それも愛しき人
シグルド・ハーコートは騙されにくい男である。
常に冷静沈着。何事にも慎重に対処し感情を昂ぶらせる事は滅多にない。
義に篤く忠に正しく、自らの信念を守るためには何者にも屈さない、毅い男。
シグルド・ハーコートは乱れない男である。
弱冠二十九の若さで何百という人間を統括し、歳若き主君の力を最大限に発揮し得る完璧なバックアップを得意とする。
時に冷酷、時に非情と呼ばれるほどに、その理念はタイトで無駄がない。
ユグドラシルという巨大戦艦を、実質管理、統括し、主君の破天荒な振る舞いをも的確に補佐する彼。
周囲の、彼に対する信頼は、天よりも高く海よりも深い
―――その日、までは
そ れ も 愛 し き 人
ユグドラシルのブリッジに、珍しい来客があったのは、その日の午後。ちょうど、偵察隊をドッグに収容し、報告会議の草案を作成していた時のことだった。
「シ~グ。お疲れ様!」
明るい少女の声に、シグルドは目を通していた書類から視線を上げ、振り返る。その僅かな間に、すでに彼の瞳は冷静沈着な指揮官のそれから、ひたすらに穏やかな眼差しに変わっていた。
「マルー様。いらっしゃいませ」
「へへ、来ちゃった。お邪魔?」
「いいえ、今ならば大丈夫です。あと数十分で、会議が始まりますけれど」
「よし、セーフっ!」
小さくガッツポーズをとって、小走りでこちらに寄ってくるマルーに、シグルドは小首をかしげる。さらりと揺れた彼の銀髪に、マルーは目を転じて微笑んだ。
「あのね、今ね、面白い事を教わって来たんだ」
「面白い事?」
さりげなく書類をテーブルに置き、シグルドはマルーの小ぶりな顔を見つめた。彼女がこんなにも楽しそうな時は……年上の従兄と、あまり感心できない悪戯に興じた時だったと、瞬間思って苦笑する。
「何? シグ」
「いいえ、何でもありませんよ、マルー様」
さすがに、年頃になった今では、悪戯をしてシグルドのお説教を受けるなどと言う事は無くなっていたことに気付き、シグルドは流れていった歳月にしばし口の端を上げた。
「それで、面白い事とは何でしょう?」
穏やかに問い掛けると、マルーは小さな手に持っていたものを見せる。それは、銀色の小さな珠で、三十センチくらいの紐が繋がっていた。
「これは?」
「ふふ、あのね…あ、シグごめん、ちょっとしゃがんでくれない? 大きくて、届かないよ」
「え? ……はい、これでいいですか?」
マルーの要請に、シグルドは一も二もなく応えた。彼女の正面に片膝をつき、視線を彼女よりも下にしたシグルドが、見上げた先にあったのは、銀色の珠。
マルーは腕を伸ばし、ちょうどシグルドの目前に銀の珠が来るよう紐をつるすと、小さな囁きを落とす。
「さあ…シグ、これを見て。他の事は考えないで、ボクの言葉だけを聞いてね」
「…マルー様?」
「いいから、ゆーっくり深呼吸して…そう、この珠だけを見るんだよ」
「…まさか、これは」
「もう、いいから~。真面目にやって、シグ」
「はぁ……」
曖昧に頷いて、シグルドは内心苦笑を零した。
マルーは、真剣そのものの顔で、ゆっくりと銀の珠を揺らしている。徐々に、徐々にその揺れが大きくなると、シグルドの耳元に小さな囁きを落とした。
「…シグ…気持ちをゆ~ったりさせて…呼吸を楽にして…ボクの声だけを聞いて」
「……はい」
ずいぶんと、アナクロな催眠術師に、シグルドは苦笑しかける口元をきりりと引き締めた。何だかよくは解らないが、マルーは真剣なのだ。彼女のその心意気に水をさすなど、シグルドにできるはずがない。
「シグ…あなたは今、とても疲れていますね?」
「……はい」
「リラックスしてください。あなたの疲れを、とりのぞいてあげましょう…」
どうやら、マルーは覚えたての催眠術で、シグルドの心身疲労を回復させる気らしい。シグルドはそれに気付き、温かいその心遣いに密かに感動していた。
ならば、一生懸命こちらも、かかったふりをしなければならない。
シグルド・ハーコートの責任感と使命感が、突如燃え上がった。
「さあ…シグ、思い出してください。あなたが一番、疲れを感じずに、生き生きとしていた時は、いつですか…?」
