その手で触れてごらん



 夜間にユグドラシルの機外に出るのは、想像以上に難しかった。
 当然のことながら、侵入者を警戒して、出入り口付近にはすべてクルーが配置されている。夜を徹して、外郭を修繕するチームもいた。それでなくとも、マルーの動向には直接的な意味で、絶対的に艦長の許可が必要で、それを骨身に染みて熟知しているクルーの目をかいくぐるのは、不可能に近い。
 その不可能を可能にしたのは、かいくぐるのではなく、正攻法に出た意外性だった。
「あれ、マルー様?」
 南の搭乗口を守っていたクルーが、驚いたように目を丸くして、小柄な少女を見返す。マルーは背の高いクルーを見上げてにっこりと微笑んだ。
「ご苦労様、はい、差し入れだよ」
「わ、ありがとうございます」
 暖かい缶コーヒーを手に、クルーは嬉しそうに破顔した。マルーはコーヒーの入ったバスケットを片手に、きょろりとあたりを見渡した。
「ここはあなただけなんだね、寒いのにご苦労さま。じゃあ、東の方の搭乗口の人にも差し入れるつもりだから、通らせてもらうね」
そう言って、機外に出ようとするマルーに、クルーが声をかける。
「夜ですから、中を通っていかれた方がいいんじゃないですか?」
「大丈夫だよ、夜だけど、まだみんな外で作業してるし、手が空いてそうな人たちについでに配るつもりだから。心配しないで」
 心配そうなクルーに朗らかに手を振って、マルーは足早に機外に出る。これで、この登場口から戻らない言い訳ができた。帰りは帰りで、またうまい言い訳を考えればいい…ボクって結構ウソツキだなあ、と、少々良心の呵責を感じながらも、夜陰にまぎれてオアシスへ向かう。
 バスケットから、小さな懐中電灯を取り出した。ユグドラシルから十分に離れたところで、それを点灯して足元を照らす。そんなことをしなくても、月明かりで十分明るいけれど、念には念を入れた。
 オアシスは小さなジャングルのようになっている。至る所で水が沸いているから、足場も悪いところが多い。一応、獣道のようなものはあるし、踏み固められているから迷いようもないけれど、急ぎ足が時々もつれそうになった。
 進むごとに、胸がどきどきする。夜の闇は、無意味に心細さをかきたてるし、嘘がばれたときのことを考えると、激怒するバルトの顔が浮かんで、くじけそうになった。
 それでも、街に向かいたい。秘密のプレゼントのことを思えば、どんな暗闇も恐くはなかった。



 マルーの足で、オアシスを抜けるのには10分少々かかった。軽く息を弾ませながら、松明や街灯のネオン溢れる街の外郭を見やる。まだ宵の口にもならない時刻だが、街は相当に賑わっているようだった。
 足早に進んで、砂漠を渡る。砂に足をとられそうになりながらも、マルーは機敏な動作で街門をくぐった。砂漠の寒さ対策と、万が一街に来ているユグドラシル関係者の目を欺くために、すっぽりと顔を覆う黒いローブを着ているため、小柄な彼女はほとんど人の流れに埋もれるように、人の目を引くことなくすいすいと人波を泳ぐ。
 街に入ってそう遠くない路地の裏。アッシュの店先で、マルーは足を止めた。店の扉は閉まっているが、戸口のそばにある窓からは、淡い光が漏れていた。
「こんばんは…アッシュ、いる? マルーです」
 木の扉を叩いて、マルーが声をかける。中から人の動く気配が近づいて、扉はゆっくりと開かれた。
「やあ…いらっしゃい」
 昼間と同じ、眠そうな笑顔でアッシュがマルーを出迎えた。小柄な彼女の全身を眺め、それから後ろを見やる。
 路地をゆく人の群れに、何かを見つけようと視線を流すと、満足したように身体を捻ってマルーのために道をあけた。
「どうぞ、入って」
「うん、お邪魔します」
 すい、とマルーがアッシュの脇を通り過ぎた。その時、やはり甘い香りが鼻につき、マルーはふと、女性的なものを感じて、店内を見回す。薄暗い店の中には、相変わらず人の気配はなかった。
 マルーの背後で、扉が閉まった。小さな音が響いて、思わず振り返る。
「アッシュ…鍵をかけたの?」
