DAYBREAK-デイブレイク-

  緑多きニサンの都は、夏を待つこの季節が一番きれい。
 長い間アヴェの太陽光線に焼かれていた肌も、ニサンのやわらかな光に包まれているうちに、少しは白くなったかな。
 もっともそんなこと、この機能性重視、肌の露出御法度、右を向いても左を向いてもペンギンみたいな僧衣じゃあ、関係ないかもしれないけどね。
 あたしはその時、お盆に乗せたシフォン・ニサーナの生クリームが溶けてしまうことに改めて気づき、慌てて足取りを速めた。
 ついでに、せっかくのロイヤルミルクティーも冷めてしまう。ぬるいミルクティーほど喉越しの悪いものはないからね、急がなきゃ。
 ニサン大聖堂の回廊は、昼なお暗い奥まった雰囲気がする。窓ははめ殺しの擦り硝子だし、天井近くにある高窓は簡単なステンドグラスになっているから、外の景観を楽しむ趣向はない。
 それもそのはず。ここにいるのは、神様に身を捧げた神聖なるシスター達ばかりなんだもの。悪戯な下界の風なんて、吹き込んでもらっては困るのよ。
 ……なーんて、古参のシスター達ならもっともらしく言いそうなものだけど、あたしにしてみればぜんぜんナンセンス。薄暗いし風通しは悪いし、なんか湿っぽいのよね。
 まあでも、それは大聖堂の構造上、致し方のないことだけど。
 その代わり、一部の居住部分なんかは、ふんだんに日の光を取り入れて、いつでも明るく保たれている。
 そう、今あたしが向かっている、この国のトップたる方の執務室なんかは。
 長い回廊の向こうに、目指した扉を見つけて、あたしは半分駆け足で進んでいた速度を緩めた。身につけた僧衣に相応しく、清楚で、淑やかで、落ち着きのあるシスターの足取りになると、こほんとひとつ咳をする。
 そうして、ダークブラウンの重厚な扉を、こんこんこん、とみっつ叩いた。
「はい、どうぞ」
「失礼いたします」
 中からの応答に、あたしはよそ行きの声で答えて、しずしずと扉を開く。
 部屋の中は、暖かな日の光に包まれていた。まるでこの部屋の、ううん、この国の主そのものみたいに。
 華美を欠いた調度品の中央で、大きな執務机に半ば埋もれるようになりながら、小柄な少女がこちらを向いた。
「あ、シフォン・ニサーナ!」
 その瞬間、ぱあっと花が開くような笑顔が弾ける。う~ん、この顔! あたし、この顔が見たくて、給仕のシスターに無理言って役を交換してもらってるのよね、実は。
 あたしの手にあるお盆に釘付けになっていたその方は、すぐに小さな白い顔をぽっと赤らめて、まるで悪戯が見つかった小猫のように小さく肩を竦める。
「あ~あ、またやっちゃった。もう、キュランのタイミングにはまいっちゃうよ。いつも、食べたいなあって言う時に限って持ってきてくれるんだもん」
「それは、お褒めに預かり光栄ですわ、大教母様」
 口調が砕けているということは、今は完全に休憩中ということなんだわ。少しでも公務に関わっている時は、この方はこんな風にくつろいだ笑顔を見せないもの。
 あたしのとぼけた合いの手に、現ニサン大教母マルグレーテ・ファティマ様は、大きな瞳を悪戯っぽく細めた。
「キュラン、もしかして超能力者なんじゃない? 隠してもダメだよ、白状しちゃえ!」
「あら気付かれてしまいました? 実は、そうなんですの、大教母様。なぜかわたくし、大教母様の空腹時の直感だけは、ずば抜けておりますのよ。その時食べたいお好みも」
 あたしも悪戯っぽく笑い返して、大教母様の執務机に近寄ると、いまだ湯気のたつ極上のロイヤルミルクティーと共に、シフォン・ニサーナの皿をことんと置いた。
「きゃあ! ティラサンのロイヤルミルクティーに、この生クリームとラズベリーソースの絶妙なアレンジは、シスターギュアヴィネのシフォン・ニサーナだねっ」
「お見事です!」
 あまりの喜びように、ついあたしも嬉しくなって、ミルクティーの茶葉から今日の厨房担当の名前まで、ずばりで当てた大教母様に、拍手喝采を贈る。
