DAYBREAK-デイブレイク-

晧々と照る、ランプの下で。
 バルトは、僅かに上がった息を整える事もなく、マルーを見つめた。
 マルーは、心底驚いたように目を丸くし、言葉を失っている。その傍らに立っていたミシェルが、同じような表情でバルトを凝視した。
 その、二人の距離に。
「……何やってんだよ、てめェら」
 不機嫌さを隠せずに、バルトが言う。その言葉に、まるで金縛りが解かれたように、マルーとミシェルの時が動いた。
「あッ! だ、大統領! あのこれはですね実は」
 そう、ミシェルが言いかけた瞬間、マルーの華奢な手が彼の口を覆った。ふがふが、と情けない声を上げるミシェルに、マルーはしがみつくようにして叫ぶ。
「な、なんでもないよっ! ちょっと疲れて、部屋に休みにきたの! ミシェルは心配して、ついてきてくれただけ!」
「……」
 マルーの言葉に、バルトの隻眼がすいと細められた。よく見ると、ぴくぴくと眉の辺りが痙攣している。射抜くような視線が、手前のミシェルに固定された。
「ふぅん……心配して、ねぇ…」
「……!」
 明らかに、回廊の気温が一・二度下がる。ミシェルは初めて対峙するバルトの威圧感に、真っ青になって首を振るのだけど、それもマルーの細腕に阻められてままならない。
 マルーは、バルトに聞こえないように、こっそりとミシェルに囁いた。
「ミシェル…さっきの話は、若には内緒だよ。バラしたら…覚えててね」
 脅しには聞こえないその言葉に、ミシェルは涙目になった。前門の虎、後門の狼とは、まさにこのことだ。
 そんな二人に、バルトはますます機嫌を悪くする。ずかずか、と大股で近づいて、ミシェルの腕を乱暴に引っ張った。
「じゃあ! ……後は、俺に任してもらうぜ、ミシェル」
「あっ、はい、はい、はい! お願いいたしますぅっ」
 ようやくマルーから解放されたミシェルが、涙を流さんばかりに言い募った瞬間、高い声があがる。
「ボクは一人で大丈夫だから! 若も、ミシェルと一緒に会場へ戻って!!」
「なっ…こらマルー!!」
 バルトが一瞬目を離した隙に、マルーはその細い身体を素早く客室へと滑り込ませ、勢いよく閉じた扉の向こうで叫んだ。バルトが反応した瞬間、がちゃり、と鍵の閉まる音が無情に響く。
「オイこら! ここ開けろ、マルー!!」
「だめ! 今、誰とも話したくないの! 疲れたの、ほっといて!」
 普段のマルーらしからぬ、一方的なその言葉に、バルトはぎりりと歯噛みする。
「こっちには話あんだよっ!! いいから開けろ、マルー!」
「やだって言ってるでしょ! もうちょっと…時間が欲しいんだよ! 話は後で聞くから、今は一人にして!」
「ンなこと言って、また逃げんだろお前! 解ってんだぞ、さっきも今も、俺の事避けやがって!!」
「さっ…避けてないもん!」
「下手な嘘つくんじゃねえ! いいからここ……あぁ、解ったよ! お前が開けねえ気なら、俺がこのドアぶち壊すだけだ!」
 そう叫んで、バルトは聞こえよがしに指を鳴らした。扉の向こうで一瞬の間があり、次いで決然とした言葉が返る。
