DAYBREAK-デイブレイク-

  朝、爽やかな朝。
 ニサンの穏やかな朝の空気とは違い、アヴェの早朝は夜半の凍てつく空気の名残に、少しだけ人の芯を凍らせる。
 けれどすぐに、大きな太陽の光に満たされて、今度は肌を刺す熱射が訪れることを知っている人々は、早朝の涼しげな空気を石造りの家屋に招き入れて、日中の暑さを防ぐのが習わしである。
 そう言えば、昔は朝早く起きて、家中の窓を開けて回るのは自分の仕事だったと、優しい繻子の修道服に身を包んだキュランは思い、少しだけ口元を和らげた。
 時計を見れば、朝の七時半を若干回っている。少々寝過ごしてしまったと、キュランは慌てて身支度を終え、室内を顧みた。
 本来ならば、自分はこの大統領官邸に宿泊する予定ではなかった。それだからこそ、気の回るシスターアグネスが、官邸に程近い一等地に居を構える宿を手配してくれたのだ。もちろん、随行した僧兵達は予定通りそこで起居している。
 昨晩、急遽自分のためにあつらえられた客室は、それでも普段の徹底した清掃が窺える、居心地のいいものだった。上質の絹を施した天蓋付きのベッドなど、キュランの人生の中であと何回お目にかかれることだろう。
 しかし、今のキュランには素直にその待遇を喜ぶことも、無邪気にベッドで飛び跳ねることも出来なかった。
 そもそも自分には不相応なほどの上等な客室を、キュランはなるべく原形をとどめたままに使い、悲しい修道女の習性かベッドメイクまできちんとこなしてから、彼女はようやく部屋を後にした。
 早朝過ぎの鮮やかな陽光が、白亜の回廊一杯に広がっている。アヴェの直射日光を和らげる美しい純白は、その石畳の隅々に至るまで、瑞々しく輝いていた。
 キュランはいつものように背筋を伸ばし、しなやかな身のこなしで回廊を歩く。同じ棟の中でも、さらに奥まった場所にある賓客専用の客室まで、彼女は数人の文官とすれ違ったが、優雅な姿勢を崩さないまま一礼して通り過ぎた。
 更に歩を進め、最後の角を曲がるとすぐに、賓客用の客室が現れる。キュランはその扉の前に立ち、優雅な手つきでこんこんこん、とみっつ叩いた。
「おはようございます、大教母様。シスターヒューイットでございます」
「入って下さい」
 呼び掛けに対して絶妙なタイミングの返事が返った。キュランは素早くドアノブを回し、音をたてずにそれを開くと、室内へ身を滑らせる。
 そうして、後ろ手でゆっくりと扉を閉めると、すでに朝の光を溢れさせた優美な部屋の中央に、身支度を終えた大教母がたたずんでいた。
「おはよう、キュラン」
「おはようございます、大教母様。よくお眠りになられました?」
 問いかけながら、キュランは心の内で『…なわけないか』と呟く。しかし、ニサン大教母マルグレーテ・ファティマはいつも通りの可愛らしい微笑みを浮かべて難なく頷いた。
「うん、ばっちり」
「…それはようございました」
 よくよく見れば、その大きな双眸が赤く染まっていることや、どことなく草臥れた感じのする表情などには敢えて言及せず、キュランはにっこりと微笑む。
「もう、お支度はおすみなのでしょうか」
「うん、大丈夫だよ」
 どこかの大統領とは違って、マルーは普段から自分の身の回りのことは自分でこなしている。それに加え、早朝礼拝が身についた今では、逆にこんな時間に何もしないでいる方が難しい。
「それでは、今朝のお食事はいかがいたしましょう」
 身分としては客人であるはずなので、この問い掛けはいささか妙だが、キュランの言葉にマルーは迷うことなく答えた。
「体調が優れないので、こちらでいただきます」
「承知しました。その旨伝えてまいります」
 慣れた調子で頷いて、キュランはしなやかな動作で一礼した。そのまま扉へ向かう彼女を、マルーの声が追いかける。
「キュラン…」
「はい?」
 振り返ったキュランの目前で、細身のワンピースに身を包んだマルーは、弱々しい微笑を浮かべた。
「ごめんね、面倒に巻き込んで」
「…何をおっしゃいますか。何も面倒なことはありません。だって」
