DAYBREAK-デイブレイク-

  アヴェ国大統領補佐官ミシェル・シナモンの業務開始は、毎朝七時と決まっていた。
 それはそのまま大統領の起床時間であり、ミシェルの朝一番の仕事といえば、すこぶる寝起きの悪い大統領閣下のお目覚めをフォローする事から始まる。
 しかし、前日の政務状況などから大統領の体調を慮り、起床時間の調整をする役目は、ミシェルのものではなく、都合四人の補佐官を束ねる筆頭補佐官、シグルド・ハーコートの役目だ。
 よって、ミシェルは通常通り、その日も朝六時半には身支度を終え、ミーティングルームと呼ばれる補佐官の詰め所へと足を向けていた。
 いつも通り、どことなく頼りなさそうな細い身体を、補佐官特有の詰襟風の官服に包み、早朝の爽やかな回廊を進んでいる。
 だが、時折垣間見えるどんよりとした眼差しは、昨晩の彼の睡眠時間が十分ではなかったことを如実に物語っていた。
 事実、ミシェルが睡眠と呼べる程の休息を取ったのは、起床する僅か一時間前である。
 彼は、夕べはろくに夕食もとらず、煩悶と懊悩と後頭部の鈍痛に苦しみながら、まんじりともせず一夜を過ごした。
 その間、仮に彼の腰に万歩計を携えていたとすれば、一晩で一体何万歩の歩数を数えたか知れぬほど、自室の部屋の扉とベッドとを往復している。彼自身も、六百七十八往復目で数えるのをやめたほどだ。
 あれから……
 ミシェルは、朝の眩しい光に目を細めながら、白亜の居城の壮麗な中庭を見つめて、口内で呟いた。
 あれから、どうなさっただろう…あのお二人は…
 すでに、この疑問も擦り切れて風化するほど呟いている。
 結局、宵闇の救護室にニサン正教大教母マルグレーテ・ファティマが訪れてすぐ、おっとり刀でやってきた救護官の狼狽を潮に、大教母は随行シスターを連れてあてがわれた部屋へと戻っていった。
『絶対に、ミシェルは悪くないんだからね。余計な気を使わないで』
 去り際に、ミシェルにとってはその夜の煩悶の原因となった、ありがたくも恐ろしいような囁きを残したマルーを思い、彼は早朝の爽やかな空気に沈む、重い嘆息をつく。
 彼女のその言葉と、ハーコート筆頭の『心配はいらない』という言葉、そして、事実自分でも何と言い訳していいか解らないと言う情けなさの板ばさみに、悶々と悩んだ一夜が明け、ようやくミシェルの腹も決まった。
 とりあえずは、大統領の出方を待とう。
 一晩かけて出した結論は、結局大統領に下駄を預ける何とも頼りないものだったが、大統領の補佐官である自分には、その判断が最良だと、ミシェルは信じている。
 そもそも、ミシェルにとっての大統領は、一種独特のカリスマなのだ。信仰の対象といってもいい。
 その大統領をして、心優しい大教母をあれほど激怒たらしめるなどということが、あるだろうか? ミシェルは、どうしても納得がいかなかった。
 平たく言えば、信じたくない。
 だから、大統領のその口から、事の顛末を聞き、やむにやまれぬ事情があったのだと聞かされるまでは、ミシェルは落ち着いていられなかった。夜中に何度も、大統領の自室へ乗り込んで、嘘ですよねえ大統領、と泣きつきたいのを必死に堪えた。
 そして今、そのたまりにたまった煩悶を抱えつつ、ミシェルはミーティングルームの扉の前に立っていた。
 予定では、本日は大統領の政務一般は全て休止になっている。ゆえに、補佐官として毎朝この場に詰めている他の者たちはいないかもしれない。
 しかし、ミシェルは休暇を反故にして、大統領の私的な晩餐会のサポートを自ら買って出たのだ。それについての打ち合わせが、この部屋で行われる事も伝えられている。
 ミシェルは、手にした小さな紙袋を大事そうに抱え直してから、慣れた手つきで扉をノックした。
「入れ」
 中からは予想通り、よく響く優美なバリトンが返ってきた。
 ミシェルは静かに扉を開き、素早くそれを閉めて室内に向き直ると、理想的な角度で腰を曲げた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
