It's a sweet nightmare
それは確かに悪夢だった
甘い甘い苦い切ない
悪夢だったけれど
同時に誰かの希望でも、ある
I t ’s a s w e e t n i g h t m a r e
珍しく予定を前倒しでこなそうなんてするから、こんなことになるんだ。
俺は、がりがりと自分の後頭部をかきむしりながら、ギア・ハンガーの扉をくぐって、艦内に進んだ。
「あれ? 若、整備は済んだんですか?」
俺の姿を見かけたクルーが、奇妙な顔を向ける。言外に『何でこんなところにいるんだ』的な不満を見つけて、俺は無意識に不機嫌な顔になった。
「あー…なんか、思ったよりも軽くすんだんだよ」
「へぇ…あ、じゃあ」
続く言葉を予想して、俺はさらに不機嫌になる。
「行かねえよ」
こいつも、あの時ブリッジにいたのか。訳知り顔のクルーは、俺の返答に「そうですかぁ」と呟いて肩を落とした。
なんでこいつが肩を落とすんだ。落ち込みたいのは俺の方だろうが。
そう思いながらも、クルーに余計な気を遣わせちまった手前、強くも言えずに俺はひらひらと手を振って歩き出した。
…………あぁ。久~~~~~しぶりに、な~~~~~んも予定がねえ。
本当ならこんな時は、普段なかなか暇を見つけられねえ俺に、たまには顔を見せろだの、話をしにこいだのと、やんわりおねだりしていた従姉妹の顔を見ることが、ここしばらくのパターンだった。
まあ…たまにはな、あいつの機嫌をとっとかねえと、あとでうるせえし。それでなくとも、俺が見てねえと思ってあいつ、無理して人のためにばっか走り回るような奴だからな。そーゆー時に、しっかり釘を刺しておかねえと、こっちの気が散ってしょうがねえし。
それに…仕事の合間を縫って会いに行ってやると、あいつ、めちゃくちゃ嬉しそうに笑うし…。
いや、別に、その顔がどうとか言うわけじゃねえけど! だけど、見せてくれるもんを見にいかねえって手もねえだろうし、別に何がどうってわけじゃねえけど、その顔見ると疲れが吹っ飛ぶってのも、あながち気のせいってわけじゃ…
…いかん。苛々がピークに達してきちまった。
こんなことなら、さっきの奴も言っていたように、あいつらにくっついてけば良かったかな…
そんなことを思いかけ、俺ははたと我に返った。次いで、激しく首を振る。
「いやいやいやいや! 冗談じゃねえ、誰が行くか!」
『ねぇ、若も行こうよ?』
記憶の中、つい先ほど見た、マルーのおねだり顔が浮かんで消える。
ここ数日の連戦が祟って、ゼノギアスを筆頭に何機かのギアが精密整備を要したために、俺たちは今、ニサンのギアドッグに身を寄せていた。
久しぶりに帰ってきた故郷がよっぽど嬉しかったのか、マルーは普段滅多に顔を見せないブリッジまで出張ってきて、俺とシグの打ち合わせを大人しく拝聴していた。
隙あらば、おねだりをしようと言う意気込み満点の顔で。
そんなマルーの様子に、気がつかなかったわけじゃねえけど、俺は元々上手いこと暇を見つけて、あいつをニサンの街に連れ出そうと思ってたから、わざと素知らぬふりを通していた。
そしたら案の定、ニサンの大教母の機嫌を取ることにかけては他の追随を許さない、俺のありがた~い副官殿が、水を向けたってわけだ。
『それでは、午前中の簡単な打ち合わせが終わりましたら、後は自由時間と言うことで良いですね、若』
『ん~』
ぽりぽりとボールペンのケツでこめかみをかきつつ、シグに渡された整備企画表を眺めていた俺の背後で、ようやく声をかけるタイミングを掴んだマルーが、おずおずと俺の袖を引いた。
『ね、若…』
『ん~?』
『あのね、エリィさん達がね、ニサンの街を見たいって言うの。…いい?』
『ニサンを? …エリィ達が?』
瞬間、久しぶりのニサンの街をマルーとゆっくり散策するつもりだった俺の脳裏に、団体行動のうっとおしさが沸き上がった。
『でね、若も行くよね?』
確認と言うよりは確信に近く、マルーがにっこりと微笑みかけるのを横目に、俺は曖昧にボールペンを指で回した。
ニサンに行くのはやぶさかではない。つーか、俺が誘うつもりだったんだ。
