DAYBREAK-デイブレイク-

 最後に逢った日の夕焼けも、こんな風に赤かった。
 マルーは、傾ききった夕日の降る回廊を、ひたすら前を進む背中を追いながら歩いていた。
 最後に逢った日は、隣を歩いていた。
 前日までのアヴェ国視察に、疲れを見せていたマルーを労わるように。口には出さない思いやりが、その歩調に現れるのはいつもの彼の癖。
 だけど、今日は。
 マルーが後をついてきているのを、意識しているのかいないのか。バルトは、この数年でなおさら長くなったような足を大股に動かし、ずんずんと歩いている。
 その間、一度も振り返ることはなく。
 マルーは、動きづらいニサン正教の正装の裾を、器用にさばきながら歩いていた。
 そのたびに、しゃらしゃらとした衣擦れの音が、静寂の回廊に響く。
 バルトは、聞くとはなしにその音を聞きながら、一つの扉の前で立ち止まった。そのまま、ノックもせずにそれを開く。おそらく、彼の私室の内の一つなのだろう。
 マルーは、一度も訪れた事のない棟にある部屋へ消えた彼の背を追う前に、ちらりと夕日に視線を流した。
 夕日は大きく、そして紅い。その光が目をさして、じんわりと浮かぶものを堪えながらマルーは扉をくぐった。
 室内は、厚いカーテンに遮光されており、暗闇だった。バルトの動く気配が、部屋の奥で感じられる。
「っ!」
 その瞬間、バルトの手によって勢いよく引かれたカーテンの端から、毒々しいほど紅い夕焼けが、部屋の中に弾け返った。
 戸口でたたずんでいたマルーが、それに呆然と目を奪われていると、窓を背に立ったバルトが初めて口を開く。
「……来いよ」
 招かれて、マルーは静かに歩を進めた。
 バルトは視線でマルーにソファを勧め、自分は大きな執務机の端に、その腰を預ける。そのまま長い腕を組み、滲み漏れる夕日に視線を流す彼の傍らまで寄ったマルーは、ソファの背もたれに手を添えてたたずんでいた。
「…座んねえのか」
「…ここでいいよ」
 互いに、不器用に口を開いて。
 一年もの長い間、顔を見なかったのは生まれて初めてだ。
 マルーがニサンの大教母として帰国し、バルトがユグドラシルで砂海を駆っていた頃だって、数ヶ月に一度は、必ず逢うようにしていた。
 逢わずにはいられなかった気持ちは、まだ家族を求めるそれだったころの話。
 あのころの状況は、今よりもっと冷徹だった。
 亡国の王太子は、仇討ちも叶わず砂漠深くに身を隠す生活を強いられ、半ば盲目的に祭り上げられた幼い大教母は、その肩書きに潰されそうになりながらひたすら生きていた。
 それでも、お互いに顔を見れば、辛い気持ちは吹き飛んだ。他愛のない軽口を飛ばし合えば、悲しい涙を飲み込めた。
 今は、あの頃よりもっと、二人は自由なはずなのに。
「…座んねえのか」
 もう一度、バルトが言う。マルーは小さく首を振って、それから彼に正面を向けた。
 互いの視線が触れ合う。本当なら、こんなに静かな気持ちで迎えられるだろうとは思わなかった瞬間だ。
 バルトは、マルーの成長に、素直に目を見張っていた。赤い夕焼けに照らされた彼女は、最後に逢ったあの日よりも、数段、いやそれ以上美しく、そして大人びている。
 それでも、その内面、バルトが決して失わないで欲しいと願ったマルー自身は、少しも損なわれてはいない。マルーはマルーのまま、彼女本来の美しさ、自由で伸びやかな華やかさを見事に手に入れていた。
 必死にバルトの力になろうと、自分の非力を嘆いていた頃の、意識した幼さはもうない。
 この一年、何度こんな風に、邂逅をシュミレーションしたか解らないバルトだったが、イメージの中のどのマルーをあてがってみても、今目前にたたずむ彼女に勝るものはなかった。その事実に、バルトは情けなくもうろたえている。
 そんなバルトの目前で、マルーはひたすらに従兄弟を見つめていた。彼が、照れくさげに視線を外したその後も。