 縦に長い室内の中央に、大きく飾られている楕円形の会議机の向こうで、シグルド・ハーコートが、丁度珈琲をカップに分けているところだった。見ると、ミシェルを除く補佐官たちも、全員通常通り着席している。
「あ…お、遅れてしまいましたか?! 申し訳ありません!」
 通常通りの時刻よりも、五分は早く到着しているにも関わらず、すでにメンバーが揃っている事に狼狽したミシェルは、自分の仕事であるはずの給仕をしているシグルドへと慌てて駆け寄ろうとした。
「いや、時間通りだ。いいから席につきなさい、ミシェル」
 シグルドは涼しげにそう言い置いて、自分のところまで駆け寄ってきたミシェルに、せっかくだからと注いだ珈琲を手渡し、着席を促す。
 ミシェルは唖然とした表情で、それでも素早く踵を返して指定の席へと着座した。
 それを合図に、シグルドは楕円形の会議机の上座である曲線部の席につき、手元の資料を取り上げる。その間、ミシェルの傍らに座っていた補佐官の一人が、その資料をミシェルの手元へと滑らせた。
「本日は、休暇予定のところを召集してすまない。だが、状況は昨夜通達した通りだ」
 シグルドの良く通るバリトンを耳にしつつ、ミシェルは素早く資料に目を通す。そこには、おそらく印刷するのは間に合わなかったのであろう、シグルドの美しい達筆で本日の予定が記されていた。
<ブレイダブリク東区画における生活不適応者の処遇と懲罰、改善策における基本的人権の概要>
 それは、ここ数週間の大統領のスケジュールにおいて馴染みの深い一文だった。
「皆も知っての通り、この件に関しての懸案はすでに議会でも何度か取り上げられてきている。決定案こそないものの、殆どの議員たちの賛成数を予測し、暫定的な草案はすでに着想済みだ」
 シグルドは良く通る深いバリトンでそう言いおいて、一呼吸の後こう言った。
「しかし、昨日またしても東区画において、不適応者による窃盗未遂、及び傷害事件がおきた」
 その言葉に、ミシェルはぎくりと肩を竦める。他の補佐官たちは、事情を知ってか知らずか、いつも通りの冷静な態度を崩す者はいなかった。
「それが、警邏機構全般に浸透する結果となり、ひいては不適応者対策に一番力を入れていたマーヴェル議員の耳にも届き、昨晩急きょ大統領との会合が開かれた」
「!」
 シグルドの言葉に、ミシェルはぎょっと目を向いた。そんな事は、一言も聞いていない。
 だがしかし、おそらく負傷したミシェルを慮っての事である事は解りきっている。ミシェルは結果的に自分のせいでハーコート筆頭、ひいては大統領に迷惑をかけたことを、ひたすら恥入った。
「その結果、本日午前十一時より、緊急法案会議が行われる事になった。皆もそのつもりで準備に取り掛かって欲しい。詳しい予定は、手渡した資料に記してある。では、解散」
 シグルドの言葉と共に、補佐官たちが揃って席を立った。そのままてきぱきと言葉を交わし、シグルドに一礼して部屋を出て行く補佐官たちを尻目に、ミシェルは黙って着座したまま俯いていた。
「さて、ミシェル?」
 補佐官たちが退室した頃合いに、シグルドは両手を顎のあたりで組みながら、穏やかにミシェルへ声をかけた。ミシェルはその瞬間、弾かれたように頭を下げる。
「あのっ……も、申し訳ありませんでした!」
 唐突な彼の言葉に、シグルドはしかし驚かなかった。却って、『やっぱりな』とでもいいたげに苦笑を返している。
「ミシェル、何度も言うようだが今回の件は、君の手柄でこそあれ、何も謝る必要はないことだ」
「しかし、現に僕が無様に怪我なんかしたせいで、窃盗未遂事件がおおごとになって、大統領や筆頭の負担に…」
「ちがうちがう、ミシェル」
 シグルドは言って、長い指先を軽く振った。
「それは君のせいじゃない。強いて言うならば、私のせいだ」
「筆頭の?」
 ぎょっとしたミシェルに、シグルドは苦笑を深めた。おそらく、何杯も砂糖を入れたのだろうコーヒーカップを優美に傾けて、喉を潤してから再び口を開く。
「ああ。何しろ、ブレイダブリク中の警邏機構に呼びかけて、マルー様の捜索を依頼したのは、私だからな」
 結果として、その大立ち回りが事を明るみにしたと言える。シグルドの言葉に、ミシェルは複雑に眉を寄せた。