でもなあ、エリィが来るってことは、当然フェイもくっついてきて、フェイのことだから手当たり次第声をかけるだろうし、そうするとまず、ビリーとプリムは確実だろ、チュチュもくっついてくるな、ってことはマリアも来るし、もしかしてリコもノるかもしれねえな。
……うぜえ。
久々に訪れたニサン、久々に勝ち取った完全な休暇に、何が悲しゅーて普段通りのメンツでぞろぞろ歩かなきゃなんねえんだ。
ってなことを考えて、俺が難しい顔を見せた途端、マルーは敏感にそれを感じてしゅんと眉根を寄せた。
『……だめ?』
『あ? …いや』
そーゆー顔されると、無下には断れねえ。いや、つーかまず、こいつと一緒にいるってのは俺の大前提なわけだから、それにオプションついてくるぐらい、我慢できねえことも……
『あのね、ボクね、どうしても欲しいものがあるんだ』
俺のぐずぐずした沈黙に焦れたのか、マルーはこちらを見上げて一生懸命言葉を募った。小さな指が俺の袖を引き、わずかに引っ張られている。
その重みに少しばかり気をよくしている俺の視界の隅では、素知らぬ顔でこちらを眺めている副官の『何をもったいぶっているのやら』と言う呆れた視線が突き刺さったが、あえて無視。
『欲しいもの?』
普段、物欲なんててんでないようなマルーの、その珍しい言葉に少しばかり好奇心がうずいて、俺は問い返した。
欲しいもの…ねえ。こいつのことだから、自分のための何かってことはなさそうだし…いや、案外エリィとかに感化されて、小物だのアクセサリーだのに目覚めたか? まあそうしてくれると、来年の誕生日プレゼントの傾向と対策にゃ都合が良いけどな。
俺の問いかけに、マルーは少しはにかんだような微笑みを見せた。見慣れたはずのそれに、うっかり俺が目を奪われた瞬間、思ってもみなかった台詞が飛び出す。
『うん。ばるとろめーのリボン』
『は?』
思わず、俺は間抜けな声を返して自分の三つ編の先を見た。煤けたような色合いの、愛用のゴムがある。
『この間、ばるとろめーをお洗濯したら、リボンがちょっとへにょへにょになっちゃってさ、新しいの欲しいなーって思ってたところだったの』
ここに至って俺は、もったいなくも図々しくも、この世で一番くまには似あわねえ名前を頂戴した、チンケなぬいぐるみの存在を思い出して、思い切り眉を顰めた。
『くま公のリボンだぁ~?』
『あ。なにその言い方、ひっどいなぁ』
言いながらも、マルーはどこかで俺がこういう反応を返すことを予想していたのか、あまり強くは言ってこない。そう言えば、誘い方がどこかおずおずとしていたのは、こういう理由だったのか。
『ひどくねえよ。何で俺が、せっかくの休日に、くま公なんぞのリボンを買いに行かなきゃなんねえんだ』
『いいじゃない、ニサンに行くついでだもん。それに、他にも買いたいものあるし』
『…まさか、くま公用の籠だの、ブラシだの、そーゆー類じゃねえだろうな』
『………』
押し黙ったマルーは、顔にでかでかと『図星』と書いたまま、不自然に視線を逸らした。そのやり取りに、傍らでシグの失笑が起きる。
『若、ごねずに同行したらどうですか。せっかくの休日なんですから』
したり顔でご注進するシグに、俺は完全に曲がりきった己のへそを見たような気がした。
『冗談じゃねえ、俺はパスだ』
『え?』
途端に、マルーが悲しそうに眉を寄せる。俺は敢えてそれを見ないようにしながら、乱暴に整備企画表を指で弾いた。
『休日っつったって、ギアの整備があるんだよ』
『でも、整備士さん達に任せれば…』
『ブリガンディアは、他のに比べて損傷が激しいからな。パイロットじゃなきゃわからねえようなガタもあるんだ』
半分は嘘で、半分は本当だ。予定では、マルーをニサンに連れ出す前に、ちょちょっとハンガーを覗いて、二、三整備士に言付ければ事足りるようなもんだったが。
だけど、このままマルーの言いなりで、忌々しいくま公のための買い物に付き合うのはどうしても我慢できねえ。それこそ、たまの休日をマルーと一緒に外出するって言う、甘美な誘惑にも打ち勝つほどの拒絶反応だ。
