DAYBREAK-デイブレイク-
あんなに赤々と燃えるようだった夕焼けが、いつのまにかひっそりとなりを潜め、辺りは宵闇の静寂に包まれていた。
どのくらい沈黙が保たれたのか。その間ずっと、キュランはミシェルの薄水色の瞳を見つめ続けていた。
いや、彼女自身は、彼女の中に渦巻くさまざまな感情にただ流されて、視線の先に何がいようとお構いなしの状態だったのだが、対するミシェルはたまったものではない。幼い頃には見慣れていた、深緑の瞳がじっと自分を凝視する状態に、居心地が悪くなっても先には目をそらせない。
しかも悪いことに、二人は至近距離だった。もうあと数センチ、ミシェルが手を動かせば、キュランの細い手首を掴めたし、キュランが体重を前にかければ、薄いミシェルの胸に飛び込める。
いつのまにか、ミシェルの心拍数が上がっていた。
目前のキュランは、先ほどからまったく表情を変えずに、ただじっとミシェルの目を見つめている。そう言えば、彼女は子供の頃から、考え事をする時は決まって何かを凝視する癖があった。
それこそ、遊んでいる時も、物を食べている時も、時には歩いている時だって、何かに強く興味を引かれた瞬間、彼女の意識はどこか遠くへ飛んでいく。
普段は、鈍臭いのトロ臭いのと散々こき下ろされていたミシェルだったが、そんな状態になった彼女を他の障害物から守り、こっちの世界に引っ張り戻すという大役は、彼だけの特権だった。
一度など、二人の秘密基地のてっぺんで、虹の色は何色だという討論になり、考え込んだキュランがバランスを取るのすら忘れ、あわや地面へまっさかさまという時に、死にもの狂いでミシェルが引き上げた時もあった。
それ以来、ミシェルはどこか『保護者』のような感覚で、キュランを見守ることが増えた。そんな事を口にしようものなら『生意気!』とはたかれるのは目に見えていたので、一度もそう告げたことはなかったが。
しかし、そんな癖は子供の時分だから許されるようなもので、まさか大人になった今でも、彼女がその悪癖を持っていようとは思ってもいなかったミシェルは、どうしようかとほとほと悩んだ。
幼い頃は、思想世界にトリップしたキュランを呼び戻すために、ミシェルはいろいろな手段を講じた。冷たい水を顔にかけた時もあったし、柔らかい頬っぺたを痛くない程度に叩いたこともある。耳もとで大声を出した時は、鼓膜が痛いと散々わめかれた。
だが、今は。
目前で静止しているキュランに、何をしていいかわからなかった。
大きな深緑の瞳の色は、記憶の中のそれと全然変わらないのに、長い睫毛に覆われたそれは、今まで見たこともないほど綺麗に見える。透き通った鏡のように、呆然としている自分の姿が映っていた。
昔は散々日に焼けていた肌も、ニサンに渡ったからだろうか、随分と白く木目細やかになっている。慎み深いシスターの僧服に、それは美しく映えていた。化粧気のない唇は、ほんのりと自然な赤味が挿され、目の前にいる女性が、自分の知っている少女とは明らかに違うものだと、ミシェルに強烈に訴えかける。
…だから。
どういう風に、彼女に接していいのか、ミシェルは途端に解らなくなってしまった。
今の今まで、まるで昔からずっと一緒にいたように、ぽんぽん口喧嘩できたのが信じられない。こうして、落ち着いて彼女の美しい顔を見てしまうと、流れるように出てきていたはずの軽口が、どこかへ引っ込んでしまう。
…どうしよう。
ごくん、とミシェルの喉が上下した。どんどん、身体の熱が顔に集まってきているのを感じる。あと指三本分ほどの位置にあるキュランの手首に、自分の汗ばんだ手の温もりが伝わりやしないかと、冷や汗が出る。
彼女は一向に構うことはなく、じっとミシェルを見つめていた。
「……あ、あ、……あの……」
ようやく、ミシェルの乾いた唇が、掠れたような声を漏らした。もちろん、そんなことくらいではキュランの意識は戻らない。彼女は微動だにしないまま、その明晰な頭脳がはじき出す『結論』を、じっくりと熟成しているのだ。
普段の何倍も、何十倍も綺麗な瞳で。
「キュ、キュ、キュウ……?」
おずおずと、ミシェルが手を伸ばした。キュランのつるりとした頬に指先が触れるか触れないか、すれすれのところで静止する。上げてしまったその指先は、ぶつかつねるか撫でるか押すかで、ぐるぐると葛藤していた。
「………」
ぶったりつねったり、そんなことはしない。とりあえず、触ってみよう。それで覚醒してくれるとは思えないけど、何だかとても、触ってみたい。幼い頃の彼女の肌は、餅のように柔らかくて気持ちよかったけど、成長した彼女の滑らかなそれは、どんな感触がするのだろう?