「しかし、…やっぱり僕が、あの時もっと隠密裏に事をおさめていられれば…」
「ミシェル、過ぎたことを『もし』『いれば』と嘆いていても仕方がない。それに、この懸案は君も知っての通り、早々に着手すべき重大なものだ。この際、マーヴェル議員の大げさな発破掛けに乗ってやるのも悪くはあるまい」
「しかし、筆頭! 今日は、大統領の昔のお仲間たちが揃われる、大事な…」
 ミシェルが言いかけた瞬間、室内にある大きな柱時計が、七時の時を刻んだ。
「時間だ。ミシェル、すまないが大統領を起こしてきてくれ」
「筆頭…」
「何、心配はいらない。この程度の法案、あの方が本気を出せば数時間で終わる。晩餐会は夕方六時からだ、それまでは全て片がつくだろう」
 シグルドの言葉に、ミシェルは暗く俯いた。そして、ぎゅっと両の拳を握り締め、もう一度眼差しをあげる。
「し…しかし筆頭、それでは大統領と、大教母様とのお話し合いの時間が…」
 ミシェルの言葉に、シグルドはひょいと片眉を上げた。ミシェルはさっと平伏する。
「で、出すぎたことを申しまして、失礼いたしました! で、でも…あの、」
「心配はいらない、ミシェル」
 しっとりとした深い声音に、ミシェルはそろりと視線を上げた。テーブルの向こうでは、シグルドが穏やかな眼差しをこちらに向けて微笑んでいる。
「あの方たちにとって、小さな諍いは却ってお互いを近づける特効薬のようなものだ。周囲が心配してやきもきするよりも、本人たちが自然のままに近づいて行くのだから、構わないでいればいいんだ」
「……」
 ですが筆頭、大統領は、大教母様以外の方に、お心を奪われているのではないのですか?
 喉元まで出た問いかけを、ミシェルは無意識に呑みこんだ。シグルドの言い方は、どう考えても大統領と大教母をくっつけようとする意図を感じられる。それが、大統領の意思に添っているのかいないのか、それをここで確かめるのが怖かった。
 ミシェルは、テーブルの下で握り締めていた袋の存在を、改めて確かめつつ席を立つ。
「…では、大統領をお起こししてまいります」
「頼んだぞ。その後の予定は、資料に書いてある通りだ」
「はい」
 素直に一礼し、ミシェルはミーティングルームを後にした。心は晴れなかったが、自分に与えられた仕事がある限り、ミシェルは『大統領補佐官』として立ち回らなければならない。
 一つ深呼吸をし、ミシェルは通い慣れた大統領の私室へ向かう道を進んだ。



「失礼いたします」
 数度のノックのあと、中から呻き声に似た返事を受けたミシェルは、恭しく大統領の私室の扉を開いた。
 室内は、何故かしら散らかっている。前日に、ミシェルが整頓していた机上の書類は無造作に床へ散らばり、脱ぎ散らかされた上着が瀟洒な椅子の背もたれに引っかかっていた。
 部屋の南側を占める巨大な窓は、カーテンが半分だけ引かれた状態で、朝の弾けんばかりの光が室内の半分を占拠していた。
 部屋の主は、天蓋つきのベッドに半ば倒れこむような体勢で沈んでいた。おそらく、日の光を避けての結果だろう、徐々に徐々にベッドの端に逃げ込んでいる。
 ミシェルはその姿に半ば唖然とし、そしてどこかでほっとしながらさっさと仕事に取り掛かった。
「おはようございます、大統領! お目覚めの時間です!」
 いつも通り、喧しいくらいの大音響でそう叫んで、ミシェルはてきぱきと室内を横断した。
 厚ぼったいカーテンを全開にし、朝の爽やかな空気を引き入れるべく窓の鍵を次々と開く。ふわりと部屋に入り込んだ冷たい空気が、机上の書類を一枚床に躍らせた。
「起きてください、大統領!」
 叫びながら、ミシェルは手早く書類をかき集める。途中偶然目にしたそれは、やはり東地区の法案に関する構想論文だった。
 それらをざっと分類わけして、ミシェルは脱ぎ散らかされた上着を手に、アヴェ国大統領閣下の元へと近づく。
 弱冠二十歳の大統領、バルトロメイ・ファティマは、枕を抱くようにして眠りこけていた。上には何も着ていない。上掛けもかけないでそのまま寝ていたら、夜半の温度差のあるアヴェでは風邪をひきかねないというのに。