そんな俺に、マルーは酷く重い溜め息を吐いた。
『……解った……。お仕事なら、しょうがないよね…』
『………』
素直なマルーの消沈ぶりに、俺はわずかに良心の呵責を感じて、ふいと視線を背ける。背けた先では、呆れたような困ったような表情のシグが、長い腕を組んでこちらを見ていた。
『……うん、しょうがないしょうがないっ。若だって忙しいんだもんね! ボク、みんなで行ってくるよ。お土産買ってきてあげるね、若』
『お…おう』
俺はその時、心のどこかで、もしかして俺が行かないと言ったら、マルーもユグドラに残ってくれるんじゃないだろうかという、淡い期待が砕けた音を聞いた。
俺が勝手に落ち込んでいる傍らで、マルーは元気よく踵を返す。
『んじゃ、行ってくるね、若、シグ!』
『お気をつけて、マルー様』
『はぁいっ』
最後まで元気よく、まるで俺がいようがいまいがかまわねえとでも言いたげにブリッジを飛び出したマルーの背に、俺は最大の舌打ちを向けて、手にした整備企画表をぐしゃりと握り潰した。
『……若』
低いシグの声に首を竦め、俺は面白くもねえ企画表の皺をしぶしぶと伸ばす。
『…若、お暇でしたら会議の草案作成と言う仕事もありますが』
そのままぐずぐずとブリッジに居残っていた俺に、嫌味か真面目か計り兼ねるシグの声がかかったのを機に、俺はさっさとギア・ハンガーへ退散を決め込んだ。もしかしたら、本当に整備に時間がかかるかもしれないと言う、淡い期待を込めながら。
……だがしかし。正味二分でハンガーを追い出された俺は、今こうして、最高潮に不機嫌な面をさらしながら、ユグドラの回廊を練り歩いているわけだ。
もしかしたら今から行けば、ニサンに向かった奴等と合流できるかもしれない。ニサンは狭い町ではないけど、マルーが皆を連れて歩きそうな場所くらい見当がつく。
だけど。んなことするくらいなら、自室で不貞寝してた方がまだマシだ。
あ~、むしゃくしゃする! マルーとニサンを歩くつもりで、全部の予定を繰り上げてこなしていたことが、裏目に出ちまった。かと言って、シグの言う通りブリッジにいたら、俺が何故マルー達と同行しなかったのかがばればれで、居心地悪いったらありゃしねえ。
ガンルーム…も駄目だ。どおーせマルーの奴が、爺にもいろいろ吹き込んでるに違いねえ。かといって自室もなあ…こんな昼間っから、一人でボーッとしてるなんざ、みじめったらしくてぞっとする。
…本当なら今ごろは、晴天に見下ろされたニサンの町並みを練り歩き、餓鬼の頃の思い出なんかと比べながら、懐かしい風景に浸ったり、あいつの大好きな高台の桜まで遠出して、草の波を吹き抜ける風にゆったりとした時間を過ごしていた…はず。
考えれば考えるほど、今隣にいないマルーの空気が足りなくなって、俺は自分でも無意識のうちに、とある部屋の前まで足を運んでいた。
「……部屋の主がいねぇっつ~のに…」
苦々しく呟いて、俺は女性用客室…今は、マルーのためにあてがわれた個室の扉の前で、重く嘆息をついた。
それでも、何となく、この身体にマルーの空気や気配を感じたくて、悪いとは思いつつもその扉を開く。少しだけ部屋を覗いて、持ち主の面影を追って、柄にもなくしんみりしたらすぐに出て行くつもり、だった。
……アイツと目が合うまでは。
偉そうに、マルーのベッドの隣にある箪笥の上に鎮座ましまし、小生意気な面でこちらを眺めるその片目のくま公に、俺は視線を合わせて眉を寄せる。
喧嘩を売られている。
……ような気がする。
それはまさしく、ぬいぐるみにわざわざ名前までつけて、あたかも生き物のように可愛がっているマルーを馬鹿に出来ない、妄想過多の思い込みだったが、元はと言えば今俺がこんなにみじめったらしいのも、全部こいつのせいなんだと言う事実が、俺の脳みそを半分ほど溶かしていたようだ。
俺は素早くマルーの部屋に入り、息を殺してくま公と対峙した。
……呑気な面が気にくわねえ。
……俺と揃いの眼帯が気にくわねえ。
……マルーの匂いにつつまれているのが、一番気にくわねえ!