 そうしてから、はたと気付いて、慌ててきょろきょろとあたりを見回した時、執務机からこちらを見やっていた大教母様は、くすくすと忍び笑いを零した。
「大丈夫。アグネスはいないよ」
「あっ…」
 言い当てられて、今度はあたしが肩を竦める番。もう、大教母様には隠し事なんて出来ないんだから…
「わかるわかる。アグネスってば、こと礼儀作法のことになると、すごく厳しいもんね~。ボクも何度泣かされた事か」
 悪戯っぽくそう言う大教母様は、とても優雅に微笑んだ。その仕草一つ取ったって、そのお言葉があたしに対する思いやりだってことくらい解るわ。
 言葉遣いこそこんな風に、コケティッシュな感じがする大教母様だけど、ここ1、2年の間にみるみるお美しく、淑やかになられた。元々造りは愛らしい方だから、美人というよりは可愛い、って形容が合うけれど、やっぱり、もって生まれた気品というものかしら。ただただ可愛いだけのお人形じゃない、暖かい何かがあるの。
 それを、ニサンの庇護に浴する人たちは皆、『うつくしいひと』といって崇めている。姿かたちだけには留まらない、心の美しさが、誰の眼にもわかる。
 そんな『うつくしい』大教母様は、心から幸せそうな顔をして、上品に盛り付けられたシフォン・ニサーナに銀のフォークを指しこんだ。
 ひとくち、口に含まれて…ああ、その顔! こんな時だけは、『みんなの大教母様』じゃない、『マルグレーテ・ファティマ』という方の、至福の表情が見れる。これってば、かなり役得よね、つくづく!
「ん~~! 美味しい! さすが、シスターギュアヴィネだね!」
「伝えておきますわ。きっと喜ぶ事でしょう」
「うん、ありがとう。そうそう、シスターギュアヴィネといえば、何だかここのところ具合が良くないように見えるよ。人一倍頑張りやさんだから、無理してるといけない。後で、様子を見てやってくれるかな」
「シスターギュアヴィネがですか?」
 言われて、あたしはついさっき厨房で、シフォン・ニサーナと生クリームの対比がどうとか、甘さを押さえたからコクのあるティラサンのロイヤルミルクティーが合うとか、いちいち講釈をしてくれた人の良い古参シスターの顔を思い浮かべた。
 じっくり思い出してみれば、確かに彼女にしては口数が少なかったかも…しれない。いつもにこにこと笑っている、お喋り好きなシスター・ギュアヴィネは、以前風邪をこじらせて寝込んだことがあったと、聞いたことがある。我慢強いタチなんだなと、その時は思ったけど…
「ボクの気のせいかもしれないから、決め付けるのはダメだけどね。でも、このところ何人かのシスターが、体調よくなくても休まないって聞いてるから…ちょっと、心配なんだ」
 言いながら、大教母様は、そのシスター・ギュアヴィネがいれてくれた極上のロイヤルミルクティーを口に含み、いとおしそうに微笑んだ。
 ……多分、この方の事だから、千人を下らない全てのシスターの顔と名前を一致させているはずだわ。その上できっと、シスターたちのどんな些細な不調も見逃さないように、人一倍気を配られているはず。
 シスターギュアヴィネが特別なんじゃない……特別なのは、この方のお心だわ。
「……では、お言葉のままに様子を見ておきますわ」
「うん。ごめんね、面倒頼んじゃって」
「そんなことはありません。わたくしも…シスターギュアヴィネに倒れられて、彼女の美味しいポトフが食べられなくなるのは悲しいですもの」
「あはっ! 言えてるね」
 あたしの精一杯の軽口に、大教母様は少女のように笑ってくれた。でもきっと、あたしが心の中で感動に震えてる、なんて気付かれていないんだろう。
 だって、あたしたちシスターのことを……このニサンに住まう全ての人間を思うことは、この方にとっては『当然』のことなんだもの。
 悪夢のような混沌から、もう2年半も経ってしまっているけど…世界も人も、まだまだ完全に立ち直っていない。ううん、あの悪夢の中、何よりも大切なもの…人…全てを失ってしまった人たちにとって、完全に立ち直る日なんてきっとこない。