 彼女もまた、彼との邂逅を何度も夢に見ていた。夜中に目を覚まし、誰もいない漆黒の室内で溜め息を吐く、そんなことはもう数え切れないほど。
 男性の成長期は、女性のそれよりも長く続くと聞くけれど、目の前に立つ従兄弟は、あとどれくらい成長すれば気が済むのだろう。
 身長だけに限らず、年々深みを増してくる彼の男性としての貫禄に、マルーは怖じ気づく。どこまで走れば、追いつけるのか。
 政務を真面目にこなしている証だろうか、頬の辺りが引き締まり、精悍な顔立ちに鋭さが増している。相変わらず長く伸ばした金髪は、それでも砂漠に起居していた頃よりは整えられており、毛先の方まで鮮やかな輝きを生んでいた。
 それに引き換え、自分はどうだろう。身長は確かに少し伸びただろうが、肝心のところが成長していない。
 それを、まざまざと思い知っていた。よりによってこの、大切に迎えるべき一年ぶりの再会の場面で。
「……あ~……」
 バルトの、溜め息ともつかない低い唸り声が聞こえた時、マルーは知らぬ間に飛ばしていた意識をはっと現に戻した。視線はずっと、従兄弟の浅黒い顔に向けられていたため、再び我に返った時、すぐに居心地の悪そうな彼が目に映った。
「…とりあえず、まあ……」
 おかしい、こんなはずじゃなかったと、バルトは心の中で煩悶していた。
 何を言っていいかわからない。腐るほど試みたシュミレーションが、まったく役に立っていない。一年も離れていたのだから、再会の瞬間はもっと劇的、かつスマートであるべきと、柄にもなく意識していたのが裏目に出たのか。
 否、裏目に出たのはそれだけじゃない。再会の挨拶も、感動の交歓もそこそこに、まずは追及すべき点を思い出して、バルトは表情を改めた。
「説明しろ。おまえ、何だってミシェルと一緒に、ブレイダブリクの街にいたんだ?」
 その問いかけは、バルトにとっては大変都合のいいものだった。もちろん、相変わらず無茶をする向こう見ずな従姉妹に、くどくどとお説教をしたいと言う気持ちはある。何事もなかったと知っているからこそ、大分落ち着いていられるのも事実だ。
 しかし、今の彼にとってその話題は、どちらかと言えば居心地の悪い再会の場面の、時間稼ぎの意味合いが深かった。
 だからこそ、バルトは意識して不機嫌な表情を作り、マルーの出方を窺った。彼女の反応いかんによっては、昔のように軽口を言い合い、なあなあの状況の中改めて再会に浸ると言うのも悪くない。
 しかし、マルーはその言葉を受けて、悪いことに神妙になった。小さな頤を下げ、暗く俯いた彼女の長い睫毛を目にし、バルトはぎくっと眉を上げる。
 自分の言い方は、そんなにきつかっただろうか。バルトは、一年と言うブランクのあるマルーへの接し方に、急に不安になった。
 マルーがユグドラシルにいた頃は、彼女の無茶にいつも小言を言う自分がいた。過保護で過敏で過剰で過干渉だと言う自覚は薄かったものの、それでも今のような質問は、良くあることだったと覚えている。
 マルーはそれに、ある時は素直に答え、ある時は子供扱いするなとふくれながらも、おおむねバルトの保護下に甘んじていた。それはあるいは、肉体的なものだけであり、精神的な庇護関係はどちらがどうとは言えなかったかもしれないけれど。
 だからバルトは、この質問に対する、いかにもマルーらしい明るい答えを待っていた。自分の非を認める時でも、彼女は潔いほどはっきりと、バルトの目を見つめて謝罪する。バルトの過保護が要因の茶番にだって、マルーはいつも暖かな笑顔を絶やさなかった。
 だから今回のことも、たとえどんな原因があろうとも、どれほどマルーに非があろうとも、一つのきっかけとして、マルーらしい微笑みを引き出すことを、バルトは期待していたのだ。
 しかし。
「……ごめんなさい」
 暗く俯かれたマルーの唇から、低い呟きが漏れた。
