DAYBREAK-デイブレイク-

  大統領補佐官と言う仕事は、その名の通り大統領の政務を補佐する要職である。
 ある時は大統領と共に政治を動かし、またある時は闇から闇へ暗躍してつつがない施政を補佐する立場にある。
 言わば、大統領の手足であり、頭脳でもあるその役職に、弱冠十八歳のミシェル・シナモンが起用されたのは、特殊な時節背景を考慮しても、異例の人事であった。
 しかし、ミシェルがその地位に就いて一年あまり、彼は大統領補佐官とは名ばかりの見習いとして、主に大統領の私生活をフォローすることを仕事としていた。
 ミシェル本人はその扱いに不満などなく、周囲も彼の年齢及び身分的な事実を考慮して、その方針を妥当としていた。
 しかし。
「本気で、その政策を実行しようと言うのですか、大統領」
 旧ファティマ城東館。現在は大統領官邸の議会事務局及び議事堂として居を構えるその棟の、厳格な室内に渋い声が響いた。
「本気だ」
 一言そう呟いて。若き大統領バルトロメイ・ファティマは発言した男を見据える。
 一瞬、会議室内の空気がさざめいた。
 人数にして二十名ほどを収容したその部屋は、大きな円卓を中央に据えた、広く豪奢な一室だった。普段はあまり訪れる機会のないその部屋の末席で、ミシェル・シナモンは緊張と興奮に頬を紅潮させている。
 上座では、バルトが長い腕をテーブルに乗せ、顎の下で指を組んだ状態で議員の出方を窺っていた。その傍らには、冷静な表情で視線を紙面に走らせている、筆頭補佐官がいる。
「…しかし、大統領」
 一人の議員が、挙手をする。比較的歳若いその議員は、ミシェルの斜め前方でバルトを見やった。
「お話を伺っていますと、その政策…いえ、計画は、現実面での矛盾点が指摘されますが」
「たとえば?」
 姿勢を崩さないまま、バルトが問い返す。議員はやや間隔を置いてから、再び唇を開いた。
「まず第一に、ニサン正教との外向的バランスが崩れます。大統領が仰る計画を遂行することは、大統領が第一に掲げる『近隣諸国との友好関係を盤石のものとする』と言う方針に反するものと考えられます」
「なぜだ?」
 切り返された言葉に、議員は一瞬言葉に詰まった。まるでそれを見越していたかのように、バルトの方へ程近い席に座る年配の男が言葉を継ぐ。
「大統領の仰る政策を施行した場合、現在アヴェがニサンへ対して行っている経済的援助、並びに物質・人足的補助の削減が浮上するからです。そうしますと、正教の司教団も黙ってはいますまいし、この時期不用意な摩擦は避けるべきでしょう」
「経済その他の援助は続ける。しかしそれは、今回の政策を実行した上で、双方の負担率を元に弾き出すものだ。その辺の計算はもう終わってる…シグ」
「はい」
 水を向けられた大統領補佐官、シグルド・ハーコートは着座したまま室内を一瞥した。その堂々とした雰囲気に、末席のミシェルの肌が粟立つ。
「現在、3パターンのシュミレーション解析が実行されています。そのいずれも、現在の援助額の20%削減の域を越えず、またアヴェとしての負担もそれを上回るものではありません」
「しかし、その前段階において考慮すべき経費は」
「施行における基本的財源、及び向こう5年間の必要経費の割り出しも含めての、シュミレーションです」
 シグルドは言い終えた後、ついと視線を滑らせた。ミシェルははっとそれに気付くと、慌てないように努めて呼吸を深くしながら席を立ち、手元に用意していた印刷物を議員達に配り始める。
「現在目を通していただいているグラフが、解析結果です。なお、別添は実施に伴う建設用地及び人員等の見通しになっています。それに付随して、現在予定されている国家予算との対比も記載されていますが、それぞれの解析パターンに対応した結果は、別添の2ページ以降です」
 議員達の目が、静かに紙面に配られる。明らかに困惑した風の室内に、水を打ったような沈黙が訪れた瞬間、上座のバルトが声を張った。
