DAYBREAK-デイブレイク-
アヴェの澄んだ空気が肌に心地良い。
今日もまた、暑くなりそうな蒼穹を見上げて、ミシェルは目を細めた。澄み渡った青空は晴れ晴れとしていて、雲ひとつ見当たらない。
ふと視線を斜めに上げると、アヴェ国国会議事堂の壮大な屋根の向こうで、のんびりとした鳥の滑空が見えた。
「いい天気…」
呟いて、ミシェルは目に刺さる日光から視界を守るように、ふと右手をかざす。その手には、銀色の花切鋏が握られていた。
「はぁ…もう、夏も近いなあ…」
いつか、どこかでこんな台詞を言った覚えもあるけど、とりあえず抜けるような青空を見ると、ついそう言ってしまう。アヴェは、これから本格的な暑さに見舞われる。
「おっといけない、花、花と…」
視線を空から地上に戻し、ミシェルは庭師が丹精こめた中庭の花の、今が丁度咲き頃の幾本かに、花切鋏を入れた。
ぷつん、と茎が切れる。花の生け方は、ここへきた当初老侍従のメイソン卿にみっちりと仕込まれたから(実は、それと大統領補佐官との業務内容が、どう重なるのか解らなかったけど)花の選別も摘み方も、慣れたものである。
「なにしてんの」
不意に、背後から声をかけられて、ミシェルは身体ごとそちらを向いた。
早朝と言うには少し時間が経ったけれど、それでもまだ朝は早い。大地を見下ろす太陽光線も、本格的な猛威を揮う直前で、斜めに吹いたそよ風は冷たい息吹を残していた。
その風にちょっと煽られて、キュランは片目を瞑る。高く結い上げたブロンズ・グレイの髪が、優しい西風に煽られて揺れた。
「おはよう、早いねキュウ」
「こんなの、早いうちに入んないわよ」
早朝礼拝が染み付いてるからね、とキュランが笑った。今日はきちんと修道服を着ているせいか、どこから見てもシスターに見えてしまうのがおかしくて、ミシェルはくすりと微笑む。
「ところで、何してんの?」
もう一度同じ問いかけをして、キュランはミシェルの手の中にある花を見やった。
「花摘んでんの」
「それは解ってるわよ馬鹿。あんたってホント、応用力がないわよねえ」
「解ってるよ、言ってみただけだろ。だったらキュウだって、何で花摘んでるの? って言えばいいんだよ」
「うるさいわねぇいちいち。ホント、朝からまったく」
そう言うキュランに、どっちが、と言い掛けながらも、ミシェルは何となく嬉しい気分だった。
だって、どことなくキュランが、肩の力を抜いているのが解ったから。きっと彼女は、機嫌がいい時の方が毒舌なのだろう。あまり、いい性格とは言えないけれど。
「メイソン卿がね、朝のお茶の時に、飾る花が欲しいって言ってたから」
「それで摘んでるの? でもあんた、お茶に招待されてるのって自分じゃない。自分のために摘んでるなんて」
「ん、だって別に、これも仕事だし、それに」
お茶に呼ばれてるのは僕だけじゃなくて、キュウもじゃないか。
そう言いかけたけど、でもそうしたらキュランのために花を摘んでいる、と言ってるも同じなので、やめにした。どういう突込みを受けても、慌ててしまう自分が簡単に想像できたから。
そのかわり、珍しくこんな風に世間話を始めるキュランに、別の質問を浴びせる。
「キュウこそ珍しいよね、こんなところに来るなんて。大教母様のお世話はいいの?」
「うちの大教母様はね、どこかの大統領と違って、ご自分のお世話はご自分でできるの」
「大統領だってできるよ、ただ、人の手が入った方が早いってだけで」
「そういうのは、できるうちに入りません」
「はいるって。でも大統領は分刻みで忙しいから、だから」
大統領、という単語が絡むと、ミシェルの口数も多くなる。夢中になってきた彼を見やって、キュランは呆れたように肩をすくめて、彼の手から銀色の花切鋏を抜き取った。
「あたし、この花が好き」
言って、勝手にぶつぶつとオレンジ色の花を切るキュランに、もう少し長めに切って欲しいなあなどと口の中で呟きながら、ミシェルは話し掛ける。
「でも、大教母様の傍にいなくていいの?」
「だってお邪魔だもの」
「じゃま?」
「そう。大教母様、朝からずっと、大統領のお部屋」
というか、明け方からずっと。
その言葉に、ミシェルはなんとなく手持ち無沙汰に視線をさまよわせた。ふうん、とかいう空気の抜けたような声に、キュランは視線を転じる。
「何考えてんの、バーカ」
「な、なにって」
「酔いつぶれた大統領と、そのお仲間の看病に行ったのよ。エレハイム様もご一緒に」
これだから、男って。言外にそう含んで、呆れたような視線を送ってくるキュランに、ミシェルは無駄かもしれない抵抗を試みた。
「ベ、別に僕は、そうだろうなあって思ったよ」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないよ! だって、昨日の様子じゃあ大統領、相当出来上がってたし、こりゃ今朝は轟沈だろうなあって思ったもん」
「そうね。よっぽどいいことあったんじゃないの?」
言いながら、キュランはぷつん、と桃色の花を切った。その視線がどことなく沈んでいて、ミシェルは訝しむ。
「キュラン?」
「ん?」
「どうかしたの?」
問いかけに、キュランは下げていた視線を上げた。奇妙に大人しい彼女に、ミシェルはますます訝しむ。何というか、彼女を彩る鮮烈な、巻き込まれずにはいられない迫力が、ない。
幼馴染の直観か、すぐにそれと気付いたミシェルの言葉に、キュランは再び視線を下げた。長い睫毛が影を作り、子供のように拗ねた口調で、ぽつんと呟く。
「…だって。大教母様、もう、大統領のものになっちゃったんだなあって思うと」
「はぁ?」
ワケが解らない、といったミシェルの相槌に、キュランはむっと唇を突き出した。ふくれた表情は、昔と全然変わらない。
「なによ、あんたは全然口惜しくないの? 寂しくないの?」
「え? 何が?」
「なにがって…大教母様を、大統領に獲られたなーとか、大統領を、大教母様に獲られたなーとか、そう言う感情、ないの?!」
言い切って、キュランはきつい眼差しを向けた。少しだけ頬が紅潮しているのは、言った言葉に対する照れか、自己嫌悪か、なんなのか。
キュランの唐突な言葉を、ようやく頭で整理したミシェルは、悪いと思ったけれど、本当に悪いと思ったけれど、見事に吹き出してしまった。
「ぷっ!! あはははははっ!!」
「なっ……」
もちろん、この反応はキュランの自尊心を大いに傷つけた。せっかく勇気を出して、多分同じ立場にいるであろうミシェルに、心の中のもやもやを吐き出したのに、同調も同情もしてくれないでこの仕打ち。
あんまり頭にきたから、得意の踵落としでも決めてやろうかと、半ば本気で思ったキュランが、修道服の長いスカートをたくし上げる直前に、ミシェルはようよう笑いを収めて、目尻に浮かんだ涙を拭く。
「なんだあキュラン、口惜しくて寂しいんだ、大教母様が傍にいなくて」
「……っ」
自分で言った言葉でも、こうやって改めて言われると、なんだか馬鹿にされているようで、キュランはカッと眦を上げる。
「違うわよ! あたしは、大教母様が傍にいないことが寂しいんじゃなくて、大教母様を本当に幸せにしてあげる事ができるのが、あたしたちじゃなかったってことが寂しいって言うか!」
言いながら、なんだかこれも言い訳のようだなと、自覚していたから。口惜しくて、キュランは手にしていた花を思いっきりミシェルにぶつけた。
「あイテ」
「ふんっ! なによ、この鈍感馬鹿ミーシュ! あんたなんてどうせ、大統領大統領言ってたくせに、自分の力で大統領が幸せにならなくても、口惜しいとか感じないのよねっ! どんな形でも、大統領が幸せならそれでいいのよねっ」
「うん」
あっさり頷いたミシェルに、キュランはがくうっと肩を落とす。なんだか、ムキになっていた自分がとても馬鹿みたいなほど、今日のミシェルは柳に風だ。生意気な。
「キュランは、大教母様が幸せになるのが嬉しくないの?」
「…っ何聞ーてんのよばかあほ鈍感! 誰もそんなこと言ってないでしょっ!」
「じゃあ、何が不満なの」
「だからッ! 大教母様が、大統領の力だけで幸せになれちゃうのが不満って言うか、寂しいって言うか、あーもうこんな気持ち、どうせあんたにはわかんないわよ薄情ものっ」
「解るよ、そんでもって鈍感なのは僕じゃなくてキュウの方」
「何ですってっ」
ミシェルのくせに生意気な! そう思って睨んだキュランの視線の先で、ミシェルは意外にも、とても落ち着いた眼差しを向けていた。
