DAYBREAK-デイブレイク-
…ボク、何で走ってるんだろう?
せっかく、シスターアグネスが用意しておいてくれた、贅沢ではないけれどとても趣味の良い仕立ての夜会服が、裾をからげて走っている自分には酷く滑稽で。
見慣れた白亜の回廊の途中、石作りの壁に飾られた瀟洒なランプの下で、マルーはようやく歩を止めた。大した距離を走ったわけでもないのに、息が上がって仕方がない。心臓が、耳の奥までせり上がってきたようだ。
胸に手をあて、茶褐色の髪を帳にするように、マルーは俯いて息を整えた。
そうしてから、思い出したように辺りを注視する。
ニサンの大教母たる自分の、全く社交的ではない様子を不審に思ったものは、幸いなことにいなかった。回廊にはひとけがなく、今マルーが走ってきた方向からは、変わらずに晩餐会の賑わいが伝わってくる。
…悪いこと、しちゃったなぁ…
冷静な感情で、マルーはそう思った。直前まで掴まれていた、エリィの柔らかい手の感触が、まだ自分の腕に残っている。
マリアも…突然の自分の行動に、きっと呆気に取られただろう。思い込みがすぎるほど周りに気を使う彼女のことだから、何か悪い方へ自分を責めるようなことがあってはいけない。
そう思うのだから、そのまま取って返して、今ならまだ間に合うであろう適当な言い訳を取り繕い、二人に謝りに行けば良いのに。
冷静な感情で、マルーはそう思った。
けれど、身体がどうしても動いてくれない。感情では御しきれなくなった、本能的なものが、マルーの華奢な痩躯を支配していた。
マルーはゆるゆると歩いた。まるで傍目には、化粧直しか酔い覚ましかで、大教母が酒宴から離れている、そんな様子を取り繕うように。
歩くたびに、柔らかな素材のドレスが、さらさらと素足を滑る。いつからだろう、こんな風に、女の子然とした衣装を着ても、苦にならなくなったのは。
この一年…否、あの戦いが終わった、二年半前の時点から、マルーの中で密かに根づいていた、自分の『女性』への反発は、影を潜めていた。
何故ならば、戦いが終わった後の混迷した世界に必要とされたのは、彼女の中の紛れもない女性性、つまり『ニサンの大教母』であったのだから。
ニサンの大教母として自らを律することが、世界の、果ては自分の大切な人たちのためになる。そう信じたからこそ、マルーはマルーの中に芽吹く女性性を解き放った。
そうすることで、今度こそ、自分は役に立てると思ったのだ。……彼の。
さらさらと、衣擦れの音が響く。夜も更けた元ファティマ城の回廊は、転々と点されたランプの灯りの他、彼女の道行きを見守る者はなかった。
マルーは、行き先を探した。すぐにとって返して、またあの賑やかなパーティーの輪へ戻ることを、感情はともかく身体がよしとしない以上、少しでも時間を置いて、もっともっと冷静になる必要があった。
少なくとも、あの香りを感じても、心が乱れない自信がつくまでは。
「……!」
痛い。心が痛い。
ほんの少し、思い出しただけで、まだこんなにも心が痛い。
マルーは無意識のうちに歩調を早め、自分へとあてがわれていた賓客用の客室へ向かった。
自分が何をしようとしているのか、はっきりとは自覚できなかった。けれど解る、この身体がしようとしていること。
甘く、爽やかな、大好きな花の香。美しい片翼の小瓶に入ったそれを、もう一秒だって自分の手元には置いておけない。
子供のような癇癪だと、解っているし、いつでも冷静にと努めていた自分の、信じられないような行動がとても無様に思えた。
それでも、どうしても。
香水を手放したからと言って、何がどうなるわけじゃない。マルーが香水を、バルトのために買い求めたと言う事実が変わるわけじゃないし、バルトが同じ香水を買い、それを誰かに…マリアに、贈ったと言う事実も、変わるわけではない。
