その手で触れてごらん
「これで全部か?」
数時間後、とりあえずリクエストのあった日常品などをそろえるだけそろえたバルトたちは、広場に用意された休憩用の天幕の下で品物をチェックしていた。
「あ~~~、つっかれた…」
「ホント、こう人が多いと買い物も楽じゃないね」
日よけに用意された天幕の下に、ごろりと寝転んだバルトの傍らで、マルーもさすがに草臥れたように笑う。唯一疲れを知らないのは、刺激的な風景に興奮しっぱなしのエメラダだけだった。
「フェイのキムー、さっきのお店、もう一回行きたい!」
「えぇ~? 勘弁してくれよエメラダ…ちょっと休憩。あとで連れて行ってやるから」
「行きたい行きたい行きたい!」
ぐいぐいと、寝転んだフェイの髪をつかんで引っ張るエメラダに、フェイは泣きそうな顔で天を仰ぐ。仕方ないわね、とエリィが苦笑した。
「エメラダ、フェイは草臥れたんですって。私が連れて行ってあげるわ」
「え~~っ。おばさんと?」
「………」
「あっ、じゃあ、ボクも行こうかな? 珍しいもの、まだたくさんあったし…ね、エメラダ」
ぴくぴく、と笑顔を引きつらせるエリィの傍らで、マルーがにっこりと微笑む。エメラダは名残惜しそうにフェイを見やってから、不承不承頷いた。
「わかった。行こ」
そう言って、エリィとマルーの手を引いて立ち上がるエメラダに、マルーは優しく苦笑してから、バルトを振り仰ぐ。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね、若」
「……あぁ、迷子になるなよ」
「ならないよっ」
ひらひらと手を振るバルトに、マルーは小さく舌を出した。そのまま、エリィとエメラダと連れ立って歩く後姿を、寝転んだまま見送るバルトに、フェイが意外そうな声をかける。
「行かせるとは思わなかったぜ。なんかあったのか?」
「あン?」
その言葉に、不機嫌そうにバルトが首を回した。
「別に…俺だって一日中おもりは草臥れんだよ」
「ふ~~~ん? ………」
「………なんだよ」
「いやあ?」
無言でこちらを見やり、何かを知っていそうな顔で沈黙するフェイの様子に、バルトはいらいらと髪をかきむしりながら腹筋だけで上半身を起こした。
「別に深い意味はねえよッ! …ただ、あいつだって少しは、女みたいに小物だなんだ、欲しいものがあるんじゃねーかと思っただけだ」
「ああ、自分と一緒じゃ、思うように買い物できないだろうって思ったのか。優しいねぇ、バルトくんは」
「…っコロス!」
「うわっ!! 待て、待てギブ、ギブギブギブ首絞まってるっっ」
寝転んだフェイの首に野太い腕をかけ、ぎりぎりと締め付けていたバルトにフェイが半ば本気でギブアップすると、フン、と盛大に鼻を鳴らしたバルトが不機嫌そうに顔をそむけた。
「けほっ…ったく、マルーのことになると冗談通じねえな、お前は…」
「……」
「わかった、俺が悪かった睨むな…。ってか、別に、女物の小物を見るくらい、お前だって付き合えるだろ? 一緒にいた方が、安心するんじゃないのか?」
過保護に近い防衛本能で従妹を護ろうとする砂の海の男に、フェイが不思議そうに問い掛けると、バルトは再びごろりと寝転がって、頭の後ろで腕を組みながら瞳を瞑った。
「あいつは、俺といるときは、女らしいものにゃ目もくれねぇ」
ポツリと呟いたバルトに、フェイはまじめな表情になる。
不意に、先ほどのエリィとの会話が思い出された。マルーは、バルトの前だと奇妙に『女』を感じさせない…いや、忘れようとしている節すらある。まだ16歳の、少々幼さの残る少女とはいえ、ふとした仕草、ふとした表情に、紛れもない『女性』を感じさせる彼女は、けれどこの従兄の前でだけは、頑なにそれを否定しているようにすら見える。
否定して、否定して、それでいつか、自分が求める自分に、なれるかのように。
「…ま、確かにな。でも、どんなに否定したって、マルーは女の子だからな…」
ポツリと呟き返して、フェイは難しく眉を寄せた。否定するということは、そこから逃げるということだろうか? …逃げて、逃げて、それで行きつく先を、彼女は知っているのだろうか……自分の、ように?