 くるりと完全に身体の向きを変え、キュランは胸の前で拳を握った。
「こちらのお屋敷ときたら、とても優美で圧倒されてしまうんですもの。もしも大教母さまが大広間でお食事を摂られたら、必然的にわたくしもそちらへお供しなければなりませんでしょう? それを考えただけで、足ががくがくしてしまいますわ」
 そう言って、おどけたように身体を震わせるキュランに、マルーは思わず吹き出した。
「ふふっ! そう言ってもらえると、ボクも気が楽だよ、キュラン」
「それはようございました。では、行ってまいります」
「うん、よろしくね」
 マルーの言葉に送り出され、キュランは賓客用の客室を後にした。途中ですれ違った文官に、愛想よく挨拶をして彼女は歩き出す。
 背筋をぴんと伸ばし、颯爽と歩くその後ろ姿に、文官が見とれていたことなど、今の彼女が気付くはずもなかったけれど。
 それにしても……
 キュランは、昨晩一度訪れた執事室へ赴きながら、つらつらと心で呟いた。
 それにしても、昨晩の大統領は、ちょっと気の毒だったかしら。
 朝の眩しい光に瞳を細め、キュランは昨夜の光景を思い出す。
 マルー自らに、大統領官邸への逗留を望まれたキュランは、驚きながらも仕方なく、その要望に応えた。元々、大教母付きの随行シスターとしてアヴェ入りしたキュランだったが、その任務の大半は大統領官邸入りする前後の大教母の身辺警護にあり、正直官邸内での大教母のフォローなど、考えてもいなかった。
 なので、官邸内における諸々の作法などを案じ、ぐるぐるとしていたキュランに、客室に通されたマルーがきっぱりと言ってのけた言葉は、意外ではあったが大変ありがたいものだった。
『長旅の疲れが出たのか、体調が思わしくありません。今夜の大統領閣下とのお夕食は、見合わせたいと思います』
 もちろん、その言葉に驚いた…というか、過敏に反応したのは、当の大統領閣下である。
 マルーとキュランがミシェルの病室から引き上げ、通された客室でその旨をメイドに伝えて五分ほどしてから、客室へバルトロメイ・ファティマ本人が乗り込んできた。
 ところが、それを見越していたマルーが、誰あろう大教母付き随行シスター、キュラン・ヒューイットを扉の前に立たせ、篭城を決め込んだのだ。
 キュランは、初めてまともに対面するアヴェ国大統領に、始めは酷く緊張していた。だが、背中に隠した大教母さまの悲痛な望みを叶えるために、落ち着き払って微笑みまで見せた。
『申し訳ございません、大統領閣下。大教母様におかれましては、長旅のお疲れにて少々体調を崩され、現在どなたとも御会いになられないとのことです』
『誰にも会わねぇだ? さっきまでぴんぴんしてたじゃねえか! 仮病だっつーのは解ってんだよっ』
 あまりにも想像とかけ離れた粗野な口調に、キュランは驚きを通り越して呆れ返った。それがかえって冷静な目を彼女に戻し、キュランは長年培われたシスターの観察眼で、歳若き大統領を値踏みし始める。
 初めて間近で見る顔は、なるほどやけに整っている。温室育ちのお坊ちゃまかと思っていたが、そう言えば幼い頃から海賊家業に身をやつした、若き頭領という話だった。貴族的な匂いは一切しない、言ってみれば粗野で大胆な印象は、そこに起因しているのか。
 容姿は申し分なく整っている。キュランの好みとしては、もう少々繊細さがあるとパーフェクトなのだが、まあそれはこの際おいておくとして、問題はこの態度だ。
 先ほどのマルーの話ぶりからして、久方ぶりに再会したいとこ同士の邂逅は、終始険悪なものだったと予想される。周囲を顧みない大統領の横暴な様子も、そのわだかまりが尾を引いているものとすれば、おいそれとマルーに逢わせるわけにはいかない。
 キュランは、マルーにこれ以上傷ついて欲しくなかった。
『申し訳ございませんが、大教母様はどなたともお会いになられたくないとおっしゃってございます。今日のところは、お引き取りいただきたくお願い申し上げます』
