DAYBREAK-デイブレイク-

いつも僕の目の前には、ブロンズ・グレイの髪があった。
『まってよぉ~』
 とにかく足が速い。仔鹿のように身軽で、野ウサギのように俊敏で、山猫のように……狂暴。
『おそ~い! のっ、ろっ、ま~っ! のろまのミーシュ!』
 小憎らしいことに、向こうの息はぜんぜん上がっていない。そればかりか、からかう時だけご丁寧に、くるっとこちらを振り返って、足踏みまでしてみせる。
『まって、まってよぉ、キュウ~~っ!』
 僕は息も絶え絶えに、一生懸命ブロンズ・グレイの髪を追う。頭のてっぺんで結い上げた髪が、ぴょこぴょこと左右に揺れて、何となく、猫じゃらしで遊ばれている猫のような気分になる。
『あっ!』
 おなじみの、僕の叫び。大体どうして、いつも同じ場所で転ばなきゃいけないんだろう。町外れの僕らの秘密基地に向かう途中に、どうしても足を取られてしまう砂利道があって。
『あっ、も~う! なんでいっつもそこで転ぶの~? どじミーシュ!』
『うっ、ふぇっ、え~~~~っ』
 砂利にこすれた膝小僧と、身体を支えた右の手の平が痛い。僕は痛さと情けなさと悔しさで、そのままぺたんと尻餅をついた。
『泣かないの! 男の子でしょう?』
『ふぇっ、えっ、だ、だってさぁ…』
『だってじゃないの! ほら、立って。傷洗いに行くよ』
 砂利道の裏手には、共同の井戸がある。僕がいつも、この井戸の近くで転ぶもんだから、しまいにはすぐに傷を洗えるように、計算して転んでるんだろう、なんてからかわれたり。
『い、いたいよ、キュウ~』
 冷たい水を、桶に張って。遠慮のない手つきでジャブジャブ傷を洗われるから、転んだ時よりなおさら痛い。
『がまんしなさいよ。男の子でしょう?』
 『男の子でしょう?』が口癖のこの子は、僕の前で泣いたことがない。ミックの家の屋根から落っこちた時も、スナハミに追いかけられた時も、ガキ大将のジェラルドと決闘した時も。
 だから僕も、この子の前では泣かないように、頑張っていたんだけど。
『さあ、きれいになった。走れる?』
 びしょびしょになった膝小僧と手の平を、真っ白のハンカチで拭いてくれながら、僕を見上げるその子の眼は、真ん丸の飴玉みたい。
『……うん』
 本当は、まだちょっと痛かったけど、僕は頷いてみせた。そうすると今度は、僕の左手を引いて、ゆっくり駆け足になってくれるって、解っていたから。
 僕たちの秘密基地は、町外れの給水塔の上にある。街とは反対側を向いているから、今まで大人に見つかったことはない。
『ほら、早く』
『うん』
 僕たちは、給水塔の影に並べてある樽の上から、でこぼこしている塔の表面に手をかけて、高さにして3メートルくらいのところにある基地に登っていく。身の軽いあの子が先に登って、もたもたしている僕に手を差し伸べるのも、いつものこと。
『ほら、もう少し』
 あの子の柔らかい手が、僕の手を強く掴んだ。そのまま引っ張り上げられた時、砂気混じりの風が吹く。
『あ、風の子と砂の子』
 砂塵を含む風が、小さな竜巻のように地面を這っていくのを、僕たちの間ではこんな風に呼んでいた。僕は、ようやく上り詰めた秘密基地の上から、あの子の指差す方を見る。
『どこ?』
『あそこ』
 小高い給水塔の影から、遠くの地平線まで見渡せる。僕らの街はブレイダブリクから少し離れたところにある、砂漠に面した田舎町なので、町外れの給水塔からは、そのまま黄金の砂漠が見渡せた。
