DAYBREAK-デイブレイク-

  思えば自分はいつも、大事な時を逃してばかりいた。
 キュランに雑貨屋のユーリスのことが好きなんだろうとからかわれた時も、懸命に否定したつもりでも、ここぞと言う決め手に欠けて、結局誤解されて広められて散々な目にあった。
 ガキ大将のジェラルドと対決した時も、今だと言うタイミングを掴み兼ねてまごついているうちに、キュランがジェラルドの腕に噛み付いて形勢が逆転。いつのまにか自分とジェラルドの決闘は、キュランとジェラルドの決闘となって、華々しく幕を閉じていた。
 そして、キュランが遠くへ引越しすると聞いた時も、自分は上手い言葉も、慰めも、慰められもしなかった。
 ただ馬鹿みたいに、また会える? 会えるよね? と、すがり付くほど問い掛けたミシェルに、キュランは悲しい笑顔を向けてきっぱりとこう言ったのだ。
『もう、会わないよーだ』
 彼女が何故、そんな事を言ったかは解らない。だけど、彼女が会わないと言ったら、もう絶対に会ってはくれないのだ。幼いミシェルは、そう確信していた。
 だけど。だから。
 あの時、もっと上手く立ち回っていれば、自分達の再会は、こんなに遅くも、また劇的にもならなかったはずではないのだろうか。
 自分はいつも、大事なことを言い逃してばかりだ。
 そして、手におえないほど時が経ってから、じっとりと後悔している。
 そんな自分が嫌で、後悔するのはもう嫌で、だから勇気を振り絞って、大統領官邸に乗り込んでもう一年。自分はどこがどう、変わったのか。
 少なくとも、望んだようには変わってはいまい。もしも変わっていたとしたら、今、目の前にたたずむ懐かしい幼なじみの顔を、こんなに歪めずにすんだのだろうから。
「……何よ、それ」
 キュランは、薄く化粧が施された顔を真っ青にして、唇を歪めていた。小刻みに揺れる肩が、彼女の激情を表していて、至近距離のミシェルは身の危険を感じつつわずかにのけぞる。
「だ、だから…大統領は、多分、いや絶対、大教母様のことがお好きなんだよ。うん、間違いなく」
「そんな事は分かってるわよ。あたしが言いたいのは、大教母様のお買い上げになった香水が」
「うん、それ……大統領あて、なんだよね……」
「……それを、大統領は」
「知らない、ね」
「そしてそれを、あんたは」
「…教えてない、ね」
 こわごわ答えるミシェルの目の前で、キュランの形相が変わった。ぎりりと吊り上げられた眉の下で、深緑の瞳が燃えるような怒りを表している。自分の視線の下になったとはいえ、その迫力は衰えていない。
 ミシェルはおっかなびっくり、キュランに微笑んでみた。かなり、情けない笑みだ。
「…えーっと…まずかった、よ、ね…?」
 途端、キュランの怒りが爆発した。
「まずかったよね?! あんた、何言ってんのよ!! まずいに決まってるでしょ、どうしてそれを早く言わないの!? どうして、それを、早く、言わないのよ!!」
 そう言って、癇癪を起こしたようにだんだんと足踏みをするキュランに、ミシェルは肩を竦めて飛び上がった。
「だだ、だって、マ、マルーが言わなかったことを、僕が言っちゃあ…」
「マルーが言わなかったこと?! 大馬鹿! 言わなかったんじゃなくて、言えなかったのよ! 考えてみなさいよ、あんたの肩の上に乗ってるのはかぼちゃか何か?!」
「え、えっと…」
「もうっ!! いい? 大教母様は、大統領がお買い上げになった香水は、自分に贈られる物だって知らないのよ! 大統領が、誰か他の人間のためにあつらえたものだと、勘違いしているの! そこへ来て、自分が同じ物を、大統領のために買ったなんて、言える?!」