ずんずんとくま公に近づき、俺はにゅっと腕を伸ばしてそいつを掴んだ。柔らかい手触りに、そう言えばマルーも良く、こいつがふかふかだと喜んで抱き付いていたことを思い出し、ぴくりと腕の血管が浮き上がる。
俺の腕の力が強まって、くま公の首根っこがわずかに歪んだ。
「……ちぎれそうだな、結構簡単に」
ぼそりと物騒なことを呟くと、気のせいか、くま公の表情が変わったような…気がして。
いかんいかん、んなことしたらマルーに何を言われるか…一週間は口をきかず、目も合わせず、下手すりゃ泣かれちまうかもしれねえ。
どんなにどんなにどんっなに気に食わなくとも、マルーがこいつを可愛がってる、それは事実だ。
そう思って、俺は力の入る右手を諌めながら、しかし多少の意趣返しも含めて、くま公を天井高くぽんと放った。
「あ」
少しばかり力が入りすぎたのか、くま公は天井にあった空気循環のプロペラに引っかかって、ぷらぷらと揺れている。
「やべ」
俺は慌てて手を伸ばしたが、寸でのところで指が届かない。ぷらぷら揺れるくま公の身体が、まるで自分を馬鹿にしているように見えて、こめかみが引きつった。
「んのやろぉ……馬鹿にしてやがんな」
苛々と呟いて、俺は手近にあった椅子を乱暴に引き寄せる。床に敷いてあったカーペットが妙な風に皺を作り、椅子の足に絡まってバランスが悪かったが、知ったこっちゃねえ。
俺は勢いよく椅子に飛び上がると、ぐんと腕を伸ばしてくま公を掴んだ。
「どーでいっ! 観念しやがれ、このくま……」
公、と呟く直前に。
只でさえバランスの悪かった足場が、何故か大きく傾いた。
「をわっ?!」
真後ろにひっくり返りそうになった俺は、持ち前の運動神経で何とか体勢を立て直そうとしたが……。
手にしたくま公が、強く引くとプロペラに絡まることに気付き、僅かに動作が遅れる。
その一瞬が、命取りだった。
……いてえ……
鈍い後頭部の痛みに、俺はうつらうつらと覚醒した。
ぼんやりと滲んだ視界を凝らすと、そこはどうやらマルーの部屋で。不思議に思った俺は、ようよう自分が置かれている立場を思い出して、苦く舌を打つ。
そうだ、あのクソぐまをプロペラから取り損ねて、ひっくり返ったのか…
未だにマルーの部屋にいるってことは、気を失っていたのは短い時間だってことか? 助かった…こんな醜態をマルーに見られたら、言い訳のしようがねえもんな。
しかし、何だか自分の体が自分じゃねえみてえだ。もしかして、結構強く頭打ったんじゃねえだろうな…後で、シタン先生に見てもらうか。いや待てよ、確かあの人、最近開発した試薬の実験体を探してるとかで、今近づくのは危険だな…
俺がぼんやりとそんなことを考えていると、部屋の外が何となく騒がしくなってきた。
……やべ。マルー達、帰ってきたのか?