「いずれも、机上の空論に過ぎない。勘違いしないでもらいたいが、俺は独裁政治をしたいわけじゃない。この件は決定ではなく、あくまで俺自身の方針と考えてもらいたい。現実面でのフォローもすべて考慮しているので、議会での一考の価値は十分だろう」
 一息でそう言い、注目されたバルトは顎に乗せていた指を外し、堂々と胸を張った。
「長期戦になる覚悟はしている。だが、目先の損得勘定に囚われて十年先の世界を架空のものにしないでくれることを強く願っている。以上」
 その言葉尻と共に、彼は長い間腰をかけていた椅子から立ちあがった。その時初めて、背にした窓から差し込む夕日に、自分の影が長く伸びていることに気付き、素早く視線を滑らせる。
 室内唯一の仕掛け時計は、五時半を示していた。
「今日のところは解散だ。先ほど仮議決された東の件は、来週頭にもう一回決を採ってから、正式に施行する」
 有無をも言わせぬ迫力でそう言うと、バルトは傍らのシグルドに「あと頼む」と囁いて、視線をミシェルに向けた。顎で示され、ミシェルは慌てて出入り口に進む。
 こちらにやってきたバルトのために扉を開け、自身も滑り込むように回廊へ出ると、静かにそれを閉じた。
「……んなぁにが、すぐに終わる会議だ。ここぞとばかりにタヌキどもが、やいやいやいやいくっだらねぇこと出しやがって」
 扉を閉めるか閉めないかというタイミングに、バルトは大仰に伸びをして首筋をごきごき言わせる。歯に衣着せぬ物言いに、思わずミシェルは視線を扉に返して、おろおろと肩を竦めた。
「お…お疲れ様でした」
 足早に回廊を進むバルトを追いながら、ミシェルは小走りになっていた。窓から差し込む日の光に、白亜の回廊は朱赤に染め上げられている。
「まったくだぜ。晩餐会に間に合うかどうかって瀬戸際だな」
「す、すぐにご用意いたします」
「頼む。…ま、ちっとくらいは待たせてもいいがよ。どうせ気心の知れた奴等ばっかりだ。それより」
 不意に歩調を緩め、バルトが肩越しにミシェルを振り仰いだ。ミシェルは緊張の残滓にどくどくと逸る心臓を押さえつつ、眼差しを上げる。
 バルトは涼やかな碧玉の瞳を向け、ミシェルににやりとほくそ笑んだ。
「どうだった、初めての会議は」
「は、あの…」
 唐突に核心を突かれ、ミシェルは気のきいた言葉を頭の中から引っ張り出そうと四苦八苦した。しかし、やはり弱冠十八歳の少年にそのような機転は乏しく、筆頭補佐官に将来有望と推されていた彼は、情けなくも俯くことでバルトの視線から脱げ出していた。
「急なことで、驚いたろう」
 歩調を緩めながら、バルトが歩き出す。その後を、ミシェルは規律正しくついていった。
「はい…」
「何しろ、今日の会議が決まったのが夕べだったしな」
「はい…」
「なかば拉致られてたもんな、お前」
「はい…あ、いえ」
 ミシェルは頷きかけて、慌てて首を振った。確かに、揃えた資料を届けに行って、ほとんど説明の余地もなくシグルドによって会議室に引っ張り込まれたのは事実だ。
 そのまま、なし崩し的に法案会議を傍聴し、その後に起こるだろうさまざまな議題に控えて作成された資料を、シグルドの手によって預けられる形で、要所要所でそれを配ると言う端役を任されたのだ。
 言わば、アヴェ国、ひいては全世界の行く末を示唆する首脳会議に出席するのは初めてで、ミシェルはほとんど死にもの狂いで会議に集中していた。おかげで、法案についてのあれこれや、その後に続いた諸々の政治的局面も、以前とは段違いなほど理解できた。
「今日の会議は、いつものよりは簡略化されてたし、多少のイレギュラーはカバーできるもんだったしな。そろそろお前にも、ああいう席に慣れさせたいと思ってたから、丁度良かった」
 バルトの言葉は、ミシェルにと言うよりは独り言に近い響きがあった。ミシェルは彼の背後で、小さく眼差しを上げる。
「……お前、今日の最後の案、どう思う」
「えっ?」