「…いいよ! そのかわり、ボクはここから動かない。扉を壊す気なら、ボクごと吹っ飛ばす事だね!」
「なっ……!」
 その言葉に、バルトが愕然とした表情を見せる。傍らでは、ミシェルがおろおろと事の成り行きを見守っていた。
 ややしばらくして、バルトは盛大に舌打ちを漏らすと、ギッと視線をミシェルに転じる。そのあまりの迫力に、ミシェルは床から五センチくらい飛び上がった。
「ミシェル」
「は、はい!!」
「お前、ここはいいから、会場へ戻ってろ」
「え? で、でも…」
 言いながら、颯爽と踵を返すバルトの背に、ミシェルが慌てて声をかけた。
「どちらへ、大統領?!」
「鍵は開けねえ、扉は壊せねえっつったら…ここは、諦めるっきゃねぇだろ」
 言いながら、バルトはしゅるりとネクタイを外す。ついで、堅苦しいボタンを数個外し、黒と銀を基調とした端整な夜会服の上着をばさりとミシェルに投げつけた。
「っとに……クソ頑固なとこは、変わってねぇな」
 忌々しそうに、けれどどこか諦めたように、バルトが呟いた。そのまま回廊の向こうへ消えていく後ろ姿を見送り、ミシェルは呆然と突っ立っている。
 それから、はっとしてマルーの篭城した扉に向き直った。
「マ…マルー! どうして、大統領と話しないの?!」
「………」
 中からの応答はない。けれども、彼女がその言葉を聞いている事は、気配で解った。
「逃げてたって、しょうがないよ! ちゃんと話をしなきゃ、一歩も進めないんだ、マルー!」
「……て」
「え?」
「…だって、まだぐちゃぐちゃで、ダメなんだもん! そんな急に…困るよ!」
 上ずったその声に、ミシェルは目を丸くした。それから、固まってしまったような身体の筋肉をゆるゆると解して、コツン、と扉に額を預ける。
「…じゃ、ゆっくり考えて。そうして、…きっと見つけてね、マルーの答え」
「………うん」
 返ってきた言葉は、擦れるほど小さな、だけどとても柔らかな声、だった。
 静かに、時が過ぎる。ミシェルは何も言わず扉から離れると、少しばかり後ろ髪を引かれる思いで、その場をゆっくり後にした。
 マルーは扉越しにその気配を感じて、擦れた息を吐く。回廊には、ミシェルの気配も…バルトの気配も、ない。
「………」
 それを確認してから、マルーはのろのろと扉から離れた。ランプに光を灯すこともなく、月明かりだけを頼りに歩を進めると、中央のテーブルの上に乗った小さな小瓶が、光を吸って煌いた。
 マルーは無言で、それに近づく。片翼を象った、華奢な小瓶。
 小さくため息をついて、マルーはそれを手にとった。そっと、鼻先に近づけると、ふわりとかおる、甘い香り。
「……でもやっぱり…」
 呟いて、マルーはぐっと香水を握り締めた。やっぱり、これは贈れないし、使えない。
 ミシェルの口から、バルトの香水の件を聞いた時、そんな資格はないのに、確かに自分は喜んでいた。
 自分の気持ちを伝えたわけでも、彼の気持ちを確かめたわけでもない、ただ宙ぶらりんでいじけていた、醜くて卑怯な自分なのに、それでも、昔と変わらずバルトの優しさが自分に向いていると知って、とても、嬉しかった。
 ……昔と変わらず?