「あ」
「それに、大統領だって大教母様の気持ちを何も知らないのよ! おそらく、大教母様がお買い上げになった香水は、大教母様自身が使うためのものだと思ってるのよ! そんな状態で、今更同じ香水をのこのこプレゼントできると思う?! だから『贈る相手はもういない』って言ってるんじゃない!」
「ああっ!!」
 思わず叫んで、ミシェルはあんぐりと口を開いた。そんなミシェルの眼前で、キュランは悔し涙さえ浮かべている。
「もうっ…! あんたがさっさと、大教母様も香水を買ってるってあたしに言っていたら、もっと早くにフォローできたのに…! 大教母様を、あんなに悲しませることもなかったのに!!」
 そう言って、額を押さえて俯いたキュランに、ミシェルは何と声をかけていいかわからずにどんよりと視線を向けた。
「…ごめん」
「……」
 しゅんとしたミシェルの声に、キュランはしばらくしてからようやく顔を上げ、ふうと重い嘆息をつく。顔色は冴えないが、何とか落ち着こうと努力しているのが窺えた。
「……もう、こうなったらあたし達があのお二人の誤解を解くしかないわね」
「ど、どうするの?」
「あんたが知っていることを、洗いざらいお二人にお話するのよ。お二人が、お互いのために香水をあつらえたこと、お互いに誤解されていること。そうしなきゃ、きっとどんどんねじくれていっちゃうわ」
「うん……そうだね。じゃあ、さっそく行こう。僕は大統領に言うから、キュランは大教母様に…」
 キュランの言葉に、ミシェルが深く頷いて、控え室の扉に向かおうとした瞬間。
「?!」
 その扉の傍らにたたずみ、腕を組んでこちらをじっと見つめている、銀髪の青年に気付いて、声にならない叫び声を上げた。
「ひっ、ひ、ひっ……」
「ハ…ハーコート、筆頭ッ…?!」
 ミシェルの視線の先を追い、キュランもひっくり返った叫びを上げた。二人は、話に熱中するあまり、シグルドが部屋に入ってきたことに全然気付いていなかったらしく、じっと押し黙っていたシグルドは、ようやく微かな笑みを浮かべて口を開いた。
「失礼。話は聞かせてもらった。…しかし、驚いたな、君たちがあのお二人のために、こうまで結託していたとは」
 落ち着いたバリトンに、どこかからかいを含む色を見つけ、キュランは真っ赤になって固まる。その傍らで、ミシェルは慌てて口を開いた。
「あ、あのっ、筆頭! 僕たちは、その…」
 しかし、うまく言葉が出てこない。シグルドは静かな眼差しのままゆっくりと壁から背を離し、二人に歩み寄ってきた。
「どうも、おかしな具合になっていると思ったら、そんなことがあったとはな。お二人の香水の件を聞いて、ようやく得心がいったよ」
「は、はい。も、もっと早く筆頭にご相談すべきでした。申し訳…」
「いや、ミシェル。前にも言ったと思うが、あのお二人のことは、周りがごちゃごちゃ口出しするよりも、自然な成り行きに任せるのが一番なんだ。…とはいえ」
 シグルドはすいと視線を流し、長い指を滑らかな顎に這わせた。
「今回は、若にとっても計算外のことばかりだったろう。あの方は割合、段取りと言うものを重んじる傾向があるからな…まして、この件に関しては、何度もシュミレーションしていたに違いない。泣かせる話だ」
「…は?」
「そこへ来て、今回の東の一件。前もって予想していた流れが、思わぬ速さで進行した…ことによれば、今回の晩餐会では様子を見、次回のチャンスに賭けようとお考えだった若も、もう進退極まるところまで、追いつめられたと言うことか。…これは、少々若の手にあまるな」
「あ、……あの?」