『お引き取りって…ここは俺の家で、あいつは俺の従姉妹だぞ! 会いたくねえっつわれて、はいそーですかって引き下がれるか! とにかく、マルーに会わせろ、話はそれからだ!』
 そう言って強引にキュランを押しのけようとするバルトの腕を、キュランはありったけの力を込めて押しとどめた。
『申し訳ございません。ここをお通しするわけには参りません、閣下』
『な……』
 バルトの筋肉質な腕が、キュランの細腕に阻められて、ぴくりとも動かない。無論、バルトが本気でキュランを振り払おうとすれば簡単に叶うだろうけれど、バルト自身、僧服に身を包んだ慎ましやかなシスターに、力を振るうことはためらわれた。
 二人の瞳が交錯し、一瞬不格好な沈黙が訪れる。
 その時、背後から涼しい声が上がった。
『若、何をなさっているのですか』
『シグ』
 落ち着いたバリトンに、キュランがはっと顔を上げる。見ると、そこには呆れたような眼差しでこちらを見やっている銀髪の大統領筆頭補佐官がいた。
『……ご無礼いたしましたっ』
 思わず、キュランはバルトの腕から手を引っ込めて、さっと平伏する。バルトに対してよりも、シグルドに対しての方が緊張する自分が、その時の彼女には滑稽に思えた。
 バルトはしぶしぶ身を引いて、シグルドを振り返る。
『ちっ…しゃぁねぇな、あんまりお前に頼りたくなかったけど、ここはお前の手並みを拝見するぜ。お得意の甘やかし攻撃で、篭城した大教母さまを引っ張り出してくれよ、シグ』
 あからさまに不機嫌そうなバルトの言葉に、しかしシグルドは首を縦に振ることはなかった。
『残念ですが、マルー様のご機嫌を直す暇はありません、若』
『あん?』
 怪訝そうに眉を寄せたバルトに、シグルドはそろりと近づく。耳元に唇を寄せ、辺りをはばかるようにした低い声音が、キュランの耳にも微かに届いた。
『…実は、東の件がマーヴェル議員の耳にも届きまして…』
『あン? 誰だよ、あのタヌキに余計なこと流しやがったのは…』
『不可抗力です、若』
『…ちっ、しゃぁねえな、寝る前にあんまり見たくねぇ面だが、話つけてやらねえと面倒だ…東の草案上がっててセーフだぜ』
『ようやく、ここ数日の若の頑張りが報われそうですね』
『…嫌味か、シグ』
『いえ…ではお急ぎ下さい、若。老体は待つことが苦手です』
『若者は急かされんのが苦手なんだよっ』
 最後の言葉だけ大きく毒づいて、バルトはくるりとキュランを振り返った。キュランははっとして身を固くし、そそくさと視線を下げる。
『おい、お前名前は』
『は、はい…キュラン・ヒューイットと申します』
 名を問われて改めて、一国の元首に対する自分の無礼を思い出したキュランは、不敬を責められる覚悟で唾を飲み込んだ。
 けれども、予想していた叱責の声の代わりに届いたのは、先ほどとは打って変わったほど穏やかのものだった。
『…んじゃ、シスターヒューイット。あいつのこと頼むな、その…せっかく逢えたのに、仕事入っちまって悪い、って、伝えてくれよ』
『え……』
 キュランにとって、意外とも言えるバルトの申し出に、彼女はきょとんと目を丸くした。その反応に、傍らのシグルドが一笑する。
『随分と、シスターを脅えさせてしまったようですね、若』
『ん、あぁ…悪かったよ。こっちもちょっと、頭に血が上ってた。あんたが邪魔してくれて、逆に良かったかもな。この状態でマルーに逢ったら、さらに状況が悪化してたぜ』
 そうして、驚くほど気さくに笑うバルトを見やって、キュランはぽかんと目を見開いた。
 この人って…印象が、ころころ変わる。高圧的で横暴な人かと思っていたのに、こんな顔も出来るんだ…
 キュランがおぼろげにそんなことを思った時、バルトは軽く手を上げて踵を返した。
『んじゃな、よろしく頼むぜ』
『あっ…はい、かしこまりました、閣下』
 その一言に、バルトは妙に居心地が悪そうに眉を顰めたけれど、何も言わずにそのまま歩き去った。その後を追いかける前に、シグルドがそっとキュランに囁く。
『面倒に巻き込んですまない、シスター。マルー様のこと、くれぐれも頼んだよ』