マリアがどう、と言うことじゃない。たとえ、香水を贈った相手がマリアじゃなくても、エリィやユイのように、完全に友情を抱く相手への親愛の気持ちで贈っていたとしても、そんなことは問題じゃない。
問題なのは、バルトではなく、自分なのだから。
マルーは深く、息をついた。目指す部屋は、もうすぐそこ。
あと数歩を小走りに駆け、何だか泣きたいような気持ちで、マルーは部屋の取っ手に手をかける。
「…マルー」
その時、奇跡のようなタイミングで、彼女に声がかけられた。
ざわざわと、酒宴の席はたけなわで。
目立たないよう、窓際の壁に張りついていたバルトは、はっきりしたキュランの眼差しの先で、取り繕うような威厳をもって言葉を選んだ。
「話を聞いてやるよ。ただし、さっさとしてくれ、いま取り込み中なんだ」
「お時間は取らせません。ですが、できればお人払いを」
「オヒトバライ…つったって」
バルトは困ったように眉を寄せ、腕にしがみついているプリムと、何事かと集まってきたフェイとビリーを見やった。彼らだけではなく、つい数メートルにはこちらには無関心に話に花を咲かせているパーティー出席者がひしめいている。
「しょうがねぇな、来いよ」
バルトは言って、最寄りのバルコニーへ足を向けた。ぎいと音をたてて窓を開くと、冷たい夜風が耳の辺りを通りすぎる。無意識に視線を流した三つ先のバルコニーには、エリィ達の姿は見えなかった。
バルトに続いて、キュランもバルコニーへ出る。その後ろから、フェイとビリーもやってきて、彼女は困惑げにバルトを見やった。
「大統領…お人払いを…」
「こいつらもか?」
バルトは言って、眉根を寄せた。すかさず、ビリーが口を開く。
「僕たちのことなら、お気遣いなく。大事な話ならむしろ、この単細胞の大統領一人に聞かせるよりは、僕たちを同席させた方が無難ですよ」
「ンだとコラっ」
「そうそう。俺達のことは気にしないで良いよ、シスター」
いきり立つバルトの肩を押さえながら、フェイがにこにこと言う。キュランは困ったような顔で眉を寄せたが、すぐに毅然とした表情を取り戻して、真っ直ぐにバルトを見据えた。
「大統領が、この方達に全幅の信頼を寄せていらっしゃるのであれば、わたくしに異存はありません」
「ゼンプクノシンライ…」
いちいち持って回ったようなキュランの言葉に、バルトは鸚鵡返しに呟く。これは、何だかおかしな雲行きじゃないかと、彼は凛々しい眉根を寄せた。
「おいシスター、何だか仰々しすぎやしねえか? 一体、マルーのことで何の話があるってんだよ」
バルトの言葉に、キュランは眼差しを深くした。その、一種異様なまでの迫力に、バルトは思わず言葉に詰まり、周囲の雰囲気もひやりと冷える。
「……これは、わたくしどもニサン正教のシスターの間でも、ごく限られた者しか知らない極秘情報なのですが」
キュランは言葉を区切り、その深緑の瞳をついと細めた。
「……大教母様に、やんごとなき筋からご縁談が持ち上がっているのです」
「ご……」
「縁談?!」
叫んだのは、バルトではなくビリーとフェイだった。二人は争うようにキュランへ詰め寄り、興奮したように矢継ぎ早に問う。
「縁談って、まさかバルト以外の奴と?!」
「誰、相手は誰?!」
「マルーは何て言ってるんだよ?!」
「どんなヤツ?! ちゃんとした奴じゃないと許さないよ!!」
二人の語調の強さに、キュランは鋭い視線を返した。
「お静かに! 何のために、お人払いをお願いしたとお思いですか? これは、正教内でも極秘中の極秘事項、詳細は全て国家機密ですので、お教えできません!」
「……極秘?」
その時、押し殺したような低い声音が、冷たい夜陰を切り裂いた。フェイとビリーがひやっと振り返り、キュランが挑むような眼差しを向けた先で、バルトの隻眼が強い光を浮かべる。
「極秘っつーのは、俺があいつの従兄弟である以前に…『アヴェ国大統領』だからか?」