 マルーは瞳を閉じ、そして開く。そして、手にした香水を握り直した。
 一年間、バルトに会わずにいて。マルーははっきり、自分の気持ちを自覚していた。
 自分は、バルトに恋をしている。意地も、建前も、全て吹き飛んでしまうほど、貪欲に彼のことだけが好き。
 だから、その気持ちを伝えようと、心に決めた。
 例えそれが、叶えられない事だとしても。バルトの心に、自分を異性として見る気持ちがないとしても。その気持ちを伝えて、自分の中で育ってしまった恋心を、解放してあげたかった。
 それが…もしかしたら、究極の我がままで、優しすぎる従兄弟を、苦しめてしまう結果になると。解っていて、止まれなかった。
 若は、苦しまないで。ボクの気持ちが迷惑なら、すぐに殺してみせるから。若が辛いなら、ボクの気持ちは永遠に、暗い穴の中に封じ込めてしまえるから。
 そう、思っていた。
 なのに、現実はこうだ。
 ほんの少し、バルトの心に他の誰かの影を見つけただけで、心が狂乱する。物分りの良い事を言っていたその口が、ともすれば子供のような泣きごとを叫びそうで、怖くて。
 行かないで。離れないで。傍にいて。
 優しい従兄弟を、一番苦しめ、縛り付けてしまう悪魔の呪文が、堪えても堪えても飛び出してきそうな恐怖に怯え、マルーは彼の傍から離れることで、何とか自分を保ってこれた。
 でも……。
 マルーは一歩、細い足を踏み締めた。さらりと、上質の肌触りで揺れるドレスが、月明かりに照らされる。マルーはゆっくりと、月光に映るバルコニーへ向かった。
 でも……これは逃げだ。
 そう思って、マルーはまた一歩、前に進む。
 若を困らせたくない。それは本当。
 自分の気持ちを伝えるだけでいい。それも本当。
 迷惑になるなら、拒絶されても構わない。それは…
 それは、うそ。
 拒絶されたら悲しい。傍にいられなくなったら生きていけない。
 マルーは、そう思ってしまうのは、自分がまだ『弱い』からだと思っていた。
 バルトの手にすがり、彼の背に隠れ、恐怖と闇から守られていた自分に感じていた、言葉に出来ない焦燥感。それを今、彼女は久しぶりに感じている。
 もっともっと強くなれば、どんな結果が訪れても、心くじけずにいられると、信じていた。大教母として、いや、一人の人間として、一人前になりさえすれば、どんな未来にだって、一人で立ち向かえると、信じていた。
 でも。
『どんなに強い人だって、好きな人には、自分を好きになって欲しいんだよ。それは、わがままでも卑怯でもなんでもなくて、仕方がないことなんだ』
 マルーの細い指が、瀟洒な大窓の取っ手にかかる。
『だって…ひとはひとりじゃ、空を飛べないんでしょう?』
 静かに、そしてゆっくりと、窓を開く。ふわりと頬をかすめる、アヴェの冷気が心地いい。
『きっと、片翼の天使たちも、気持ちを伝える時は、怖かったんじゃないかな』
 そう。怖かったんだ。
 満天の星空の下、マルーは真っ直ぐに前を見据えた。彼女の茶褐色の髪が、ふわふわと夜風に揺れて、その白い肌をくすぐっていく。
 マルーは、手にした香水の瓶をそっと胸の前で抱き締めた。
 ……怖くて。バルトに拒絶される、ということが、現実のものとして目の前に迫った瞬間、怖くて怖くて、一歩も動けなくなって。
 バルトを苦しめたくないとか、彼の負担になりたくないとか。
 そんな、格好の良いものじゃなくて。
 ただ、自分が傷つくのが怖かった。
 そしてそれは、弱い証拠だと思った。傷つくのを恐れて、彼の隣に立てるなんて、思っていなかったから。
 だけど……
「……いくら強くなっても、ひとりぼっちは寂しいよね…」
 くすり、と自嘲的に笑って。マルーは、バルコニーの端に進んだ。
 眼下には、美しい夜の中庭が広がる。対岸の一角では、華やかな明かりと、人々のさざめきがわずかに風に乗って伝わってきた。