好奇心…と、ほんの少しだけの勇気の後押しで、ミシェルの不器用な指先が、キュランの頬に触れた。
「そうよっ!!」
その瞬間、まるでカンシャク玉が弾けたように唐突に、キュランが大きな声で叫んだ。
「そうよ、そうに違いないわ! だったら話は簡単…って、あら? ミシェル、なにやってんのあんた?」
キュランは、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、つんのめるようにベッドに轟沈しているミシェルを覗き込んだ。
彼はキュランが叫んだ瞬間、思わず身体ごと後ろに飛びすさって、そのままベッドの木枠に後頭部を打ちつけて、今まさに激痛にもだえている最中だ。
「もう、怪我人なんだから大人しくしてないさいよ、ばっかねぇ」
「キ、キュウのせいじゃないかっ!!」
「何ですって? あたしがなにしたって言うのよ」
「も、も…もういいよっ!」
ミシェルは真っ赤になったまま、ふんと顔をそらした。まだどきどきと脈打つ手首を押さえ、信じられないくらい柔らかく、暖かかった頬の感触を覚えている指先が、微かに震えているのを感じながら。
「変なコ」
呆れたようにキュランが呟くのを、ミシェルは恨めしそうに眺めやる。
「…で? 何が『そうに違いない』なわけ?」
どうせ、お得意の早とちりとお門違いだろうと、心の中で溜め息を吐きつつ、ミシェルはあぐらをかいた姿勢のまま頬杖をついた。キュランはベッドの端に腰掛け、片手をついて身を乗り出す。
「あのね、もしかしたら大統領の買った香水って、大教母様にお渡しするためにあつらえたものじゃないかしら」
「はぁ?」
突拍子もないキュランの言葉に、ミシェルは目をぱちくりとさせた。キュランはそんな反応にもめげず、ぐっと拳を握る。
「だって、そう考えた方が都合がいいじゃない? 久しぶりの再会を間近に控えた今、わざわざ女性用の贈り物を用意するなんて、出来すぎよ」
「じゃあ、ねだられたって言うのは?」
「まぁ…それは、妙といえば妙だけどぉ…」
途端に、キュランの語調が弱くなる。ミシェルは淡々とした口調で駄目押しした。
「大統領は、僕にはっきりおっしゃったんだよ。『どうしても欲しいって、ねだられてな』って。それに、あの口振りからして、もうとっくに想いを通じ合った恋人へのプレゼント、みたいな節があったし」
「それは…もしかしたら照れてらっしゃるんじゃない? 意外とああいうタイプって、恋愛に対して臆病だったりして」
「意外と…って、キュランは大統領のこと知らないだろ。あの、豪放磊落を絵に描いたような大統領が、そんなことくらいでうじうじするわけないじゃないか」
そう言って、ミシェルは胸を張った。彼に『大統領自慢』をさせると長くかかりそうだと嗅ぎ付けたキュランは、さっさと話題の転換を図る。
「だって…そんなら何で、わざわざ大教母様がいらっしゃる時に、買い物なんかするのよ。贈る相手が大教母様じゃないなら、なにも今…」
言いながら、キュランは細い顎に指を這わせ、すっと半眼を閉じた。
「……もしかして、明日お集まりになられる方の中に、お目当ての方がいらっしゃる…とか?」
「う~ん……」
ミシェルは難しそうに腕を組み、天井を仰ぐ。
「…でもなぁ。ここ一年、僕はずっと大統領にべったりで、政務のお供をしていたけど、身近はおろか遠方にだって、大統領が『恋人』扱いされているような女性の影は見えなかったけどなあ」
「あーらそんなの、隠そうと思えば簡単に隠せるわよ。特に、あんたってニブちんだもん」
からかうキュランの口調に、ミシェルは反論せずにいた。ここで言い返しても、三倍になって返ってくるだけだし、鈍いというのはあながち嘘ではないから。
「じゃあ、そういうことだと仮定して…明日晩餐会にいらっしゃる方の中に、恋人がいるとすれば…待ってよキュラン、それって」
「…そ。だとすれば、大教母様の昔のお仲間の中に、その方がいるってことよ。…もっと言えば、友達だったのかもしれないわね」
「……………」
途端に、ミシェルが悲愴な顔でうなだれた。キュランはちょっと怪訝そうな顔で彼を見る。
「……だったら、酷いよ、大統領……。マルーはあんなに大統領のことを想っていたのに、よりによって他の女性に贈るものを、マルーに探させるなんて…」
「あら、だってそれは、知らなかったんだからしょうがないわよ。それに、そういう理屈ならこの場合、大教母様に探すのを手伝わせたあんたが一番悪いんじゃない。…って言うか、何よ『マルー』って! 不敬罪で首絞めるわよ!」
「わっ、ちょっとたんま! 落ち着けって、キュランっ」
本気で腕を伸ばしかねないキュランの迫力に、ミシェルは慌てて手をかざした。
「まま、まあさ、とにかくこうなったら、僕たちに出来ることはないよ。もしも僕たちの推論が当たって、明日来るお仲間の中に大統領の恋人がいるとしても、その仲を裂いて大教母さまの想いを伝えるなんてこと出来ないわけだし」
「……」
ミシェルの言葉に、眦を上げていたキュランの肩がしゅんと落とされた。そのまま俯く彼女に、ミシェルはぎょっとなる。
「キュ…キュラン?」
恐る恐る声をかけると、キュランは細い肩を震わせていた。
「……大教母さま……お気の毒だわ……アヴェに来るの、あんなに楽しみにしてらしたのに…あんなに…」
「キュ…キュランが泣くこと、ないじゃない……」
今の今まで、自分の首を絞めるほど激しく怒り狂っていたのが、一転して弱々しい表情を見せる。その豹変ぶりに、ミシェルはしどろもどろになった。
…ああ、本当に変わっていない。昔から彼女は、人のことばかりに一生懸命だった。おてんばで、気が強くて、一見してわがままのように見えた彼女だったが、その実本当に、本当に優しいということを、ミシェルは知っている。
だから……僕は。
震えるキュランの肩に、そっと腕を伸ばして。ありったけの優しい声で、『泣かないで』と囁こうとした瞬間。
「……だぁれが泣いてるって?!」
「!?」
「じょうっだんじゃないわよ、あったまくる!」
雄々しく叫び、キュランはがばっと顔を上げた。その表情はまさに憤怒のそれで、その肩は怒りのために震えていたのだと、遅れ馳せながらミシェルは気がついた。
「だいたい、大統領も大統領だわ! 大教母さまのお気持ちも知らずに、呑気に他に女作るなんてー!」