 恐る恐る…どうしてだかわからない緊張を覚えて尋ねると、銀灰色の髪の優しげな青年は、薄い肩を軽く竦めた。
「うん。だって、この辺は夜は物騒だから。よく、ひとりで来られたね、マルー」
 自分で言い出した条件なのに、心底感心したように言ってから、アッシュは検めるような視線でマルーの全身を眺めた。
「…それとも誰かと来た?」
「ううん、ひとり。でも、街には人が溢れてたし、別に危険なことなんて」
「人が溢れてるから危険なんだよ」
「え?」
 きょとんとしたマルーに、アッシュは意味ありげに微笑んだ。それから、相変わらずふらふらとした呑気な足取りで、彼女の傍らに寄る。
「本当に来てくれるとは思わなかった。持ってこられたの?」
「あ、うん。これでどう?」
 言って、マルーはバスケットの中から、バルトのスペアの鞭を取り出した。使い込まれたそれを手にして、アッシュはふうん、と呟く。
「…すごいね。相当の使い手だ、彼」
「わかるの?」
 感心したように、マルーが目を丸くした。アッシュは、鞭の握りを確認するように、さまざまな角度から観察しながら、先の方を手繰り寄せる。
「まあね。装飾専門とはいえ、武器には詳しい方だから…それに、昼間、彼を見たしね。まるで鞭みたいに、しなやかで激しくて、鋭い男」
「誉めすぎ誉めすぎ」
 軽口を言いながらも、マルーは目に見えて嬉しそうに笑う。バルトの話題で、僅かに残っていた彼女の警戒心がまったくなくなった。アッシュは隙のない視線を流して、カウンターの奥を指差した。
「向こうの部屋で飲み物を出そう、何がいい?」
「えっと、あんまりゆっくりは出来ないんだけど…」
「すぐ出来るよ、10分くらい。明日の朝もう一度来るの嫌でしょ?」
「そんなに早く?」
 驚いたように言って、マルーが嬉しそうに笑った。無邪気な様子に、アッシュが柔らかく微笑む。
「そう、そんなに早く。だから待っててくれない?」
「うん、わかった」
 素直に頷いて、マルーは店の奥に向かう。カウンターを越えて、小さな戸口をくぐると、そこには小ぢんまりとした部屋があった。獣の敷布と、低いテーブルと、大き目のソファが中央にあって、壁の四方には、さまざまな装飾品の飾られた棚と、製作道具のようなものが、無造作に置かれている。
「座って。なんでもいい?」
「うん、ありがとう」
 振り返って、マルーが微笑んだ。すると、アッシュは音もなく彼女の背後に忍び寄り、着ているローブの喉元を指差す。
「ローブを脱いで、壁にかけて」
「あ…うん、ありがと」
 アッシュの長い指が、それ以上降りてこなかったことにほっとしながら、マルーはローブを脱いだ。流れるように動くアッシュの仕草には、どこかぎくりとさせられる。親密な感じのする触れ合いも、アッシュにかかっては大して意味がないように思えて、そこにいちいち反応する自分の方が、酷く幼いような気がした。
 そう考えて、マルーは自分が何故、アッシュの仕草に反応するのかようやく思い至った。結局彼は、自分のことを、ひとりの大人として扱ってくれているのだ。
 今まで、自分よりも年上の人間たちに囲まれてきた。子ども扱いされているのは慣れているけれど、こんな風に、大人びた雰囲気で扱われることには慣れていない。
 そう思うと、マルーは無意識に萎縮している自分を振り払うように、しゃんと背筋を伸ばした。大人のように扱われるのは望むところ。頼りない子供のように見られることだけは、死んでも嫌だ。
「昼間の彼…若、だっけ?」
 不意に、背後から声をかけられた。マルーは驚いたけれど、うろたえずに振り返る。思いがけず近い位置で、アッシュが身を屈めていたから、もう少しでぶつかるところだった。落ち着いて、さりげなく一歩下がる。
「うん、そう」
「彼は、ここに来てること知らないんでしょ?」
 手渡されたグラスは、淡いローズピンク。グラスの底から立ち上る小さな泡がゆらゆらと揺れる。
「知らないよ。言ったら絶対許してくれないし」
 グラスを少しだけ傾ける。舌を刺す炭酸が、甘い味の下に隠れた仄かな苦味を打ち消していた。不思議な味。