『は…はいっ』
 慌てて頷くキュランに、シグルドは軽く頷いて、そのままバルトと共に回廊を歩き去る。残されたキュランは、一人呆然としてたたずんでいた。
 結局その夜は、マルーの望み通り夕食は客室に運ばれ、ついでにキュランも一緒にとのマルーの言葉で、思いがけず二人だけの夕食会になった。
 食事の間中、マルーは他愛のない会話でキュランを楽しませようとしていたが、彼女の心をずっと苛んでいる感情が、『怒り』ではないことに、キュランも気付いていた。
 そう、マルーは『怒って』いない。口ではどんなにバルトの理不尽を責め立てていても、その心はどこか別の場所に向いている。そしてその場所こそが、マルーの心を『怒り』と見紛う程深く、『哀しませて』いるのだ。
 マルーの微妙な態度でそう感じたキュランだったが、しかし面と向かって核心に触れることは出来なかった。
 キュランに余計な心配はさせまいと、わざと無邪気に振舞っているマルーが切ない。この方は、今までどれほどの間、こんな風に自分の感情を押し殺して生きてきたのだろうと思うと、キュランは逆に胸を締め付けられた。
「…でもねぇ…」
 早朝過ぎのアヴェ国大統領官邸内で、キュランはふと足を止めて一人ごちた。
「どう考えても、やっぱり大統領って、大教母さまのことがお好きなんじゃないかしら?」
 一晩悩んだ末キュランが出した結論が、これだった。
 アヴェ国大統領としての政治的人格しか知らなかったキュランは、何となく、彼は物事に対してこだわらず、常に冷静な目で判断を下す策略家タイプのような印象があった。
 だからこそキュランは、大統領の大教母へ対する愛情も、対外的な判断に基づく義務感からくるものかもしれないと疑い、昨夜の騒動は単に『自分の従姉妹としての立場』をわきまえよと言う利己的な見解の大教母叱責かと勘繰ったのだ。
 しかし、昨夜僅かだが生身の『バルトロメイ・ファティマ』と対峙して、その先入観は一変した。
 彼は、取り繕われた損得勘定で、愛情を表せるタイプの人間ではない。どちらかと言うと呆れるくらいに真っ直ぐで、その愛情の深さゆえに素直にそれを表す事の出来ない、少年じみたイメージすら与えられる。
 偶像と現実とのギャップに、キュランは改めて自分の中の『バルトロメイ・ファティマ像』を再構築していった。
 その結果が、『大教母さまと大統領、相思相愛論』である。
 しかし…
「そうなってくると、大教母様のご様子が変よね」
 口の中でぶつぶつ呟きながら、キュランはおなじみの思考空間に入っていった。早朝過ぎの官邸回廊は、幸運な事に人通りがない。ゆえに、回廊の真ん中で微動だにせず立ち尽くすシスターは、誰にも訝しがられる事なく独自の世界に旅立っていた。
「昨夜の大統領の様子では、これ以上大教母様と言い争う意志はないようだったし、どっちかって言うとミスをフォローしようって言う必死さが伝わってきたわよね」
 それはキュランにとって、意外な一面だった。大統領は、大教母を心から大事にしている。
「待てよ…とすると、買ってきた香水は、やっぱり大教母さまへあてたもの? う~んでも、そうだとしたら、何故、夕べの段階で大教母さまにお渡ししなかったのかしら…何も好んで、こんな風に事態をこんがらがせたいわけないだろうし…、一言、『これはお前に買ったんだ』って言って渡しちゃえば、大教母様の誤解も解けて全部丸く収まるのに…」
 う~んと腕組みして、キュランは首を傾げた。しかし、彼女の幼なじみが頼りにした明晰な頭脳でいくら考えてみても、その答えは見つからない。
「…もしかしてとは思うけど、この後に及んで大統領は…二股かけてるとか…?」
 こちらも良いがあちらも大事、などという男の身勝手が、果たしてあの直情径行らしい大統領にも当てはまるのだろうか。それを判断するには、キュランはバルトロメイ・ファティマという人物について知らなすぎる。
「ああ…やっぱりダメだ。こんなに少ない情報じゃ、いくらなんでも解らないわよね…仕方がない、後でミシェルとでも相談しよう。あんなにぶチンでも、いないよりマシだわ」