『今日の風の子は、飛び切り元気がいいみたい。砂の子がみんな踊ってる』
 あの子の指差す先で、風が砂塵と共に舞っていた。僕はいつも、この光景を見る時、自分達のことを思い出す。
 いつでも元気いっぱいで、周り中を巻き込んで踊る風の子と、その風に手を引かれて、何だか良く分からないうちに空を飛ぶ砂の子。僕とあの子にそっくりだ。
『キュウは、風の子みたい』
 思わず、思った通りの事を口にすると、きょとんとまあるい瞳を見開いて、あの子が言った。
『じゃあ、あんた砂の子?』
 ずっと一緒に育った僕たち。風の子と砂の子のように、いつでも一緒に遊んでいた。
 たった二歳しか違わないくせに、お姉さん風を吹かせるあの子。近所のおばさんの口癖を真似て『あんた、誰におしめをとっかえてもらったと思ってんの?』って言われた時は、なんだい、って思ったけど、生まれた時からずっと、面倒を見てもらってきたって言うのは本当で。
 だから、別れるって知った時は、本当に、本当に辛かった。
 自分の指や耳が、切り取られるみたいに、とても痛くて、寂しかった。
 いっつも僕を好きなだけ引っ張りまわして、散々危ないことや悪戯に巻き込んで、でも、怒られる時は決まって僕を背中に隠してくれたあの子。
 僕は、黙って風の子と砂の子のダンスを見つめているあの子を見上げて、呟いた。
『キュウ…また、会えるよね』
 すると、あの子は黙って僕を見つめて、ひどく悲しそうな顔で笑った。
『もう、会わないよーだ』
 そう言って、給水塔のもっともっと上まで登ろうとするあの子を追いかけて、僕は叫んだ。
『何でっ? やだよ、キュウ!』
『泣き虫ミーシュなんか、知らないもん。もう、会えなくたっていーんだもん』
『よくないよ! 僕、いやだよ、会いたいよ、キュウ…』
 目の前が霞んでいく。泣き虫ミーシュ。僕のあだ名。
 僕が泣くたびに、あの子は涙を飲み込む。一緒に屋根から落っこちた時だって、僕より先に涙を浮かべたくせに、僕が泣き出した途端、しゃんと胸を張って「痛くないよ」って頭を撫でてくれた。
 だから僕は、一生懸命、自分も泣かないように頑張ってるんだけど。
 反面僕は知っていた。僕が泣けば、他の子と一緒に駆け出そうとしたあの子も、振り返って傍にいてくれることを。
 甘えていたんだ。僕の風の子に。いつも、一緒にいられると思っていたんだ。
『キュウ、キュウ…っ』
 あの子の背中を追った僕が、給水塔の壁を登ろうとした瞬間、ぐらりとバランスを崩した。
『…!!』
 振り返ったあの子の、飴玉のような瞳が見開かれる。
 くるりと仰向けになった視界一杯に、抜けるような青空が映った。
 あれ……こんなきれいな空を、つい最近、どこかで見たような気がする…
『………ミシェル!!』
 僕の名前を、強く呼ばれた。この声は誰?

 ……キュ………ラ……ン……?



 ぱちりと目を開けると、世界は斜めだった。
「………?」
 視界の隅に、風に揺れるレースのカーテンが見える。左の頬に、枕の感触があった。
 薄い膜が張られたような視界。ずっと目を瞑っていたから、窓から零れる西日が眩しい。
 ……何だか、胸が苦しいと思った時、自分がうつ伏せになっていることに気がついた。
 そして、後頭部がやけに冷たい。まるで、冷やした布でも押し当てられているようだ。
 ……気持ちいい……
 そう思った瞬間、その冷たい感触が不意に離れ、耳元で水のはねる音が聞こえた。
 誰かいるの?