 促されて、ソファに座ったマルーの傍らに、アッシュが腰を下ろした。手にしていた黒いウイップホルダーの接合部に、小さなボルトを埋め込んでゆく。その手際のよさを眺めて、マルーは思わず感嘆のため息をついた。
「すごいね…器用だなあ」
「まあね。指先の器用さは自信あるよ…よく、誉められる」
 意味ありげに微笑んで、アッシュは長い足を少しだけずらす。すぐ傍らに座るマルーの足に、僅かに触れた。近すぎる気配に、マルーは本能的に嫌悪感を感じたけれど、ここで失礼な態度を取るのは、まさに子供のすることじゃないの? 思い直して、気にしていないように、アッシュの手元だけを見つめる。
「アッシュは、このお仕事長いの?」
「ああ、長いね。子どもの頃からこれで食ってる」
「ふうん…偉いんだね」
「別に偉くはないよ。やらなきゃ食えない、食えなきゃ死ぬ、それだけ」
「…そっか」
 鞭を収納する止め具の部分を微妙に調節しながら、真剣な眼差しで作業を進めるアッシュの指先を、マルーはじっと見つめていた。彼の指先は魔法のように早く、その技術に驚嘆する。
「マルーはどこから来たの?」
「ニサンだよ」
「若、と一緒に?」
「え? う~ん…ま、そんなとこ」
 くい、とローズピンクのグラスを傾けて、マルーが苦笑する。その雰囲気を察したように、アッシュがちらりと、エメラルドの瞳を流した。
「彼は兄弟?」
「ううん、従兄」
「ああ…なるほど」
 何かを納得したように、アッシュが頷いて微笑む。マルーはきょとんとして小首を傾げた。
「何がなるほど、なの?」
「ん…」
 片目を瞑り、接合部のボルトの強度を確認しながら、アッシュはねっとりと、喉に絡むような低音で囁く。
「従兄は結婚できるからね」
「っ」
 その言葉に、マルーは傾けていたローズピンクのグラスを取り落としそうになって、慌てて首を振った。
「なっ、何言ってんの、アッシュ?」
「何って、事実でしょう。それとも、マルーの一族では近親婚は歓迎されない?」
「そ、そういうことじゃなくて…そりゃ、確かに事実だけど、でも、ボクは…」
 言葉に詰まったマルーが、赤い顔を隠すようにピンクのグラスを傾ける。喉に流れる炭酸の刺激に、ぐらぐらと揺れる視界を凝らした。
 マルーの白い喉が、あらわになって上下する様をじっと見つめながら、アッシュはちらりと壁の時計を見やる。長針がかちんと振れた。まだ大丈夫。
「マルーは、そんな気はないんだ?」
「も…もういいよ、その話題はさぁ」
「だーめ。聞きたい。ね、どうしてだい? 彼、結構格好良いじゃない。嫌いなの?」
「まさか! そんなこと、あるわけないじゃないか! ボクが若を嫌うなんて、この星が無くなったってあり得ないよ」
 キッ、と大きな碧玉の瞳を向けて、マルーが力説する。目元をほんのり赤くして、必要以上に感情を露にして…赤い唇だけが、電灯の光を吸って、キラキラと輝いていた。
 アッシュは静かに、狡猾に、さりげなく身体を寄せてゆく。触れ合った肌の熱も、今のマルーには気にならない。先ほどから近すぎる彼の気配には慣れさせられていた。
「へえー。じゃ、やっぱり好きなんだね。それでどうして、結婚する気はないの?」
「だ…だって、ボクたちはそういうんじゃないの! ボクは若の子分で、結婚とかそーゆーのは違うのっ」
「違う? どう違うの?」
「う…」
「ねえ、マルー、君さ、結婚ってなんだかわかってる?」
「え?」
「って言うか、男と女って、なんだか、わかってる?」
 するり、と、アッシュの細い指先が、マルーの膝を滑った。剥き出しの白い肌がびくりと震える。膝の内側の、柔らかな肉に爪を滑らせると、得体の知れない感覚に、全身がびくりと震えた。
「あ…っ」
 思わず、マルーがか細い声をあげる。その瞬間、ぎょっとしたように目を丸くさせた。アッシュはそんな彼女の反応に、薄い唇を微笑ませる。
「やっぱり…君は、『女』だよね」
「……ッ」