 マルーはその細い指で、片翼を象った小さな瓶の蓋を、きゅう、と開いた。
「…ごめんね、アウグリオ。今のボクにはまだ、あなたを使う資格はないよ…」
 たった一人で、過酷な状況で、健気に毅然に、おのれを咲かせる大好きな花。
 あなたのように、なりたかった。
 透明な香水が、小瓶の口を伝い、一滴、夜の闇に溶けた。
「もったいねぇよ」
「っ?!」
 突然、背後から低い声がかかって、マルーは思わず小瓶を取り落としそうになった。その瞬間、すぐ脇からしなやかな腕が伸び、瓶は空中でキャッチされる。
 強いアウグリオの芳香が、夜陰に乗ってマルーを包んだ。
「……わ、か……」
 呆然と目を見開き、自分を見上げる少女の視線に、バルトはにやりと悪戯っぽく笑う。そしてそのまま、右手でキャッチした小さな小瓶を持ち上げ、眉をしかめた。
「あぁあ、ちっと零れちまったじゃねえか。指が香水くせェ…」
「…どして…」
 上手く舌が回らない風のマルーに、バルトはさも当然とばかりに、上を指差す。
「上の階のバルコニーから、飛び移ったんだよ」
「飛びうつ…って、ここ三階だよ?! 落ちちゃったらどうするつもりだったのさ!」
「バーカ。俺がンなヘマするかよ」
「でもッ! もうっ、どうしてそういう無茶するの、若は! 仮にも一国の大統領ともあろう人が…」
「一国の大統領も、締め出し喰らったらフホウシンニュウするっきゃねぇんだよ」
 言って、バルトはピン、とマルーの額を指で弾いた。マルーは自分の額を押さえて、しばし唖然とする。
 バルトは、そんなマルーの手から小瓶のふたを抜き取ると、きゅきゅ、と念入りにそれを締めた。それから改めて、マルーを見つめる。
 月光に照らされたその大きな瞳が、混乱から立ち直ったように強い光を放っていた。バルトは一呼吸おいて、慎重に言葉を選ぶ。
「……お前、縁談あるのか?」
「……は?」
 唐突な言葉に、マルーの表情が崩れる。何を言われても驚かない覚悟があった彼女をして、その問いかけは突飛過ぎた。呆れたように眉を寄せた彼女の前で、バルトは大仰にため息をつく。
「…だろぉなぁ…ちっ、やっぱしガセかよ…。まぁ、半分以上は解って乗ってやったから、いいんだけどよ…」
「ガセって……誰、そんなこと若に吹き込んだのは」
「おまえんとこの、忠義篤いシスター」
「…キュラン…? でも、どうして? なんでそんな、すぐわかるような嘘を…」
 困惑するマルーの言葉に、バルトはふと苦笑した。その微笑みが、月光を弾いてマルーにはとて美しく映って、急に、すぐ傍らにある彼の気配が、気恥ずかしくなって。
「まぁ、発破かけ…だろうな。ああ言えば、少なくとも俺がお前んところに飛んでいくだろうって、誰かの入れ知恵か…オイ」
 バルトは言いかけ、次いで視線を斜めにした。じりじりと、マルーの身体が後ろに逃げていることに気付いて、ずいと一歩踏み出す。
「何、逃げてんだよ」
「え、いや、逃げてないよ…」
「といいつつ、何だその足は。オラ」
「だ…だって! 何で近づいて来るんだよ、若!」
 恥ずかしさに耐えかねて、マルーが高く叫ぶ。その瞬間、バルトは傷ついたように接近を止め、次いでふいと視線をそらした。
 マルーははっとして顔を上げ、それから何か言いかけたが、すぐに口を閉ざす。
 …こんなに気まずいのは、何年ぶり? いや、生まれてこの方、こんな空気は知らない。
 いつも、顔を見ればお互いに、軽い口調で近づいていけた。言葉なんてなくても、ただその視線、その空気、それだけで二人、何でも解るような気がしていた。
 でも、今は。
「…なんで」
 ぽつり、と、バルトが呟く。
「なんで、香水捨てようとしたんだよ」
「………それは…」
「自分で使うために、買ってきたんだろ?」