 ぶつぶつと、一人納得したように呟くシグルドに、ミシェルとキュランは完全に混乱した様子で顔を見合わせていた。シグルドはそんな二人に、にっこりと涼しげな微笑みを向ける。
「ここはやはり、二人に協力していただこうか」
「あ、はい、それはもちろん。ですが、筆頭…」
「どういう、ことなのですか?」
 キュランとミシェルは、共に難しい謎かけを出された子供のような顔で、シグルドを見上げていた。シグルドは少しばかり面白そうな微笑みを浮かべ、ミシェルに視線を流す。
「ミシェル。君は先ほどの会議の、最後の案を覚えているかい?」
「え? あ、はい…先ほど、大統領からも意見を聞かれました」
「で、どう答えた?」
「えっと…矛盾はありませんが、時期的な面であまりにも性急なのでは…ないかと…」
 言いながら、ミシェルの大きな瞳がますます見開かれていくのを、キュランは驚いて眺めていた。ミシェルは口と目を「O」の形に保って、真っ直ぐシグルドを見つめている。シグルドは苦笑げに微笑んだ。
「…そう。あの案は、実は昨日今日の付け焼き刃ではないんだ。そして、対外的には、時機尚早と見られるだろうが、若の中では、もうこれ以上は待てないんだよ」
「で、で、では、この晩餐会は、やっぱり…」
 ミシェルの震える声に、キュランははっと目を上げた。『やっぱり』の後に続く言葉を、彼女は本能的に悟っていた。
「えっ……本当ですか?!」
「さて……」
 二人の狼狽に、シグルドは面白いような、困ったような表情を浮かべる。するりと視線を逸らせて、柱時計に目をやった。
「そうなるかならないかは、君たちの活躍にかかっている。今から私が言う通りに、事を運んでくれれば、あるいは明日の朝、君たちは我が城が誇る老侍従の、極上のティータイムに招待されることになるかもしれないぞ」
 言って、シグルドはその薄い唇を優雅に微笑ませた。



 浮かない顔色を隠すために、マルーは喋って喋って喋りまくった。
 キスレブの治安はどう? そう、なかなか大変だね。でも、人が元気なら何とかなるよ。
 シェバトの法案は、このほど全て可決されたそうですね。いくつか、ニサンとしても参考にしたい体制がありましたので、できれば近々会談をお願いできますか?
 いちごの畑は、誰が世話をしているの? そう、みんな仲良くやってるんだね、偉いね。
 今日はみんな、楽しんでいってね。
 にこにこと、二年半前と変わらない笑顔を浮かべ、二年半前とは見違えるほど美しくなったマルーは、広大なパーティー会場を魚のように優雅に歩いた。
 見る人が見れば、それはそつのない様子に見えたし、出会う人出会う人に優しい笑顔を向けるマルーに、穏やかなもの以外を見つけられたものは少ない。
 けれどじっと注視していれば解る。彼女の進路上に、おなじみの金髪の青年がいたためしがないことに。
 二人はパーティーの一番始めに、二・三言葉を交わした後、すぐに人の波にもまれた。どちらも有名人で、また人々の中心的存在であるから、これはある程度仕方がない。
 けれど、普通ならばそんな中でも、二人は無意識のうちに、お互いの傍らに自分の居場所を確保するのが常だった。少なくとも、二年半前までは。
 けれど今夜は、どこかおかしい。マルーは素知らぬふりをして人波を利用し、バルトから離れようとしている風だし、バルトはバルトでマルーのことを気にしつつも、いつもの無遠慮な積極性を発揮できずにいるようだった。
 久しぶりの再会で、お互いにあがっているのかもしれないと、最初は思っていたけれど…
「……どう考えても、変ね」
 ようやく人いきれから脱し、白い壁を背にカクテルグラスを傾けたエリィが、傍らの青年に呟いた。
「ん? なにが?」
