You're My Only Shinin' Star
『グルド、これを持っておけ』
『…伯父上、これは…?』
日に焼けた一枚の紙。女性の…
いや、母上の肖像画…?
『これは『写真』というものだ。生前のシャリーマの姿が、そのまま写し取られている』
『写真…』
『この辺りでは珍しいものだがな。…昔、シャリーマがある国の者に撮って貰った、唯一の品だ。彼女を埋葬する時に、ともに埋めようとも考えたのだが…』
古ぼけた女性の微笑みは、自分が知っている母親よりも数段若々しかった。
未だ少女といった感を残す、あどけない微笑み。
『写真』とやらを撮る者へ向けた、純粋な好意。
―――父、が………
『お前がこのようなものを手元に置いておくのは……恐らく、シャリーマの望むところではあるまいが…』
『伯父上…』
『これからお前は、王太子付近衛騎士官としてアヴェへ赴く。この写真を…持っていくか否かは、お前が決めなさい』
『………』
伯父の手から渡された、古ぼけた写真。
あどけない母の微笑み。彼女の思い出。
自分の知らない…娘だった母の面影。
今はもう見る事の出来ない、彼女の眼差し。
私はあの時、その写真を―――
Y o u ' r e M y O n l y S h i n i n ' S t a r
ユグドラシルの機体は、潜行開始から約一時間後に、予定されていたサルガッソー深海ポイントに達していた。
途中、何度か海流の暴走に機体ごと翻弄され、あわや沈没かという危機的状況にも見舞われたが、クルーたちの決死の働きもあり、ユグドラシルは徐々にではあるが、その海流の猛威を体得しつつある。
しかし、通常の海流と違い、一定の法則に則ったものではなく、そのパターンを解析するだけでも大分時間を取られた。
その上、小一時間をかけて収集したデータでさえも、まだ完全なパターンを掴むには至らず、結局は僅かな情報と予測可能な条件を適応させ、はなはだ頼りない海流予想をベースに、ユグドラシルの機体の安定を図ることが精一杯であった。
その構想を打ち立てた男は、さすがに自信のなさそうな顔で、右手の中指で眼鏡を押し上げる癖を見せた。
「今の段階では、これ以上のバランサーの調整は不可能です。予測通りにいけば、この海流が収まるまで、あと50分少々。出撃ならば、今が適当でしょう」
「よし、解った。行くぞ、フェイ!」
タムズで手に入れた気休め程度の海図を睨んでいた若が、ぐっとまなじりを上げる。その傍らでは、黒髪の青年が精悍な顔つきで頷いた。
「シグ、もしも俺たちが50分で戻らなかったら、一旦海流の影響のない地点まで後退し、機体の安定を図れ」
「承知しました。それでは、緊急通信経路はX-001でお願いします」
「おう」
いつも通り、無駄を嫌う若の作戦指示が終わると、足早にブリッジを出るギア搭乗員を追いすがら、ちらりともの言いたげにその隻眼を滑らせた。
一瞬の視線の交錯の後、私は口元に浮かぶ微笑を深める。
「……マルーさまの事でしたら、ご心配なく。後で、様子を見ておきます」
「……任せた」
多分に照れを隠しつつ、若はすぐさま身を翻し、ブリッジを後にした。残されたクルーに簡単な指示を出し、私もその後に従う。
今回の出撃は、深海という悪条件である。タムズの好意で、水中戦にも対応できるギア装備にはなっているが、それでも万が一の事ともなれば、地上における危険性の比ではない。
普段は滅多に顔を出さないギアの出撃に、こんな時に限って足を向けるのは、縁起でもないと言われるだろうか。
しかし、それは私の杞憂であったようで、ギアハンガーにはすでに、出撃要請のない面々までもがほとんど顔を出していた。
その中に、見慣れたオレンジ色の色彩を見つけ、私が驚いた瞬間、予想通りの怒号が上がる。
