DAYBREAK-デイブレイク-
『何……しているの?』
ぽつん、と囁かれた言葉に、くりだしていたハイキックのバランスを取り損ねたあたしが、小さな悲鳴を上げてひっくり返った時、ニサンの青い空と、綺麗な蒼い瞳が逆さまに見えた。
『だだ、大教母さまっ?!』
ここは、ニサン大聖堂の裏手。周りには、半年前まで蔵書院として活用されていた蔵の、見るも無残な瓦礫があって、無事だった中身を運び出された今、好き好んで足を向ける人はいない。
そこはつまり、ニサン正教にシスター見習として帰依したあたしが、堅苦しい修道服の下で日に日になまってくる体力を、どうにか発散させようと見つけ出した、秘密の場所だった。
僧兵の誰かに見つかる覚悟はしていた。いくらひとけがないからと言って、ここは大聖堂の敷地内だから、すぐ近くにある僧兵の訓練場から、物好きが探索に来る可能性も、ないとは言えない。
シスターの誰かに見つかる覚悟もしていた。勤勉なニサンのシスターたちは、聖堂内の管理にかけて、とてつもなく実直だ。例え誰もいないような場所でも、万が一に備えて見回りの手を緩めたりはしない。
でも………まさか、『大教母様』に見つかるなんて、思ってもみなかった!!
『大丈夫?』
ひっくり返ったまま、逆さまに大教母様のお顔を見ていたあたしに、大教母様は慌てて駆け寄ってきた。しゃらしゃらと、走るたびに聞こえる衣擦れの音が、混乱したあたしの耳へと爽やかに響く。
『っ、はは、はいっ!』
すぐに、あたしは腹筋を使って跳ね起きた。文字通り『跳ね』起きたあたしが、動きやすいように僧服のベールを脱いでいたせいで、頭の上で結い上げていた髪で顔面を打ったのを見て、大教母様がくすっと微笑む。
『あなたは確か…シスター・キュラン・ヒューイットだね』
『はいっ!』
ニサン正教の一員として、この方の膝元で起居するようになってまだ半年。その間、お言葉はおろか、お顔を拝見したのだって、群集に埋没する礼拝時を除けば、数えるほどしかないはずなのに。
あたしは、密かに憧れ続けていた大教母様が、自分の名前を知っていてくださったことに、言葉に出来ないほど感動していた。
『ところで、何をしていたの?』
大教母様は、公務の時に着用する正装ではなく、比較的ラフな政務用の服をつまんで、瓦礫を跨いでこちらにやってきた。
あたしとの距離は、3メートルもない。こんなに近くで大教母様を拝見する機会なんて今までなくって、あたしは遠目以上に華奢に見える、小さな大教母様のお顔をまじまじと凝視してしまった。
誰だったろう……この方を『うつくしいひと』と謳った者は。その、あまりにも的確な表現に、あたしは改めて驚いていた。
お顔の造りは、なるほど整っている。滑らかな白い肌に、宝石のように輝く碧玉の瞳。つんと通った小さな眉目に、花の蕾のような唇。化粧気もまるでない、どちらかと言えば愛らしいお顔立ちなのに、かもし出す雰囲気のせいなのか、今まで見たこともないほど『美しい』人に見える。
『シスターヒューイット?』
『……あっ?! ああっ、す、すみません!』
あたしは、無遠慮に大教母さまを凝視していた事をひたすら恥じて、真っ赤になった。傍らに立つ大教母様は、あたしよりも十センチ近く低い位置から、じっとこちらを見つめている。
『あ、あの…ちょっとその、身体を動かして…おりました』
正直に言えば、ここから僧兵たちの訓練所に向かう場所にある花壇の雑草駆除を任されていたのだけど、ついつい、日ごろの鬱憤を晴らしに来てしまったのだ。
いつもなら、日が暮れて食後の礼拝を済んだ後の、貴重な自由時間を利用してここへ来ていたのだけど、今日は『ついでに』という甘い誘惑に勝てなかった。
『も…申し訳、ございません…』
恥ずかしくて情けなくて、あたしが深々と頭を下げると、きょとんとした声が降ってきた。
『どうして謝るの?』
『え?』
ぴょこん、と頭を上げたあたしの目前で、大教母様はその花の顔容を優しい笑みに染めた。
『何も謝る事はないよ。シスターのお仕事は大変だけど、たまには違う運動で身体を動かしたいっていう気持ちも解るし、お仕事をサボって来ているって言うんなら、ボクも同罪だから』
言って、ちろりと舌を出す大教母様に、あたしは唖然と二の句が継げなかった。
あたしの困惑をよそに、大教母様はまじまじとあたしを見やって、無邪気に言う。
『ねえ、キュランってもしかして、格闘技とか好きなの?』
『えっ?? え、ええと……その、はい、実は……』
こくんと頷いたあたしに、大教母様は手を打って喜ばれた。
『うわあすごい! ねえ、ここでボクが見ていてもいいかな』
『ええっ?!』
驚いたあたしに、大教母様は悪戯っぽく微笑まれた。そのお顔は、ずっと憧れていた『大教母様』の慈愛の微笑みではなく、十六歳と言う歳相応の、無邪気な微笑みだった。
『前にね…一緒にいた人たちが、そういうの得意でさ。よく、見せてもらってたんだ。…懐かしい…ボクの、大事な思い出なの』
そう言いながら、大教母様はスカートが汚れるのも構わず、手ごろな瓦礫に腰を落とす。じっとこちらを見つめる瞳が、どこか寂しそうだと感じたのは、直前に少女の顔を見せられたから。
それは、『大教母』としてのこの方しか知らない者なら、気づかないほどの小さな寂しさだ。きっとあたしも、この半年の間、何度もこの方のこんな表情を見過ごしていた事だろう。
『じゃ…じゃあ、演武の型を』
『うんっ』
おずおずと切り出したあたしに、大教母様…ううん、『マルグレーテ・ファティマ様』は、とびっきりの笑顔を見せてくれた。
それからというもの、あたしと大教母様は、たびたびこの『秘密の場所』で、息抜きをしていた。
剣に槍に、およそ武芸と称されるもの全般に通じていたあたしの演武に、大教母様は目を細められて喜んでくれて。あたしはあたしで、窮屈なシスター服では味わえない、何とも言えない開放感を、他でもない大教母様と共有していると言う事実に、徐々に徐々に浮かれていった。
でも、たった一つだけ。あたしは、大教母様に乞われても、披露できなかった武器があった。
その武器の名前を口にする時、大教母様の瞳の中に、懐かしさや寂しさとは違う、淡い輝きが宿った事を、あたしは知っている。
その理由までは、その時は解らなかったけど……。
あたしと大教母様が共に過ごした時間は、繋げてみれば大した長さではないけれど、それでもあたしは、隠されたりごまかされたりすることが多い、大教母様の『悲しみ』や『苦しみ』を、他のシスター達よりもずっと鋭く、そして素早く、察知する事ができるようになったと、自負していた。
そのあたしの目前で、今、大教母様は何とも言えない悲しい表情を浮かべている。
あたしは、上手い慰めも、それどころか普通のお声をかける事もろくにできずに、古い路地裏から大教母様を伴って、あてがわれた宿へと戻っていた。
幸いにも、僧兵達に不在を見咎められる事もなく、あたしと大教母様は西日の傾き始めた部屋の中に、静かに入っていった。
パタン、と扉が閉まるなり、大教母様はくるりとこちらを向いて、ぎょっとするほど低く頭を下げる。
「ごめんなさいっ!」
「だ、大教母様?!」
あまりにもストレートな大教母様の謝罪に、あたしは半ば覚悟していた事とは言え面食らってしまった。大教母様の性格上、絶対に謝って下さると解っていたけれど、こんなに素直に、てらいなくされると、やっぱり落ち着かなくなる。