「いや、だってそれは、知らなかったら仕方ないって、キュランもさっき…」
「それに、よりによって今この時に、他の女へプレゼントなんか見繕ってんじゃないわよ! そんな暇あったら、多忙の従姉妹に優しくするとか、他にもっとこうあるじゃない!」
「だから、それは…」
「だいったい、自分の女に渡すプレゼントを、部下に買わせるなんて最低! そんなもの、贈られた方だって迷惑千万だわっ」
「いや、大統領はここ一年、難しい法案にかかりきりでお忙しく…」
「いそがしーのいそがしくないの、そんなことはどうでもいいのよ! 好きな女のために時間も割けない大統領なんて、くそっくらえだわっ!!」
「キュラン!」
ぴしゃりとしたミシェルの声に、キュランはびくっと肩を揺らした。強気にミシェルを睨んでみても、真剣な表情でこちらを見つめる薄水色の瞳に出会うと、気力が腹から抜け落ちていく。
「言い過ぎ」
「……だってっ!」
「大統領が何のために頑張っていらっしゃるか、誰のためにご自分を犠牲にされているか、それが解らないんだったら、ニサンのシスターなんてしている資格はないよ」
「………」
はっきりと言われた言葉に、キュランはぎゅっと唇を噛んだ。上目遣いでミシェルを睨み、細い眉を八の字にする。
「……解ってるわよぅ…。それくらい、解ってる。あたし達のアヴェを…みんなの世界を、建て直そうと頑張って下さってるの、解ってるわよ…」
しおしおと肩を落とすキュランに、ミシェルはにっこりと柔らかく微笑んだ。
「うん。そして、ニサンも頑張ってるよね。大教母様を始めとする、キュラン達シスターもさ」
「………」
やられた、と顔に書いて、キュランは真っ赤になった。そしてそのまま、居心地が悪そうに視線をずらし、ぼつりと毒づく。
「…なぁ~によ。この、大統領おたく」
「…いいじゃん別に。だってカッコいいんだもん」
少しだけ照れたように、ミシェルは苦笑した。キュランもようやく表情を和らげ、細い肩を竦める。
「そうよね…かっこいいものね。どんな女性とだって、釣り合いは取れるわ。あの方が望んで、手に入れられない女性なんていないでしょうね」
「それは…でもそれは、マ…大教母さまだって同じだろ?」
ミシェルの言葉に、キュランは再び何かを叫ぼうと口を開きかけ、しかしすぐに思い直して姿勢を正した。
「…そうよ。自慢じゃないけどうちの大教母さまは、引く手数多の高嶺の花なのよ。あのご容姿も、あのご身分も、すべてはあの方のお人柄って言う、大輪の花を支えるがくでしかないの。あの方が本当に望んで、そして望まれて一緒になる男性は、きっと一生幸せのまま、お墓の下でも安らかでいられるでしょうね」
「…キュランだって、じゅーぶん大教母さまおたくだよ」
からかうように言ってのけるミシェルに、キュランは小さく舌を出した。
「そうよっ、あたし、大教母さまを愛してるもの」
「あ?」
ぎょっとするミシェルに、キュランはにっこりと柔らかく微笑んだ。それはもしかしたら、『シスターヒューイット』の営業用だったのかもしれない。
「だから、大教母さまを哀しませるもの、苦しませるものには、容赦しないの。それがたとえ、あんたの大事な大統領閣下だとしてもねっ」
言って、キュランは不意に立ち上がった。彼女の重みで軋んでいたベッドが、細い音をたてる。
「じゃあ、あたしそろそろ控えの間に行くわ。大教母さまも、もしかしていらしてるかもしれないし」
「あ…うん。ねえ、キュラン」
「なに?」
くるりと振り返られて、ミシェルは言葉に詰まった。
ここでこうして逢えたのも、きっと縁があったから。また、アヴェとニサンに離れ離れになって、せっかくの縁を絶やしたくない。
だけど…何て言ったらいいだろう? 『また会える?』って聞いたところで、鼻で笑われそうな気がする。『もう、会わないよーだ』なんて、あの時のように言われたら。
…そう、あの時のように。
「なによ?」
押し黙ったミシェルに、キュランがいぶかしんだように眉を寄せる。ミシェルはゆっくりと眼差しを上げ、真剣な表情を見せた。
「…あのさ、キュウ…どうしてあの時、キュウは…」
しかしその時、緊迫したミシェルの雰囲気を消し飛ばすように、忙しないノックの音が救護室に響いた。
「あ…はい?」
出鼻を挫かれたミシェルが、慌てて返事を返す。キュランが扉に駆け寄って、中からそれを開くと、意外な訪問者に目を丸くした。
「まあ…! 大教母さま!」
「え?」
ぎょっとして、ミシェルが戸口へ首を巡らせると、肩で息をしている小さな少女の姿が見えた。
「どうなさったのです? 大統領とのお話は、もうおすみに…」
「話すことなんかもうないよっ! あんな分からず屋なんて、もう知らないっ」
「え??」
マルーの剣幕に、キュランはたじたじと後じさる。マルーはそれに構わずに、ずんずんと部屋の中に入ってくると、ベッドの上で呆然となっているミシェルにずいっと顔を寄せた。
「ミシェル!」
「うわっ? はは、はいっ」
「ミシェルは、ボクが話し掛けたり、仲良くしたりするの、迷惑?!」
「はぁっ?!」
唐突なマルーの言葉に、ミシェルは文字通り目を白黒させた。マルーはそんな彼にお構いなしに、ベッドの端に両手をついて身を乗り出すと、わずかに頬を紅潮させて眉を吊り上げる。
「ボクは、身分とか地位とか、そんなもの関係なく、ミシェルとお喋りしたり、お買い物したりするのすっごく楽しかった! だけど、ミシェルがもしも、それを迷惑だって言うんなら、もう……」
一瞬、細い糸が切れたように勢いがとぎれ、マルーは苦しそうに眉を寄せて、ふっと微笑んだ。
「……ごめん。変なこと言ったね。今ちょっと…あたま混乱してて…ごめんなさい、困らせるつもりはなかったの。……ごめんね」
そう言って、ゆるゆるとベッドから身を起こし、マルーは俯いたまま少し微笑んだ。ベッドに腰掛けていたミシェルは、俯いた彼女の顔が良く見えて、その微笑みが、出来れば見たくはないと願っていた、寂しそうなそれだと解った瞬間、身体のどこかが波打った。
「迷惑じゃないよ!」
気がつけば、ミシェルはありったけの勇気を振り絞って、そう叫んでいた。マルーはきょとんと目を丸くし、驚いたようにミシェルを振り仰ぐ。