 バルトの言葉に、マルーは押し黙った。沈黙する彼女に、バルトは焦れたような視線を投げかけ、それから不意に嘆息する。そうしてから、ごそごそとズボンのポケットをまさぐって、少しくしゃくしゃになった袋を取り出した。
「いらねーかもしれねーけど。…やる」
「え?」
 きょとんと眼差しを上げて、マルーは差し出された袋を見つめた。受け取ると、バルトの温もりが移っていて、ほんのり暖かい。
 無言で、マルーはバルトを見上げた。彼は静かにマルーを見つめ、暖かい碧玉の瞳で開けてみな、と指示する。マルーは、震える指で袋を開いた。
「……! これ…」
「同じの、何個もいらねーだろうけど。それ、お前にやるよ」
 照れくさいようなバルトの言葉と、手の平に乗った小さな小瓶に、マルーはしばし絶句した。それからすぐに、勢い込んでバルトに問い掛ける。
「ど、どうして!? だってこれ、マリアにあげたんでしょう?!」
「はぁ? なんだよそれ、何でマリアが出て来るんだ」
「だって、あの時マリア、バルコニーにアウグリオの香りをつけて…」
 言いかけて、マルーははっと硬直した。
 あの時、夜陰に乗って香ってきた芳香は、確かにアウグリオのものだったけれど、それが本物の花の香りでなかったと、言えるだろうか? 少なくともあの時、マルーはマリアの方をまともに見てはいないのだから。
 マルーは、自分の勘違いを自覚して、かあっと頬を染めた。それは月明かりの下でもはっきりと解るほどで、ぎょっとしたようにバルトが目を丸くする。
「ど、どうした、おい?!」
「……ボクっ…ボク、謝って…どうしよう、なんか馬鹿な事…」
「マルー? おい、落ち着けって、マルー!」
 バルトの鋭い声に、マルーははっと我に返った。それから、心配そうにこちらを見てくるバルトに、きゅっと眉根を寄せて首を振る。
「ごめん…若、この香水は貰えない」
「なんで?」
「だって…ボクには、その資格がないんだ」
「資格?」
 怪訝そうな顔を見せたバルトに、マルーは暗く俯いた。混乱が引いていくと共に、自己嫌悪で身体の中がどろどろに溶けていく。真っ直ぐバルトの顔さえ見れない。
「資格ってなんだよ、マルー?」
「…ボク……」
 どうしよう、言葉が止まらない。醜い悪魔の呪文が、口から溢れてきそうで怖い。
 怖い。怖い。
『好きになったら、人を好きになったら、その人にも自分を見て欲しいって思うの、当たり前じゃないか』
「………」
 いいの、だろうか。弱くて、醜くて、卑怯で傲慢な願いを、口にしても。
 強くなりたい、強くなりたい。そのためなら、なんでもする。
 でも。
 それ以上に強い気持ちで、この人の、若の傍にいたい。
 もう、逃げる場所なんてないのなら。
「…ボク、若が他の誰かに香水を買ったって知って、すごくショックだった」
 マルーは、バルトの碧玉の瞳を見つめて、一口でそう言った。その瞬間、バルトの瞳が驚愕に見開かれる。マルーは構わずに、何かに急き立てられるように、言葉を募った。
「ボク、若の傍を離れて、一人でやってきて、少しは成長したって思ってた。もう、若の負担にならずにすむ、若の役にたてるって、そう思ってた」
「……」
「でも、現実は全然ダメで。若の心に、他の誰かが住んでいるのかもって思っただけで、たったそれだけで、もう一歩も進めなくて、一人でいじけて、人に迷惑かけて、もう…最低なんだ、ボク」
「…マルー」
「若の心は若のもので、ボクの気持ちがどうであっても、それを曲げたりしたくなくて、困らせたり負担になったり、そんな事は絶対に嫌で、嫌だって思ってたのに、なんでかなあ、結局ボク、若に迷惑をかけちゃうよ。なんでかなあ、なんで…」
「…マルー!」
 ぱしり、と両頬を掴まれて、マルーははっと目を見開いた。無理やり上向けられた視線の先で、バルトが険しい表情を見せている。彼の手の平の熱が移ったのか、自分の頬が燃えるように熱くなるのが解って、マルーは眉を寄せた。