「ボクが…勝手な事をしたばっかりに、キュランにとんでもない迷惑をかけちゃって…本当に、ごめんなさい!」
「……大教母様、お顔を上げて下さいませ」
あたしは、自分にできる限りの最高に優しい声を出して、大教母様の肩をそっと支えた。小柄な大教母様の、細くて柔らかな肩が、触れた瞬間ぴくりと揺れる。
「わたくしはニサンを出る前に、シスターアグネスより大教母様の影共を仰せつかってまいりました。ですから、この度の失態はすべて、わたくし自身の責任なのです」
「え?」
心底驚いたように、大教母様は高く呟いてあたしを見上げた。その大きな碧玉の瞳に、あたしはにっこりと微笑む。
「申し訳ない事ですが…わたくしは、大教母様を侮っておりました。まさか、武術を得手としたこのわたくしをまいてしまわれるなんて、思ってもみなかったのです」
「アグネスが……キュランに?」
「はい。大教母様が、おそらくお一人でブレイダブリクの街へお出ましになられる事と、それを止めてはいけないと言う事を。ですから、大教母様は、何もお気に病まれる事はないのですよ。もちろん…お出かけになる際に、わたくしに共を申し付けて下されば、一番嬉しかったですけれども…」
そう言うあたしの目をじっと見つめ、大教母様はにわかに眉を寄せた。
「…そっか……。アグネス、知っていたんだ…知っていて、許してくれたんだ……。馬鹿だね、ボク。いろんな人に、影で支えてもらっているんだってこと、解ってなかった。子供で…やんなっちゃう……」
「大教母様……」
「キュラン、あなたが気に病む事こそ、何もないんだよ。やっぱり今回は、ボクの失態。キュランは、ボクのミスをカバーしてくれたんだ。助けてくれて、本当にありがとう」
大教母様はそう言って、ほんの少し申し訳なさそうに、でもとても可愛らしいお顔で微笑んだ。あたしはもっと、言いたい事があったけれども、今は何を言っても大教母様のお心を軽くする事はできないだろうと、気持ちのどこかで解っていた。
「……さあ、大教母様。ぐずぐずしてはいられませんわ。そろそろ、大統領官邸へ赴くご準備をされなくては」
「あ……うん…そだね……」
気乗りされないような大教母様の答えに、あたしは少しだけ不安になる。
「…お気が乗られませんの?」
「えっ? いや、そんなことないよ。それに、早く行って、ミシェルの…ボクを助けてくれた、あの男の子のお見舞いにも、行きたいし」
「あ……」
そう言われた時、あたしはようやく、手にしていたバッグに視線を落とした。部屋に入ってからも、何となく手放しがたくて、ボーッと握っていたそのバッグを、大教母様が改めて見やる。
「そのバッグ…もしかして、ミシェルの?」
「あ…はい。先ほどの路地に放り投げられておりましたので、咄嗟に持ってきてしまいました」
「ありがとう、キュラン! きっと、ミシェルもこの荷物の事、心配してると思うよ」
「ええ、あの……」
あたしは、大教母様を救ったという輝かしい功績を上げた、あの細くて頼りなくてどこか子供っぽい男の子が、自分の幼なじみだと言うことを、打ち明けるなら今だ、と思って口を開いた。
ところがそれより早く、ぼんやりとした大教母様の低い呟きが、あたしの声を遮ってしまう。
「この香水……ミシェル、上司の人に頼まれたって言ってた。…ねだられて、プレゼントしたいから、って……」
「え? ああ…そうでしたの? ミシェ…あの方は、大統領補佐官でしたね。ということは、大統領のご命令だったんでしょうか」
そう。今の今までそれどころじゃなくて、うっかりしていたけど…。
あの、泣き虫ミシェルが! スナハミの赤ちゃんに小指を噛まれたくらいでぴーぴー泣いてた、街一番の泣き虫ミーシュが! 今をときめくアヴェ国大統領の、補佐官ですって?!
しかもそれってつまり、あたし達の憧れの的、ハーコート筆頭の直属の部下ってことで……
世の中、間違ってるわ!! 大丈夫なのかしら、この国……?
あたしが思わず、故郷の未来を憂えて溜め息を吐く傍らで、大教母様の、今にも掠れて消えそうなほど小さな囁きが聞こえてきた。
「……だよね……『大統領』の、命令だよね。……ねだられて……買うなんて、そういう人が、いるってことだよね………」
「え?」
半分くらい聞き取れなくて、あたしがきょとんと視線を向けると、大教母様は、まるで無理矢理かさぶたを引き剥がすような表情で頭を振って、くるりときびすを返した。
「さあ、支度を始めようか、キュラン。日暮れ前に、大統領官邸へ行く予定、だったよね」
「あ…はい」
もちろんあたしには、大教母様が何かに酷く心を痛められて、そのせいで無理にでも明るく振る舞おうとしている事は、解っていた。解っていたけど、何も言えなかった。
ただ言われた通り、用意された衣装をクローゼットから出す途中で、あたしは覚えのある胸の痛みに奥歯を噛んでいた。二年前…ハーコート筆頭が駆けつけた礼拝堂で、無理を重ねられた大教母様をお止めする事ができなかったと、自責の念に苛まれた記憶が、心のうちから蘇ってくる。
心踊るはずだったアヴェ国帰郷の出だしは、思ってもみなかった展開を見せて、あたしに重くのしかかっていた。
そしてその心のもやを、あたしは目の前で呆気に取られている間抜けな顔にぶつける事で、発散させようとしたんだけど。
「………キュウっ??!」
ひっくり返った高い声。なーによ、一丁前に声変わりなんかしちゃってさ。驚いた時の間抜けな顔は、全然変わってないくせに。
あたしは、ずるずるとミシェルの顔を滑った冷たいタオルをもう一度掴もうと、腕を伸ばした。だけどその瞬間、思いもよらなかった素早さで、ミシェルがあたしの腕をとる。
「ほ、ホントに?! ホントにきみ、あの、あの」
「……なによっ」
ああもう、いらいらいらいら。さっきからずっと、あたしの中で何かが騒いでいる。この部屋に入った時から、この部屋に大教母様がいらした時から、この部屋でミシェルが目を覚ました時から。
そんなあたしの腕を掴んだまま、ミシェルはぽかんとあたしを凝視していた。驚きと興奮で真っ赤に染まった頬っぺたや、零れ落ちそうなほど大きく開いた薄水色の瞳や、唖然と開かれた口なんかが、あまりにも記憶の中のミシェルと同じだったので。
……なんだか、毒気が抜けてしまった。
「……なによ、馬鹿面して。久しぶりに会った幼なじみに、気のきいた台詞も言えないの?」
「……はぁ~……」
くるり、と薄水色の瞳を回して、ミシェルは何とも情けない溜め息を吐いた。そしてそのまま、あたしの腕を掴んだ手をずるずると下げる。
「……なんなのよ、はぁ~って」
その無礼な反応に、あたしの中のもやもやがまたしても鎌首をもたげる。男のくせに、あたしよりも柔らかな琥珀色の猫っ毛が、うなだれた時さらさらと涼しい音を立てた。
「だって……あんまりにも急で……心の準備とかさぁ……」
「何言ってんのよ。再会なんて、普通こんなもんでしょ」
あらかじめ連絡を取り合ってでもいない限り、再会は突然だ。それに、驚いたのはあんただけじゃないわよ。
あたしのつっけんどんな物言いに、ミシェルはちょっと恨めしそうな視線を上げた。
「……相変わらずだね、キュウ」
「そっちこそね、泣き虫ミーシュ」
「僕はもう、泣き虫じゃないよ!」