 現に、今でも『ウェルス』と呼ばれる醜い変異体にその身を変えて、地獄を味わっている人たちは確かにいる。その上、無事に変異を解かれた後も、肉体的な後遺症や、心の傷に喘いでいる人たちの、なんと多いことだろう。
 そんな人たちにとって、この方はまさに『やすらぎ』そのもの。その小さく華奢な手にすがり、肉体の苦痛も心の傷も、全てを癒し、慰めてもらうために、人々はニサンへ集う。
 現在ニサンに居を構える人口数は、在りし日の10分の1にも満たないのに、難民者の数はそれを大きく上回っていた。救われて、そのままにサンに永住している人たちも多いけど、そんな人たちは、例えニサン正教の関係者ではなくても、みんな進んで難民救助に携わっている。
 全てはこの方の旗印の下。この方の微笑み一つ、眼差し一つで命を救われ、他の命を助けている人たちの数は、計り知れない。
 最初は、無謀な賭けだったと、いつだったか大教母様付き統括シスターのアグネス様が零していたのを、あたしは思い出した。
 ニサンに集った全ての人のために国庫を開き、あらゆる者を庇護し、慰め、もう一度生きる希望を与えた大教母様は、人間の再生の力をひたすらに信じていた。
 もしも、慰めて力を与えた後も、やっぱり立ち直れなかった…なんて事になっていたら、恐らくニサンは難民と共倒れになっていただろう。大教母様はその意味で、ニサンという国を賭け、人の強さに望みを託されたのだ。
 結果としてそれは、難民者も、そして混沌のニサンをも良い方へ変えたけれど…その無謀な賭けに、一部の人間は難色を示していたとか、聞いている。あまりにも責任能力を欠いた、破天荒な政策だと。
 だけど、大教母様のその政策がなかったら、ニサンは今も大量の難民を抱えた、悲惨な国になっていたことは明らかで。
 立ち直った人たちの労働力は、確実にニサンの国を豊かにし、人の心を豊かにしている。溢れ流れる難民者の多くも、そんな活気に生きる希望を取り戻し、悲惨に眼を覆われた者はほとんどいない。
 そんな時になって、手の平を返したように大教母様を祭り上げる奴らの、何て多い事!
 あたしは、いつのまにか自分の考えにふけっていたようで、気がついた時には胸の前で握り締めていたお盆がミシミシと厭な音をたてていた。
「…キュラ~ン? なんか、お盆が変な音たててるよ…」
「えっ? ああっ、ごめんなさい! つい、力が……」
「ふふっ、さぁすが、僧兵相手にも引けを取らない、格闘家のシスターヒューイット!」
「も、もうっ! おからかいにならないで下さい、大教母様!」
 いけないいけない、つい、頭に来ることを思い出しちゃった。この間もこれで、新品のグラスを割り潰しちゃって、シスターアグネスに叱られたんだっけ…
 あたしが真っ赤になっている傍らで、大教母様はいつの間にか綺麗に平らげられたシフォン・ニサーナの余韻を楽しむように、くすくすと含み笑いを零した。
「謙遜しない! 聞いてるよ、キュランの武勇伝は。この間も、僧兵たちの武術訓練に顔を出したんだって?」
「あっ…お聞き及びでしたか…いえ、アレはそのぅ…つい、なんと言いますか、僧兵たちの動きに、イライラしちゃいまして…ですね…」
「うん。僧兵長が誉めてたよ。女でなければ、スカウトして片腕にしたい程だって」
「…大教母様、それ、きっと皮肉ですぅ…」
「なぁんで? ボク、キュランのそういう腕っ節の強さに、すっごく憧れちゃうのになぁ」
 言いながら、大教母様はふうと吐息をつかれ、飲みかけのロイヤルミルクティーを傾けられた。日に光る茶褐色の髪が、さらりと風に揺れる。
「ボクも、キュランくらい強かったらなぁ…」
「何を仰いますか! 大教母様は、わたくしなど足元にも及ばないほど、お強い方です!」
「えぇ?」
 きょとんとした顔を見せる大教母様に、あたしはぐっと拳を握った。
「肉体の強さなんて、そんなものいくらあったって、人の心は救えません! 本当の『強さ』は、『心の強さ』です!」
 そう、力説してしまったあたしの目の前で、大教母様はぱちくりと大きな瞳を瞬かせて……
 少し、寂しそうに、笑った。
「心の強さ…かぁ…。だったらボクは、どっちも…だよ」
