いつでもきみを
想いは目に見えず 差し伸べる腕もないけれど
声は風にのらず 眼差しもとどくことはないけれど
いつも いつでも想っている
君のことを いつでも君を
い つ で も き み を
え? あの二人のことですか?
何故そんなことを? ああ…なるほど、メイソンさんも心配性だな。
ケンカしたんですってね。え? そりゃあ解りますよ、同じ艦に乗っていれば。
それに、わりと年中行事でしょう、あれは。日に一回は、口喧嘩してるんじゃないかな。まあ、大抵はあの単細胞艦長の一人相撲って感じですけど。
あ…アヴェの人に、こんな事言ったら怒られるかな?
解りますよ。どことなく、シグ兄ちゃ…シグルドさんやバルトに似てますから、あなた。アヴェ特有の雰囲気ってやつでしょうね。え? メイソンさんの? ああ、それで…聞き込み調査ってやつですか。メイソンさん、ユグドラから離れられないでしょうしね、今。
今はニサンにお住まいで? へえ、じゃあ、僕なんかよりもずっと、マルーさんの事には詳しいんじゃないですか?
ええ、元気にしてらっしゃいますよ。あの人は、いつも元気で明るくて、僕たちはみんな彼女に癒されています。さすがですよね、大教母の存在感というものは…。
でも、一番それに甘えているのは、あいつなんじゃないかな。
僕から見ても、あの二人の関係はバランスよく見えますよ。ただ…時々すごく、不愉快になる。あいつは、マルーさんの気持ちを、解ってないんじゃないかな。
え? いや…恋愛関係じゃ、ないですよ。全然。そんな風には見えないな。ただ、お互いがお互いをすごく大切にしてるってことは…わかります。特に、マルーさんはね。
マルーさんは恐らく、バルトに対してある種の負い目を感じてるんじゃないかな。今でも。…まあ、しょうがない事なのかもしれませんけどね。
でも、もう解放されてもいい頃なんじゃないかと、僕は思うんですよ。もちろん、本人には言えませんけどね、こんな事…。だって、本人はきっと『囚われている』なんて自覚は、ないでしょうし。
彼女のすごいところは、無意識の内に、他人を…いや、バルトのことを一番に考えてしまえるところだと思うんですよ。無償の愛…ってやつですか?
はは、言葉にすると何だか安っぽいな。それに、僕自身は、こんなこと言うと不謹慎に思うでしょうが、無償の愛なんて信じられないんです。彼女のひたむきな想いを痛感していてもね。
誰しも、人を愛する時、意識でも無意識でも、つい『見返り』を期待してしまうものでしょう? それは決して悪い事じゃないけど…時々、自己嫌悪を感じてしまう。僕は、たった一人の妹にさえ、愛情の『見返り』を…僕に語りかける『声』を求めてしまう。
でも、マルーさんは違うんです。バルトに、何も求めていない。いや…それどころか、彼の負担になるくらいなら、自分の命さえ迷わず差し出す。
僕は最初、素直にそれを羨ましいと思いました。素晴らしい人だって。
けど…最近思うんです。それは本当に『素晴らしい』ことなのかなって。
誰かのために命を投げ出すって、言葉で言うよりももっとずっと簡単な事なんだと思うんですよ。だけど大抵の人は、それを切羽詰った状況で初めて自覚するものなんです。目の前で大切な人が死にかけた時、命を投げ打って助ける無意識の自分…。
不思議ですけど、人間って必ずしも自分のためだけに生きているわけじゃないんですよね。
だけど、彼女は…マルーさんは違う。あの人は、多分何の気負いも覚悟もなく、バルトのために命を投げ出せるんです。悲壮なものなんかかけらもない。ただ当たり前のように、そう、呼吸をするのと同じように、あの人は命を落とせるのかもしれない。あいつのためなら。
でも、それって本当に素晴らしい事なんですか? 素敵なことなんですか? 僕にはそうは思えない。
それは…哀しいですよ、見ていて。痛々しすぎる。
