DAYBREAK-デイブレイク-
あたし達、ニサンの新参シスターの間には、暗黙の了解と言うものが、三つあった。
一つ目は、どんなに眠くても、どんなに機嫌が悪くても、早朝礼拝におけるシスターアンカラットの調子っ外れな讃美歌を、囃し立てても笑ってもいけない、と言うこと。
何故なら、シスターアンカラットは、音感と言うものをお母さんのお腹の中においてきてしまったこと以外は、非の打ち所の無い、とても善良なシスターだから。
二つ目は、大教母様がお疲れのご様子の時は、前もって示し合わずとも、素知らぬふりで礼拝の時間を短くしてしまうこと。
もっともこれは、あたし達新参シスターのやりようを、古参シスターも知っていて黙認しているところがある。もしかしたら、大教母様自身も、わかっていてあたし達の気持ちを汲んで下さっているのかもしれない。
そして、三つ目。実は、これが一番重要で。
隣大国アヴェの大統領筆頭補佐官であり、ニサン正教上層部との外交的スポークスマンとしてニサンに訪れる、シグルド・ハーコート卿に関する情報の独占を、禁ずること。
と言っても、卿はもちろんお忙しい方だから、いくら友好国ニサンだからと言って、そうたびたびお越しになったわけではない。あたしがシスター見習いとして正教に帰依した頃から数えても、訪問は両手に満たない数だろう。
でも、けど、それをして。あまねくニサン正教のシスター達の、羨望の的になってしまったのは、何もその、理知的で渋味のあるダンディーな美貌のせいだけじゃない。
あれは、確か二年近く前。あたしがシスター見習いとして、シスターガヴァネスについていた頃だから、ちょうどソフィア様の再来と謳われた方が、ニサンを出られたか、出られないかの頃。
その頃は、ニサン国内の建て直しもまだ軌道に乗っておらず、大教母様はそれこそ、今以上に多忙な日々を過ごされていた。もしかしらた、ペーペーのシスター見習いだったあたしなんかよりもずっと多く、雑事に携わっていらしたのかもしれない。
国内外から集う、ニサン正教の庇護を求める人たちへ、本当の意味で陰日なたなく、手を差し伸べ続けた大教母様。でもそんな激務の日々に、弱冠十六歳のあの方の、精神力はともかく、体力が持つわけがなかった。
だけど、誰がどんなにご注進しても、大教母様は休まれようとはしなかった。今こうしている間にも、聖堂の外には飢えや寒さや恐怖や絶望に涙を流す、たくさんの人たちがいる。それを知っていて、できることがあって、じっとしているなんてできない、と。
そう言って、一人黙々と働き続けた大教母様。そんな大教母様を、無理にお止めすることもできなくて、あたし達シスターはずいぶん歯がゆい思いをしたものだった。
そして、あの時…ニサンに来訪されたハーコート筆頭のお顔を見た途端に、まるで細い糸が切れるように、ふっと意識を失われた大教母様は、多分、本当に限界まできていたんだろう。いずれそうなることを知っていて、それでもあの方をお止めできなかったことに、あたし達は情けない思いに駆られた。
けど…そう。そんなあたし達の自責の念を、いい意味で忘れさせてくれたのが、ハーコート筆頭と大教母様の一幕、だったのだ。
たくさんのシスターがそろっていた、礼拝の時間だった。シスターアグネスの先導で、アヴェより来訪されたハーコート筆頭が、教義を終えた大教母様に、ご挨拶されようと近づいた時。大教母様のお体が、中央の祭壇より崩れるように倒れ掛かってきた。
シスター達の悲鳴が上がり、一番後ろの席だったにもかかわらず、あたしが思わず駆け出そうとした瞬間、ハーコート筆頭の二つの腕が、まるですべて解っていた、とでも言いたげに、難なく大教母様のお体を抱き留めたのだ。
一同の息を呑む音と、大教母様の僧衣が擦れる衣擦れの音だけが、聖堂の中に響いた。ハーコート筆頭は大教母様のお体を、まるで宝物を扱うかのように優しく抱き上げて、そのお顔の色にそっと眉根を寄せてから、微動だにできずにいたあたし達シスターに向かって、染み入るようなバリトンでこう言ったのだ。
『……続けて』
その瞬間、まずシスターアグネスが我に返り、パンパン、とふたつお手を打って、通例の讃美歌を始めるように、指示を出した。パイプオルガンの前で呆然と突っ立っていたシスターに目配せし、何だかきつねにつままれたような雰囲気のあたし達が見守る中、ハーコート筆頭は大教母様を抱いて、聖堂を後にした。
すぐに、シスターアグネスもその後を追って。あたし達は、互いに興奮しているであろう胸のうちを必死に押さえながら、いつにもまして調子っぱずれなシスターアンカラットの先導に続いて、か弱い讃美歌を歌い続けたのだ。
それから、あたし達シスターの間で、俄然『ハーコート筆頭びいき』が始まったのは、言うまでもない。
もちろん、教義を重んじ俗世と絶たれた、敬虔なるシスターのあたし達だから、そう大っぴらにきゃいのきゃいのと騒ぐわけじゃなかったけど。
それでも、年に数回あるかなしかのアヴェ国大統領の訪問の際は、普段抑圧されてきたあたし達の乙女心は、踊りに踊ったものである。
もちろん、弱冠十八歳の若さでアヴェの大統領として就任された、ファティマ王朝の最後の王太子にも、多分に憧れはあったけど。何せ、そんな方とは住む世界が違いすぎて、現実味がないし、お姿を見たと言っても遠目から二、三度が関の山。
そりゃあ、ハーコート筆頭だって、身分や地位の点から別世界の方だって言うのは分かっているんだけど、それでもはやってしまうシスター達の乙女心は、やっぱりあの、大教母様との一幕を目の当たりにしてしまったからだろう。
そんなこんなで、あたしにとっても、ハーコート筆頭と言うのは、現実的ではないからこそ存分に憧れられる、いわば絵に描いた餅、のような方だったのだ。
だから、突然、こんな風に目の前に現れてしまうと……
パニックに輪をかけたパニック。
あたしは、自分から呼び止めてしまった手前、早く何か言わなくてはいけないと思いつつも、興奮と緊張で言葉が出てこず、それでもはやってしまう気持ちに急かされて、もうどうしていいかわからなかった。
「……君は誰だ?」
もう一度、低いバリトンがあたしに問い掛ける。あたしは、呼吸困難に陥った魚のように、ぱくぱくと口だけ動かして、必死に声を出そうとして…
がしっ、と、両肩を掴まれた時は、本気で心臓が止まるかと思った。
「…落ち着け。呼吸を深くして、目をつぶりなさい」
「っは……はい……っ」
ぶんぶんと首を振って、あたしはぐっと両目を瞑った。緊張して喉が張り付くようだったけど、何度か深呼吸を繰り返すうちに、ようやくまともな言葉が浮かんでくる。
目を開ける直前に、あたしはもう一回強く瞼を閉じて、キッとハーコート筆頭を見上げた。
「とっ……突然お呼び止めいたしまして、申し訳ございません。わたくしは、ニサン正教に帰依しておりますシスター・キュラン・ヒューイットと申します」
「ニサン正教の?」
一瞬、ハーコート筆頭の深い碧玉の瞳が細められ、あたしの肩に置かれていた大きな手がゆっくりと引かれた。
あたしは頷いて、ハーコート筆頭の瞳を真っ直ぐ見つめる。もしも何でもない時に、この方にこんなに接近して、目を合わせたりなんかしたら、あたしは卒倒してしまうかもしれなかったけど、今は違う。はっきりと、あたしの脳裏には大教母様のお顔があった。
「はい。実は、明晩催されます大統領閣下主催の晩餐会へ出席される、大教母様の随行としてまいりました」
「……それで? 何があったのだ、シスター」
ハーコート筆頭は、余計な言葉は一切なく、あたしを正面から見据えた。その冷厳な表情に、一瞬あたしは怯みかけて、それからお腹に力を込める。あたしの淡い憧れなんて、こなごなに砕けてしまうほど、ハーコート筆頭に申し訳なくてたまらなかった。
「……申し訳ありません。わたくしのミスで、大教母様をお一人でブレイダブリクにお出ましさせてしまいました」
「……」
「先ほどよりお姿をお探し申し上げておりましたが、一向に見つからず…このようなことを、ハーコート筆頭にお願い申し上げるのは筋違いであることは、重々承知しておりますが、どうか大教母様の捜索に、お力添えを願えませんでしょうか」
言い終えたあたしが、深く頭を下げた時、頭上から低い呟きが聞こえてきた。
「……まったく、あの方ときたら………」
それが、諦め、と言うか、投げやり、と言うか、とにかく場違いなほど情けない声だったから、あたしは思わず顔を上げてしまう。
するとあたしの目の前には、こめかみを押さえて眉を寄せる、苦悩の大統領補佐官がいた。
「あの……」
思わず、あたしがお声をかけると、ハーコート筆頭は我に返ったようにその指をこめかみから外し、気を取り直したようにあたしに視線を合わせてきた。
「シスター。それで、大教母様の行くあてに、心当たりは?」
「えっ…いえ、それがその、シスターアグネスは『完全な私用』と仰っておいででしたが…」