「フェイ?」
「…っああ、何?」
一瞬、何か得体の知れない感情に引きずられたフェイが、バルトの声にはっと我に返る。バルトは少々訝しむように金の睫毛を上向かせて、ため息とともに呟いた。
「別に俺は、あいつが自分のことをどう思おうとかまわねぇと思ってる。今は…というか、今までは、そうすることが、あいつを支えていたのは間違いねぇし。ただ…」
「ただ?」
言葉を切ったバルトに、フェイが促すように視線を向ける。バルトは、瞳を閉じて、その印象的な碧玉を塞いだまま、ぼんやりと呟いた。
「本人がどう思おうと、周りは否が応にも、変わってく。あいつの望むと望まざるとにかかわらず…あいつは女、なんだからな」
「…だな」
フェイは賢くも、それだけを言って沈黙した。もしここで、『変わってゆく周囲』の急先鋒である青年の、心のうちにわだかまった思春期じみた物思いを暴きでもしたら、本気で首を絞め殺されないな…と、短くも濃厚な付き合いで学んだ親友の反応を予想して。
先ほどよりも、多少はマシになった人の波を泳ぐように、エリィとマルーはエメラダを連れて歩いていた。
「エメラダが行きたいお店って、どこ?」
「ほら、さっきはぐれてしまった時に見つけたんだけど、奇妙な生き物を扱ってる露天商があったの。エメラダったらそれに夢中で、だからなかなか引き返せなくて、マルーたちを見失ったってわけ」
「あそこ!」
ぐいぐい、と二人の手を引いて、エメラダが露店を指差す。そこには、不思議な色のインコや、もこもことした毛並みの兎に似た生き物など、確かに人目を引く動物達が溢れていた。
「わ~、かわいい!」
「ねえ。戦艦暮らしでさえなかったら、飼ってみたい気もするけど…」
言いながら、エリィとマルーは手当たり次第に動物を撫でまくるエメラダを苦笑して見守っていた。
「あ、ここって、さっきのお店の近くなんだ…」
その時ふと、通りの向こうに赤い看板の生薬の店を見つけて、マルーが呟く。動物に夢中になっているエメラダと、それを優しく見守るエリィとを見比べて、マルーはそっと、親友の袖を引いた。
「ね、エリィさん。ちょっとだけ、他の店に行って来てもいいかな?」
「え?」
「ほんの10分くらいで戻るから」
「あら、じゃあ私も…」
言いかけて、ふわふわの猫もどきに顔を埋めて笑っているエメラダを見下ろし、梃子でも動きそうにない様子にふう、とため息をついた。
「この分じゃ、無理ね…といって、置いていったら確実に迷子になるし」
「ゴメン、ホントにすぐ戻るから」
ひとりエメラダのおもりを押し付けるすまなさに、マルーが両手を合わせてぺこりと頭を下げる。エリィは軽くため息をついて、優しい笑みを浮かべた。
「いいわよ。ただし、気をつけてね。あなたに何かあったら、私がバルトに怒られるわ」
「また~。エリィさんまで、からかわないでよ。ボクだって、ひとりで街ぐらい歩けます」
「わかってるわよ。でも、スリや引ったくりにあわない保証もないから、ね?」
多少大げさに言って眉を寄せるエリィに、マルーも苦笑して、深く頷いた。
「うん、それは気をつける。でも、大概のことなら上手く切り抜けられるから大丈夫だよ。心配しないで、すぐに戻るから」
「ええ、いってらっしゃい」
言って、エリィは駆けてゆくマルーの後ろ姿に手を振った。
確かに、バルト仕込みの身のこなしと勘の良さなら、大抵のことは上手く対処できるだろう。こんなときは、彼女の男の子じみた行動力と度胸に強い信頼を置ける。
けれど、やはり残る不安は、…そう、あの子は女の子だ。女の子はか弱いから、などという理由で不安なのではない。マルーには、並みの女の子以上の能力があった。
けれど、女には、女にしかわからない用心というものがある。
「…私も大概過保護よね…」