 ミシェルにとって、何とも不名誉だがとりあえず的を射ている酷評を下し、キュランはさっさと歩き始めた。彼女の思考時間は思ったよりも長く、回廊の温度は知らないうちに随分上がっている。
 キュランは急ぎ足で回廊を抜けた。目的の執事室は、もうすぐそこである。
 彼女の長い足が器用に修道服をさばき、執事室の扉を視界に入れた時、それが半分ほど開かれているのが目に映った。おそらく、空気の入れ替えをした名残なのか、そちらから随分温まった風が流れてくる。
 キュランは足早にそちらに向かう途中、風に乗って聞こえてくる声を耳にした。
「いやはや、本当に申し訳ございません。急な会議が入りまして…」
「気にしないでください、メイソンさん。俺達の到着が思ったより早かったんだから」
「そうですよ。かえって、こんなに早く押しかけちゃって悪いみたい」
「いえいえまさか! 久方ぶりに皆様のお元気そうなお姿を拝見できて、爺もうれしゅうございますよ、エリィ様」
「メイソンさんも、お元気そうで何よりです」 
 和やかな雰囲気の談笑が、キュランの足を止めさせた。盗み聞きをしているようで具合が悪いが、この声に覚えがある。
「それで、マルーはもう来ているんでしょう?」
 嬉しそうな女性の声に、対する老侍従ローレンス・メイソン卿の声音が若干曇った。
「はい、夕べのうちにおつきになられました」
「楽しみだわ! どんなに綺麗になってることかしら」
「ええ、それはもう、見違えるようにお美しくなられましたよ。いやしかし、そうおっしゃるエリィ様もますます美貌に磨きをかけられましたな。この年寄りも目を奪われるようでございますよ」
「やぁっだ、メイソンさんたらお上手なんだから!」
「いえいえ、本当のことでございます。やはり女性は愛されてこそ美しく咲き誇るものでございますな、フェイ殿」
「ええっ? いや、参ったなメイソンさん…」
「今更照れることもないでしょう、フェイ」
「シ、シタン先生まで…からかわないでくれよ、もう」
 どうしよう、キュランは一瞬迷った。気心の知れた談笑の中に割って入るのは少しためらわれる。それに、多分キュランの記憶に間違いがなければ、この声の主は…
「だったら、今のマルーの美しさは、バルトのおかげということかしらね、メイソンさん」
 思いがけないその言葉に、回廊のキュランの心臓が跳ね上がった。話は、彼女が欲していた核心に触れつつある。
 しかし、それに対するメイソン卿の声音は、至極残念そうなものだった。
「いやはや…そうであってくれれば、老い先短いこの老いぼれも、何の憂いもないのでございますがね…」
「あら、どういうことです? だって…」
「今夜の晩餐会って、二人の婚約発表会じゃなかったんですか?」
 フェイ、と呼ばれていた男性の言葉に、キュランは思いっきり目を見開いて固まった。思わず声を上げそうになり、慌てて口を押さえる。
「そ、そのようなお話、どなたがおっしゃいました?!」
 上ずったメイソン卿の言葉に、来客たちの戸惑いが伝わってくる。
「え? 違うんですか? だって、シタン先生が…」
「おや…違うんですか? 私はてっきり、この時期の晩餐会ときたら、やはりそうなのかと…」
「あらいやだ! 私たち、お祝い持ってきちゃったんですよ! 他の皆にも、声かけちゃったわ……」
 困ったようなエリィの言葉に、メイソン卿はしどろもどろになる。
「いや、その、何と言いますか……若には若なりのお考えがあったのでございましょうが、いかんせんその、はぁ……面目次第もございません…」
「何も、メイソンさんが謝ることじゃないですよ。しっかし…なんだなあ、バルトの奴…とうとう年貢の納め時だと、楽しみにしてきたのにな」
「ところでメイソンさん、マルーは今どこに? バルトに仕事が入って、随分寂しい思いをしてるでしょう?」
「いや、それがその……」
 苦々しく言葉を濁すメイソン卿の声音が、僅かに低くなった。キュランは思わず身を乗り出し、ベストポジを探すべく壁に身を寄せる。
