晩餐会から一ヶ月、公私にわたって多忙な若とマルー様が、ようやくまともに顔を合わせる日ですよ。なのに、なにも準備していないなんて…」
「な、なんだよ…今さら改まって、なにを贈れっつんだよ」
 照れくささに不機嫌になりながら、バルトが唇を尖らせた。卓越した政治的手腕と、持って生まれた堂々とした存在感の彼に、こんな子供じみた表情をさせられるのは、世界広しと言えどもこの筆頭補佐官と、くだんの大教母くらいのものだろう。 少年のようなバルトを前に、シグルドは再びはあ、と嘆息をついた。
「…若。もうご自覚は十分おありとは思いますが、公的ではないにしろ、あなたとマルー様はれっきとした婚約者同士なのですよ」
「ばっ、なんだよっ! 改まって言うんじゃねえよっ」
「なにを照れてるんですか今さら。とにかく、今までのように、ただの従兄妹同士でならばいざ知らず、一ヶ月ぶりに顔を合わせる婚約者に対して、何のプレゼントも用意していないなんて、シグルドはそんな教育を施した覚えはありませんね」
「あ、あのなー! 婚約者つったって、マルーはマルーだろうが! 呼び名がどう変わったって、実質なにも変わりゃあしねえよっ」
「…ほう」
 やけに低いシグルドの相槌に、バルトはぎくり、とのけぞった。シグルドは絶対零度の視線でちくちくとバルトを攻める。
「…若、世間ではそう言う男のことを、侮蔑と冷笑をこめてなんと言っているか、ご存知ですか?」
「…な、なんだよ…」
「『釣った魚には餌をやらない』……そんなことでは、若の三十倍は気がきいて、五十倍は優しくて、八十倍は大事にしてくれるどこぞの馬の骨にマルー様を奪われても、文句は言えませんね」
「……ッ!!」
 ガタン! と、大仰な音を立ててバルトは立ち上がった。そのまま、憤怒の形相でずかずかと会議室を出て行く。
「若、正午にはマルー様が到着の予定ですから、街に出るならばそれまでにはお帰りくださいね」
 返事は、勢いよく閉められた扉の騒音で返された。
「…少し、からかいが過ぎたかな」
 今さらなことを呟いて、シグルドが苦笑する。一部始終を見ていたミシェルは、呆気にとられたように上司の端正な顔を見上げていた。その視線に気付いて、シグルドが穏やかに微笑む。
「すまないな、ミシェル。若もあれで、久しぶりにマルー様と会える日だから、浮かれているんだよ。まったく、自分の事を棚上げして部下をからかうとは、まだまだ子どもだな」
「あ…いえ、僕ならば別に…」
 恐縮して首を振るミシェルを見下ろして、しかしシグルドは精悍という言葉がぴったりな微笑みを浮かべた。
「だが…若の言う事も一理あるな。その後どうなんだ? シスターヒューイットとは」
「………」
 再び絶句したミシェルを見やって、シグルドはくつくつと笑う。この教育係をして、あの大統領ありだ、と、ミシェルは心から思った。
「いや、すまない。どうにも、君も若もわかりやすいから、ついつい…な」
「…筆頭ォ…」
「そう拗ねるな。しかし……これはからかいでもなんでもないが、今回のマルーさまの随行メンバーにシスターヒューイットがいないのは、残念だな。先だっての騒動では、君にも彼女にもずいぶんと世話になったから、久しぶりに会うのを楽しみにしていたのに」
 屈託なくそう言うシグルドに、ミシェルは「はあ」と曖昧な返答を返した。
 正直なところ、ミシェルはシグルドの言葉に、全面的には頷けない。何故ならば、誰あろう目前に立つ、この端整な美貌の筆頭補佐官こそが、くだんの幼なじみの憧れの的なのだから。
「では、ミシェル。今朝にも言ったが、ニサン一行がアヴェ入りするのは正午の予定だ。本日はアヴェにご宿泊されたのち、翌早朝ノアトゥンのサミットに向けて出立するので、その準備を頼む」
「あ、はい」
 頷いたミシェルに、シグルドは爽やかに微笑んだ。
「明後日には帰国するが、私や若のいない間、官邸のことは頼んだぞ」
「はい、お任せください」