苦笑して、エリィは首を振った。これではまるで、金の艦長のお株を取ったようだ。
そんなエリィの視界から消えたマルーは、赤い看板の生薬の店を目印にして、通りを3つ駆け抜けた。なるべく人の波にもまれないように、軒下を選んで走り、ようやく目当ての店にやってくると、ためらわずにそこに飛び込む。
薄暗い店はひやりと静かで、先ほどから客が出入りした形跡はない。相変わらずカウンターは無人で、無造作に並べられた商品がひっそりとマルーを迎えた。
マルーは店の奥へ声をかけようとして、思い止まった。そのまま、陳列ケースを眺めて、目当てのものを物色する。光源を欠いた店内は、商品の品定めには不向きだが、それでも、これらが仕立ての良いものだということはわかった。
「うわあ…きれい」
小さな赤い石が埋められた、ガンベルトを手にして、マルーが呟く。機能性重視の造りなのに、所々の意匠の趣味が抜群に良い。ひやりとした革の手触りも、廉価品とは比べ物にならなかった。
「やっぱり、これがいいなあ」
「…気に入った?」
「わっ!?」
突然背後から声をかけられて、マルーは思わず大きな声を上げた。その拍子にガンベルトを取り落としそうになると、顔のすぐ脇からひょいと腕が伸びて、器用にそれをキャッチする。
「お客様、商品は丁寧に扱ってください」
「あ、ご、ごめんなさいっ」
慌てて謝ろうと顔を向けると、睫毛が触れるほど近くに、眠そうな男の微笑があった。ふわりと香った甘い香りに、マルーはぎくりと硬直する。
「なんて、ね」
にっこりと笑って、男はそのままマルーの肩に手を置き、陳列棚にガンベルトを戻す。必然、身体の密着は高くなり、マルーは背中に感じる体温に、奇妙な居心地の悪さを感じながらも、愛想よく笑った。
「あの、勝手に見ちゃってごめんなさい」
「うん? いいよ、ここは商品を売るところだから。好きなだけ見て?」
気さくに言いながらも、男の手はマルーの肩から離れなかった。ガンベルトを棚に戻したまま、ついでのようにケースの中身を整え始める。マルーは至近距離にある男の顔を見ないように、正面のケースを見やりながら口を開いた。
「あの、ボク、欲しいものがあって」
「うん。何が欲しいの?」
「えっと…」
低い声が、マルーの耳朶に吹き込まれる。どうしてこんなに近づいてるんだろう。でも、手はケースの中をのんびりと動いて、品物を整理してるし…もしかして、ボクがここにいるから、邪魔なのかな?
そう思ったマルーが、できるだけさりげない風を装ってその場から離れようとした瞬間、男の手がぱっと離れた。何事もなかったかのように、他の棚に向かうその背中に、マルーはほっとしたのと、気まずい勘違いとを恥ずかしく思って、顔を赤くさせる。
「欲しいものは、ここにある?」
「え?」
男がくるりと振り返り、眠そうな微笑を浮かべた。マルーは慌てて、気持ちを切り替える。
「実は、ケースの中にはないの。でも、もしかして在庫があるんじゃないかと思って」
「何が欲しいの?」
「あの、鞭…ウイップホルダーとか、扱ってる?」
「あぁ…」
マルーの言葉に、男は何事か思い浮かべたように、くすりと笑った。それから、揺れるような足取りでこちらにやってくる。
「さっきの、彼に?」
「えっ? あ~…まあ、そんなところ…」
「内緒で買うんだ?」
濃いエメラルドグリーンの瞳が、面白そうに輝いている。マルーは赤くなりながら、その質問には答えずに、手近なガンベルトを指差した。
「あんな材質で、ないかな? できれば、赤い石が埋められてるのがいいな」
「う~ん…どうだったかな」
ゆっくりと、男がカウンターの奥へ消えていった。その瞬間、マルーはなぜかほっと息を吐く。別に、何も緊張することはないのだけど、何故か、この場にいるだけで落ち着かなくなる…薄暗い店内が、そんな演出をしているのだろうか?