「馬鹿野郎! 具合が悪いヤツが、こんなとこ来んじゃねーよっ!」
「もう、へーきだもんっ」
「何が平気だ、真っ青なツラしやがって! いーからお前は、さっさと部屋行って寝てろ」
「大丈夫だってば! ボクのことよりも、若は自分のこと心配してよねっ」
「あぁ? 俺は別に…」
「うそうそ! 結構船酔いしてるの、隠してるくせにっ。ほら、このお薬飲んで。気休めだけど、ないよりマシでしょ」
仮にも、予断を許さない危地に赴くパイロットたちの前をして、いつも通りの口喧嘩が展開されている様に、私は呆れ半分、安堵半分で思わず苦笑してしまう。
「いーって。んなもんあるんだったら、お前が飲めよ」
「ボクは大丈夫だよ。若は今から出撃でしょ、念のために…」
「いーっつーの!」
「若」
長年培われてきた絶妙のタイミングで、私は愛すべき主君と、その従妹君との口喧嘩に割って入る。
直情径行の我が君は、案の定不満一杯の様相でこちらを睨んだが…解っているのか? 今、君の目の前で、君に拒絶された姫君が、どれほど切ない顔をしているのか。
まだまだ甘い、と口内で呟き、私は慣れた口調でこう言った。
「若、せっかくのマルーさまのご好意です。素直に薬を飲んでいきなさい」
「シグ!」
「そのかわり、マルー様には私が後ほど良く効く薬を差し上げます。いいですね、若」
穏やかにそう言いつつ、こちらに向けられた隻眼の眼差しには、有無をも言わせぬ強さを見せて。
結局は、少女の上目遣いの哀願に折れたのか、しぶしぶといった体で薬とコップを受け取る、素直な主君がそこにいた。
「……サンキュ、な…マルー」
「…うん、気をつけてね、若…」
コップを受け取り、マルー様は精一杯明るく微笑んで、若を送り出す。若は一瞬後ろ髪をひかれるようにしながら、すぐに踵を返して、深紅のギアへと乗り込んでいった。
マルー様は、しばらくの間その光景をじっと見守っていた。しかしほとんどの者がドッグから引き上げた頃、ようやく私を振り返った彼女の表情は、不安の欠片もおくびに見せない、明るいものに変わっていた。
「まーったく、若ってばダダッコなんだからなぁ、もお!」
おどけたように言う彼女の、決していいとは言えない顔色に眉を寄せ、私はその柔らかな茶褐色の前髪に指を滑らせる。
案の定、電光にさらされた顔色は青白く、困ったようにこちらを見上げる少女の唇には擦れた色が灯っていた。
「…やはり、ご無理をされましたね」
幾度となく訪れたユグドラシルの激震に、ギアにも乗らず、ましてやここ数年は地上での生活を常とされていた少女が耐えられるはずもなく。三半規管の発達を促されたギア搭乗員ですら根を上げるコンディションに、しかし愚痴の一つ、弱音の一つもはかない少女に、私はそっと目を伏せた。
「…えへ。ちょっと、ツライ…かな。でも大丈夫、少し休んだらよっぽど良く…」
そう言って無理に微笑もうとする彼女に、諌めの言葉など意味もないことを、私は長年の経験で知っていた。
無理を無理とも見せない気丈な彼女を諌めるのは、いつでも言葉ではなく行動だ。
「…うわっ?!」
身構えさせる余裕すら与えず、私は彼女の細い身体を軽々と抱き上げた。さすがに、幼い頃よりは重みの増したその身体だが、それでもこの腕一本で楽に支える事ができる。
「しし、シグっ?!」
「足元がふらついていますよ、マルー様」
「えっ、そ、そんなこと…ねえ、いいよ降ろしてよ、シグだって疲れちゃうよ」
「心配はご無用です。それに先ほど、若よりマルー様を頼まれましたので」
「えっ?」
大きな瞳が、目前できょとんと見開かれた。その反応に苦笑して、私は彼女を抱き上げたまま歩を進める。
「このような状態のマルー様を一人歩かせ、もしか倒れさせでもしたら、シグルドが若に叱られてしまいます」
「そ、そんなことないよっ! ほら、もうだいじょうぶっ。ね?」