 囁かれた『事実』に、反射的な拒絶反応が起きる。蔑まれたような気になるのは、多分、勝手な被害妄想。実際、『女』でしかあり得ない自分なのだから、今更それに反発するのは、それこそ子供のような駄々…だけど。
「どうして隠そうとするの? こんなに感度イイのに…」
「や…やだっ」
 冷たい指先が、膝を伝い腿のあたりまで這い上ってくる。今すぐ立ち上がって逃げ出さなければならない。マルーの意識の下で、本能が警告していた。
 その、紛れもない『女』の本能は、けれど、突然のことに強く混乱しているマルーの『恐怖心』には、打ち勝てない。
「やだ? なんで? 気持ちよくない?」
「や…やめてよ、アッシュ!」
 硬直した身体ににじり寄る熱は、男の固い香りがした。耳元に直接吹き込まれる吐息に、ぞくぞくと背筋が震える。恐くて堪らない。殺されるのと同じくらい。
「やめて…なんてさ、言ったって無理。君、男の一人暮らしに、夜、誰にも告げずにやって来るなんて…何されたって、文句は言えないんだよ。そういうこと、君の『若』は、教えてくれなかったの?」
「…ふっ…」
 耳の裏、首筋のあたりに唇が触れて、涙が滲んだ。伝わってくる香りも、熱も、吐息も、すべてがマルーを追い詰める。必死に抵抗して、ことによったら殴り倒してでも、ここから逃げ出したいのに…身体が言うことを聞いてくれない。
 こんなに弱い、自分。身を守ることすら出来ない。
「大事に、大事に、されてたんだねぇ…ねえ、マルー? 若は教えてくれなかった? 男と二人きりになったら、どんなことがあっても、気を許しちゃいけないって…さもないと、泣かされるよ、って」
「……!」
 首筋を唇でなぞって、マルーの胸元に手を伸ばす。最後の気力を振り絞って、マルーが絶叫しようとした瞬間、店の奥の扉が乱暴に叩かれた。古い扉が震えて、みりみりと軋むほどの衝撃に、アッシュはちらりと視線を流す。
 柱時計の長針は、きっかり10分を示していた。
「…残念…あと5分あればなあ」
 マルーの耳元にぽつりと呟いて、彼はすいと立ち上がる。あっさりと離れていった熱に、マルーは目に見えるほど震えながらも、ようやく自由の戻った身体をかき抱くように警戒して、アッシュの背中を怪訝そうに見やった。
 薄暗いカウンターを越えて、アッシュが戸口に歩み寄る間も、扉は強打され続けている。その純粋な力に、古い扉が耐え切れなくなる前に、アッシュが素早く錠を外した。
「いらっしゃい、近所迷惑なお客様」
「マルー!」
 開いたと同時に、バルトの怒号が空気を震わせる。部屋の奥からそれを聞きつけたマルーが、弾かれたように立ち上がった。
「若!」
 薄暗い部屋から飛び出してきたマルーに、バルトは厳しい表情を僅かに緩めた。それから、改めてアッシュを睨む。間近にいるだけで、びりびりと肌を刺すような怒気に、アッシュはさりげなく後退して距離を開けながらも、にっこりと余裕の微笑を浮かべた。
「そう恐い顔しないで。俺は善良な、ただの商人」
「うるせぇ!!」
 聞く耳もたずのバルトの様子に、アッシュは隙なく視線を滑らせた。とりあえず、武器はある。この男が、数メートル先のカウンターまで、それを取りに行かせてくれれば、の、話だが。
 下手をすれば、問答無用で殺されるかもしれない。半ば本気でそう思ったアッシュが、じり、と体重を後ろに移動した瞬間、バルトの右手が、腰の鞭へと伸びた。
「待って、若!」
 けれど、その息詰まるような雰囲気を打ち壊したのは、マルーの緊迫した声だった。強張った表情のままバルトの傍らへと走り寄り、内心の苦労を感じさせないほど自然に、アッシュに微笑みかける。
「ごめんね、迷惑かけて。若は、ボクを迎えに来たんだ…内緒で出てきたのがばれちゃった。怒られるのはボクだけでいいよ」
「…マルー」
 低いバルトの声音に、マルーはくっと唇を噛んでから、明るい笑顔を向ける。
「ね? 若。ボクが悪かったんだ、どんな罰でも覚悟してるよ」
 さりげなく、バルトの右腕に寄って、鞭の切っ先を制そうとするマルーに、バルトは冷たい碧玉の瞳をついと細めた。それから、もう一度アッシュの方へ視線を向ける。殺気は消えていたけれど、怒気は隠しようもなかった。