バルトの問い掛けに、キュランはしばし沈黙してから、頷いた。
「その通りです」
「ということはつまり、それはあくまでも『ニサンの大教母』に持ち上がった、政治的政略的策謀ってことだな」
「おっしゃる通りです」
「おかしかねえか、シスター」
視線を逸らさず、語調そのままに、バルトはそう言った。瞬間、キュランの瞳が鋭さを増す。
「何事がでしょう、閣下」
「まず第一に、それが真実ニサン正教の国家機密の場合、漏洩は極刑を意味する。たかが大教母の政略結婚ネタでも、だ。しかも、漏らした相手が一国の首領とあっちゃ、あんた一人の責任問題じゃねえ。その責は、あんたに累する全ての人間に及ぶ」
「その通りです、閣下」
「第二に、もしもこの件が偽証であった場合、アヴェ国大統領詐称罪で、俺はあんたの首を取る」
あらゆる戦いを潜り抜けてきた、碧玉の隻眼が鋭く光った。対峙しただけで総毛だつようなその威圧感に、キュランは我知らず拳を握っていた。
「どっちにしても、あんたの命はもうないぜ。…さて、一介のシスターが、その若い一生を捧げるに値する信念は何だ? あんたの狙いを聞かせてもらおうか」
静かだが、その内に得体の知れないものを抱えたバルトの問いに、キュランは震える喉を鳴らした。けれど表情だけは変えることなく、狼狽や動揺をつゆとも見せない。
言うべき言葉は、たったひとつなのだから。
「……全ては、大教母様の御為です」
声音一つ震わさず、キュランは真っ直ぐにバルトを見据えていた。奇妙な沈黙が訪れ、窓から漏れるパーティー会場のわずかなざわめきが、夜陰に満ちた風を震わせている。
キュランは再び、オレンジ色の紅が引かれた薄い唇を開いた。
「大教母様のご様子がおかしかったことには、もちろん閣下はお気づきのことと思います。それはひとえに、このたび持ち上がりましたご縁談について、そのお心を悩ませておいでだからです」
そうして、バルトの迫力に飲まれかけていたその身をぐっと強ばらせ、強い瞳を上目で睨めた。
「おそらくこの晩餐会で、大教母様は閣下にこの件をご相談しようと思われたはずです。それなのに、閣下は大教母様と諍いを起こし、大教母様はご相談の機会を逸してしまわれました」
「それは…」
何事か言い訳しようとしたバルトに、フェイとビリー、さらにプリムの視線が突き刺さった。いずれも言外に『またやったのか…』等、呆れの色が浮かんでいる。
そんな周囲に構わずに、キュランが語調を強めた。
「もちろん、大教母様が閣下にこの件をご相談することは、わたくしの憶測でしかありません。それに、例えそうであったとしても、一介のシスターであるわたくしが、分を越え閣下にニサン正教の国家機密を漏洩したことが明るみに出れば、閣下の仰る通りわたくしは極刑に処されます」
ぎらり、と音が出るほど鋭く。キュランはバルトをはっきりと睨み据えて言い放った。
「けれど、このままでは遠からず大教母様はお心を病まれてしまいます。この一年と言うもの、大教母様の心からの微笑みを拝することはありませんでした。いくらあの方が、その細い双肩に一国の未来を担った大教母様だからと言って、悩みもすれば傷つくこともある、一人の…女の子なんです」
「………」
はっとしたように、バルトがその瞳を見張った。彼の男らしい頬のラインが、アヴェの冷気に撫ぜられて、震える。
キュランは細い眉を寄せ、強い瞳のまま、けれど泣きそうな表情で最後の言葉を振り絞った。
「ただ、ニサン正教に組み込まれた歯車であるべきわたくしが、自分の一生を賭けてでも守りたいものが、ニサンの大教母ではない、マルグレーテ・ファティマ様の笑顔だということは、それほど滑稽でしょうか?」
その瞬間、弾かれたようにバルトが踵を返した。野生の獣が解き放たれた大地を駆けるように、彼の長い足は颯爽とバルコニーを蹴り、パーティー会場へ続く大窓に手をかけた瞬間、彼はちらりと後ろを振り返る。