 その時、突然背後から高い声が上がった。
「ねえユイ、この女の人なにやってるの?」
「っ!?」
 キュランは三十センチほど飛び上がって、慌てて後ろを振り返った。屈託ない高い声は、不思議そうにこちらを見上げているエメラルドグリーンの髪の少女のもので、その背後には良く似た雰囲気の母娘連れが立っている。
「ねえねえ、なにやってたの?」
「えっ、あっ、そのっ」
 害意は感じられないものの、真っ直ぐに自分の奇行を問い掛けられて、キュランは慌てふためいた。エメラルドの瞳をくりくり揺らす少女の背後から、はしばみ色の髪の女性がふんわりと微笑んでくる。
「ニサンの…シスターでいらっしゃいますね?」
「あっ? はは、はいっ、あの」
「どうぞ、お入りになって下さいな」
「いえその、あたしは…」
 真っ赤になって言葉に詰まるキュランに、女性はにこにこと微笑んでいる。その時、半開きだった部屋の扉が静かに開かれ、中から黒髪の男性が顔を覗かせた。
「あれ、ユイさん遅かったね、なにして…ん? 彼女は?」
「このお屋敷広くて、お手洗いを探すのも一苦労だったわ。フェイ、この方ニサンのシスターですって。メイソンさんにご用事じゃない?」
 ユイ、と呼ばれた女性が如才なくそう言うと、キュランはようやく恐る恐る顔を上げて、フェイと呼ばれた男性を見上げた。
「あ、ニサンってマルーの? メイソンさんに用事?」
「あ、はい、あの…」
 しどろもどろで答えようとしたキュランの背後から、これまた屈託のない良い声で、エメラルドの髪の少女が元気よく叫んだ。
「ねえねえフェイっ! この女の人、のぞきま?」
 その瞬間、羞恥心が粉々に砕ける音を、確かにキュランは耳にした…



「きゃー!! マルー、久しぶり! 逢いたかったわ!」
「エリィさん! フェイに、シタン先生に、エメラダに、ユイさん、ミドリちゃん、お久しぶり!!」
 突然現れた来客たちに、マルーは弾けたように駆け寄ると、しっかとエリィに抱き付きながら嬉しそうに叫んだ。
「元気だった? あら、少し痩せたんじゃないの?」
「そんなことないよー、もう元気元気! そっちは? ラハン村は、もう随分賑わってるんじゃない?」
「おかげさまでね。マルーが最後に来た時から、少しずつだけど世帯数も増えて、何とか村らしくなってきてるよ。今度遊びにこいよ、マルー」
「そーそー! エメラダとミドリが作ってる畑ね、いちごがなるんだよ!」
「うわー、いいね! 行きたいな、是非!」
 ひとしきり楽しげな再会の挨拶が終わった頃、部屋の隅に控えていたキュランがマルーに声をかけた。
「大教母さま、メイソン卿よりお言付けで、朝食は是非、皆様と一緒に大広間でお召し上がり下さいとのことでした」
「え? 大広間? ……」
 その瞬間、マルーの表情が暗くなる。それに気付いたのか否か、エリィがキュランの後を継いだ。
「そうなの。思ったより早く着いちゃって、図々しくも朝食に呼ばれたのよ。バルトは仕事が入って一緒できないらしいけど、マルーは付き合ってくれるでしょ?」
「え? 若、仕事なの?」
 驚いたようなマルーに、エリィもきょとんとして頷く。
「ええ、今朝急に入ったって…あら、マルー知らなかったの? バルト言いに来なかった?」
「え、ああ…うん、忙しいんだね。…じゃ、さっそく皆でご飯食べに行こうか! ここのお料理おいしいんだよ~」
 必要以上に明るくはしゃいで、マルーはエリィの手を取って一行を促した。賑やかな声が部屋を出る間際に、戸口に控えていたキュランにマルーが声をかける。
「キュラン、あなたも一緒に…」
「いえ、わたくしは別に用意していただけるそうですので、そちらで摂らせていただきます」
「でも…」
「お気遣いには及びませんわ。それに、今夜の晩餐会のお衣装を宿へ取りに行きますので、少しの間お傍を離れますわね」
「あ、ごめんなさい、お願いします。…じゃあ、三時のお茶にはきっと、皆と一緒にお話しよう? キュランのこと、紹介したいし…」
「はい、喜んで」