「私用…か」
あたしの言葉に、ハーコート筆頭は何事か考える風に、その整った眉を寄せた。それからすぐに、あたしに視線を戻して問い掛ける。
「ではシスター、大教母様を見失ったのはどこで、それからどのくらいの時間が経った」
「はい、お姿を最後に確認したのは、ブレイダブリク中央区の、大広場より南に二つ目の通りで、わたくしたちが宿泊しております宿の裏手になります。わたくしがお探しいたしてより、かれこれ…30分は経過いたしました」
「解った。一緒に来たまえ、シスター…」
言いかけて、ハーコート筆頭がちらりとあたしの顔を見た。あたしは心得て、頷く。
「シスター・キュラン・ヒューイットです、ハーコート筆頭」
「では、シスターヒューイット。私はこれから街に駐屯している警邏機構に呼びかけて、大教母様の捜索を命じる。その際、本日の大教母様のお召し物等の特徴を公表したい。協力してくれ」
「はい、もちろんです、ハーコート筆頭!」
あたしはその時になって、ようやく晴れやかにハーコート筆頭へ微笑むことができた。
この方がいれば、大教母様は大丈夫。あたしの本能的な部分が、そう判断を下している。それは多分に、あの時の一幕に関係しているんだろうけど…結局、跳ねっ返りのシスターキュランさんも乙女、と言うことなのだ。
砂漠の大国アヴェの首都、ブレイダブリクは先の戦い以降、五つのブロックに分けられている。
東西南北区に加え、旧ファティマ王城を擁する中央ブロックは、それぞれ大きさが異なる上、各区の性質もだいぶ違う。
例を取れば、大統領が住まわれる大統領官邸を中心に広がる中央ブロックは、世界で最も復興が著しいと言われる街で、物流から治安に至るまで、ほぼ二年半前のそれと変わらない。それに継いで、南、西ブロックは、それぞれ市場や工業を盛んにする区画であり、人の流れもよどみがない。
けど、それに比べて北、東ブロックは、今なお混沌の爪痕深い、未開発の土地である。
人口分布の影響で、北ブロックなどはほとんど倒壊家屋に手がつけられていない状態で、うわさではウェルス化した人々が、瓦礫に隠れ住んでいる可能性もあるらしい。
もっとも、再三にわたる救護活動で、そう言った『難民』と呼ばれる者たちは、アヴェ、ひいてはニサンの庇護下に置かれるように、政策は進められているらしいけど…。
人ならぬ者に変じた心の傷は、時に明るい光を嫌う、と言う。
そして、奇跡的に倒壊を免れた区画を含む、東ブロック。こちらは単純に、昔ながらの家並みが現存するために、人口密度の高い復興現場にはそぐわないと言う理由で、人の流れは穏やかだ。
元々そこは、ブレイダブリク中心市街から適度に離れた住宅区だったために、新しい復興の息吹が届かない現状では、そうそう賑やかになることもない。保護区画以外の倒壊家屋も、そう言った流れから未だに復興の目途はたっていないとか。
あたしは、ハーコート筆頭の広い背中についていきながら、改めて『ニサンの人間』の目でブレイダブリクを観察していた。
何故あたしが、アヴェの国政、ひいては町民クラスの細かな生活形態を知るかと言えば、あたしの今の立場上…つまり、アヴェとの外交を司る修道会とニサン正教を繋ぐ機関に携わっているから。
宗教国家と言う呼称は、何もその元首が『大教母』と言う宗教を司る人間だからだけではない。文字通り、宗教に携わる者たちが、ニサンと言う国を運営しているのだ。
当然、辺境の一宗教のように、その宗派に準じた教義だけを守ればいい、と言う世界じゃない。『ニサン正教』とは、結局『ニサン王国』のようなもので、正教の教義に準ずるあたし達シスターは、いわば他の国で言うところのお役人、のような性質も兼ねているのだ。
だから、と言うわけではないけども、アヴェの治安を預かる警邏機構のブレイダブリク区画駐屯所に足を踏み入れた時、一糸乱れぬ、とはこういうものだと言わんばかりの勤勉さを見せる警邏たちの対応に、あたしはわずかにしり込みしてしまった。
情と教義で人をまとめるニサンとは、明らかに違う。アヴェの役人達は、ある種の誇りを持って国政の歯車になっているようだった。
平和な時には見られないような、その団結力の要となっているのは、地獄を味わった人々の連帯感もさる事ながら、やはり歳若い大統領の力量あってのことだろう。
「ご足労痛み入ります、ハーコート卿」
ブレイダブリク中央区画第一警邏隊分隊長、と言う肩書きの男性が、杓子定規のようなきびきびした動きで、ハーコート筆頭に腰を折った。ハーコート筆頭はそれに目顔で答え、ちらりと室内を見やる。
室内は、ハーコート筆頭がその身分を明かした時に慌てて通された、おそらく駐屯所最高の部屋。そこには分隊長以下、副隊長、情報局長と、軒並みそろっている。
ハーコート筆頭は、無駄を省いた声音でただ一言呟いた。
「人を探して欲しい。ブレイダブリク全区画の警邏に声をかけてくれ」
「了解しました」
答える声も、ためらいと言うものがない。それほどに、ハーコート筆頭に寄せられる信頼の大きさが伺えた。
「シスターヒューイット」
「は、はい」
唐突に名を呼ばれ、あたしは思わずどもりながら顔を上げた。ハーコート筆頭は、落ち着いた眼差しでこちらを見やり、情報局長の前にあたしを促す。
「探し人の特徴は、こちらのシスターに確認して欲しい」
「了解しました。ではシスター、早速ですがお尋ねの方の身体的、服装的特徴を教えて下さい」
言われて、あたしはちらりとハーコート筆頭を見やった。ハーコート筆頭は、無言で目配せを返してよこす。おそらくこれは…
「…はい。探していただきたいのは、わたくしと同じニサン正教に帰依するシスターです」
ここで大教母様の失踪を明らかにする意志があるなら、ハーコート筆頭は端からそうしていたに違いない。あたしがわざと真相をぼかした言葉を選ぶと、目の端でハーコート筆頭が軽く頷いたのが見えた。
「歳は18歳、身長は159センチ程度、茶褐色の髪を束ねずに流して、両頬にかかる房をあごの線で切り揃えています。瞳の色は青、肌の色がとても白いので、ブレイダブリクでは目立つかもしれません。ですが、本日はアヴェの民族衣装を着ております。新緑の布地に金糸の刺繍がある、ゆったりとしたワンピースのかさねに、純白のレースのケープを羽織っておりました」
あたしはそこまで一気に言って、ようやく一つ息を吸った。情報局長は少々面食らっていたようだったけど、すぐにきびきび頷いてハーコート筆頭を振り仰ぐ。
「全警邏を動員して捜索に当たりますが、その他お心当たりのほどは」
「……そうだな、繁華街…それも、若い男性向けの衣装や小物を扱う露天通りを中心に捜索してくれ。可能性としては、中央か、南か…ことによれば、東」
「東?」
ハーコート筆頭の言葉に、あたしはおろか、情報局長までもが眉を上げた。
「しかしハーコート卿、東区画はご存知の通り、保護区画を有する閑静な場所ですので、繁華街とは…」
「いや……前に一度、彼女が訪れた場所を上げてみたまでだ。私も、そちらの可能性はあまり考えていないが…とにかく、早急に捜索にあたってくれ」
「解りました……。しかしハーコート卿、我々が探し当てた人物が、本当にハーコート卿のおっしゃる方であるか確認するための情報をいただきたいのですが…その方のお名前ですとか」
情報局長の言葉に、ハーコート筆頭はしばし沈黙し、それから涼しげな声でこう答えた。
「その場合は、『若に知れたら、事ですよ』と、『シグルド』が言っていたと伝えてくれればいい。それに反応した者こそが、探し人だ」
すべての情報は、中央区画第一警邏隊駐屯所に集めるよう指示を出してから、あたしはハーコート筆頭と一緒に駐屯所を後にした。
本当は、何かあった際の連絡員としてここに残るように、ハーコート筆頭はおっしゃったんだけど、あたしは頑として聞き入れなかった。
「ここで、ただじっと待っているのは嫌です。それに、大教母様の服装的特徴を正確に知っているのはわたくしです。どうか、捜索にお加えください」
生意気なあたしの言葉に、けれどハーコート筆頭はお叱りの言葉もなく、ただ困った風に嘆息をつかれただけで、結局同行を許して下さった。
それでこうして、ブレイダブリクの町並みを、ハーコート筆頭と歩いているわけだけど……
もしもこれを、ハーコート筆頭独占禁止の暗黙の協定を結んだ仲間のシスターに見られたら、怨まれるどころの騒ぎじゃない。下手したら、あたしの最上の楽しみである、『マルグレーテ・ファティマ様とのひととき』すら剥奪されかねない、大罪なのだ。
でも…やっぱり、こんな時でもない限り、あたしがじっくりハーコート筆頭を観察できる機会なんて、ないわけで。
その左斜め後ろを歩きながら、あたしはちらりと視線を流した。
何と言ってもまず目がいくのは、くすみのない綺麗な銀髪。そして、アヴェ特有の褐色の肌に、さらに深みを加えたような、独特の肌の色。この鮮やかなコントラストに、さっきから道を歩いている人…特に女性の視線が、集中しまくっている。