柔らかく、耳に心地良い声。この声に包まれていられる時が、一番穏やかでいられる。
シグルドは静かに瞬きをして、銀色の珠を見つめた。
優しい声だけに、満たされる。
「……あなたの身体と心は、疲れを知らないあなたに還ります。…さあ、この銀の珠が視界から消えた時、あなたの疲労も、跡形もなく消え去り、とても健やかになれるでしょう。
………1・2・3!」
瞬間、銀色の珠が眩しい光を放ち、シグルドの視界を覆った。
それが、現実だったのか、幻だったのか…シグルドには、永遠に解らない。
思わず瞑った瞳が、次に開かれた時。
彼の身体から、疲労が消えていたのは―――確かだった。
「お疲れ様です、フェイ、若くん、エリィ」
ギア・ハンガーに出迎えに来たシタンに、つい今しがた偵察から帰還した3人が目顔で応えた。
「どうでした? あちらの様子は」
「ん~、とりあえず、潜伏兵は見あたらなかったけど…」
「結構見晴らしがいいところだったからな。だが、それだけに俺たちの動きもバレバレだってこと」
「とすると、ユグドラシルの潜伏場所も、計算に入れないといけませんね」
「それだったら、南の方に奥深い森があったわ。あの辺の探索をしてから、停泊するのはどうかしら」
「いずれにせよ、今、シグルドがあの辺りの航空地図と原住民の資料を揃えているところです。一休みしたら、第三会議室で検討しましょう」
「ああ」
頷いて、バルトはギアの整備班を振り返った。
「あ、すまねえが、ブリガンディアの左膝のパーツを見てくれ。ちっとばかし無茶しすぎちまったみてぇだ」
「もう、バルトってば暴れすぎなのよ。もう少し、穏便に行かなきゃ偵察の意味がないじゃないの」
「うるせぇな、しかたねぇだろ、敵が襲ってくんだから」
そう言いながら、バルトはごきごきと肩の関節を鳴らす。暴れ足りなかったなぁと呟いた彼に、エリィとフェイは揃って肩を竦めた。
「…ん?」
その時、前方にあるギア・ハンガーの扉が開かれ、見慣れたオレンジ色の法衣と、色黒で銀髪の男がやってくる姿が視界に入る。
バルトたちの帰還に、マルーが駆けつけるのは珍しくない。だが、半ば彼女に引きずられるようにしてこちらに来るユグドラシルの有能副官は、今ごろ会議のための資料作成をしているはずだが。
「何だぁ…?」
遠く離れたところから、まっすぐにこちらにやって来る二人に、バルトは少しだけ訝しんだ声を上げた。だからと言って妙だと思うほどではなかったが。
しかし、はっきりと二人の表情が見て取れるほど近づいた時、バルトを始めフェイたちですら、その様子が尋常ではない事に気付いて、目を丸くした。
「せ、せんせぇ! 大変なの、シグが…っ」
バルトの背後にいたシタンに、マルーは困惑した叫びを上げた。彼女の細い腕に引っ張られるように歩いていたシグルドは、怪訝な顔でマルーと、バルトたちとを見やる。
「どうした、マルー?」
半ば無視された感を否めないバルトが、訝しんだ声を上げる。マルーはバルトの方を見やり、情けないような声を上げた。
「わ、若ぁ~~~」
「どうしたんですか、マルーさん?」
「何かあったの? シグルドさんに」
「見たところ、怪我をしたとかじゃないさそうだけど…」
シタンたちが、首を傾げてマルーたちを見やった時、シグルドはマルーの細い腕を乱暴に振り解いた。
「……え!?」
世界で一番シグルド・ハーコートらしからぬ粗暴な振る舞いに、皆の目が一瞬点になる。
シグルドは、マルーによって引っ張られていた袖元を神経質に直しながら、辛らつ、といった言葉が非情に良く似合う表情で一同を睨めつけた。
「誰だ、お前たちは。そしてここはどこだ。十秒以内に答えろ」
「…………はぁ!!?」
広大なギア・ハンガーに、合計四人の素っ頓狂な声が響き渡ったのは、言うまでもない。
シグルドは、慣れない隻眼で遠近感のなくなった手をゆっくりと伸ばして、熱い紅茶のカップを持った。
「……で? ここはどこなんだ。俺の質問に答える奴は誰だ」
倣岸な態度で一同を見やったシグルドに、彼の正面に座していたシタンが口を開く。
「私です。…シグルド、あ~…あなたは、シグルド・ハーコートでいいんですよね?」