程なく、男が箱を持ってやってきた。そこには、数種類のウイップホルダーが収められている。材質も色もさまざまで、マルーは目を輝かせてそれらを手に取った。
「いろいろあるね」
「まあね…一応、この辺じゃ一番の品揃えだから」
自慢するでもなく呟いて、男は上質の革を取り上げた。漆黒に近い風合いに、黄色い石がアクセントに散っているそれも、マルーの目には素敵に映った。
「こんな感じに、アクセントがあるといいんだよ」
「へえ、そうなんだ」
男の言葉にマルーが感心したように言うと、彼は再びカウンターから出てきて、マルーの傍らに立った。そしてそのまま、細い彼女の腰に、ウイップホルダーを巻いてゆく。
「ほら、こうして巻くとね…ちょうど、この辺に」
言いながら、男の指が、さりげなくマルーの腰をなぞって、左の腰骨あたりを突いてくる。ぎくりと身を竦ませたマルーが何かを言う前に、男はやんわりと微笑んで、ウイップホルダーの黄色い石を指差した。
「このアクセントがくるんだ。ちょっといいでしょ?」
「あ…うん、そうだね」
頷くマルーから、男はなんのためらいもなくぱっと離れた。マルーは、なんだかわからないけれど、奇妙に息苦しいような感覚に不安になりながらも、気持ちを落ち着けようと笑う。
「じゃあ、この、黒いやつを…」
「待って。石が赤くない」
「え? ああ…でも、ないなら仕方がないし」
男の言葉に、マルーは肩を竦めた。確かに、この意匠で石が赤ければ最高だけど、黄色でも十分綺麗だし、素敵。きっと若も気に入るな、と、密かに満足していたマルーに、男は軽く首を振った。銀灰色の長めの髪が、かさかさと乾いた音を立てる。
「俺の作った商品で、妥協されるのは我慢できないな」
「え…? あ、じゃあ、これ全部あなたが?」
驚いたマルーが男を見上げると、男は眠そうな瞳を柔らかく微笑ませて、魅力的なエメラルドの瞳を細めた。
「そう。アッシド・サイファのオーダーメイドって言えば、ここらじゃ結構有名だよ、可愛らしいお嬢さん」
その、悪戯っぽい言い方にマルーは好意を感じて、今までの緊張を忘れ去ったように柔らかく微笑んだ。
「ボクは、マルグレーテ。マルーって呼ばれてるんだ」
「俺はアッシュ。仲のいい子はみんなこう呼ぶから、そう呼んでくれる? マルー」
「うん」
気さくな口調に、マルーは子供のように頷いた。それから、店の中をぐるりと眺めて、心の底から感心したように言う。
「アッシュって、ホントにセンスがいいよね! 若も…あ、さっき一緒に来た男の子も、誉めてたよ」
「へぇ? 意外だなあ。嫌われてると思ったのに」
「嫌う? どうして? アッシュは若と、話だってほとんどしてないじゃない」
きょとんとしたマルーの、無防備な視線の先で、アッシュは眠そうな瞳を少しだけ細めて、苦笑に近いものを浮かべた。カウンターに肘をついて、気だるげに銀灰色の髪をかきあげる。
「たまにさ…会って3秒でお互い殺したいほど嫌い合う人たちっていうのも、いるんだよね」
「えっ? やだな、まさか! 若はそんなことしないし、そんなこと思わないよ」
奇妙な言い様に、マルーは僅かに気分を害したように唇を尖らせた。彼女の薄桃の小さな唇が、つんと突き出るのをじっと見やって、アッシュはすいと視線を流した。彼女の白い首、その下へと。
「…そう、だね。思うだけじゃ、殺せないよね」
「だから、思ったりもしないったら!」
「…ふふっ、冗談冗談。ところで、さっきの話だけどね」
さらりと髪をかきあげて、アッシュがウイップホルダーを手に、すいとマルーに近づく。内緒話をするように、彼女のふっくらとした耳に唇を寄せた。
「…もし君がお望みなら、最高のものを作ってあげる。超特価で」
「え?」
低い声音に、マルーがびくりと肩を震わせる。もう少しで、耳たぶに唇が触れるほど近い。アッシュの身体から、甘い香水と、男性特有の体温が混じった香りがする。
「あ…で、でも、ボクたちそんなに長くいられないから…」
首筋に鳥肌が立つような感覚に、マルーはぎこちなく後じさりした。目前のアッシュは、変わらず眠そうな微笑を浮かべている。変な態度をとったら、失礼だ…わかってるけど、身体が言うことをきかない。