早いな、と思いつつ、俺はさっさとくま公を棚に戻して、何食わぬ顔で部屋を出ていこうと、起き上がり……
……って、何で俺、部屋の扉を見てんだ? ひっくり返ってたら、普通は天井を見てそうなもんなのに。
しかも、目線が心持ち低い。妙な感じだ。
………あれ?
………なんか。
………ちょっと。
………身体が。
………動かねえんだけど……?
まさか、打ち所が悪かったのかとぞっとした瞬間、ぱしゅっと軽快な音をたてて部屋の扉が開かれ、明るい表情の部屋の主が飛び込んできた。
「ただいまー。ふう、歩いた歩いた」
無邪気にそんな事を言いながら、両手に持った荷物をどさりとベッドに降ろしているマルーに、俺は哀れな声をかける。
おい、マルー、シタン先生かシグ呼んできてくれよ。あ、何で俺がこんなところにいるかっつーとだなあ…
「ただいま、いい子にしてた?」
にっこりと笑いながら、マルーは俺の言葉を遮ってとことことこちらに向かってくる。おいおい、何だよその言い方は。まるで俺が、餓鬼かぬいぐるみみてえじゃ…
ぬいぐるみ?
その時になって初めて、俺は近づいてくるマルーが妙にでかいこと、声を出していたはずなのにちっともマルーに聞こえていないこと、そして、
「素敵なものたくさん買ってきてあげたよ、ばるとろめー」
ひょい、と簡単に抱き上げられる、ふかふかの身体になっていることに気がついた。
………………ちょ……っっっと待てーーーーーーーーーーーーー!!!
俺は有らん限りに叫んだ…つもりだった。
しかし、当然のようにマルーはそれに気付かず、俺の身体を目線に合わせて持ち上げると、にっこりと可愛らしい微笑みを浮かべてこう言った。
「一緒に連れて行かなくてごめんね、ばるとろめー。寂しかったでしょ?」
言うが早いか、マルーは俺の鼻先に、小さく口付けを落とす。
おおおおおお、お前、なにやって……って、待てよ。
今、こいつ、俺のこと…『ばるとろめー』って、言ったよな…?
……ってことは……俺、あのくま公になっちまったのかよ?!
じょじょ、冗談じゃねえぞ! 返せ戻せ、俺の183センチ!!
俺の狼狽には当然取り合わず、…と言うか気付くはずもなく、マルーは俺を胸に抱いたまま、ちょこんとベッドに腰を下ろした。
「はぁ…ね、ばるとろめー。やっぱり若、一緒に来てくれなかったんだよ」
えっ?! ……あ、若、ね。っていうか、俺がそうなんだけど…こいつにとっちゃあ、今の俺はただのくま公でしかねえんだよな。
「多分そうじゃないかなあって、思ってたんだけどさぁ…。でも、せっかくのお休みの日に、離れているなんて、やだったんだけどな…」
だったら…ニサンになんか、行かなきゃよかったじゃねーかよ。
マルーの独り言に、俺はぶつぶつと文句を返していた。聞こえるはずなかったけど。
「よっぽど、ユグドラに残ろうかとも思ったんだけど、みんなニサンに行くの楽しみにしてたし…それに、ばるとろめーのリボンも、買ってあげたかったしね。ほら見て、これ」
言いながら、マルーは傍らの袋の中からごそごそと何かを取り出した。俺は自力じゃそっちに首を曲げられねえから、マルーが眼前にかざしてくれたものを凝視する。
それは、深い瑠璃色の、綺麗なリボンだった。
「へへ、いい色でしょ? やっぱりばるとろめーには、その目の色と同じ、ブルーがすっごく良く似合うよ」
柔らかく微笑みながら、マルーが俺の首からリボンを外し、買ってきたばかりのそれを結んでくれる。俺はされるがままに、ぼんやりとマルーの指の感触を感じていた。
「ほら、やっぱり似合う! ふふ、かっこいいよ、ばるとろめー」
無邪気にそう言うマルーの言葉に、俺はあるはずのない心臓がどくんと脈打つのを感じた。
「…若、何してるかなあ……」
俺を膝に乗せながら、マルーがぽつんと呟く。