 こちらはだいぶご機嫌な様子で、何杯目かのグラスを空けたフェイが、エリィの囁きに視線を返す。エリィは少し眉根を寄せて、つんと唇を突き出した。
「もう、呑気ねぇ、相変わらず」
 溜め息を吐きつつ、エリィは再びマルーに視線を転じた。会場のいたるところに生けられた、清楚で美しい花を縫うように、マルーはにこにこと微笑んでいる。その対岸では、バルトが人の輪の中心に引っ張り込まれているところだった。
「あの二人の様子よ。おかしいと思わない?」
「え? う~ん…別に? まあちょっと、離れているみたいだけど、仕方ないんじゃないか? この晩餐会には、ユグドラの乗員も集められるだけ集めたみたいだから、あの二人が引っ張りだこになるのは当たり前だし…」
「でも、それにしたって変よ。いつもなら、こんな機会にバルトがマルーを手放すはずないし、マルーだってバルトの傍らにいるのがスタンダードだったじゃない」
「まあ…な。でも、なんてったって久しぶりの再会だしなあ…調子狂ってるんじゃないか? 特にバルトは、照れてるとかさ」
「………」
 フェイの言葉に、エリィはじっと顎に指を添えて押し黙った。その瞳は、どうにも納得が行かないような色を浮かべ、ふと思い出したように眉を上げる。
「ねえ、そう言えば、どうしてシタン先生はこの晩餐会を、あの二人の婚約発表の場だと勘違いしたのかしら?」
「え?」
 思ってもみなかった問いに、フェイが眉を寄せる。手にしたカクテルグラスはとうに空になっていて、手近にあるテーブルにそれを置いて腕を組んだ。
「そう言われてみれば、そうだよな…晩餐会の招待状が届いた時、迷わず言ったもんな、『ああ、婚約披露ですね』って」
「ねえ、おかしいわよね? だって、それまでろくに、バルトにもマルーにも会っていなかったのに…」
「でも、仕事の話とかは、シグルドさんとしてたみたいだぜ。ほら、先生今じゃ、一種の諜報員みたいなこともしてるし…」
 フェイがそう言いかけた時、エリィは視界の端に留めていたマルーの姿が、いつのまにか消えていることに気付いた。慌ててきょろきょろ視線を巡らせ、鮮やかなオレンジ色のドレスを探す。
「やだ、マルーったらどこへ行ったのかしら」
「きっと、外の空気でも吸いに行ったんじゃないか? 結構この花、香りがきついし…」
 言いながら、フェイはテーブルに飾られている見事な白い花に鼻先を寄せた。ラハン村では見たことがない、珍しい形の花で、もちろん草花を愛でると言う典雅に疎いフェイには、逆立ちしたって名前など分からない。
「でも、いい香りね」
 エリィは言って、何気なく自分達をつつむ爽やかで甘い香りに唇を微笑ませる。それから、自分のカクテルグラスをフェイに押し付けた。
「私、ちょっと様子を見てくる。フェイは、それとなくバルトの様子を見ててね。喧嘩してるんじゃないとは思うけど…」
「はいはい。まったく、エリィの心配性も相変わらずだな」
 苦笑するフェイに向かって、エリィは少しだけ照れたような、はにかんだ微笑みを向けた。
「だって…私、マルーには早く幸せになってもらいたいんだもん。私が幸せになった時…いっぱい、いっぱい喜んでくれたから」
 そう言って、エリィはちらっと周囲を確かめ、素早い動きでフェイの頬にくちづける。慌てたフェイがカクテルグラスをおっことしそうになる前に、ひらりと身を捩ってバルコニーの方へと向かった。



 今日は、星が鮮やかすぎる。
 夜陰に少しだけ肌を震わせながら、マルーはバルコニーに立っていた。日中、あれほど照り付けていた太陽が隠れた途端、この国は忍び寄る冷気に浸される。