って叫んではいるけれど、言われた瞬間真っ赤になった頬とか、どこか後ろめたそうな視線とかで、ぴんとくるわよ。
「どうかしらね。それに、ドン臭いところも、おっちょこちょいなところも、要領の悪いところも変わってないわ」
「…そういうキュウは、毒舌で自信家で、何でもぽんぽん言っちゃうところが変わってないね」
むっとした反論に、あたしは眉を寄せる。
「もう、キュウなんて呼ばないでよ。子供じゃないのよ」
「じゃあ、僕もミーシュ、って言うのやめてくれないかな。子供じゃないんだから」
「あら、あんたは子供でしょ。二つも年下のくせに」
「いくら年下だって、僕はもう十八だよ! 十八の男に、ミーシュはないんじゃないの?」
「そう? とってもお似合いよ、ミ~シュ」
「………」
苦々しく口をつぐんだミシェルに、あたしは手にした布を冷たい水に浸けながら言った。
「……とにかく、別にあたし、あんたとこんな喧嘩をするためにここにいるわけじゃないの。あんたの看病を、ハーコート筆頭に頼まれたから……」
「そう、そうだよ。何でキュランがここにいるわけ?」
まだ不機嫌そうに問うてくるミシェルに、あたしはわざと絞りを甘くしたタオルで、ペン、とミシェルのおでこをはたいた。
「何でって、なによ。あたしがニサンのシスターじゃ、いけないっての?」
「シスター? キュランが?」
おでこの水滴をぬぐいながら、ミシェルがまじまじとあたしの顔を見る。…なに、その胡散臭そうな顔は。
「……悪漢の顔面に飛び蹴り食らわせる人が、シスターなんかしてていいわけ?」
「なっ……なによー! そのおかげで助かったんでしょ?! みっともなく鼻血出して倒れていたくせにっ」
あたしの言葉に、ミシェルはあからさまに傷ついたような顔をして、胸を押さえた。
「……相変わらず、人の傷口をえぐるのが上手だね、キュウ…」
「あっ……あんたが悪いのよ」
ぷいっとそっぽを向いたあたしが、すとん、と傍らの椅子に腰を落とす。しばらく、イヤな沈黙が流れた。
「……後ろ」
「え?」
「後ろ、向きなさいよ。こぶ冷やすから」
ぶっきらぼうなあたしの言葉に、ミシェルは少し驚いたような顔をして、すぐに素直に従った。昔から、あたしの言う事には、従順なのよね、この子。
ミシェルの琥珀色の猫っ毛の上から、あたしは冷たい布を押し当てる。
「……あんた、何だって大教母様と一緒にいたのよ」
「…………」
ずっと疑問だった問いを、あたしがさりげなく口にした途端、ミシェルの空気が重くなった。ふさぎ込んだ彼に、あたしが軽く溜め息を吐く。
「…知らなかったんでしょ? 大教母様だって」
「……うん」
「……好きになっちゃったの?」
さりげなく。できるだけ何でもないような口調であたしが問い掛けた瞬間、ミシェルががばっと振り返った。
「ちちちっ、ちっがうよ! そんなんじゃないよっ! そ、そりゃ、確かにマル…大、教母さまは、か、可愛らしいしさっ、優しいし明るいし暖かいし、素晴らしい女の子だって思うけどさっ、そんな、好きとかそんなんじゃないよっ」
……ばればれだっての。あーもうバカ。
そう言えば、昔っからこいつの好きになる子って、系統が似てたわよね。雑貨屋のユーリスも、ミックの妹のショコラも。今思えば、可愛い系の子ばかりだった。
…でも、それにしたって、大教母様に恋したって、仕方がないのに。…ばかミーシュ。
「いいけどね、何だって別に。だけど、お相手が大教母様じゃあ、あんたの前途は真っ暗ね」
「だからっ! 違うって言ってるだろっ」
「はいはい。もー、動かないでよね。せっかく冷やしてあげてるんだからさ」
あたしが軽くあしらうと、真っ赤になってこちらを睨んでいたミシェルが、しぶしぶ後ろに向き直った。あたしはその後ろ姿に、小さくあっかんべーをする。
「……キュランこそ、恋人とか、いないの?」
思ってもいなかった反撃に、あたしは舌を出したままちょっと固まった。それからすぐに、ギッと眉を吊り上げる。
「……あんた、シスターを馬鹿にしてるでしょ?」
「何でさ。ニサン正教のシスターは、別に未婚であるべきってわけじゃないだろ?」
「そ、そりゃまあ…。でも、普通は一生独身で、教義に準じるものよっ」
「……ふぅ~ん」
「……なによ、その『ふぅ~ん』って」
「べっつに~。昔はキュラン、『あたしは大きくなったら、王子様と結婚してお姫様になるのよっ』て、言ってたじゃない」
「あっ…あんたねぇ~! 何恥ずかしい話思い出してんのよっ!」
「だって、言ったのはキュランだろ。王子様といえば、今はもうアヴェ国大統領におなりになった、バルトロメイ閣下だよね。キュラン、ファーストレディになるつもり?」
こ、こいつ~~~~~~!!!
あたしは、可愛くない反撃をしたミシェルの後頭部(当然こぶがある場所)を、冷たいタオルでひっぱたいた。
「いてっ!!」
「くっだらないこと言うからよ! ばーか! ばかばか、ばかミーシュ!!」
「なんだよ! 最初に変な事言い出したの、キュウの方だろっ!」
「変なことってなによ! あんたの場合、図星でしょっ」
「違うって言ってるじゃないか! 人の話聞かないとこ、変わってないな!」
「あんただって、かわいげなくって一言多いところなんか、全然成長してないわね!」
「僕はもう、十八だって言ってるだろっ! かわいげあったら不気味だ!」
「なによ!」
「なんだよ!」
睨み合っていたあたし達は、いつのまにか二人してベッドに上がり、鼻先がついてしまうほど近づいていた。最初に、その接近に気付いたのはあたし。
「……は~もう、やめやめっ! なんであんたと下らない口喧嘩なんかしなくちゃいけないのよ。あたしは今、それどころじゃないんだからねっ…」
そう言って、無理矢理ミシェルの肩を押しやって、あたしはベッドから降りた。ミシェルはきょとんと目を丸くして、それから拗ねたように唇を尖らせる。
「僕だって別に、喧嘩なんかしたくないよ…久しぶりなのに、どうしてこうなっちゃうんだ…」
「うっるさいわねぇ。つべこべ言わずに、ほら、後ろを向きなさい」
腰に手をあてたあたしが高圧的に言うと、ミシェルは今度は従わずに、じっとあたしの目を見つめてきた。
「…なによ」
「なにが『それどころじゃない』わけ?」
「はぁ?」
突然のミシェルの問いかけに、あたしは素っ頓狂な声を上げた。ミシェルはそのあたしの手から、冷たいタオルを奪い取ると、さっさと自分で後頭部を冷やしつつこちらを見上げる。
「別にいいだろ、聞いたって。幼なじみのよしみで、相談に乗るけど」
「なっ…にが幼なじみのよしみ、よ! 大体、元はと言えばあんたが悪いんだからねっ」
「はぁ? なんで、僕が?」
心外だ、と言わんばかりのミシェルに、あたしはふうと吐息をついた。ホントは…あんまり、言いたくなかった話題、なんだけどな。
「……大体、あんたが大統領官邸の関係者だからいけないのよ」
「はああ??」
「だって、あんたがこんなところに運び込まれるから、大教母様は大統領との謁見よりも先にご様子を見にこられたわけだし、それが見つかって、大統領のご不興を買ったのも、結局あんたのせいじゃないの!」
段々、本当に腹が立ってきた。
そうよ。元々、大教母様のお忍びが大統領にばれちゃったのも、ミシェルのせいじゃない。それなのに……何にも知らずに、大教母様に恋なんかしちゃってさ! おめでたいのよ、ばかミーシュっ!!