「当然だ。何故、俺の名を知っている? …ん? お前、どこかで…」
一瞬、訝しんだようにシグルドが眉を寄せた。シタンはまじまじと見つめられて、居心地が悪そうに微笑む。
「あ~…私の名は、シタン・ウヅキ…あなたのエレメンツ時代の同僚の、ヒュウガ・リクドウです」
「ヒュウガ? お前、ヒュウガなのか?!」
心底驚いたように、シグルドが叫んだ。そして、そのままシタンの顔を凝視する。
「嘘だろう?! お前、何だってそんなに老けたんだ!?」
「老け…。失礼ですね、私はこれでも、二十九にしては若いと、皆に言われているんですよ」
「二十九? 何を言ってる、お前は確か、先月十七になったばかりだろう」
「じゅ、十七?!」
シグルドの言葉に、室内にいた人間…バルト、マルー、フェイ、エリィの絶叫が重なった。その甲高い声に、シグルドが嫌そうに顔をしかめる。
「おい、ヒュウガ。一体何なんだ、こいつらは。さっきから目障りだ」
「あ…いやぁ、何からどう説明すればいいのやら…」
シタンが困ったように頭をかくと、テーブルの端をどんと叩いてバルトが口を開いた。
「先生、ちゃんと説明してくれよ! シグは一体、どうなっちまったんだ?」
「はぁ……そうですねえ、今現在解っている情報は、彼の精神年齢が、恐らく十七歳の頃まで後退している、ということですかね…」
「はぁ?」
バルトが素っ頓狂な声を上げる。シタンは右手の中指で眼鏡を押し上げると、難しそうに眉を寄せた。
「私も、確実な事は言えませんけれどね。今の話を聞いている限りでは、シグルドの精神…記憶と言ったものが、十二年前の状態まで後退しているようです。ですね、シグルド?」
「…お前が何を言っているのか、さっぱり解らん。また、カールとでも組んで人をからかっているのか?」
「いやぁ…出来れば私も、冗談でしょうと笑い飛ばしたい心境ですけどねェ…」
力なく笑うシタンに、バルトは金髪をかきむしる。
「だぁぁ~~! 何だよそれ、ぜんっぜん解んねえ! 一体、何だってこんな事になっちまったんだよ?!」
「ボクのせいなの!」
その時、今まで無言だったマルーが突然口を開いた。一同の驚いた視線の先で、マルーは必死に拳を握り、声を震わせまいと口を開く。
「ボクが、シグに催眠術をかけちゃったの!」
「さいみんじゅつぅ~~?」
「って、まさかマルーさん、さっきの?」
唖然とするシタンに、マルーは小さく頷いた。
「うん…シタン先生に、教えてもらったばっかりのやつだよ。ボク、シグがこの頃疲れてるように見えたから…だから、催眠術で疲れを忘れさせてあげようって思ったの。でも、そしたら何故か、こんなんなっちゃって…」
「何故かって…おまえなァ、どうやったら疲れを忘れさせる催眠術が、記憶退行の術に変わるんだよ?」
呆れたようなバルトの言葉に、マルーはぎゅっと唇を噛んだ。
「わ、わかんない…ボクも、どうしてこんなんなっちゃったのか…ごめんなさい、皆…ごめんね、シグ……」
そう言って、必死に眼差しを上げてシグルドを見やる。いつもならば、にっこりと優しい笑顔を浮かべてくれるシグルドなのに、その時の彼は、あくまでも他人のように冷たい態度でマルーを見ていた。
「ふん…馬鹿馬鹿しい、そんなわけがあるか」
「え…?」
シグルドの言葉に、マルーは不安そうに首を傾げた。シグルドは椅子の背もたれに背を預け、倣岸な態度で足を組む。
「エレメンツの要職たるこの俺が、そう簡単に他者の術にかかるか。まして、お前のような素人の娘に、気を許すわけがないだろう」
だが、その言葉に頷く者は、この部屋には誰一人として存在しなかった。
「いや……マルーさんだからこそ、あの猜疑心の塊のような慎重派のシグルドが、ころっとあっさり引っかかったんだと、私は思うんですが…」
「そうよねェ……よりによって、この世で一番気を許してるマルーが相手じゃ、警戒心も粉微塵よねェ…」
「あ、あのさぁ、こんな時にこんな事言うのもなんなんだけど、…このシグルドさんって、何かちょっとイメージ違わないか?」
ぼそりと呟かれたフェイの言葉に、シタンは神妙な顔つきで腕を組んだ。