 不思議に思って、ゆっくりと首をずらそうとした時、また後頭部に冷たい感触がよみがえり、同時に低い声が聞こえる。
「……も少し寝てろ」
「はぁ、……」
 聞き慣れた声の命令口調だったので、ついついそんな間抜けな声で返してから、おや? と考える。
 この声……。
「…………っ、大統領!?」
 そう言って、がばっと起き上がった瞬間、後頭部に鈍い痛みを感じて眉を顰めた。と同時に、首の根が寝違えを起こしたように引き攣れて、僕は思わず唸ってしまう。
「馬鹿、無理すんな」
 苦笑を含んだ声で、僕の頭の後ろ辺りから大統領が言う。僕は、ねじれるような首の痛みをこらえながら、何とか上半身を起こして、ひじで体重を支えた。
「だ、大統領、あのっ」
「いいから、寝てろっての」
 上半身を起こしたせいで、背中の方までずり落ちてしまった冷たいタオルを、大統領は再び僕の後頭部にあててくれながら言った。
「そ、そういうわけにはいきません!」
 まさか、大統領の目の前で、投網にかかったスナハミのように、みっともなく寝そべっているわけにはいかない。
 僕は慌てて身を起こし、ベッドの上で方向転換をする。見ると、ここは大統領官邸の敷地内にある、僕のような下っ端にあてがわれた寄宿舎の救護室。全体的に白っぽいその室内で、鮮やかな金色の髪が風に揺れていた。
「頭いってんだから、大人しくしてろって」
 僕の寝かされたベッドの傍らで、大統領が呆れた風に微笑んでいる。僕は急いで大統領に向き直り、ぐしゃぐしゃになった髪とか、着崩れたシャツとかを、どうにかしようとしたんだけど。
「こら。何度も言わせんな、怪我人は大人しくしてろ」
 少し、じれったいように大統領は言って、ばたばたしている僕の手を掴み、冷やしたタオルを握らせた。
「しょうがねえな、自分でこれ、頭にあててろ。まだこぶできてんだから、冷やさねえと」
「こぶ……?」
 僕は呆然と呟いて、自分の後頭部に恐る恐る指をやった。
「痛っ!」
「馬鹿、こぶに触って痛くねえわけねえだろう。おまえ、人の話聞いてんのか?」
 心底呆れたように言う大統領の言葉に、僕はようやく、本当にようやく、自分の置かれた状況を思い出していた。
「あ!! だ、大統領、あのっ」
「解ってる、話は聞いてるよ」
 穏やかな大統領の言葉に、僕は吸い込んだ息を中途半端に吐き出した。
 そんな僕の真正面で、簡素な椅子に腰を下ろした大統領は、少し申し訳なさそうに僕を見つめる。
「悪かったな。俺が、買い物なんか頼んだばっかりに、余計な怪我させちまって」
 そう言って、僕に向かって軽く頭を下げる大統領に、僕は首まで真っ赤になるのが解った。血の巡りが良くなりすぎて、後頭部のこぶがずくずくと痛む。
「そそっ、そんなことありません! 大統領のせいなんかじゃ、決してありません! あの、お願いですから、どうかそんなこと言わないでください、じゃないと僕、……」
 あ……頭に血が上って、何だか鼻血が出そうだ……
 僕の、その見当はずれの大興奮に同情して下さったのか、大統領はぽりぽりと金髪をかいて、照れたように微笑んだ。
「じゃあ……まあ、おまえが無事で良かったよ、うん」
「あ、ありがとうございます……」
 どうしよう、嬉しくて叫び出したいくらいだ。大統領に、こんなお言葉を頂けるなんて……っ
「しっかし、運よくシグが通りかかったからいいようなものの、おまえ、何だって東になんか行ったんだ?」
 大統領の言葉に、僕は浮かれていた頭が、氷水を浴びせられたように一瞬で冷えていくのを感じた。
「ハっ…ハーコート筆頭が、助けて下さったんですか?!」
「何だ、覚えてないのか? おまえを抱えて、ここまで帰ってきたんだよ、シグは」
 そう言えば…記憶が途切れる直前、聞き覚えのあるバリトンが届いたような気が…この辺の記憶は、ひどくあやふやでおぼろげで、もっと他に、何か大事な事があったはずなんだけど……
「もしかして、東にまで探しに行ってくれたのか? 無理しなくて良かったのに…あの香水、ほとんど流通されてなかったろ」