「…騒がせたな」
「いえいえ。お構いなく」
 人を喰ったようなアッシュの言葉に、バルトは無頓着に踵を返して、ぐい、とマルーの腕を掴む。
「行くぞ、マルー」
「あ…うん」
 大人しく従おうとしたマルーに、アッシュが軽く声をかけた。
「待って。さっきの…完成してるけど、どうする?」
「…あ」
 瞬間、マルーは困ったように眉を寄せた。それから、おずおずとバルトの顔を見上げる。
「あ、あの…若、ちょっと、待っててくれる?」
「あん?」
「わ、忘れ物を取りに行くだけだから…ね?」
「……」
 探るようなバルトの視線の先で、マルーは縋るように彼を見上げていた。その様子を遠目に眺めて、アッシュは軽く肩を竦める。
「…俺が『若』の相手をしてるから、早く取り行きなよ」
「……」
 その言葉に、バルトは無言でマルーの腕を放した。アッシュが暗に、マルーと二人きりになることを避けた意味を、彼はきちんと理解している。
 マルーはちらりとバルトを見やってから、足早に部屋の奥へと向かった。その姿が視界から消えると、バルトは無言でアッシュを睨む。冷えた視線に、アッシュは軽く肩を竦めた。
「心配しなくても…別に何もしちゃいないよ。まだ生きていられるんだから、それはあんたも承知してると思うけど」
「そういう問題じゃねえ」
「じゃ、どういう? ねえ、聞くけど、あんたに俺を非難できるのかい?」
「……」
 無言のバルトに、アッシュはカウンターに寄りかかりながら、薄い笑みを刷いた。
「マルーの…あの、異常なまでの警戒心のなさは、誰のせいなの? あんたは、彼女にとって危険なもののすべてを排除してるのかもしれない。だけど、根本的に、彼女が回避しなければならない危険には、故意に触れずにいたんだろう?」
「…何の話だ」
「自分がずっと傍にいれば、危険はないと思った? だから彼女が…『女』だって自覚せずに、無防備でいることを許していたの? だったらあんた、一級品の大馬鹿だよ」
 せせら笑うアッシュに、バルトのこめかみが大きく波打った。再びぎらつく碧玉の瞳から逃れるよう、アッシュは十分に距離を開いたその先で、とどめの一言を放つ。
「自分で自分を守れない『女』なんて、誰に襲われたって文句は言えないだろ。暴力には警戒できても、誘惑には抵抗できないんじゃお話にならない。ましてあんな上玉、あと1年もしないうちに、砂糖に群がる蟻みたいに、どんどん男が寄ってくる」
「……」
「彼女が『不幸な女』になるかならないかは、あんたにかかってるんだよ、『若』。従妹が大事なら、今のうちに何とかするんだね…でないと、第2、第3の俺みたいなのが」
「うるせえ、黙れ」
 搾り出すような低いバルトの声音に、アッシュの背中がぞくりを震えた。今、十分に距離を保っていてさえそうなのだから、彼の鞭の攻撃範囲にのこのこ入ったら、首から上と泣き別れくらいの覚悟が必要だろう。
 ことによったら、相手は自分でなくてもいいのかもしれない。この時間、店にやって来る馴染みの客がいないとも限らないので、今はただ、古びた扉が呑気に開かれないことだけをアッシュは祈った。
「若、ごめん、お待たせ」
 その時、カウンターの裏からマルーが飛び出してきた。殺気と緊張感がみなぎる従兄の元へと、躊躇いなく走り寄る。一瞬、バルトの右腕が緊張に震え、けれどすぐ、その牙の下に優しく引き寄せるよう、マルーの腕を掴む。
「…行くぞ」
「うん。じゃあ…ありがとう、さようなら」
 振り返って、律儀に声をかけるマルーの瞳に、怯えはなかった。ただ、どうしようもないほどの気まずさを感じて、懸命にそれを堪えているような少女に、アッシュはらしくもなく、仏心を出す。
 どうにかして、俺を八つ裂きにするチャンスを窺っている従兄に全部打ち明けて、怒り狂ったそいつが、俺を半殺しの目にあわせたって、文句は言えないってのにさ…偽善的に自嘲して、戸口をくぐるバルトの背中に声をかけた。
「ねえ、若。アンタとマルーの距離は、今、『10分』だ」
「…?」