「大教母さまが、大統領の力『だけ』で幸せになれる人なら、今ごろこの世界はなくなってると思うけどなあ」
「え?」
きょとん、というよりは、怪訝な顔を向けて、キュランが振り上げていた拳を収める。ミシェルはゆっくりと、散らばった花を拾い集めながら、ぽつぽつと続けた。
「確かに、大教母様にとって大統領は、なくてはならない人だし、そう言う意味では、大教母様を最高に幸せに出来る人は大統領だよ。でも、あのお二人が目指しているものは、自分たちだけの幸せじゃないじゃない」
「……」
「二人でいれば幸せ、なんて、そんな寝ぼけた幻想を簡単に抱ける人たちなら、二年半も回り道しないで、さっさと一緒になってたよ。荒れ狂った世界の真ん中でね」
ミシェルの長い指先に、花に零れた朝露が触れる。太陽の光を浴びて、それはきらきらと宝石のようだった。
「でも、あのお二人はそうじゃない。多分、自分たちの幸せと、等価値、いやそれ以上の比重をもって、この世界の幸せを願ってる。そしてそれを、実現している。その前提があって初めて、あの方たちは本当に『幸せ』になれるんじゃないかなあ」
「……なにそれ」
ぶすくれた表情で、それでもその瞳だけはぴたりとミシェルに据えて、キュランが呟いた。ミシェルは花を全て拾い終えて、よいしょと腰を上げる。
「ん、だからさ。大教母様が『今』幸せなのは、キュラン達が大教母様の傍にいるから、じゃないかな」
「……」
「大教母様のホントの幸せには、大統領はもちろん、キュランたちの存在も、なくてはならないと、僕は思います」
まる、とおどけたように締めて、ミシェルはキュランの手から花切鋏を受け取ろうと手を伸ばした。しかしそれよりも早く、キュランの手がさっと引かれ、真っ直ぐこちらを射抜く深緑の瞳が呟く。
「なんかものすごくそれ、詭弁のような気がするんだけど」
「そうかなあ。視点の相違だと思うけどなあ」
「あたしの言ってる事、うまーくずらしてごまかしてない?」
「そう思う?」
にやり、と、ミシェルは笑った。その表情はどちらかと言うと、ミシェルよりはキュランの方に似合う、余裕のあるものであって、対するキュランの表情はむしろ、いつものミシェルのそれのように、頼りないものだった。
「……解ってるわよぅ…。あたしの言ってる事は、ただの子供のやきもちだって」
「あ、自覚あり?」
「うっさい。…グチくらい言わせないさいよ、こんな事、あんた以外に言えないんだから」
多分、自分が大教母様を思う気持ちと同じくらい、『大統領馬鹿』だと踏んだ幼馴染の、意外なほど達観した意見に、噛んで含んで諭されて、口惜しいけれどそんなことはわかってるのだ。
…可愛くないなー。
「…昔は良かったなあ。あんた、ピィピィ泣いて、あたしのあとばっか追っかけて、あたしの言うこと何でも信じて」
「…何でそこで昔話」
「ホント、可愛かったなああの頃は。背だってあたしの肩くらいしかなくて、かけっこも遅いし木登りは出来ないし、いっつも転んであたしの手ぇ焼かして」
「はいはい、どーせ僕はドン臭いガキでしたよ」
「あたしが引っ越すって聞いた時もさ、おっきな目ぇうるうるさせて、また会えるよね? キュウ、なんてさ」
「はいはい、どーせ僕は諦めの悪いガキでしたよ」
「だからあたしもつい、あんたと離れたくなくて、持っていっちゃおうかなコイツ、とか思ったりもしてさ」
「はいはい、どーせ僕は……え?」
ぎょっとして、ミシェルが目を剥く。キュランは彼の視線をわざと避けるように、後ろを向いて花を摘んでいた。
「でも、そんな事始めっから無理だったじゃない、犬や猫じゃないんだからさ。どんなに駄々こねたって、暴れたって、喚いたって、マチカから出ていくのはもう決まった事で、あんたと離れるのはもう決まった事で」
「き、キュウ…」
「ましてこんな戦乱の世の中で、将来生きて会えるなんて保証はどこにもないし、じゃあここで別れたらもう、二度と会えないかもって思ったら、なんか」
そう言って、くるりとキュランが振り返る。半ば呆然としているミシェルに視線を合わせ、はっきりと意志の強そうな瞳が囁いた。
「期待して生きるのは疲れるから、だったら最初からきっぱり捨ててこうって思ったの」
「…は?」
思ってもみなかった言葉に、ミシェルの目が点になる。こういう展開になる雰囲気じゃあ、なかったはずなのに。
「だから『もう二度と会わない』って言ったの。覚えてる?」
「あ……うん」
間抜けに頷いて、ミシェルは嘆息した。そうか、そう言う意味だったのか。
「でも、会っちゃうんだもんねえ。しかもこーんなに、生意気に成長して」
「……」
項垂れたミシェルの、琥珀色の猫っ毛をわしわしと撫でながら、キュランがどこまでもお姉さんのような口調で言う。
「こう見えてもあたし、あんたの事は結構心配してたのよ。あたしがいなくても、一人でちゃんとできるかなとか、いじめられてないかなとか、泣かされてないかなとか。ほら、あたしにとってあんたって、弟みたいなものだったし」
「……」
「もう会わないって、自分で言い切ったんだけど、何度かマチカに行ってみようかなとか、思ったりね。でもそうしているうちに、キスレブとの戦いが激化してきて、アヴェもニサンも不穏になってきたでしょ」
「……」
「結局会いにいけなかったわね。でも、時々はちゃんと、思い出して…」
「僕は全然思い出さなかったよ」
突然、ミシェルが項垂れたままそう言いきった。ミシェルの頭を撫でていたキュランの手が、ぴくりと震える。
驚いたように目を丸くした彼女に、ゆるゆると顔を上げたミシェルの視線が被る。その眼差しは深く強く、僅かに見上げるようになるキュランに、威圧感を与えた。
彼女の手は、もう、ミシェルの頭上には届かなかった。
「マルーに会って、世間話の中に幼馴染の話が出るまで、僕は全然思い出さなかったよ、キュランの事」
「……あ…っそ。は、薄情ねえ!」
得も言われぬ迫力に気圧されまいと、キュランはわざと拗ねたふりをして。でも本当はその言葉に、心のどこかがつくつくと痛んで。
なんだか、目の奥が熱くなるような、ふしぎな焦燥感に押されるように、キュランは視線をミシェルからずらして、銀色の花切鋏を彼に押し付けた。
「でも安心したわ。これであたしも、あんたのお守り役、お役ごめんね」
「うん」
「……はくじょうもの」
なんだかすごく悔しくて、ものすごい勢いでなんでもいいから文句を叩きつけてやりたいけど、そんなことをしていたらうっかり涙が零れるような気がして、キュランはそそくさとその場を逃げるように、踵を返した。
その細い腕を、ミシェルが掴む。思った以上に力強いそれに、キュランの心臓がひっくり返った。
「な…っ」
掴まれた腕を振り解くために、キュランがミシェルを振り返ると、ミシェルは真剣な表情で、じっとキュランを見つめてこう言った。
「だって忘れないと、生きていけなかったから」
「……はい?」
唐突な言葉に、キュランの細い眉が寄る。ミシェルは表情を変えずに、機械的な口調で続けた。
「キュランはわかってないんだよ、あの頃の僕にとって、キュランがどんなに大事だったか。ただの遊び相手で、お守り相手で、そう思ってたからキュランは、勝手に自分の気持ちに区切りつけて、もう会わないなんて言って、キュランはそれで良いかも知れないけど、言われた僕はどうすればいいわけ」
「ミ、」
「僕は、あるかないか解らない可能性でも、また会えるっていう約束がなきゃ、どっちを向いていいかわからないくらいガキだったんだよ。可能性に期待しないでも、キュランの事を覚えてられるほど、強いガキじゃなかったんだよ」
「ミー、」
「だから忘れたんだよ、そうしなきゃ辛くてしょうがなかったんだよ。もう会わない、なんて言われたら、絶対に会えないって解ったら、忘れなきゃしょうがないじゃないか。だって期待したって、絶対に無理なら、期待も出来ないなら、忘れなきゃ」
「ミーシュ、」
優しくそう言って、キュランはミシェルの頭に手を伸ばした。僅かに爪先立った彼女の顔が近づいて、ミシェルは無意識に背を丸め、華奢な彼女の肩に、その額を預けた。
「……よしよし」
「……」
キュランは、体重を預けるミシェルの背に手を伸ばして、ゆっくり優しく撫でてやった。普段の過激なほど強い瞳には、愛情のような優しさしか浮かんでいなくて、ミシェルを宥める指先には、母親のような穏やかなものがあって。
「……よしよし」
「……ガキ扱いしてるし……」
「そんなことないよ。いい子いい子」
「いい子じゃないって」