それに加えて、周囲より頭一つ分飛びぬけた長身。無駄のない筋肉に覆われた、バランスのいい肢体。そして極めつけは、甘さと渋さに理知的のトッピングをまぶした、端正な美貌。
総合的に見て、十人が十人とも『いい男』と判断するような、そんな方である。
更に加えて、先の戦いで人類を救った『英雄』のお一人であり、その上現アヴェ国大統領筆頭補佐官と言う、まばゆいばかりの肩書きを持っていて。
何だかあたしは、ハーコート筆頭の傍らを歩きながら、そんな事をどんどん考えているうちに、ひどく冷静になってしまった。
その美貌に慣れたわけでも、優雅な立ち居振舞いに目を奪われなくなったわけでもないけど、結局この方は『別次元』の方、って、考えれば考えるほど、妙に納得してしまって。
だから、あたしの前を行くハーコート筆頭の足取りが、心なしか気忙しくなっているって事に気づいたのは、冷静な『シスター』の観察眼を取り戻したからなのだ。
思えば、さっきから一言も口を開かれない。警邏駐屯所での、堂々とした落ち着きが、どことなく薄れてきているように、その背中を見ると思える。
第一、あたしだから良かったようなものの、こんな風に足早にブレイダブリクの街を歩いていては、他のシスターだったら完全に音を上げていただろう。紳士的で通っているハーコート筆頭にしては、どこか変。
あたしはそんなことを思いながら、ものすごい勢いで往来を歩くハーコート筆頭の隣で、不意に思いついた言葉を呟いた。
「…そう言えば、ハーコート筆頭は何故、大教母様が若い男性向けの品を扱ったお店にいらっしゃると思われたのですか?」
あたしの問いかけに、ハーコート筆頭はその時初めてあたしの存在を思い出したかのように、唐突に足を止められた。慣性の法則に則って、あたしは数歩、行き過ぎてしまう。
驚いたあたしが振り返ると、ハーコート筆頭は苦り切った表情であたしを見た。
「…すまない。シスターと同道しているということを、失念していた」
「いえ、それは結構です。わたくしとしても、大教母様の安否が気がかりで、とてもお淑やかになんて歩けませんから」
言ってしまってから、はがれかけた化けの皮に気づいて、あたしは一人で青くなった。けれどハーコート筆頭は、そんなあたしに穏やかな苦笑を見せてくれる。この方のこんな表情を、まさかこの身に受けられるとは夢にも思っていなかったあたしは、瞬間絶句してしまった。
「そうだな。一刻も早く、大教母様をお探ししなくては」
「あ…ええ、そうなんですけど…その、どうして筆頭は、大教母様の行くあてにお心当たりがおありだったのでしょうか?」
気を取り直したあたしが再び問い掛けると、さっきとは比べ物にならないほど歩調を緩めてくれたハーコート筆頭が、わずかに考える時間を置いてから口を開いた。
「シスターアグネスは、大教母様は『私的な用件』でブレイダブリクの街に行かれると言ったのだろう」
「はい」
「では聞くが、大教母様の『私的な用件』とは、一体なんだと思う?」
「え?」
突然聞かれて、あたしはぎょっとした風に目を丸くした。
大教母様の私的な用件? ……そう言えば、シスターアグネスに言われた時は、深く考えずに頷いてしまったけど、…あの大教母様をして、私的なご用件?
大教母様は、生活の全てをニサン正教と一緒に歩まれている。一日中、それこそ何をするにつけても、ニサンと共にあるあの方は、ご自身の私欲や我欲で何かを求めたためしがない。
それはもちろん、大教母様だってお年頃の女の子なんだから、欲しいものの一つや二つ、あると思う。けど、わざわざ隣国アヴェに来て、護衛達の目を誤魔化してまで、あの方が自分のために動くなんて事、ありえるだろうか。
そんなことを考えて、あたしが首を捻っている傍らで、落ち着いたバリトンが柔らかく響いた。
「あの方に関して、『私的な用件』とは、たった一つしかありえないのだよ」
「たった一つ?」
きょとんとしたあたしが問い返すと、ハーコート筆頭は微笑するだけで、何もお答えにはならなかった。けどその美しい隻眼が、大教母様の『私的な用件』について、とても優しく、穏やかなものを浮かべているような気がして、あたしは少しだけ不思議に思った。
そう言えば、ハーコート筆頭と大教母様って、どんなご関係なんだろう。
ハーコート筆頭は、大教母様の従兄弟君である、アヴェ王朝最後の王太子…現アヴェ国大統領閣下の、筆頭補佐官。年に数回のニサン訪問でも、大教母様は格別のご配慮を持って、ハーコート筆頭をご歓待されていたけど、このお二人の間には、血のつながりにも似た親密さがあるような気がしてならない。
もしかして、恋人…?
不意に、そんな考えが頭を過ぎったけど、すぐに打ち消された。だって、どう見たってこのハーコート筆頭の表情は、恋する女性へ向けたそれじゃなく、どちらかといえば妹、もしくは娘に対する、無償の愛情のようなものが伺える。
それに、お二人の年齢差も考慮すれば、『恋人』というのはちょっと突飛かしら。
では、一体どんなご関係なんだろう? ニサン正教の上層部や、古参シスター達だったら、お二人のご関係を詳しく知っているだろうけど、今までそんな事を気にする機会もなかったし。
そんなことをあたしが考えている傍らで、ハーコート筆頭は再び歩き始めた。あたしは半ば自分の考えに囚われながら、無意識にその後をついていったんだけど、しばらく歩いた頃ようやく周囲の様子に気づいて、はっとする。
「ハーコート筆頭、この道の先は、東ブロックですが…」
言わずもがなの事実を言うあたしに、ハーコート筆頭は振り返らずに答えられた。
「以前、視察でこちらを訪れた折りの大教母様のご様子が、記憶に残っているのだ…身寄りのない老婆が、息子夫婦の営んでいた雑貨屋を建て直すのだと懸命だったことに、大教母様はとてもお心を砕かれてね。もし、それを今でも覚えていらしたら…」
ハーコート筆頭の背中で、あたしは何故か確信していた。
『もし、覚えていたら』ですって? そんな事、絶対に覚えているに決まってる。あたし達の大教母様は、人の痛みや懸命な努力を、絶対にお忘れにはならない方なんだから。
『ニサンのシスター』として『ニサンの大教母様』に絶対の信頼を寄せるあたしが、それを言おうと口を開きかけた時、ハーコート筆頭の広い背中が辻を曲がった。
それを追ったあたしの視界に、懐かしい、アヴェの風景が広がる。
「……!」
瞬間、あたしは絶句していた。
古い軒下に咲く、純白の花…名前は確か、チュレイン? アヴェの乾いた土に根づく、小さくて強いこの花で、子供のころよく花冠を作ったっけ。
古びた煉瓦の家の煙突に、鳥の巣のなごりがある。雛達は無事巣立ったのかどうか、だいぶくたびれてしまっていたけれど、もしかして来年も、この巣に戻る子がいるかもしれない。
灼熱の太陽光線を緩やかにしてくれる、長く連なる純白の土塀は、長い年月ですっかり色褪せていた。大人の目には留まりにくい低い位置では、子供たちの落書きを受けて、賑やかな黒板になっている。
こんな、懐かしい風景を、また見ることができるなんて。
感動と驚きで固まってしまったあたしを振り返り、ハーコート筆頭はちょっと不思議そうな顔を見せた。
「…君は、アヴェの出身か?」
「は…はい! あ、でもブレイダブリクの出身ってわけじゃないですけどっ、あの、ちょっと田舎なんですけど、マチカって言う街で生まれました。十歳くらいまでそこで育って、ニサンに来たんですっ」
あたしは一生懸命早口になって、きょろきょろと視線を動かした。そうでもしないと、何だか大声で泣きたいような気持ちだったのだ。
ここは、夢にまで見た故郷の香りがする。ニサンが嫌いだったわけじゃない…ニサンも、あたしの第二の故郷。でも、アヴェは…灼熱の砂漠と骨色の月に見守られたこの土地は、いつかあたしが帰るべき、最初で最後の大地なのだ。
そんなあたしの様子に、おそらく気づかないふりをしてくれているハーコート筆頭は、何気ない口調でこう呟いた。
「ほう…マチカか。私の部下にも、同郷の者がいるな」
「え?」
思いがけない言葉に、あたしがはっとして顔を上げた瞬間、一本路地を挟んだ向こうから、小さな悲鳴が聞こえてきた。
「きゃあっ!」
「!?」
その高い声に、あたしとハーコート筆頭ははっとする。
間違えようもない! この声は…
「大教母様?!」
あたしの高い叫びと同時に、ハーコート筆頭が俊敏に身を翻した。もちろん、あたしもそれに倣って走り出す。大教母様の尾行用に、シスター服じゃなくて目立たないパンツルックになっていたことが、改めてありがたい。
古い辻を抜けると、ちょうど背高の家屋の陰になるような細い路地の向こうに、大教母様の姿と、黒っぽい男の姿が映った。二人は、何かもみあっているような…違う、大教母様のバックが!