 身にあまる言葉に恐縮しているミシェルの肩を、シグルドは二、三度叩いて会議室を出て行った。ミシェルはその後ろ姿を見送りながら、僅かに肩を下げる。
「……はぁ……」
 正真正銘に誰もいなくなった会議室の隅で、ミシェルは最近癖になってしまったため息をついた。
 そう。情けないことに、このため息は癖になっている。陰気くさい事この上ない。
 ただ、今日のため息はまた一段と深く、重苦しい。理由はわかりきっているが、いまの今まで見ていた、フルカラーの昔の悪夢のせいだ。
 会議終了の兆しを見た瞬間、溜まっていた睡眠不足と緊張の糸が切れた反動で、気絶するように睡魔に襲われた。その間の、時間にして僅か数分の夢は、鮮明すぎるほど正確だった。
 その理由も、わかりきっている。
「……はぁ~……」
 再び煮え切らないため息をついて、ミシェルは立ち上がった。おとなしく椅子を引いて、不意に視線を流した先には、よく磨かれた姿見がある。
 男にしては大きすぎる瞳。線の細い鼻筋。ぽってりとした唇。お世辞にもたくましいとは言えない肩はば。薄い胸板。極めつけは、余分な肉のないほっそりとしたシルエット。
「……」
 がくう、と肩を落として、ミシェルは見慣れていたはずの自分に落ち込む。
「…なんか、必要以上にひ弱に見えるのって、やっぱりああいう人たちを見慣れてるからだよなあ…」
 がしがしと乱暴に琥珀色の髪の毛をかきながら、ミシェルは先ほどまで同席していた人物たちを思い描いていた。
 ミシェルが見習い補佐官として仕える、この国の若き指導者。アヴェ王朝の最後の王太子である、バルトロメイ・ファティマの均整の取れた男性美が、ミシェルの脳裏にありありと浮かぶ。
 そしてその隣には、ミシェルの直属の上司でもある、筆頭補佐官の端整な美貌が。
 このレベルと自分を比較しようとする無謀に気付いて、ミシェルは乾いた笑いを浮かべた。
「…まあ、人間には分相応ってものがあるんだよね、うん…僕は僕らしくていいじゃないか、ははは…」
 誰にともなくいいわけをして、ミシェルは手元にあった会議用資料を揃える。普段の彼からは想像もつかないほど、それはたどたどしい手つきだった。
「だいたい、あんな夢を見るから悪いんだよ…」
 ぶつぶつと不平をこぼしながら、ミシェルは先ほどまでの夢を思い出した。出来ればくわしく反芻したくないのだが、それでも、ブロンズグレイの髪の少女に会えた事はまあ……嬉しい。
 久方ぶりに会えた、夢の中の幼い彼女は、ふたをしていたはずの思い出の中で、今もまだ生き生きと輝いていた。
 今ごろこんな、懐かしい夢を見てしまったのは、ひとえに一ヶ月前の騒動が原因だ。
「あれからもう、一ヶ月か…」
 しみじみ呟いて、会議用資料を手にしたミシェルは噛み締めていた。十年ぶりに再会した、彼のおさななじみの事を。
 幼いころ離れ離れになって、以来一度も会う事もなく、ミシェルが故意に記憶の底に封じていた少女。キュラン・ヒューイットは、この世で一番彼女のイメージにはそぐわない、ニサン正教のシスターとなって、ミシェルの前に現れた。
 ミシェルの仕えるアヴェ国大統領、バルトロメイ・ファティマと、キュランの仕えるニサン正教大教母、マルグレーテ・ファティマ。この二人のすれ違いに始まった諸々の事件を通して、かつての絆を思い出すように、ミシェルとキュランの距離も急速に縮まった…のだが。
「…ってゆうか、アレっきりってどういうことさ」
 ぽつりと呟いて、ミシェルは暗い瞳を鏡に向けた。
 一ヶ月前、すったもんだの末に、心を通じ合わせた大統領と大教母だったが(というか、元から通じ合っていた心を、周り中を巻き込んで再確認しただけだったのだが)、それではすぐに婚約か、結婚かとはやったミシェルの期待とはうらはらに、依然として公的な沈黙は守られていた。
 従兄妹同士であった大統領と大教母が、互いを異性として見ている事はもちろん、その先にある結婚という示唆すら、現段階では公式表明されていない。