 にっこりと微笑むキュランに、マルーは可愛らしい微笑を向けて手を振った。そのまま一行はぞろぞろと部屋を後にし、賓客用の豪奢な客室にぽつんと取り残されたキュランは、しばし微笑みを貼り付けながら静止する。
「………はぁ~……」
 やがて、魂さえも抜けていきそうな思い溜め息を吐いて、キュランはがっくりとうなだれた。
 何だかいろいろとありすぎて、さすがのキュランも疲れてきている。何よりも、不可抗力とはいえみっともない場面を来客たちに見られてしまったことで、精神的にかなりダメージを受けていた。
「ま…しゃあないわよね、うん。…それにしても……」
 呟いて、キュランは先ほど目にした光景を思い出す。
 一時期、聖母ソフィアの再来と謳われたあの女性…そう、エレハイムと言ったか。彼女と現大教母マルグレーテとの関係は、キュランが想像していたものとは百八十度違っていた。
 ニサン正教内における権力闘争の二大立役者である。もっと、凄惨な確執があったとばかり思っていたのに…。
「最悪、もしかして、大統領のお相手ってあの方じゃないかとも勘繰ってたのよね…もしもそうだとしたら、大教母様の哀しみも理解できるし。でも、何だかあの方は、黒髪の方と良い雰囲気みたいだったわね…」
 こうなってくると、ますます不可解だ。それに、
「あの人たちってば、何の疑いもなく大教母さまと大統領のご婚約を祝う気だったのよね…」
 つまり、昔馴染みの間では、二人はもはや公認の仲、と言うことだろう。
 ならば何故、うまくいくはずの二人がうまくいかない?
 ちょっと整理してみよう。キュランは本格的に思考空間へ入りながら、頭の中でつらつらと考えてみた。
 大教母さまは、大統領のことがお好き。うん、これは多分当たっている。
 大統領は、大教母様のことがお好き。あたしの勘はそう言っているけど、まあこれは仮定として。
 とすると、大統領のお買い求めになった香水は、大教母様にあてたものだと言う可能性が高くなる。その場合、大統領の『ねだられた』と言う言葉は、部下への見栄か、照れ隠しか、いずれそんなところだろう…大統領と言う方を知れば知るほど、その可能性が高いような気がする。
 では、問題。
 何故、大統領はその事を、さっさと大教母様に言わないのか?
 一言言っちゃえば終わりじゃない。何をぐずぐずする必要があるのかしら?
 ここへ来て、やっぱりさっきの『二股説』が浮上する。可能性としては『実は大教母さまにも気があるけど、香水は他の女性へあてるものだった』が有力。仮にそうだとしたら、絶対に許せない!!
 それに何故、大教母様はあれほど頑なに、大統領との話し合いを拒絶されるのか?
 やっぱり、大統領が他の方に贈り物をすると思っているから? でも、仮にそうだとしても、一言の弁解も説明も受け付けないなんて、大教母様らしくない…。
 結論。
「あたしが何度考えたって埒があかない!」
 絶対的に情報量が少なすぎる。少ないヒントで考え得るものは、結局堂々巡りで終わってしまう。憶測と先入観だけじゃ、何も解らないのと一緒だ。
「やっぱり、あのにぶチンに相談してみよう。大統領の真意だけでも、分かるかもしれない」
 そう結んで、キュランはくるりと身体を反転させ、整えられた賓客用の客室から出ていった。
 まずは、あの穏やかな老侍従が気を利かせて用意してくれた朝食にありつこう。その後は、僧兵達が宿泊している宿へ戻って、晩餐会用の大教母さまの衣装を持ってきて、それが終わったらミシェルを捕まえて、たっぷり話を聞かせてもらわなきゃ。
 そうよ、もしかしたら、誤解が誤解を生んでとんでもないことになり兼ねないじゃない。ここであたしが、大教母様のために一肌脱がなくてどうするのよ。
 キュランは一人、大いなる決意を胸に拳を握るのだが。
 全てが後手後手に回った事態は、そう簡単に彼女の思い通りに進んではくれないのであった。
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