 突然問われて、ミシェルは思わず高い声を上げた。しかし、黙々と歩き続けるバルトの金色の髪を凝視すると、ごくりと唾を飲み込んで言葉を選ぶ。
「…ぼ…私は、賛成、です」
「資料見たろ。どう思う? 矛盾や疑問点は」
「……」
 ミシェルは素早く頭の中をさらった。すでに隅々までインプットされている資料をさらい、振り返らないバルトの背中に勇気づけられて唇を湿らせる。
「矛盾は、ありません。すべての解析は、多方面に渡るあらゆる可能性を想定された上で行われている、極めて信憑性のあるものだと思います。疑問は…」
 言いよどんだミシェルに、バルトが問う。
「疑問は?」
「…疑問は、時期的なものが考えられます。何故、『今』なのか…確かに、この懸案が可決され、正式な法案として制定されれば、あらゆる方面での改革がなされます。しかし、それを行うには時期尚早である印象が拭えません」
「……ふん」
 唇の端を曲げて、バルトは鼻先で笑った。それが、どこか面白がっているようなものだったので、ミシェルはおずおずと眉を寄せる。
「あの…出すぎました。すみません」
「阿呆。感心してんだから、水さすんじゃねえよ」
「え?」
 ミシェルが素っ頓狂な声を上げた時、二人はバルトの私室の前に辿り着いてた。バルトは扉の取っ手に手を預け、くるりとミシェルを振り返る。
 その顔は、悪戯に成功した少年のように、満足げなものだった。
「やっぱお前、シグの見立て通り『掘り出しもん』だわ」
「え? え?」
「あの懸案な、可決されたらお前に任すからそのつもりでな」
「え…えぇぇっ?!」
 驚いたミシェルが、思わず叫んだのを尻目に、バルトは豪快に笑いながら私室の扉をくぐった。ミシェルも足早にそれを追う。
「あ、あのっ、大統領?!」
「前から思ってたんだよ。お前には結構こっち向きの素質があるって」
「でで、でも僕は、まだまだ半人前の補佐官でっ」
「何も、今日明日って話じゃねえ。お前、いつまで半人前のつもりだよ?」
「しかし、大統領っ」
「ミシェール」
 狼狽するミシェルに、バルトは振り返らずにそう呟いて、くるりと振り返った。男らしいバルトの頬の辺りのディティールを、ミシェルは半ば目を奪われるように凝視する。
「俺は、できねえ奴に無理は言わねえ。それに、言っただろ? 『いつかでっかいことをやる時、お前の若さが頼りになる』って」
「あ……」
 分不相応の舞台に立つ、自信も実力もない若造相手の、気休めでしかないと思っていた。
 その言葉に支え続けてもらったのは事実だったけど、まさか本気で、本当にそんなことがあるとは、何故か欠片も思わなかった、消極的な自分。
「だから、そのつもりで精進しろよ。言っとくが、お前は今は『まだまだ』なんだからな。最初からすんなりなんでも出来ると思ったら大間違いだぜ」
「は……はいっ!!」
 精一杯の勇気と自負で、ミシェルは大きく頷いた。バルトはそれに、満足そうに口元を上げて、くるりと踵を返す。
「…さーて、と。おっと、マジでやべえじゃねえか! 何だあと15分だぁっ?! おいミシェル! 俺の服どこだ?!」
「え? あ、はいっ、今用意しますっ!」
「おい、お前も正装すんだぜ?」
「はいっ…て、えぇぇっ?!」
 バルトのクローゼットに駆け寄ったミシェルが、カーペットに躓いて前のめりにつんのめった。バルトはさっさとシャツのボタンを外し、喉元を緩めながら呆れたような顔をする。
「ったりめーだろ。一応、給仕の真似事みたいなことさせるしな。聞いてねえのか?」
「きき、聞いてないですよ! 僕はてっきり、この官服でいいと…」
「それじゃサマになんねぇだろ。正装は持ってるな?」
「え、あ、はい…」
「よし、俺のことはいいから、用意してこい。俺の仲間にも紹介すっから、変なかっこうしてくんじゃねえぞ」
「は……はい……」
 真っ赤で真っ青な顔をして、ミシェルはよろよろと部屋を出ていった。バルトはそれを楽しげに見送ると、ミシェルが辛うじて出していった衣装を手に取る。