必死に私を止めようとするその可愛らしい反抗に、私は少々意地の悪い笑みを浮かべて、ぴたりと視線を合わせた。
「…いいえ、これは罰です」
「罰?」
「そう…マルー様が、ご自分の身体を厭われず、無理をしてシグルドに心配をかけた、罰です。もしもマルー様が、それを悪いとお思いなら、このまま黙ってシグルドに抱かれていなさい」
「………」
その言葉に、案の定マルー様は丸い頬を染め、小さく俯く。それから消え入りそうな声音で、一言『ごめんね』と呟いた。
「謝られるよりも、おとなしくシグルドの肩にもたれてくださった方が、何倍も嬉しいですよ…」
「……うん」
素直に頷き、おずおずとその身を預けるマルー様に、不覚ながら微笑みを打ち消す事が出来なかった。
恐らくマルー様も、この状態を誰かの目に触れられる事はお厭いになられるだろうが、それは私も同じこと。特に、あの底意地の悪い旧友になどには、このやにさがった自分はとても見せられないだろう。
そんな事を思いながら、私は自室へと向かう歩調を速めた。
自室の扉を開け、慣れた手つきで室内に電飾を落とすと、マルー様は私の腕の中ではしゃいだ声を上げられた。
「うわぁ…シグの部屋、初めてだよ」
「ようこそ、マルー様」
私は少々の名残惜しさを感じながら、彼女の身体を地面へ戻す。地に足をつけた彼女は、とことこと小さな足取りで室内を眺めまわった。
「えへへ、雰囲気は変わってないね、全然」
「そうですか?」
もとより、自室などはただ寝に戻っているような状態なので、余分な調度品の類も一切ない。その昔、マルー様がユグドラシル一世で生活されていた頃と、増えたものすら一つもないのだ。
いや……ひとつだけ。
「あれ? これって……」
その、たったひとつの異物を目ざとく見つけられたマルー様は、簡素な書き物机の上に置いてあったそれに近寄っていった。
メイソン卿の計らいで、茶器の類は充実している。私はここへ来る道すがら調達してきたポットを片手に、ティーポットに茶葉を入れながら口を開いた。
「…アジトより、持ってきていたのですが。ずっとその事すら忘れていて、昨日偶然見つけたのです」
「この人…シグの、お母さん?」
「はい」
頷いて、私は視線をマルー様に転じた。マルー様は古ぼけた写真に手を伸ばしかけ、一瞬ためらう。
「…どうぞ、手にとってご覧下さい」
「あ……うん」
私の言葉に、マルー様は少しだけばつが悪そうに微笑むと、古ぼけた写真をそっと手にとる。
「…綺麗な人…シグに似てるね」
「え?」
…という事は、間接的に『綺麗』と誉められたのだろうか?
私が複雑な面持ちでティーポットを揺らしていると、マルー様はくすっと微笑んでその肩を竦められた。
「シグの銀髪は、お母さん譲りなんだね」
「いえ…父も、銀の髪でした」
「あ…そっか」
一瞬の沈黙。…私の父が何者であるか、この少女はもう、知っている。
知っていて、必要以上にそれを口にはしない。この方なりの、思いやり。
「肌の色は……お母さんだね。鼻筋の通ってるのもそうかな。全体の印象で言えば、やっぱりお母さん似だよ、シグ」
「そうですか?」
造作などは、母よりも父に似ていると思っていたのだが…。
私のその気持ちを汲んだのか、マルー様は悪戯っぽく微笑んで、こちらを見つめてきた。
「ふふ…この、優しい表情なんて、そっくり! それに、どこか神秘的な感じもするし…良かったね、綺麗なお母さんに似てて」
「……綺麗、ですか……」
「あ、綺麗、はないか。シグ、男の人だもんね! ん~…でもやっぱ、綺麗かなっ」
そう言って可愛らしく微笑むこの方に、あなたこそ、母上の美しさを見事に受け継がれていますよと、言ってしまえれば。