誰にも救えないんです。彼女の囚われた心は、彼女自身でしか救えない…否、一人だけ。もしかしたら、マルーさん自身にも救えないものでも、あいつなら救ってあげられるのかも知れない。
でも、だからこそ僕は、なかなか行動に出ないあいつを歯がゆく思うんです。僕があいつの立場だったら、もっと早く彼女を………。
……変だな、何で僕は、こんな余計な事まで話しているんだろう。すみません、おかしな話ばかりで。
僕から見て、あの二人は微妙なバランスを保っているように見えます。けど、それは一方でとても危ういバランスなんだ。
今はまだ、上手く保てているかもしれないけど……いつまでも、あいつが彼女の事を縛り付けたままだったら、いつか、誰かが横から彼女をさらってしまうかもしれませんね。
はは…まあ、それは冗談ですけど。
…何だか、あなたは不思議な人ですね。つい、余計な事まで話してしまいたくなる。
え? まさか! 親父とあなたとは、似ても似つきませんよ。あなたのような人が父親だったら、理想的なんですけどね。
あなたの雰囲気は、親父に似ているのではなくて、どちらかと言うと…
え? ああ、フェイならさっき、橋の方で見かけましたよ。彼にも話を聞くんですか? メイソンさんも、心配性だな…まあでも、今回のケンカに、彼も居合わせているそうですから、僕なんかよりもよっぽど詳しい話を聞けると思いますよ。
ええ、じゃあ失礼します。もし良かったら、ユグドラが出航する前に、艦内にいらしてください。変な話を聞かせたお詫びに、僕が淹れたお茶でおもてなししますよ。それとも、メイソンさんのお茶の方が、なじみですか?
はい、ではまた。
はい…そう聞きましたけど。
ですけど、あのお二人のことですから、そう深刻なケンカではないと思いますよ。
…そうですか。ええ、解ります。離れていると、小さなことでも不安になりますよね。私なんかの話でよければ、アグネスさんに教えて差し上げてください。
ですが、今回のケンカの内容は、私、知らないんです。居合わせたのは、フェイさんとエリィさんで…でも、エリィさんの話では、いつもと同じような内容だったということですよ。
え? そうですね…いつもは、何だかとても些細な事で口喧嘩されているようですけど。といっても、全然険悪なものではなく。お互いに、言いたい事を言い合える、とてもいい関係に見えます。
けど…あ、ごめんなさい。なんでもないんです。
え? ……はい、でも、これ私が言ったって、内緒にして下さいます?
バルトさんって…ちょっと、言動に、その…無頓着なところがあるんです。だから、お二人の喧嘩の種は、大体バルトさんの言い方だったり、言葉だったりですね。
私も、初対面の時、いきなり『おチビさん』なんて呼ばれて、ずいぶん怒ったりもしましたけど……。
ですが、私なんかは、バルトさんの言葉をすぐに真に受けてしまいますけど、マルーさんは最初から、バルトさんのことを解っていらっしゃるから、全然気にしないで、ぽんぽん言い返していますけど。
それがまた、そばで聞いていて気持ちがいいくらいなんです。あの二人って、お互いに遠慮なく言い合いをしているように見えて、本当は相手のことをすごく想っているんだなあって、いつも皆で言っているんです。ふふ、知らないのは本人同士だけだと思いますよ。
そうですね…私も最初は、お二人は恋人同士だとばかり思っていました。でも、一緒に生活してみて、ちょっと違うなって……じゃあ、どういう関係に見える? と聞かれると、それも困ってしまうんですけど…。
きっとあのお二人は、『恋人』とか『いとこ』という言葉ではくくれない、何かがあるんでしょうね。時々、羨ましく思えます。
そうそう、先ほどのお話なんですけど、バルトさんって、誰にでも無神経…あっ、ごめんなさい、ええと、あまり深く考えないで、言葉を出してしまうところがあるようですけど、マルーさんに対しては、ちょっと違うように思えるんですよ。