自分の心臓の音が、耳の奥で大きく反響しているのを自覚しながら、ミシェルはぐっと拳を握る。マルーの大きな青い瞳に、気圧されずに視線を合わせた。
「僕は…、身分も地位もないし、子供で頼りないけど、マルーと過ごした時間は、本当に楽しかったよ! だから、マルーが大教母さまだって解った時……ホントに、何て失礼なことをしてしまったんだろうって、すごく後悔したけど、でも…」
頬が引き攣るのを気力で押さえながら、ミシェルはゆっくりと微笑んだ。
「僕は、マルーがマルーだから、好きなんだ。ずっと友達でいたいって、本気で思ったよ」
「……ミシェル……」
呆然としていたマルーの唇から、やがて零れるような囁きが落ちた。マルーはミシェルの見上げた先で、泣き笑いのように眉を寄せ、それでも幸せそうに微笑んでみせた。
「……ありがとう。ボクも、ミシェルが大好きだよ。もっとたくさんお話したいし、また、一緒に買い物したい」
「マルー……」
ミシェルは、真っ赤な顔のままマルーを見上げていた。彼女の微笑みが、とてもとても美しくて、何だか何を言っていいかわからなくなった。それでも、言わなければいけないことはすべて言い終えたと言う、不思議な充足感でいっぱいだった。
するとマルーは、一度区切りをつけるように小さく頷いた後、思い切り明るい声を上げた。
「うんっ! これでもう、若なんかに文句言わせないもんねーっ! ミシェルはボクの友達だもん、どれだけ仲良くしたっていーんだから」
「え?」
きょとんとしたミシェルに気付かず、マルーは軽く拳を握って天井を仰ぐ。
「若がね、言ったの。ミシェルは、ボク達と対等に話せるほど器用じゃないとか、ボクが馴れ馴れしくすると萎縮しちゃって気の毒だとか、勝手なことばっかりさ! 全然、そんな心配ないのにねえ?」
「……うあ」
顔面蒼白のまま、ミシェルはがちがちに硬直する。マルーの言葉が、ミシェルの胸の図星にざくざくと刺さって、声が出ない。
「ほんっとに、勝手なことばっかり言ってるんだよ! 昔っから、こっちの話なんて全然聞かないところあるんだから! もう、久しぶりに大喧嘩しちゃったよ! 若なんて、若なんて……」
「あの、大教母さま……」
その時、マルーの背後からキュランの低い声がかかった。マルーはきょとんと後ろを振り返り、小首を傾げる。
「なぁに? キュラン」
「若…とおっしゃるのは、大統領閣下のことですか?」
「あ…うん、そう。子供の頃から、『若』って呼んでるの」
「と言うことは大統領閣下が、ミシェルについて、そのようにおっしゃっていた、と言うことですわよね…」
「うん。…あれ? 『ミシェル』、って…」
きょとんとしたマルーに気付かずに、キュランはキッとミシェルを睨んで、口端を吊り上げる微笑みを見せた。
「…それはつまり…ミシェルのせいで、大教母さまと大統領の間に、波風が立ってしまった、と言うことですわよね」
「え?」
「ミシェルが、大教母さまと共に街を歩いたこと、身分をわきまえずに無礼な口をきいたこと、その全てに、大統領がご立腹されているとしたら……」
「あの、ちょっと、キュラン…?」
様子のおかしいキュランに、マルーがおずおずと声をかける。しかし彼女は次の瞬間、ぎっとまなじりを上げてミシェルを怒鳴りつけた。
「どれもこれも、みんなあんたのせいじゃないのよばかミーシュっ!! 何が『大教母さまと大統領なら大丈夫』よ! 思いっきり波風立てちゃったじゃないのよ!!」
あまりの迫力に、一瞬気圧されかけたミシェルは、それでも果敢に反論を試みた。
「だだ、だってしょうがないだろっ! まさか、そのことを大統領がそんなにご立腹されるとは、おもわな…」
「しょうがないですんだら警邏はいらないのよっ! あーもう、何であんたってそう間が悪いのよ! せっかくの大教母さまと大統領の感動の再会に、何もあんたがケチつけることないでしょーが、このどじまぬけ!」
「だからっ、不可抗力だって言ってるじゃないか! それに、大統領は本気でそんなことにこだわるような方じゃないよ! ちゃんと僕が、筋道たてて説明すれば…」
「本気でこだわってるから、こんなことになってるんでしょうがっ! もー、あんたの言うことってほんっとにあてにならないわねっ! 子供の頃も、絶対大丈夫だって言って登った木の枝折っちゃうし!」
「あれは、僕がよせって言ったのに、キュウまで一緒に登っちゃったからだろっ?! あんな細い枝で、僕とキュウの体重を支えられるはずないじゃないか!」
「まー、なによその言い方! まるであたしが百貫でぶみたいじゃないの! そうよね、あんたっていつまでたっても、近所の子供たちの中でいーっちばんチビだったもんねっ! 知ってるのよ、あんたが密かに憧れていた雑貨屋のユーリスにも勝てなくて、こっそり泣いてたくせに!」
「泣いてないよっ! それに、ユーリスのことはキュウの勘違いだって言ってるじゃないか! キュウがあることないこと言いふらすから、からかわれて大変だったんだよっ!」
「それはあんたが、ちゃんと否定しないから!」
「聞く耳持たなかったのはどっちだよ?!」
「なによっ!」
「なんだよっ!」
お互いに一歩も引かず、再びベッドの上で鼻先をつけるほどにじり寄っていた二人が、じりじりと睨み合ったその一瞬の間隙に、マルーのぽかんとした声が割り込んだ。
「……二人って、もしかして……幼なじみ?」
「………あ」
途端に、まるで憑き物が落ちたように我に返ったミシェルとキュランは、互いに顔を見合わせた後、慌ててマルーに向き直った。
「すみませんっ! お見苦しいところをお見せしました!」
見事にハモッた二人の声に、マルーはぽかんとしていた表情を見る見る和らげ、自分のことのように嬉しそうに笑った。
「じゃあ、ミシェルが雑貨屋さんで教えてくれた幼なじみって、キュランのことだったんだ!」
「え? あ……うん、あ、はい」
キュランの手前、何となく口調を選びかねたミシェルが頷くと、傍らでキュランがぎろりと視線を流す。目は口ほどに『あんたなによけいなこと言ったのよ』と語っていた。
そんな二人には構わずに、マルーはますます嬉しそうに、はしゃいだ声を上げる。
「うわぁ! よかったね、ミシェル! 逢いたいって言ってたじゃない! 縁があったから、こうして出会えたんだよ! ねっ」
「え?」