「じゃ、いい男、いい男」
「…ナニソレ」
ぷくく、とミシェルが笑った振動が、キュランの肩に伝わってきて、キュランは何となく、口元が微笑むのを止められなかった。
「ほーんと、予想以上に『いい男』に育ってくれちゃって…なんだか、感慨深いわね、お守り役としては」
軽い口調のキュランに、ぴく、とミシェルの肩が揺れて、のっそりと起き上がった彼の視線が、どことなく据わって見えた。
「もう、お守り役はお役ごめんって言ったよね」
「え?」
じっと自分を見つめる、その薄水色の瞳に、キュランは初めて気付いたように反応を失った。至近距離にあるその双眸が、もの言いたげに揺れている。
「…ミーシュ?」
不意に訪れた沈黙に、キュランが恐る恐る呟く。花畑を縫っていく微風が、ふわりと彼女の髪を撫でて、ミシェルの長い睫毛を揺らした。
「……キュラン、」
すう、と深い呼吸の後、真っ直ぐに視線を合わせたミシェルの言葉が、キュランの耳朶に響く前に。
「おー、いたいた」
あまりにもお約束な、呑気な声が庭園の向こうからかけられて、キュランとミシェルは同時に肩を揺らした。
「探したぜ、ミシェル…あれ?」
「……あ」
長い腕を上げて、その豪奢な金色の髪を緩くみつあみにした青年の影から、こちらを見やった茶褐色の髪の少女が口に手をあてる。瞬間、四人の視線が交錯して、ふしぎな沈黙が訪れた。
「あ、ごめん、おじゃまだった?」
とりあえず、申し訳なさそうにフォローを入れるマルーの言葉に、はっと我に返ったミシェルとキュランがお互いを見やって、同時に首を振る。
「いいいえ、べつにそんな」
「そうですよ、別になにも。花を摘んでただけですからっ」
二人の態度に、今更ながら『まずった』という表情で、バルトがちらりとマルーを見下ろす。マルーはその視線に、しょうがないなあ、という風に肩を竦めた。
「あのね、爺が、朝食が出来たから二人を呼んで来いって言ったの」
「えっ、だ、大教母様たち、自ら探しに来て下さったんですかっ?!」
恐縮したキュランに、マルーがふわりと微笑む。
「うん。ごはんの前に、どうしても二人にお礼が言いたくて」
「お、お礼?」
きょとんとした二人に、マルーは頷いた。傍らのバルトを見上げて、それからまた視線を戻す。
「なんだか、今回の事で、二人にはいろいろお世話になったって、シグが教えてくれたの。だから、ありがとうって言いたくて…」
「そ、そんな! お世話だなんて」
「そうですよ、もともと話を複雑にしたのは、ミシェルなんだしっ」
キュランの言葉に、バルトは自分の顎のあたりをぽりぽりと指でかきながら、そっぽを向く。
「…いや、元凶は俺だし」
「そんな、大統領…」
「いいのいいのミシェル、少しは若にも反省してもらわなきゃ」
揚げ足をとるマルーに、バルトはきゅっと片眉を上げる。しかし反論はないらしく、そのまま大人しく明後日を向いた。
「態度はこんなだけどね、ちゃんと反省してるんだよ、若。もちろん、ボクも…」
そう言って、マルーは悪戯っぽく肩を竦める。そんなマルーに、キュランは心から嬉しそうに笑った。
「では、お二人の誤解は全て解けたんですね?」
「うん、おかげさまで。昨日のうちに、二人には報告したかったんだけど、若が酔っ払っちゃって…」
「俺のせいばっかじゃねえよ、なんだか知らねえけど、フェイ達がばかすか酒を注ぎに来るから…」
「そんなの言い訳にならないよ。みんなにも報告があったくせに、お酒注がれると片っ端から飲むから、へべれけになったんじゃないか」
「しょうがねえだろ、前半はろくに酒の味もしなかったんだから」
「それを、人は自業自得といいます」
「なにをぅっ」
じゃれ合うバルトとマルーの前で、ミシェルとキュランは何となく居心地が悪そうに顔を見合わせた。仲直りしたのは良く解ったが、普段からこういう雰囲気だったとしたら、周りの人たちの苦労も何となく偲ばれるなあとか、ちょっと思いながら。
「あの、それでは大教母様、お二人は…」
少しだけ申し訳なさそうに、キュランが話し掛けると、マルーとバルトの視線が不意に彼女に向けられた。
「え、あ、うん」
途端に、何となくギクシャクとするマルーとバルトに、キュランとミシェルの視線がぶつかる。特に、バルトは居心地悪そうに空を見上げ、視線をあくまでもそらしたままだ。
「その、この先は…」
言葉をつないだキュランに、ぴくりとバルトの肩が震える。よくよく見れば、浅黒い彼の顔はすでに真っ赤になっていて、傍らのマルーも困ったように微笑んでいた。
「…えーと、ソレなんだけど」
「…じゃあ、俺、行くわ」
「ええっ?! なにそれ若ずるい!!」
くるりと踵を返したバルトの背を、マルーがむんずと掴んだ。
「どーせあとで、フェイ達にも言うんでしょ! なに恥ずかしがってんのさ!」
「は、恥ずかしがってんじゃねーよ! 後でも言うことを、今も言うこたないってんだよ!」
「ミシェル達は、ボクたちのために色々頑張ってくれたんだから、報告するのは義務でしょーが!」
「じゃあ、任せた、マルー!」
「あっ! こらー!!」
するり、と鮮やかにマルーの手から逃れて、バルトはそそくさとその場を後にした。口惜しそうなマルーの声が追いかけるが、すでにその後ろ姿は消えていて。
「もうっ! いっつもこうなんだから! そんなんでこの先どーする気だろ!」
拗ねたように唇を尖らせるマルーが、くるりとキュラン達に向き直る。もう諦めた、と言わんばかりのため息と共に、肩を竦めてバルトの消えた方向を指差した。
「ごめんね、あれで若、ものすっごい照れ屋だからさ」
「はあ……」
その言葉に、『完全無欠の大統領』像がまた一つ崩れ去って、ミシェルは内心複雑な思いでいた。マルーの存在で、今まで見えてこなかったバルトロメイ・ファティマ像がどんどん露になっていく。
でもそれは、どこまでも心地いい裏切りばかりだった。
「それで、その、ボクたちのことなんだけどね」
言葉を切って、マルーは言った。その白い頬はわずかに赤らみ、言いにくそうではあったがその瞳はまっすぐで、喜びに満ちた瞳がきらきらと輝いている。
「とりあえず、今すぐどうこう、って事じゃないんだけど、近い将来、ボクはアヴェに来ることになったんだ」
「え……っ」
「と言うことは」
ミシェルの呟きに、マルーはこくんと頷く。
「うん。……大統領、夫人、ってやつ…一応」
「あ……」
解っていた事だけど、改めて言われると驚きの方が大きくて、ミシェルは絶句してしまった。その傍らで、キュランがなにごとか考えるように唇を閉ざし、じっとマルーを見つめる。
先に言葉を紡いだのは、彼女の方だった。
「…おめでとうございます、大教母様」
ゆっくりと、その言葉を噛み締めるように呟いたキュランに、マルーは真っ直ぐ視線を合わせ、本当に嬉しそうに微笑む。
「…ありがとう、キュラン」
「あ…っ、お、おめでとうございます、大教母様!」
「ありがとう、ミシェル」
「じゃあ、今から準備が大変ですねっ! お式はいつですか?」
興奮したようにはしゃぐミシェルに、マルーは落ち着いて答えた。
「うん…そうだね、多分一年後」
「へ?」
その返答に、ミシェルはきょとんと目を丸くする。いくら国家の要人同士の婚礼とはいえ、それほどの時間を要すると言うのは異例だ。
しかしキュランはすぐに心得たように頷いた。
「一年間、ニサン正教の方の土台固めに費やすのですね。大教母様がいなくなられた後の、組織としての機能を確立させるために」
「!」
その落ち着いた声音に、ミシェルは今更のようにはっとした。
そうだ、『ニサンの大教母』が『アヴェ国大統領夫人』になるとしたら、当然ニサン正教の機能が破綻してしまう。正教創生の頃より、その象徴は『大教母』であり、数代前の大教母がアヴェの国王と結婚した時も、『大教母』と言うシステムはその娘に受け継がれた。
しかしそれは、あくまでも世界が平和だった頃のことで、今や全人類にとっての『ニサン』すなわち『ニサンの大教母』の存在は、単なる一国家の元首には留まらない、庇護と安らぎの象徴になっている。
そこへ来て、大教母のアヴェ入り…現在、ほとんど全てと言っていい難民を抱えるニサン正教にとって、その象徴を他国に嫁がせる事へのデメリットは計り知れない。
多分、キュランはとうにその事に気付いていたのだろう。だからこそ、バルトと心を通わせたマルーに、ほんの少しの寂寥感を覚えたのだ。
もう、ニサン正教は、この『うつくしいひと』をひとりじめできない。それはある意味仕方がない事だけれど、寂しくないはずがない。