「ちょ、ちょっと待ってよキュラン! 大統領のご不興を…って、それなら心配いらないって、ハーコート筆頭も言ってたじゃないか」
「だって! ……大教母様、ニサンにいた時は、大統領の晩餐会に来るの、とっても喜んでいたのよ。それなのに、さっきは全然乗り気じゃない…ううん、すっごく辛そうだった。きっと、大統領って人は、大教母様の失態を厳しくしつこく嫌みっぽく、責め立てちゃうような人なのよ!」
「大統領はそんな人じゃないよ、落ち着いてキュラン。それに、大教母様と大統領なら、心配することないって」
「え?」
興奮したあたしの耳に、驚くほど落ち着いた声が返ってきた。ミシェルに『大教母様』がらみの話題をすることをあえて避けていたあたしにとって、この反応は意外だ。
「どういう意味よ?」
怪訝な声であたしが問い返すと、ミシェルは自分の後頭部にあてていたタオルを前に持ってきて、手持ちぶさたに弄りながら呟く。
「マル…大教母様がさ、大統領のことを、どれほど大事に想っているか、知ってるから。僕のところに先に来てくれたのだって、別に大統領を軽んじていたからじゃなく、それが大教母様の思いやりだからだよ。そのことに気付かないような大統領じゃない。筆頭の言う通り、出だしは良くなかったけど、あのお二人なら心配は……」
「ちょっと、待って。ミシェル、それじゃあなに? 大教母様は、大統領のことを…?」
そりゃあ、ニサン正教の中では、昔からまことしやかに噂されていた。数代前の大教母様と、まだ王制だった頃のアヴェ国国王がご結婚されたことで、二つの国の結びつきはますます強くなり、自然、アヴェのトップとニサンのトップの婚姻、もしくはそれに代わる強い結びつきが、両国の平和の象徴のように見られてきたことは、知っている。
でも、今はこんな時代だし、ニサン正教の総統である方が、他国の首脳と婚姻を果たすことで、どこにどれほどのメリット、そしてデメリットが生まれるのかさえ、未知数だ。
こんなこと……個人の感情だけで、軽々しく決められることじゃない。
「うん。……多分ね、いや、絶対かな」
そう言って、ミシェルはちょっと寂しそうに微笑んだ。
「…なぁんでそんなこと、あんたにわかるのよ?」
大教母様のお心を汲むことにかけては、他の追随を許さない(と自負する)あたしは、ミシェルのその、悟ったような自信が鼻についた。たった数時間しか一緒にいなかったくせに、あの大教母様の、何を知ってるって言うわけ?
あたしの不機嫌な様子に、ミシェルは少しだけ赤くなった。
「いや……なんでって、そりゃ、見てればわかるよ、見てれば…」
「…ふぅ~~ん。あんた、そんな細かいところがわかるほど、じっくりたっぷりねちっこく、大教母様を観察してたんだ」
「なっ! そそ、そんなことないよっ」
「ないことないでしょ。そぉ、あんたそこまでわかってて、それでも大教母様が好きなんだぁ。結構根性あるのねえ」
「違うって言ってるだろっ!!」
真っ赤な顔で怒鳴るミシェルに、あたしはふんっとそっぽを向いた。あ~やだやだ。恋愛問題でミシェルをからかうと、すぐ怒鳴る。
「とっ、とにかく! キュラン、変なこと言って大教母様を困らせるような真似はしないでよ!」
「あんたに言われなくたって、誰があんたの恋の片棒なんか担ぐもんですか」
「だ~から~~っ!! もうっ、いいよ、勝手にそう思ってればいいだろっ」
本格的に拗ねたように、ミシェルは言い放ってくるりと背中を向けた。あ~あ、こんなところまで、ほんっとに変わってない。まったく……ばかミーシュ。
「……タオル。よこしなさい」
ずいっと手を伸ばすと、ミシェルはふんっとそっぽを向く。拗ねるとしつっこいのよねえ、こいつ…
「冷やさないと、いつまでたっても痛いままよ」
「…………」
「……解ったわよ! あんたの大教母様への気持ちなんて、もう興味ないわ」
「…………」
「…………………ちょっと、虫の居所が悪くて、八つ当たりしてたのっ! からかっちゃって、ごめんねっ!!」
あ~もう、あたしも変わってないなぁ…。普段、ぴいぴい泣きながらもあたしの後をついてきたミシェルが、たま~に頑固になった途端、こんな風に謝っちゃうのはいつもあたし。悔しいけど、こいつってば自分の意志は絶対に曲げない、変に意固地なところあったのよね。
案の定、あたしが頭を下げた途端、ミシェルは満足そうに微笑んでこちらを向いた。
「ほんっと、変わらないよね、キュランって」
「……タオルよこしなさい! ばかミーシュっ!!」
にやにや笑うミシェルの手から、無理矢理タオルを奪ったあたしは、照れくさいのと悔しいのとで、乱暴な手つきでそれを冷水に浸した。と言っても、もうずいぶん温くなってしまっていたけど。
ミシェルは何も言わず、素直に後ろを向いた。こんな時何か言おうものなら、有無をも言わさずあたしの鉄拳が飛んでくること、多分覚えているんだろう。
あたしは、振り返ったミシェルの後頭部にタオルを押し付けながら、ぼそりと呟いた。
「……とにかく。この際、大教母様のお気持ちは、こっちにおいておきましょう。大体、あたし達がなんだかんだと邪推したって、それこそしょうがないんだから」
「…まぁね」
「問題は、何故突然、大教母様の元気がなくなってしまわれたかってことよ。自分を庇って、ミシェルが怪我をしたことへの負い目は、もちろんあると思うわ。でも、あの落ち込みようはそれだけじゃない」
きっぱりと言ってのけて、あたしは一旦言葉を切る。
「…やっぱり、大統領にきつく叱られることが憂鬱だったのかしら…? ねえ、大統領ってどんな方なわけ? ねちっこく怒るタイプ? それともイヤミ~な感じなの? それとも…」
あたしが矢継ぎ早に問い掛けようとした時、むこうを向いていたミシェルが唐突に手を伸ばし、傍らにおいてあったバッグを引き寄せた。
「なによ?」
急にミシェルが動くもんだから、あたしは頭に押し当てていたタオルを落としてしまって、少し不機嫌に唇を尖らせる。だけどミシェルはそんなのにお構いなく、その中に入れていた綺麗な箱を取り出した。
「……もしかして、これのせいかな……」
「え?」
あたしを振り返って、ミシェルは憂鬱そうに眉を寄せる。手には、奇妙な形の美しい小瓶がある。
「なに、それ」
「……香水」
「へえ、見たことのないデザインねえ…で? それがどうしたの?」
「これを買ってこいって、僕が大統領に頼まれたんだ。でも、僕じゃどこに売ってるかなんて解らなくて、街で偶然逢ったマル…大教母様のおかげで、見つけることができた、貴重な香水なんだよ」
「ああ、そんなようなこと、大教母様もおっしゃっていたわね」
そう、確かミシェルの上司…つまり、大統領が、どなたかにねだられてお求めになったって……あれ?