「……マルー?」
 一言の弁解も、まして悪戯っぽい微笑みもない彼女の謝罪に、バルトはいよいよ表情を曇らせた。おかしい。何かが狂っている。
 バルトは組んでいた腕を解いて、執務机の端を握った。
「おい……どうしたんだ?」
 つい、咎めるような口調になっていることに、バルトは気付いていた。彼女の様子を心配するあまり、気持ちが急いてきている。
 そんなバルトに、マルーはようやく顔を上げた。明るさの欠片も見られない、冷えた美しい表情。
「…ボクが、勝手にブレイダブリクに出ちゃったの。懐かしくってさ、我慢できなかったんだ。それで、偶然ミシェルに出会って、意気投合しちゃって、買い物に付き合ってあげたんだよ」
「か…買い物に?」
 瞬間的に、バルトの顔色が変わった。マルーはそれに気付き、唇を噛む。目をそらしていれば良かったと、心の中で舌打ちをしていた。
「…そう。若ってば、ずいぶん珍しい香水探してたんだね。ミシェル一人じゃ、見つけられっこなかったよ。…言ってくれれば、ボクが買っていってあげたのに」
「お…俺が頼んだ買い物だって…聞いたのか」
 男らしい深みの増した声音が、少年期のような不安定さを見せた。バルトは右の碧玉を鋭く流し、窓辺を見やって苦い表情を作る。背中に厭な汗が浮かんできて、それを意識した途端頬が熱くなった。
「うん。聞いた」
 マルーは、意を決してバルトを見上げた。視線を流している彼と、見つめ合うことはなかったけれど、夕焼けの中でもはっきりと解るほど、彼の頬が紅潮しているのが見て取れる。すぐに、無骨な指がその前髪をかきあげるのを知っていた。それは、照れたり居心地が悪かったりする時の、彼の癖。
「………」
 小さく、バルトが何かを呟いた。マルーはそれを聞き取れなかったが、重ねて問い返す気にはなれなかった。
「…で、買い物し終えたボク達が、別れた直後に…引ったくりにあったの。ボクが」
 その言葉に、バルトははっと視線を戻した。すぐ目の前にたたずむ従姉妹の、静かな碧玉の眼差しに、真剣な表情を返す。
「……おまえ、怪我は?」
「……うん、大丈夫。ミシェルが庇ってくれたから」
「そっか……」
 その答えは、そう言えばシグルド経由で知っていたなと、バルトは改めて思っていた。しかし、見ず知らずの少女が『無事だった』と伝えられるのと、マルーが『無事だった』と伝えられるのとでは、対応が違ってくる。自分でも馬鹿かと思うくらいだが、本人を目の前にして、その口から『大丈夫』と聞かされないと、完全に安心できないのは悪癖だ。
「…東の治安は、あんまよくねぇからな…警邏体制も、改善策練ってんだけど」
 再び腕を組み、バルトは重く口を開いた。『大統領』らしいその反応に、マルーは少しだけ微笑む。明るい笑みではなかった。
「……ごめんね。ボクが、引ったくりなんかにあわなきゃ、ミシェル…『大統領補佐官』に、怪我を負わせることもなかったんだ。一人で、ブレイダブリクに出たりしたから…」
「……」
 バルトは、目を丸くした。
 素直だ。素直すぎる。もちろんマルーは、何だかんだと言いながら、いつだって素直だった。時にその、無防備なほど素直な態度に、バルトの方が気遅れてしまうほど。
 しかし、この種類の素直さは、良い傾向ではない。それを、バルトは知っていた。長い時間を共有するうちに、どんな些細な反応だって、それがマルーのものであれば瞬時に気持ちを汲める。これは密かなバルトの誇り。
「……なんか、あったのか?」
「え?」
 きょとん、とマルーは目を丸くした。質問の意図が解らず、バルトを見上げる。
「何か…って? だから、引ったくりにあって」
「そうじゃねえよ。何かおまえ、妙に落ち込んでねぇか?」
 ずばりと聞かれたバルトの問いに、マルーは言葉に詰まった。それから少しだけ、非友好的な感情が盛り上がる。
「…落ち込むよ。だって、ボクのミスで他人に迷惑をかけたんだもん」