「え?」
 微かに呟かれた言葉に、あたしがきょとんと問い返した瞬間、執務室の扉が、軽く三回ノックされた。
「どうぞ」
 大教母様は、少しだけ居住まいを正して、涼しい声をかけられた。ダークブラウンの扉は音もなく開かれ、そこから現れたのは、大教母様付きの古参シスター。あたしたちニサン正教に携わるシスターたちを、実質的に管理統括されている、シスターアグネスだった。
「まあ、シスターヒューイット。こちらにいたのですね」
「はい、シスターアグネス。大教母様に、午後のお茶をお運びいたしました」
 言いながら、あたしはつい長話をして時間を潰してしまった事を、シスターアグネスに怒られるのではないかとひやひやしていた。
 シスターアグネスは、外見は温和で優しげなのに、その実、僧兵長相手に堂々と渡り合えるほどの度胸と実力をもっていらっしゃる、いわばシスターたちの総司令官。無闇に厳しかったり、よくいるお局様的なイヤミなんかは全然ない方だけど、こと礼儀作法や正教の理に関しては、超がつくほど厳格な方なのだ。
 それでも、あたしたちシスターに対する時に比べて、幼いころからお育て申し上げたという大教母様に接する時は、その厳格さも和らいで、単なる甘いお姉さん風になっているのを、ご自身は気付いていらっしゃるのかしら?
「アグネス、何かあったのですか?」
 大教母様は、先ほどまで見せていたくつろいだ表情を一転させ、宗教国家『ニサン』の元首たる面持ちで、静かにシスターアグネスに問い掛けた。
 あたしは、日に一度の楽しみである『マルグレーテ・ファティマ様』との楽しいひとときの終わりを感じ、そのまま食器をさげて部屋を辞そうとしたのだけど、意外にもシスターアグネスの制止の声がかかった。
「お待ちなさい、シスターヒューイット。あなたに少し、お話があるのです」
「はい?」
 あたしはきょとんと目を丸くして、言われた通り立ち止まった。シスターアグネスは大教母様に向き直り、あたしたちの前では滅多に見せない、ひたすらに嬉しそうな微笑みを浮かべる。
「大教母様、先ほどの外電は、やはりアヴェからのものでした」
「そう……それで? どなたの入電ですか?」
 心なしか、大教母さまの声音が変わった。どこか、落ち着かなげにうわずったそれに、シスターアグネスは気づいているのかいないのか、少しゆったりとした口調で返す。
「アヴェ国大統領筆頭補佐官より、私的回線でのご入電です」
「シグ…いえ、ハーコート筆頭の? 私的…とは」
「はい。このたび、先の戦いのご同胞方をお招きし、アヴェ国大統領官邸にて晩餐会を催しますことへの、ご招待の件でございました」
「晩餐会?」
 大教母様のお顔が、みるみる輝いていくのが解った。勢いよく立ち上がったかと思うと、身を乗り出すようにしてシスターアグネスに問い掛ける。
「そ、それほんとうっ?! アグネス!」
 いつもなら、こんなふうに取り乱される大教母様には、厳しいお小言の一つもありそうなのに、何故かその時のシスターアグネスは、上機嫌に頷くだけだった。
「ええ、本当です。来月の5日に予定されているそうでございます。このたびの晩餐会は、大統領閣下の私的な催しですので、ニサン正教の元首たる大教母様への正式なご招待ではございませんけれど」
「じゃあ、じゃあ、…みんなに会えるんだねっ?!」
「ええ、マルー様。今のところ、欠席される方はおられないと、シグルド卿は仰っていました」
 にこにこと頷くシスターアグネスの言葉に、大教母様はその白い頬を薔薇色に染めて、大きな目をきらきらと輝かせた。こんなに嬉しそうな大教母様、初めて…
 それにしても、アヴェ…か。懐かしいな。
 あたしがふと、遠い故郷へ思いを馳せた時、あんなに嬉しそうだった大教母様のお顔が、見る見る輝きをなくしていった。しゅんとお顔を伏せられ、力なく椅子に腰を降ろしながら残念そうに肩を竦める。
「…でも、来月5日じゃ…ちょっと、無理、だね…。確かその辺りに、修道会の査問会があったでしょう?」