あたしの顔色が変わったのを感じたのか、ミシェルは酷く沈痛な面持ちで、そっと口を開いた。
「……そう。大統領は、大教母様ではない、どなたかのために、これをお買い求めになったんだ」
「……で、でも、別にそれがどうってこと、ないじゃないの。香水を買ってあげたからって、それが即、……恋人へのプレゼント、ってわけでもあるまいし……」
「……………」
あたしの力のない反論に、ミシェルは暗い顔で俯いた。
……そうよ。あたしにだって解る。わざわざ、何とも思っていない人間相手に、こんな珍しい香水を贈ろうなんて思うはずがない。それは少なからず、相手に好意を持っていると言うことで……その、好意の種類が、問題で……
「……僕は、大統領補佐官としてあの方のお側に上がって、まだ一年だけど…」
ミシェルのその、呟きは。
「この香水を贈るお相手のことを話して下さった大統領は」
あたしの知っている『泣き虫ミシェル』の声じゃなく。
「この世の誰よりも、大切な存在を想う、『男』の顔だったよ」
『十八歳の、ミシェル・シナモン』の、深い響きがあった。
ぽつん、と囁かれた言葉に、くりだしていたハイキックのバランスを取り損ねたあたしが、小さな悲鳴を上げてひっくり返った時、ニサンの青い空と、綺麗な蒼い瞳が逆さまに見えた。
『だだ、大教母さまっ?!』
ここは、ニサン大聖堂の裏手。周りには、半年前まで蔵書院として活用されていた蔵の、見るも無残な瓦礫があって、無事だった中身を運び出された今、好き好んで足を向ける人はいない。
そこはつまり、ニサン正教にシスター見習として帰依したあたしが、堅苦しい修道服の下で日に日になまってくる体力を、どうにか発散させようと見つけ出した、秘密の場所だった。
僧兵の誰かに見つかる覚悟はしていた。いくらひとけがないからと言って、ここは大聖堂の敷地内だから、すぐ近くにある僧兵の訓練場から、物好きが探索に来る可能性も、ないとは言えない。
シスターの誰かに見つかる覚悟もしていた。勤勉なニサンのシスターたちは、聖堂内の管理にかけて、とてつもなく実直だ。例え誰もいないような場所でも、万が一に備えて見回りの手を緩めたりはしない。
でも………まさか、『大教母様』に見つかるなんて、思ってもみなかった!!
『大丈夫?』
ひっくり返ったまま、逆さまに大教母様のお顔を見ていたあたしに、大教母様は慌てて駆け寄ってきた。しゃらしゃらと、走るたびに聞こえる衣擦れの音が、混乱したあたしの耳へと爽やかに響く。
『っ、はは、はいっ!』
すぐに、あたしは腹筋を使って跳ね起きた。文字通り『跳ね』起きたあたしが、動きやすいように僧服のベールを脱いでいたせいで、頭の上で結い上げていた髪で顔面を打ったのを見て、大教母様がくすっと微笑む。
『あなたは確か…シスター・キュラン・ヒューイットだね』
『はいっ!』
ニサン正教の一員として、この方の膝元で起居するようになってまだ半年。その間、お言葉はおろか、お顔を拝見したのだって、群集に埋没する礼拝時を除けば、数えるほどしかないはずなのに。
あたしは、密かに憧れ続けていた大教母様が、自分の名前を知っていてくださったことに、言葉に出来ないほど感動していた。
『ところで、何をしていたの?』
大教母様は、公務の時に着用する正装ではなく、比較的ラフな政務用の服をつまんで、瓦礫を跨いでこちらにやってきた。
あたしとの距離は、3メートルもない。こんなに近くで大教母様を拝見する機会なんて今までなくって、あたしは遠目以上に華奢に見える、小さな大教母様のお顔をまじまじと凝視してしまった。
誰だったろう……この方を『うつくしいひと』と謳った者は。その、あまりにも的確な表現に、あたしは改めて驚いていた。
お顔の造りは、なるほど整っている。滑らかな白い肌に、宝石のように輝く碧玉の瞳。つんと通った小さな眉目に、花の蕾のような唇。化粧気もまるでない、どちらかと言えば愛らしいお顔立ちなのに、かもし出す雰囲気のせいなのか、今まで見たこともないほど『美しい』人に見える。
『シスターヒューイット?』
『……あっ?! ああっ、す、すみません!』
あたしは、無遠慮に大教母さまを凝視していた事をひたすら恥じて、真っ赤になった。傍らに立つ大教母様は、あたしよりも十センチ近く低い位置から、じっとこちらを見つめている。
『あ、あの…ちょっとその、身体を動かして…おりました』
正直に言えば、ここから僧兵たちの訓練所に向かう場所にある花壇の雑草駆除を任されていたのだけど、ついつい、日ごろの鬱憤を晴らしに来てしまったのだ。
いつもなら、日が暮れて食後の礼拝を済んだ後の、貴重な自由時間を利用してここへ来ていたのだけど、今日は『ついでに』という甘い誘惑に勝てなかった。
『も…申し訳、ございません…』
恥ずかしくて情けなくて、あたしが深々と頭を下げると、きょとんとした声が降ってきた。
『どうして謝るの?』
『え?』
ぴょこん、と頭を上げたあたしの目前で、大教母様はその花の顔容を優しい笑みに染めた。
『何も謝る事はないよ。シスターのお仕事は大変だけど、たまには違う運動で身体を動かしたいっていう気持ちも解るし、お仕事をサボって来ているって言うんなら、ボクも同罪だから』
言って、ちろりと舌を出す大教母様に、あたしは唖然と二の句が継げなかった。
あたしの困惑をよそに、大教母様はまじまじとあたしを見やって、無邪気に言う。
『ねえ、キュランってもしかして、格闘技とか好きなの?』
『えっ?? え、ええと……その、はい、実は……』
こくんと頷いたあたしに、大教母様は手を打って喜ばれた。
『うわあすごい! ねえ、ここでボクが見ていてもいいかな』
『ええっ?!』
驚いたあたしに、大教母様は悪戯っぽく微笑まれた。そのお顔は、ずっと憧れていた『大教母様』の慈愛の微笑みではなく、十六歳と言う歳相応の、無邪気な微笑みだった。
『前にね…一緒にいた人たちが、そういうの得意でさ。よく、見せてもらってたんだ。…懐かしい…ボクの、大事な思い出なの』
そう言いながら、大教母様はスカートが汚れるのも構わず、手ごろな瓦礫に腰を落とす。じっとこちらを見つめる瞳が、どこか寂しそうだと感じたのは、直前に少女の顔を見せられたから。
それは、『大教母』としてのこの方しか知らない者なら、気づかないほどの小さな寂しさだ。きっとあたしも、この半年の間、何度もこの方のこんな表情を見過ごしていた事だろう。
『じゃ…じゃあ、演武の型を』
『うんっ』
おずおずと切り出したあたしに、大教母様…ううん、『マルグレーテ・ファティマ様』は、とびっきりの笑顔を見せてくれた。
それからというもの、あたしと大教母様は、たびたびこの『秘密の場所』で、息抜きをしていた。
剣に槍に、およそ武芸と称されるもの全般に通じていたあたしの演武に、大教母様は目を細められて喜んでくれて。あたしはあたしで、窮屈なシスター服では味わえない、何とも言えない開放感を、他でもない大教母様と共有していると言う事実に、徐々に徐々に浮かれていった。
でも、たった一つだけ。あたしは、大教母様に乞われても、披露できなかった武器があった。
その武器の名前を口にする時、大教母様の瞳の中に、懐かしさや寂しさとは違う、淡い輝きが宿った事を、あたしは知っている。
その理由までは、その時は解らなかったけど……。
あたしと大教母様が共に過ごした時間は、繋げてみれば大した長さではないけれど、それでもあたしは、隠されたりごまかされたりすることが多い、大教母様の『悲しみ』や『苦しみ』を、他のシスター達よりもずっと鋭く、そして素早く、察知する事ができるようになったと、自負していた。
そのあたしの目前で、今、大教母様は何とも言えない悲しい表情を浮かべている。