何て言うか…うまく言えないんですけども、たまに、ごく軽い口調の中に、マルーさんのことを深く思いやっているんだって感じる瞬間があって。
マルーさんって、本当に我慢強い方じゃないですか。誰に対しても公平ですし、思いやりが深くて、傍にいるとつい、安心してしまうんですけど。でも、だからこそマルーさんは、自分が辛い時や苦しい時なんか、人一倍我慢してしまうんです。
この間のことなんですけど、マルーさん、ちょっと風邪をひいた時があったんです。でも、誰にも何も言わずに、一人でじっと我慢していたんですよ。
そうしたら、バルトさんが誰よりも先にそれに気付いて、マルーさんを叱ったんです。『コレぐらいの風邪で我慢なんかするんじゃねえ、もっと酷くなって、俺たちの手に負えなくなってから我慢しろ!』なんて言って。
あれって、バルトさん流の気の遣い方なんでしょうね。正面からマルーさんに『我慢するな』って言っても、マルーさんのことだから、逆に殊勝に謝ってしまうと思うんです。でも、ああ言われた時、マルーさん、『解ったよ、じゃあ、何とかしてよね!』なんて言って、堂々とバルトさんに看病させていました。
もちろん、二人とも解っていたんだと思うんですよ。お互いが、お互いのことを尊重しているんだってこと。でも、それが傍目に見てもすごく自然な感じで……何よりも、マルーさんが本当に素直に、肩の力を抜いていて。
私、あの時から少し、バルトさんに対する見方が変わったんです。
あのお二人は、多分本人同士自覚してらっしゃらないでしょうけど、すごくお似合いだと思いますよ。だから、アグネスさんにもそう伝えてください。
ところで、あなたはニサンの方なんですか? いえ…どことなく、誰かに似ているような…。
え? あ、はい。エリィさんなら、丘の方に向かわれるのを見ましたけど。メイソンさんに頼まれて、ガンルームに飾る花を摘んでくると。
いいえ、私なんかの話がお役に立てれば。ええ、今回の喧嘩も、だからあまり心配する事はないと、アグネスさんに…それにしても、お耳が早いですね、アグネスさん。
え? うふふ、そうですね。あの二人は、傍で見ているととても歯がゆくて、危なっかしいですものね。
ええ、解りました。それでは、失礼します。アグネスさんによろしくお伝えください。
ケンカの内容って言われてもなあ。正直、よく解らないってとこかな。
確か、ぬいぐるみがどうとかこうとかって…俺もエリィも、いつもの事だと思って全然気にしてなかったからな。
え? まあね、日常茶飯事って感じかな。仲が悪い? とんでもない、逆、逆。
あいつ…あ、バルトの方。スナオじゃないからなー。見てて、たまに笑いが止まらなくなるよ。
あいつ、見てくれは結構軟派なのに、中身はからっきし純情だから。口で言うほど度胸もないし、皆が思ってるほど無神経でもない。
特に、マルーのことがからむと、笑っちゃうくらい不器用なんだ。
俺から言わせれば、独占欲以外の何物でもないんだけどさ。あいつ、マルーの傍にいる時いちいち理由を考えるんだよな。『危険だから』とか『退屈だから』とか。
何で正直に『傍にいたいから』って言えないかなー。
あいつがあんな調子だから、マルーもつい言い返したくなるんだろうな。あいつらの口喧嘩なんて、仲が良い証拠だよ。
だけど、マルーにとってはすごくイイコトかもしれないな。
マルーって、明るくてしっかりものに見えて、ホントはすごく心配性なんじゃないかな。
特に、バルトのことになるとさ。些細な事に不安を感じて、でもその不安を誰にも…バルト本人にさえ言えなくて、こう、ぐるぐるしちゃうとこあるよな。
でも、本人の自覚があるかはわかんないけど、そういう時必ずと言っていいほど、バルトが口喧嘩をしかけるんだよ。無神経を装って、マルーを挑発して。そうするといつのまにかマルーは笑ってるんだ。