 視線を流した瞬間、視界の隅に小さなものが映った。
「………」
 バルトは『それ』に眼差しを向け、しばし静止する。時計の針は、5時50分を指しつつあった。



「こういう日にまで遅刻するなんて、まったくあいつらしいね」
 辛辣な口調の中にも、気心の知れた気安さのようなものを覗かせて、銀髪の少年…否、その美しい容姿を損なうことなく、一個の『男性』へと変貌した彼、ビリー・L・ブラックは呟いた。
 その傍らには、彼と善く似た面差しの少女と、それよりも年かさ風の…こちらはまさに今、少女と娘の過渡期にあるような、独特の雰囲気を有した少女が立っている。二人とも、明るいローズピンクのカクテルグラスを手にしていた。もちろん中身はアルコールではないけれど。
「…ですね」
 答えたのは、少女期よりも幾分大人しめに髪を巻き上げた、マリア・バルタザール。先月十五歳の誕生日を迎えた彼女は、幼い頃よりは歳相応に近づいた深慮な眼差しで、ビリーの視線の先を追った。
「それにしても、あれだけ大破していた居城が、こうも見事に蘇っていると、驚く以前に呆然とするね」
 ビリーは言って、豪奢なシャンデリアに照らされた大広間をぐるりと見渡す。
 立食パーティー形式にコーディネートされたそこは、まるでどこにも隙がないように見えた。おそらく百名は下らないであろう人間たちを楽に収容し、十分な歓待をカヴァー出来得るその体勢に、彼は複雑な嘆息をつく。
「でも、おそらく骨格となる部分は、無事だったんじゃないかしら。この城は、アヴェの創設以来ずっとこの砂漠に立っていた、おそらく世界でも類を見ないほど頑強な居城だったでしょうし」
「だろうけどね。細々した部分の復興が目覚しいのは、この城がこの国にとって名実共に『象徴』だからかな」
 少しだけ乾いた声音でそう言うビリーに、マリアはゆっくりと眼差しを返した。
「ここには『希望』の匂いがしますね」
「鮮やかにね」
 ビリーは城の内部に足を踏み入れ、その変貌ぶりに驚いていた。
 以前訪れた時は、ちょうどこの居城の正当なる後継者をその地位に返り咲かせた、革命的な時期だった。戦いの最中と言う特殊な状況下にあってか、この城は酷く厳格で、排他的な印象を受けたものだったが、実際に今目の当たりにする居城は、それとは180度も違って見える。
 マリアの言う通り、核となる骨組みは無事だったろうが、それでも二年半前のあの大戦で、かなりの痛手を受けていたはずの居城は、以前にも増して華やかな様相を取り戻していた。
 世界で最も復興の著しい都市、アヴェ国ブレイダブリク。その中心に聳え立つ居城、旧ファティマ城。その城の復活が最も早いことは、そのままこの国の民たちの希望と夢の位置が伺える。
 そして、その城の主として、実質人々の思いをその双肩にかける男。
「希望の、大統領か」
 ちらりと呟いたビリーの言葉に、マリアは静かな眼差しをカクテルグラスに注いだ。その傍らでは、プリメーラが小さな手をマリアの袖に絡めて、こちらに向かってくる人物にいち早く気付く。
「…マルーお姉ちゃん」
 嬉しそうに、しかしはっきりとそう呟いて、プリムは小走りでマルーに駆け寄った。こちらに来る間中、招待客たちににこにことあいさつをしていた小柄な少女は、目の覚めるような鮮やかなオレンジ色のドレスの裾をさばきながら、プリムの小さな腕を抱き返した。
「プリムちゃん、久しぶり! 元気だった? またちょっと大きくなったね」
「マルーさん」
 ビリーがにこやかに声をかけ、マリアも嬉しそうに続く。マルーは二人に視線をやって、大輪の花のように破顔した。
「ビリーさん、マリア! 久しぶり!」
「お久しぶりです! お元気そうで何より」
「マリアこそ! …うわー、マリア、ますます可愛くなったねー!」
 はしゃぐマルーの言葉に、マリアは白い肌をピンク色に染めた。マルーは笑いながらビリーに向き直り、そして驚いたように目を丸くする。
「あ…れー? ビリーさんてば、背が伸びた?! だって、目線が全然違うよ!」