「や…見ないで! 今、ボク、ものすごく嫌な顔をしてる! 離して、若!」
 考えなしに思いのたけを放って、振り返ると一番言いたくなかった言葉ばかり。
 ぐちぐちと、できなかったことを嘆いて、自分を正当化させようとしているだけ。こうすれば、優しいこの人が、きっと慰めてくれると、心のどこかで甘えていた。
 なんて汚い。なんて醜い。
 恋をすれば綺麗になるなんて、嘘だ。恋を自覚してこの身が覚えた事は、自分の中のどろどろした汚い感情ばかりで、ちっとも綺麗なものはない。
 それを今、ぶちまけてしまった。汚い自分を、見せてしまった。
 よりによって世界で一番、見せたくなかった大切な人に。
「離して!」
 放った言葉は取り戻せないから、せめてその醜い表情だけでも、彼の目に触れさせたくはないのに。
 こういう時だけ酷く意地悪な、その手の平は力をなくさない。
「若、お願いだから若、もう…」
「うるせぇ、黙れ」
 ぴたりと視線を合わせたまま、険しい隻眼が呟いた。その低い声音に、マルーの総身がびくりと震える。ひやりとした恐怖が、頬の火照りを忘れさせた。
 そのままバルトはゆっくりと、壊れ物を扱うようにマルーの身体を抱き締めた。一瞬で、氷のように冷たくなった身体が、温かいぬくもりに包まれて、マルーはバルトの胸で目を丸くする。
 慣れていない様子で、バルトがマルーの身体を抱きしめる。胸が圧迫されて、マルーが擦れた吐息をついた。
「……資格とか、負担とか、そんな言葉にお前が苦しめられていたなんてな…」
「……わか…?」
 小さな言葉が夜風にさらわれて、マルーはおずおずと問い返した。暖かい腕の中はとても居心地が良いけれど、今はこの温もりに、甘えていい時じゃないはずなのに。
 バルトはきゅう、とマルーを抱きしめ、伝えきれない言葉を、そのままその力に換算するかのように、不器用な温もりを与え続けた。
「…なあ、マルー」
「…なに?」
 優しい従兄弟の温もりに、マルーの心も落ち着きを取り戻していた。今なら、冷静になって彼の言葉が聞ける。どんな言葉でも。
「アヴェではな、もう、お前を迎える準備が進んでんだよ」
「……?!」
 軽く30秒は、反応が返せなかった。
 マルーは大きな瞳を零れそうなほど見開いて、ゆっくりと顔を上げる。彼女がそうするのに負担がないよう、バルトは腕の力を弱めた。
 自分の腕の中で、信じられないものを見るような瞳が上向けられて、バルトは何とはなしに居心地の悪い思いを感じながら、それでも視線はそらさずに言う。
「その準備のために、一年間忙しくやってきたんだ。それでもまだ、根回し段階だけどな…導火線の火は、今日つけた」
「……どういうこと……?」
「……だからよ」
 不意に、バルトの指がマルーの頬に滑る。マルーは驚愕の表情のまま、バルトを見つめ続けた。
「お前が、色んなことで悩んで、余計な事で苦しんでる間に、俺はさっさと決めちまってたんだよ。俺とお前の未来を」
「………」
「お前の気持ちとか、確かめる前に、全部段取り決めてよ……そんで断られたら、最高カッコわりィけどな」
 そう言って、照れたように笑う顔。覚えてる、その表情。
「悩んだり悔やんだりすんのは苦手なんだよ、俺」
 知ってるだろう? と、悪戯っぽい碧玉の瞳が語る。
「シグに言われたぜ。あなたは相当の自信家だって。失敗した時のことを、たまには考えたらどうだ、ってな。だけどよ、俺がそんな風に、失敗を恐れて考えをめぐらせるの、お前想像できるか?」
 決して自慢できるわけではないその性質を、さも当然とばかりに言ってのけて。バルトは男らしいディティルの頬をふっと緩めた。
「だけど今回のことは、別にやけっぱちでしたんじゃねえよ。お前の気持ちに、自信があったわけでもねえ。まぁ…多少はさ、一緒に過ごした時間とか、そう言う自惚れはあったけどな。けど、お前が言うように、気持ちはそいつだけのもんだ、変えられねえ」