「そうじゃねえよ…いや、それもあるんだろうけど、おまえのその落ち込みはそっからじゃねえだろ?」
 生活の8割に対しては、大雑把で面倒臭がりで座右の銘は『適当に』のバルトをして、産後の母猫よろしく、酷く神経質になる瞬間がある。
 マルーの落ち込みの原因を、持ち前の野生の勘で嗅ぎ分けたバルトは、それを暴くことに全神経を集中した。
「何だ? 何があったんだよ、マルー」
「………」
 どうしてこう、この従兄弟はタイミングよく、人の気持ちを揺さぶるのだろう。
 マルーは、もうずっと以前から解っていたはずのバルトの鋭さに、改めて感心していた。同時に、一歩引いた客観的な自分が、酷く嘆いている。
 『何があった』と聞けるほどに、彼は意識していない。マルーが知った『事実』を。
 それが悔しくて、切なくて、苦しくて。マルーは持ち前の気丈さで微笑んでみせた。
「なぁに? 何もないよ、他に。だって、引ったくりにはあっちゃったけど、ボクの荷物もミシェルの荷物も無事だったし。そうそう、良かったねえ若、香水壊れなくって」
「え」
「ボクもミシェルも、ちょっとやそっとじゃ壊れないように、丁寧に香水を包んでいたのが良かったんだね。貴重なものだから、割ったら落ち込むどころじゃなかったよ」
「あ…あぁ、そうか……って、アレ?」
 バルトは居心地悪そうに前髪をかきあげた手をそのままに、酷く間抜けな表情でマルーを見つめた。鋭い碧玉の瞳が、子供のように真ん丸になっている。
「……おまえの荷物?」
「うん」
「…って、なんで香水入ってんだよ? ミシェルのバッグに入ってたんじゃないのか?」
「…だって、ボクも買ったもん」
「……はぁ?」
 素っ頓狂な声が上がる。マルーは、何故そんなにバルトが驚いているのか解らずに、怪訝な顔をした。
「なに? なんでそんなに驚くの? ボクが香水買っちゃいけないの?」
「だ…だってお前、ミシェルに聞いたんだろ? 俺が香水探してるって」
「うん。だから見つけてあげたんだよ。それに、若は一個でいいって言ったんでしょ? ちょうどふたつあったから、ボクも買ったの」
「………」
 バルトの表情が固まった。間抜けなままで。
 マルーは、怪訝な顔を傾けた。この反応の意味が分からない。…もしかして。
「……ひとつじゃ、足りなかったの? たくさんおねだりされてたの?」
「…はぁっ?!」
 バルトが、執務机から腰を浮かせた。前のめりになってこちらを凝視する彼に、マルーは眉を寄せる。こんな反応、いつもの若らしくない。
 ……もしかして、隠しているのだろうか。隠したいのだろうか。
 ……それほどに、真剣なのだろうか。香水を買い物求めた相手への、気持ちは。
「…その人には悪いけど、ボクもこの香水、気に入ってるからさ…譲ってあげられないよ、ごめんね」
「そ…その人?」
「ずいぶん、香りに詳しい人なんだね。アウグリオの花そのものも、希少価値なのにさ…」
 言いながら、マルーはふと暗い想像をひらめかせた。
 アウグリオ…『水の花』と称されるそれは、アヴェの国土に広がる砂漠の中でも特別なオアシスにしか咲かない。その理由としては、アウグリオの生息条件を満たす成分を有する地下水脈が限られているからだと、幼い日に教えてくれたのは銀髪の副官だ。
 だから、ほとんどの人間はアウグリオの存在を知らない。知っているのは、それそのものを目当てとする砂漠の商人か、バルト達のように砂の海を縄張りとする海賊家業の者ばかり。
 だから…結局は、アウグリオの花の存在を知らせたのも、そしてその香りを相手に贈ろうと欲したのも、バルト自身なのだろう。
 そう考えると、『ねだられた』と言う彼の言葉も、彼らしい照れ隠しのように思えてくる。政務に追われ、なかなか自由に動けない自分の代わりに、部下に贈り物を買ってこさせる…そんなことは、バルトの性格からして、とても平気ではいられないほど照れくさいことだろう。