マルーの言葉に、驚いたようなキュランがミシェルを見やる。ミシェルはその瞬間、真っ赤になって素っ頓狂な声を上げた。
「そそそ、それじゃあ僕は、大統領に昼間のことを釈明してきますねっ」
そのまま、ぎくしゃくとベッドを降りようとしたミシェルを、マルーの声がぴしゃりと遮った。
「いいの。ミシェルはな~~んにも悪くないんだから、釈明なんて必要ないよ!」
普段の彼女らしからぬ、その頑なな言葉に、ミシェルは困ったように眉を寄せた。
「いや、しかし……」
「いいのっ! もしも何か言われたら、ボクに言って。シグにお願いして、若の性根を叩き直してもらうんだからっ」
そう言って、力強く拳を握るマルーの傍らで、キュランがこっそりとミシェルに耳打ちをする。
「…ちょっと、大統領って、ホントにどんな性格してるわけ? あの大教母さまを、こんなに怒らせるなんて……」
「い、いや…何でこんなことになったのか、僕だってさっぱりだよ…」
言いながらも、ミシェルはおそらくマルー滞在の間中自分を苛むであろう、大統領と大教母との板挟みを想像して、胃の腑がきりきりと泣くのを感じた。
しかし、本当に分からない。ミシェルの知っている大統領は、人の気持ちをさりげなくくめる、小憎らしいほど魅力的な人物で…だからこそミシェルは、自分の全てをかけて、彼の力になれるよう粉骨砕身していると言うのに…。
「……男って、身内にはそっけないって言うしねぇ…」
ポツリと呟かれたキュランの言葉に、ミシェルは愕然と肩を落とした。
……何だか、今すぐ、穴が空くほど、大統領のお顔が見たい。
そう思いながらも、目前で激怒している少女と、傍らで呆れている幼なじみとを振り切って、大統領のところへ駆け込めるはずもなく。
結局、ぐるぐると回る不安と混乱に苛まれながら、ミシェルは日の落ちた救護室の灰色っぽい壁を、力なく見つめていた。
どのくらい沈黙が保たれたのか。その間ずっと、キュランはミシェルの薄水色の瞳を見つめ続けていた。
いや、彼女自身は、彼女の中に渦巻くさまざまな感情にただ流されて、視線の先に何がいようとお構いなしの状態だったのだが、対するミシェルはたまったものではない。幼い頃には見慣れていた、深緑の瞳がじっと自分を凝視する状態に、居心地が悪くなっても先には目をそらせない。
しかも悪いことに、二人は至近距離だった。もうあと数センチ、ミシェルが手を動かせば、キュランの細い手首を掴めたし、キュランが体重を前にかければ、薄いミシェルの胸に飛び込める。
いつのまにか、ミシェルの心拍数が上がっていた。
目前のキュランは、先ほどからまったく表情を変えずに、ただじっとミシェルの目を見つめている。そう言えば、彼女は子供の頃から、考え事をする時は決まって何かを凝視する癖があった。
それこそ、遊んでいる時も、物を食べている時も、時には歩いている時だって、何かに強く興味を引かれた瞬間、彼女の意識はどこか遠くへ飛んでいく。
普段は、鈍臭いのトロ臭いのと散々こき下ろされていたミシェルだったが、そんな状態になった彼女を他の障害物から守り、こっちの世界に引っ張り戻すという大役は、彼だけの特権だった。
一度など、二人の秘密基地のてっぺんで、虹の色は何色だという討論になり、考え込んだキュランがバランスを取るのすら忘れ、あわや地面へまっさかさまという時に、死にもの狂いでミシェルが引き上げた時もあった。
それ以来、ミシェルはどこか『保護者』のような感覚で、キュランを見守ることが増えた。そんな事を口にしようものなら『生意気!』とはたかれるのは目に見えていたので、一度もそう告げたことはなかったが。
しかし、そんな癖は子供の時分だから許されるようなもので、まさか大人になった今でも、彼女がその悪癖を持っていようとは思ってもいなかったミシェルは、どうしようかとほとほと悩んだ。
幼い頃は、思想世界にトリップしたキュランを呼び戻すために、ミシェルはいろいろな手段を講じた。冷たい水を顔にかけた時もあったし、柔らかい頬っぺたを痛くない程度に叩いたこともある。耳もとで大声を出した時は、鼓膜が痛いと散々わめかれた。
だが、今は。
目前で静止しているキュランに、何をしていいかわからなかった。
大きな深緑の瞳の色は、記憶の中のそれと全然変わらないのに、長い睫毛に覆われたそれは、今まで見たこともないほど綺麗に見える。透き通った鏡のように、呆然としている自分の姿が映っていた。
昔は散々日に焼けていた肌も、ニサンに渡ったからだろうか、随分と白く木目細やかになっている。慎み深いシスターの僧服に、それは美しく映えていた。化粧気のない唇は、ほんのりと自然な赤味が挿され、目の前にいる女性が、自分の知っている少女とは明らかに違うものだと、ミシェルに強烈に訴えかける。
…だから。
どういう風に、彼女に接していいのか、ミシェルは途端に解らなくなってしまった。
今の今まで、まるで昔からずっと一緒にいたように、ぽんぽん口喧嘩できたのが信じられない。こうして、落ち着いて彼女の美しい顔を見てしまうと、流れるように出てきていたはずの軽口が、どこかへ引っ込んでしまう。
…どうしよう。
ごくん、とミシェルの喉が上下した。どんどん、身体の熱が顔に集まってきているのを感じる。あと指三本分ほどの位置にあるキュランの手首に、自分の汗ばんだ手の温もりが伝わりやしないかと、冷や汗が出る。
彼女は一向に構うことはなく、じっとミシェルを見つめていた。
「……あ、あ、……あの……」
ようやく、ミシェルの乾いた唇が、掠れたような声を漏らした。もちろん、そんなことくらいではキュランの意識は戻らない。彼女は微動だにしないまま、その明晰な頭脳がはじき出す『結論』を、じっくりと熟成しているのだ。
普段の何倍も、何十倍も綺麗な瞳で。
「キュ、キュ、キュウ……?」
おずおずと、ミシェルが手を伸ばした。キュランのつるりとした頬に指先が触れるか触れないか、すれすれのところで静止する。上げてしまったその指先は、ぶつかつねるか撫でるか押すかで、ぐるぐると葛藤していた。
「………」
ぶったりつねったり、そんなことはしない。とりあえず、触ってみよう。それで覚醒してくれるとは思えないけど、何だかとても、触ってみたい。幼い頃の彼女の肌は、餅のように柔らかくて気持ちよかったけど、成長した彼女の滑らかなそれは、どんな感触がするのだろう?