「いや…十六、七の頃のシグルドと言ったら、丁度こんな風でしたよ。頭は切れるし鞭の腕はたつし、エレメンツという名誉ある立場に就いた自負もあるしで、なかなかな俺様野郎と言いますか…」
「まあ…なんだか、インテリなバルトみたいねえ」
「くおら!! 何だその例えは!!」
「まあまあまあ…」
一同の和気あいあいとした雰囲気に、シグルドはイライラした様子で腕を組んでいた。その傍らで、マルーだけは心痛な面持ちで俯いている。
「……あの……ホントに、ごめんね、シグ…ルド、さん」
「……別に、お前のせいじゃないと言ってるだろ。そんなことよりも、ここはどこなんだ? ソラリスじゃないのか?」
「う、ううん…ここは、地上だよ」
「地上? では、お前たちはラムズか?」
一瞬、シグルドの表情に奇妙なものが浮かんだ。まるで、何かを葛藤しているようなそれに気付き、マルーはおずおずと問い掛ける。
「あの…どうしたの? どこか、具合悪いの?」
「……いや。……しかし、何故俺はソラリスを出る事が出来たんだ…それに、ヒュウガがニ十九ということは……」
重く嘆息をつき、額を押さえるシグルドに、マルーは心配そうに囁く。
「あの…あのね、シグ…ルドさん、多分、全然何も解らなくて不安だと思うけど、心配しないで。ボクが、必ず元に戻してみせるから…」
「―――お前が…?」
「うん。だから、シグルドさんは、何も心配しないで。…ね?」
そう言って、その小さな手で必死にシグルドの袖を握るマルーを見つめ、シグルドはしばし沈黙した。
「……名前は?」
「え? …あ、ボク? あ…マルー。マルグレーテ・ファティマだよ…」
「マルー……マルーか。いい名前だ」
そう言って、微かに微笑むシグルドの瞳が、マルーのよく知っている彼のそれと重なって、マルーは喉の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
その様子に気付いたのか、バルトが身体ごとこちらを向いてシグルドを射抜く。
「おい、シグ! こうなったのも、元はと言えばお前がマルー相手に油断してたからでもあんだぞ。反省しろよっ」
「若! 違うよ、ボクが……」
「……何を偉そうに…誰だ、お前は」
シグルドの言葉に、バルトは一瞬奇妙な顔をした。今更、シグルド相手に『偉そうだ』などと言われても、ぴんとこない。
「偉いんだよ、俺はこの船の艦長で、お前は俺の部下なんだから」
「艦長? お前のような若造が?」
「わかぞ…っ! てめぇ、昔はずいぶんいー性格だったみてぇじゃねえか?」
「昔も今も、俺はこの性格だ」
「ほぉ。だったら今まで、猫被ってたってことかよ?」
バルトの言葉に、シタンがのほほんと口を挟む。
「いやぁ、確かに久しぶりに再会した時、シグルドがあんまり丸くなっていたんで驚きましたけど、基本的なところは、今も昔も変わっていませんよ」
「基本的なところって?」
フェイが問うと、シタンはくすくすと忍び笑いをもらしながら答えた。
「自分の敵には容赦しないが、一旦手の内を見せた味方にはとことん甘い。だからこそ、マルーさんの催眠術に、あっさりと引っかかってしまったんですよ、彼は」
その言葉に、マルーは弾かれたように顔を上げる。
「先生、じゃあ、もう一度ボクが催眠術をかけて、術を解けばいいの?」
「う~ん…それは、どうでしょう…」
「え?」
不安そうに首を傾げるマルーに、シタンは眼鏡を押し上げながら言った。
「さっきまでのシグルドならば、あなたに無条件で信頼を寄せていたでしょう。だから、簡単に術に落ちた。だが、今のシグルドが相手となると……」
「信用してもらえないってことか…」
ぽつりと呟いたフェイの言葉に、マルーが傷ついたような顔を見せた。エリィは肘でフェイのわき腹を小突き、優しくマルーに微笑んだ。
「大丈夫よ、マルー、そんな顔をしないで。今も昔も、シグルドさんはシグルドさんだもの。ゆっくり時間をかければ、きっとあなたを信じてくれるわよ」
「エリィさん……」
僅かに微笑んだマルーに、バルトの強い声が届く。
「んなまどろっこしいことするより、シタン先生が術をかければいいんじゃねえのか? マルーなんかよりも、ずっと上手いんだろ?」