「……あんたがマルーの傍にいてくれたことに、感謝する」
「……!」
届いた言葉に、キュランは目を丸くした。そのままパーティー会場へ消えるバルトの後ろ姿が消えても、彼女の表情は変らない。
冷たい夜の風が、その火照った頬を打った。硬直しているキュランに、しばらくして優しい声がかかる。
「……シスター、バルトの、そしてマルーの仲間として、俺からも礼を言うよ」
フェイの言葉に、キュランははっと顔を上げる。優しい微笑みを浮かべたフェイの傍らで、銀色の髪を夜風から守りながら、ビリーも精巧な微笑みを浮かべていた。
「僕も、同じ気持ちです。でも…やっぱり、気になるんですけど、その縁談って…」
「……おにいちゃん」
ビリーが言いかけた瞬間、彼の傍らにいたプリムがくいくいと彼の袖を引いた。はっとした面々が大窓を振り仰ぐと、そこには見慣れた面々が立っていた。
「世話をかけたな、シスターヒューイット」
銀色の髪に褐色の肌の男が、満足そうな表情でそう言う。キュランはその顔を見た瞬間、全身の力を抜いてその場にへたり込んでしまった。
「シスター!」
傍にいたフェイとビリーが、慌ててキュランの両脇を支える。ひょこりと顔を出した黒髪の男が、にこにこと穏やかに笑った。
「おやおや、今ごろ力が抜けましたか? 無理もありませんね、若くんの本気の威圧感には、この私でもひやりとします」
「せ、先生?? 一体、どうなってるんだよ、これは…」
わけがわからず、目を白黒させているフェイたちに、シタンの後ろから顔を出したエリィとマリアが駆け寄る。
「大丈夫? シスター」
「立てますか?」
女性陣は男どもの手からキュランを奪いとり、かくかくと膝が笑う彼女を支えた。フェイとビリーは、ますますわけがわからない顔をする。
「つ、つまり…?」
「解らない? フェイ」
悪戯っぽく、エリィが微笑む。傍らでは、唖然としているビリーにマリアが苦笑を向けていた。
「マルーさんの縁談話は、嘘です」
「嘘?」
「ええ。どうも、こんがらがってしまったバルトさんたちに、糸口を提供するための」
マリアの言葉をついで、エリィが肩を竦める。
「私も、マリアに聞いてびっくりしちゃった。さっき、マルーと話をしていたら、突然あの子、走り出しちゃって…追いかけようと思ったら、シグルドさんとシタン先生が来るじゃない。マリアまで、一枚噛んでるって言うし…」
「あ、私も全然詳しい話は聞いてなかったんです。ただ、シタン先生に、これを持ってバルコニーに行くようにって…」
言って、マリアは豪奢に巻かれた銀色の髪に差し込まれた、美しい花を手にとった。それは、会場のそこかしこに生けられた純白の花弁で、強い芳香は野外でも十分香ってくる。
「これを、バルトさんに頂いたと言えば良いと、シタン先生に言われて…変だとは思ったんですが、でも、その…」
「ヒュウガの言うことは、大概において妙な上、理解できないところでつじつまがあっているからな」
シグルドが苦笑げに言う言葉に、シタンは大仰に眉根を寄せた。
「おやおや、そこまで解っていて、私に相談を持ちかけた男の言葉とは思えませんね」
「細かなからくりは、俺よりもお前の方が得意だからな」
そうシグルドが結んだ時、呆気にとられたようなフェイとビリーの嘆息が見事にハモった。
「何だ…そう言うことか…」
「すっかり、騙された……」
そんな二人に、エリィたちに支えられたキュランが、申し訳なさそうな声をかける。
「すみません…事が大きくなるので、大統領以外の方には嘘をつきたくなかったのですが…」
「あ、いいんだよ、首突っ込んだのは俺たちだし。しっかしシスター、すごい演技派だね。嘘だなんて、ぜんぜん解らなかったよ」
感心したようなフェイの言葉に、キュランは穏やかに微笑んだ。
「…言ってる事に、嘘は無かったですから」
満足そうな彼女の言葉に、周囲に笑顔が移る。シグルドは一人星空を見上げ、その隻眼を細めた。