 そう言って、無理に微笑まれようとする大教母様に、シスターアグネスは優しい微笑みを浮かべた。
「その件につきましては、わたくしとピアシュ司祭にお任せください」
「え?」
 驚いたように眼差しを上げた大教母様の前で、シスターアグネスがにっこりと頷く。
「先ほど、各修道会にも通達しておきました。このたびの査問会は、大教母様はご多忙につき欠席されますことと、それに伴うすべての予定を繰り上げる旨を」
「アグネス…!」
 言葉を詰まらせるように、大教母様は立ち上がりざまに呟かれると、何と表現していいかわからない表情でシスターアグネスを見つめる。
 あたしはその時…本当に、本当に不遜なのだけど、大教母様の大きな瞳が、親とはぐれた幼い子供が、知らない人間の善意に甘えていいのか逡巡するような、そんな不安な色に見えた。
「でも……そんなこと、……いいの? …ううん、よくないよ、アグネス」
 途切れながら、小さな声で呟かれた大教母様に、シスターアグネスは穏やかな眼差しで諭す。
「いいえ、大教母様。これは我々ニサンの民からの要望でもあるのです」
「え?」
「大教母様におかれましては、先の戦いから二年半、満足に休息を取ることもなく、ニサンへ尽くして下さいました。けれどこれ以上、あなた様にご負担をかけることは、心身ともに極めて危険であると、我々の意見がそろいましたのです」
「そんな…だって、今だってたくさんのシスター達が、ボク以上に働いてくれてて、体調を崩す人だっているのに…」
「その通りです。ですが大教母様、シスター達は少なくとも、週に一度は休養日を与えられております。それに引き換え大教母様は、日夜休む間もなく働き通しです。今現在のシスター達の健康状態を鑑みましても、大教母様の休養の必要性は推して知るべしではありませんか」
 さすが、隙のない弁論と優雅な搦め手で、クセのあるニサン上層部を渡り歩いているシスターアグネス。流れるようなその言葉に、大教母様の顔からどんどん強ばりが解け、ついには花のような笑顔を見せるに至った。
「…アグネスってば! 一体、いつからこのことを知っていたのさ?」
「正式なご通達があったのは先ほどですが、事前にシグルド卿より打診が参りましてのち、着々と準備を整えておきましたので、手抜かりはございません」
「もう、…参った!」
 文字通り、両手を上げて『降参』のポーズを取った大教母様は、本当に嬉しそうに笑いながら、シスターアグネスを見つめる。
「ありがとう…アグネス。せっかくのお膳立てだ、ボクも目いっぱい甘えちゃうことにするよ」
「そうしていただけると、苦労したかいがあるというものですわ」
 悪戯っぽくそう言って、シスターアグネスは肩を竦める。そしてそのまま、ぽかんとやり取りを眺めていたあたしに視線を転じて、いつもの統括シスターの面持ちでこう言った。
「つきましては、シスターヒューイットに、わたくしの代わりに大教母様に付いて、アヴェ入りしていただこうと思います」
「えっ?!」
 思ってもいなかった言葉に、あたしは心底ぎょっとして声を上げてしまう。その瞬間、規律に厳しいシスターアグネスの眉がひそめられた。
「シスターヒューイット。みだりに大きな声を出すものではありませんよ」
「あ、は、はい、申し訳…いえ、でも、あたし、いえ、わたくしがアヴェへですか?」
 素っ頓狂に上ずった声でそう言うあたしに、シスターアグネスはにっこりと優しく微笑まれた。
「ええ。アヴェはあなたの故郷でもありますし、土地柄に通じた者が随行すれば、何かと好都合です。今回は、ニサンの大教母が正式な儀礼を通じてアヴェを訪問するわけではありませんから、大々的な付き人をつけるわけにも参りませんので、シスターとしてはあなたのみを随行させたいと思っています」
「わ、わたくしだけですか?」
 自分を指差すあたしに対して、シスターアグネスはこっくりと肯く。そうして、改めて大教母様に向き直ると、統括シスターの声音でゆっくりこう言った。
「そういうわけでございますので、大教母様。アヴェ来訪の折りには、シスターヒューイットをお連れになって下さいませ」