 同情的に大統領が言う言葉を、僕はさっぱり聞いていなかった。代わりに、自分の後頭部を押さえていた手を前に戻し、両手をついて身を乗り出す。
「あのっ! それで、僕と一緒にいた女の子は!?」
「は?」
 僕の剣幕に、大統領は面食らったように目を見開くと、不思議そうな顔を見せた。僕は、さっきからぐずぐずと痛む後頭部と戦いながら、まだちょっと混乱しているらしい記憶を元に、何とか口を開く。
「あの、引ったくりに遭った時、僕と一緒に女の子がいたんです。名前は…」
「キュウ、だろ?」
 僕の言葉を遮って、大統領はにやりと口の端を曲げた。僕は一瞬息が止まるほど驚いて、ついでわたわたと手を振る。
「ちちち、違いますっ! キュウは、キュウはっ……って、ええ?! どど、どうして大統領が、キュウの事…っ」
 僕の狼狽ぶりがあまりに面白かったのか、大統領はしばらく肩を震わせて俯いていた。そしてそのまま、目尻に涙を浮かべた顔で、僕の真っ赤になった顔を覗き込む。
「どうしてって…おまえ、うわ言で散々その名前言ってたぜ。あれじゃあ、どんな鈍い奴だって解るさ」
「えっ! う、うわ言……」
 何てことだ! …そう言えば、夢の中で僕は、懐かしいマチカの街での子供時代を思い出していた。あんなに鮮明に思い出したのは、ほとんど十年ぶりくらいだ。
「おまえの大事な『キュウ』は、無事だったとよ。シグが言ってたぜ、おまえ、勇敢だったって」
「あ……」
 そうか、あの子…『マルー』は、無事だったんだ。良かった…
 僕がほっと胸をなで下ろしていると、大統領はベッドの傍らにおいていた洗面器を手に、急に立ちあがった。
「じゃあ、おまえも目を覚ました事だし、俺はぼちぼち執務に戻るよ。シグの目を盗んできてるから、もたもたしてると見つかっちまう」
「あ、申し訳ありませんでした…」
「馬鹿。俺の命令で動いた奴が、怪我したんだ。俺が看病すんの、当たり前だろ。…ま、医者が言うには大したことないってよ。頭のこぶも、二、三日で引くそうだ。おまえさえよけりゃ、明日の晩餐会は、休んでていいんだが…」
「いえっ!! 是非、お手伝いさせて下さい!!」
「って、言うと思ってよ。シグなんかもう、おまえを晩餐会の構成員に組み込んでたぜ。稼ぐよなあ、青少年!」
 言って、大統領は豪快に笑った。そしてそのまま、大きな手をぽんぽん、と僕の頭に乗せて、手にした洗面器を掲げる。 
「じゃ、出掛けに水換えてきてやるから、待ってろよ」
「あ! そんなこと、僕が…」
「怪我人は寝てろって、何回言やぁ解るかねぇ」
 呆れたように肩を竦めて、大統領は颯爽と救護室から出ていった。
 僕は、その圧倒されるような存在感が、狭い室内からなくなった瞬間、緊張の糸がふっつりと切れて、どっと前のめりに倒れ込む。
 あ~……何か、急にいろいろあって、頭が追いつかないや……
 でも、とにかく、マルーは無事だったんだ。僕のこの、ちっぽけな細い腕で、あの子を守る事ができた……そう思うだけで、僕は何だか、一気に二、三歳分成長したような、不思議な感慨にふけっていた。
「あ…でも、結局マルーの連絡先とか、聞けなかったなぁ……」
 重大なミスを思い出し、僕は少しだけ肩を落とす。でも…大丈夫! 『縁があればそのうち、どこかで会える日がくる』よね、マルー。
 そう思い直した僕が、何だかにやけてしまう自分の頬を軽く叩いた時、今し方大統領が出て行かれた簡素な扉が、こんこん、と二回ノックされた。
「はい?」
 僕は、妙に弾んだ声を返しながら、浮かれてるなあと自分で思った。自己満足でも、自分が何か、大きなことをやり遂げたような充実感が、僕を興奮させている。
 だけど、扉を開けて姿を現した方を見た瞬間、そんな高揚感は粉みじんに吹き飛んでしまった。
「加減はどうだ、起きていて平気なのか、ミシェル」
「ハっ……ハーコート筆頭!」