あたしは、上手い慰めも、それどころか普通のお声をかける事もろくにできずに、古い路地裏から大教母様を伴って、あてがわれた宿へと戻っていた。
幸いにも、僧兵達に不在を見咎められる事もなく、あたしと大教母様は西日の傾き始めた部屋の中に、静かに入っていった。
パタン、と扉が閉まるなり、大教母様はくるりとこちらを向いて、ぎょっとするほど低く頭を下げる。
「ごめんなさいっ!」
「だ、大教母様?!」
あまりにもストレートな大教母様の謝罪に、あたしは半ば覚悟していた事とは言え面食らってしまった。大教母様の性格上、絶対に謝って下さると解っていたけれど、こんなに素直に、てらいなくされると、やっぱり落ち着かなくなる。
「ボクが…勝手な事をしたばっかりに、キュランにとんでもない迷惑をかけちゃって…本当に、ごめんなさい!」
「……大教母様、お顔を上げて下さいませ」
あたしは、自分にできる限りの最高に優しい声を出して、大教母様の肩をそっと支えた。小柄な大教母様の、細くて柔らかな肩が、触れた瞬間ぴくりと揺れる。
「わたくしはニサンを出る前に、シスターアグネスより大教母様の影共を仰せつかってまいりました。ですから、この度の失態はすべて、わたくし自身の責任なのです」
「え?」
心底驚いたように、大教母様は高く呟いてあたしを見上げた。その大きな碧玉の瞳に、あたしはにっこりと微笑む。
「申し訳ない事ですが…わたくしは、大教母様を侮っておりました。まさか、武術を得手としたこのわたくしをまいてしまわれるなんて、思ってもみなかったのです」
「アグネスが……キュランに?」
「はい。大教母様が、おそらくお一人でブレイダブリクの街へお出ましになられる事と、それを止めてはいけないと言う事を。ですから、大教母様は、何もお気に病まれる事はないのですよ。もちろん…お出かけになる際に、わたくしに共を申し付けて下されば、一番嬉しかったですけれども…」
そう言うあたしの目をじっと見つめ、大教母様はにわかに眉を寄せた。
「…そっか……。アグネス、知っていたんだ…知っていて、許してくれたんだ……。馬鹿だね、ボク。いろんな人に、影で支えてもらっているんだってこと、解ってなかった。子供で…やんなっちゃう……」
「大教母様……」
「キュラン、あなたが気に病む事こそ、何もないんだよ。やっぱり今回は、ボクの失態。キュランは、ボクのミスをカバーしてくれたんだ。助けてくれて、本当にありがとう」
大教母様はそう言って、ほんの少し申し訳なさそうに、でもとても可愛らしいお顔で微笑んだ。あたしはもっと、言いたい事があったけれども、今は何を言っても大教母様のお心を軽くする事はできないだろうと、気持ちのどこかで解っていた。
「……さあ、大教母様。ぐずぐずしてはいられませんわ。そろそろ、大統領官邸へ赴くご準備をされなくては」
「あ……うん…そだね……」
気乗りされないような大教母様の答えに、あたしは少しだけ不安になる。
「…お気が乗られませんの?」
「えっ? いや、そんなことないよ。それに、早く行って、ミシェルの…ボクを助けてくれた、あの男の子のお見舞いにも、行きたいし」
「あ……」
そう言われた時、あたしはようやく、手にしていたバッグに視線を落とした。部屋に入ってからも、何となく手放しがたくて、ボーッと握っていたそのバッグを、大教母様が改めて見やる。
「そのバッグ…もしかして、ミシェルの?」
「あ…はい。先ほどの路地に放り投げられておりましたので、咄嗟に持ってきてしまいました」
「ありがとう、キュラン! きっと、ミシェルもこの荷物の事、心配してると思うよ」
「ええ、あの……」
あたしは、大教母様を救ったという輝かしい功績を上げた、あの細くて頼りなくてどこか子供っぽい男の子が、自分の幼なじみだと言うことを、打ち明けるなら今だ、と思って口を開いた。
ところがそれより早く、ぼんやりとした大教母様の低い呟きが、あたしの声を遮ってしまう。
「この香水……ミシェル、上司の人に頼まれたって言ってた。…ねだられて、プレゼントしたいから、って……」
「え? ああ…そうでしたの? ミシェ…あの方は、大統領補佐官でしたね。ということは、大統領のご命令だったんでしょうか」
そう。今の今までそれどころじゃなくて、うっかりしていたけど…。
あの、泣き虫ミシェルが! スナハミの赤ちゃんに小指を噛まれたくらいでぴーぴー泣いてた、街一番の泣き虫ミーシュが! 今をときめくアヴェ国大統領の、補佐官ですって?!
しかもそれってつまり、あたし達の憧れの的、ハーコート筆頭の直属の部下ってことで……
世の中、間違ってるわ!! 大丈夫なのかしら、この国……?
あたしが思わず、故郷の未来を憂えて溜め息を吐く傍らで、大教母様の、今にも掠れて消えそうなほど小さな囁きが聞こえてきた。
「……だよね……『大統領』の、命令だよね。……ねだられて……買うなんて、そういう人が、いるってことだよね………」
「え?」
半分くらい聞き取れなくて、あたしがきょとんと視線を向けると、大教母様は、まるで無理矢理かさぶたを引き剥がすような表情で頭を振って、くるりときびすを返した。
「さあ、支度を始めようか、キュラン。日暮れ前に、大統領官邸へ行く予定、だったよね」
「あ…はい」
もちろんあたしには、大教母様が何かに酷く心を痛められて、そのせいで無理にでも明るく振る舞おうとしている事は、解っていた。解っていたけど、何も言えなかった。
ただ言われた通り、用意された衣装をクローゼットから出す途中で、あたしは覚えのある胸の痛みに奥歯を噛んでいた。二年前…ハーコート筆頭が駆けつけた礼拝堂で、無理を重ねられた大教母様をお止めする事ができなかったと、自責の念に苛まれた記憶が、心のうちから蘇ってくる。
心踊るはずだったアヴェ国帰郷の出だしは、思ってもみなかった展開を見せて、あたしに重くのしかかっていた。
そしてその心のもやを、あたしは目の前で呆気に取られている間抜けな顔にぶつける事で、発散させようとしたんだけど。
「………キュウっ??!」
ひっくり返った高い声。なーによ、一丁前に声変わりなんかしちゃってさ。驚いた時の間抜けな顔は、全然変わってないくせに。
あたしは、ずるずるとミシェルの顔を滑った冷たいタオルをもう一度掴もうと、腕を伸ばした。だけどその瞬間、思いもよらなかった素早さで、ミシェルがあたしの腕をとる。
「ほ、ホントに?! ホントにきみ、あの、あの」
「……なによっ」
ああもう、いらいらいらいら。さっきからずっと、あたしの中で何かが騒いでいる。この部屋に入った時から、この部屋に大教母様がいらした時から、この部屋でミシェルが目を覚ました時から。
そんなあたしの腕を掴んだまま、ミシェルはぽかんとあたしを凝視していた。驚きと興奮で真っ赤に染まった頬っぺたや、零れ落ちそうなほど大きく開いた薄水色の瞳や、唖然と開かれた口なんかが、あまりにも記憶の中のミシェルと同じだったので。
……なんだか、毒気が抜けてしまった。
「……なによ、馬鹿面して。久しぶりに会った幼なじみに、気のきいた台詞も言えないの?」
「……はぁ~……」
くるり、と薄水色の瞳を回して、ミシェルは何とも情けない溜め息を吐いた。そしてそのまま、あたしの腕を掴んだ手をずるずると下げる。
「……なんなのよ、はぁ~って」
その無礼な反応に、あたしの中のもやもやがまたしても鎌首をもたげる。男のくせに、あたしよりも柔らかな琥珀色の猫っ毛が、うなだれた時さらさらと涼しい音を立てた。
「だって……あんまりにも急で……心の準備とかさぁ……」
「何言ってんのよ。再会なんて、普通こんなもんでしょ」