 昔と同じように首を曲げても、もうビリーの顎しか見えないことに、マルーは心底驚いたように目を丸くする。ビリーは照れくさそうに苦笑して、それからまじまじとマルーを見つめた。
「いや…僕なんか、背が伸びただけですよ。でも……見違えました、マルーさん。本当に、何て言うか、その」
「綺麗になりましたね」
 言葉を選ぶビリーの後を継いだマリアに、マルーはきょとんと目を丸くしてぶんぶんと手を振った。
「や、やだな二人とも! 真面目な顔をしてからかわないでよ」
「からかってなんかいません。本当に、びっくりしてしまいました」
「そういうマリアこそ、随分大人っぽくなって、びっくりしたのはこっちだよぉ。ビリーさんも、何だか逞しくなったみたいだし、プリムちゃんだってますます可愛くなったじゃない!」
「いや、それにしたってマルーさんの変わり様ほどじゃないですよ。やっぱり、人生のきっかけって女の人を変えますね」
「え?」
 きょとんとしたマルーに、ビリーは複雑な笑みを浮かべる。
「あなたをこんなに綺麗に変えたのが、あの無鉄砲だと思うと少し癪だけど、このたびは……」
「あー!! ビリー、ストップ!!」
 ビリーの言葉を遮るように、唐突にフェイの叫びがあがった。ビリーがぎょっとしてそちらを見やると、人いきれをかき分けながら、フェイとエリィ、シタンの姿が見える。
「え?」
 パタパタと手を振るフェイとエリィの様子に、怪訝な顔をしたビリーとマリアだったが、二人の狼狽と目前のマルーの変化に、ようやく事態に気付いて顔を見合わせる。
 マルーは、少しだけ困ったような、照れ臭いような、奇妙な表情で腰に手をあてた。
「もー、ビリーさん達にまでそんな話流してたの? あのね、フェイ達にも言ったけどね、ボクと若の婚約の話なんて、ぜーんぜん根も葉もないでっちあげだよ! まったく、みんなして何考えてるのさ」
「え? でっちあげ??」
 ぎょっとしたビリーとマリアに、マルーは大きく頷いた。
「そう! そんな予定は、まるっきりナシ! まったく、どっからそういう話になっちゃうかなぁ…来る人来る人、みんな勘違いしてて、訂正するのに一苦労だよ!」
 そう言って、むくれたように腕組みするマルーの肩に、エリィがまあまあと手をかける。
「でも、残念だったわね。せっかくみんなで集まるんだから、何かお祝い事かと思ったのに…」
 エリィの言葉に、シタンがしたり顔で頷いた。
「まったく…。時期的にも、間違いないと思ったんですがね」
「え?」
 きょとんと振り返ったエリィに、シタンはうやむやに首を振った。その雰囲気を裂くように、マルーが無理矢理明るい声を上げる。
「さあ、そんなことより、せっかく久しぶりに会えたんだから、みんな楽しもうよ! あっちに、エレメンツの皆が来てたよ。みんな、ゼファー様にはあいさつしてきた?」
「ええ。マルーが乾杯のあいさつをする前にね」
 少しだけからかいを含むエリィの言葉に、マルーはポンっと顔を赤らめた。
「も、もー! すっごく恥ずかしかったんだから、からかわないでよ、エリィさんっ」
「ふふふ、でも、突発の代理のわりには、すごく堂々としてたじゃない。感心しちゃったわ」
「そうだよ、マルー。かえって、バルトのヤツがあいさつするより良かったんじゃないのか?」
 フェイがそう言うと、一同にどっと笑いが沸きあがった。その瞬間。
「…言ってくれんじゃねぇか、フェイ」
 低い声音が、フェイの背後から上がる。ぎょっとして振り返った先には、この国の若き大統領が膨れっ面で立っていた。
「バルト!」
「遅いじゃない、バルトっ」
 久しぶりの面々を前に、バルトは豪快に笑って、フェイの首にヘッドロックをかます。
「おうっ! みんな元気にやってたか? って、聞かなくてもわかっか…人のいねぇ間に、好き勝手言いやがって相変わらずだな!」
「いて、痛いってバルト! 悪かった悪かった、冗談だよっ」