「……さて、あとはミシェルの活躍に期待…だな」
はっとして振り返った視線の先に、壁にかかったランプの光に照らされた、琥珀色の髪の少年が立っていた。
「…ミシェル…?」
思ってもいなかった人物の名を、マルーは少々呆然とした声で呟く。次の瞬間、彼女ははっとして笑顔を取り繕った。
「どうしたの、晩餐会場はこっちじゃないよ? そのカッコ…似合うね、ミシェルもパーティーに出るんでしょう?」
「あ、うん……」
ミシェルは不器用に頷いて、ランプの明かりの真下から一歩、足を踏み出した。マルーは客室の扉の取っ手から離れ、思いつめたような顔をしたミシェルを見上げる。
「どうしたの? ミシェル」
「……マルーこそ、どうしたの。一人でこんなところにいるなんて」
ミシェルの問いに、マルーの笑顔が一瞬崩れた。すぐに顔を俯かせ、自分の茶褐色の髪をつまむ。
「んー、何だか疲れちゃって、少し休もうと思ったの。でも大丈夫、すぐに戻るから、ミシェルは先に行ってて。…あ、そうそう、ミシェルのこと、キュランが探してたよ」
そう言って顔を上げた瞬間、マルーは真剣な瞳でこちらを見下ろすミシェルに目を見張った。少年さが抜けないけれど、整ったその顔立ちが、ふしぎな緊張を孕んでこちらに向かっている。
「…ミシェル?」
「あのさ、マルー」
一旦言葉を区切ってから、ミシェルは腹の奥から声を出した。
「どうして、大統領に香水を渡さないの?」
「……」
思いがけない質問に、マルーの笑顔は完全に崩れた。強張ったような彼女の表情が、徐々に困ったものに変わる。
「……どうしてって、言われても…。何て言うのかな、やっぱり、あの香水気にいっちゃってさ、あげるのもったいないな~とか。せっかくミシェルにも選んでもらったのに、ごめんね。…若には、何か他のものを考えるよ。うん、眼帯とか、そう言うものにしよかなあ」
「自分で使うの? どうして?」
「…どうしてって…」
言葉につまったマルーに、畳み掛けるようにミシェルが言った。真剣な瞳で。
「だって、マルーにはもう、香水あるじゃない。大統領が買ってくれたものが」
「…!?」
目を丸くしたマルーに、ミシェルは少しだけ苦笑する。
「…やっぱり、知らなかったんだね。でも、マルーに誤解させちゃった責任は、僕にあるから…」
「…どういう意味?」
「初めてマルーに会った時、僕は『上司が誰かにねだられた』って言ったじゃない。だからマルーは、大統領がお買い求めになった香水は、自分ではない誰かのためにあつらえたものだと思っただろうけど、でも、本当は『ねだられた』って言うのは、大統領なりの照れ隠しだったんだ」
言って、ミシェルは長い睫毛を伏せ、薄水色の瞳をうつぶせた。マルーの瞳と視線を合わせていたかったけど、滲む後悔が目線を落としてしまう。
「僕が、もっと大統領のことを理解して、その言葉の裏にあるものをくんでいられれば…マルーを、こんなに苦しめる事もなかったんだ…ごめん、本当にごめん」
「なに言ってるの!」
言い切って、マルーはミシェルの肩をがしっと掴んだ。彼女の細い指が、肉付きの薄いミシェルの肌に温かい。
「そんなの、全然ミシェルのせいじゃないよ! まぎらわしいこと言う若が悪いんだし、…自分で確かめる勇気がなかった、ボクが悪いんだよ!」
真剣な瞳で自分を見上げるマルーに、ミシェルは泣きたいような、大声で笑いたいような、何とも言えない気持ちになった。とりあえず、照れたように鼻の頭をかいて、苦笑する。
「ありがとう…やっぱり、マルーってすごいよ」
「すごい?」
「うん。最初に会った時から思ってたけど、こっちの言って欲しい言葉を、素直に上手にくれるんだ。だからつい、僕も甘えちゃうんだけど……さすが、『大教母様』だよね」
「……」
ミシェルの言葉に、マルーはにっこりと微笑んだ。星空の下で練習した微笑みが、こんなところでも役に立つ。