 だからこそ彼は、わざと『相手にねだられた』のだと、子供っぽい言い訳をしたのではないだろうか。
 ……いや、わざわざそこまで回りくどく考えずとも、本当にねだれらたのかもしれない。
 ねだられて、『しょうがねぇな』と苦笑して、マルーの良く知る優しい眼差しを返し、会えなかった一年の間に、女性に贈り物をするなど当然になった感覚で、ミシェルに命じたのかもしれない。
 解らない。たった一年、されど一年。その間に、何かが彼を変えてしまったとしても、不思議ではない。自分は変わらなかった。でも、バルトもそうだとは限らない。
「…だよ! おいこらマルー、聞いてんのかっ?」
「……え?」
 瞬間、マルーの気が遠くなっていた。気付いた時には、目の前に迫った碧玉の瞳が、怒ったような困ったような色を浮かべてこちらを向いている。
「だから! ミシェルになに聞いたんだって、聞いてんだよ」
「ミシェルに…? なにって?」
「…だから! お…俺が、誰…なんのために、香水を買ったのか、とか、そーゆーことをだなぁ…」
 つっかえつっかえ、赤い顔を隠しながら問い掛けるこの癖に、覚えがある。彼を構築する全てが、マルーの良く知る『昔』を表すのに、気持ちだけは解らない。昔と同じなのか、何かが変わってしまったのか。
 ……『昔と同じ気持ち』、なんて、それが何なのかすら解らないのに。マルーはそう思って、自嘲の微笑みを浮かべた。
「…なに笑ってんだよ、マルー」
 目ざとくそれを見つけたバルトが、くぐもった問いを返す。マルーは小さく首を振って、それからじっと従兄弟を見上げた。
「若が、誰に香水を買ったのかは教えてくれなかったよ。ただ、若が『誰かにねだられて』アウグリオの香水を探してるってことだけ」
「……なんでそんなことだけ…」
「でも……」
 言いかけて、マルーは口をつぐんだ。
 ミシェルは言っていた。香水を買い求めた上司は、『恋人に』贈るのだろうと。もちろん、はっきりそう聞かされたわけではないけど、否定する要素が見つからない。
 『恋人に、贈るんだってね? いつのまにそんなひと見つけたのさ?』
 頭の中では、そんな言葉がきちんと用意されている。それを口にしないのは、マルーの意識じゃない。本能に近い、原始的な感情が、それを口にすることを拒絶している。
 どんなに辛い局面でも、高度な政治的判断だと自分を鼓舞して、何度も心を裏切り続けた、ニサンの大教母ともあろう者が。
「…あのなぁ、その、ねだられたって言うのはなぁ……」
 言いにくそうに、バルトが口を開く。マルーは瞬間的に、その先を聞きたくなくて声を放った。
「あっ! そう言えば、若、アウグリオの花言葉知ってる? ボク、雑貨屋のおばあさんに聞いたんだよ。いい言葉だったよ。それに、まだ瓶を見てないでしょ? 見たら驚くよ~、すっごく素敵なの。よ…喜んでもらえるよきっと」
 くるり、とスカートを膨らませて、マルーは回れ右をした。
「ボクも、見つけられてとっても嬉しい。早く香りをつけたいなあ…あ、明日、エリィさんやマリアも来るんだよね。自慢しちゃおうっと」
「おい、マルー」
「そうそう、そう言えば若、さっきの引ったくりを倒したのはねぇ、実はうちのシスターなんだよ。シスターヒューイットっていってね、武術全般に通じてるの。剣とか、槍とか、体術ももちろん得意だしね、あ、でも、鞭だけはできないんだって。若、良かったら教えてやってよ?」
「おい」
「ん? なに?」
 振り返らずに、マルーが明るい声を返した。バルトはその後ろ姿に、言いかけた言葉を飲み込む。
 ……今更『あの香水はお前に』なんて、言えない。
 それは、羞恥心であり、自尊心であり、子供のような癇癪。
 だって、マルーはもう、自分で香水を買っている。今更それを贈ったところで、こちらの気持ちは伝わらないだろう。