 落ち着いたバリトンが響き、気遣わしげな視線をこちらに向ける長身の方に、僕はひっくり返ったような声を上げていた。と同時に、無意識に身体が動いて、荷馬車に引かれた蛙のように、僕はベッドの上にひれ伏していた。
「ああ、あのっ! 危ないところを助けていただいて、本当にありがとうございましたっ!」
 ……そう。マルーを助けたのも、僕自身を助けて下さったのも、この方だ。みっともなく失神した僕を、恐れ多くもここまで運んで下さったのも、この方。
 それを忘れて、身勝手に浮かれていた自分が、心底恥ずかしい……。僕は、羞恥と自己嫌悪で、赤くなったり青くなったりしている顔を必死に伏せていた。
 だけど、ハーコート筆頭は僕のすぐ傍らまで歩み寄ると、大きな手をそっと僕の肩に置き、染み入るような声音を微笑ませた。
「私はただ、君の手当てをしただけだ。本当に窮地を救ったのは、君の勇敢さだ、ミシェル」
「筆頭……」
 目頭が熱くなる感覚に、僕は慌てて瞬きを繰り返した。筆頭はすぐに手を引いてくれて、僕が俯いた瞬間何でもないように話を続ける。
「本当に、感謝しているよミシェル。偶然とはいえ、あの場に君がいなかったらと思うと、胃の腑が凍り付く」
「……え?」
 きょとんとした僕が顔を上げると、ダンディーな顔を苦笑に染めた筆頭は、再び僕の肩をぽんぽん、と優しく叩いた。
「私からも、是非礼を言わせてくれ。ありがとう、ミシェル」
「…はぁ?」
 全く状況が解らずに首を傾げている僕に、筆頭は少しだけ悪戯っぽく微笑んで、その涼しげな目元をすいと戸口の方へ向けた。 
「…君に是非、逢いたいと言っている者がいるんだが、逢ってやってくれるか?」
「え?」
 ますます、意味が分からない。僕が顔中にハテナマークを飛ばしている傍らで、筆頭は良く通るバリトンの声を、戸口に向かって投げかけた。
「さあ、もういいですよ。お入りなさい」
 その瞬間、白っぽい部屋に一つしかない戸口に、鮮やかな大地の色が弾けた。
 一瞬僕は、唖然と目を見開いていた。僕が何かを言う前に、柔らかな風に揺れた茶褐色の髪と、見慣れない純白の肌、そして、潤んだように輝く大きな青い瞳が、僕に向かって駆け出してきていた。
「ミシェルっ!!」
 ふわり、と良い香りが鼻に届いた。と同時に、柔らかい茶褐色の髪の感触が、自分の頬にあたり、暖かい腕が首に回る。
 さして勢いがあったわけでもないけれど、僕はそのまま力なく後ろにのけぞってしまった。
「ミシェル!」
 ちょうど、こぶのある後頭部が枕に強く当たり、僕は思わず強く目を瞑った。だけどそれは、痛みだけのせいじゃなくて、僕の細い身体にかかる暖かくて柔らかいものの存在が、寝ぼけた僕の幻覚じゃない証拠が欲しくて。
 恐る恐る開けた眼差しの先に、心配そうな顔をしたマルーがいた。
「ま……っ、マルー?!」
 素っ頓狂な僕の声に、マルーは急いで僕の上から離れながら、にっこりと微笑む。
「うんっ!」
 そうして彼女は優しく僕の手を握り、震える声でこう言った。
「ミシェル、助けてくれてありがとう。ボクのせいで怪我をさせちゃって、本当にごめんなさい…痛かったでしょう?」
 彼女の細い指先が、じんじんと痛む僕の後頭部へ伸ばされる。その瞬間、間近に迫った小さな顔に焦って、僕は慌てて手を突っ張った。
「いいい、いや! 平気だよ、このくらい! な、なんでもないよっ、ははっ!」
 おそらく、みっともないくらい真っ赤になっているに違いない顔を、僕は必死に俯かせていた。掌に吸い付くような、マルーの肩の感触が熱くて、慌ててそれを引っ込める。
「き、君が無事ならそれでいいよ、あの……」
 思わず口から滑り出してしまった、似合いもしない気障なセリフに、ますます混乱してしまう。僕が困ったように目を上げると、そこには優しい微笑を浮かべたマルーがいた。
「本当に……ありがとう、ミシェル。ミシェルのおかげで、ボクも、それから香水も、無事だったよ」
「あ……っ! そ、そうだ! 僕の……っ」
 マルーの言葉に、本当に情けないことに、ようやくそのことに思い至った僕は、慌ててベッドの周りを見回した。