 ミシェルは深くため息をつき、ちゃかちゃかとクローゼットに向かって、衣類の一式をそろえると、再びバルトの傍まで近寄って、すうっと空気を吸い込んだ。
「大統領ッ!! お目覚めの時間です! 朝です!! 起きてくださいッ!!」
「~~~~~~んん~~~~~~~~っ……るせぇ……」
 ここで低い悪態が返るのは、毎朝恒例である。ミシェルは怯むことなく、バルトの腕から枕を取り上げた。
「起きてください、大統領! 本日の執務時間が迫っております!」
「あ~~~……わぁった、わぁった……」
 今日は、いつも以上に寝起きが悪い。ミシェルが訝しんで、ふと反対側のベッドの下を覗き込むと、そこには小型ではあるが度数のきついウイスキーボトルが二本、転がっていた。
「だっ…大統領! まさか、寝酒を…」
「あ~…も、叫ぶなアホゥ…ったま痛ぇ……」
 ごろりと寝返りをうち、額を抑えながらバルトがうめいた。よくよく近づけば、その身体には僅かな酒気が残っている。
「あぁ…もう、なんて事…」
 深くため息をついて、ミシェルはさっと身を翻す。先ほどここへ来る前に調達した冷たい水をグラスに注ぎ、それをバルトの腕に触れさせた。
「つめてッ!」
「これを飲んで、どうか目を覚ましてください、大統領」
 ミシェルの哀願口調に、バルトはしぶしぶと身を起こし、ぼーっとする眼差しをグラスに向けた。ぼさぼさの金髪をがしがしと右手でかきつつ、左手を伸ばしてグラスを受け取ると、一気にそれをあおる。
「目が覚めましたら、すぐにシャワーを浴びてきてください」
「……だりぃ……」
「熱いシャワーを浴びてすっきりすれば、だるさは取れますから」
 ぐずぐずとしているバルトをさっさとシャワールームへ押しやって、ミシェルはてきぱきとベッドメイクをすませた。
 時間にして十分少々の短い間に、雑然としていたバルトの私室が小奇麗に戻る。バルトはシャワールームからのっそりと顔を出し、バスローブの胸を合わせながら水気を吸った金髪を振った。
「あ~、さっぱりした」
「大統領、髪を拭きますのでこちらへどうぞ」
「そんくらい自分でできる」
 タオルを手に待機していたミシェルに、バルトは苦笑を向けてタオルを受け取った。がしがしと乱暴に金髪を拭く彼を見やって、ミシェルは再びグラスに水を注ぐ。
「どうぞ」
「さんきゅ」
 受け取ったグラスに口をつけつつ、バルトは机の上に乗せられていた本日のスケジュールにざっと目を通した。すかさず、ミシェルが補足説明を始める。
「本日十時より法案会議に向けての最終打ち合わせが、第三会議室で行われます。出席者はサミュエル長官とマディスン書記、ハーコート筆頭の予定です。その後十一時より、緊急法案会議が議事堂で行われます。出席予定人数は今のところ不確定ですが、議決に必要な人員は確保されているとの事です」
 バルトの手がタオルから離れた後を継ぎ、ミシェルは丁寧に金髪を拭きながら言う。バルトはグラスを片手に予定表を摘み上げ、無言でそれに目を通したあと不意に口を開いた。
「……晩餐会の出席者の到着予定は?」
「今のところどなたの予定も確認されておりませんが、それぞれの歓迎準備は整えられております」
「はん。するってぇと足りねえのは、主催者であるアヴェ国大統領の身柄だけってか」
 拗ねたようなバルトの言葉に、ミシェルは苦笑を隠しながら答えた。
「法案会議は、筆頭の仰るにはそう時間のかかるものではないと。大統領さえその気になれば、晩餐会へご出席されるのには何の問題もないとのお話でしたが」
「俺さえその気に、ねえ……」 
 気のないバルトの返事に、ミシェルは僅かに眉を寄せた。その瞬間、バルトの金髪を伝って、小さな水滴がミシェルの手の甲に落ちる。
「…あの、大統領」
「ん?」
 何気ない返事に、ミシェルはごくっと喉を鳴らす。震える指先を抑えながら、それでも腹に力をこめて口を開いた。
「だ…大教母様とは、お話し合いは……」
 その瞬間、その場が凍りつく音を、確かにミシェルは聞いた。
 こちらを振り向かず、黙々とグラスを傾けるバルトの無言の圧力に、ミシェルはぎゅっと目を瞑る。バルトの金髪をなぞるタオルが、細かく震えてきた。