 それに、照れ臭いのが我慢できずに、自分で撒いてしまった嘘の種が、知らない間に着土して、どんどん大きく成長している。今更、それは嘘です、本当はこうです、とは言えない。
 ……また一つ、綿密なシュミレーションが崩れ去った。しかも、考え得る限り最悪のカタチで。
 それでも、一つだけ。この誤解を解かなければ、とり返しのつかないことになる。
 バルトはそう思って、腹に力を込めた。
「あのなぁ、マルー。あの香水を欲しがったのは……」
 誰かじゃない、俺だ、と言いかけた瞬間、部屋の扉がノックされた。
「はぁい」
 マルーが、何故か陽気に声を返す。もしかして、バルトとの会話を打ち切るきっかけを探していたのかもしれない。
 その声に反発しかけたバルトより早く、扉は静かに開かれて、顔を覗かせたのは銀髪の青年。
「こちらでしたか…随分探しましたよ」
 決して狭くはない大統領官邸内で、しかも普段足を向けることの少ない棟にある部屋の、膨大な数を探し回っていたのか。シグルドはいささか草臥れたような声を出した。
「あ、ごめんねシグ。手間をかけさせちゃって…でももう終わったよ、お説教タ~イム」
 明るく笑って、マルーはおどけたようにバルトを振り返った。苦い顔を見せたバルトにちろりと舌を出し、シグルドへと駆け寄る。
「そうそう、シグにもきちんとお礼をしてなかったね。助けてくれて、ありがとうシグ。勝手しちゃってごめんなさい」
 そう言って、ぺこりを頭を下げるその反応こそ、バルトが欲していたものだ。何故、自分にだけはあれほど暗く、辛そうな表情を見せたのか。そのギャップに少しばかり苛立つ。
「おや…もう、お話は終わったのですか?」
 その割には、マルーはともかく主君の顔色が優れない。どころか、今にも暴れ出しそうなほど狂暴な顔をしているのは、どういうことだろう。
「おいっ、マルー!」
「そうだ!!」
 バルトが叫ぶのと、マルーが手を打つのとは同時だった。
「そう言えば、ミシェルのことをキュランに任せっぱなしだった! こうしちゃいられない、早く行かなきゃ」
「行くって、まさかミシェルのところへですか?」
 ぎょっとしたシグルドに、マルーはこくんと頷く。
「うん。だって、まだ辛そうだったし…少しでも、看病の真似事をしたいと思って」
「しかし、ミシェルは…」
「…うん。ボクが『大教母様』って解ったらすごく居心地悪そうだったよね。…でもいいんだ! しょうがないよ、ボクが騙してたんだから」
 マルーの言葉に、シグルドが柳眉を寄せる。彼の唇が、おそらく最適のいたわりの言葉を紡ごうとした直前に、背後のバルトが低い声を上げた。
「おいマルー、どういうことだよ、『騙してた』って」
 マルーがマルーなりに選んだ言葉は、シグルドには正確に伝わっていたけれど、事情に疎いバルトには歪んだ形で受け止められた。シグルドはそれに気付き、すかさずフォローを入れる。
「若、マルー様は当初、『大教母』と言う身分を明かさずに、ミシェルと出会ったのです。もちろん、ミシェル自身も大統領官邸の関係者だと言う件は伏せておりました」
「何でだよ? そもそも、ああ、そもそもだよ、マルーは何しにブレイダブリクに出たんだ?」
 肝心の部分に思い至って、バルトが眉を寄せた。今の今まで、それを議論せずに何を議論していたのだろうと、シグルドが奇妙な顔をする。
「だから……懐かしくって、我慢できなくて…」
 マルーが、少しだけ後ろ暗い声で返す。バルトはそれに食らいついた。
「それで? のこのこ歩いているミシェルに声かけて、ぶらつくついでに買い物につきあったってか?」
「声、かけたんじゃなくって、ぶつかっちゃって、それで…」
 マルーは言葉を募りながら、自分の致命的なミスに気付いていた。
 自分が、ミシェルと同道したのは、あくまでも買い物の目的があったからだ。ミシェルの目を通して、誰あろう、目の前に立つ従兄弟のために、素敵なものを選びたかった。だから、初対面のミシェルにも関わらず、一緒に街を歩き、店を探したのだ。