静かな眼差しでじっとマルーを見つめるキュランの、言葉の裏にあるどうしようもない切なさに、ミシェルは知らず口を開いていた。
「…キュランも、アヴェに来ればいいんだよ」
「え?」
不意をつかれたように、キュランがミシェルを見やる。ミシェルは自分の言葉に遅まきながら驚いて、はっと目を丸くした。
「なに、どういう意味?」
「え、あの、それは…」
意味。どういう意味もなかったけれど、ただキュランが悲しそうだったから、思いつく最善の方法を言っただけで…でも、そこに意味を持たせてもいいのなら。
意味を持たせてもいいのなら。
「ミシェルの言う通りだよ、キュラン」
「え?」
今度は、ミシェルとキュランの声がハモった。同時にマルーを振り仰いだ二人に、マルーは少しだけ悪戯っぽく微笑む。
「今、アヴェで進められている改革案に、『アヴェ国内生活不適応者の処遇と懲罰、改善策における基本的人権案』って言うのがあってね。つまりそれは、アヴェ国内に存在する『ウェルス変異体及び変異経験者』の、社会復帰に関わる案なんだけど」
「あ!」
小さく叫んで、ミシェルは自分の口を覆った。なんて事だ、うっかりしてた。そう言えば、そうだったと自分の迂闊さに眉を寄せる。
「ミシェル?」
きょとんとしたマルーに、ミシェルははっとして首を振った。
「いえ、すみません。その案を失念していました…だから『一年後』なんですね」
「あ、ミシェルは知ってるんだよね、そう言えば」
「はい」
頷いたミシェルに、キュランの視線が向けられる。眉根を寄せた彼女に、ミシェルが肩を竦めた。
「筆頭も言ってただろう? 『会議の最後の案』ってやつ」
昨日行われた、『東区画』に関する法案会議の最後に、バルトが提案した改革案。それにまつわる『意味』は、バルトのマルーに対する気持ちを知って、初めて明瞭となった。
「大統領はこの一年間、アヴェの国内における『生活不適応者』…つまり『ウェルス変異体及び変異経験者』の処遇について、案を練っていらしたんだ。今までは、そのほとんどをニサン正教に依存し、アヴェとしては経済的・物質的・人員的援助をする事で、両国のバランスをとっていたんだ。つまり、表立った難民救済はニサンに、その礎となる基本資源はアヴェに、と言う風に」
「ええ…そうね」
ニサン正教の一員として、その政策の端役を担うキュランにとって、それは言わずもがなの事実だった。頷いた彼女に、ミシェルは言葉を続ける。
「しかし大統領は、その体制に疑問を持たれた。このまま、いつまで続くとも知れない難民救済を、一国家のみに預けるのは問題だってね。現に、アヴェ国内にはニサンへ渡ることも出来ずに隠れ住んでいる不適応者がたくさんいる。そしてなにより、ウェルスとは無縁の位置で、それでも世界復興に遅れをとった人々にとっても、ニサン教はかけがえのない心の拠りどころでもあるんだ」
「そう…だから若は、アヴェ国内にも密接な『ニサン正教』を確立しようとしてるんだ」
ミシェルのあとを継いだマルーの言葉に、キュランは目を丸くした。
「え? それじゃあ…つまりアヴェ国内にも、ニサン正教のシステムを導入するということですか?」
「うん。もちろん、ニサン教はずっと前から、アヴェにとっても国家宗教とされてるから、今回の目的は、今現在ニサンが担っている、難民救済のシステムなんだ」
マルーは頷いて、視線を空に向ける。
「正直、結構大変な話。この一年で、若がいろいろ根回しをしたみたいだけど、それでもまだ、微妙な段階なんだ。アヴェとニサン、ひいては世界中のシステムを揺るがす、一大改革だからね」
「……」
マルーの呟きに、キュランの眉根が寄った。
「…でも、そうしなければきっと、大教母様を失ったニサン正教と、大教母様を得たアヴェ国とのバランスが、崩れますね」
「……」
個人と個人の婚姻が、国と国との問題に発展する。それは、生まれた時からバルトとマルーにつきまわる『業』であり、昨日今日湧き上がった問題ではない。
「だからこそ、大統領はこの一年、必死になって改革案を進めてきたんだよ」
沈黙を裂いて、ミシェルの力強い声が響いた。マルーはちょっと驚いたように目を開け、キュランもミシェルを見やる。
「確かに、いろいろ問題は山積の案ですよね。だけど、もう動き出してる。あの大統領が、本気になって取り組んでるんです、大教母様。誰のためでもない、ご自分と、大教母様のために」
「……ミシェル」
その言葉に、マルーは再び頬を染めて、ぽつんと呟いた。ミシェルはにっこりと微笑んで、嬉しそうに言う。
「筆頭が言ってました。『国家』としては時期尚早でも、『大統領』としては、これ以上待てない法案だって」
「そ、そんなこと言ったの、シグが?」
「はい。僕もそう思います」
完全に真っ赤になったマルーに、ミシェルは悪戯っぽく微笑んだ。マルーは上目でミシェルを見やって、それからちろり、と舌を出す。
「…ホント、個人的な大統領と、大教母だね」
「…そんなことありませんよ。むしろ、遅すぎるくらいです」
「シグ?!」
突然背後からかけられた声に、マルーはぎょっとして振り返った。ミシェルとキュランも、慌てて声のした方を見やると、そこには燦々とした朝日を浴びながら、褐色の肌の青年が苦笑を浮かべて立っている。
「あまりに遅いので、迎えに行けと若に言われまして」
「若に? もー、そんなこと言うんだったら、自分で来ればいいのにっ」
「照れくさくてしょがないんでしょう。朝食が終わったあと、フェイ達にも改めて発表するそうですから、今からそわそわしていますよ」
「ふふっ、せいぜい緊張してもらわなきゃ困るね」
そう言いながらも、マルーは楽しそうに笑っていた。意地悪な彼女の言葉に微苦笑し、シグルドはその精悍な眼差しをミシェルたちの方へ向ける。
「昨日は本当にありがとう。君達のおかげで、私の肩の荷も降りたよ」
「いいえっ、もったいないお言葉です、ハーコート筆頭!」
とたんに、キュランの背筋がピンと伸びて、嬉しそうな声が返る。その傍らで、ミシェルがちらりと視線を流して、彼女の嬉しそうな顔を眺めた。
「そう言ってもらえるとありがたい、シスターヒューイット。ところで今回の法案について、あなたにはニサン正教の一員としての意見をぜひ頂きたいのだが、いいだろうか」
「はいっ、わたくしの意見などで宜しければ、喜んで!」
打てば響くような返答に、シグルドが微笑する。それからマルーを振り仰いで、穏やかに囁いた。
「では、参りましょうマルー様。みんなもう、待ちくたびれていますよ」
「うん、わかった。行こう、キュラン、ミシェル」
「はい」
答えて、キュランはうきうきと歩き出す。ミシェルはそのあとにつきながら、なんだかなあと手にしていた切り花を見つめた。…あぁ、萎れかけてしまっている。
朝の爽やかな空気は薄れ、何時の間にかじわじわと忍び寄る熱気が、アヴェ国大統領官邸にも訪れていた。目を向ければ碧天の隅で、呑気な鳥が二羽になって飛んでいる。
「…ミシェル」
「え? あ、はい?」
何時の間にか自分の傍らまで寄ってきていたマルーの呼びかけに、ミシェルはびっくりして視線を返した。その視界の端で、自分たちの数歩前を行くキュランとシグルドが、なにやら楽しげに話をしているのが見えた。
「あのね、今回の事はね、本当にミシェルのおかげっていうのが大きいんだ。ボクの背中を押してくれたのは、ミシェルの言葉だったから」
「え? ああ…そんなことないですよ。僕なんて、大した事言えなかったし…」
恐縮するミシェルに、マルーはにっこりと微笑む。出会った頃から変わらない…いや、一段と可愛らしくなったようなその微笑みに、ミシェルは思わず目を奪われた。
「…だからね、今度は、ミシェルが頑張る番だよ」
「へ?」
呟かれた言葉に、ミシェルは目を丸くする。マルーは小さく笑って、ミシェルの背中をぱん、と叩いた。
「応援してるからね、ボク!」
「え? ええ??」
背中の衝撃と、言われた言葉とに、二重に驚いて。
ミシェルは、上機嫌で歩を進めるマルーと、はるか前方でこちらを振り返ったキュランとシグルドとを交互に見やって、困ったように眉を寄せた。
「…参ったな……」
それから、少しばかりため息をついて、招かれる声に従ってさくさくと歩を進める。
アヴェの太陽光線は、容赦なくミシェルの琥珀の頭に降り注がれて。
顔が熱いのは、きっとその熱気のせいだと呟きながら。
ミシェルは、今日も暑くなりそうなその碧天を見上げた。
終