 だがしかし、次の瞬間、一気に硬い雰囲気が霧散するような、情けないバルトの溜め息が漏らされた。
「……オハナシアイも何も、あいつあれから部屋にこもってんだよ」
「え?」
 間抜けな声を返したミシェルに、バルトはありがとよ、と呟いて席を立ち、ベッドに腰をかけてその長い足を組んだ。
「取り付く島がねえっつーの? 昨夜は、メシの誘いも断るは、釈明のシの字も受け付けねえは、挙句今度の会議がどーとかで、俺に仕事入ったろ? 実際、な~んも解決してねえんだよ」
「あ……そ、そうなんですか?」
 肩透かしを食らったようなミシェルに、バルトは両手を後ろについて顎をそらし、組んだ足をプラプラと揺らした。
「おう。もうああなった以上、あいつの機嫌をとるのは楽じゃねえぞ。…ま、しゃあねえっちゃしゃあねえんだがよ」
「あ、あの、それで…」
 ごくん、と唾を飲み込み、ミシェルは必死に声を振り絞った。
「も、漏れ聞くところによりますと、大統領は、あの、ぼ、わ、私が大教母様と共に、ブレイダブリクの街にいたことへ……」
「ああ、そうそう!」
 突然バルトが叫び、じろりとミシェルを見やった。
「それだよ、俺が聞きたかったのはよ。お前、詳しく言ってみろ」
「うぇっ?! あ、あの、大教母様はなんと…」
「偶然会って、意気投合したって…そこんとこ、もうちょい詳しく聞かせろよ」
 心なしか、バルトの目が据わっている。ミシェルは、狼の牙に対峙した野兎のように縮こまって、無意味に両手の指をくんだり解いたりしていた。
「く、詳しくというと…ええとですね、まず、私が大統領のご命令通り、香水を探しておりまして、恥ずかしい話ですが、全く心当たりを見つけられず、途方にくれていた時にマ…大教母様とぶつかりまして…あ、け、怪我はありません、大丈夫です! …で、何となく…世間話のついでに、私が香水を探している話になりまして、丁度大教母様もプレゼントをお探しになっていたので、一緒にと…」
「プレゼント?」
 怪訝そうなバルトの声に、ミシェルははっと我に返った。
「あ、はい、ど、どなたに贈られるのかは存じませんが…」
 とっさにそう言って、ミシェルはどっと冷や汗をかいた。
 ここで、マルーがバルトに贈るプレゼントを探していた事を打ち明けるのは簡単だが、それをしてはせっかくの彼女の心意気に水をさすような気がする。それに、もしも彼女がバルトのためのプレゼントを予定通り渡す気があるならば、昨夜のうちに何らかの形でバルトに知らせているはずだ。
 バルトがプレゼントについて何も知らないと言うことは、彼に知らせたくないというマルーの意志が働いているのだろう。
 聡いミシェルは、瞬時にそう解釈し、慎み深く秘密を遵守した。
 それが間違いの元であるとは、気付くはずもなく。
 バルトはミシェルの言葉に、ふうんと生返事を返して難しげに眉を寄せた。男性的な美貌がじっと虚空を睨み、なにごとか思案している様を凝視していると、何だかこちらの気がどんどんと呑まれていくような気がして、ミシェルは再び腹に力をこめた。
「そ、そういうわけですので、大教母様とも知らず、私ごときが馴れ馴れしくもご同行を許されていたのは、全て偶然の事だったのです。ですから、責められるのであれば大教母様ではなく、どうかこの私を…」
 そう言ったミシェルに、バルトは視線を戻していやあな顔を向けた。
「おいおい、なんだってお前、そんなにかしこまってんだよ?」
「え?」
「大体、俺は別に、今回の件でお前もマルーも強く責めようなんざ思ってねえよ。まあ…確かに、見ず知らずの男についてったマルーの迂闊さには釘刺しとかなきゃなんねえが、だからってお前まで責めるつもりはねえし」
「は…あ?」
 ミシェルが間抜けな声を返した。バルトは怪訝そうに眉を寄せる。
「なんだよ? ヘンな面して」
「あ…いえあのその……も、漏れ聞こえるところによりますと、今回の件では大統領はいたくご立腹をされ…その、だ、大教母様の釈明にも聞く耳を…もたれないとかその…」
「………」