「はい、わかりました。よろしくお願いいたしますね、シスターヒューイット」
 大教母様は、穏やかな眼差しであたしにそう言った後、本当にこっそり、『マルグレーテ・ファティマ様』の顔で、微笑んでくれた。
 あたしが……どんなに、アヴェの空を、大地を、空気を、恋しがっていたか。この方のことだから、きっとご存知なんだ。
 そう思うと、少しだけ涙が出そうになって、あたしは急いで頭を下げた。
「それでは大教母様、午後の礼拝のお時間にはお迎えにあがりますので、もう少しご休憩下さいませ。行きましょう、シスターヒューイット」
「は、はい」
 シスターアグネスの言葉に、あたしは手にしたお盆を持ち直して、急いで頷いた。微笑んでいる大教母様へ深々とお辞儀をして、しずしずと退室するシスターアグネスについて、あたしも回廊へ出る。
 ぱたんと音をたてて重厚な扉が閉まった瞬間、あたしは感極まってシスターアグネスへ言った。
「シスターアグネス! 本当に、ありがとうございま……」
「そのことなんですが、シスターヒューイット」
「…す! って、は?」
 感激したあたしの声を、シスターアグネスの落ち着いた声音が遮る。爆発し損ねたカンシャク玉のように、ふしゅるるる~っと肩を落としたあたしに対して、シスターアグネスは穏やかな苦笑を浮かべた。
「あなたには気の毒なのですが、今回のアヴェ国随行は、故郷への里帰りの楽しさを、半減していただかなければなりません」
「え?」
 その言葉に、あたしはきょとんと目を丸くする。シスターアグネスは、そんなあたしの背中を軽く押して、並んで歩きながら言葉を続けた。
「今回のアヴェ国来訪は、先ほども言ったように、非公式の訪問になります。その上、各修道会の査問会を反故にするわけですから、あまり大々的に護衛をつけて悪目立ちするわけにもいきません。イルルカン僧兵長と相談して、腕の立つ僧兵を3人随行させることはできるのですが、あなたを含め、4人のみで大教母様をお守りすることになるのです」
「あ…なるほど」
 あたしはつい、口に出してそう言ってしまった。シスターアグネスの言いたいことは、多分こうなのだろう。
 今、大教母様のお立場は、ニサンの国内はもちろん、ニサン正教の核心部でも、安定している。一時期は、聖母ソフィア様の再来と謳われた方との、大教母の座をめぐる権力闘争が激化しつつあったようだけど、結局はマルグレーテ・ファティマ様の大胆な政策が功を奏したことにより、その立場はますます安定した。
 しかしながら、いつの時代、どこの国にも、いけ好かない権力の権化という者はいるもので。嘆かわしいことに、この由緒あるニサン正教内にも、そういう汚点はいるのだ。
 無論、今の大教母様の実力、支持率、お人柄、どれをとったところで、そんな馬鹿者達に付け入らせる隙はない。けれど、つまらないことで馬鹿達を助長し、大教母様のお心を乱すことは、あたし達シスターが全力をもって阻止すべきことなのだ。
 今回も、仰々しい鳴り物入りで大教母様がアヴェを訪れる事に、渋い顔をする馬鹿もいるだろう。必要以上に警護を強化し、そういう奴らのイヤミの種を、わざわざ撒いてやることもない。
 あたしは、一人納得のいった顔で、どんと自分の胸を叩いた。
「お任せ下さい、シスターアグネス。わたくしが、命に代えましても大教母様をお守りし、つつがなくアヴェより帰国されますことをお約束いたします」
「いえ…そうではないのです、シスターヒューイット」
「え?」
 シスターアグネスの、どことなく言いよどむような声音の否定に、あたしはいよいよわからなくなって、きょとんと目を丸くした。
 シスターアグネスは、並んで歩いていた聖堂の薄暗い回廊で、ぴたりとその歩を止めると、真っ直ぐにあたしの目を覗き込みながら、妙に確信深げな顔でこう言った。
「おそらく……ことによったら大教母様は、お一人でブレイダブリクの町にお出でになるかもしれません」
「は?」