「じゃあ、マルー。今からでも遅くないから、大統領に香水を渡しに行こう。きっと大統領も、マルーに香水を渡したいと思っているよ。二人が二人とも、同じものを相手にプレゼントするなんて…変わってるけど、すごく素敵だよね」
にこにこと言うミシェルに、マルーは不意に暗い顔を見せた。それからゆるゆると首を振り、呟く。
「……ん、でもやめとく…やっぱり」
「えっ? な、なんで?! だって、せっかく…」
「若はもう、別の人にあげちゃったよ、香水」
「ええっ??!」
心底ぎょっとしたミシェルが、思わず身を乗り出して叫ぶと、マルーは視線を床に落としたまま、少しだけ微笑んだ。
「…だって、ボク、自分でアウグリオの香水買ったって、若に言ったんだもん。自分のために、買ったって…だから、もうボクには必要ないと思ったんだよ、きっと…」
「……」
マルーの言葉に、ミシェルは愕然と目を開いていた。困ったように、焦ったように、その細い眉を寄せる。
「そんな…でも…だけどさ、マルー! マルーの買った香水は、じゃあどうするの? 本気で、自分で使っちゃうの?」
「………」
ミシェルの言葉に、マルーは困ったように眉を寄せる。彼女の、そんな頼りない所作に、ミシェルは何かを決意したように拳を握った。
「ねえ、せめてマルーの買った香水は、受け取るべき人に贈ろうよ! そうすればきっと、大統領だってマルーの気持ちに気付いてくれるよ」
「……きもち…」
ぽつり、とマルーが呟く。ミシェルは力いっぱい頷いた。
「うん、気持ち! だって、マルーは大統領が好きなんでしょう?」
はっきりと、混ざりもののない瞳でそう問われて、マルーの表情はにわかに崩れた。泣きそうになった彼女に、ミシェルは驚いたように目を丸くする。
「……よ」
「マルー?」
「出来ないよ、そんなこと!」
弾かれたように、マルーが叫ぶ。回廊のランプの光を吸って、その碧玉の瞳が豪奢に輝いた。
「今更、そんなこと出来ないよ! 若の香水が、自分のためだったって、知った途端に手の平返すなんて…卑怯じゃないか、そんなこと!」
「な…何でさ! 何が卑怯なの?!」
マルーに合わせて、ミシェルも怒鳴るように問い返した。マルーは泣きそうな顔のまま、たがが外れた感情を、御し切れずに叫ぶ。
「だって、ボクは怖かったんだもん!」
「え?」
「若が、ボクじゃない誰かを好きになることが、怖くて怖くて、仕方がなかったんだもん!!」
そう、言い切って。マルーは大きな瞳をミシェルに向けた。揺れて揺れて、涙が零れそうな、可哀想な瞳。
「怖くて、確かめられなくて、卑怯で弱くて傲慢で! こんなボクじゃダメなんだ、まだ全然足りないんだ!」
「た、足りないって、何が?」
「…気持ちが、覚悟が、全然足りない。こんな気持ちで若に、好き、なんて言ったら、若の負担になっちゃうよ…もうお荷物はいやなのに…」
「負担?」
ミシェルが怪訝そうに眉を寄せる。彼の眼前で、マルーは自分の片腕を押さえ、視線を落としていた。僅かに震えているのは、指先だろうか、腕だろうか。
やがて彼女は、落ち着きを取り戻したように静かに語り始めた。
「…この一年、若に会えなくて、ボクなりに考えたんだ、若への気持ちを」
静かに、静かに。悩んで苦しんできた自分を、慈しむように。
「この世界のために、人のために、若は頑張ってる。ボクも頑張ってる。だから、逢えない。逢わずに頑張る。そう、言い聞かせれば言い聞かせるたび、心がね、死んでいくの。逢いたいようって、泣き出すの。そうしてね、解ったんだ……ボクは、若のことが好き。本当に、心から好きだって」
ひとつ、呼吸を挟んで、マルーは静かに瞳を上げた。黙ってこちらを見つめる、薄水色の瞳に微笑む。
「でもそう思うたび、ボクは自分に言い聞かせてた。この気持ちを、若の負担にしたくないって。ボクはね、ミシェル。若に、もう返しきれないほどの恩があるんだ。そんな若に…これ以上、迷惑はかけられないよ」