しかし、シタンはそれに首を振って、お手上げのポーズを取る。
「いやいやいや。シグルドの警戒心は人並みはずれてますからね。昔から、どんな暗示にもかからなかったんですよ。だから今回、覚えたてのマルーさんの術にかかったと聞いて、心底驚きました」
それだけ、マルーさんに心を許していたということでしょうが…という呟きは、何とか口の中に収めて。シタンは穏やかにマルーへ微笑みかける。
「だから、シグルドを元に戻せるのは、恐らくあなただけです、マルーさん。本人を前にしてこんなことを言うのもなんなんですが、何とかシグルドの警戒心を解いて、暗示を解除してやってください」
「―――はい」
頷くマルーに、バルトが軽く嘆息をつく。
「しっかし、一体お前、何の暗示をかけたんだよ? 時間を戻せとかか?」
「ううん…ただ、シグにとって一番疲れを知らなかった頃を思い出して…って」
マルーが言うと、シタンは深く嘆息をついて、やれやれと首を振る。
「……確かに、このころのシグルドは、何をやらせても疲れというものを知りませんでしたねえ……手に負えませんでしたよ」
その深い言葉に、一同は何とコメントして言いか解らず、押し黙った。
唯一シグルドだけは、話の流れについていこうとする気はさらさら無いらしく、紅茶のカップを傾けながら素知らぬ顔を見せていた。
「ユグドラシル?」
「そう。若とボクのおじいちゃんが発掘したんだ。それを、爺やシグルドさんが取り戻して……」
「ふうん……このギアたちは?」
「アヴェとキスレブの発掘隊から奪ってるの。二つの国の戦力の均衡を保つようにって…それと、ユグドラの戦力補強の目的でね」
「ほう…なかなか頭の切れる奴がいるな」
シグルドが感心したような声で言うと、マルーはくすくすと笑った。彼女の微笑みに、シグルドが眉を寄せる。
「なんだ?」
「ふふ…今の発案者は、若だよ。シグルドさんが、『若造』って言った人」
「……」
少しだけ、妙な顔をしたシグルドに、マルーは本格的に笑い声を上げた。
「なんだよ。何がおかしいんだ?」
「あはは…だって、シグってば…あ」
言って、マルーは慌てて口を押さえた。それに、シグルドは呆れたような視線を向け、少しだけ微笑む。
「…シグ、でいい。そう呼ばれていたんだろう?」
「う…うん。シグ…」
「なんだ?」
「……呼んでみただけ!」
そう言って、マルーは小走りでギア・ハンガーを進んだ。シグルドは小さな彼女の背中を見つめ、それから不意に声をかける。
「マルー」
「…え? あ、はい?」
シグルドの声で、『マルー』と呼ばれる事に慣れなくて、マルーは少しだけ緊張して振り返る。シグルドは、いつもの彼とは微妙に違う眼差しをマルーに向けていた。
造作は変わっていないのに、作り出す表情がまるで違う。マルーは、まるで見たことも無い男の人と対峙しているような錯覚に、少しだけ落ち着かなくなる。相手は、シグルドなのに……
「それで、俺とお前は、どういう関係なんだ?」
「え? 関係?」
目を丸くしたマルーに、シグルドは僅かに眉を寄せる。
「…それほど驚かれるようなことを、聞いたつもりはない」
「い、いや…改めて聞かれると、何て答えていいのか…」
複雑に笑うマルーに、シグルドはしばし沈黙し、それから視線を斜めにする。
「……恋人か?」
「ええ!!?」
問われた言葉に、マルーは心底驚いたように叫び、それから弾けたように笑った。
「あははははは!! ボクとシグが、恋人!? あははっ、まっさか~~!!」
「…………」
その豪快な笑いっぷりに、シグルドはいささか面白く無さそうに眉を寄せる。それから、ずいとマルーに詰め寄った。
「何故笑う?」
「えっ? あ、だ、だってさぁ…シグは、ボクにとって家族みたいなものなんだよ。小さな頃からずっと一緒で、沢山のことを教えてもらった。シグはね、ずーっとボクの、憧れの人だったんだよ」
にっこりと微笑むマルーに、シグルドは視線を細める。
「憧れ? …それは、恋ではないのか?」
「え? ……あ、えと…そういうんじゃ、ないけど……」
「何故?」
「え、な、何故ってさぁ~……」