「……あなたのお荷物ならば、わたくしがお預かりしておりました」
「へ?」
 つんと澄ましたような声が上がり、僕はその時初めて、マルーと筆頭以外の人物がこの部屋にいることに気付いた。
 その人は、ニサン正教の正式な修道服を着て、戸口に立っていた。慎ましやかな雰囲気の、背の高いシスターで、まっすぐな視線がこちらに向かっている。
「あ……ありがとう、ございます……」
 何故、シスターが僕の荷物を持っているんだろう? という疑問は浮かんだけれど、とりあえず、彼女の手にあるバッグに手を伸ばし、簡単な礼を述べた。
 シスターは、つかつかとベッドまで歩み寄ると、僕の手にバッグを渡して、そのまま数歩下がる。なんというか…行動の一つ一つがはっきりとしていて、多分、気の強い人なんだろうなあ…という印象があった。
 何となく視線を感じていたけれど、シスターの顔をそうまじまじと見るわけにもいかず、そして何より手に戻った荷物の中身が心配だったために、僕は夢中でバッグの口を開いた。
「よ…かったぁ…! 無事だった」
 バッグの底の方に、丁寧にしまっていた香水の箱は、壊れても濡れてもいない。念のために箱を開けて中身を見たけれど、何の損傷も見られなかった。
「良かった、ミシェルの香水も無事だったんだね」
 マルーの言葉に、僕は思わず頷いていた。
「うん。あの時、とっさにその辺に放りだしていたから、もう駄目だと思ってたけどね…」
「じゃあ……上司の人、喜ぶね……」
「うん! 良かった、早速ご報告に行かなきゃ……」
 マルーの呟きに答えた瞬間、僕ははた、と全ての動作を止めた。
 そろそろと、視線を動かすと、傍らにはハーコート筆頭が慎み深く控えている。筆頭は、マルーのやることなすことに、まるで咎める風もない。戸口に控えたシスターも、もちろん何も言わずにいる。 
 ……でも、ちょっと、待って。
 ここは、仮にも大統領官邸の敷地内で、下っ端とはいえ僕のように、大統領の政務に関わる人間は、むやみやたらと外部の人間と接触していいわけではなく、そもそもこの寄宿舎内は、民間人の立ち入りは禁じられているはずで……
「あ……あの……」
 恐る恐る、僕はマルーを見つめた。その時になって初めて、僕はマルーの服装が、出会った時のアヴェの民族衣装ではないことに気がついた。
 目の覚めるようなダークブルーに、真っ白の縁取りがされているケープをはおり、裾の膨らんだロングスカートと、少しだけかかとの高いブーツ。胸元のアクセントは、後ろに控えているシスターと同系の…ニサンの紋章が、恐ろしく緻密な意匠で施されていた。
 一目で解る。この衣装は、ニサン正教の…恐らく、司教以上に属する高位な人間がまとうべき正装で…ニサン正教内で、司教クラスに相当する女性の位といったら……
「マ…ルー…」
 恐る恐る、呟いて。彼女の青い瞳を凝視する。
 ……ああ、そうか。どうして僕が、彼女のこの瞳を見るたびに、あの方を想起させられていたのか、今、ようやく解った……
「大…大教母…マルグレーテ・ファティマ…さま…?」
 かすれるような僕の呟きに、マルーは一瞬ひゅっと息を吸い込んで、それからゆっくりと、頷いた。
「……はい」
 まるで、仕掛けた悪戯が見つかった時のように、本当に無邪気に微笑むマルー…いや、マルグレーテ様に、僕は金縛りにあったように動けずにいた。
 その傍らで、落ち着いたバリトンが空気を汲むように響く。
「…驚くのも無理はない、ミシェル。だがこの方は、正真正銘ニサンの大教母だ」
「隠してるつもりも、騙してるつもりもなかったよ。ただ、言わなくていいと思っただけなんだ。だって…」
 マルーの声が遠い。僕は、ベッドの上で金縛りになったまま、次に言うべき言葉を必死に探していた。
 言葉が、浮かんだ。僕はそれと同時に、素早くベッドの上で両手をつき、深々と頭を下げた。
「知らぬ事とは言え…! 大変、失礼いたしました、大教母さま!!」
「え……」