しかし恐らくその言葉は…私の母の写真を見て、少なくとも心の奥に浮かび上がった亡き両親への思慕をかきたてるだけだろう。私はそう判じて、何も言わずに紅茶を差し出した。
「あ、ありがとう」
「このお茶と、この薬を一緒に飲んでください。これは、シグルドの故郷に古くから伝わる秘薬で、万能ですから酔い止めにも効果があるでしょう」
「うん、ありがとう、シグ」
そう言ってマルーさまが薬を受け取られたとき、直接ブリッジから繋がっている通信管よりヒュウガの声が上がった。
<シグルド、すみません、ブリッジまで来てください>
「ヒュウガ?」
一方的な通信に私が視線を転じると、マルー様が言った。
「シグ、ボクはもう平気だから、早く行って」
「はい。では…」
「あ、シグ」
「え?」
踵を返そうとした時に声をかけられ、私が視線を返すと、マルー様は母の写真を手にしながら淡い微笑みを浮かべていた。
「もう少し……ここで、お母さんの写真を見ててもいい?」
「……結構ですよ、マルー様。ブリッジが落ち着いたら、また来ます」
「うん。行ってらっしゃい」
その暖かな声に後押しされて、私は自室を後にした。
妙に機嫌のよい自分を自覚しながら、努めてその表情を改めつつ、足早にブリッジへと向かう。
訪れたブリッジでは、少しばかり嫌味な微笑みを浮かべたヒュウガが、案の定楽しそうに声をかけてきた。
「やはり、自室に居ましたね。お姫様の様子はいかがですか?」
「…まさか、無駄口を叩きに呼び出したんじゃないだろうな、ヒュウガ」
「違いますよ。まあ、邪魔しただろうなあという遠慮はありましたがね」
飄々とした男の言葉に、私は無駄な反論は控えた。海流のデータを読み込んでいたクルーに、直接声をかける。
「何かあったのか」
「それが、どうやら先ほどシタン先生が予測した海流時間に、若干のズレが生じてきたようなんです」
「ズレ? 誤差修正は」
「今やってます。ですが、相変わらず無茶苦茶なパターンで、なかなか……」
「最悪、海流の変動を予測して、先に避難するという手もありますがね。その際は、潜行しているギアに連絡を取らねばなりません。しかし、果たしてこの荒れた流動のただ中で、こちらからの通信を拾ってくれるかどうか…」
ヒュウガの言葉に、私はしばし黙考した。
「若たちが潜ってから、何分経過した」
「現在…37分10秒。予定では、そろそろ戻ってくる頃です」
「各自、海流の変動に備えろ。2分50秒後までギアが帰還しない場合は、一旦K地点まで後退し、バランサーの調整、その後は再び潜航。各々準備にかかれ」
「イエッサ!」
クルーたちの応答が揃った。
その、瞬間
ごごごごごご………っ
「うわっ?!」
まともに真横から振動を受け、ブリッジのクルーが騒然とした。
「海流だ! ちっ、早すぎる!!」
私は思わず、手近にあった椅子に手を伸ばし、バランスを取る。全体が斜めに転じ、床を転がる者もいた。
「落ち着け! この程度なら操舵で乗り切れる! 海流の方向は変わっていない、衝撃に備えて各自配置につけ!」
私の叱咤に、クルーの迅速な反応が返った。思った通り、衝撃はその一度に留まり、水平に返ったブリッジ内がにわかに動き出す。
海流の流れを計算し、僅かの時間だがバランスの戻ったユグドラシルだったが、その瞬間クルーの声が弾けた。
「潜航ギア、帰還! 前方より接近中!」
「よし! 至急収容準備、ギア収容後は、K地点に退避、海流の流れに沿って浮上準備!」
「イエッサ!」
一時の騒然とした場面が無事に好転し、私は思わず安堵の嘆息をついた。傍らでは、ずり落ちた眼鏡を直すヒュウガが、これまた胸を撫で下ろしている。
「ひゅぅ~、危機一髪ですね。ギアの帰還が後数分遅れたら、解りませんでしたよ」
「ああ…」
「それにしても今の揺れは大きかったですね…皆さん、大丈夫でしょうか」