コレに気付いたのは、ごく最近なんだけどさ。多分、俺とエリィと…シグルドさんとか、メイソンさんとか、近い人しか気付いてないと思うけど。
だから、バルトって案外器用なのかもしれないな。ただ、そういう小細工は得意なくせに、面と向かってとなるとからっきし。要するに、シャイなんだよな。
それに、あいつまだ自覚してないかもな。自分の、マルーに対する気持ち。
え? 当然、そうだろ。あれが恋愛感情じゃなかったら、何が恋愛だよ、って感じ。
ただ、お互いにすごく近くて、気付けないんじゃないかな。いや、とっくに気付いてるんだろうけど、なかなか素直になれない。下手に昔から知ってるから、今更って感じだろ。
まあ、バルトの場合はさ、大切すぎて手が出ないって所、あると思うぜ。なんか少女趣味だよな、こういう言い方は。
だけど実際、バルトは他の何に対してよりも、マルーのこととなると慎重なんだ。あの磊落な男がだぜ? 本人、それに気付いてるんだかいないんだか…まあ、後者であるとは思うけどね。
でも、バルトはいいだろうけど、マルーがさ。俺としては、早く楽にしてやりたいな。
楽に…っていうのかな。時々、マルーを見てると痛々しいんだ。俺なんかがそうなんだから、バルトのやつはその何十倍だろうな。俺としては、あいつの気持ちも解らないではない。
かと言って、あいつは俺にそんなこと、一言も愚痴らないけどな。変なとこではずけずけとこっちに踏み込むくせに、肝心なところで水臭いところあるんだよな。
まあ、あいつらの事は心配いらないよ。メイソンさんには、俺からも言っておく。あんた…えっと、名前はなんだっけ?
エド? ふうん。ニサンの人なのかい?
ああ、なるほどね。だからメイソンさんと知り合いなのか。アヴェに昔住んでたってことは、バルトのことなんか詳しいのかい?
…そうだよな。あいつ、アヴェにいたのなんかほんの数年だもんな。
良かったら、あとでユグドラの方にも顔を見せてくれよ。バルトにも紹介したいな。
なんか、初めて会った気がしないんだよな。話しやすいって言うか…誰かに似ているような感じで。アヴェ特有の雰囲気ってやつかな? え? はは、ビリーにも話を聞いたのか。メイソンさんも、念が入ってるな。
…ああ、そうか! あんた、どことなくシグルドさんに似てるんだ。雰囲気とか、物言いが…え? ああ、そうだよ。知ってるのか? シグルドさんを。
ああ、伝えておくよ。いや、それよりあんたが後で、直接会ったらどうだい?
そうか。じゃあ、またあとで。
アグネスさんらしいわ。心配で仕方がないのね。
でも、心配はいらないですよ。今回のも、ただのじゃれあい。ただ、場所が場所だっただけに、人の目に触れて話がちょっと大きくなっちゃったのね。
きっかけは、些細な事だったんです。バルトが、マルーのお気に入りのぬいぐるみを取り上げちゃったの。
え? ふふふ、そうじゃなくて。まさか、バルトにそんな趣味があるわけないわ。
そのぬいぐるみ…くまのぬいぐるみなんだけど、マルーが細工をして、片方の目にアイパッチをつけているの。で、青いリボンを首に巻いて。
もう、解るでしょう? くまの名前は『ばるとろめー』ですって! マルーったら、そんな露骨な事をしているくせに、全然自覚がないの。他のぬいぐるみなんかよりも、ダントツにそのくまを可愛がっているくせに、バルトの代わりにしているって自覚はゼロ。
周りの人間は、マルーの気持ちなんかお見通しなんだけど…おかしな事にね、本人たちは全然気がつかないんです。
特に、バルトなんか。あんまりにもマルーが、そのぬいぐるみを大事にしているから、嫉妬しちゃってね。ふふ、今考えるとおかしい。バルトったら、私やフェイのいる前で『そんなにこいつがいいのかよ!?』なんて、息巻いて。ぬいぐるみに本気で嫉妬していたわ。