「何だか、会いに行きにくいんだ。もしかして、怒ってたらどうしよう。せっかくのお休みなのに、若をほっぽって、出かけちゃったしさ…」
寂しそうに呟くマルーの声に、俺はずきんと胸が痛んだ。
全部、俺のわがままなのに。餓鬼みてえな癇癪で、ありもしない用事をでっち上げて、せっかくの休日を潰したのは、俺の方なのに。
なのに、こいつは。
感極まって、俺はマルーに手を伸ばした。……つもりだった。
もしも今、俺が俺の身体でここにいたら、きっとこいつのことを抱きしめられたのに。こんな、綿しか入ってねえ頼りねえ腕なんかじゃなく、本物のあの二の腕で、思いっきりこいつのこと、抱きしめられたのに。
「…あーあ、ボクってばか。こんなに気まずくなるんなら、最初から若の傍に…ずっと傍に、いれば良かったよ…」
そう言って、マルーはぎゅっと俺の身体を胸に抱く。その感触は、想像以上に柔らかくて暖かくて頭の芯がくらくらするようだったけど…
……抱きしめられるより、抱きしめる方がいいに決まってんだろーーーーーっっ!!
俺の声にならない心の叫びは、当然マルーには届かない。切なげに溜め息を吐いたマルーは、俺の身体を優しくベッドの上に乗せ、不意に立ちあがった。
「…何だか、汗かいちゃった。着替えてさっぱりしたら、若のところに行ってみようっと!」
……へ?
きょとんとする俺の目の前で、マルーは肩当てを外し、おなじみのマントを脱いだ。そしてそのまま、ズボンのベルトを外そうとする音に、俺は脳みそが三回転半くらい暴れたような気がした。
ままま、待てマルー!! いいのか、俺が見てていいのか?! いいんだな?! って言うか、この状態じゃ目を瞑るわけにもいかねえから、必然的に……いわゆる不可抗力だ! 決して覗いたとか、そういうわけじゃなくて…っ
じたじたと心でもがく俺の目前で、マルーがベルトを外しかけた瞬間、扉のインターホンが鳴らされた。
「あ、はーい! ちょっと待って」
マルーは急いでベルトを直し、脱いだマントを椅子の背もたれにかけながら、ぱたぱたと扉に駆け寄った。俺は、助かったような残念だったような、複雑怪奇な心境で溜め息を吐く。
「どうぞー…って、若!」
あん?
突然名を呼ばれ、俺はいぶかしんでそちらを見やった。と言っても、くま公の身体じゃ自由に視線を流せず、ぎりぎり見えるのはマルーの背中。
その背中が数歩下がって、部屋に招き入れた男の姿も、ようやく視界に移った瞬間。
なにーーーーーーーーーー!!!???
現れた男の顔に、俺はありったけの叫び声を上げた。
片流しの金髪、左目の眼帯、トレードマークの赤いジャケット、マルーを遥かに凌駕する上背……
お、お、お、……俺じゃねえか?!
「よう、帰ったんだな、マルー」
何気ない口調で、俺(の姿の男)が軽く片手を上げる。マルーは嬉しそうに俺(の姿の男)を見上げて頷いた。
「うんっ、今、ちょうど今ね! あ、すぐに若のところに行こうと思ったんだけど、汗かいちゃったから着替えを…」
「いーって。疲れたんだろ? ゆっくり休めよ」
不気味なほど優しい言葉をかけて、俺(の姿の男)はマルーに向かって微笑んだ。途端に、マルーの頬っぺたが赤くなるのが、この位置からだと良く見える。
…おいおいおい、なんなんだよこいつは! 何だって俺の姿で、スカした台詞吐いてんだ?!
「う…うん、あのねっ、ニサンね、相変わらずだったよ! あ…ほら、道具屋のおじさんとかにも逢ってきた。みんな元気だったよ!」
「ああ」
照れ隠しに矢継ぎ早になるマルーの言葉に、俺(の姿の男)は優しく頷いている。マルーはよっぽど嬉しいのか、上機嫌に笑い返してからこちらを向いた。
その瞬間、俺(の姿の男)の視線が、真っ直ぐに俺に向かってきた。
………その目に見覚えがある。
いけ好かない、生意気で、喧嘩を売っているような、その、青い片目。
………くま公か?!