あらかじめ連絡を取り合ってでもいない限り、再会は突然だ。それに、驚いたのはあんただけじゃないわよ。
あたしのつっけんどんな物言いに、ミシェルはちょっと恨めしそうな視線を上げた。
「……相変わらずだね、キュウ」
「そっちこそね、泣き虫ミーシュ」
「僕はもう、泣き虫じゃないよ!」
って叫んではいるけれど、言われた瞬間真っ赤になった頬とか、どこか後ろめたそうな視線とかで、ぴんとくるわよ。
「どうかしらね。それに、ドン臭いところも、おっちょこちょいなところも、要領の悪いところも変わってないわ」
「…そういうキュウは、毒舌で自信家で、何でもぽんぽん言っちゃうところが変わってないね」
むっとした反論に、あたしは眉を寄せる。
「もう、キュウなんて呼ばないでよ。子供じゃないのよ」
「じゃあ、僕もミーシュ、って言うのやめてくれないかな。子供じゃないんだから」
「あら、あんたは子供でしょ。二つも年下のくせに」
「いくら年下だって、僕はもう十八だよ! 十八の男に、ミーシュはないんじゃないの?」
「そう? とってもお似合いよ、ミ~シュ」
「………」
苦々しく口をつぐんだミシェルに、あたしは手にした布を冷たい水に浸けながら言った。
「……とにかく、別にあたし、あんたとこんな喧嘩をするためにここにいるわけじゃないの。あんたの看病を、ハーコート筆頭に頼まれたから……」
「そう、そうだよ。何でキュランがここにいるわけ?」
まだ不機嫌そうに問うてくるミシェルに、あたしはわざと絞りを甘くしたタオルで、ペン、とミシェルのおでこをはたいた。
「何でって、なによ。あたしがニサンのシスターじゃ、いけないっての?」
「シスター? キュランが?」
おでこの水滴をぬぐいながら、ミシェルがまじまじとあたしの顔を見る。…なに、その胡散臭そうな顔は。
「……悪漢の顔面に飛び蹴り食らわせる人が、シスターなんかしてていいわけ?」
「なっ……なによー! そのおかげで助かったんでしょ?! みっともなく鼻血出して倒れていたくせにっ」
あたしの言葉に、ミシェルはあからさまに傷ついたような顔をして、胸を押さえた。
「……相変わらず、人の傷口をえぐるのが上手だね、キュウ…」
「あっ……あんたが悪いのよ」
ぷいっとそっぽを向いたあたしが、すとん、と傍らの椅子に腰を落とす。しばらく、イヤな沈黙が流れた。
「……後ろ」
「え?」
「後ろ、向きなさいよ。こぶ冷やすから」
ぶっきらぼうなあたしの言葉に、ミシェルは少し驚いたような顔をして、すぐに素直に従った。昔から、あたしの言う事には、従順なのよね、この子。
ミシェルの琥珀色の猫っ毛の上から、あたしは冷たい布を押し当てる。
「……あんた、何だって大教母様と一緒にいたのよ」
「…………」
ずっと疑問だった問いを、あたしがさりげなく口にした途端、ミシェルの空気が重くなった。ふさぎ込んだ彼に、あたしが軽く溜め息を吐く。
「…知らなかったんでしょ? 大教母様だって」
「……うん」
「……好きになっちゃったの?」
さりげなく。できるだけ何でもないような口調であたしが問い掛けた瞬間、ミシェルががばっと振り返った。
「ちちちっ、ちっがうよ! そんなんじゃないよっ! そ、そりゃ、確かにマル…大、教母さまは、か、可愛らしいしさっ、優しいし明るいし暖かいし、素晴らしい女の子だって思うけどさっ、そんな、好きとかそんなんじゃないよっ」
……ばればれだっての。あーもうバカ。
そう言えば、昔っからこいつの好きになる子って、系統が似てたわよね。雑貨屋のユーリスも、ミックの妹のショコラも。今思えば、可愛い系の子ばかりだった。
…でも、それにしたって、大教母様に恋したって、仕方がないのに。…ばかミーシュ。
「いいけどね、何だって別に。だけど、お相手が大教母様じゃあ、あんたの前途は真っ暗ね」
「だからっ! 違うって言ってるだろっ」
「はいはい。もー、動かないでよね。せっかく冷やしてあげてるんだからさ」
あたしが軽くあしらうと、真っ赤になってこちらを睨んでいたミシェルが、しぶしぶ後ろに向き直った。あたしはその後ろ姿に、小さくあっかんべーをする。
「……キュランこそ、恋人とか、いないの?」
思ってもいなかった反撃に、あたしは舌を出したままちょっと固まった。それからすぐに、ギッと眉を吊り上げる。
「……あんた、シスターを馬鹿にしてるでしょ?」
「何でさ。ニサン正教のシスターは、別に未婚であるべきってわけじゃないだろ?」
「そ、そりゃまあ…。でも、普通は一生独身で、教義に準じるものよっ」
「……ふぅ~ん」
「……なによ、その『ふぅ~ん』って」
「べっつに~。昔はキュラン、『あたしは大きくなったら、王子様と結婚してお姫様になるのよっ』て、言ってたじゃない」
「あっ…あんたねぇ~! 何恥ずかしい話思い出してんのよっ!」
「だって、言ったのはキュランだろ。王子様といえば、今はもうアヴェ国大統領におなりになった、バルトロメイ閣下だよね。キュラン、ファーストレディになるつもり?」
こ、こいつ~~~~~~!!!
あたしは、可愛くない反撃をしたミシェルの後頭部(当然こぶがある場所)を、冷たいタオルでひっぱたいた。
「いてっ!!」
「くっだらないこと言うからよ! ばーか! ばかばか、ばかミーシュ!!」
「なんだよ! 最初に変な事言い出したの、キュウの方だろっ!」
「変なことってなによ! あんたの場合、図星でしょっ」
「違うって言ってるじゃないか! 人の話聞かないとこ、変わってないな!」
「あんただって、かわいげなくって一言多いところなんか、全然成長してないわね!」
「僕はもう、十八だって言ってるだろっ! かわいげあったら不気味だ!」
「なによ!」
「なんだよ!」
睨み合っていたあたし達は、いつのまにか二人してベッドに上がり、鼻先がついてしまうほど近づいていた。最初に、その接近に気付いたのはあたし。
「……は~もう、やめやめっ! なんであんたと下らない口喧嘩なんかしなくちゃいけないのよ。あたしは今、それどころじゃないんだからねっ…」
そう言って、無理矢理ミシェルの肩を押しやって、あたしはベッドから降りた。ミシェルはきょとんと目を丸くして、それから拗ねたように唇を尖らせる。
「僕だって別に、喧嘩なんかしたくないよ…久しぶりなのに、どうしてこうなっちゃうんだ…」
「うっるさいわねぇ。つべこべ言わずに、ほら、後ろを向きなさい」
腰に手をあてたあたしが高圧的に言うと、ミシェルは今度は従わずに、じっとあたしの目を見つめてきた。
「…なによ」
「なにが『それどころじゃない』わけ?」
「はぁ?」
突然のミシェルの問いかけに、あたしは素っ頓狂な声を上げた。ミシェルはそのあたしの手から、冷たいタオルを奪い取ると、さっさと自分で後頭部を冷やしつつこちらを見上げる。
「別にいいだろ、聞いたって。幼なじみのよしみで、相談に乗るけど」
「なっ…にが幼なじみのよしみ、よ! 大体、元はと言えばあんたが悪いんだからねっ」
「はぁ? なんで、僕が?」
心外だ、と言わんばかりのミシェルに、あたしはふうと吐息をついた。ホントは…あんまり、言いたくなかった話題、なんだけどな。
「……大体、あんたが大統領官邸の関係者だからいけないのよ」
「はああ??」
「だって、あんたがこんなところに運び込まれるから、大教母様は大統領との謁見よりも先にご様子を見にこられたわけだし、それが見つかって、大統領のご不興を買ったのも、結局あんたのせいじゃないの!」
段々、本当に腹が立ってきた。
そうよ。元々、大教母様のお忍びが大統領にばれちゃったのも、ミシェルのせいじゃない。それなのに……何にも知らずに、大教母様に恋なんかしちゃってさ! おめでたいのよ、ばかミーシュっ!!