 そう言って、悪戯に触れていたマルーの頬から、彼女の耳にかかる茶褐色の髪に指を滑らせて。
「だけど俺は、こればっかりは譲る気はなかったんだ。例えお前にそんな気はなくても、自分のできるところまでギリギリに突っ走って、何が何でもその気にしちまおうって、覚悟決めてたんだ。だから法案一個、まるまる立ち上げた。俺の意気地がくじけねえように、保険をかけたんだな」
 個人的な大統領だ、と、自嘲的に笑って。
 バルトは真っ直ぐに、マルーの瞳を見つめ直した。
「お前の気持ちは二の次で、勝手に突っ走って悪かった。怒るか? マルー」
「……怒るよ……」
 答えたその呟きは、けれど決して不快なものではなくて。
 なんだか泣き笑いのような表情で、マルーがため息をつく。
「…もう…なんで若ってそうなのかなあ…ボクがすっごく悩んで、いじいじいじけて、後ろ向きになってぐるぐるしちゃってるのに…一人でぽーんって、ずっと先へ行っちゃうんだもん…ズルイよ」
「ズルかねぇよ、別に。だってお前には、拒否権があるんだぜ?」
 そんな事、さらさらさせる気がないくせに、大胆にそう言ってのけて、バルトはマルーの腰に回した腕に力をこめた。マルーは困ったように眉を寄せ、次いで唇を尖らせる。
「嫌だって言ったら、どうするんだよ」
「言ったじゃねえか、ギリギリまで突っ走るって」
「それでも、もしも、ボクが嫌って言ったら?」
 困らせたいわけではないけれど、どうしてもその答えが知りたかった。自分は、その答えに怯えて、無様に逃げ続けてきたというのに、この人は恐怖を感じなかったのだろうか?
 マルーの問いかけに、バルトは一瞬嫌な顔を見せたが、それからすぐに、彼女のよく知る子供っぽい表情で、にやりと笑った。
「どうしても、どうしても嫌だっつうなら仕方がないさ。俺は不発の法案一個抱えて、その後始末に東奔西走。それだけだろ」
「そんな風に…そんな風に、簡単に諦められるものなの? 若の想いは」
 ああ、また最低なことを言った。自分の諦めが悪い事を棚に上げて、綺麗に自分の気持ちを整理できるという器の大きさに、いわれのない嫉妬すら覚えて……
「諦めるわけじゃねえよ」
「え?」
「例えお前に届かなくったって、俺の気持ちは俺のもんだろ。誰にも変えられねえ」
 その言葉に、マルーは、本気で息を止めた。
 目の前にある、碧玉の瞳。子供のころから見慣れていた、その懐かしい暖かな光の中、呆然としている自分の姿が映っている。
「だが勘違いすんなよ。変わらねえ思いを抱えて生きていくのも、時間をかけて都合のいいように気持ちを変えていくのも、全部俺の意思だ。お前がどうのこうのじゃねえ、答えはみんな、自分の中にあるんだよ」
「……自分の、中に…?」
「ああ。相手の気持ちで左右されるようじゃ、それは本気の想いじゃねえ…ってことさ」
 にやり、と口元を上げる自信げなその仕草に、マルーは堪えていたものを吐き出すように、静かに呟いた。
「…変わらなくても、いいの?」
「変わりたくなきゃあ変わるな」
「それは、相手の迷惑じゃないの?」
「相手の都合を無視して、自分を通そうって言うのが迷惑っつうんだ」
「でも、じゃあ、ボクの想いは……」
 言いかけたマルーを、バルトは突然強く抱き締めた。言葉をさらわれたマルーの唇が、バルトの広い肩口に押し付けられる。
「なあマルー、頼みがあるんだ。…もう一度、再会からやり直さしてくんねえか?」
「え?」
 心なしか上ずったバルトの言葉に、マルーは怪訝な声を上げる。バルトはぎゅうとマルーの頭を自分に押し付け、居心地が悪そうに視線を彷徨わせた。
「いろいろ…俺だっていろいろ、考えてたんだよ。一年も前から、この再会の時のために駆けずり回って…ホントは、議会に提案すんのだって、お前の方に先に了解とってからって…いや、まず、今さらだけど、お前の気持ちとか、確かめてからじゃねえと、いくらなんでも…」