でも、本人たちはぜんぜん気づかないの。マルーが、バルトの代わりにぬいぐるみを傍においてることも、バルトが、自分よりも大事にされているぬいぐるみに嫉妬していることも。
おかしいですよね? 二人とも、とっても露骨なのに。
きっと、あの二人の中に、長年培われてきた固定観念があるのね。恋愛感情として発展する以前から、お互いのことを大事に思っていたから、自分たちの中にある変革に気付かないの。
でも…私は、早く気付いてほしいと思う。特に、マルーには。
あの子、自分が『女』だってことに、強い負い目を感じているんです。女は無力なもの、足手まといなものって、無意識にがんじがらめになって。自分が女である限り、バルトの足かせになると、信じ込んでいるんです。
アグネスさんに聞いたことがありませんか? マルー、そう言う自分への負い目のせいで、無意識に自分の成長を止めてしまっているらしいって…。
成長を止めるなんて、普通に考えたら無理でしょう。でも、そんな信じられない事が、現実に起こっているんです。それだけ、マルーの心に巣食っている思いが強いんだわ。
それでもあの子、いつも笑っているの。自分がどんなに辛い時でも、隣に一人でも困っている人がいたら、その人を気遣ってしまう。あの子の優しさには、限りがないんです。でも、その限りを見つけてやれるのは、バルトだけなんだと思います。
それに、マルーが気付いてくれれば…ううん、彼女のことだから、きっと気がつくわ。だって、傍に大切な人がいてくれるんだもの。
マルーは、子供の頃の経験から、『力』でしか大切なものを守ることは出来ないと思っているようなんです。だから、早くマルーに自分の気持ちに気付いてもらいたい。『女』だからこそできること、与えられるものに、気付いてほしい。
なんて。私ったら、すっかりおせっかいが板についちゃったみたいだわ。
だけど、本当にマルーにはお世話になっているし、何よりも、あの子のことが好きだから…だから、どうしても肩を持っちゃう。バルトったら、早くマルーを安心させてあげればいいのに、って。
でも、周りがやきもきするよりも、案外本人同士が一番よく解っている事かもしれないですね。
とはいえ、私もアグネスさんの気持ちがわかるわ。あの二人、どうしても目が離せないんですよね。危なっかしいというか、微笑ましいというか…。
そういえば、あなたはニサン正教の方ですか? …やっぱり。物腰が、どことなくマルーに似ているから、そうじゃないかなって思いました。
ええ、似ていますよ。雰囲気というか…何だか、顔立ちも似てらっしゃるみたい。
マルーをご存知なら、会っていかれたらいかがです? 今丁度、アグネスさんもガンルームにいらっしゃると思いますよ。
ええ。メイソンさんもいらっしゃいます。…あ、もしかして、あのお二人に頼まれて、マルーたちのケンカの調査を?
ふふふ、皆、心配性なんだから。でも、大切にされている証拠ですよね。
ええ、じゃあまた、ユグドラシルで。
せっかくニサンの街にいるっていうのに、俺はむしゃくしゃしていた。
本当なら、最近あんまり一緒にいられなかったマルーを誘って、丘の上の大樹のところに散歩に行くつもりだったのに、出掛けにしょーもないことで口喧嘩をしてしまって、お互いに意地の張り合いだ。
だけど、今回は俺が悪い。つーか、今回も。
俺は、あの呑気なぬいぐるみに『嫉妬』してた。屈託なくあのぬいぐるみを可愛がるマルーの態度に、イライラしていた。
…ったく。俺の名前なんか付けるから、余計にむかつくんだよ。同じ名前なら、何で俺に甘えねえんだ。
まあ、だからって急にぬいぐるみを取り上げたのは、やりすぎだったよな。いくら、これ以上目の前で奴に抱きついてるマルーを見てたら、無意識に鞭でクマ公を叩き潰すところだった、とは言え。
はぁー…仕方がねえ。探し出して、謝るか。
そう思った俺が、重い足取りでニサンの町を歩いていた時、草の茂る古い橋の上で、不意に誰かに呼び止められた。