 ミシェルの言葉に、バルトの表情が変わった。何とも情けないことに、耳元を赤く染め、図星を指された少年のようにふいと視線をそらし、唇を尖らせる。
「……それは! ……あいつがあんまり無防備だから、つい…大体、お前の事だって何の根拠か知らねえが、ものすごく買ってやがるし…」
 そう言って、思い出したようにじろりと睨まれたミシェルは、慌てて首を振った。
「いやそんな! ぼぼ、僕に対してマ…だ、大教母さまは、どっちかって言うと男扱いしてないからというかその、買っているとかいないとか、そういう以前にアウトオブ眼中というか……」
 そのあまりの狼狽ぶりに、バルトは一瞬ぽかんと口を開いた。次の瞬間、部屋中に響き渡るような爆笑が起こる。
「はははははっ! なんだ、お前もそうなのか! ったく、マルーのやつ男ナメるのもいい加減にしろってんだよなあっ! しっかしお前、自分で言っててその…くくくっ、バカだな、お前……」
「は、はあ……」
 結構酷い言われようだが、バルトが大らかに笑ってくれている方が嬉しいミシェルは、忠実な犬のようにつられて微笑んだ。バルトはそんな彼に、妙に居心地の悪い思いを感じてパンっと両手を合わせる。
「いや、悪ぃ! 笑ったりして…お前も気の毒だよな、気持ち解るぜ」
「いや、そんな…え? なにがですか?」
 きょとんとしたミシェルに、バルトはぼりぼりと首筋をかきながら、涼しげな碧玉の瞳を眩しい窓へと流した。
「……俺もさ、昔っからあいつに、男扱いされた事ねぇんだ。お前の気持ち解るぜ」
「……………………………はぁ?」
 ミシェルは、この世の誰よりも敬って憧れて崇めて奉って、とにかく絶対無比の対象として見てきた大統領の、あまりにも見当違いな独白に、驚く以前に脱力してしまった。
「って言うかよ」
 バルトはミシェルの脱力ぶりを無視して、軽く嘆息をついたあと続けて口を開いた。
「マルーってヤツは、誰に対してもああなんだ。警戒心がない…っつーより、簡単に相手の事を受け入れちまう。まあ、そこそこ鼻は効くから、あいつが懐いた相手に悪いヤツはいねえって言うのは解ってんだけどよ…その、見てるこっちとしてはどうにも危なっかしいだろ?」
 バルトは言いながら、ほったらかしにしていた水の入ったグラスに手を伸ばす。水滴の伝うそれを軽く傾け、湿らせた喉で再び続けた。
「それは、男に対しても同じでさ。例えば、相手がいくらあいつに対して『男の好意』を向けようとも、全然気づかねえんだよ。鈍いっつーか…疎いんだな。…ま、俺なんかはさ、ガキん頃から一緒にいるから、完全に男扱いされてねえんだけどな」
 言い終えたバルトが、不自然に乾いた笑いを浮かべるのを目にし、ミシェルは呆然としていた。
 ……何を。
 ……何を言っているんだろう、この方は。
 呆然を通り越すと、混乱が訪れる。
 マルーの心が、誰あろうこの魅力ある男性に向かっているのは、一目もニ目も、三目も瞭然である。昨日初めて会ったミシェルですらそうなのだから、シグルドを始めとする、昔から彼らを知るものならば、暗黙の了解になっているのではないだろうか。
 それを、恐ろしいことに当のご本人は、気づいていない。
 と、いうことはまさか。
 ミシェルは瞬時に思いついた逆説的理論に、さっと顔を青ざめさせた。
「…あの、大統領、もしかして…この香水を贈る予定だった方は…」
 恐る恐る、ミシェルは懐にしまっていた紙袋を取り出すと、小さな箱をバルトに差し出した。バルトは『あ』という形に口を開き、次いでみるみる顔を赤くする。
「いや…悪かったな、結果的にイタイ買い物させちまって」
「いえ、そんな事はもう…ではなくて、大統領、この香水をお贈りする相手は」
 まさか。
 やっぱり。
「……もういねえよ」
「は?」
 ぽつりと呟かれたバルトの言葉に、ミシェルは目を丸くした。バルトはミシェルから袋を受け取り、それを大きな掌でもてあますように揺らしながら呟く。
「せっかく買ってきてもらってなんなんだが…この香水の行くあては、もうねえんだ。悪いな、ミシェル」
「そ…それはどうしてですか?! だって、その香水は……」
 大統領が、大教母様に贈ろうとした物でしょう?