何故だか、逃げ出したくてたまらない。
「大丈夫。明日の朝までにはできるから」
「えっ、そんなに早く?」
驚いて、マルーが目を丸くする。アッシュはすい、とマルーから離れて、彼女に威圧感を与えない距離までさりげなく下がった。
「ただ、条件があってね。俺は、使う人間に完璧にあったオーダーメイドに誇りを持ってるんだ。だから、常に愛用している獲物を預からないと、ダメなんだけど」
「愛用って…若の使ってる鞭?」
その言葉に、マルーの愁眉が翳った。あのバルトから、一瞬だって鞭を拝借するなんて、できるだろうか…理由を言えば、叶うだろうけど、出来たらこれは、内緒にして驚かせてやりたい。
迷っている風のマルーに、アッシュは人懐っこい笑みを浮かべて助け舟を出した。
「今使ってるものでなくても、スペアのものとかない?」
「あ…そうか。それなら」
「要は、彼の使っている鞭の重さや長さ、太さなんかを知りたいんだ。彼の骨格や体型なんかは、さっき会って大体わかるから、ジャストフィットを作る自信あるよ」
魅力的な言葉に、マルーは再度迷った。スペアの鞭…確か、若がベッドサイドに飾ってたはず。
「…うん、わかった。持ってこられるようなら、持ってきてみる。もし無理なら、その時は諦めるよ…」
「良かった。じゃあ、今夜、持ってきてくれる?」
「今夜? …あー、うん。わかった、努力する」
果たして、バルトの目を盗んでスペアを拝借し、艦内全員の目を盗んで、ひとりで街に戻れるだろうか…? だいぶ自信のない賭けだが、でも、こんなに素敵な贈り物は、滅多にないだろうから。
言い渋りながらも、ぐっと拳を握って覚悟を決めるマルーを眺めながら、アッシュは眠そうな微笑を浮かべて囁いた。
「…君はホントに、大事にされて育ったんだねえ」
「え? なあに、突然?」
驚いたようなマルーに、アッシュは意味ありげに沈黙した。
「……大事に、大事に、大切に。そういうもの、大好きだな。何でも、大切にすることはいいことだよね」
「……? うん、まあ…そうだね」
奇妙な言葉に首を傾げながらも、マルーは笑顔で手を振って、薄暗い店内を飛び出していく。
あとに残った男は、上機嫌に鼻歌を歌いながら、カウンターの奥へと消えていった。
街から戻ったマルーには、なかなかチャンスは訪れなかった。
バルトの目を盗んで、彼の居室に忍び込み、スペアの鞭を拝借する…誰よりもバルトに近しい立場のマルーだからこそ、それは比較的簡単な任務のようにも思えたが、調達してきた物資や、仲間達との雑談からなかなか解放されなかった彼女は、加えて、自分がしようとしていることに少なからぬ後ろめたさを感じていた手前、無意識に愚図愚図と時を過ごして。
「…結局、こんな時間だし……」
はあ、とため息をついて、マルーはバルトの自室に続く回廊を歩いていた。
時刻は日没過ぎ暫し。つい先ほど、順番通り夕食を摂った時には、バルトの姿は見えなかった。恐らくブリッジでシグルドと打ち合わせをしているか、ギアハンガーで采配を振るっているか、自室でくつろいでいるか。
できれば前者二択がいい。それなら、ちょっと部屋に忍び込んで、さっとスペアを拝借して、そっとユグドラシルを抜け出して、ぱっと街へ向かうことができる。
でももし、バルトが部屋にいたら。まず、スペアの鞭を借り受ける、その理由を追求される。それから、不審を買ってさらに突っ込まれて、きっと、内緒の贈り物なんて夢のまた夢…悪くすれば、絶対に、ユグドラシルから出してもらえない。
これがもし、フェイやビリーや、他の仲間達ならば、きっと苦労は少ないだろう…そんなことを思いかけて、マルーはぶんぶんと首を振った。
バルトにとって、自分はまだまだ、手のかかる子分。守ってもらって、庇ってもらって、やっと追いつく半人前。だから、行動のひとつひとつに監視の目が光る…それは、しょうがない、わかってる。
情けないけれど、マルーは自覚している。バルトにとって、自分はまだまだ『信用』出来ない人間なのだ。精神的な支えにはなれても、肉体的な戦力や、労働力にはなり得ない。それでどうして、無茶が許されるだろう?