 宙に浮いたような、マルグレーテ様の声が頭上で聞こえる。僕は必死にシーツを掴み、そのままぐっと目を瞑る。今まで自分がしてきた事が、走馬灯のように頭の中をぐるぐる回っていた。
「ミシェ……」
「ミシェル」
 マルグレーテ様の声を継ぐように、筆頭のバリトンが響く。僕は恐る恐る頭をあげ、マルグレーテ様の視線を感じながら筆頭を見やった。
 筆頭はいつものポーカーフェイスのまま、僕をじっと見据えていた。
「……君にはすまないが、今回の大教母さまとの一件は、他言無用に願いたい」
「え…」
「本来なら、大教母さまを救った功労者として、ニサン及びアヴェから何がしかの褒賞を与えるべきところなのだが、このたびの一件は大教母さまの独断によるものであり、それに加え……」
「いりません!!」
 気がつけば、僕は筆頭の言葉を遮るように叫んでいた。自分でも驚くほどの声に、忘れかけていた後頭部の痛みが蘇る。苦い顔をした僕の傍らで、筆頭が少しだけ眉を上げた。
「…褒賞、なんて、いりません…そんなつもりでお助けしたわけでは、ありませんから。大教母様がご無事なら、それ以上望む事は…ありません」
 言い終えた僕は、何故だか苦いものを堪えるように奥歯をかみ締めた。視線を流せば、そこにマルグレーテ様がいるのは解っていたけど、どうしてもそちらを向く事が出来ずに、僕は瞳を伏せる。筆頭のバリトンが、落ち着いた声音で響いた。
「……では、大教母さま。そろそろ大統領に謁見いたしませんと、不審に思われます。大教母さまご来訪の報告は、恐らくされているでしょうから…」
「……ミシェル……」
 力のないマルグレーテ様の声に、僕は思わず視線を上げてしまった。まるでそれを待っていたように、マルグレーテ様は僕を見つめていた。
「……一緒に買い物できて、楽しかったよ。…ミシェル」
「……」
 そう言って、少しだけ寂しそうに微笑んだマルグレーテ…いや、マルーに、僕はその時、何かを言ってやりたくてたまらなかった。
 マルーのこんな顔、僕は絶対に見たくなかったはずなのに。何か、何か上手い言葉はないか。どうしたらマルーは、また屈託なく笑ってくれる?
「あの……っ」
 たまらずに、僕が思いついてもいない言葉を言いかけた瞬間、戸口の方でシスターが動く気配があった。
「誰です!」
 鋭いシスターの声に、室内の視線が集中する。
 簡素な救護室の薄い扉を、シスターは警戒しながら手早く開いた。
 そこに立っていたのは、くすみのない金色の髪を無造作に束ねた、この館の主。片手に水を張った洗面器を持ち、悪びれた風もなく静かな視線を上げている。
「………若……」
 僕の傍らで、マルーの呟きが漏れた。
 その声に、僕は何故だか、金縛りにあったように動けずにいた。
 マルーの声は、砂漠に落とした一粒の真珠のように、不安そうで、それでいてとても、美しかった。
「……話は、聞かせてもらったぜ」
 そう言いながら、大統領はその長い足を颯爽と動かし、救護室に入ってきた。手にした洗面器から、ちゃぷんちゃぷんと涼しい水音がする。
 僕の傍らで、マルーの呼吸が止まったのを感じた。素早く視線を流すと、彼女はじっと大統領を見つめながら、しきりに何かを堪えているように見えた。
 大統領は、マルーのすぐ傍らまでやってくると、僕の枕もとにあったサイドテーブルに洗面器を置き、ちらりと眼差しを流す。その先には、筆頭がいた。
「…説明しろ、シグ」
 抑揚のない声音に、僕は舌の根が引きつるような感覚を覚えた。いつもの磊落さはなりを潜め、大統領はまるで、気に喰わない政敵に対峙する時のように、酷く不機嫌そうなオーラを発している。
「……解りました」
 ふう、と嘆息をつきつつ、筆頭が頷いた。その瞬間、マルーが何かを言いかけ、ふっとその言葉を飲み込む。彼女の白い指先が、ぎゅっと強く握られた。
「…ま、とりあえず、怪我人の部屋にぞろぞろ居座るのもナンだな。…行くぞ、マルー」
 酷くぶっきらぼうに、けれどとても自然な空気で、大統領がそう言った。