ヒュウガの言葉に、私ははっと目を見開いた。そしてそのまま、急いで踵を返す。
「ヒュウガ! 後は任せた!!」
「あ…シグルド?!」
ヒュウガの驚いたような声を背に、私はユグドラシルの総指揮を任された副官にはあるまじき行動に準じた。
何百という人間の命を預かる者ではなく、一人の少女の身を案じる、ただの男がそこにいた。
「マルー様!」
自室の扉が開くのももどかしく、私はそう叫びながら足を踏み入れた。
室内は雑然としている。もとより調度品の類が少なかったのは幸いしていたが、それでも倒れたテーブルや椅子の散乱を見るにつけ、その只中にいた人の身が案じられた。
「マルー様! どこです、マルー…」
「し、シグ……」
地面近くから漏れたその声に、私ははっと視線を転じた。見ると、丁度倒れたテーブルとベッドの間に挟まれるようになりながら、オレンジ色の法衣が覗いている。
「マルー様!!」
血相を変えて、私はそちらに駆け寄ると、テーブルの足を掴んで力任せに引き上げた。
一瞬、少女の身体がその重さに圧迫されていたのかとぞっとしたが、どうやらテーブルは法衣を挟んでいただけのようで、胸を抱えるように身を曲げたマルー様は、恐る恐る顔を上げてこちらを見た。
「あ……シグぅ……」
「マルー様…」
ほっと安堵の笑みを浮かべる少女に膝を折り、私はそのまま彼女を抱き上げようと手を伸ばし…
「あっ……」
腕を掴もうとした瞬間、湿ったその感触にマルー様が声を上げる。驚いてそちらを見やると、濡れた白い肌がほんのり赤く染まっていた。
「マルー様?! まさか、先ほどの紅茶で…」
「あ…大丈夫、平気。このくらい…」
「何を…っ、見せてください、マルー様!」
そう言って、私が濡れていない方の腕を引いた瞬間、彼女の胸から一枚の写真が落ちてきた。
「あ……っ」
瞬間、マルー様がその写真に手を伸ばし、僅かに湿ったそれに眉を寄せる。
「ごめん……っ!! シグ、ごめんなさい! 写真……守ったつもりだったんだけど、濡れちゃった…」
「写真…? 守った……?」
マルー様の言葉に、私は母の写真と彼女の腕を見比べ……全てを悟った。
私の表情が変わったのを目にし、マルー様は必死になって私の腕を掴み、それを揺する。
「ホントに…っごめんなさい、ごめんなさい、シグ! ねえ、早く写真を拭こう! まだ、シミにはならないよ、シグ……っ」
そう言って、私の手から写真を取ろうとする少女を、私は無言で制した。そしてそのまま、手にした写真を投げ捨てて、華奢な彼女の身体を抱き上げる。
「きゃ! …っし、シグ…っ?!」
驚きと不安で一杯に目を開け、マルー様は私の眼前で唇を震わせた。私は無言で個室に設置されたシャワールームへ向かうと、湯船の縁に彼女ごと腰を降ろし、シャワーのコックを捻る。
「つめた…っ」
赤く色づいた腕に、そのまま冷水を浴びせながら、私は彼女の身体を強く押さえつけていた。彼女の腕を掴む自分の腕が、見る間に水気を吸って重くなる。
「シグ! やだ、濡れちゃう…ボク、一人でするから! シグ、風邪引いちゃうよっ」
「………」
「シグ! ごめんなさい…怒ってるの? ごめん、本当にごめんなさい、ボクの不注意で、大切な写真を…っ」
悲鳴のような彼女の声に、私は掴んでいたシャワーを投げ捨てて、そのまま彼女の身体を、背後からきつく抱き締めた。
「怒っていますよ!! ……あなたが、ご自分のお身体を大切になさらないことを…シグルドが、どれほど辛く思うか、解らないのですか?!」
「……っ!」
華奢な首筋に顔を埋め、私は目の前が真っ赤になっているのを自覚していた。
みっともないと解っている。いつもの自分ならば、こんな風に取り乱しはしない。
しかし……あとどれほどの言葉を募れば、その身に毛先ほどの傷もつけて欲しくはないのだと、解ってもらえるというんだ!