 だけど、買い求めた香水の真相を知った今、とてもじゃないけど『若のために買ったの』と言って、それを贈るなんてできない。バルト自身が、マルーの知らない誰かのために、買い求めたものなのに。
 だから、ごまかした。何の目的もなく、ただ懐かしいというだけで、ブレイダブリクへ出たのだと。
 けれどそれでは、ミシェルと一緒にいた理由がない。それに気付いて、マルーの顔色がさっと変わった。
「どっちだって一緒だ。お前な、いくらミシェルが綺麗なツラしてるからって、相手は男なんだぞ? しかも、見ず知らずのだ。そんな野郎に、へらへらついてく馬鹿がいるか!」
 バルトは怒っていた。最前から『買い物』に気を取られて、つい失念していたが、今回一番激怒するべき点はそこなのだ。初っ端に、出鼻を挫くがごとくマルーに謝られて、ついうっかり流そうとしていたが、ここをはっきりさせておかないと、今後おちおちしていられない。
 バルトの激昂に、マルーは一瞬たじろいだ。硬直した彼女の肩越しに、シグルドが眉を寄せる。バルトの怒りはもっともだが、この勢いには不穏なものがある。
「若…、マルー様も、反省をしています、お話は終わったのではなかったのですか?」
「終わってねぇよ! これからだ、これからっ」
 こうなったら、ここできっちりぐっさり釘を刺しておかなければ、もう一日だって離れていられない。自分のいないところで、何をして何に巻き込まれているのか、考えただけで胃が痙攣しそうだ。
 しかし、マルーは胸に刺さった刺を引き抜くがごとく、一瞬苦痛に唇を噛んでから、キッとバルトを睨み返した。
「終わったでしょ! もう、謝ったじゃないか!」
「謝ってすむことじゃねえ!」
「じゃあ、どうすればいいんだよ! それに、いくらボクだって、見るからに変な人にはついていかないよ! ミシェルだから、ついてったんだもんっ」
 マルーの言葉に、背後のシグルドは眉間に指を這わせた。火に油、と言う単語が、閉じた瞼の裏に踊る。
「ミシェル、だからぁ? おまえな、何を基準に『変な人』ってのを決めてんだよっ! 今回たまたまミシェルは真っ当だったが、良いツラしてりゃ良い人だっつーのは幻想だぞ!」
「別にボク、ミシェルの外見がどうとか言ってないじゃないか!」
「じゃあ、なんなんだよっ! ミシェルの何がお気に召したってんだ?!」
「そういう言い方、すっごくやらしい!」
「ば…っ! 何言ってやがる、大体お前は自覚が足りなさすぎんだよ! 自分が女だって自覚も、一国の元首だって自覚も、めちゃくちゃか」
 ……わいいという自覚も。
 きわどいところで言葉を飲み込み、泳がせた視線の先では、銀髪の腹心が見るに耐えないと言った様子で、苦笑を噛み殺しているのが見えた。
「…とにかく、もうお前、ミシェルに馴れ馴れしく近づくな」
「…なんだよっ、それっ!!」
 わなわなと肩を震わせて、小柄な彼女が上目で睨んでくるのに、バルトは胸に滑ってきたみつあみを指で背中に弾きつつ、高圧的に吐き捨てた。
「大体、元々ミシェルは、俺やお前と対等に口きけるほど器用な性格じゃねえんだよ。あいつが気がついた時の反応、見ただろうが。これ以上お前が親しげに近づいてったら、あいつの方が萎縮しちまって気の毒だろ」
「……」
 バルトの言葉に、マルーは弾かれたように目を見張った。図らずも、彼女の心に暗い影を落とした事実を、バルトが遠慮なく言い当ててしまった。
 バルトだって、本当はこんな事を言いたいわけじゃない。身分に関わらず、どんな人間とだって親しく付き合えることが、マルーの長所であると、誰よりも知っているのは彼なのだから。
 しかし、今のバルトには、慎重に、思いやり深く言葉を選ぶ余裕がなかった。