 突拍子もない言葉に、あたしは本当に間の抜けた声で問い返した。シスターアグネスは、おいくつなのか本当に分からないほど若々しい頬に、その白い指先を添えて、ふうと軽い嘆息をつく。
「本当は、わたくしがごいっしょできれば一番よいのだけど…今回は、そういうわけにはいきません。そこで、シスターヒューイット。あなたには、陰ながら大教母様のあとをつけ、御身の安全を図っていただきたいのです」
「か…陰ながらとおっしゃいますと?」
 ハテナマークを飛ばすあたしに、シスターアグネスは真摯な表情でこう言った。
「おそらく大教母様は、誰にも言わずにお独りで街に行かれます。もちろん、お声をかけていただいたのならば、あなたはそれに随行して下さい。けれどもし、お声がなかったのならば、大教母様には気づかれないようにあとをつけていただきたいのです。その理由は」
 そこで一旦言葉を止めて、シスターアグネスは本当に優しそうに苦笑した。
「大教母様は、私的なことでシスターに負担をかけることを殊の外お厭いになります。加えて、アヴェはあなたの故郷と知っておられますから、おそらく数時間、あなたにブレイダブリクの町を自由に歩く時間をお与えになるでしょう。その間、あの方はまったく私的なご用事を済ませようとするはずです」
「し、私的なご用事とおっしゃいますと?」
 あたしの問いに、シスターアグネスは少し逡巡した後、ゆっくりとかぶりを振った。
「…それは、憶測では答えることはできません。この可能性そのものも、わたくしの勝手な推測に過ぎないのです。けれどもし、わたくしの言った通りになったら、あなたには大教母様の影共をお願いしたいのです」
 あたしはそこに至って、本当にようやく、今回の随行シスターに自分が指名された真意を汲み取った。
 あたしは、自慢じゃないけれどそこいらの僧兵には負けないくらいの腕を持つ、格闘家の端くれである。ニサン正教に帰依し、シスターになって以降は、役立つどころか悪目立ちの材料でしかなかったそれが、こんな場面で、しかもこんな形で役に立つなんて。
 それが他でもない大教母様のお為になることに、あたしは言いようのない高揚感を抱いて、どんと自分の胸を叩いた。
「はい! お任せ下さい、シスターアグネス。そういうことでしたら、わたくしの得意分野ですから」
「ありがとう、シスターヒューイット…ごめんなさい、せっかくのアヴェ行きだというのに、純粋に楽しませてあげられなくて…」
 本当に申し訳なさそうに言って下さるシスターアグネスに、あたしは朗らかに笑った。
「いいえ、そんなことはありません、シスターアグネス。たとえどんな状況であっても、アヴェの地へ帰れると思うだけで、わたくしは幸せです。それに、他ならぬ大教母様のお為でしたら、たとえ火の中水の中」
 ととと、ちょっと調子に乗りすぎちゃった。思った通り、シスターアグネスが苦笑されているわ。
 あたしは居住まいを正し、ふと浮かんだ疑問を、改めてシスターアグネスに問い掛けてみた。
「でも、シスターアグネス。あの大教母様に限って、お一人で出歩かれるなんてこと、ありますでしょうか?」
 こと、思慮分別にかけては類を見ない大教母様をして、そんな暴挙に出るかしら? と首を傾げたあたしに、シスターアグネスは何とも言いようのない、苦い微笑みを浮かべられて、こっそりと囁かれた。
「……あなたも、よい機会だから覚えておおきなさい。大教母様の御血を継がれる方々に限って、侮ればどんな目にあうものか……」



 そしてあたしは、懐かしい故郷アヴェの空の下、シスターアグネスの言葉を嫌というほどかみ締めることになった。
「ど、ど、どうしよう……」
 きっと、傍目にも真っ青になっていたんだろう。道行く人たちが、あたしの顔をじろじろと眺めている。その顔の中に、探している人物がいないかと目を泳がせてみるけれど、当然そんな奇跡が起こるはずもなく。
 あたしが油断していたのか、それとも、小柄ですばしこい大教母様の脚力が純粋に勝ったのか、気がつけば信じられないことに、あたしは大教母様の華奢な背中を見失っていた。
 その原因の一つは、絶対に、この法外な賑わいだわ!