だから、正面切って鞭を借りることも、夜の街に出かけることも出来ない。嘘をついてごまかして、目を盗んで行動するのは卑怯かもしれないけど、今の自分には、バルトの説得をするだけの力がない。強さがない。
改めて不甲斐ない事実を噛み締めながら、マルーは蒼い瞳をつと伏せた。
「はぁ…何とかして、ごまかさなくちゃなあ…」
不本意そうに呟いて、マルーはバルトの居室の前で立ち止まった。手には、ガンルームでメイソン卿に作ってもらったアイスティのグラスがある。万が一、バルトが部屋にいた時は、これでお喋りを楽しみにきた…そんなポーズを取るために。
一か八かの賭けのような心境で、マルーは来訪のインターホンに指を預けた。
「…若?」
中からの応答がない。駄目押しとばかりにそっと声をかけてから、マルーは瞳を煌かせた。それから猫のようにしなやかに、扉を開いて部屋に入る。
部屋は無人ではなかった。
「っ」
驚いて息を止め、マルーは危うく取り落としそうになったアイスティのグラスを水平に戻す。小ぢんまりとした部屋の隅にあるベッドに、大きな身体が横たわっていた。
「わ、若…? いたんだ、ごめん、あの」
決まり悪く囁いて、マルーは作り笑いを浮かべる。応答がなかったのにのこのこ部屋に入ってきた言い訳が続くはずだった唇は、その時聞こえてきた規則正しい寝息に気づいて、ぽかんと開く。
ベッドの上で、くつろいだ格好のまま仰向いているバルトは、信じられないほど無防備に、眠りの世界の住人になっていた。
マルーはテーブルの上にアイスティの盆を乗せて、そうっとバルトに近づいた。野生の虎のように敏感なはずの従兄は、珍しく、その気配に気づいた風もなく、平和そうに寝入っている。片目を塞ぐアイパッチは外され、長い黄金の髪の下、子どもの頃から変わらない寝顔があった。
無意識に、マルーは優しい微笑を浮かべて、バルトを見下ろしていた。こんな風に無防備な彼を見るのは本当に久しぶりで、そのことが掛け値なく嬉しい。目を開き、立ち止まることなく進む彼は、どこからどう見ても一人前の男だが、こうして自分の視線の下で、すうすうと寝息を立てる彼は、まるで6歳の頃に戻ったように無邪気で、マルーの心を和ませた。
バルトのすぐ手の届くところに、愛用の鞭があった。その上の壁には、スペアがいくつも。手を伸ばせばすぐ届くけれど、マルーはどうしても、その場を離れがたくて、ついバルトの寝顔に見入ったままだ。
浅黒い顔は精悍だった。けれど、太い眉を下げ、案外長い睫毛を閉ざし、厚い唇を半開きにして胸を上下させる様は、マルーの胸を疼かせる。それが、母性本能と呼ばれるものに近いことに彼女自身気づいていない。
それからふと、彼の腰の辺りでくしゃくしゃになっているシーツに気づいて、眉を上げた。
「あ~あ、何て寝相だよ」
呆れながらも、マルーはシーツを直そうと手を伸ばした。このまま無防備に寝入っていては、さすがに風邪をひくかもしれない。かいがいしいマルーの動作に、すると何かを感じたのか、バルトは眠りながらもマルーの腕を掴み、自分の方へと引き寄せた。
「わ、わっ!? こ、こら!」
突然のことに、マルーは思わず叫んだ。けれど、奪われたバランスはやすやすと戻らず、慌てて体勢を戻そうとしたが、引き寄せられる力が思いのほか強くて、そのまま抱きすくめられてしまった。
自分の広い胸に、すっぽりと包むようにマルーを収めたバルトは、目を瞑って幸せそうに息を吸い込んだ。肺いっぱいに、甘い香りが広がる。幼い頃から傍にある、馴染み深い香りを認識すると同時に全身の力が抜け、深い安堵が広がった。
「ん~……マルー…」
満足そうにそう呟いた後、すぐにすぅすぅと寝息をたて始める。
「わ…若?」