 不可解なアッシュの言葉に、バルトが肩越しに振り返る。
「その『10分』の間に、取り返しのつかないことになる可能性には、もう気づいてるんだろう? だったら四の五の言わずに、距離を1分…いや、『30秒』に縮める努力をすべきだと思うね」
「……」
 バルトは無言で、アッシュのエメラルドグリーンの瞳を見据えた。半分眠ったような微笑を浮かべる優男の、思いがけない洞察力に感心すると同時に、マルーがこの家の扉をくぐってから、じりじりと流れていた地獄のような10分を思い出して、苦いものを噛み潰す。
 確かに…10分は長すぎた。それが、自分とマルーとの距離だと言うのなら、確かに俺はその長さに不満を持っている……腸が煮え返るほどに。
 マルーの細い腕を引き寄せて、バルトは無言のまま店をあとにした。人の波は相変わらず多く、華やかな雰囲気が溢れている。その流れに便乗して、バルトは出来る限りの急ぎ足で、さっさとその場をあとにした。



 ほとんど、バルトに抱えられて宙に浮くような状態で、マルーは文句も言わずについてきている。その静けさに、バルトは救われていた。今、僅かでも刺激を与えられたら、後悔しそうなことになる気がする。
 その時、街の東の空が、突然明るくなった。細く緒をひく音と、一瞬遅れた破裂音が続き、闇の空が明るい閃光に彩られる。
「わ…花火…」
 思わず、といった風に、マルーが呟いた。見下ろすと、大きな碧玉の瞳を輝かせて、色とりどりの光の乱舞に息を飲んでいる。その横顔に、バルトも息を飲んだ。
 花火に歓声を上げて立ち止まる群集を、バルトは縫うように掻き分けた。マルーの腕をしっかりと掴み、転びそうになるたびに、軽く抱き寄せながら進むうちに、どうやら街外れには着いたらしい。ただ、街を囲む外壁の出口とは、方向が違うためにひと気はまったくない。
 数メートル先の露店から漏れる光と、東の空を覆う花火の明るさだけが、お互いの様子を確かめさせてくれた。薄暗い闇の中、マルーはバルトの顔を見上げる。厳しい顔をした従兄は、無言で闇を睨んでいた。
 捕まれた腕が、次第に痛みを増していっても、マルーは呻き声ひとつ上げずに、無言でバルトを見つめた。
「…どうして、ひとりで街に来た?」
 やがて、バルトが低くはっきりと問うてきた。いつもならば、嵐のような激しさで派手に叱責し、その迫力はもっぱら声量の方に表れているのに、今の彼からは、押し殺したような怒りがひしひしと伝わってくる。それが、声を荒げられるよりなおさら堪える。
「……ごめん…なさい」
 小さく呟いて、マルーは顔を伏せた。ここでどれだけ責められても、何も言い訳は出来ない。バルトのためにあつらえた新品のウイップホルダーも、理由にはならない。
 歴然とした事実は、自分がまた、バルトに余計な心配をかけ、手間をかけさせ、迷惑をかけたこと。それだけだ。
 悄然としているマルーを見下ろして、バルトがぐっと喉を鳴らした。溢れ出しそうな言葉を厳密に選択しなければ、何を口走ってしまうか想像もつかない。
 それでも、ふつふつと湧き上がる怒りと焦りは、どうしようもなかった。
「お前…わかってんのかよ。自分が何をしたのか」
「…わかってる…」
「わかっててこんな馬鹿なことをしたのか!? あぁ!?」
 バルトの怒鳴り声と、花火の破裂音が重なった。びくりと顔を上げたマルーの目に、青白い光に晒された、従兄の本気で怒った顔が映る。
 何年ぶりだろう、こんなバルトの顔を見るのは…単身でブレイダブリクに行った時も、ここまで激しい怒りはなかった。今回は、あの時のような、命の危険はなかったはずなのに。
 怯えたように絶句するマルーから目をそらし、バルトはぎりぎりと奥歯を噛んだ。
「お前…わかってねえよ。自分が何したのか。わかってねえから、反省もしてねえ。だからまた、同じことしでかすんだよっ!!」
「し……っしないよ!」
 断定的なバルトの言葉に、マルーは反射的に叫んだ。いくら自分が愚かでも、二度と同じ過ちは犯さない。なのに、バルトはもう、そんなことすら信用してくれないのだろうか?