好奇心…と、ほんの少しだけの勇気の後押しで、ミシェルの不器用な指先が、キュランの頬に触れた。
「そうよっ!!」
その瞬間、まるでカンシャク玉が弾けたように唐突に、キュランが大きな声で叫んだ。
「そうよ、そうに違いないわ! だったら話は簡単…って、あら? ミシェル、なにやってんのあんた?」
キュランは、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、つんのめるようにベッドに轟沈しているミシェルを覗き込んだ。
彼はキュランが叫んだ瞬間、思わず身体ごと後ろに飛びすさって、そのままベッドの木枠に後頭部を打ちつけて、今まさに激痛にもだえている最中だ。
「もう、怪我人なんだから大人しくしてないさいよ、ばっかねぇ」
「キ、キュウのせいじゃないかっ!!」
「何ですって? あたしがなにしたって言うのよ」
「も、も…もういいよっ!」
ミシェルは真っ赤になったまま、ふんと顔をそらした。まだどきどきと脈打つ手首を押さえ、信じられないくらい柔らかく、暖かかった頬の感触を覚えている指先が、微かに震えているのを感じながら。
「変なコ」
呆れたようにキュランが呟くのを、ミシェルは恨めしそうに眺めやる。
「…で? 何が『そうに違いない』なわけ?」
どうせ、お得意の早とちりとお門違いだろうと、心の中で溜め息を吐きつつ、ミシェルはあぐらをかいた姿勢のまま頬杖をついた。キュランはベッドの端に腰掛け、片手をついて身を乗り出す。
「あのね、もしかしたら大統領の買った香水って、大教母様にお渡しするためにあつらえたものじゃないかしら」
「はぁ?」
突拍子もないキュランの言葉に、ミシェルは目をぱちくりとさせた。キュランはそんな反応にもめげず、ぐっと拳を握る。
「だって、そう考えた方が都合がいいじゃない? 久しぶりの再会を間近に控えた今、わざわざ女性用の贈り物を用意するなんて、出来すぎよ」
「じゃあ、ねだられたって言うのは?」
「まぁ…それは、妙といえば妙だけどぉ…」
途端に、キュランの語調が弱くなる。ミシェルは淡々とした口調で駄目押しした。
「大統領は、僕にはっきりおっしゃったんだよ。『どうしても欲しいって、ねだられてな』って。それに、あの口振りからして、もうとっくに想いを通じ合った恋人へのプレゼント、みたいな節があったし」
「それは…もしかしたら照れてらっしゃるんじゃない? 意外とああいうタイプって、恋愛に対して臆病だったりして」
「意外と…って、キュランは大統領のこと知らないだろ。あの、豪放磊落を絵に描いたような大統領が、そんなことくらいでうじうじするわけないじゃないか」
そう言って、ミシェルは胸を張った。彼に『大統領自慢』をさせると長くかかりそうだと嗅ぎ付けたキュランは、さっさと話題の転換を図る。
「だって…そんなら何で、わざわざ大教母様がいらっしゃる時に、買い物なんかするのよ。贈る相手が大教母様じゃないなら、なにも今…」
言いながら、キュランは細い顎に指を這わせ、すっと半眼を閉じた。
「……もしかして、明日お集まりになられる方の中に、お目当ての方がいらっしゃる…とか?」
「う~ん……」
ミシェルは難しそうに腕を組み、天井を仰ぐ。
「…でもなぁ。ここ一年、僕はずっと大統領にべったりで、政務のお供をしていたけど、身近はおろか遠方にだって、大統領が『恋人』扱いされているような女性の影は見えなかったけどなあ」
「あーらそんなの、隠そうと思えば簡単に隠せるわよ。特に、あんたってニブちんだもん」
からかうキュランの口調に、ミシェルは反論せずにいた。ここで言い返しても、三倍になって返ってくるだけだし、鈍いというのはあながち嘘ではないから。
「じゃあ、そういうことだと仮定して…明日晩餐会にいらっしゃる方の中に、恋人がいるとすれば…待ってよキュラン、それって」
「…そ。だとすれば、大教母様の昔のお仲間の中に、その方がいるってことよ。…もっと言えば、友達だったのかもしれないわね」
「……………」
途端に、ミシェルが悲愴な顔でうなだれた。キュランはちょっと怪訝そうな顔で彼を見る。
「……だったら、酷いよ、大統領……。マルーはあんなに大統領のことを想っていたのに、よりによって他の女性に贈るものを、マルーに探させるなんて…」
「あら、だってそれは、知らなかったんだからしょうがないわよ。それに、そういう理屈ならこの場合、大教母様に探すのを手伝わせたあんたが一番悪いんじゃない。…って言うか、何よ『マルー』って! 不敬罪で首絞めるわよ!」
「わっ、ちょっとたんま! 落ち着けって、キュランっ」
本気で腕を伸ばしかねないキュランの迫力に、ミシェルは慌てて手をかざした。
「まま、まあさ、とにかくこうなったら、僕たちに出来ることはないよ。もしも僕たちの推論が当たって、明日来るお仲間の中に大統領の恋人がいるとしても、その仲を裂いて大教母さまの想いを伝えるなんてこと出来ないわけだし」
「……」
ミシェルの言葉に、眦を上げていたキュランの肩がしゅんと落とされた。そのまま俯く彼女に、ミシェルはぎょっとなる。
「キュ…キュラン?」
恐る恐る声をかけると、キュランは細い肩を震わせていた。
「……大教母さま……お気の毒だわ……アヴェに来るの、あんなに楽しみにしてらしたのに…あんなに…」
「キュ…キュランが泣くこと、ないじゃない……」
今の今まで、自分の首を絞めるほど激しく怒り狂っていたのが、一転して弱々しい表情を見せる。その豹変ぶりに、ミシェルはしどろもどろになった。
…ああ、本当に変わっていない。昔から彼女は、人のことばかりに一生懸命だった。おてんばで、気が強くて、一見してわがままのように見えた彼女だったが、その実本当に、本当に優しいということを、ミシェルは知っている。
だから……僕は。
震えるキュランの肩に、そっと腕を伸ばして。ありったけの優しい声で、『泣かないで』と囁こうとした瞬間。
「……だぁれが泣いてるって?!」
「!?」
「じょうっだんじゃないわよ、あったまくる!」
雄々しく叫び、キュランはがばっと顔を上げた。その表情はまさに憤怒のそれで、その肩は怒りのために震えていたのだと、遅れ馳せながらミシェルは気がついた。
「だいたい、大統領も大統領だわ! 大教母さまのお気持ちも知らずに、呑気に他に女作るなんてー!」
「いや、だってそれは、知らなかったら仕方ないって、キュランもさっき…」
「それに、よりによって今この時に、他の女へプレゼントなんか見繕ってんじゃないわよ! そんな暇あったら、多忙の従姉妹に優しくするとか、他にもっとこうあるじゃない!」
「だから、それは…」
「だいったい、自分の女に渡すプレゼントを、部下に買わせるなんて最低! そんなもの、贈られた方だって迷惑千万だわっ」
「いや、大統領はここ一年、難しい法案にかかりきりでお忙しく…」