 その声に、マルーの長い睫毛がぴくんと揺れる。そうして、彼女は握っていた指を恐る恐る離しながら、大統領を見上げた。
「……うん」
 一瞬だけ。二人の視線は交錯して、すぐに離れる。大統領は背を向けて救護室を出て行き、マルーはその後を追いながらちらりとこちらを振り返って、小さく会釈をした。
 呆然とお二人を見送った僕の耳に、筆頭の溜め息混じりの声が届く。
「……しくじったな…。あの方がミシェルを見舞う事くらい、予想すべきだった…」
「あ、あの、筆頭……」
 大統領の態度は、どう見ても不機嫌…というより、どこか拗ねたような雰囲気だった。もしかして、今回の件で、何かご不興を買ったんじゃ…。
 僕の不安そうな声に、筆頭は不意に眼差しを返して、それから穏やかに微笑んだ。
「心配は要らない。若…大統領は単に、マルー様の無茶を心配しているだけだ。ただ…まあ、久方ぶりの再会には、不向きな出だしだったろうが、時間はまだある」
 筆頭はそう言って、機敏な仕草で振り返った。
「では、シスター。すまないが、しばらくミシェルに付き添っていてくれるか。すぐに救護官が来る手はずだが…」
「解りました」
 筆頭の言葉に、シスターは言葉少なに頷いた。僕は慌てて、筆頭に言う。
「あの、僕はもう大丈夫です。すぐに執務に戻ります」
「いや、今日はもういい。ここでしばらく休んだら、部屋に戻りなさい。明日以降の予定は、明朝のミーティングで通達する。ではシスター、よろしく頼む」
 てきぱきと言いおいて、筆頭はそのまま救護室を後にされた。
 残された僕とシスターは、瞬間訪れた沈黙に包まれる。僕は、今しがたまで起こっていた出来事に、まだ上手く順応できずに、ぼんやりとしていた。
 マルー……が、ニサンの大教母様で……そっか。って言うことは、この香水の贈り主は……マルーに、あんなに幸せそうな顔をさせることのできた方は……
 僕は全てを悟ったような顔つきで、手の中にある香水を眺めた。片翼をモチーフにした涼しげなデザインのそれが、赤い西日を吸ってきらきらと輝いている。
「……片翼……か」
 いつの間にかぼんやりと呟いていた僕が、はっとした瞬間、すぐ傍らに人の気配がして、急いで顔を上げた。
 僕のベッドの傍らまで、シスターが近づいていた。てきぱきとした動作で、僕の傍に落ちていたタオルを手に取ると、大統領が持ってきて下さった水にそれを浸し、きゅう、と絞る。
「あ……すみません、あとは僕が自分で…」
 初対面のシスターに、面倒をかけることに抵抗があって、僕がそう言いかけた瞬間。


 べしゃ。


 ……冷たい。
 絞りの甘いタオルが、僕の顔面に降ってきた。…いや、投げつけられた。
「……なっ、」
 あまりに突然の事に、僕の反応が遅れたのをいいことに、顔面に張り付いたタオルは誰かの……シスター以外の何者でもない人物の手によって、ぐりぐりと鼻の頭にこすりつけられた。
「なっ、何するんですかっ!!」
 思わずわめいた僕が、タオルを取ろうと腕を振り回した瞬間、ぱっとそれが離れる。
 水気を吸った睫毛をしばたたかせ、僕がシスターの方を見やると、シスターはじっと大きな瞳をこちらに向けて、眉を吊り上げていた。
……あれ? この眼……どこかで……
 僕が、一瞬ぎょっとした顔を見せた瞬間、シスターの綺麗な唇から、大変聞き覚えのある声が飛び出した。
「…あいっかわらずドン臭いのね! ドジ! バカ! 泣き虫ミシェル!!」
「……………………………へ?」
 ぽかん、と口を開けた僕に、二度目のタオルが投げつけられた。
 冷たいそれに視界を塞がれた瞬間、真っ黒の瞼の裏に、あの子の顔が浮かんで消える。
 ………僕の風の子。
「………キュウっ??!」
 ああ、神様。一体どこからが現実で、どこからが夢なのでしょう。
 冷たいタオルの感触が、逆にますます僕の意識を胡乱にさせた。このまま目を閉じれば、次に目覚める時は一体……どういう状況なんだろう??
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