今日もまた、暑くなりそうな蒼穹を見上げて、ミシェルは目を細めた。澄み渡った青空は晴れ晴れとしていて、雲ひとつ見当たらない。
ふと視線を斜めに上げると、アヴェ国国会議事堂の壮大な屋根の向こうで、のんびりとした鳥の滑空が見えた。
「いい天気…」
呟いて、ミシェルは目に刺さる日光から視界を守るように、ふと右手をかざす。その手には、銀色の花切鋏が握られていた。
「はぁ…もう、夏も近いなあ…」
いつか、どこかでこんな台詞を言った覚えもあるけど、とりあえず抜けるような青空を見ると、ついそう言ってしまう。アヴェは、これから本格的な暑さに見舞われる。
「おっといけない、花、花と…」
視線を空から地上に戻し、ミシェルは庭師が丹精こめた中庭の花の、今が丁度咲き頃の幾本かに、花切鋏を入れた。
ぷつん、と茎が切れる。花の生け方は、ここへきた当初老侍従のメイソン卿にみっちりと仕込まれたから(実は、それと大統領補佐官との業務内容が、どう重なるのか解らなかったけど)花の選別も摘み方も、慣れたものである。
「なにしてんの」
不意に、背後から声をかけられて、ミシェルは身体ごとそちらを向いた。
早朝と言うには少し時間が経ったけれど、それでもまだ朝は早い。大地を見下ろす太陽光線も、本格的な猛威を揮う直前で、斜めに吹いたそよ風は冷たい息吹を残していた。
その風にちょっと煽られて、キュランは片目を瞑る。高く結い上げたブロンズ・グレイの髪が、優しい西風に煽られて揺れた。
「おはよう、早いねキュウ」
「こんなの、早いうちに入んないわよ」
早朝礼拝が染み付いてるからね、とキュランが笑った。今日はきちんと修道服を着ているせいか、どこから見てもシスターに見えてしまうのがおかしくて、ミシェルはくすりと微笑む。
「ところで、何してんの?」
もう一度同じ問いかけをして、キュランはミシェルの手の中にある花を見やった。
「花摘んでんの」
「それは解ってるわよ馬鹿。あんたってホント、応用力がないわよねえ」
「解ってるよ、言ってみただけだろ。だったらキュウだって、何で花摘んでるの? って言えばいいんだよ」
「うるさいわねぇいちいち。ホント、朝からまったく」
そう言うキュランに、どっちが、と言い掛けながらも、ミシェルは何となく嬉しい気分だった。
だって、どことなくキュランが、肩の力を抜いているのが解ったから。きっと彼女は、機嫌がいい時の方が毒舌なのだろう。あまり、いい性格とは言えないけれど。
「メイソン卿がね、朝のお茶の時に、飾る花が欲しいって言ってたから」
「それで摘んでるの? でもあんた、お茶に招待されてるのって自分じゃない。自分のために摘んでるなんて」
「ん、だって別に、これも仕事だし、それに」
お茶に呼ばれてるのは僕だけじゃなくて、キュウもじゃないか。
そう言いかけたけど、でもそうしたらキュランのために花を摘んでいる、と言ってるも同じなので、やめにした。どういう突込みを受けても、慌ててしまう自分が簡単に想像できたから。
そのかわり、珍しくこんな風に世間話を始めるキュランに、別の質問を浴びせる。
「キュウこそ珍しいよね、こんなところに来るなんて。大教母様のお世話はいいの?」
「うちの大教母様はね、どこかの大統領と違って、ご自分のお世話はご自分でできるの」
「大統領だってできるよ、ただ、人の手が入った方が早いってだけで」
「そういうのは、できるうちに入りません」
「はいるって。でも大統領は分刻みで忙しいから、だから」
大統領、という単語が絡むと、ミシェルの口数も多くなる。夢中になってきた彼を見やって、キュランは呆れたように肩をすくめて、彼の手から銀色の花切鋏を抜き取った。
「あたし、この花が好き」
言って、勝手にぶつぶつとオレンジ色の花を切るキュランに、もう少し長めに切って欲しいなあなどと口の中で呟きながら、ミシェルは話し掛ける。
「でも、大教母様の傍にいなくていいの?」
「だってお邪魔だもの」
「じゃま?」
「そう。大教母様、朝からずっと、大統領のお部屋」
というか、明け方からずっと。
その言葉に、ミシェルはなんとなく手持ち無沙汰に視線をさまよわせた。ふうん、とかいう空気の抜けたような声に、キュランは視線を転じる。
「何考えてんの、バーカ」
「な、なにって」
「酔いつぶれた大統領と、そのお仲間の看病に行ったのよ。エレハイム様もご一緒に」
これだから、男って。言外にそう含んで、呆れたような視線を送ってくるキュランに、ミシェルは無駄かもしれない抵抗を試みた。
「ベ、別に僕は、そうだろうなあって思ったよ」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないよ! だって、昨日の様子じゃあ大統領、相当出来上がってたし、こりゃ今朝は轟沈だろうなあって思ったもん」
「そうね。よっぽどいいことあったんじゃないの?」
言いながら、キュランはぷつん、と桃色の花を切った。その視線がどことなく沈んでいて、ミシェルは訝しむ。
「キュラン?」
「ん?」
「どうかしたの?」
問いかけに、キュランは下げていた視線を上げた。奇妙に大人しい彼女に、ミシェルはますます訝しむ。何というか、彼女を彩る鮮烈な、巻き込まれずにはいられない迫力が、ない。
幼馴染の直観か、すぐにそれと気付いたミシェルの言葉に、キュランは再び視線を下げた。長い睫毛が影を作り、子供のように拗ねた口調で、ぽつんと呟く。
「…だって。大教母様、もう、大統領のものになっちゃったんだなあって思うと」
「はぁ?」
ワケが解らない、といったミシェルの相槌に、キュランはむっと唇を突き出した。ふくれた表情は、昔と全然変わらない。
「なによ、あんたは全然口惜しくないの? 寂しくないの?」
「え? 何が?」
「なにがって…大教母様を、大統領に獲られたなーとか、大統領を、大教母様に獲られたなーとか、そう言う感情、ないの?!」
言い切って、キュランはきつい眼差しを向けた。少しだけ頬が紅潮しているのは、言った言葉に対する照れか、自己嫌悪か、なんなのか。
キュランの唐突な言葉を、ようやく頭で整理したミシェルは、悪いと思ったけれど、本当に悪いと思ったけれど、見事に吹き出してしまった。
「ぷっ!! あはははははっ!!」
「なっ……」
もちろん、この反応はキュランの自尊心を大いに傷つけた。せっかく勇気を出して、多分同じ立場にいるであろうミシェルに、心の中のもやもやを吐き出したのに、同調も同情もしてくれないでこの仕打ち。
あんまり頭にきたから、得意の踵落としでも決めてやろうかと、半ば本気で思ったキュランが、修道服の長いスカートをたくし上げる直前に、ミシェルはようよう笑いを収めて、目尻に浮かんだ涙を拭く。
「なんだあキュラン、口惜しくて寂しいんだ、大教母様が傍にいなくて」
「……っ」
自分で言った言葉でも、こうやって改めて言われると、なんだか馬鹿にされているようで、キュランはカッと眦を上げる。
「違うわよ! あたしは、大教母様が傍にいないことが寂しいんじゃなくて、大教母様を本当に幸せにしてあげる事ができるのが、あたしたちじゃなかったってことが寂しいって言うか!」
言いながら、なんだかこれも言い訳のようだなと、自覚していたから。口惜しくて、キュランは手にしていた花を思いっきりミシェルにぶつけた。
「あイテ」
「ふんっ! なによ、この鈍感馬鹿ミーシュ! あんたなんてどうせ、大統領大統領言ってたくせに、自分の力で大統領が幸せにならなくても、口惜しいとか感じないのよねっ! どんな形でも、大統領が幸せならそれでいいのよねっ」
「うん」
あっさり頷いたミシェルに、キュランはがくうっと肩を落とす。なんだか、ムキになっていた自分がとても馬鹿みたいなほど、今日のミシェルは柳に風だ。生意気な。
「キュランは、大教母様が幸せになるのが嬉しくないの?」
「…っ何聞ーてんのよばかあほ鈍感! 誰もそんなこと言ってないでしょっ!」
「じゃあ、何が不満なの」
「だからッ! 大教母様が、大統領の力だけで幸せになれちゃうのが不満って言うか、寂しいって言うか、あーもうこんな気持ち、どうせあんたにはわかんないわよ薄情ものっ」
「解るよ、そんでもって鈍感なのは僕じゃなくてキュウの方」
「何ですってっ」
ミシェルのくせに生意気な! そう思って睨んだキュランの視線の先で、ミシェルは意外にも、とても落ち着いた眼差しを向けていた。
「大教母さまが、大統領の力『だけ』で幸せになれる人なら、今ごろこの世界はなくなってると思うけどなあ」
「え?」