 上機嫌にじゃれあうバルトとフェイに、エリィは呆れたような嬉しいような苦笑を浮かべてマルーを顧みた。
「全く、相変わらずよね、マルー…」
 そう言いかけて、一瞬マルーの表情が凍っていた事に気付く。マルーは瞬間的に笑みを作り、エリィににっこりと笑いかけた。
「そうだよねえ、まったく! …若! こっちにあいさつはナシなの?」
「えっ?」
 言われて、バルトが驚いたように顔を上げた。視線の先では、おどけたように腰に手をあて、微笑みかけるマルーがいる。
「若が遅れたせいで、ボク、乾杯のあいさつなんかさせられたんだぞっ。この貸しは高いからね~」
 屈託のないマルーの態度に、バルトは一瞬呆気にとられたような顔を見せたが、すぐに取り繕うように胸を張った。
「な…なぁに言ってやがる、俺は仕事だったんだよ、仕事! 全く、こんな日だってのに、こき使われるんだから割りにあわねえよな、大統領なんて」
「本当にね。君でも務まるようじゃ、大統領職って言うのも案外、何でもありなんだなあ」
「んだとう!? ビリー、てめえ相変わらずむかつくじゃねえかっ」
「お互い様っ」
 朗らかに笑ってじゃれあうバルトとビリーに、マルーがけらけらと屈託なく笑う。そんな彼女の傍らで、エリィは何かを考えるような眼差しで黙っていた。
「あ…そうだ。ねえ若、ミシェルは?」
「ん?」
 マルーの問いに、バルトは窮屈な襟元を早々に緩めながら首をよじる。
「あいつなら、さっきまで会議で一緒してたぜ。今は、控えの間にいんじゃねえかな。後で皆に紹介するよ」
 目線で、何でだ? と聞いてくるバルトに、マルーは首を振った。
「ん…ほら、うちのシスターにキュランっていたでしょ? 彼女がミシェルの幼馴染で、探してたから…」
「あぁ。あのシスター! なんだ、ミシェルの幼馴染だったのか」
 バルトが驚いたように目を丸くすると、フェイが「誰だよ?」と聞いてくる。そのまま雑談が始まった輪から、マルーはきょろりと視線をめぐらせた。
「…キュランに、教えて、あげなくちゃ…」
「……」
 何気なく呟いたマルーの瞳に、やはり僅かな影を見つけて、エリィは複雑なため息をついた。誰にも気付かれないように。



「正装なんてしたの、何ヶ月ぶりだろ…」
 窮屈な自分に、ミシェルは情けない嘆息をつきながら、ぶつぶつと呟いた。
 大広間に程近い場所にある控えの間には、ミシェルの他には誰もいない。みんな、晩餐会の構成人員として借り出されているらしく、回廊でも何人かの正装した顔見知りと顔を合わせた。
 自分も早く会場に行かなくてはと焦るのだが、どうしてもネクタイが上手く結べない。焦れば焦るほど、元々不器用な手先がもつれ、かれこれ十数分も鏡の前で格闘している。
 思えば、正装用のネクタイといえば大統領のものを締めるのが板につき、自分のものを締めた事など無いに等しい。人にするのと自分にするのとでは、似ているようで全然違う。
「やばいなあ…早く行かないと、皆に迷惑かけちゃうよ…」
「そうよ、さっさとしなさいよ」
「解ってるよ。でも、タイが……って、え?」
 突然耳に届いた高い声に、ミシェルはぎょっとして目を上げた。大きな鏡の向こうには、いつのまに現れたのか呆れた顔をした女の子が立っている。
 彼女は、すらりとした細い肢体を、控えめな意匠の服に包んでいた。一見、ニサン正教の修道服にも共通したデザインだが、それよりは格段に魅力的なラインと、女性らしいアクセントが効いている。
 胸元を飾る十字架だけが、彼女に正教らしい部分を残していた。
「…きゅ…キュウ?」
 いつもは布で隠れている懐かしいブロンズグレイの髪が、きりりと結い上げられている。そのせいで、いつも以上にはっきりとしている線の細い小顔が、呆れ返ってこちらに近づいて来た。
「ったく、探したわよ! あんた、一体どこほっつき歩いてたの? 今日一日、潰しちゃったじゃない」
「……え?」
 わざとボケたわけではないけれど、目の前に立つ幼馴染の彼女の、あまりの変わりように呆気にとられて。