通りを抜けるまで、かなり距離がある。あたしとハーコート筆頭が全力でそちらに向かおうとした瞬間、大教母様に対して手を振り上げた男に、何かが突進していくのが見えた。
瞬間、男と…あれは、少年? 細身の男の子が、ずんぐりとした男と重なるように倒れて、必死にその腕を取りながら叫ぶ。
「逃げて、マルー!」
その瞬間、細い彼の身体が男の腕の一振りで、土塀に跳ね飛ばされた。
後頭部をモロに打ちつけた少年が、そのままずるずるとくずおれる。大教母様は何か叫びながら、少年に駆け寄ろうとして…
大教母様を追って、男の手が伸びた瞬間、良く通るバリトンが響いた。
「マルー様!」
その声に、一瞬男が怯んだ。大教母様はぱっとこちらを振り返って、大きな瞳を真ん丸に開く。
それにつられるように、男がこちらを向いた。あたしは男の数メートル先で、思いっきり地面を蹴る。
逃げる暇なんて、与えない! ぎょっとした顔を見せた男の顔面に、あたしの渾身の飛び蹴りがめり込んだ。
「ぐ…ぁ……」
鈍い叫びと一緒に、男の体が地面に沈む。あたしは軽やかに身を翻して、難なく地面に着地した。はっきり言って、こんな芸当は朝飯前。
でも今は、絶妙な蹴りの角度や、空中での体勢の建て直しを自画自賛している暇はなくって。あたしはぐりんっと顔を背けて、呆然としている大教母様のお名前を叫んだ。
「大教母様!」
その瞬間、大教母様の傍らでぐったりしていた男の子が、一瞬口をぱかっと開けたような気がしたけど…
「キュ…キュラン……それに、シグ?…」
驚きに満ちた大教母様のお声は、ひっくり返ったように震えていた。あたしの目前で、ハーコート筆頭が素早く膝を折る。
「マルー様、お怪我はございませんか」
「あ…ぼ、ボクは平気! でも、ミシェルがっ」
「ミシェル?」
大教母様の答えに、ハーコート筆頭と、そしてあたしの声が重なった。
ミシェル……ミシェル?
聞き覚えのありすぎるその名前に、でもまさかね、と首を振る。振った視線の先には、鼻血を出して倒れている男の子がいた。
……ちょっと。ちょっとちょっとちょっと…!
俯き加減だし、目を閉じていたし、顔の下半分は血に染まっていたし、とにかくはっきりしたことは解らないけど……もしかして、もしかすると、この顔ってば?!
あたしが愕然としているその傍らで、今度はハーコート筆頭が驚いたような声を上げた。
「ミシェル…ミシェルじゃないか! 何故、マルー様がミシェルと共に?」
「え?」
その言葉に、大教母様が驚いたような顔を見せる。あたしは一瞬、先ほどハーコート筆頭が何の気なしに呟かれた言葉を、鮮やかに思い出した。
『私の部下にも、同郷の者がいる』
同郷…マチカなんて小さな田舎町で、知らない人間なんていない。そしてあたしの知る限り、後にも先にも『ミシェル』という名前は、一人しか心当たりがない。
そのあたしの心中を裏付けるように、ハーコート筆頭はミシェル少年の傍らに膝を折ってこう言った。
「この者は、一年ほど前大統領補佐官として私の下についた、ミシェル・シナモンです」
「大統領……補佐官?」
大教母様が呆然と呟くその傍らで、あたしも同じく、唖然とミシェルを見つめた。
……ミシェル……シナモン…って。
あの、泣き虫ミシェル?!
よくよく見れば、幼い頃の面影を残す華奢な少年は、ぐったりとしたまま動かない。その彼の容体を確認していたハーコート筆頭が、放心しているあたしを振り仰いだ。
「とにかく、シスターは大教母様をお連れして、一旦宿へ戻りなさい。君たちがいないことに気づいた僧兵が、騒ぎ立てるといけない」
「でも、シグ!」
ハーコート筆頭の言葉に、ミシェルの傍らで彼の腕を掴んでいた大教母様が、悲痛な表情で叫ぶ。
「ミシェルがこんなんなっちゃったのは、全部ボクのせいだよ! ミシェルが目を覚ますまで、一緒にいたい!」
「いけません、マルー様。ミシェルは私が責任もって預かり、大統領官邸へ連れてまいりますから」
「でも!」
食い下がる大教母様に、ハーコート筆頭はじっとその隻眼を合わせた。そして、普段よりも一層低い、染み入るようなバリトンで囁く。
「…では、マルー様は、このままミシェルについて大統領官邸へ赴き…事の全てを、若にお伝えするお覚悟ですか?」
「!」
その瞬間、大教母様が弾かれたように息を呑む。大きく見開かれた碧玉の瞳が、不安そうに揺れていた。
「……せっかく一年ぶりにお会いするのです、できれば喧嘩などしたくないでしょう」
「…でも……っ」
「それでもミシェルが心配ならば、後程正式に大統領官邸入りした後、私が内密にお引き合わせいたします。その時、お礼なり謝罪なりなさりなさい。いいですね、マルー様」
最後は、噛んで含めるような言い方で、ハーコート筆頭は大教母様にそう言うと、不意に思い出したように、気絶している男の方へ歩み寄った。そしてそのまま、腰に提げられていた漆黒の鞭で男の身体を縛り上げて、手近な木の塀にきつく繋ぎ止める。
「すぐに、警邏を派遣します」
簡潔にそう呟いて、ハーコート筆頭はミシェルの華奢な身体を抱き上げると、優しい眼差しを俯いていた大教母様に向けた。
「…こうなると、逆にミシェルがマルー様のお側にいて、正解でしたね」
その言葉に、大教母様はわずかに傷ついたようなお顔を見せた。それからバックの口を開け、中から純白のハンカチを取り出すと、血にまみれたミシェルの顔をそれでそっと拭き取られる。
「…マルー様」
「…このハンカチ、ミシェルに貸してあげるから…だから……」
「……解りました」
俯いた大教母様に、ハーコート筆頭はそれこそ、蕩けるほど優しく微笑みかけられて、そのまま路地を後にする。
その後ろ姿を見送りながら、あたしは大教母様にかける言葉と、今し方出会った古い幼なじみとのことを考えて、しばらく呆然としていた。
まったく……こんなところで、まさかミシェルに出会うなんて…
あたしは、アヴェの古い町並みを見つけた時に感じたような、強い郷愁とくすぐったいような喜びを感じて、そのまま吐息を吐いた。
一つ目は、どんなに眠くても、どんなに機嫌が悪くても、早朝礼拝におけるシスターアンカラットの調子っ外れな讃美歌を、囃し立てても笑ってもいけない、と言うこと。
何故なら、シスターアンカラットは、音感と言うものをお母さんのお腹の中においてきてしまったこと以外は、非の打ち所の無い、とても善良なシスターだから。
二つ目は、大教母様がお疲れのご様子の時は、前もって示し合わずとも、素知らぬふりで礼拝の時間を短くしてしまうこと。
もっともこれは、あたし達新参シスターのやりようを、古参シスターも知っていて黙認しているところがある。もしかしたら、大教母様自身も、わかっていてあたし達の気持ちを汲んで下さっているのかもしれない。
そして、三つ目。実は、これが一番重要で。
隣大国アヴェの大統領筆頭補佐官であり、ニサン正教上層部との外交的スポークスマンとしてニサンに訪れる、シグルド・ハーコート卿に関する情報の独占を、禁ずること。
と言っても、卿はもちろんお忙しい方だから、いくら友好国ニサンだからと言って、そうたびたびお越しになったわけではない。あたしがシスター見習いとして正教に帰依した頃から数えても、訪問は両手に満たない数だろう。
でも、けど、それをして。あまねくニサン正教のシスター達の、羨望の的になってしまったのは、何もその、理知的で渋味のあるダンディーな美貌のせいだけじゃない。
あれは、確か二年近く前。あたしがシスター見習いとして、シスターガヴァネスについていた頃だから、ちょうどソフィア様の再来と謳われた方が、ニサンを出られたか、出られないかの頃。
その頃は、ニサン国内の建て直しもまだ軌道に乗っておらず、大教母様はそれこそ、今以上に多忙な日々を過ごされていた。もしかしらた、ペーペーのシスター見習いだったあたしなんかよりもずっと多く、雑事に携わっていらしたのかもしれない。
国内外から集う、ニサン正教の庇護を求める人たちへ、本当の意味で陰日なたなく、手を差し伸べ続けた大教母様。でもそんな激務の日々に、弱冠十六歳のあの方の、精神力はともかく、体力が持つわけがなかった。