あまりにも確固とした一連の動作に、まさか起きているんじゃないかといぶかしんだマルーだったが、自分の耳のすぐ傍にある鼓動は静かに深く、上下する胸は緩やかな寝息のリズムを刻んでいる。
「に、匂いで判断しないでよ…犬じゃないんだからさ」
顔を赤らめ、不満げにボヤキつつも彼女の顔ははにかんでいた。太い腕の戒めは、立ち上がることを躊躇わせるほど強く、痛みを感じさせない程度に優しい。すっぽりと身体中を包まれる感覚に、マルーはどきどきと胸を逸らせながらも、中心から湧き上がる甘い安堵にため息をついた。
これ以上ないくらい近づいた暖かい身体から、バルトの香りが立ち上る。日向の匂いに目を瞑った。子犬同士のように鼻を寄せ合い、相手の気配に喉を鳴らす。
この腕の中が、世界中で一番安心できる。
「……あ」
ふと、閉じかけていた瞼を上向けた。バルトの香りと温もりを間近で感じて、昼間のことを思い出した。
あの時…背中越しに感じた体温は、穏やかで甘く、決して害意のあるようなものではなかったけれど…どうしてだか、逃げ出したくなるほど不安を感じた。
今、こうして身体のすべてをバルトに囚われていても、感じているのは安堵と充足感だけであり、あんな風に背筋がざわめく気配もない。逃げ出したいなんて欠片も感じず、できることならこのままこうして、しばらく温もりに包まれていたいと…
「…って、そういうわけにもいかないか…」
小さくため息をついて、マルーはそうっと、バルトの顔を窺った。相変わらず平和そうに寝息を立てる彼の顔を間近に見つめ、優しく微笑む。
静かに重い腕から抜け出して、上半身を起き上がらせた。もつれた棗の前髪を軽く整えながら、両手を投げ出すバルトを見下ろして、苦笑する。
「…風邪ひくんじゃないぞ」
小さく囁いて、その唇をそっと額に寄せた。温もりから離れる時は、己の半身を切り取られたような感傷に、無性に切なくなったけれど、そんな自分を振り払うように、軽く頭を振って立ち上がる。
一番目立たない場所にあったスペアの鞭を手にとって、マルーは部屋の扉へ向かった。テーブルに置いてあったアイスティを持ち帰ろうかしばし迷い、そのままにしておく。目が覚めたあと、きっと喉が乾いているだろうから。
ちゃんとシーツをかけてやったことを確かめてから、マルーは足音を忍ばせてバルトの部屋を後にした。暖かな温もりが広がった胸を抑え、満ち足りた微笑を浮かべながら扉を閉める。
沈黙の訪れたバルトの部屋で、碧玉の輝きがすうと生まれた。
「………」
注意深く息をつめ、回廊の向こうに人の気配がなくなるのを十分に待ってから、無造作に起き上がる。もつれた金の髪をさらにかき混ぜながら、バルトは嘆息をつくために息を吸い込んだ。
甘い残り香が肺を満たし、吐き出すことを無意識に拒んだ正直な身体が、ぐっと息を詰める。
「…ちっ…あの馬鹿……」
腕に残る柔らかな温もりを意識して、バルトは不機嫌そうに呟いた。辛うじて残っていた自制心が、抱き寄せた身体が離れていく瞬間、再び捕らえようとする本能を制していた。
あの瞬間、互いに通っていたのは、肉親の情に似た深い愛情。少なくともマルーの方はそうだ。でなければ、男の身体に抱きすくめられて、何の抵抗も見せずすべての力を放棄して、胸にもたれるなんてあり得ない。
そして、バルトの方もそうだった。少なくともあの瞬間は、家族のように清らかに、彼女の柔らかな熱を愛した。
けれど。
「……」
無造作にアイパッチを掴み、慣れた動作で片目を塞ぐ。鞭を腰に、ブーツを足に、金の髪を払って立ち上がったしなやかな身体中に満ちていたのは、もはや家族の情ではなく。
ひとりの男として、この胸に戻すべき女を追いかけるために、バルトは部屋を後にした。