「ちょ、ちょっと待ってよキュラン! 大統領のご不興を…って、それなら心配いらないって、ハーコート筆頭も言ってたじゃないか」
「だって! ……大教母様、ニサンにいた時は、大統領の晩餐会に来るの、とっても喜んでいたのよ。それなのに、さっきは全然乗り気じゃない…ううん、すっごく辛そうだった。きっと、大統領って人は、大教母様の失態を厳しくしつこく嫌みっぽく、責め立てちゃうような人なのよ!」
「大統領はそんな人じゃないよ、落ち着いてキュラン。それに、大教母様と大統領なら、心配することないって」
「え?」
興奮したあたしの耳に、驚くほど落ち着いた声が返ってきた。ミシェルに『大教母様』がらみの話題をすることをあえて避けていたあたしにとって、この反応は意外だ。
「どういう意味よ?」
怪訝な声であたしが問い返すと、ミシェルは自分の後頭部にあてていたタオルを前に持ってきて、手持ちぶさたに弄りながら呟く。
「マル…大教母様がさ、大統領のことを、どれほど大事に想っているか、知ってるから。僕のところに先に来てくれたのだって、別に大統領を軽んじていたからじゃなく、それが大教母様の思いやりだからだよ。そのことに気付かないような大統領じゃない。筆頭の言う通り、出だしは良くなかったけど、あのお二人なら心配は……」
「ちょっと、待って。ミシェル、それじゃあなに? 大教母様は、大統領のことを…?」
そりゃあ、ニサン正教の中では、昔からまことしやかに噂されていた。数代前の大教母様と、まだ王制だった頃のアヴェ国国王がご結婚されたことで、二つの国の結びつきはますます強くなり、自然、アヴェのトップとニサンのトップの婚姻、もしくはそれに代わる強い結びつきが、両国の平和の象徴のように見られてきたことは、知っている。
でも、今はこんな時代だし、ニサン正教の総統である方が、他国の首脳と婚姻を果たすことで、どこにどれほどのメリット、そしてデメリットが生まれるのかさえ、未知数だ。
こんなこと……個人の感情だけで、軽々しく決められることじゃない。
「うん。……多分ね、いや、絶対かな」
そう言って、ミシェルはちょっと寂しそうに微笑んだ。
「…なぁんでそんなこと、あんたにわかるのよ?」
大教母様のお心を汲むことにかけては、他の追随を許さない(と自負する)あたしは、ミシェルのその、悟ったような自信が鼻についた。たった数時間しか一緒にいなかったくせに、あの大教母様の、何を知ってるって言うわけ?
あたしの不機嫌な様子に、ミシェルは少しだけ赤くなった。
「いや……なんでって、そりゃ、見てればわかるよ、見てれば…」
「…ふぅ~~ん。あんた、そんな細かいところがわかるほど、じっくりたっぷりねちっこく、大教母様を観察してたんだ」
「なっ! そそ、そんなことないよっ」
「ないことないでしょ。そぉ、あんたそこまでわかってて、それでも大教母様が好きなんだぁ。結構根性あるのねえ」
「違うって言ってるだろっ!!」
真っ赤な顔で怒鳴るミシェルに、あたしはふんっとそっぽを向いた。あ~やだやだ。恋愛問題でミシェルをからかうと、すぐ怒鳴る。
「とっ、とにかく! キュラン、変なこと言って大教母様を困らせるような真似はしないでよ!」
「あんたに言われなくたって、誰があんたの恋の片棒なんか担ぐもんですか」
「だ~から~~っ!! もうっ、いいよ、勝手にそう思ってればいいだろっ」
本格的に拗ねたように、ミシェルは言い放ってくるりと背中を向けた。あ~あ、こんなところまで、ほんっとに変わってない。まったく……ばかミーシュ。
「……タオル。よこしなさい」
ずいっと手を伸ばすと、ミシェルはふんっとそっぽを向く。拗ねるとしつっこいのよねえ、こいつ…
「冷やさないと、いつまでたっても痛いままよ」
「…………」
「……解ったわよ! あんたの大教母様への気持ちなんて、もう興味ないわ」
「…………」
「…………………ちょっと、虫の居所が悪くて、八つ当たりしてたのっ! からかっちゃって、ごめんねっ!!」
あ~もう、あたしも変わってないなぁ…。普段、ぴいぴい泣きながらもあたしの後をついてきたミシェルが、たま~に頑固になった途端、こんな風に謝っちゃうのはいつもあたし。悔しいけど、こいつってば自分の意志は絶対に曲げない、変に意固地なところあったのよね。
案の定、あたしが頭を下げた途端、ミシェルは満足そうに微笑んでこちらを向いた。
「ほんっと、変わらないよね、キュランって」
「……タオルよこしなさい! ばかミーシュっ!!」
にやにや笑うミシェルの手から、無理矢理タオルを奪ったあたしは、照れくさいのと悔しいのとで、乱暴な手つきでそれを冷水に浸した。と言っても、もうずいぶん温くなってしまっていたけど。
ミシェルは何も言わず、素直に後ろを向いた。こんな時何か言おうものなら、有無をも言わさずあたしの鉄拳が飛んでくること、多分覚えているんだろう。
あたしは、振り返ったミシェルの後頭部にタオルを押し付けながら、ぼそりと呟いた。
「……とにかく。この際、大教母様のお気持ちは、こっちにおいておきましょう。大体、あたし達がなんだかんだと邪推したって、それこそしょうがないんだから」
「…まぁね」
「問題は、何故突然、大教母様の元気がなくなってしまわれたかってことよ。自分を庇って、ミシェルが怪我をしたことへの負い目は、もちろんあると思うわ。でも、あの落ち込みようはそれだけじゃない」
きっぱりと言ってのけて、あたしは一旦言葉を切る。
「…やっぱり、大統領にきつく叱られることが憂鬱だったのかしら…? ねえ、大統領ってどんな方なわけ? ねちっこく怒るタイプ? それともイヤミ~な感じなの? それとも…」
あたしが矢継ぎ早に問い掛けようとした時、むこうを向いていたミシェルが唐突に手を伸ばし、傍らにおいてあったバッグを引き寄せた。
「なによ?」
急にミシェルが動くもんだから、あたしは頭に押し当てていたタオルを落としてしまって、少し不機嫌に唇を尖らせる。だけどミシェルはそんなのにお構いなく、その中に入れていた綺麗な箱を取り出した。
「……もしかして、これのせいかな……」
「え?」
あたしを振り返って、ミシェルは憂鬱そうに眉を寄せる。手には、奇妙な形の美しい小瓶がある。
「なに、それ」
「……香水」
「へえ、見たことのないデザインねえ…で? それがどうしたの?」
「これを買ってこいって、僕が大統領に頼まれたんだ。でも、僕じゃどこに売ってるかなんて解らなくて、街で偶然逢ったマル…大教母様のおかげで、見つけることができた、貴重な香水なんだよ」
「ああ、そんなようなこと、大教母様もおっしゃっていたわね」
そう、確かミシェルの上司…つまり、大統領が、どなたかにねだられてお求めになったって……あれ?
あたしの顔色が変わったのを感じたのか、ミシェルは酷く沈痛な面持ちで、そっと口を開いた。
「……そう。大統領は、大教母様ではない、どなたかのために、これをお買い求めになったんだ」
「……で、でも、別にそれがどうってこと、ないじゃないの。香水を買ってあげたからって、それが即、……恋人へのプレゼント、ってわけでもあるまいし……」
「……………」
あたしの力のない反論に、ミシェルは暗い顔で俯いた。
……そうよ。あたしにだって解る。わざわざ、何とも思っていない人間相手に、こんな珍しい香水を贈ろうなんて思うはずがない。それは少なからず、相手に好意を持っていると言うことで……その、好意の種類が、問題で……
「……僕は、大統領補佐官としてあの方のお側に上がって、まだ一年だけど…」
ミシェルのその、呟きは。
「この香水を贈るお相手のことを話して下さった大統領は」
あたしの知っている『泣き虫ミシェル』の声じゃなく。
「この世の誰よりも、大切な存在を想う、『男』の顔だったよ」
『十八歳の、ミシェル・シナモン』の、深い響きがあった。