だけど、誰がどんなにご注進しても、大教母様は休まれようとはしなかった。今こうしている間にも、聖堂の外には飢えや寒さや恐怖や絶望に涙を流す、たくさんの人たちがいる。それを知っていて、できることがあって、じっとしているなんてできない、と。
そう言って、一人黙々と働き続けた大教母様。そんな大教母様を、無理にお止めすることもできなくて、あたし達シスターはずいぶん歯がゆい思いをしたものだった。
そして、あの時…ニサンに来訪されたハーコート筆頭のお顔を見た途端に、まるで細い糸が切れるように、ふっと意識を失われた大教母様は、多分、本当に限界まできていたんだろう。いずれそうなることを知っていて、それでもあの方をお止めできなかったことに、あたし達は情けない思いに駆られた。
けど…そう。そんなあたし達の自責の念を、いい意味で忘れさせてくれたのが、ハーコート筆頭と大教母様の一幕、だったのだ。
たくさんのシスターがそろっていた、礼拝の時間だった。シスターアグネスの先導で、アヴェより来訪されたハーコート筆頭が、教義を終えた大教母様に、ご挨拶されようと近づいた時。大教母様のお体が、中央の祭壇より崩れるように倒れ掛かってきた。
シスター達の悲鳴が上がり、一番後ろの席だったにもかかわらず、あたしが思わず駆け出そうとした瞬間、ハーコート筆頭の二つの腕が、まるですべて解っていた、とでも言いたげに、難なく大教母様のお体を抱き留めたのだ。
一同の息を呑む音と、大教母様の僧衣が擦れる衣擦れの音だけが、聖堂の中に響いた。ハーコート筆頭は大教母様のお体を、まるで宝物を扱うかのように優しく抱き上げて、そのお顔の色にそっと眉根を寄せてから、微動だにできずにいたあたし達シスターに向かって、染み入るようなバリトンでこう言ったのだ。
『……続けて』
その瞬間、まずシスターアグネスが我に返り、パンパン、とふたつお手を打って、通例の讃美歌を始めるように、指示を出した。パイプオルガンの前で呆然と突っ立っていたシスターに目配せし、何だかきつねにつままれたような雰囲気のあたし達が見守る中、ハーコート筆頭は大教母様を抱いて、聖堂を後にした。
すぐに、シスターアグネスもその後を追って。あたし達は、互いに興奮しているであろう胸のうちを必死に押さえながら、いつにもまして調子っぱずれなシスターアンカラットの先導に続いて、か弱い讃美歌を歌い続けたのだ。
それから、あたし達シスターの間で、俄然『ハーコート筆頭びいき』が始まったのは、言うまでもない。
もちろん、教義を重んじ俗世と絶たれた、敬虔なるシスターのあたし達だから、そう大っぴらにきゃいのきゃいのと騒ぐわけじゃなかったけど。
それでも、年に数回あるかなしかのアヴェ国大統領の訪問の際は、普段抑圧されてきたあたし達の乙女心は、踊りに踊ったものである。
もちろん、弱冠十八歳の若さでアヴェの大統領として就任された、ファティマ王朝の最後の王太子にも、多分に憧れはあったけど。何せ、そんな方とは住む世界が違いすぎて、現実味がないし、お姿を見たと言っても遠目から二、三度が関の山。
そりゃあ、ハーコート筆頭だって、身分や地位の点から別世界の方だって言うのは分かっているんだけど、それでもはやってしまうシスター達の乙女心は、やっぱりあの、大教母様との一幕を目の当たりにしてしまったからだろう。
そんなこんなで、あたしにとっても、ハーコート筆頭と言うのは、現実的ではないからこそ存分に憧れられる、いわば絵に描いた餅、のような方だったのだ。
だから、突然、こんな風に目の前に現れてしまうと……
パニックに輪をかけたパニック。
あたしは、自分から呼び止めてしまった手前、早く何か言わなくてはいけないと思いつつも、興奮と緊張で言葉が出てこず、それでもはやってしまう気持ちに急かされて、もうどうしていいかわからなかった。
「……君は誰だ?」
もう一度、低いバリトンがあたしに問い掛ける。あたしは、呼吸困難に陥った魚のように、ぱくぱくと口だけ動かして、必死に声を出そうとして…
がしっ、と、両肩を掴まれた時は、本気で心臓が止まるかと思った。
「…落ち着け。呼吸を深くして、目をつぶりなさい」
「っは……はい……っ」
ぶんぶんと首を振って、あたしはぐっと両目を瞑った。緊張して喉が張り付くようだったけど、何度か深呼吸を繰り返すうちに、ようやくまともな言葉が浮かんでくる。
目を開ける直前に、あたしはもう一回強く瞼を閉じて、キッとハーコート筆頭を見上げた。
「とっ……突然お呼び止めいたしまして、申し訳ございません。わたくしは、ニサン正教に帰依しておりますシスター・キュラン・ヒューイットと申します」
「ニサン正教の?」
一瞬、ハーコート筆頭の深い碧玉の瞳が細められ、あたしの肩に置かれていた大きな手がゆっくりと引かれた。
あたしは頷いて、ハーコート筆頭の瞳を真っ直ぐ見つめる。もしも何でもない時に、この方にこんなに接近して、目を合わせたりなんかしたら、あたしは卒倒してしまうかもしれなかったけど、今は違う。はっきりと、あたしの脳裏には大教母様のお顔があった。
「はい。実は、明晩催されます大統領閣下主催の晩餐会へ出席される、大教母様の随行としてまいりました」
「……それで? 何があったのだ、シスター」
ハーコート筆頭は、余計な言葉は一切なく、あたしを正面から見据えた。その冷厳な表情に、一瞬あたしは怯みかけて、それからお腹に力を込める。あたしの淡い憧れなんて、こなごなに砕けてしまうほど、ハーコート筆頭に申し訳なくてたまらなかった。
「……申し訳ありません。わたくしのミスで、大教母様をお一人でブレイダブリクにお出ましさせてしまいました」
「……」
「先ほどよりお姿をお探し申し上げておりましたが、一向に見つからず…このようなことを、ハーコート筆頭にお願い申し上げるのは筋違いであることは、重々承知しておりますが、どうか大教母様の捜索に、お力添えを願えませんでしょうか」
言い終えたあたしが、深く頭を下げた時、頭上から低い呟きが聞こえてきた。
「……まったく、あの方ときたら………」
それが、諦め、と言うか、投げやり、と言うか、とにかく場違いなほど情けない声だったから、あたしは思わず顔を上げてしまう。
するとあたしの目の前には、こめかみを押さえて眉を寄せる、苦悩の大統領補佐官がいた。
「あの……」
思わず、あたしがお声をかけると、ハーコート筆頭は我に返ったようにその指をこめかみから外し、気を取り直したようにあたしに視線を合わせてきた。
「シスター。それで、大教母様の行くあてに、心当たりは?」
「えっ…いえ、それがその、シスターアグネスは『完全な私用』と仰っておいででしたが…」
「私用…か」
あたしの言葉に、ハーコート筆頭は何事か考える風に、その整った眉を寄せた。それからすぐに、あたしに視線を戻して問い掛ける。
「ではシスター、大教母様を見失ったのはどこで、それからどのくらいの時間が経った」
「はい、お姿を最後に確認したのは、ブレイダブリク中央区の、大広場より南に二つ目の通りで、わたくしたちが宿泊しております宿の裏手になります。わたくしがお探しいたしてより、かれこれ…30分は経過いたしました」
「解った。一緒に来たまえ、シスター…」
言いかけて、ハーコート筆頭がちらりとあたしの顔を見た。あたしは心得て、頷く。
「シスター・キュラン・ヒューイットです、ハーコート筆頭」
「では、シスターヒューイット。私はこれから街に駐屯している警邏機構に呼びかけて、大教母様の捜索を命じる。その際、本日の大教母様のお召し物等の特徴を公表したい。協力してくれ」
「はい、もちろんです、ハーコート筆頭!」
あたしはその時になって、ようやく晴れやかにハーコート筆頭へ微笑むことができた。
この方がいれば、大教母様は大丈夫。あたしの本能的な部分が、そう判断を下している。それは多分に、あの時の一幕に関係しているんだろうけど…結局、跳ねっ返りのシスターキュランさんも乙女、と言うことなのだ。
砂漠の大国アヴェの首都、ブレイダブリクは先の戦い以降、五つのブロックに分けられている。