 その張り詰めた空気の中、骨色の月と瞬く星は、泣きたいくらいに美しかった。
 マルーは大きく息を吸い込み、そして吐き出す。身体の奥まで入り込んだ、甘く爽やかな香りを、忘れられるように。
「……ダメだなあ…もっと、ちゃんとしなくちゃ」
 一人ごちて、マルーは無意識に自分の身体を抱きしめた。少しだけ、指先が冷たい。
 自分はちゃんと笑っているだろうか。不自然なところはないだろうか。誰にも悟られてはいないだろうか。
 …あの人に、気付かれてはいないだろうか。
 一つ一つ確認しながら、マルーは大きな瞳を上向かせた。骨色の月が浩々と光を降らせている。同じ月なのに、ニサンで見るものよりもずっと大きい。
 その月に向かって、にっこりと笑顔の練習をしてみる。うん、大丈夫。まだ頑張れる、今夜だけでも。
「マルー?」
 その時、ジャストタイミングで背後から声がかかった。少しばかり闇をはばかるようなその声に、マルーは練習したての微笑みを浮かべて振り返る。
「どうしたの、エリィさん」
「探しに来たの。大丈夫? 人に酔った?」
 相変わらず、優しく自分を気遣ってくれる年上の親友に、マルーは演技ではない微笑みを返して首を振った。
「ううん、平気だよ。ちょっと、外の空気が吸いたくなったの」
「ああ、そうね。ちょっとあのお花、香りが独特だしね。でも私好きよ、あの香り」
 エリィの言葉に、マルーの瞳が一瞬揺らいだ。すぐにくるりと背を向けて、満天の星空を仰ぐ。
「あの花、砂漠のオアシスにしか咲かない花なんだ。アウグリオって言って、珍しい花なんだよ」
「へえ、砂漠の花ね…でも、私何だかあの花、見てるとあなたを思い出すわ」
「え?」
 唐突な言葉に、マルーは思わず振り返った。エリィはマルーの傍らまで歩み寄り、美しくまとめたマリーゴールドの髪に手を這わせ、ほつれた髪を整えながら続ける。
「何だか、一見とても儚げで、大人しい風情に見えるけど、芯が毅然としているところとか、爽やかなのにそのくせ甘くて、いつのまにか人の傍らに寄り添っているような香りとか…」
「………」
 エリィの言葉に、マルーは小さく俯いた。大きな碧玉の瞳がうつぶせられ、ぎゅっと握り締めた拳が微かに震えている。エリィは星屑から目を転じ、マルーの様子に目を見張った。
「どうしたの、マルー?」
「……ボクは…」
 小さく唇を開き、マルーは会場のざわめきにすら消えてしまいそうなほど小さな声で囁いた。
「…ボクは、アウグリオのように強くはない。過酷な状況でも、一人毅然と咲き誇れるような、そんな強さはないの」
「そんなこと…」
「ボク、ずっとこの花が好きだった。砂漠のオアシスで、厳しい状況下で、それでも誰にも頼らず、すがらず、一人で咲いているこの花が、とても好きで、とても憧れていたの」
 大きな瞳を星空に向けて、マルーは独り言のように呟いていた。エリィはじっと、細く白いマルーの首の辺りを見つめて、言葉を挟まずに彼女の独白を聞く。
「だから…この一年、ボクは、アウグリオになったつもりで頑張ったんだぁ…。もちろん、ボクの周りにはアグネスを始めとするたくさんのシスターがいてくれたし、いつだってボクは一人じゃなかったよ。護られて甘やかされて、それでも一人で立っているって、思いたかったんだ」
「あなたは甘やかされてなんかないわよ、マルー」
 思わずついて出たエリィの反論に、マルーは少しだけ苦笑をもらした。
「うん、ごめん…そうじゃなくて。護られて、大事にされて、それで初めてボクは生きていられるって、そんな当たり前のこと、忘れそうになってたんだ…。早く、一人前になりたくて、一人でも平気になりたくて」
「一人でも平気に?」