「いそがしーのいそがしくないの、そんなことはどうでもいいのよ! 好きな女のために時間も割けない大統領なんて、くそっくらえだわっ!!」
「キュラン!」
ぴしゃりとしたミシェルの声に、キュランはびくっと肩を揺らした。強気にミシェルを睨んでみても、真剣な表情でこちらを見つめる薄水色の瞳に出会うと、気力が腹から抜け落ちていく。
「言い過ぎ」
「……だってっ!」
「大統領が何のために頑張っていらっしゃるか、誰のためにご自分を犠牲にされているか、それが解らないんだったら、ニサンのシスターなんてしている資格はないよ」
「………」
はっきりと言われた言葉に、キュランはぎゅっと唇を噛んだ。上目遣いでミシェルを睨み、細い眉を八の字にする。
「……解ってるわよぅ…。それくらい、解ってる。あたし達のアヴェを…みんなの世界を、建て直そうと頑張って下さってるの、解ってるわよ…」
しおしおと肩を落とすキュランに、ミシェルはにっこりと柔らかく微笑んだ。
「うん。そして、ニサンも頑張ってるよね。大教母様を始めとする、キュラン達シスターもさ」
「………」
やられた、と顔に書いて、キュランは真っ赤になった。そしてそのまま、居心地が悪そうに視線をずらし、ぼつりと毒づく。
「…なぁ~によ。この、大統領おたく」
「…いいじゃん別に。だってカッコいいんだもん」
少しだけ照れたように、ミシェルは苦笑した。キュランもようやく表情を和らげ、細い肩を竦める。
「そうよね…かっこいいものね。どんな女性とだって、釣り合いは取れるわ。あの方が望んで、手に入れられない女性なんていないでしょうね」
「それは…でもそれは、マ…大教母さまだって同じだろ?」
ミシェルの言葉に、キュランは再び何かを叫ぼうと口を開きかけ、しかしすぐに思い直して姿勢を正した。
「…そうよ。自慢じゃないけどうちの大教母さまは、引く手数多の高嶺の花なのよ。あのご容姿も、あのご身分も、すべてはあの方のお人柄って言う、大輪の花を支えるがくでしかないの。あの方が本当に望んで、そして望まれて一緒になる男性は、きっと一生幸せのまま、お墓の下でも安らかでいられるでしょうね」
「…キュランだって、じゅーぶん大教母さまおたくだよ」
からかうように言ってのけるミシェルに、キュランは小さく舌を出した。
「そうよっ、あたし、大教母さまを愛してるもの」
「あ?」
ぎょっとするミシェルに、キュランはにっこりと柔らかく微笑んだ。それはもしかしたら、『シスターヒューイット』の営業用だったのかもしれない。
「だから、大教母さまを哀しませるもの、苦しませるものには、容赦しないの。それがたとえ、あんたの大事な大統領閣下だとしてもねっ」
言って、キュランは不意に立ち上がった。彼女の重みで軋んでいたベッドが、細い音をたてる。
「じゃあ、あたしそろそろ控えの間に行くわ。大教母さまも、もしかしていらしてるかもしれないし」
「あ…うん。ねえ、キュラン」
「なに?」
くるりと振り返られて、ミシェルは言葉に詰まった。
ここでこうして逢えたのも、きっと縁があったから。また、アヴェとニサンに離れ離れになって、せっかくの縁を絶やしたくない。
だけど…何て言ったらいいだろう? 『また会える?』って聞いたところで、鼻で笑われそうな気がする。『もう、会わないよーだ』なんて、あの時のように言われたら。
…そう、あの時のように。
「なによ?」
押し黙ったミシェルに、キュランがいぶかしんだように眉を寄せる。ミシェルはゆっくりと眼差しを上げ、真剣な表情を見せた。
「…あのさ、キュウ…どうしてあの時、キュウは…」
しかしその時、緊迫したミシェルの雰囲気を消し飛ばすように、忙しないノックの音が救護室に響いた。
「あ…はい?」
出鼻を挫かれたミシェルが、慌てて返事を返す。キュランが扉に駆け寄って、中からそれを開くと、意外な訪問者に目を丸くした。
「まあ…! 大教母さま!」
「え?」
ぎょっとして、ミシェルが戸口へ首を巡らせると、肩で息をしている小さな少女の姿が見えた。
「どうなさったのです? 大統領とのお話は、もうおすみに…」
「話すことなんかもうないよっ! あんな分からず屋なんて、もう知らないっ」
「え??」
マルーの剣幕に、キュランはたじたじと後じさる。マルーはそれに構わずに、ずんずんと部屋の中に入ってくると、ベッドの上で呆然となっているミシェルにずいっと顔を寄せた。
「ミシェル!」
「うわっ? はは、はいっ」
「ミシェルは、ボクが話し掛けたり、仲良くしたりするの、迷惑?!」
「はぁっ?!」
唐突なマルーの言葉に、ミシェルは文字通り目を白黒させた。マルーはそんな彼にお構いなしに、ベッドの端に両手をついて身を乗り出すと、わずかに頬を紅潮させて眉を吊り上げる。
「ボクは、身分とか地位とか、そんなもの関係なく、ミシェルとお喋りしたり、お買い物したりするのすっごく楽しかった! だけど、ミシェルがもしも、それを迷惑だって言うんなら、もう……」
一瞬、細い糸が切れたように勢いがとぎれ、マルーは苦しそうに眉を寄せて、ふっと微笑んだ。
「……ごめん。変なこと言ったね。今ちょっと…あたま混乱してて…ごめんなさい、困らせるつもりはなかったの。……ごめんね」
そう言って、ゆるゆるとベッドから身を起こし、マルーは俯いたまま少し微笑んだ。ベッドに腰掛けていたミシェルは、俯いた彼女の顔が良く見えて、その微笑みが、出来れば見たくはないと願っていた、寂しそうなそれだと解った瞬間、身体のどこかが波打った。
「迷惑じゃないよ!」
気がつけば、ミシェルはありったけの勇気を振り絞って、そう叫んでいた。マルーはきょとんと目を丸くし、驚いたようにミシェルを振り仰ぐ。
自分の心臓の音が、耳の奥で大きく反響しているのを自覚しながら、ミシェルはぐっと拳を握る。マルーの大きな青い瞳に、気圧されずに視線を合わせた。
「僕は…、身分も地位もないし、子供で頼りないけど、マルーと過ごした時間は、本当に楽しかったよ! だから、マルーが大教母さまだって解った時……ホントに、何て失礼なことをしてしまったんだろうって、すごく後悔したけど、でも…」
頬が引き攣るのを気力で押さえながら、ミシェルはゆっくりと微笑んだ。
「僕は、マルーがマルーだから、好きなんだ。ずっと友達でいたいって、本気で思ったよ」
「……ミシェル……」
呆然としていたマルーの唇から、やがて零れるような囁きが落ちた。マルーはミシェルの見上げた先で、泣き笑いのように眉を寄せ、それでも幸せそうに微笑んでみせた。
「……ありがとう。ボクも、ミシェルが大好きだよ。もっとたくさんお話したいし、また、一緒に買い物したい」
「マルー……」
ミシェルは、真っ赤な顔のままマルーを見上げていた。彼女の微笑みが、とてもとても美しくて、何だか何を言っていいかわからなくなった。それでも、言わなければいけないことはすべて言い終えたと言う、不思議な充足感でいっぱいだった。