東西南北区に加え、旧ファティマ王城を擁する中央ブロックは、それぞれ大きさが異なる上、各区の性質もだいぶ違う。
例を取れば、大統領が住まわれる大統領官邸を中心に広がる中央ブロックは、世界で最も復興が著しいと言われる街で、物流から治安に至るまで、ほぼ二年半前のそれと変わらない。それに継いで、南、西ブロックは、それぞれ市場や工業を盛んにする区画であり、人の流れもよどみがない。
けど、それに比べて北、東ブロックは、今なお混沌の爪痕深い、未開発の土地である。
人口分布の影響で、北ブロックなどはほとんど倒壊家屋に手がつけられていない状態で、うわさではウェルス化した人々が、瓦礫に隠れ住んでいる可能性もあるらしい。
もっとも、再三にわたる救護活動で、そう言った『難民』と呼ばれる者たちは、アヴェ、ひいてはニサンの庇護下に置かれるように、政策は進められているらしいけど…。
人ならぬ者に変じた心の傷は、時に明るい光を嫌う、と言う。
そして、奇跡的に倒壊を免れた区画を含む、東ブロック。こちらは単純に、昔ながらの家並みが現存するために、人口密度の高い復興現場にはそぐわないと言う理由で、人の流れは穏やかだ。
元々そこは、ブレイダブリク中心市街から適度に離れた住宅区だったために、新しい復興の息吹が届かない現状では、そうそう賑やかになることもない。保護区画以外の倒壊家屋も、そう言った流れから未だに復興の目途はたっていないとか。
あたしは、ハーコート筆頭の広い背中についていきながら、改めて『ニサンの人間』の目でブレイダブリクを観察していた。
何故あたしが、アヴェの国政、ひいては町民クラスの細かな生活形態を知るかと言えば、あたしの今の立場上…つまり、アヴェとの外交を司る修道会とニサン正教を繋ぐ機関に携わっているから。
宗教国家と言う呼称は、何もその元首が『大教母』と言う宗教を司る人間だからだけではない。文字通り、宗教に携わる者たちが、ニサンと言う国を運営しているのだ。
当然、辺境の一宗教のように、その宗派に準じた教義だけを守ればいい、と言う世界じゃない。『ニサン正教』とは、結局『ニサン王国』のようなもので、正教の教義に準ずるあたし達シスターは、いわば他の国で言うところのお役人、のような性質も兼ねているのだ。
だから、と言うわけではないけども、アヴェの治安を預かる警邏機構のブレイダブリク区画駐屯所に足を踏み入れた時、一糸乱れぬ、とはこういうものだと言わんばかりの勤勉さを見せる警邏たちの対応に、あたしはわずかにしり込みしてしまった。
情と教義で人をまとめるニサンとは、明らかに違う。アヴェの役人達は、ある種の誇りを持って国政の歯車になっているようだった。
平和な時には見られないような、その団結力の要となっているのは、地獄を味わった人々の連帯感もさる事ながら、やはり歳若い大統領の力量あってのことだろう。
「ご足労痛み入ります、ハーコート卿」
ブレイダブリク中央区画第一警邏隊分隊長、と言う肩書きの男性が、杓子定規のようなきびきびした動きで、ハーコート筆頭に腰を折った。ハーコート筆頭はそれに目顔で答え、ちらりと室内を見やる。
室内は、ハーコート筆頭がその身分を明かした時に慌てて通された、おそらく駐屯所最高の部屋。そこには分隊長以下、副隊長、情報局長と、軒並みそろっている。
ハーコート筆頭は、無駄を省いた声音でただ一言呟いた。
「人を探して欲しい。ブレイダブリク全区画の警邏に声をかけてくれ」
「了解しました」
答える声も、ためらいと言うものがない。それほどに、ハーコート筆頭に寄せられる信頼の大きさが伺えた。
「シスターヒューイット」
「は、はい」
唐突に名を呼ばれ、あたしは思わずどもりながら顔を上げた。ハーコート筆頭は、落ち着いた眼差しでこちらを見やり、情報局長の前にあたしを促す。
「探し人の特徴は、こちらのシスターに確認して欲しい」
「了解しました。ではシスター、早速ですがお尋ねの方の身体的、服装的特徴を教えて下さい」
言われて、あたしはちらりとハーコート筆頭を見やった。ハーコート筆頭は、無言で目配せを返してよこす。おそらくこれは…
「…はい。探していただきたいのは、わたくしと同じニサン正教に帰依するシスターです」
ここで大教母様の失踪を明らかにする意志があるなら、ハーコート筆頭は端からそうしていたに違いない。あたしがわざと真相をぼかした言葉を選ぶと、目の端でハーコート筆頭が軽く頷いたのが見えた。
「歳は18歳、身長は159センチ程度、茶褐色の髪を束ねずに流して、両頬にかかる房をあごの線で切り揃えています。瞳の色は青、肌の色がとても白いので、ブレイダブリクでは目立つかもしれません。ですが、本日はアヴェの民族衣装を着ております。新緑の布地に金糸の刺繍がある、ゆったりとしたワンピースのかさねに、純白のレースのケープを羽織っておりました」
あたしはそこまで一気に言って、ようやく一つ息を吸った。情報局長は少々面食らっていたようだったけど、すぐにきびきび頷いてハーコート筆頭を振り仰ぐ。
「全警邏を動員して捜索に当たりますが、その他お心当たりのほどは」
「……そうだな、繁華街…それも、若い男性向けの衣装や小物を扱う露天通りを中心に捜索してくれ。可能性としては、中央か、南か…ことによれば、東」
「東?」
ハーコート筆頭の言葉に、あたしはおろか、情報局長までもが眉を上げた。
「しかしハーコート卿、東区画はご存知の通り、保護区画を有する閑静な場所ですので、繁華街とは…」
「いや……前に一度、彼女が訪れた場所を上げてみたまでだ。私も、そちらの可能性はあまり考えていないが…とにかく、早急に捜索にあたってくれ」
「解りました……。しかしハーコート卿、我々が探し当てた人物が、本当にハーコート卿のおっしゃる方であるか確認するための情報をいただきたいのですが…その方のお名前ですとか」
情報局長の言葉に、ハーコート筆頭はしばし沈黙し、それから涼しげな声でこう答えた。
「その場合は、『若に知れたら、事ですよ』と、『シグルド』が言っていたと伝えてくれればいい。それに反応した者こそが、探し人だ」
すべての情報は、中央区画第一警邏隊駐屯所に集めるよう指示を出してから、あたしはハーコート筆頭と一緒に駐屯所を後にした。
本当は、何かあった際の連絡員としてここに残るように、ハーコート筆頭はおっしゃったんだけど、あたしは頑として聞き入れなかった。
「ここで、ただじっと待っているのは嫌です。それに、大教母様の服装的特徴を正確に知っているのはわたくしです。どうか、捜索にお加えください」
生意気なあたしの言葉に、けれどハーコート筆頭はお叱りの言葉もなく、ただ困った風に嘆息をつかれただけで、結局同行を許して下さった。
それでこうして、ブレイダブリクの町並みを、ハーコート筆頭と歩いているわけだけど……
もしもこれを、ハーコート筆頭独占禁止の暗黙の協定を結んだ仲間のシスターに見られたら、怨まれるどころの騒ぎじゃない。下手したら、あたしの最上の楽しみである、『マルグレーテ・ファティマ様とのひととき』すら剥奪されかねない、大罪なのだ。
でも…やっぱり、こんな時でもない限り、あたしがじっくりハーコート筆頭を観察できる機会なんて、ないわけで。
その左斜め後ろを歩きながら、あたしはちらりと視線を流した。
何と言ってもまず目がいくのは、くすみのない綺麗な銀髪。そして、アヴェ特有の褐色の肌に、さらに深みを加えたような、独特の肌の色。この鮮やかなコントラストに、さっきから道を歩いている人…特に女性の視線が、集中しまくっている。
それに加えて、周囲より頭一つ分飛びぬけた長身。無駄のない筋肉に覆われた、バランスのいい肢体。そして極めつけは、甘さと渋さに理知的のトッピングをまぶした、端正な美貌。
総合的に見て、十人が十人とも『いい男』と判断するような、そんな方である。
更に加えて、先の戦いで人類を救った『英雄』のお一人であり、その上現アヴェ国大統領筆頭補佐官と言う、まばゆいばかりの肩書きを持っていて。
何だかあたしは、ハーコート筆頭の傍らを歩きながら、そんな事をどんどん考えているうちに、ひどく冷静になってしまった。