「……」
 バルトの独白に、マルーの肩が揺れた。いぶかしんだバルトが彼女の茶褐色の髪を見下ろす。
「なんだよ?」
 バルトの問いかけに、マルーは細かく肩を震わせたまま、笑い声で答えた。
「…だって。ほんとにそれ、イマサラ…」
「うるせぇな。予定が狂っちまったんだからしょうがねぇだろ」
「だとしたってさ、なんでそんなに、順番バラバラにできるのさ、若は。普通は、ボクと意思の疎通をしてから、迎えるとかなんとか、そういう準備にいくものじゃないの?」
「だから、段取り狂わしたのは誰のせいだと思ってんだよ」
「ボク? なんでボクが?」
「お前が…! お前が、ミシェルと逢ったりすっから、話がややこしくなったんだろうが」
「ひどい。それを言うなら、若が最初から、変な見栄を張らなきゃこんな事にならなかったんだよ。何さ、ねだられたって…」
「うるせぇ、それを真に受けるお前もお前だ」
「だって」
 顔を伏せたまま、マルーは細い指でバルトの服を握り、きゅうと力をこめた。
「…不安だったんだよ。一年だよ、一年会ってないんだよ。こんなに長く逢ってなくて、いきなりあんなこと言われたら、信じちゃうじゃないか、普通…」
「…だから、悪かったって。この一年は、お前を迎える準備でさ…」
「そもそもだからさ、なんでボクとそういう話をする前に、準備に移っちゃうかなあ、若は」
 呆れたようなマルーの言葉に、バルトは情けなく眉を寄せた。
「……そっちの方が、簡単だったんだよ」
「え?」
「いざ、お前とそういう話をしようとするとだなあ、その…なんつーか、まあ、腰が引けるっつーかよ。で、まあ、じゃあできる方からやっちまうかって…」
「なんだよ、それ!」
 呆れたマルーが、高い声を上げる。バルトはしぶしぶ腕の力を緩め、彼女が顔を上げるのを許した。見上げた碧玉の双眸は、案の定呆れたように丸くなっている。
「若、それって逃げてたってことじゃないの?」
「……先延ばしにしてた、だ」
「そんなの、同じことだよ」
「うるせーな、いいじゃねえか別に。結果的には今、こうして…」
 そこまで言って、バルトははたと言葉を切った。マルーの大きな瞳は、ぴたりとバルトにあてられ、そう言えばずっと抱き合っていたお互いの温もりが、いつの間にか同じ温度になっていて。
「……こうして、何?」
「あ、いや…だからよ、その…」
 この期に及んで煮え切らないバルトに、マルーは淡く微笑んだ。それからその、桜色に染まった小さな唇をそっと開いて、優しい声で囁く。
「いいよ…その前に、ボクの気持ちを聞いて。ボクだって、今日のためにずっと、色々、考えてたんだから」
「いや、ちょっと待てって。それじゃ俺が困る。これ以上段取りを崩すな」
 慌てたバルトに、マルーが眉を上げる。
「なにその段取りって。そんなの知らないよ、ボクは」
「いいから、お前黙ってろって。この期に及んで、お前に先に言われちまったら、めちゃめちゃ馬鹿みてぇじゃねえか、俺が」
「知らないって言ってるでしょ。それに、どっちが先かなんて問題じゃないよ。ボクはただ、自分の気持ちを言うだけなんだから…」
「だから、それは男のメンツってもんが…」
「知ーらない。だって若がさっさとしないから、しょうがないじゃないか。いい? 若、ボクは若のことが…」
「っこの、じゃじゃ馬!」
 腕の中で、楽しそうに笑っている従姉妹を抱き寄せて。
 言うことをきかない、その桜色の唇を、どんな方法で閉ざしたかは。
 アヴェの、冷たい夜陰と、骨色の月光だけが知っている。
 長い長い夜の、それは幕引きであり、幕開けの瞬間だった。
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