きょとん、というよりは、怪訝な顔を向けて、キュランが振り上げていた拳を収める。ミシェルはゆっくりと、散らばった花を拾い集めながら、ぽつぽつと続けた。
「確かに、大教母様にとって大統領は、なくてはならない人だし、そう言う意味では、大教母様を最高に幸せに出来る人は大統領だよ。でも、あのお二人が目指しているものは、自分たちだけの幸せじゃないじゃない」
「……」
「二人でいれば幸せ、なんて、そんな寝ぼけた幻想を簡単に抱ける人たちなら、二年半も回り道しないで、さっさと一緒になってたよ。荒れ狂った世界の真ん中でね」
ミシェルの長い指先に、花に零れた朝露が触れる。太陽の光を浴びて、それはきらきらと宝石のようだった。
「でも、あのお二人はそうじゃない。多分、自分たちの幸せと、等価値、いやそれ以上の比重をもって、この世界の幸せを願ってる。そしてそれを、実現している。その前提があって初めて、あの方たちは本当に『幸せ』になれるんじゃないかなあ」
「……なにそれ」
ぶすくれた表情で、それでもその瞳だけはぴたりとミシェルに据えて、キュランが呟いた。ミシェルは花を全て拾い終えて、よいしょと腰を上げる。
「ん、だからさ。大教母様が『今』幸せなのは、キュラン達が大教母様の傍にいるから、じゃないかな」
「……」
「大教母様のホントの幸せには、大統領はもちろん、キュランたちの存在も、なくてはならないと、僕は思います」
まる、とおどけたように締めて、ミシェルはキュランの手から花切鋏を受け取ろうと手を伸ばした。しかしそれよりも早く、キュランの手がさっと引かれ、真っ直ぐこちらを射抜く深緑の瞳が呟く。
「なんかものすごくそれ、詭弁のような気がするんだけど」
「そうかなあ。視点の相違だと思うけどなあ」
「あたしの言ってる事、うまーくずらしてごまかしてない?」
「そう思う?」
にやり、と、ミシェルは笑った。その表情はどちらかと言うと、ミシェルよりはキュランの方に似合う、余裕のあるものであって、対するキュランの表情はむしろ、いつものミシェルのそれのように、頼りないものだった。
「……解ってるわよぅ…。あたしの言ってる事は、ただの子供のやきもちだって」
「あ、自覚あり?」
「うっさい。…グチくらい言わせないさいよ、こんな事、あんた以外に言えないんだから」
多分、自分が大教母様を思う気持ちと同じくらい、『大統領馬鹿』だと踏んだ幼馴染の、意外なほど達観した意見に、噛んで含んで諭されて、口惜しいけれどそんなことはわかってるのだ。
…可愛くないなー。
「…昔は良かったなあ。あんた、ピィピィ泣いて、あたしのあとばっか追っかけて、あたしの言うこと何でも信じて」
「…何でそこで昔話」
「ホント、可愛かったなああの頃は。背だってあたしの肩くらいしかなくて、かけっこも遅いし木登りは出来ないし、いっつも転んであたしの手ぇ焼かして」
「はいはい、どーせ僕はドン臭いガキでしたよ」
「あたしが引っ越すって聞いた時もさ、おっきな目ぇうるうるさせて、また会えるよね? キュウ、なんてさ」
「はいはい、どーせ僕は諦めの悪いガキでしたよ」
「だからあたしもつい、あんたと離れたくなくて、持っていっちゃおうかなコイツ、とか思ったりもしてさ」
「はいはい、どーせ僕は……え?」
ぎょっとして、ミシェルが目を剥く。キュランは彼の視線をわざと避けるように、後ろを向いて花を摘んでいた。
「でも、そんな事始めっから無理だったじゃない、犬や猫じゃないんだからさ。どんなに駄々こねたって、暴れたって、喚いたって、マチカから出ていくのはもう決まった事で、あんたと離れるのはもう決まった事で」
「き、キュウ…」
「ましてこんな戦乱の世の中で、将来生きて会えるなんて保証はどこにもないし、じゃあここで別れたらもう、二度と会えないかもって思ったら、なんか」
そう言って、くるりとキュランが振り返る。半ば呆然としているミシェルに視線を合わせ、はっきりと意志の強そうな瞳が囁いた。
「期待して生きるのは疲れるから、だったら最初からきっぱり捨ててこうって思ったの」
「…は?」
思ってもみなかった言葉に、ミシェルの目が点になる。こういう展開になる雰囲気じゃあ、なかったはずなのに。
「だから『もう二度と会わない』って言ったの。覚えてる?」
「あ……うん」
間抜けに頷いて、ミシェルは嘆息した。そうか、そう言う意味だったのか。
「でも、会っちゃうんだもんねえ。しかもこーんなに、生意気に成長して」
「……」
項垂れたミシェルの、琥珀色の猫っ毛をわしわしと撫でながら、キュランがどこまでもお姉さんのような口調で言う。
「こう見えてもあたし、あんたの事は結構心配してたのよ。あたしがいなくても、一人でちゃんとできるかなとか、いじめられてないかなとか、泣かされてないかなとか。ほら、あたしにとってあんたって、弟みたいなものだったし」
「……」
「もう会わないって、自分で言い切ったんだけど、何度かマチカに行ってみようかなとか、思ったりね。でもそうしているうちに、キスレブとの戦いが激化してきて、アヴェもニサンも不穏になってきたでしょ」
「……」
「結局会いにいけなかったわね。でも、時々はちゃんと、思い出して…」
「僕は全然思い出さなかったよ」
突然、ミシェルが項垂れたままそう言いきった。ミシェルの頭を撫でていたキュランの手が、ぴくりと震える。
驚いたように目を丸くした彼女に、ゆるゆると顔を上げたミシェルの視線が被る。その眼差しは深く強く、僅かに見上げるようになるキュランに、威圧感を与えた。
彼女の手は、もう、ミシェルの頭上には届かなかった。
「マルーに会って、世間話の中に幼馴染の話が出るまで、僕は全然思い出さなかったよ、キュランの事」
「……あ…っそ。は、薄情ねえ!」
得も言われぬ迫力に気圧されまいと、キュランはわざと拗ねたふりをして。でも本当はその言葉に、心のどこかがつくつくと痛んで。
なんだか、目の奥が熱くなるような、ふしぎな焦燥感に押されるように、キュランは視線をミシェルからずらして、銀色の花切鋏を彼に押し付けた。
「でも安心したわ。これであたしも、あんたのお守り役、お役ごめんね」
「うん」
「……はくじょうもの」
なんだかすごく悔しくて、ものすごい勢いでなんでもいいから文句を叩きつけてやりたいけど、そんなことをしていたらうっかり涙が零れるような気がして、キュランはそそくさとその場を逃げるように、踵を返した。
その細い腕を、ミシェルが掴む。思った以上に力強いそれに、キュランの心臓がひっくり返った。
「な…っ」
掴まれた腕を振り解くために、キュランがミシェルを振り返ると、ミシェルは真剣な表情で、じっとキュランを見つめてこう言った。
「だって忘れないと、生きていけなかったから」
「……はい?」
唐突な言葉に、キュランの細い眉が寄る。ミシェルは表情を変えずに、機械的な口調で続けた。
「キュランはわかってないんだよ、あの頃の僕にとって、キュランがどんなに大事だったか。ただの遊び相手で、お守り相手で、そう思ってたからキュランは、勝手に自分の気持ちに区切りつけて、もう会わないなんて言って、キュランはそれで良いかも知れないけど、言われた僕はどうすればいいわけ」
「ミ、」
「僕は、あるかないか解らない可能性でも、また会えるっていう約束がなきゃ、どっちを向いていいかわからないくらいガキだったんだよ。可能性に期待しないでも、キュランの事を覚えてられるほど、強いガキじゃなかったんだよ」
「ミー、」
「だから忘れたんだよ、そうしなきゃ辛くてしょうがなかったんだよ。もう会わない、なんて言われたら、絶対に会えないって解ったら、忘れなきゃしょうがないじゃないか。だって期待したって、絶対に無理なら、期待も出来ないなら、忘れなきゃ」
「ミーシュ、」
優しくそう言って、キュランはミシェルの頭に手を伸ばした。僅かに爪先立った彼女の顔が近づいて、ミシェルは無意識に背を丸め、華奢な彼女の肩に、その額を預けた。
「……よしよし」
「……」
キュランは、体重を預けるミシェルの背に手を伸ばして、ゆっくり優しく撫でてやった。普段の過激なほど強い瞳には、愛情のような優しさしか浮かんでいなくて、ミシェルを宥める指先には、母親のような穏やかなものがあって。
「……よしよし」
「……ガキ扱いしてるし……」
「そんなことないよ。いい子いい子」
「いい子じゃないって」
「じゃ、いい男、いい男」
「…ナニソレ」