 マルーの言葉に、エリィが怪訝な表情を見せた。そんな言い方、マルーらしくない。誰よりも、『一人』ではないはずの、マルーらしくない。
 マルーは夜風に揺れた茶褐色の髪を軽く押さえ、微笑みながら俯いた。取り繕われたその微笑みは、美しいけれどもとても寂しい。
「そう。……一人でも平気になれば、その時初めて、ボクは『二人』になれると思ったの」
「……」
「いつまでも頼ってばかりはいられない。こんな時代だもの、あの人の負担にはなりたくないし、なれない。だから」
「なら、立派にあなたは独り立ちしてるわ」
 エリィは力強くそう言って、マルーの手に手を重ねた。夜陰に浸ったその指先が、驚くほど冷たくなっているのに気付き、眉を寄せる。
「ニサンがあんなに活気付いたのも、この世界が安定しているのも、あなたの力じゃない。もちろん、あなた一人の力とは言わないわ。だけど、あなたの力だって、十分以上に…」
「まだまだ、だもん」
 エリィの言葉を遮るように、マルーは乾いた声音で呟いた。
「まだまだ、ダメなの。もっと、強くならなくちゃダメなの。ボク、思い上がってた…自分は成長したって、頑張ってきたって、だからもう十分だって、思い上がって…でも、駄目だったの、まだ…っ」
「マルー?」
 無意識に力のこもったマルーの指先が、白くなるほど握り締められて。エリィはまるで自分自身を責めるように、固く身を強ばらせたマルーの肩を抱き、困惑したように言葉を募る。
「ねえ、どうしたの? 何があったの? 話してみて、マルー」
「エリィ…さん…」
「だって、あなた楽しみにしていたんでしょう? 今日のことを。アグネスさんから聞いてたの。ここ一年、マルーはバルトと会わずにずっと頑張ってきて…でも、もう限界だって、だから…」
「アグネス、に…?」
 その瞬間、マルーはぎゅっと目を瞑って固く唇をかみ締めた。
「そうか、やっぱり…みんなに、心配かけちゃってたんだね…ああ、やっぱり…」
 唇から絞り取るように漏れたマルーの呟きに、エリィは困惑げに眉根を寄せる。マルーの顔色が恐ろしく悪いのは、きっとこの骨色の月光のせいだけじゃない。
「ねえ、マ……」
 彼女の肩を抱き、そう囁こうとした瞬間、賑やかなパーティ会場に続く窓が開かれ、柔らかな声が二人にかけられた。
「マルーさん、エリィさん、どうかなさいましたか?」
「え…ああ、マリア…なんでもないのよ。ちょっと夜風にあたりにきたの、星が綺麗だから…」
 エリィは、さりげなくマルーをマリアから隠すようにして、卒のない様子でそう答えた。マリアは少し微笑んで、その眼差しを天に向ける。
「うわぁ…本当ですね。シェバトから見る星座と、全然違う…」
「マリア、星が好きなの?」
 エリィの影から、マルーが何でもない風に問い掛けた。まだ、振り返って微笑みかけることは出来ないけれど、声はもう、震えていない。
「ええ、今、ビリーさんにたくさん教わっているところなんです。ビリーさん、星座とかに詳しくて」
「へえ、そうなん……」
 言いかけたマルーが、その瞬間愕然と目を見開いた。
 夜風に混じって、甘くすがしい香りが漂う。パーティー会場へ続く窓は閉められてあるので、そちらから漂ってくる芳香ではない。
 香りの主は、柔らかな銀色の髪を豪奢に結い上げて、にっこりと微笑んでいた。
「…あら? マリア、この香り…」
 マルーとマリアの間で、エリィがそれに気付く。マルーは、自分の鼓動が耳の奥で響いているのを感じていた。
「あ、はい。これ、先ほど頂いたんです、バルトさんに」
「へえ、バルトったら気前いいわね。でも、やっぱりいい香りねえ」