「写真など…どうでもいい! 大切なのは、今ここにいるあなただ! 私がこの世で一番大切に思っているのは、あなただという事が、何故解らないのですか?!」
彼女の肩にすがりつきながら、私がくぐもった怒声を上げる。後にも先にも、こんなに激情を孕んだ声を、この方に聞かせることはないだろう。
シャワーから流れる、冷水の噴射音だけが、静まり返ったシャワールームに響いた。
それからどれほどたったのか…彼女の身体を抱きしめていた私の腕に、そっと温かい指先が触れる。びくりと反応した私に、柔らかな声が響いた。
「……ごめんね、シグ…ありがとう」
「……マルー様……」
「…ボク、正直に言って、怖かったの…シグの大事な写真、守りきれなくて、怒られるんじゃないかって。……ううん、シグはそんな事しないの、本当は解ってる。解ってたけど…ボク、他の誰でもない、シグが大事にしているものを、守りたかったの…悔しかったの…ごめんね、シグ…」
そう言って、きゅっと私の腕を掴む、その狂おしいまでに愛しい温もりに、私はようやく…今更のように、心が落ち着いていくのを感じていた。
静かに、抱きしめていた腕を緩める。マルー様はそっと身を捩じらせ、俯いた私の瞳に、その大きな碧玉を重ねると、細い指先を私の頬に滑らせた。
「……シグ、大好きだよ」
「……私もです…だから、マルー様、お願いですからどうか、ご自分がシグルドに大事にされているという事を、忘れないで下さい…でなければ、シグルドは一体どれほどのものから、あなたをお守りしなければならないか…」
低い私の呟きに、マルー様は小さく苦笑して、悪戯っぽく頷いた。
「はぁい、シグ。……もう、しないよ」
「…約束です」
「うん。約束」
そう言って、小さな少女が自分の小指を、無骨な私の指に絡めようとした瞬間、私室の扉が勢いよく開け放たれた。
「シグ! マルーを見なかった…って、マルー! 何してんだお前!」
「若!」
するりと指を滑らせて、マルー様は私の腕の中からいとも簡単に飛び出して行った。
その反応に苦笑を浮かべ、私は流しっぱなしだったシャワーのコックを捻る。見れば、服の至る所は水浸しになっていた。
「若! 怪我はない? だいじょぶだった?」
「俺のことはいいんだよっ! って言うかマルー、何だその格好は?!」
「あ~…うん、ちょっと、ヤケド…」
「やけどぉ?!」
白い腕を捲り上げ、ほとんど全身に水気を吸ったマルー様の状態に、若は厳しい目を滑らせて、ギっとこちらを睨んできた。
……はいはい。お叱りは全て、受ける覚悟ですよ、若。
何しろ、あなた直々に『任せる』と言われたにも関わらず、この惨事だ。…これは久々に、立場が逆転の説教を覚悟しなければならないな。
「あっ! そんな事よりも、シグ、拭く物拭く物!!」
マルー様は、そんな我々の雰囲気にはまったく気付かれる事なく、私が投げ捨てていた母の写真を手にとると、パタパタと駆け戻ってきた。
「あ、はい」
手近にあったタオルを差し出すと、マルー様は丁寧に写真を拭き取られ、僅かに皺っぽくなってしまったそれを、いとしそうに撫ぜる。
「……端っこの方だけ、ちょっとしわしわになっちゃった…」
「構いませんよ。どうせ古い写真です」
「……そうだ! ボク今度、フォトスタンドをプレゼントするね!」
そう言って、にっこりと微笑むマルー様に、私も極上の微笑みを返し…
やはり、不機嫌そうにこちらに向けられた主君の視線に、僅かに肩を竦めた。
『伯父上、今はこの写真、ここへ残していきます』
手渡された写真を伯父の手に返し、私はそう言った。
『……そうか』
伯父は何も問わず、ただ一つ頷くと、返された写真を大事そうに仕舞う。
『……私は、アヴェの王太子付騎士官になりますが、そこが終生の地とはまだ解りません。この先、この骨を埋めるべき終生の地…共に在る者…そんなものを見つけた暁には、この写真を頂きにあがります。それまで、伯父上が預かっていてください』
『……そうか。解った、責任もって預かろう』
そう言って、幼い私の頭を撫でた伯父の微笑みは、今も忘れない。
それから私が、伯父との約束を守り、母の写真を受け取りに行ったのは、亡き父の国より至宝を二つ、この手に取り戻した暁……
ここが終生の場所、そして終生遣えるべき主君と心に決めた後のことだった。
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