「め、迷惑なんかじゃないでしょ? なんで、そんな風に…」
「ボクはね、ミシェル」
ミシェルの言葉を遮って、マルーが言う。
「ボクの事で、若が少しでも、悩んだり傷ついたりするのが、本当に嫌なんだ。そんなことをさせるくらいなら、ボクが傷ついた方が、何倍も、何十倍もマシなんだ。だからね…応えてもらえなくても、いいと思ったの。ただ、ボクの気持ちを聞いてもらえるだけでいい…それ以上は、望まなくてもいいって、そう思ったの」
そう言って、マルーは本当に口惜しそうに、微笑んだ。
「そう…思ってたのにさぁ…馬鹿だよね、そんなこと、本当にできると思ってたのかな。ボクは、自分で考えている以上に欲張りで、我がままなんだって、忘れてた」
「マルー…」
「口では、若に応えてもらわなくてもいい、思いが通じなくてもいい、なんて、格好いいこと言ってたくせに…いざ、若に他に好きな人がいるかもって思っただけで、世界がね、真っ暗になって、何も見えなくなって…おちていくの」
暗いくらい底のない穴に。バルトと離れていた一年間、何度も悪夢にうなされた、光のないあの世界へ。
「馬鹿だよねぇ…まだ、ここへくるべきじゃなかったんだ、ボク。もっともっと強くなって、誰にも頼らずに、一人で立てるようにならなきゃ、若に好きなんて言えない。こんな気持ちのままじゃ、また若の負担に…」
「どうして、負担なんて思うの?!」
突然、弾けたようにミシェルが叫んだ。マルーが驚いたように彼を見ると、ミシェルはその頬を真っ赤に染めて、口惜しいような、切ないような、泣きそうな顔でマルーを見ていた。
「どうして、そんな風に思うの?! 好きになったら、人を好きになったら、その人にも自分を見て欲しいって思うの、当たり前じゃないか! それのどこが悪いの?!」
強い口調に、マルーは呆気に取られる。けれどすぐ、持ち前の気丈さでミシェルを睨み返した。
「ボクはダメなの! これ以上はダメなの! これ以上、若の負担になっちゃったら、好きになってもらえないばかりか…嫌われちゃったらいやだもん!」
「どうして大統領がマルーを嫌うんだ?! そんなこと、絶対に有りっこないって、僕にだって解るのに…マルーは、大統領が信じられない?!」
「ッ…! 違う、そうじゃない、若が信じられないなんてない! そうじゃなくて、そうじゃなくて…」
強く首を振り、マルーは顔を覆った。柔らかなオレンジ色のドレスが、彼女の身じろぐたびに涼しい音をたてる。ミシェルは上ずった息を整え、小さなマルーの肩が震えるのをはっとして見つめた。
「……ごめん……、言い過ぎた…」
「……」
顔を覆ったまま、マルーがふるふると首を振る。子供が癇癪を起こしているような仕草に、ミシェルが困ったように眉を寄せる。
「でも…ねえマルー、これだけは言わせてよ。どんなに強い人だって、好きな人には、自分を好きになって欲しいんだよ。それは、わがままでも卑怯でもなんでもなくて、仕方がないことなんだ。だって…ひとはひとりじゃ、空を飛べないんでしょう?」
「……!」
「ねえ、マルー、僕は思うんだけど…きっと、片翼の天使たちも、気持ちを伝える時は、怖かったんじゃないかな…」
ミシェルの言葉に、そっと、マルーの顔が上向いた。涙こそ零れていないものの、真っ赤になってしまった瞳が痛々しい。
ミシェルは無意識に、労わるような微笑みを浮かべた。
「……香水、大統領に贈ろう…ね?」
「………」
その言葉に、マルーが僅かに俯いた瞬間。
「……マルー!」
赤々と灯る、ランプの光。その光に弾かれるように、豪奢な金髪が揺らめいた。
ここに、いるはずのない人間の声に、マルーとミシェルは、弾かれたようにそちらを向く。
そこには、上ずる息を抑えた、隻眼の青年が、真摯な顔で立っていた。