 そう言いながら、エリィがマリアに近づいていく気配を、マルーは俯いた肌で感じていた。ひたひたと忍び寄るアウグリオの芳香が、マルーの喉を締め上げていく。
「ねえ、マルーも来てみて、とてもいい香りが…」
「ボク…ごめんなさい!」
 エリィの腕を払いのけ、マルーはその場から逃げ出した。エリィとマリアの驚いたような声を背後に、マルーは夢中でパーティー会場に飛び込み、混雑する人の群れを器用に縫いながら、ドレスの裾をからげて走った。
 心臓が痛くて、涙が滲むのはそのせいだと思いたかった。



 ようやく馴染みの団体から開放されて、バルトは壁際のフラワーボールの陰に隠れるように身を寄せた。
 不覚にも、手には何の飲み物も持っていない。中央のテーブルに寄って、グラスを持ってくる間にまた誰かに掴まるかと思うと、バルトはげっそりと肩を落としてそのまま大人しく壁に背を預けた。
 人々の顔は、みな生き生きと幸せそうだ。それを確認できただけでも、この晩餐会は催して成功だったと思う。
 たとえ、考えていた未来予想図と、まるっきり違う状態であっても。
 バルトはふと嘆息し、ちらりと視線を巡らせた。ここ数年でまた少し伸びた彼の長身でも、この人込みの中から目当ての人物を探し出すのは難しい。
 鮮やかな、オレンジ色を一目でも見られたら、へたり込みそうなほど疲れた身体に、また新しい力が湧くのに。
「……どこ行きやがった…」
「いよお、大統領!」
 突然すぐ傍から声をかけられ、バルトはびくっと肩を揺らした。慌ててそちらを向くと、もういい加減出来上がった風のフェイと、小さな妹の手を引いたビリーとが、並んでこちらを見やっていた。
「な、何だよお前らか…脅かすな」
「きょろきょろしてるからだよ。注意力散漫」
「うるせー。俺は今の今まで接待してて、くたくたなんだよ、労れ少し」
「労ってやるってぇ、ホレ」
 にこにこと、フェイがバルトにグラスを渡した。それは鮮やかなオレンジ色のカクテルで、今のバルトの目には少しだけ痛い。
「…サンキュ」
 しかしながら、渇いた喉を潤すちょうど良い液体に、バルトは不承不承手を伸ばした。一気にそれを煽ると、嫌なことにとても甘く、さらに美味い。優しい喉越しが訴える感覚まで、そのカクテルは彼女を想起させた。
「……なんだこりゃ、飲んだことのねえ味だな」
「当然さ、今、シタン先生が作ってくれたオリジナルだからな」
「名づけて、『ニサンの微笑み』だってさ」
 ビリーの言葉に、バルトは飲んでいたカクテルを吹き出した。きったないなあなにやってるんだよ、と言う抗議の声を背に、げほげほと喉を震わせる。白いタキシードでなくて本当に良かった。
「な、な、何だその名前はっ?!」
「何だって、わかんないの? シタン先生が、マルーさんをイメージして…」
「んなこたわぁってるよっ!!」
 だけどだからなんでこんな時にんなもん飲ませるんだ、と言う声にならない叫びを喉奥に引っ込めて、バルトはぐうとかむうとか言う奇妙な唸りを上げた。
「ところでバルトぉ、お前、マルーとなんかあったのか?」
 くすくすと陽気に笑いながら、フェイがバルトの肩に手を乗せる。酒くせえな、と眉を顰めたバルトの傍らで、ビリーが呆れたように肩を竦めた。
「やたらハイなんだよ、フェイ。何かいいことあったんじゃない」
「いいことぉ? 俺はこれ以上ないってくらい幸せだぞぉ~。だからバルト、お前も幸せになれっ」
 言葉そのものは感動的な友情だが、言ってる本人にはまるで緊張感がない。へらへらと笑っている親友の重みに、バルトの頑強な肩が崩れた。
「……あ~~~……幸せになりてぇなぁ…」
 思わず、そんな情けない泣き言が出るのも、気心の知れた悪友の前だから。