 ミシェルは、疑問形ではなく断定形で、その言葉を続けようとした。
 もう、疑うべくもない。この一年と言う間、憧れて尊敬して、ずっと見つめ続けた人の心が、どこへ向けられているか解らないミシェルではない。
 だが、ミシェルのその言葉は、瞬時に響いた柱時計の音にかき消された。
「…おっと、もう八時か。そろそろ行かねえと、予定が狂っちまうな」
「だ、大統領!」
「悪いミシェル、マジで急がねえとやべえんだ。その服とってくれ。あ、それと机の上の資料な、会議が始まる前に三十部ほどコピーして、シグに渡しといてくれよ」
「あ、はい、あの…」
 頷いたミシェルから服を受け取ると、バルトは手早く着替え始めた。ミシェルはどうしようどうしようとぐるぐる回る思考回路で、呆然と立ち尽くしている。
「ミシェール? 急がねえと、シグに怒鳴られんぞ」
「はは、はいっ」
 頷いて、ミシェルは手にした資料を握り締め、ぺこりと一礼した。
 そのまま、駆け足でバルトの私室を出て行こうとする。その後ろ姿に、ついでのようにバルトの声がかかった。
「あ、ミシェル。お前さあ、今日暇見っけたら、あいつの…マルーの様子、見てやってくんねえかな?」
「えっ?!」
「なんか、会議会議で忙しくて、ろくにあいつの機嫌もとれないからさ…ま、いつものことだから、そろそろあいつも落ち着いてるとは思うけどな」
 目の覚めるような鮮やかな群青のシャツのボタンをとめながら、バルトは苦笑していた。ミシェルはその顔を見た瞬間、全てを打ち明けようと口を開きかける。
 だがその瞬間、無情にもミシェルの手がかかっていたドアがノックされ、銀髪の男性がミシェルに気付かずにその扉を押し開けてきた。
「うわっ?!」
「ん? ああ、ミシェル…すまない、そこにいたのか。大丈夫か?」 
 落ち着いたバリトンに、たたらを踏んだミシェルが立ち直って頷くと、すぐにその声は、室内のバルトへと向けられた。
「若、時間がないですよ。お早く」
「わーってる。あ、シグ、丁度よかった、一箇所だけ気になるとこあんだけどよ…」
 シグルドを手招いて、法案についての微調整を始めたバルトたちを、ミシェルは困惑した顔で見ていた。だがすぐに、手にした資料の存在を思い出すと、何かを断ち切るようにドアノブに手をかけ、室内へ深々と一礼してからそ扉をくぐる。
 回廊には、朝のひんやりとした空気はあまり残っていなかった。今日もきっと暑くなる。
 しかし、ミシェルは白亜の回廊にたたずみ、暑さからではない冷たい汗を額に浮かべて、低く唸っていた。
「…ど、どうしよう……」
 一人、知ってしまった全ての鍵。
 何故もっと、上手く立ち回れないのか。
 不器用でドン臭い自分が心底嫌になる。
『アンタってホント、ドン臭いんだからっ』
 そのとき、ミシェルの脳裏に聞き慣れた声が鮮やかに蘇った。
 そう…そうだ。キュランがいた!
 ミシェルはぱっと顔を輝かせ、昔から誰よりも頼りになる、大切な幼馴染の顔を思い浮かべた。
 彼女に相談しよう。そうすればきっと、僕なんかが一人でぐずぐずしているよりも、もっとずっと上手い事、このこんがらがった話が解かれるはずだ。
 そう考えた瞬間、ミシェルは自分でも現金だと思うほど、心が軽くなるのを感じた。
 それと同時に、胸に込み上げてくる気持ちに、自然と唇が笑みの形を作る。
 …なんだ。やっぱり大統領は、思った通り、素晴らしい方だ。誰よりも、マルーのことを思っている方だ。
 彼に憧れている人間として、そして同じ男として、何故かミシェルは誇らしいような気分に浸って、軽い足取りで回廊を歩き始めた。
 ……のちに、一番頼りにしている幼馴染の少女から、『鈍感』の上に『能天気』の烙印を押される事など、気付く由もなく……
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