その美貌に慣れたわけでも、優雅な立ち居振舞いに目を奪われなくなったわけでもないけど、結局この方は『別次元』の方、って、考えれば考えるほど、妙に納得してしまって。
だから、あたしの前を行くハーコート筆頭の足取りが、心なしか気忙しくなっているって事に気づいたのは、冷静な『シスター』の観察眼を取り戻したからなのだ。
思えば、さっきから一言も口を開かれない。警邏駐屯所での、堂々とした落ち着きが、どことなく薄れてきているように、その背中を見ると思える。
第一、あたしだから良かったようなものの、こんな風に足早にブレイダブリクの街を歩いていては、他のシスターだったら完全に音を上げていただろう。紳士的で通っているハーコート筆頭にしては、どこか変。
あたしはそんなことを思いながら、ものすごい勢いで往来を歩くハーコート筆頭の隣で、不意に思いついた言葉を呟いた。
「…そう言えば、ハーコート筆頭は何故、大教母様が若い男性向けの品を扱ったお店にいらっしゃると思われたのですか?」
あたしの問いかけに、ハーコート筆頭はその時初めてあたしの存在を思い出したかのように、唐突に足を止められた。慣性の法則に則って、あたしは数歩、行き過ぎてしまう。
驚いたあたしが振り返ると、ハーコート筆頭は苦り切った表情であたしを見た。
「…すまない。シスターと同道しているということを、失念していた」
「いえ、それは結構です。わたくしとしても、大教母様の安否が気がかりで、とてもお淑やかになんて歩けませんから」
言ってしまってから、はがれかけた化けの皮に気づいて、あたしは一人で青くなった。けれどハーコート筆頭は、そんなあたしに穏やかな苦笑を見せてくれる。この方のこんな表情を、まさかこの身に受けられるとは夢にも思っていなかったあたしは、瞬間絶句してしまった。
「そうだな。一刻も早く、大教母様をお探ししなくては」
「あ…ええ、そうなんですけど…その、どうして筆頭は、大教母様の行くあてにお心当たりがおありだったのでしょうか?」
気を取り直したあたしが再び問い掛けると、さっきとは比べ物にならないほど歩調を緩めてくれたハーコート筆頭が、わずかに考える時間を置いてから口を開いた。
「シスターアグネスは、大教母様は『私的な用件』でブレイダブリクの街に行かれると言ったのだろう」
「はい」
「では聞くが、大教母様の『私的な用件』とは、一体なんだと思う?」
「え?」
突然聞かれて、あたしはぎょっとした風に目を丸くした。
大教母様の私的な用件? ……そう言えば、シスターアグネスに言われた時は、深く考えずに頷いてしまったけど、…あの大教母様をして、私的なご用件?
大教母様は、生活の全てをニサン正教と一緒に歩まれている。一日中、それこそ何をするにつけても、ニサンと共にあるあの方は、ご自身の私欲や我欲で何かを求めたためしがない。
それはもちろん、大教母様だってお年頃の女の子なんだから、欲しいものの一つや二つ、あると思う。けど、わざわざ隣国アヴェに来て、護衛達の目を誤魔化してまで、あの方が自分のために動くなんて事、ありえるだろうか。
そんなことを考えて、あたしが首を捻っている傍らで、落ち着いたバリトンが柔らかく響いた。
「あの方に関して、『私的な用件』とは、たった一つしかありえないのだよ」
「たった一つ?」
きょとんとしたあたしが問い返すと、ハーコート筆頭は微笑するだけで、何もお答えにはならなかった。けどその美しい隻眼が、大教母様の『私的な用件』について、とても優しく、穏やかなものを浮かべているような気がして、あたしは少しだけ不思議に思った。
そう言えば、ハーコート筆頭と大教母様って、どんなご関係なんだろう。
ハーコート筆頭は、大教母様の従兄弟君である、アヴェ王朝最後の王太子…現アヴェ国大統領閣下の、筆頭補佐官。年に数回のニサン訪問でも、大教母様は格別のご配慮を持って、ハーコート筆頭をご歓待されていたけど、このお二人の間には、血のつながりにも似た親密さがあるような気がしてならない。
もしかして、恋人…?
不意に、そんな考えが頭を過ぎったけど、すぐに打ち消された。だって、どう見たってこのハーコート筆頭の表情は、恋する女性へ向けたそれじゃなく、どちらかといえば妹、もしくは娘に対する、無償の愛情のようなものが伺える。
それに、お二人の年齢差も考慮すれば、『恋人』というのはちょっと突飛かしら。
では、一体どんなご関係なんだろう? ニサン正教の上層部や、古参シスター達だったら、お二人のご関係を詳しく知っているだろうけど、今までそんな事を気にする機会もなかったし。
そんなことをあたしが考えている傍らで、ハーコート筆頭は再び歩き始めた。あたしは半ば自分の考えに囚われながら、無意識にその後をついていったんだけど、しばらく歩いた頃ようやく周囲の様子に気づいて、はっとする。
「ハーコート筆頭、この道の先は、東ブロックですが…」
言わずもがなの事実を言うあたしに、ハーコート筆頭は振り返らずに答えられた。
「以前、視察でこちらを訪れた折りの大教母様のご様子が、記憶に残っているのだ…身寄りのない老婆が、息子夫婦の営んでいた雑貨屋を建て直すのだと懸命だったことに、大教母様はとてもお心を砕かれてね。もし、それを今でも覚えていらしたら…」
ハーコート筆頭の背中で、あたしは何故か確信していた。
『もし、覚えていたら』ですって? そんな事、絶対に覚えているに決まってる。あたし達の大教母様は、人の痛みや懸命な努力を、絶対にお忘れにはならない方なんだから。
『ニサンのシスター』として『ニサンの大教母様』に絶対の信頼を寄せるあたしが、それを言おうと口を開きかけた時、ハーコート筆頭の広い背中が辻を曲がった。
それを追ったあたしの視界に、懐かしい、アヴェの風景が広がる。
「……!」
瞬間、あたしは絶句していた。
古い軒下に咲く、純白の花…名前は確か、チュレイン? アヴェの乾いた土に根づく、小さくて強いこの花で、子供のころよく花冠を作ったっけ。
古びた煉瓦の家の煙突に、鳥の巣のなごりがある。雛達は無事巣立ったのかどうか、だいぶくたびれてしまっていたけれど、もしかして来年も、この巣に戻る子がいるかもしれない。
灼熱の太陽光線を緩やかにしてくれる、長く連なる純白の土塀は、長い年月ですっかり色褪せていた。大人の目には留まりにくい低い位置では、子供たちの落書きを受けて、賑やかな黒板になっている。
こんな、懐かしい風景を、また見ることができるなんて。
感動と驚きで固まってしまったあたしを振り返り、ハーコート筆頭はちょっと不思議そうな顔を見せた。
「…君は、アヴェの出身か?」
「は…はい! あ、でもブレイダブリクの出身ってわけじゃないですけどっ、あの、ちょっと田舎なんですけど、マチカって言う街で生まれました。十歳くらいまでそこで育って、ニサンに来たんですっ」
あたしは一生懸命早口になって、きょろきょろと視線を動かした。そうでもしないと、何だか大声で泣きたいような気持ちだったのだ。
ここは、夢にまで見た故郷の香りがする。ニサンが嫌いだったわけじゃない…ニサンも、あたしの第二の故郷。でも、アヴェは…灼熱の砂漠と骨色の月に見守られたこの土地は、いつかあたしが帰るべき、最初で最後の大地なのだ。
そんなあたしの様子に、おそらく気づかないふりをしてくれているハーコート筆頭は、何気ない口調でこう呟いた。
「ほう…マチカか。私の部下にも、同郷の者がいるな」
「え?」
思いがけない言葉に、あたしがはっとして顔を上げた瞬間、一本路地を挟んだ向こうから、小さな悲鳴が聞こえてきた。
「きゃあっ!」
「!?」
その高い声に、あたしとハーコート筆頭ははっとする。
間違えようもない! この声は…
「大教母様?!」
あたしの高い叫びと同時に、ハーコート筆頭が俊敏に身を翻した。もちろん、あたしもそれに倣って走り出す。大教母様の尾行用に、シスター服じゃなくて目立たないパンツルックになっていたことが、改めてありがたい。
古い辻を抜けると、ちょうど背高の家屋の陰になるような細い路地の向こうに、大教母様の姿と、黒っぽい男の姿が映った。二人は、何かもみあっているような…違う、大教母様のバックが!