「ね、見て、今日はこれを買ってきたんだ……」
そう言って、マルーが俺をひょいと抱き上げる。俺たちの視線の交錯は跡切れ、俺を胸に抱いたマルーがくるりと俺(の姿をした、多分くま公)を振り返った瞬間。
「……っ」
無言で、俺(の姿をした、多分くま公)が、マルーの身体を抱きしめた。胸に抱かれた、俺の身体ごと。
「わ……若…?」
マルーの声が震えている。直接俺に当たる胸の鼓動が、すごい勢いで高鳴るのが解る。
俺(の姿をした、多分くま公)は、俺の身体を潰すような勢いで、マルーの身体を抱きしめていた。
「……マルー……」
低い、掠れたような『男』の声。これが自分の声だっつーのは解る。一度もマルーに聞かせたことのない、俺の声。
その声をマルーの耳元に落としながら、俺(の姿をした、多分くま公)は、ますます腕の力を強めた。
「もう、どこへも行くな。俺の傍を、離れるな……」
低い囁きの中、俺は俺(の姿をした、多分くま公)の、非友好的な感情を確かに感じていた。
こ…この野郎、俺を潰す気か?!
し、しかも、人の声と面借りて、とんでもねーこと言ってんじゃねーー!!!
「わ…若? ど、どしたの…なんか変…」
見ろ! マルーだって驚いてんじゃねえか! マルー、いいからもっと抵抗しろ! ひっぱたけこんな男……って、俺か……
「俺、解ったんだ。今日一日、お前が傍にいなくて、どんなに寂しかったか」
どわああああああ!!! やめろ! やめてくれ、頼む!!!!
「俺、お前が傍にいないと駄目みてえだ。出来るなら、ずっとこうして、捕まえていたい」
ひいいいい!! お、俺の声でんなこと言うな、は、歯が浮く~~っっ!!
「わ、若……」
マルー! 騙されるな、こいつは俺じゃない! いや、言ってることもやってることも別に間違いってわけじゃねえが、それでもこいつは俺じゃねえんだ!!
「マルー…好きだよ」
ぎゃああああああ!!! 言うな!! それは言うなてめえが言うな、人の台詞取るんじゃねえええ!!
俺の叫びもむなしく、俺(の姿をした、多分くま公)の腕の力は、一瞬最高に強まった。余りの苦しさに、俺の意識が一瞬遠のいた瞬間、それは唐突に緩められる。
なんだ? といぶかしんだ俺だったが、俺(の姿をした、多分くま公)のさりげない指が、俺の顔を上向かせる。視線の先には、マルーの頬に手を添えた俺(の姿をした、多分くま公)がいた。
「…若……」
掠れたような、マルーの声が、その小さな唇から漏れる。その瞬間、俺(の姿をした、多分くま公)の顔が、ゆっくりとそれに近づいていき……
や…やめろ! てめえまさか、マルーに……っ!!
俺の見ている目の前で、俺(の姿をした、多分くま公)の唇と、マルーのそれとが、徐々に徐々に近づいていく。マルーは上気した頬のまま、いつの間にかその長い睫毛を閉じていた。
こ……ンのくま野郎ッッ!!!!
冗談じゃねえ、俺の、俺の………ッ
「俺のマルーに手ぇ出すんじゃねえ、ぶっ殺すぞ!!!!」
盛大に響いた俺の声に、誰あろう俺自身が一番驚いて、ぱちくりと目を瞬かせた。
声…が、出る?
「あ…あれ?」
にぎにぎと、拳を開閉して、それが見慣れた自分の手だと確認した俺は、ぺたぺたと自分の顔を押さえて、盛大な安堵の溜め息を吐いた。
「……なんだ~……夢かぁぁ~……」
そのままぐったりと、魂まで抜けるような心地で上体を突っ伏す。ぎしりときしんだ音がして、ぼんやりとベッドの上だということを意識した。
……ベッドの上?