せっかくニサンの街にいるっていうのに、ボクはしょんぼりしていた。
本当なら、最近あんまり一緒にいられなかった若を誘って、丘の上の大樹のところに散歩に行くつもりだったのに、出掛けにつまらない事で口喧嘩をしてしまって、お互いに意地の張り合い。
だけど、今回はボクが悪い。珍しくも。
ボクは、クマのぬいぐるみに『ばるとろめー』って名前をつけて、可愛がってた。勝手に若の名前を借りちゃって、若、怒っちゃったのかな。
だって、そうしているとばるとろめーは、若の代わりにボクを慰めてくれるんだ。…やっぱり、ボク、若に甘えちゃってたのかな……。
そうだよ、いくら若でも、勝手に自分の名前をつけられたら、嫌だよね。くまのぬいぐるみだもんね。それに、お揃いのアイパッチまでつけて、ますますそっくりしにしちゃったし…。見る人見る人、皆笑ってたもんなあ…若、恥ずかしかったよね。
はぁー…仕方がない。早めに謝っちゃおう。
そう思ったボクが、重い足取りでニサンの町を歩いていた時、赤レンガの古い坂道の途中で、不意に誰かに呼び止められた。
目前に立つ人の顔は 逆光で見えない
けれども何故か 胸が騒ぐ
暖かい
傍に行きたい
ニサンの蒼穹から降り注ぐ太陽の光が その人の影を濃く切り取っている
一呼吸の後 その人は 言った
『…お前にとって、『あの子』はどんな存在?』
風の声に消されるような
はっきりしない声だったけれど
何故だかとても懐かしくて
何故だかとても寂しくて
聞かれた質問を理解する前に するりと素直に言葉が返った
「空気よりも、大切なもの」
その瞬間
その人は にっこりと 微笑んだ
「………親父?」
「………ママ?」
ユグドラシルのガンルームに、優しい笑い声が響いた。
「…お二人とも、よほど気がかりだったのでしょうね」
穏やかな眼差しで、シスターアグネスが呟く。昔を懐かしむように細められた目元に、寂寥とも懐古とも取れない淡い光が宿っていた。
「それにしても、不思議なことですな…」
しわ深い目元を感慨に綻ばせ、メイソン卿は磨いていたグラスをことりとテーブルに置いた。そこに乳白色の液体を注ぎ入れ、目の前の銀髪の青年に差し出す。
シグルドは静かに瞳を閉じ、口元に微笑を刷いた。
「……一瞬でしたが…確かに、陛下でした」
「…シグルド卿のところへも、みえたのですか」
「ええ。とても満足そうに微笑んでいらっしゃいました」
そう言って、乳白色のグラスを傾けるシグルドに、メイソン卿は優しい眼差しを向ける。
「他の方々は、まさか陛下と先代教母様だとは、夢にも思いませなんだでしょうね」
「私も、マリアさんとエリィさんからお話を聞いた時は、にわかに信じられませんでした」
そう言って、シスターアグネスは少しだけ目を伏せた。かすかに唇を噛み締めて、ふうっと細い吐息をつき。
「本当に…人を驚かせるのがお得意なのですから…エルヴィラ様は…」
そっと、尊い人の名を告ぐ。
「陛下も、相変わらず喰えないお人だ…」
つられるように、メイソン卿も瞳を閉じた。瞼の裏の漆黒には、大切な主君との共有の思い出。会えなくなった年月など、一瞬で消えてしまうほど、華やかで鮮烈な幸せの記憶。
メイソン卿とシスターアグネスが、それぞれに懐かしい思い出に浸っている傍らで、シグルドはふと口元を上げた。
バルトとマルーの行く末は、はるか高みから彼らを見守るあの二人にも解らないものらしい。生きている者ですら、時として歯がゆく、はらはらする二人の関係を、天上から覗く瞳もまた、同じ思いで見守っているのだろう。
そして今回、二人は満足のいく答えを手に入れたのだろうか?
シグルドは、静かに視線を窓に向ける。
ニサンの蒼穹は、穏やかに彼に微笑んでいた。
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