「するんだよ!! お前は何にもわかっちゃいねえんだから!!」
「わかってるよ! ボクだって…自分が弱くて役立たずで、若に迷惑をかけてばっかりだってことくらいわかってる! だからもう、同じ過ちは……っ」
 そう、言いかけた瞬間。
 マルーは、思いがけない強さで、バルトの腕にからめとられた。小柄な彼女の全身をすっぽりと包み込み、バルトの太い腕が力の限り彼女を抱きしめる。細く、柔らかく、温かな身体を、押しつぶせば自分の中に取り込めるとでも言うかのように。
 硬い胸に押し付けられて、マルーは行き場を失った吐息を吸い込んだ。どくどくと逸る胸が、直接バルトに振動を伝える。背中をかき寄せられて、その指が肌を締め付ける感触に、ぞくんと背筋が震えた。
 マルーの棗の髪に指をくぐらせ、バルトが唸るように囁いた。
「ほら…お前は何にもわかっちゃいねえ…こんな簡単に、男に抱かれて、逃げようともしねえなんて…」
「わ……か…」
 苦しくて、声が詰まる。呼吸は十分に出来るのに、上手く息が吸えなかった。とろけるような痺れが、全身に広がってゆく。
 今まで何度も、こんな風に親密に触れ合ってきた。子どもの頃から、夜も昼も一緒で、今更何があっても、驚くことはないと思っていたのに。
 力の限り抱きしめられて、身体中の自由を奪われて、熱い吐息に触れられて、それでもなお、恐怖も困惑も感じない。あるのは純粋な、驚きと安堵。
 数時間前、寝ているバルトに抱きしめられた、あの目の眩むような充足感が、再びマルーを包み込んでいた。
「………」
 腕の中で大人しくなったマルーに、バルトは困惑を隠しきれなかった。密かに覚悟していた、怒声も罵倒も、困惑の叫びすら聞こえない。驚きすぎて、言葉も出ないのだろうか? それにしては、自分の胸に預けられた額が、親密な重さを伝えてきている。完全に、力を抜いてすべてを預けてきているようだ。
 バルトはようやく、抱きしめていた腕を緩めた。ゆっくりと、マルーの顔を上向かせる。
 間近で見る従妹の蒼い瞳は、潤んだように大きく輝いていた。
「……マルー」
「…ん?」
「…あの、な…お前、わかってんのか?」
「なにが?」
「だから…こういう風に、男の腕に、だな…」
 少しでも冷静になったら、自分の言動に臍を噛みたくなる。気恥ずかしいのを無理やり堪えながら、こんなに密着してすらも、まったく警戒しようとしないマルーの無邪気さを呪った。
 どこまで説明すれば、理解するのだろう? 自分が『男』の目に、どう映るのか…『俺』の目に、どう映るのか。
 マルーに理解させるよりも、自分の限界の方が早いことを熟知しているバルトは、これ以上の説得を諦めざるを得なかった。確かに、このまま無防備のままでいさせるわけにはいかないが、それはこれからゆっくりと…出来るだけ、緩やかな形で、理解させていけば。
「わかってるよ」
 小さく、マルーが呟いた。眉を上げたバルトの瞳をじっと見つめて、マルーが桜色の唇を開く。
「…というか…わかったよ。若が、どういう意味で、ボクを叱っているのか…」
「……」
「それはボクが…『女』だから、だよね?」
「!」
 静かな一言に、バルトが一瞬息を飲んだ。緩んだバルトの腕を掴んで、マルーが真っ直ぐ彼の碧玉の瞳を見詰める。そこには、穏やかとも言える静けさがあった。
「ひとりで、夜の街に来て、ひとりで、一人暮らしの男の人の家に行って。鍵をかけられても、奥の部屋に連れて行かれても、何も考えてなかった…相手が、ボクを、どんな風に見ているのかなんて…考えもしなかった」
「ッ! お前、まさか」
 ぎくり、と、正真正銘の恐怖を覚えたバルトに、マルーは苦笑じみた微笑を零す。
「まさか。…へーき。何もされてない、よ…」
「……」
「今までボクは、自分が男の人にとって、そんな風に見られるなんて、考えもしなかった。だけど…ボクだってもう、十六だよ。ニサンでは、大教母って言われて、たくさんの人にお説教なんかしてる…だから、もちろん、わかってるよ。男の人が、女の人を、どういう風に見るか…なんて」
「……」
 途切れ途切れに囁く声に、バルトは硬直した腕を下げられずにいた。密着した肌と肌の間に、互いの熱が伝わっている。こんなに近い距離で、マルーは、酷く敏感で繊細な話を、恐れ気もなく打ち明けている。
 俺も『男』なんだぞ?