 なんて八つ当たりをしてしまいそうになるけど、心のどこかで、故郷アヴェの壮麗な首都、ブレイダブリクが息を吹き返している姿に、言葉にできない感動を覚えている自分もいて。
 ああ、もう! そんなことよりも、今は、大教母様を探すことが先決よ!
 あたしは自分を奮い立たせて、改めて走り出した。
 大教母様は、3人の僧兵とあたしをお連れになって、つい数時間前にブレイダブリクに到着された。シスターアグネスの取り計らいで、旧ファティマ王城に程近い場所にある宿を、あたしと僧兵用に用意して下さっていたのだが、大教母様はあたし達と共にそこへ行き、長旅の疲れを癒してから旧王城…今は、アヴェ国国会議事堂兼大統領官邸となった城へ行こうとご提案された。
 元より、少数の護衛で気を張っていた僧兵達に否やもなく。まだ日も高いという油断からか、あっさりとその案は受諾されて。
 シスターアグネスの読み通り、大教母様はあたしに『ゆっくり町を見てきなよ』と勧めて下さった。あたしは内心、シスターアグネスの慧眼に驚きながらも、不自然がないように注意して、それを受け入れたふりをした。
 そこに至っても半信半疑だったあたしが、町を見物に行くと見せかけて、大教母様がお休みになられているお部屋の隣室に身を隠していると、何と用意のいいことに、アヴェの民族衣装に着替えられた大教母様が、人目をはばかるように宿を出て行くじゃない!
 あたしは、普段思慮分別に長け、決して無茶な振る舞いをなさらない大教母様の、あまりに大胆不敵な行動に、正直驚いてしまった。これじゃまるで…まるで、年相応の女の子じゃない!
 何とも言えない嬉しさと、少しばかりの興奮を伴って、あたしは急いで大教母様のあとについて出たのだけど……
 そのお姿を見失うのに、五分とかからなかった。
 ああもう、あたしの馬鹿! どんな顔をして、シスターアグネスにお詫びすればいいの?!
 これは完全に、あたしのミスだわ。あんなにシスターアグネスに念を押されていたというのに、あたしは心のどこかで大教母様の事を侮っていた。ニサン聖堂の奥深くで育てられたはずの大教母様が、まさか、あんなに物慣れた風に、異国の地で歩く事がおできになるなんて!
 もし、大教母様の御身に何事かあったら……!
 あたしは、自分の不吉な考えにとりつかれて、大声で叫び出したい心境に駆られた。そんなことになったら、あたし、あたしだって死んじゃうわ!!
 闇雲に走りながら、あたしはどんどん胸の奥が重くつかえていくのを感じていた。あんなに心強かったブレイダブリクの喧燥が、その思いに拍車をかけていく。頭の中では勝手な妄想が広がり、無頼者にその手を取られる大教母様の、悲痛な叫びが聞こえてくるようだった。
 その時、忙しなく動いていたあたしの視界に、鮮やかなコントラストが飛び込んできた。
 周囲より頭一つ分飛びぬけた、均整の取れた長身。美しい輝きを放つ、神秘的な銀の髪。アヴェ特有の褐色に、少しだけ深みを増した肌。そして何より、その涼しげな碧玉を塞ぐ、片目のアイパッチ!
 何故こんなところに、とか、以前一方的にお見掛けしただけの方に、こちらからお声をかけるなんて失礼にあたる、とか、本来考えるべき常識的な疑問なんて、あたしの頭から吹き飛んでいた。
 ただただ、わらにもすがるような心境で、あたしは一つ前の通りを歩く、どうしたって悪目立ちされるその方の名を、声の限りでお呼びした。
「ハーコート筆頭ッ!!!」
「!?」
 呼ばれたその方は、俊敏に振り返られて、自分に突進してくるあたしに驚きの視線を返した。
「……君は?」
 深い、落ち着いたバリトンに、あたしが上がった息を収めて答えるまでに……
 一体、何秒かかっただろう?
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