段々、シグルドと自分の距離が縮んできて、マルーは無意識に後ずさった。普段のシグルドとならば、こんな距離、なんて事はないのに…今のシグルドは、まるで知らない男の人のようで…少しだけ、怖い。
「だ、だってさ、ボクとシグじゃ、歳が違うじゃないか」
「……お前、歳は」
「じゅ、十六」
「十分だな。俺は今…十七だ」
そう言って、ずいと詰め寄るシグルドに、マルーはしどろもどろで答える。
「えっ、えっ?? そ、それはちょっと違うんじゃ~…そ、それに、歳が近いからって…」
「お前がさっき言ったんだろう。歳が違いすぎると。それが原因で、恋人にならなかったんだろう?」
「いや、違う、そうじゃなくって~! シグは、…シグは、ボクにとって……」
「……何?」
静かに響くバリトンに、マルーははっと顔を上げた。一瞬だけ、マルーのよく知るシグルドに、戻ったような錯覚で。
だが、目の前にいるシグルドは、やはりマルーの知らない男だった。すぐ近くで香る、シグルド愛用のコロンの香りに、マルーは胸が締め付けられる。
「…ボクにとって、シグは、すごく大切な人。シグがいなかったら、きっとボクも若も、今ここにいないから……」
「……若…か」
少しだけ、乾いた声。シグルドは呟いて、そっとマルーの髪に手を伸ばした。柔らかな感触は、初めてなのにそうではなくて。胸の奥が僅かにざわめく。
「あの男…マルーの何なんだ?」
「え? 若? …えと、従兄…」
「ただの?」
「……」
厳しい追求に、マルーの頬が赤く染まる。困ったように眉を寄せ、俯いてしまった彼女の髪が、シグルドの指先からさらりと零れた。
「…即答は出来ない、か。まあ、何でもいいさ。今の俺には関係ない」
「え…?」
『関係ない』の一言で、まるで冷たく突き放されたような気分になり、マルーは不安そうに顔を上げる。だが、見上げた先のシグルドは、酷く真剣な表情でマルーを見つめていた。
「……お前といると、不思議なほど落ち着く。馬鹿みたいに無防備になって、何だか泣きたくなる」
「……シグ…」
「お前は不思議な女だな。どうして……こんなに、落ち着くんだろう…」
そう言いながら、シグルドはそっとマルーの髪に触れ、それに唇を寄せた。至近距離に迫ったシグルドの顔に、マルーはどきっと鼓動を早める。
こんな風に接近した事なんて、数え切れないほどあるのに。
「……俺はずっと、何かを探してるんだ。心の奥から、すっぽりと抜け落ちてしまった何か…ずっと、探して、探して…気が狂うほど寂しかった。そんな気持ちを、誰にも言えずにいた。弱みは見せられない。誰もが俺を裏切るからだ。…裏切らない奴も、いる。…だけど、誰にもこの気持ちは解らない…」
「…………」
マルーは、無言でいた。シグルドの言葉が、今まで冷静沈着で、何事にも頼りがいのあった彼の、初めて聞く脆い部分のように思えて…声を、出すことが出来ずにいた。
シグルドはそっと瞳を上げ、口元にマルーの髪を寄せたまま、じっとマルーの碧玉の瞳を見つめた。
「…それなのに、何故、お前には話せるんだ? お前ならば、俺の気持ちを解ってくれると、何故思えるんだ? こんなにも…小さくて、頼りないのに…何故、こんなに安心するんだ…?」
「……シグ……っ」
囁いて、マルーは思わずシグルドの首に抱きついた。強く香ったシグルドのコロンが、マルーの心の染み入った。
この時の、この年齢のシグルドに、こうしたかった。もう、寂しくはないよと、言ってあげたい。ずっと、こうしててあげるよと、安心させてやりたい。
今まで与えてもらったたくさんの愛情を…シグルドに、返してやりたかった。
「……シグ…ボクはここにいるよ…」
「………」
小さな彼女の囁きに、シグルドはおずおずと手を伸ばした。華奢な彼女の背中に、無骨な腕を回して…その温もりに、目を閉じる。
心に巣食った恐怖も闇も、その一瞬で浄化されるようだった。
「……マルー………」
囁いたシグルドの声音が、低く深い男の声だったから。
マルーは、思わず反射的に彼から離れてしまった。
「……あ」
自分の行動に驚いて、マルーは真っ赤になる。シグルドは目を丸くして彼女を見つめ、それから拗ねたように眉を寄せた。