 理由は一つ。バルトとマルーの二人がそれぞれに背負う、二つの国の存在。
 個人の感情だけでは簡単に事は進められない。生まれながらにしてそんな責務を負った二人の決断は、時期を待つということで一致を見たのだ。
 もちろん、そう長くはないであろうが。
 その期間をいかに短縮させるか、その一点にのみ精力を傾け、日々の激務をこなしているアヴェ国大統領を思い描きつつ、ミシェルはすっかり腰を据えていた会議室からのろのろと退出した。
 静かに扉を閉めながら、だからといって、とミシェルは呟く。
「…だからといって、キュランまで、沈黙する事ないんじゃないの?」
 情けない昔の夢を、フルカラーで鮮明に見てしまった理由はこれだ。
 あの一件のあと、ミシェルは無意識的に、キュランと自分も、昔のような交流がもてると思っていた。
 幼かったころは互いに無力で、大人たちの都合に逆らえる事もできず、泣く泣く別れてしまったけれど、今は違う。それぞれにれっきとした職を持ち、しかもそれはあながち無関係なものとは言えず、会おうと思えば会える現実がある。
 にも、関わらず。
 あれから一ヶ月、くだんのおさななじみからは一向に音沙汰がない。
 我ながら女々しいとは思うが、その事実はミシェルの気分も体調も大いに悪化させていた。
 もちろん、自分から動けばいいということはわかっている。というか、事実ミシェルはあれからすぐ、互いに教えあったアドレスに手紙を書いた。内容は取るに足らないことで(大部分は大統領がらみの日常だ)確かに返事のいるようなものではなかったけれど、遠く離れたおさななじみに、元気だよ、の一言すら返せないとはナニゴトだ。
 軽く、会議室の扉を拳で叩く。珍しく苛立ちを露にしたミシェルだったが、けれどすぐに悔い改めたように、なでなで、と扉をさするところが彼らしい。
 しかし、確かになんの音沙汰もなく、離れ離れになっていた時間が長かったのは事実だ。その間、お互いがお互いの生活を築き、十年前の幼なじみなんて、記憶の中にある美しい思い出になってしまっていても仕方がない。
 けれど自分たちは、一ヶ月前のあの日、十年来の再会を果たしてすぐに、会えなかった時間なんてふっ飛ばしてしまうくらいの勢いで、元通り以上に近づけたと思ったのに。
 そう思ったのは、自分だけなんだろうか。
 思えば思うほど落ち込んできて、ミシェルは白亜の回廊から、はるかに広がる青空を見上げた。風にのって流れる雲が、そのまま自分の不満や不安のように思えていたたまれない。
 そのまま視線を流すと、よく磨かれた回廊に自分の姿が映った。頼りない風貌の青年が泣きそうな顔をしている。泣き虫ミーシュ。幼い頃のあだ名が浮かんだ。そこからちっとも成長していない自分がいた。
「……はぁ……」
 もう一つため息をついて、ミシェルはぼんやりと顔を上げた。途端に目に飛び込む、アヴェ国大統領官邸名物の、壮麗な中庭。
 瞬間、ミシェルの脳裏に、皺深い目元をほころばせた老侍従の深い声音がよみがえった。
「…あっ! いけない、メイソン卿に花を生けてくれって言われてたんだ!」
 このところ、こういった凡ミスが多い。雑務だろうと何だろうと、自分の仕事に誇りと責任を持っていたミシェルは、この体たらくを苦々しく思いながら急いで走り出す。
 本格的な夏を迎えたアヴェの空は、嫌になるほど清々しくミシェルを見下ろしていた。



 庭師が丹精をこめた造園にたどり着くと、ミシェルはいつもメイソン卿の目利きで生けられる花の群生を前にして、はたと気付いた。
「やばい! ハサミ…」
 会議室から直行でここに来たために、花切狭の一つも持っていない。ミシェルは自分のうかつぶりを心底呪いながら、急いできびすを返した。
 ここから官邸に入り、花切狭を取りに行くには、こじんまりとした噴水の傍を突っ切った方が早い。気が急いていたミシェルは、水しぶきが上がる噴水を迂回しようと駆け出す。