通りを抜けるまで、かなり距離がある。あたしとハーコート筆頭が全力でそちらに向かおうとした瞬間、大教母様に対して手を振り上げた男に、何かが突進していくのが見えた。
瞬間、男と…あれは、少年? 細身の男の子が、ずんぐりとした男と重なるように倒れて、必死にその腕を取りながら叫ぶ。
「逃げて、マルー!」
その瞬間、細い彼の身体が男の腕の一振りで、土塀に跳ね飛ばされた。
後頭部をモロに打ちつけた少年が、そのままずるずるとくずおれる。大教母様は何か叫びながら、少年に駆け寄ろうとして…
大教母様を追って、男の手が伸びた瞬間、良く通るバリトンが響いた。
「マルー様!」
その声に、一瞬男が怯んだ。大教母様はぱっとこちらを振り返って、大きな瞳を真ん丸に開く。
それにつられるように、男がこちらを向いた。あたしは男の数メートル先で、思いっきり地面を蹴る。
逃げる暇なんて、与えない! ぎょっとした顔を見せた男の顔面に、あたしの渾身の飛び蹴りがめり込んだ。
「ぐ…ぁ……」
鈍い叫びと一緒に、男の体が地面に沈む。あたしは軽やかに身を翻して、難なく地面に着地した。はっきり言って、こんな芸当は朝飯前。
でも今は、絶妙な蹴りの角度や、空中での体勢の建て直しを自画自賛している暇はなくって。あたしはぐりんっと顔を背けて、呆然としている大教母様のお名前を叫んだ。
「大教母様!」
その瞬間、大教母様の傍らでぐったりしていた男の子が、一瞬口をぱかっと開けたような気がしたけど…
「キュ…キュラン……それに、シグ?…」
驚きに満ちた大教母様のお声は、ひっくり返ったように震えていた。あたしの目前で、ハーコート筆頭が素早く膝を折る。
「マルー様、お怪我はございませんか」
「あ…ぼ、ボクは平気! でも、ミシェルがっ」
「ミシェル?」
大教母様の答えに、ハーコート筆頭と、そしてあたしの声が重なった。
ミシェル……ミシェル?
聞き覚えのありすぎるその名前に、でもまさかね、と首を振る。振った視線の先には、鼻血を出して倒れている男の子がいた。
……ちょっと。ちょっとちょっとちょっと…!
俯き加減だし、目を閉じていたし、顔の下半分は血に染まっていたし、とにかくはっきりしたことは解らないけど……もしかして、もしかすると、この顔ってば?!
あたしが愕然としているその傍らで、今度はハーコート筆頭が驚いたような声を上げた。
「ミシェル…ミシェルじゃないか! 何故、マルー様がミシェルと共に?」
「え?」
その言葉に、大教母様が驚いたような顔を見せる。あたしは一瞬、先ほどハーコート筆頭が何の気なしに呟かれた言葉を、鮮やかに思い出した。
『私の部下にも、同郷の者がいる』
同郷…マチカなんて小さな田舎町で、知らない人間なんていない。そしてあたしの知る限り、後にも先にも『ミシェル』という名前は、一人しか心当たりがない。
そのあたしの心中を裏付けるように、ハーコート筆頭はミシェル少年の傍らに膝を折ってこう言った。
「この者は、一年ほど前大統領補佐官として私の下についた、ミシェル・シナモンです」
「大統領……補佐官?」
大教母様が呆然と呟くその傍らで、あたしも同じく、唖然とミシェルを見つめた。
……ミシェル……シナモン…って。
あの、泣き虫ミシェル?!
よくよく見れば、幼い頃の面影を残す華奢な少年は、ぐったりとしたまま動かない。その彼の容体を確認していたハーコート筆頭が、放心しているあたしを振り仰いだ。
「とにかく、シスターは大教母様をお連れして、一旦宿へ戻りなさい。君たちがいないことに気づいた僧兵が、騒ぎ立てるといけない」
「でも、シグ!」
ハーコート筆頭の言葉に、ミシェルの傍らで彼の腕を掴んでいた大教母様が、悲痛な表情で叫ぶ。
「ミシェルがこんなんなっちゃったのは、全部ボクのせいだよ! ミシェルが目を覚ますまで、一緒にいたい!」
「いけません、マルー様。ミシェルは私が責任もって預かり、大統領官邸へ連れてまいりますから」
「でも!」
食い下がる大教母様に、ハーコート筆頭はじっとその隻眼を合わせた。そして、普段よりも一層低い、染み入るようなバリトンで囁く。
「…では、マルー様は、このままミシェルについて大統領官邸へ赴き…事の全てを、若にお伝えするお覚悟ですか?」
「!」
その瞬間、大教母様が弾かれたように息を呑む。大きく見開かれた碧玉の瞳が、不安そうに揺れていた。
「……せっかく一年ぶりにお会いするのです、できれば喧嘩などしたくないでしょう」
「…でも……っ」
「それでもミシェルが心配ならば、後程正式に大統領官邸入りした後、私が内密にお引き合わせいたします。その時、お礼なり謝罪なりなさりなさい。いいですね、マルー様」
最後は、噛んで含めるような言い方で、ハーコート筆頭は大教母様にそう言うと、不意に思い出したように、気絶している男の方へ歩み寄った。そしてそのまま、腰に提げられていた漆黒の鞭で男の身体を縛り上げて、手近な木の塀にきつく繋ぎ止める。
「すぐに、警邏を派遣します」
簡潔にそう呟いて、ハーコート筆頭はミシェルの華奢な身体を抱き上げると、優しい眼差しを俯いていた大教母様に向けた。
「…こうなると、逆にミシェルがマルー様のお側にいて、正解でしたね」
その言葉に、大教母様はわずかに傷ついたようなお顔を見せた。それからバックの口を開け、中から純白のハンカチを取り出すと、血にまみれたミシェルの顔をそれでそっと拭き取られる。
「…マルー様」
「…このハンカチ、ミシェルに貸してあげるから…だから……」
「……解りました」
俯いた大教母様に、ハーコート筆頭はそれこそ、蕩けるほど優しく微笑みかけられて、そのまま路地を後にする。
その後ろ姿を見送りながら、あたしは大教母様にかける言葉と、今し方出会った古い幼なじみとのことを考えて、しばらく呆然としていた。
まったく……こんなところで、まさかミシェルに出会うなんて…
あたしは、アヴェの古い町並みを見つけた時に感じたような、強い郷愁とくすぐったいような喜びを感じて、そのまま吐息を吐いた。