「……なんで」
「あ……えっと……」
ごまかすように笑う彼女に、シグルドの腕が伸びる。マルーはさっと身を翻し、乾いた笑い声を上げた。
「あ…あはは、じゃ、じゃあ、次はブリッジに行ってみようか! 一番シグと関係のある場所だから、リラックスできるんじゃないかなぁ…」
「リラックスなら、お前と抱き合ってる方ができる」
「だっ…! ダメだよ、何言ってんの、シグ!!」
「何でダメなんだ?」
「だ、だって……なんかそんなの、そーゆーのって…シグとボクじゃないもん!」
「……俺が嫌いか?」
じっと、碧玉の瞳を射抜いて問い掛けたシグルドの言葉に、マルーはくらくらと揺れる思考回路を必死に保とうと、拳を振るった。
「き、嫌いなわけないじゃないか!! 大好きだよ!!」
「なら、問題ないな」
言いながら、シグルドは再びマルーに近づく。マルーはぎょっとして飛び上がり、必死に後ずさったが、そこは壁で。
「ももも、問題あるよ!! こんな、こんなのは違うってば~!」
「何が違うんだよ。お前は俺が大好きで、俺もお前が大好きだ。これの何が違う?」
「え? え~っと…あれ? な、なんだっけ…」
いつもと違いすぎるシグルドの行動に、マルーは完全にパニックに陥っていた。ずいと近づかれ、まっすぐ見つめられると、どうしていいか解らなくなる。
「だ、だってだってだって……」
ぐっと瞳を瞑り、マルーは無意識に叫んでいた。
「………若!!」
「―――おう」
そのとき、低くドスのきいた声が、ギア・ハンガーに響いた。マルーが驚いて目を開けると、シグルドの背後でこちらを斜めに見やるバルトの姿があった。
バルトはあからさまに不機嫌そうに、シグルドを睨んでいる。シグルドは億劫そうに振り返り、バルトを認めて眉根を寄せた。
「…なんだ、お前か」
「何だじゃねえよ、何やってんだコラ」
「お前に関係ない」
「関係大有りだバカヤロウ! そこどけ、さっさと!」
「お前に指図されるいわれはないな」
「てめえは俺の部下なんだよ! 副官だったら艦長の命令を聞きやがれ!」
「あいにくだが、今の俺はお前の部下でも何でもない。よって、お前の一方的な命令に従う義務はない」
さらりと冷たく結ぶシグルドに、バルトの眉がぴくりと跳ね上がった。びきびきと血管を浮かし、バルトは組んでいた腕を外す。
「…どぉ~~~やら、今のお前とはとことんまで!! 話し合わなきゃなんねえようだな」
「わ、若! ちょっと……」
「いいだろう。俺も丁度、お前に言いたい事がある」
「ほぉぉ~~? おもしれえ、聞いてやろうじゃねえか」
バルトがごきごきと指を鳴らすと、シグルドが冷静な顔で顎をそらす。
「マルーは、俺が貰う」
「はぁ!?」
「ちょっ、シグ!?」
驚いたバルトとマルーの叫びに、シグルドは少しだけ眉をしかめた。
「聞けば、お前たちはただの従兄妹同士なんだろう? なら、俺がマルーを貰う。右も左も解らんようなこの世界で、マルーだけが俺の心を癒してくれた」
「なっ…な、な、何言ってやがるこの野郎!!」
「シグ! ヘンなこと言わないでよ!! 若も、まともに取らないで! シグは今、シグじゃないんだよっ」
「俺は俺だ、マルー。今までの俺がどうだったかは知らないが、今の俺はお前が好きなんだ。お前だって、俺のことが好きなんだろう?」
シグルドの言葉に、マルーは思わずに言葉につまった。その反応に、バルトの血管がますます浮き出る。
「おいっ!! どーゆーことだ、マルー!!」
「えっ、だ、だってそれは~!」
「お前、いちいちうるさいぞ。マルーを困らせるな」
「てめーはだぁってろ!!」
「…本当に、お前のような短絡思考が、この戦艦の司令官なのか? 今まで無事に航海を続けられてこられたのは、よほど有能な奴が補佐についていたからだな」
「それは、遠まわしに自慢してんのか?!」
「事実を言ったまでだ。それに、お前にマルーをどうこう責める権利はないだろう。ただの従兄なんだから」
「ただのだぁ!? てめえが言うな、そんなことっ! 俺はなぁ、俺だってなァッ…」
バルトが怒鳴り、シグルドの胸倉を掴み上げた瞬間、
どかっ!!