ぷくく、とミシェルが笑った振動が、キュランの肩に伝わってきて、キュランは何となく、口元が微笑むのを止められなかった。
「ほーんと、予想以上に『いい男』に育ってくれちゃって…なんだか、感慨深いわね、お守り役としては」
軽い口調のキュランに、ぴく、とミシェルの肩が揺れて、のっそりと起き上がった彼の視線が、どことなく据わって見えた。
「もう、お守り役はお役ごめんって言ったよね」
「え?」
じっと自分を見つめる、その薄水色の瞳に、キュランは初めて気付いたように反応を失った。至近距離にあるその双眸が、もの言いたげに揺れている。
「…ミーシュ?」
不意に訪れた沈黙に、キュランが恐る恐る呟く。花畑を縫っていく微風が、ふわりと彼女の髪を撫でて、ミシェルの長い睫毛を揺らした。
「……キュラン、」
すう、と深い呼吸の後、真っ直ぐに視線を合わせたミシェルの言葉が、キュランの耳朶に響く前に。
「おー、いたいた」
あまりにもお約束な、呑気な声が庭園の向こうからかけられて、キュランとミシェルは同時に肩を揺らした。
「探したぜ、ミシェル…あれ?」
「……あ」
長い腕を上げて、その豪奢な金色の髪を緩くみつあみにした青年の影から、こちらを見やった茶褐色の髪の少女が口に手をあてる。瞬間、四人の視線が交錯して、ふしぎな沈黙が訪れた。
「あ、ごめん、おじゃまだった?」
とりあえず、申し訳なさそうにフォローを入れるマルーの言葉に、はっと我に返ったミシェルとキュランがお互いを見やって、同時に首を振る。
「いいいえ、べつにそんな」
「そうですよ、別になにも。花を摘んでただけですからっ」
二人の態度に、今更ながら『まずった』という表情で、バルトがちらりとマルーを見下ろす。マルーはその視線に、しょうがないなあ、という風に肩を竦めた。
「あのね、爺が、朝食が出来たから二人を呼んで来いって言ったの」
「えっ、だ、大教母様たち、自ら探しに来て下さったんですかっ?!」
恐縮したキュランに、マルーがふわりと微笑む。
「うん。ごはんの前に、どうしても二人にお礼が言いたくて」
「お、お礼?」
きょとんとした二人に、マルーは頷いた。傍らのバルトを見上げて、それからまた視線を戻す。
「なんだか、今回の事で、二人にはいろいろお世話になったって、シグが教えてくれたの。だから、ありがとうって言いたくて…」
「そ、そんな! お世話だなんて」
「そうですよ、もともと話を複雑にしたのは、ミシェルなんだしっ」
キュランの言葉に、バルトは自分の顎のあたりをぽりぽりと指でかきながら、そっぽを向く。
「…いや、元凶は俺だし」
「そんな、大統領…」
「いいのいいのミシェル、少しは若にも反省してもらわなきゃ」
揚げ足をとるマルーに、バルトはきゅっと片眉を上げる。しかし反論はないらしく、そのまま大人しく明後日を向いた。
「態度はこんなだけどね、ちゃんと反省してるんだよ、若。もちろん、ボクも…」
そう言って、マルーは悪戯っぽく肩を竦める。そんなマルーに、キュランは心から嬉しそうに笑った。
「では、お二人の誤解は全て解けたんですね?」
「うん、おかげさまで。昨日のうちに、二人には報告したかったんだけど、若が酔っ払っちゃって…」
「俺のせいばっかじゃねえよ、なんだか知らねえけど、フェイ達がばかすか酒を注ぎに来るから…」
「そんなの言い訳にならないよ。みんなにも報告があったくせに、お酒注がれると片っ端から飲むから、へべれけになったんじゃないか」
「しょうがねえだろ、前半はろくに酒の味もしなかったんだから」
「それを、人は自業自得といいます」
「なにをぅっ」
じゃれ合うバルトとマルーの前で、ミシェルとキュランは何となく居心地が悪そうに顔を見合わせた。仲直りしたのは良く解ったが、普段からこういう雰囲気だったとしたら、周りの人たちの苦労も何となく偲ばれるなあとか、ちょっと思いながら。
「あの、それでは大教母様、お二人は…」
少しだけ申し訳なさそうに、キュランが話し掛けると、マルーとバルトの視線が不意に彼女に向けられた。
「え、あ、うん」
途端に、何となくギクシャクとするマルーとバルトに、キュランとミシェルの視線がぶつかる。特に、バルトは居心地悪そうに空を見上げ、視線をあくまでもそらしたままだ。
「その、この先は…」
言葉をつないだキュランに、ぴくりとバルトの肩が震える。よくよく見れば、浅黒い彼の顔はすでに真っ赤になっていて、傍らのマルーも困ったように微笑んでいた。
「…えーと、ソレなんだけど」
「…じゃあ、俺、行くわ」
「ええっ?! なにそれ若ずるい!!」
くるりと踵を返したバルトの背を、マルーがむんずと掴んだ。
「どーせあとで、フェイ達にも言うんでしょ! なに恥ずかしがってんのさ!」
「は、恥ずかしがってんじゃねーよ! 後でも言うことを、今も言うこたないってんだよ!」
「ミシェル達は、ボクたちのために色々頑張ってくれたんだから、報告するのは義務でしょーが!」
「じゃあ、任せた、マルー!」
「あっ! こらー!!」
するり、と鮮やかにマルーの手から逃れて、バルトはそそくさとその場を後にした。口惜しそうなマルーの声が追いかけるが、すでにその後ろ姿は消えていて。
「もうっ! いっつもこうなんだから! そんなんでこの先どーする気だろ!」
拗ねたように唇を尖らせるマルーが、くるりとキュラン達に向き直る。もう諦めた、と言わんばかりのため息と共に、肩を竦めてバルトの消えた方向を指差した。
「ごめんね、あれで若、ものすっごい照れ屋だからさ」
「はあ……」
その言葉に、『完全無欠の大統領』像がまた一つ崩れ去って、ミシェルは内心複雑な思いでいた。マルーの存在で、今まで見えてこなかったバルトロメイ・ファティマ像がどんどん露になっていく。
でもそれは、どこまでも心地いい裏切りばかりだった。
「それで、その、ボクたちのことなんだけどね」
言葉を切って、マルーは言った。その白い頬はわずかに赤らみ、言いにくそうではあったがその瞳はまっすぐで、喜びに満ちた瞳がきらきらと輝いている。
「とりあえず、今すぐどうこう、って事じゃないんだけど、近い将来、ボクはアヴェに来ることになったんだ」
「え……っ」
「と言うことは」
ミシェルの呟きに、マルーはこくんと頷く。
「うん。……大統領、夫人、ってやつ…一応」
「あ……」
解っていた事だけど、改めて言われると驚きの方が大きくて、ミシェルは絶句してしまった。その傍らで、キュランがなにごとか考えるように唇を閉ざし、じっとマルーを見つめる。
先に言葉を紡いだのは、彼女の方だった。
「…おめでとうございます、大教母様」
ゆっくりと、その言葉を噛み締めるように呟いたキュランに、マルーは真っ直ぐ視線を合わせ、本当に嬉しそうに微笑む。
「…ありがとう、キュラン」
「あ…っ、お、おめでとうございます、大教母様!」
「ありがとう、ミシェル」
「じゃあ、今から準備が大変ですねっ! お式はいつですか?」
興奮したようにはしゃぐミシェルに、マルーは落ち着いて答えた。
「うん…そうだね、多分一年後」
「へ?」
その返答に、ミシェルはきょとんと目を丸くする。いくら国家の要人同士の婚礼とはいえ、それほどの時間を要すると言うのは異例だ。
しかしキュランはすぐに心得たように頷いた。
「一年間、ニサン正教の方の土台固めに費やすのですね。大教母様がいなくなられた後の、組織としての機能を確立させるために」
「!」
その落ち着いた声音に、ミシェルは今更のようにはっとした。
そうだ、『ニサンの大教母』が『アヴェ国大統領夫人』になるとしたら、当然ニサン正教の機能が破綻してしまう。正教創生の頃より、その象徴は『大教母』であり、数代前の大教母がアヴェの国王と結婚した時も、『大教母』と言うシステムはその娘に受け継がれた。
しかしそれは、あくまでも世界が平和だった頃のことで、今や全人類にとっての『ニサン』すなわち『ニサンの大教母』の存在は、単なる一国家の元首には留まらない、庇護と安らぎの象徴になっている。
そこへ来て、大教母のアヴェ入り…現在、ほとんど全てと言っていい難民を抱えるニサン正教にとって、その象徴を他国に嫁がせる事へのデメリットは計り知れない。
多分、キュランはとうにその事に気付いていたのだろう。だからこそ、バルトと心を通わせたマルーに、ほんの少しの寂寥感を覚えたのだ。
もう、ニサン正教は、この『うつくしいひと』をひとりじめできない。それはある意味仕方がない事だけれど、寂しくないはずがない。
静かな眼差しでじっとマルーを見つめるキュランの、言葉の裏にあるどうしようもない切なさに、ミシェルは知らず口を開いていた。