「だから、若が言っている意味、わかるよ…もう、二度と、あんなことにはならない。ちゃんと気をつける…絶対」
 きっぱりと言ってのけるマルーに、バルトは複雑な心境になった。
 もちろん、従妹が自分の魅力を自覚して…とはいえ、どこまで正確に理解しているのかは、まだ怪しいものだけど…極力、『女』としての自分を守るよう、自嘲してくれるのはありがたい。あの優男の言った通りは癪だが、確かに、これ以上自分ひとりの力で、無邪気なマルーを守り続けるのは至難の技だった。
 けれど。同時に、マルーが今までのように、無防備に自分に甘えてこなくなるのは…少し、いや、かなり寂しい気がする。
 かといって、逆に今まで通り、自分には無邪気に寄ってくると言うのも、それはそれで複雑だ。警戒心が無いと言うことはつまり、自分はマルーにとって、警戒に値しない…『男』ではない、と、突きつけられているようで。
 そんな矛盾した思考に、バルトががんじがらめに陥っていた時、再び、夜空を飾る火の花が、大きな炸裂音とともに輝いた。
「うわ…きれー」
 そう呟いて、うっとりとそれを見上げるマルーを見つめて、バルトは静かにため息をついた。何をどう悩んだところで、家族として、従妹としてマルーを守ろうとしているこのスタンスを変えないかぎり、無意味な足掻きだ。
 だけど、今はまだ…もう少し、このままでいて欲しい。煮え切らない自分を自覚して、それでもこの手を離せない、強欲な本能に再びため息。
「わか?」
 それに気づいて、マルーがきょとんと顔を向ける。ぴったりと身を寄せてこちらを見上げる小さな顔に、バルトは不機嫌そうに装いながら、そっと腕を放した。
「なんでもね。行くぞ」
「あ、うん…あ、そうだっ」
 歩き出そうとしたバルトの背に、マルーは何かを思い出したように高い声をかけた。肩越しにバルトが振り返る
「なんだよ」
「うん…あのね、実は、これ…」
 地面に落ちていた紙袋を急いで拾って、その中から取り出したものを見せる。漆黒の真新しいウイップホルダーと、自分のスペアの鞭を見やって、バルトはひょいと眉を上げた。
「あの、勝手にスペア持ってっちゃってごめん。それで…これ、プレゼント」
「え?」
 意外な言葉に、純粋に驚いた。それから、ようやく気づいたように、わずかに声を沈めて問う。
「…これって、さっきの奴の?」
「…うん」
 おずおずと頷いたマルーに、バルトは眉を顰めた。心情的に、あんな奴の関わったホルダーなんぞ、使いたくもない…が、手にしたそれは、素材も装丁も加工技術も、ずば抜けて上質だ。そして目の前には、拝むような顔でこちらを窺っている、従妹の顔…
「…サンキュ。使わしてもらう」
 観念してそう呟くと、マルーはぱあっと顔を輝かせた。子供のように無邪気な笑顔に、バルトは毒気を抜かれて、まあいいか、と、自嘲する。
「それでね…かわりと言っちゃなんだけど、いっこだけ、お願い聞いてほしいんだ」
「あん?」
 無償のプレゼントじゃなかったのか? 呆れたようなバルトの様子に、マルーは悪戯っぽく笑う。
「甘いな、若。ただより高いものはないんだぞ」
「…って、お前なぁ」
「大丈夫、若にしか出来ないことだけど、そんなに難しいことじゃないから」
「ったく…ハイハイ、なんだよ、そのお願いってのは」
 ぶつぶつと不満を零しながらも、珍しい従妹の『お願い』に、大抵のことなら頷いてやれるほどの余裕を取り戻していたバルトは、次の瞬間、耳に届いた言葉に絶句した。 
「あのね…ちょっとの間でいいから、さっきみたいに、ぎゅってしてくれる?」
「………は?」
 思わず、ぽかんと開いた口から間抜けな声が漏れる。マルーはそんな従兄の顔を見上げて、僅かに恥ずかしそうに、白い頬を染めながら言った。
「今日は『オンナノコ』していい?」
「………」
「今日だけ…今だけ、で、いいから」
「………」
「…ダメ?」
 そう言って、小さく小首を傾げる仕草に、紛れもない『女』を感じて。
 バルトは、ほとんど無意識に、マルーの望み通り、その柔らかな小さな身体をかき抱いていた。
 再び温かな腕の中に戻ったマルーは、やっぱり、と、安堵のため息をつく。
 やっぱり、この腕の中にいる時が、一番安心できて…一番、幸せを感じる。どれだけ近づいても、どれだけ熱くても、恐くなんてない。逃げ出したくもない。ただ…このままずっとこうしていられれば、それだけで。
 そう、再確認して、深々と幸せのため息をつくマルーを腕に。
「………」
 『オンナノコ』として従妹を抱きしめた以上、このままでは済まない『オトコノコ』な自分を、果たして彼女はどこまで理解しているのか…
 絶望的な心地よさの中、バルトは再び、理性と本能の狭間で、神経をすり減らしてゆくのだった。
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