「あ…? どっからが夢だ……?」
訝しんで、俺はゆっくりと顔を上げた。
見覚えがある部屋。……医務室か?
視線をめぐらせると、ちょうどこちらを向いている人物と目が合った。
「気分はどうですか、若くん?」
いつもの服装に颯爽と白衣をはおり、シタン先生が穏やかに俺に問い掛ける。手には、何やら妙な色合いのフラスコが持たれているのが、何とも不気味だ。
「あ~…? いや、気分は悪くねえけど…って、あれ? ここは医務室だよな? 俺、何でここに…」
「おや、覚えていないんですか?」
シタン先生はそう言って、器用に小首を傾げた。さらりとした黒髪が視界に散って、俺はまだ少しぼんやりする額を抑える。
その途端、何となく後頭部が疼いた。
「…頭いてえ」
「そうでしょうとも。幸いカーペットがクッションになってくれたとは言え、椅子の上から床にひっくり返って、こぶですむのは僥倖です」
「椅子……?」
徐々に、頭の中でパズルのピースが合わさっていった。
「そう。あなたはマルーさんの部屋で昏倒しているところを発見されて、ここに担ぎ込まれたんですよ」
「……だぁぁ~~~~っ」
やっぱりか、やっぱりだ。都合よく、全部夢オチになってくれるはずなかったんだよなぁ…。
俺は、照れくささと情けなさと脱力感に、自分の金髪を乱暴にかきむしって肩を落とした。
「今は席を外していますが、ついさっきまでずっとマルーさんが付き添っていてくれたんですよ。後でよくお礼を言っておきなさいね。ついでに、どうしてこんな事になったのか、事情を詳しく聞きたいそうですよ」
「あ~…マルーが。…で、俺を発見したのって」
「もちろん、部屋の主です」
「……」
だよなあ。…くそっ、カッコ悪ィ…。
でもまあ、今の今まで味わっていた悪夢が、本当に夢であってくれて、俺はほっとしていた。思い出すだけで、じっとりと背中に冷や汗が浮かぶ。
当分は、あのくま公と顔を合わせねえようにしなきゃな。じゃねえと、なんか夢見が悪くてうなされそうだ。
そんな事を思いながら、俺はのそのそとベッドから降りようと、足を伸ばした。
「おや、もう大丈夫ですか?」
「ああ、悪い先生、迷惑かけたな」
「いいってことですよ。ああ…そうそう若くん」
「ん?」
まだ少しくらくらする頭を抱えて、声のした方を振り仰ぐと、シタン先生はその丸眼鏡の奥の瞳を不思議に歪め、酷くあっさりとこうのたまった。
「実は、新薬の実験の協力者を探しているのですが……」
「ああっもうこんな時間か! いけねえシグに怒られちまうぜ! んじゃな先生助かった…」
想像通りの恐ろしい申し出に、俺は出来る限りさりげない風を装って口早にそう言うと、てきぱきとベッドから降りて出口へ向かった。
しかし、そんな俺の背中に向かって、唐突に激しい口調が降ってくる。
「『俺のマルーに手ぇ出すんじゃねえ、ぶっ殺すぞ!!!!』」
……………………
一瞬、俺の呼吸が止まった。
おそらく、史上最高に間抜けな顔をしているであろう俺の顔を振り仰ぎ、複雑な色合いの液体をゆらゆら揺らしながら、シタン先生は呑気な声で囁いた。
「いやあ、青春だなあ……」
「……あ、あの……」
ごきゅりと喉を上下して、俺が恐る恐る声をかけた瞬間、シタン先生は白衣のポケットの中から小型の録音機器を取り出して、ぽちりと停止ボタンを押した。
「いやあ、最近趣味で開発した録音機ですが、まさかこういう形で役に立とうとは思ってもみませんでしたよ」
そう言って、にっこりと人好きのする笑みを浮かべたシタン先生を前に、俺はくらりと血の気のひいた頭をめぐらせる。
…ところでいつ、この悪夢は終わるんだ?
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