 間抜けにもそんな呟きを返したミシェルに、キュランは大仰に眉を寄せて半眼を閉じた。
「はい? アンタ大丈夫? 何ボケてんのよっ! 全く、そんな立派な格好したところで、ミーシュはミーシュね! しゃきっとしなさいよ、しゃきっと!」
「い、痛いッ! イタイよキュウ!」
 よく伸びるほっぺたを存分に摘み上げられて、ミシェルは悲鳴をあげた。美しい装いの過激なシスターは、ふんっと鼻で息をして、さっさとミシェルのネクタイに手を伸ばす。
「ったく、何ぐずぐずしてんのよ! こっちは、あんたに聞きたいこととか言いたいこととか、山ほどあるっていうのに」
 そんな風にぶつぶつ言いながら、キュランは器用にミシェルのネクタイを結んでいった。その細い指先に目を奪われつつ、ミシェルは「ありがとう」と口にしかけ……
「……あれ?」
「何よ?」
「……キュウ……」
「だから何よ」
 自分を見下ろして呆然としているミシェルに、キュランはタイを結び終えた手を腰にあて、イライラと眼差しを上げた。瞬間、深緑の瞳と薄水色の瞳が重なる。
 ミシェルはぽかんと口を開いたまま、まじまじとキュランを見下ろして呟いた。
「……キュウ、縮んだ?」
「はあ?」
 意味不明の言葉に、キュランは大仰に眉を寄せる。そんな光景も、自分の数センチ下に見える違和感に、ミシェルはますます目を見開く。
 キュランは呆れたような、怒ったような顔でミシェルを睨んだ。
「バカねっ! あたしが縮んだんじゃなくて、あんたがでかくなったんでしょうがっ」
「え? ぼ、僕が?」
「そうよ!」
 不機嫌に頷いて、キュランはつんとそっぽを向いた。そんな見慣れた仕草も、自分の視線の下にあるというだけで、ミシェルはなんとも言えない感慨を覚えて、思わず満面の笑みを浮かべる。
「そっ…かあ! 僕、キュランを追い越したのか!」
「…何、満面の笑み浮かべてんのアンタは」
「だって、ずっと僕の夢だったんだよ! とうとうキュランを追い越したのか! やった!」
「……ばっかじゃないのっ?! 追い越したって言ったって、たかだが数センチでしょ? まだまだアンタはちびなのよっ」
 悔しそうに、しかし決然とそう言うキュランに、ミシェルは少しだけ傷ついた胸を押さえたけれど、何を言われてもそれは自分の視線の下のことなので、ミシェルは現金なほど素早く立ち直ることができた。
「うん、僕まだまだ成長期だから。男は、27歳の朝食まで成長期なんだってよ」
「何よそれ、ばっかじゃないの?」
 ふんっとそっぽを向いたキュランに、ミシェルはそれでも笑みを絶やさずにいた。どうしてだろう、彼女のこんな憎まれ口さえ、何だか妙に可愛らしく聞こえてしまうのは。
「そんなことより、ミシェル! あたしはあんたに聞きたいことがいっぱいあるのよっ」
「聞きたいこと?」
 きょとんとしたミシェルに、キュランは気を取り直したように真剣な眼差しを向ける。彼女の深緑の瞳が、猫のような光を浮かべた。
「大統領のこと。どうしても、わかんないことがあるの。あんたならわかるでしょ?」
「……あ!」
 キュランの言葉に、ミシェルは今の今まで忘れかけていた重大なことを思い出して、思わず叫んだ。今朝までは、確かに頭の全てを占拠していた、とても大事な事だったのに。
「そうだ、僕もキュランに教えることがあったんだよ! 会議のショックで、すっかり忘れてた…」
「教えること?」
 怪訝な顔を見せたキュランに、ミシェルは素早く時計に目を滑らせて、真剣な瞳を返す。
「時間が無い。簡潔に言うよ、キュラン。でも、時間を争う話なんだ、君の助けが欲しい」
「……言いなさい」
 ミシェルの様子に、キュランの表情も改まる。時計の針が、かちりかちりと高く響いた。
 晩餐会は、和やかな盛り上がりを見せる、宵の口。
 長い夜は、始まったばかりだった。
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