するとマルーは、一度区切りをつけるように小さく頷いた後、思い切り明るい声を上げた。
「うんっ! これでもう、若なんかに文句言わせないもんねーっ! ミシェルはボクの友達だもん、どれだけ仲良くしたっていーんだから」
「え?」
きょとんとしたミシェルに気付かず、マルーは軽く拳を握って天井を仰ぐ。
「若がね、言ったの。ミシェルは、ボク達と対等に話せるほど器用じゃないとか、ボクが馴れ馴れしくすると萎縮しちゃって気の毒だとか、勝手なことばっかりさ! 全然、そんな心配ないのにねえ?」
「……うあ」
顔面蒼白のまま、ミシェルはがちがちに硬直する。マルーの言葉が、ミシェルの胸の図星にざくざくと刺さって、声が出ない。
「ほんっとに、勝手なことばっかり言ってるんだよ! 昔っから、こっちの話なんて全然聞かないところあるんだから! もう、久しぶりに大喧嘩しちゃったよ! 若なんて、若なんて……」
「あの、大教母さま……」
その時、マルーの背後からキュランの低い声がかかった。マルーはきょとんと後ろを振り返り、小首を傾げる。
「なぁに? キュラン」
「若…とおっしゃるのは、大統領閣下のことですか?」
「あ…うん、そう。子供の頃から、『若』って呼んでるの」
「と言うことは大統領閣下が、ミシェルについて、そのようにおっしゃっていた、と言うことですわよね…」
「うん。…あれ? 『ミシェル』、って…」
きょとんとしたマルーに気付かずに、キュランはキッとミシェルを睨んで、口端を吊り上げる微笑みを見せた。
「…それはつまり…ミシェルのせいで、大教母さまと大統領の間に、波風が立ってしまった、と言うことですわよね」
「え?」
「ミシェルが、大教母さまと共に街を歩いたこと、身分をわきまえずに無礼な口をきいたこと、その全てに、大統領がご立腹されているとしたら……」
「あの、ちょっと、キュラン…?」
様子のおかしいキュランに、マルーがおずおずと声をかける。しかし彼女は次の瞬間、ぎっとまなじりを上げてミシェルを怒鳴りつけた。
「どれもこれも、みんなあんたのせいじゃないのよばかミーシュっ!! 何が『大教母さまと大統領なら大丈夫』よ! 思いっきり波風立てちゃったじゃないのよ!!」
あまりの迫力に、一瞬気圧されかけたミシェルは、それでも果敢に反論を試みた。
「だだ、だってしょうがないだろっ! まさか、そのことを大統領がそんなにご立腹されるとは、おもわな…」
「しょうがないですんだら警邏はいらないのよっ! あーもう、何であんたってそう間が悪いのよ! せっかくの大教母さまと大統領の感動の再会に、何もあんたがケチつけることないでしょーが、このどじまぬけ!」
「だからっ、不可抗力だって言ってるじゃないか! それに、大統領は本気でそんなことにこだわるような方じゃないよ! ちゃんと僕が、筋道たてて説明すれば…」
「本気でこだわってるから、こんなことになってるんでしょうがっ! もー、あんたの言うことってほんっとにあてにならないわねっ! 子供の頃も、絶対大丈夫だって言って登った木の枝折っちゃうし!」
「あれは、僕がよせって言ったのに、キュウまで一緒に登っちゃったからだろっ?! あんな細い枝で、僕とキュウの体重を支えられるはずないじゃないか!」
「まー、なによその言い方! まるであたしが百貫でぶみたいじゃないの! そうよね、あんたっていつまでたっても、近所の子供たちの中でいーっちばんチビだったもんねっ! 知ってるのよ、あんたが密かに憧れていた雑貨屋のユーリスにも勝てなくて、こっそり泣いてたくせに!」
「泣いてないよっ! それに、ユーリスのことはキュウの勘違いだって言ってるじゃないか! キュウがあることないこと言いふらすから、からかわれて大変だったんだよっ!」
「それはあんたが、ちゃんと否定しないから!」
「聞く耳持たなかったのはどっちだよ?!」
「なによっ!」
「なんだよっ!」
お互いに一歩も引かず、再びベッドの上で鼻先をつけるほどにじり寄っていた二人が、じりじりと睨み合ったその一瞬の間隙に、マルーのぽかんとした声が割り込んだ。
「……二人って、もしかして……幼なじみ?」
「………あ」
途端に、まるで憑き物が落ちたように我に返ったミシェルとキュランは、互いに顔を見合わせた後、慌ててマルーに向き直った。
「すみませんっ! お見苦しいところをお見せしました!」
見事にハモッた二人の声に、マルーはぽかんとしていた表情を見る見る和らげ、自分のことのように嬉しそうに笑った。
「じゃあ、ミシェルが雑貨屋さんで教えてくれた幼なじみって、キュランのことだったんだ!」
「え? あ……うん、あ、はい」
キュランの手前、何となく口調を選びかねたミシェルが頷くと、傍らでキュランがぎろりと視線を流す。目は口ほどに『あんたなによけいなこと言ったのよ』と語っていた。
そんな二人には構わずに、マルーはますます嬉しそうに、はしゃいだ声を上げる。
「うわぁ! よかったね、ミシェル! 逢いたいって言ってたじゃない! 縁があったから、こうして出会えたんだよ! ねっ」
「え?」
マルーの言葉に、驚いたようなキュランがミシェルを見やる。ミシェルはその瞬間、真っ赤になって素っ頓狂な声を上げた。
「そそそ、それじゃあ僕は、大統領に昼間のことを釈明してきますねっ」
そのまま、ぎくしゃくとベッドを降りようとしたミシェルを、マルーの声がぴしゃりと遮った。
「いいの。ミシェルはな~~んにも悪くないんだから、釈明なんて必要ないよ!」
普段の彼女らしからぬ、その頑なな言葉に、ミシェルは困ったように眉を寄せた。
「いや、しかし……」
「いいのっ! もしも何か言われたら、ボクに言って。シグにお願いして、若の性根を叩き直してもらうんだからっ」
そう言って、力強く拳を握るマルーの傍らで、キュランがこっそりとミシェルに耳打ちをする。
「…ちょっと、大統領って、ホントにどんな性格してるわけ? あの大教母さまを、こんなに怒らせるなんて……」
「い、いや…何でこんなことになったのか、僕だってさっぱりだよ…」
言いながらも、ミシェルはおそらくマルー滞在の間中自分を苛むであろう、大統領と大教母との板挟みを想像して、胃の腑がきりきりと泣くのを感じた。
しかし、本当に分からない。ミシェルの知っている大統領は、人の気持ちをさりげなくくめる、小憎らしいほど魅力的な人物で…だからこそミシェルは、自分の全てをかけて、彼の力になれるよう粉骨砕身していると言うのに…。
「……男って、身内にはそっけないって言うしねぇ…」
ポツリと呟かれたキュランの言葉に、ミシェルは愕然と肩を落とした。
……何だか、今すぐ、穴が空くほど、大統領のお顔が見たい。
そう思いながらも、目前で激怒している少女と、傍らで呆れている幼なじみとを振り切って、大統領のところへ駆け込めるはずもなく。
結局、ぐるぐると回る不安と混乱に苛まれながら、ミシェルは日の落ちた救護室の灰色っぽい壁を、力なく見つめていた。