「…キュランも、アヴェに来ればいいんだよ」
「え?」
不意をつかれたように、キュランがミシェルを見やる。ミシェルは自分の言葉に遅まきながら驚いて、はっと目を丸くした。
「なに、どういう意味?」
「え、あの、それは…」
意味。どういう意味もなかったけれど、ただキュランが悲しそうだったから、思いつく最善の方法を言っただけで…でも、そこに意味を持たせてもいいのなら。
意味を持たせてもいいのなら。
「ミシェルの言う通りだよ、キュラン」
「え?」
今度は、ミシェルとキュランの声がハモった。同時にマルーを振り仰いだ二人に、マルーは少しだけ悪戯っぽく微笑む。
「今、アヴェで進められている改革案に、『アヴェ国内生活不適応者の処遇と懲罰、改善策における基本的人権案』って言うのがあってね。つまりそれは、アヴェ国内に存在する『ウェルス変異体及び変異経験者』の、社会復帰に関わる案なんだけど」
「あ!」
小さく叫んで、ミシェルは自分の口を覆った。なんて事だ、うっかりしてた。そう言えば、そうだったと自分の迂闊さに眉を寄せる。
「ミシェル?」
きょとんとしたマルーに、ミシェルははっとして首を振った。
「いえ、すみません。その案を失念していました…だから『一年後』なんですね」
「あ、ミシェルは知ってるんだよね、そう言えば」
「はい」
頷いたミシェルに、キュランの視線が向けられる。眉根を寄せた彼女に、ミシェルが肩を竦めた。
「筆頭も言ってただろう? 『会議の最後の案』ってやつ」
昨日行われた、『東区画』に関する法案会議の最後に、バルトが提案した改革案。それにまつわる『意味』は、バルトのマルーに対する気持ちを知って、初めて明瞭となった。
「大統領はこの一年間、アヴェの国内における『生活不適応者』…つまり『ウェルス変異体及び変異経験者』の処遇について、案を練っていらしたんだ。今までは、そのほとんどをニサン正教に依存し、アヴェとしては経済的・物質的・人員的援助をする事で、両国のバランスをとっていたんだ。つまり、表立った難民救済はニサンに、その礎となる基本資源はアヴェに、と言う風に」
「ええ…そうね」
ニサン正教の一員として、その政策の端役を担うキュランにとって、それは言わずもがなの事実だった。頷いた彼女に、ミシェルは言葉を続ける。
「しかし大統領は、その体制に疑問を持たれた。このまま、いつまで続くとも知れない難民救済を、一国家のみに預けるのは問題だってね。現に、アヴェ国内にはニサンへ渡ることも出来ずに隠れ住んでいる不適応者がたくさんいる。そしてなにより、ウェルスとは無縁の位置で、それでも世界復興に遅れをとった人々にとっても、ニサン教はかけがえのない心の拠りどころでもあるんだ」
「そう…だから若は、アヴェ国内にも密接な『ニサン正教』を確立しようとしてるんだ」
ミシェルのあとを継いだマルーの言葉に、キュランは目を丸くした。
「え? それじゃあ…つまりアヴェ国内にも、ニサン正教のシステムを導入するということですか?」
「うん。もちろん、ニサン教はずっと前から、アヴェにとっても国家宗教とされてるから、今回の目的は、今現在ニサンが担っている、難民救済のシステムなんだ」
マルーは頷いて、視線を空に向ける。
「正直、結構大変な話。この一年で、若がいろいろ根回しをしたみたいだけど、それでもまだ、微妙な段階なんだ。アヴェとニサン、ひいては世界中のシステムを揺るがす、一大改革だからね」
「……」
マルーの呟きに、キュランの眉根が寄った。
「…でも、そうしなければきっと、大教母様を失ったニサン正教と、大教母様を得たアヴェ国とのバランスが、崩れますね」
「……」
個人と個人の婚姻が、国と国との問題に発展する。それは、生まれた時からバルトとマルーにつきまわる『業』であり、昨日今日湧き上がった問題ではない。
「だからこそ、大統領はこの一年、必死になって改革案を進めてきたんだよ」
沈黙を裂いて、ミシェルの力強い声が響いた。マルーはちょっと驚いたように目を開け、キュランもミシェルを見やる。
「確かに、いろいろ問題は山積の案ですよね。だけど、もう動き出してる。あの大統領が、本気になって取り組んでるんです、大教母様。誰のためでもない、ご自分と、大教母様のために」
「……ミシェル」
その言葉に、マルーは再び頬を染めて、ぽつんと呟いた。ミシェルはにっこりと微笑んで、嬉しそうに言う。
「筆頭が言ってました。『国家』としては時期尚早でも、『大統領』としては、これ以上待てない法案だって」
「そ、そんなこと言ったの、シグが?」
「はい。僕もそう思います」
完全に真っ赤になったマルーに、ミシェルは悪戯っぽく微笑んだ。マルーは上目でミシェルを見やって、それからちろり、と舌を出す。
「…ホント、個人的な大統領と、大教母だね」
「…そんなことありませんよ。むしろ、遅すぎるくらいです」
「シグ?!」
突然背後からかけられた声に、マルーはぎょっとして振り返った。ミシェルとキュランも、慌てて声のした方を見やると、そこには燦々とした朝日を浴びながら、褐色の肌の青年が苦笑を浮かべて立っている。
「あまりに遅いので、迎えに行けと若に言われまして」
「若に? もー、そんなこと言うんだったら、自分で来ればいいのにっ」
「照れくさくてしょがないんでしょう。朝食が終わったあと、フェイ達にも改めて発表するそうですから、今からそわそわしていますよ」
「ふふっ、せいぜい緊張してもらわなきゃ困るね」
そう言いながらも、マルーは楽しそうに笑っていた。意地悪な彼女の言葉に微苦笑し、シグルドはその精悍な眼差しをミシェルたちの方へ向ける。
「昨日は本当にありがとう。君達のおかげで、私の肩の荷も降りたよ」
「いいえっ、もったいないお言葉です、ハーコート筆頭!」
とたんに、キュランの背筋がピンと伸びて、嬉しそうな声が返る。その傍らで、ミシェルがちらりと視線を流して、彼女の嬉しそうな顔を眺めた。
「そう言ってもらえるとありがたい、シスターヒューイット。ところで今回の法案について、あなたにはニサン正教の一員としての意見をぜひ頂きたいのだが、いいだろうか」
「はいっ、わたくしの意見などで宜しければ、喜んで!」
打てば響くような返答に、シグルドが微笑する。それからマルーを振り仰いで、穏やかに囁いた。
「では、参りましょうマルー様。みんなもう、待ちくたびれていますよ」
「うん、わかった。行こう、キュラン、ミシェル」
「はい」
答えて、キュランはうきうきと歩き出す。ミシェルはそのあとにつきながら、なんだかなあと手にしていた切り花を見つめた。…あぁ、萎れかけてしまっている。
朝の爽やかな空気は薄れ、何時の間にかじわじわと忍び寄る熱気が、アヴェ国大統領官邸にも訪れていた。目を向ければ碧天の隅で、呑気な鳥が二羽になって飛んでいる。
「…ミシェル」
「え? あ、はい?」
何時の間にか自分の傍らまで寄ってきていたマルーの呼びかけに、ミシェルはびっくりして視線を返した。その視界の端で、自分たちの数歩前を行くキュランとシグルドが、なにやら楽しげに話をしているのが見えた。
「あのね、今回の事はね、本当にミシェルのおかげっていうのが大きいんだ。ボクの背中を押してくれたのは、ミシェルの言葉だったから」
「え? ああ…そんなことないですよ。僕なんて、大した事言えなかったし…」
恐縮するミシェルに、マルーはにっこりと微笑む。出会った頃から変わらない…いや、一段と可愛らしくなったようなその微笑みに、ミシェルは思わず目を奪われた。
「…だからね、今度は、ミシェルが頑張る番だよ」
「へ?」
呟かれた言葉に、ミシェルは目を丸くする。マルーは小さく笑って、ミシェルの背中をぱん、と叩いた。
「応援してるからね、ボク!」
「え? ええ??」
背中の衝撃と、言われた言葉とに、二重に驚いて。
ミシェルは、上機嫌で歩を進めるマルーと、はるか前方でこちらを振り返ったキュランとシグルドとを交互に見やって、困ったように眉を寄せた。
「…参ったな……」
それから、少しばかりため息をついて、招かれる声に従ってさくさくと歩を進める。
アヴェの太陽光線は、容赦なくミシェルの琥珀の頭に降り注がれて。
顔が熱いのは、きっとその熱気のせいだと呟きながら。
ミシェルは、今日も暑くなりそうなその碧天を見上げた。
終
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