「っ!?」
突然、背後から強かに殴りつけられたバルトとシグルドが、仲良く昏倒した。
「せ、先生!? エリィさん、フェイも……」
突如現れた三人に、マルーは目を丸くして叫ぶ。フェイは拳を収め、エリィはロッドをしまいながら小さくバルトとシグルドを拝んでいた。
「ごめん、バルト…手加減ナシだった」
「すみません、シグルドさん…当たり所悪かったらどうしよう……」
「いやいや、こうでもしなければこの二人、どちらかが血を見るまで収まりませんでしたよ…。まったく、世話が焼ける人たちですねえ…」
「あ、あの…先生……」
驚きのあまり、ひっくり返ったような声を出すマルーに、シタンはにっこりと微笑んだ。
「もう、大丈夫でしょう。これだけあなたを信頼していれば、今の状態でも、シグルドはあなたの言葉を受け入れるはずです」
「あ……」
言われて、マルーは小さく頷いた。心なしか顔が赤かったが、誰もそれを言及する者はいなかった。
「さて、……それでは、マルーさん。お願いします」
シタンは、倒れていたシグルドの身体を起こし、壁に背を預けさせてマルーを手招いた。
「え、でも…気を失っていますよ?」
「大丈夫です。気を失っている状態でも、あなたの声なら届きますよ。語り掛けるだけでいいんです。仕上げは私がしますから」
「…はい…」
マルーは頷いて、そっとシグルドの傍らに膝をついた。長い銀色の睫毛が伏せられ、男らしい頬の曲線に乱れた銀髪がかかっているのを、マルーの華奢な指がつまんですいた。
「……シグ。次に目覚めた時……あなたは、二十九歳のシグルドです。あなたは…何も恐れる事はなく、何にも怯える必要はありません。…一人じゃないからね…」
「……ルー……?」
瞳を閉じたまま、シグルドの唇から擦れた呟きが落ちた。マルーはシグルドの頬にそっと手を伸ばし、優しく囁く。
「ボクは、ここにいるから……さよなら、十七歳のシグ」
「………」
一瞬、シグルドの口元に寂しい微笑みが浮かんだのは、マルーの気のせいだったろうか?
マルーは胸をつく焦燥感に、そっとシグルドの額に唇を寄せた。
十七歳のシグルドが、もう、寂しい思いをしないように、願いを込めて……。
今日も、ユグドラシルのブリッジに、冷たい風が吹いている。
「……若、あの…」
「何だよ」
不機嫌最大で、ぎろりと睨まれて、シグルドは深く嘆息をつく。
なぜか、この頃のバルトは超特大の低気圧である。その原因について、知っていそうな者たちは皆、訳知り顔で沈黙していた。
中でも、古い馴染みのシタンなどは、嫌になるほどもったいぶった態度で、こう囁くのだ。
『まあ……言ってみれば、自業自得ですからね。こうなった以上、あなたはひたすら王子様と王女様の機嫌を取らねばなりませんよ』
それを思い出し、再び嘆息するシグルドに、バルトはあからさまに不機嫌なまま視線を斜めにする。
「……まぁ、お前のせいじゃないってぇのは…解ってんだよ」
「若……」
「だがなぁ、そんなことは知ったこっちゃねぇんだ。お前だって無関係じゃねえんだから、黙って八つ当たりされてろ」
「……はぁ……」
ため息ともつかない返答したシグルドに、バルトはふんと顎をそらす。
そのとき、ブリッジの扉が軽快な音を立てて開かれた。
「あ、の~。若」
おどおどとした少女の声に、シグルドが視線を向ける。すると、妙に落ちつかなげなマルーが、びくりと肩を震わせた。
そんな彼女に何か言おうとシグルドが口を開く前に、バルトはわざとシグルドからマルーを隠すように、さっさとそちらに歩み寄った。
「なんだよ、マルー。ここには来んなって言っただろ」
「あ、うん…あのね、先生が呼んでるって…」
「そか。じゃあ、行くぞ」
そう言って、バルトはさっさとマルーの肩を押し、ブリッジを出ようとする。マルーは慌てて肩越しにシグルドを振り返り、それからぎこちなく微笑んだ。
「あ…じゃ、じゃあね、シグ! また…今度ね」
「はぁ…」
一体、自分は何をしでかしたのやら。
不機嫌丸出しでこちらを警戒するバルトと、妙におどおどして、こちらに近寄ってもこないマルーとを思って、シグルド・ハーコートは苦悩するのであったが……。
彼の悩みが解決するには、まだ少々の時間が必要のようだった。
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