 その瞬間、ミシェルの目前に、唐突にピンク色の影が現れた。
「きゃあっ」
「うわっ!」
 勢いのついていたミシェルの身体が、小さな身体を弾き飛ばす。頭で判断するよりも早く、ミシェルはその細い腕を掴んで、倒れこみそうになる身体をぐんと引き寄せた。
「あっ!」
 叫んだ時には、すでに遅し。細い身体を引き寄せた反動で、ミシェルは思いっきり前のめりに倒れこみ、その先には清らかな清水の水面が広がっていた。
 ばしゃーん、と、盛大な水しぶきをあげて、ミシェルが噴水に沈没する。後先考えず前のめりになったために、モロに顔面だ。
「ぶはぁっ!!」
 水深五十センチにも満たない場所で、溺れ死ぬのは笑い話にもならない。噴水の底に強打した鼻を押さえながら、ミシェルは酸素を求めて大げさに身をおこす。すでに全身濡れ鼠だ。
「だ、大丈夫ですか…」
 おろおろとした声がかかる。ミシェルは器官に入った水をげほげほと吐き出しながら、涙目になって必死に目をこらした。
「だ、げほッ!! …っだい、丈夫です、げほッ…あ、あなたの方は…」
「わたくしは、あなたが助けてくださったので…あら? もしかして…ミシェル様?」
「えっ? …げほっ」
 名前を呼ばれて、ミシェルは濡れ落ちた前髪をかきあげながら改めて視線を上げた。するとそこには、薄桃色の娘らしい衣装に身を包んだ清楚な少女が立っている。手には、切りそろえられた美しい花が、少々乱れつつも抱かれていた。
「あっ…これは、ミス・レブルック…」
「まあ、やっぱり! 偶然ですわね、ミシェル様、ここであなたにお会いできるなんて…」
 はしゃいだ声をあげて、ミス・シャンティ・レブルックは朗らかに笑った。切りそろえられた艶やかな黒髪が風になびいて、大きな鳶色の瞳が悪戯っぽく輝いている。
「ちょうどわたくし、これからあなたのところへご挨拶に伺おうかと思っていたところですのよ。ほら、お花も切りそろえまして、また生け方をご指南いただこうかと…まあ、偶然ですわねえ。奇遇ですわあ」
「は…はあ…」
 ミシェルは、とうとうとしゃべり続ける少女を力なく見上げて、ぐしょぐしょと気持ちの悪い感触がする全身を居心地悪げに揺らした。とりあえず、水から上がりたいのだが…
「…へっくしょんっ!!」
「あら! まあ大変ですわ、そんなかっこうではお風邪を召してしまいます。どうぞこちらにおあがりになって、ミシェル様」
 そう言って、シャンティはその細い腕をミシェルに差し出す。ミシェルは慎み深くそれを辞退して、自力で身を起こした。
「離れてください、ミス・レブルック…あなたまで濡れてしまいます」
「まあ、お優しいのね、ミシェル様。でも、元はといえばあなたがこんな目にあってしまったのは、私を庇ってくださったせいでしょう? そのままではいけませんわ、早く着替えに参りましょう」
「いや…大丈夫です、それに、こうなったのはもともとぼ…私が急いでいたからですから、あなたには何の責任もありません。どうかお気になさらずに…」
 ミシェルは当り障りなく微笑んで、上着の裾を堅くしぼった。じゃー、と水が滴り落ち、少女の薄桃のドレスにかかる。
「あっ!! し、失礼しましたっ」
「いいえ、かまいませんわ。さあ、こちらへ、せめてもの償いに、着替えられましたら暖かなお茶でも…」
「いえあの、本当に大丈夫ですから…」
 じりりと擦り寄ってくる少女に、ミシェルはひくっと頬を引きつらせる。魅力的な鳶色の大きな瞳が、ミシェルを見上げて途端に潤んだ。
「…まあ。ミシェル様は、シャンティの事がお嫌いですの? そんなに頑なに避けられてしまうほど、わたくしはあなたに厭われているのでしょうか…」
「っいいい、いえっ、滅相もない…っ」
 頼りなくうつむいた少女に、ミシェルはぶんぶんと首を振った。途端に、シャンティが輝くような笑顔を向ける。