 はっきり言ってしまえば、ミシェルだけに限らない。今後一切、自分以外の男と、親しげに街を歩くなんてことはして欲しくない。
 何故、と問われれば、その答えを口にするのに、丸一日はかかる自覚はあるが、それでももう、ごまかしたり隠したりする気はない。
 そう、この一年というもの、バルトはその答えを導き出すのに終始していた。二年半前のあの時から…いや、物心ついた時からずっと、自分の中でくすぶり続け、さまざまな変化を経て形どられた、マルーへの気持ち。
 それをようやく、自分の言葉で、マルーに伝えられる、その時が今なのに。
 ……どこでどう、間違えてしまったのか。
 気がつけば、マルーは滑らかな頬を真っ赤に染めて、今にも泣き出しそうなほど切ない瞳をきつくつり上げ、バルトを睨んでいた。
「…そんなこと、ないもんっ!! ミシェルは、ミシェルはボクの友達だもん! どうしてそんなこと言うの!? 若なんて、若なんて……っ」
 一年ぶりの再会が、楽しみで仕方がなかった。
 アグネスの機転で、どうにか会えると確信した時、喜びで目の前が真っ赤に染まったのを覚えている。
 会ったらまず、何を言おう。どんな話をしよう。何の言葉を聞こう。
 考えれば考えるほど、会いたくてたまらなくて、想像の中での再会では、結局何一つ話す言葉は持ち合わなくて。
 ただ、その温もりを感じたい、許されるならば何も言わずに、ただただ抱きしめて欲しかった。
 そう、自覚した時、マルーはバルトへの感情を、今まで水面に浮かぶ幻影のように、不確かでゆらゆら揺れていたその感情の名を、はっきり自覚することができたのだ。
 だから、再会の瞬間が楽しみだった。
 不安は一つもない。ただ自分の気持ちに正直でいたい。バルトの反応は知りたいけれど、それよりも何よりも、ただただ自分の気持ちをぶつけたい。
 自分でも呆れるくらい、それだけだったのに。
「若なんて、大っっっ嫌いだっ!!」
 こんな言葉を、吐き出す気なんて、全然なかったのに。
 気がつけば、マルーは思いっきり叫び散らして、部屋から飛び出していた。色んな感情が交じり合って、今、自分が何に対してこんなに怒っているのか…そもそも、『怒って』いるのか『悲しんで』いるのかすら、解らなくなるほどぐちゃぐちゃで。
 ……どこでどう、間違えてしまったのか。
「……………」
 室内に残されたのは、呆然と目を見開く一国の元首と、その懐刀。銀色の髪を俯かせ、長身の青年は浅黒い顔を片手で覆っている。
「…………若」
 やがて、指の間から漏れてきた声音は、低い、絶望混じりの掠れ声。
「………何をやってるんですか、あなたは」
「…………」
「まさか、こんな口喧嘩をしたいがために、昼夜問わず馬車馬のように働いて、政務をこなしてきたんじゃないでしょうね」
「…………」
「そして明日からの四日間、この状態を保ったまま休暇を過ごすおつもりでも、ないでしょうね」
「…………」
 答えない主君を仰ぎ見て、シグルドは鈍い嘆息をついた。
 ここ数年で精悍さを増したバルトの、何とも言えない情けない顔が、硬直状態でそこにある。マルーを追おうとしたのか、中途半端に突き出された右手が、微妙な形を保ったまま静止していた。
「…………」
 シグルドは、聞こえるように溜め息を吐いた。聞いてはいないだろうが。
 ……どこでどう、間違えてしまったのか。
 本当なら、この世の何より大切な少女が、自分のすぐ傍で、この世の何より大切な主君と一緒に、幸せそうに微笑んでいるのを、満足げに見守っているはずだった。今ごろの時間は。
 そんなささやかで大層な願いを、抱いた自分が愚かだったのだろうか。
 シグルドは、同じ夢を語って、今日という日を指折り数えていた老侍従の、嘆き悲しむ姿が瞼に浮かんで、厭そうに眉を顰めた。
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