 そんなバルトの服の端を、低い位置からくいくいと引っ張る手があった。ん? と視線を巡らせた先では、銀色の髪にエナメルブルーのリボンを結んだ人形のように可愛い少女が、こちらを見上げている。
「何だ、プリム?」
「……しあわせ、こっち」
 言いながら、プリムはバルトの袖を引いてとことこと窓辺に寄った。大きな窓をおぼつかない手つきで開くと、ひょいと窓枠に手をついて身を乗り出す。
「おわっ! バカ、あぶねえぞ!」
 一応、この会場は二階にある。下は柔らかな芝とはいえ、落ちたらプリムの怪我よりも、監督不行き届きを責める彼女の兄の銃口が恐い。
 バルトは小さなプリムの身体を、後ろから覆い被さるようにしてバランスを取り、そのまま窓の外に視線をやった。
「……あっ」
 ずいぶん距離があるが、こちらから見て三つ目のバルコニーに、捜し求めたオレンジ色がある。その傍らには、エリィの姿もあった。
 プリムは、バルトの腕の中から彼を見上げて、にっこりと微笑む。
「……ありがとよ」
 くしゃくしゃっとプリムの銀髪を撫で、バルトは仕方なく視線を流した。困ったことに、こんなに離れた場所からもどかしげに眺めていてもなお、彼女の姿を見つけただけで心がやる気になってしまう。
「…バルトお兄ちゃん、マルーお姉ちゃんの傍に、行って」
 バルトを逆さまに見上げて、混じりけのない瞳が囁く。バルトは一瞬反駁しかけ、それからその、あまりにも純粋な赤い瞳に言葉を飲んだ。
「…しあわせ、にげちゃうよ?」
「……逃がすかよ」
 苦笑混じりにそう言って、バルトはプリムの銀髪をぐしゃぐしゃにかき回した。多少乱暴なその扱いに、プリムは珍しく頬を膨らませて抗議する。
「お前さん、聡くなったもんだな。血は争えないってか?」
 優しく笑ってバルトがそう言った時、ふと流した視線の先でオレンジ色のドレスが翻った。
「あん?」
 唐突な行動に、エリィと、いつのまにやらそこにいたマリアの顔が、夜目にも驚愕に染まっている。瞬間的に、何かあったのだと察したバルトは、慌てて窓枠から身を引き、踵を返そうとした。
 しかしその瞬間、自分のすぐ後ろに立っていた人物にぶつかりそうになり、軽くたたらを踏む。
「うわっと! 危ねっ」
 かろうじて踏みとどまったバルトの目前で、ブロンズグレイの髪をひとまとめにした意志の強そうな娘の顔が、驚いたように強張った。バルトは一瞬、誰だっただろうと思考をめぐらせる。
「…あ、マルーの」
「お探しいたしました、大統領。申し訳ありませんが、少々お時間を頂けますでしょうか?」
 きりりとした表情に良く似合う、少し低めの通る声。確か、シスターヒューイットとか言ったと、バルトは思い至って目を丸くした。
「時間? 何か用なのか? すまねえが、ちょっと今急いでて…」
 シスターの急用も気になるが、それよりも先に、明らかに様子のおかしかったマルーたちの方を確かめたい。まるで、逃げ出すように身を翻したマルーに、一体何があったのか。
 けれど、先を急ごうとするバルトを押し止めるように、キュランは強いまなじりを上げた。
「大教母様の件で。…急ぎ、大統領のお耳に入れたきことがございます。お時間は取らせません、どうかお願いいたします」
「マルーの?」
 キュランの真剣な表情に、バルトの視線が定まった。
 彼の鋭い眼光を受け、キュランは表情を変えずにじっと対峙している。その気丈な深緑の双眸に、バルトは探るような目を向け、
「……解った」
 低く、答えた。
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