「まあ、嬉しい! では参りましょう、ミシェル様」
「え、いやだからあの、私には職務が…」
 濡れた腕をとられて、ミシェルはしどろもどろになった。その言葉に、シャンティがああ、と相槌を打つ。
「ニサンの大教母様のお出迎えですわね? でももう、先ほどご到着されたそうですから、今ごろは大統領閣下とご対面をされているはずですわよ」
「……は?」
 シャンティの言葉に、ミシェルは呆気にとられた顔でふり返った。ミシェルよりも十数センチ背の低い少女は、無邪気な顔で微笑む。
「本当なら、今日の正午に入国のご予定だったようですけれど、砂嵐の関係でご到着が早まったそうですわ。さきほど、兄がそう申しておりました」
「ほ…本当ですか、それっ!?」
 ミシェルが叫ぶと、シャンティは多少驚いたように目をぱちくりとさせ、頷く。
「ええ。…あら、ミシェル様、ご存じなかったんですの?」
 その言葉に、ミシェルは曖昧に頷いた。つい先ほどまで会議をしていたバルトやシグルドも、そんなことはひとことも言っていなかったので、おそらく本当に急に訪問が早まったのだろう。
 だとしたら、花など生けている場合ではない。ニサン一行を遇するのも、補佐官としての大事な役目だ。
「し、失礼します、ミス・レブルック! 仕事がありますので…」
 そう叫んでくるりときびすを返したミシェルだったが、
「いけません!」
「ぐえっ!!」
 厳しい声とともにむんずと襟首を捕まれて、ミシェルは潰れたカエルのような悲鳴をあげた。反動で尻もちをついたミシェルの背後から、さらさらと衣擦れの音を響かせてシャンティが顔を覗かせる。
「ミシェル様、まさかその格好でニサン一行のもとへ行かれるおつもり?」
「げほっ…は、はあ…」
「まあ! ご冗談を!! そんなことをしたら、いい笑いものですわよ。それでなくとも、補佐官としてはまだ駆け出しの…いえ、とにかくお立場というものがございましょう? 今後のことにも関わります、身なりはきちんとされなくては…さあ、こちらへ、わたくしがお着替えをお手伝いいたしますわ」
「へっ!? けけ、けっこうですっ!!」
 じり、と迫るシャンティに、ミシェルは尻もちをついたままあとじさる。
 実を言うと、ミシェルはこの少女が苦手だった。理由は諸々あるのだが、華奢で可愛いばかりの少女の背後に、なにやらどす黒いものが渦巻いているように見えるのは、気のせいだろうか。
「まあ…遠慮なさらないで、わたくし、こんなこともあろうかと、ミシェル様にお似合いになるような服を、何着か見繕って持参しておりましたの。よい機会ですから、ご試着なさってくださいな」
「い、い、いえ、あの、けっこうです~っ…」
 華奢な二本の腕が伸び、ずぶ濡れになったミシェルの上着を脱がせにかかる。淑女らしからぬ積極的な行動に、ミシェルが思わず涙目になって逃げようとした瞬間、
「……ミシェル?」
 聞き覚えのある落ち着いた声が、唖然としたような響きを持って背後からかかる。ミシェルは硬直するように目を見開いて、雫のたれる髪のままゆっくりとふり返った。
「……キュウ…?」
 そこに立っていたのは、懐かしい深緑の瞳を一杯に見開いた、ブロンズグレイの髪のシスター。白い肌が強い日差しに映えて、こんな状況でなければ、見惚れてしまうほど綺麗な…
「…ナニやってんの、あんた」
 ぐ、と視線がななめになって、ドスのきいた声がかかる。一気に般若のような面持ちになった幼なじみの目の前で、少女に押し倒されるような体勢になり、あまつさえ衣服の乱れている自分を、ミシェルは改めて思い出した。
「……えーと……」
 何から手をつけるべきか。
 ミシェルはぐるぐると回る思考回路を抱えたまま、でも、とりあえず久しぶりに会えた幼馴染の顔を(かなり不機嫌そうなそれだが)堪能してしまう自分に、心底呆れていた。
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