あの日見た朝焼け






 朝起きぬけに 雲ひとつない青空

 わけもなく意味もなく 幸せだなんて感じる日が

 あってもいいんじゃないかと思う

 君の隣でそう思う





**********





 ビリー・L・ブラックの朝は早い。
 幼い頃から身に付いた神職としての誇りがそうさせるのか、はたまたもって生まれた生真面目な性質ゆえかはさておいて、下手をすれば勤勉で知られるユグドラシルの乗員よりも早く起きだし、朝日に対して一人拝する彼の姿は、時をおかずして戦艦の名物となった。
 従って、その日のビリーが早朝から颯爽とした身のこなしで歩くのを、天変地異の前触れのごとき驚異的な珍しさで二度寝の誘惑を振り切ったユグドラシル艦長が、のそのそとブリッジに向かう途中で見かけた時も、いつもの早朝礼拝かと気楽な調子で声をかけた。
「おう、相変わらず早いな、ビ…」
「バルトっ!!」
 噛みつくような迫力で振り返り、勢い銃も抜きかねないようなビリーの様子に、バルトは思わず腰に手を伸ばした。だがそこには愛用の鞭などなく、むなしく指が開閉する。
「おっ、落ち着けビリー! 何があったか知らねえが、話せば解る!」
「じゃあ、君は知ってるの!? プリムの居場所!」
「そう、プリムの…って、はぁっ?」
 常日頃の後ろめたい行いが災いしてか、ビリーのただ事ではない様子に慌てふためいたバルトだったが、思ってもみなかった言葉に一瞬眼を点にする。
 勢い込んだビリーが、よくよく見れば法衣の前もろくに合わせていないまま、その銀色の髪をかきむしった。
「いないんだよ! 僕が目を覚ましたら、ベッドがもぬけのカラだったんだ!」
「いないって…あれ? プリムは確か、マルーの部屋じゃ」
「僕がユグドラにいる時は、プリムの面倒は僕がみるって言ったんだ。…そうだ、マルーさんのところだ!」
 はっと顔を上げて、急いで方向転換をしたビリーの背に、バルトは腕を伸ばす。
「ちょっと待て! こんな時間にマルーの部屋に行くのか?」
「だって…」
「落ち着けよ、ビリー。大体、ユグドラの中にいる限り、プリムはどこで何してようが安全だ。ここにゃあ、お前の妹に危害をくわえるヤツなんざ、一人もいねえよ」
「……」
 バルトの言葉に、興奮げだったビリーが一瞬深く息を吸った。そして、ゆっくりと法衣の前を合わせ、軽くため息を吐く。
「―――ああ、そうだった…」
 気の抜けたようなビリーの声に、バルトは拍子抜けしてしまう。気の強い、嫌味で、底意地の悪い、けれどもとてもプライドの高い彼にしては、珍しいほどへこんでいる。
「…どーした。何か、暗くねえか」
「…君なんかに説教されて、それで落ち着いた自分が情けないんだよ」
「おまっ…! 言うに事欠いて、なんてむかつく言い草だ!!」
「うるさいなあ、耳元で怒鳴らないでよね。…とにかく、僕は失礼するよ」
 そう言って、さっさと踵を返すビリーに、バルトは噛みつくように追いすがった。
「どこ行くんだよ! まさか、マルーの部屋じゃねえだろうな」
「違うよ」
「じゃあ、どこだよ?」
「君には関係ないよ」
 とりつく島もないとは、まさにこういうことだろう。バルトは、普段に輪をかけて…いや、普段のそれとはどこか種類の異なるビリーの苛立ちに、不満たっぷりに眉を寄せた。
「いーや、関係あるね! お前が朝っぱらからマルーの部屋に押し掛けねえかどうか、見張ってねえと安心できねえ」
「君じゃあるまいし、女性に対してそんな失礼なことはしないよ」
「よく言うぜ! 俺に言われるまで本気でマルーの部屋に行こうとしてたくせに」
「もう頭は冷えたって言ってるだろ。それに、何でそこまで執拗に、僕がマルーさんの部屋に行くことを止めるんだ」
 振り向かずに突き刺された言葉に、バルトは無意識に仰け反った。
「そりゃ…こんな朝っぱらじゃ、マルーの迷惑に…」
「朝は朝でも、そろそろ訪問に失礼な時間じゃないよ。君が言いたいのは、自分以外の男が彼女に近づくのが気に入らないってことじゃないの?」
「だっ…だれが!!」
 耳元を赤くしたバルトは、そっくり返った体勢のまま身長差を利用してそれを隠した。ビリーは呆れたようにそれを眺めつつ、くるりと優雅にきびすを返す。
「とにかく、僕は失礼するよ。マルーさんの部屋に行くつもりはないけど、そんなに心配なら君が彼女の部屋に行っていればいいじゃないか。ついでに、もしプリムがそこにいたら、僕は礼拝しているって伝言頼むよ」
「お…おう」
 一応の決着をつけたビリーが、さっさと歩き出すその後ろ姿に、バルトは釈然としないような眼差しを向けていた。





**********





 固い装甲版に覆われているユグドラシルの回廊は、ビリーの規則正しい足音を、まるで時計の針のように、正確に、そして冷たく響かせる。
 ビリーはこの音が嫌いだった。
 初めて『教会』を訪れた日、床に響く自分の靴音が、こんな風に鳴り響いたのを覚えている。そしてその高らかな音に、誇らしげに顔を上げていた自分の姿も。
 今、早朝過ぎのユグドラシル内で活動している人間は少なくない。それでも、甲板へと向かう道を歩くのはビリーの他にはいなかった。たった一人で歩く回廊は、暗く、冷たく、そして恐ろしいまでに機械的に、ビリーの道行きを見守っている。
 ビリーはこの道を通る時いつも、自分の十数年の歴史を振り返っていた。決して長くはないおのれの遍歴は、この機械的な暗い回廊に凝集されているような気がしていた。
 それは、自他共に認める現実主義者のビリーが、唯一感傷的になる瞬間だった。
 長い回廊の終わりを見つけて、無意識につく安堵の吐息。ビリーの早朝礼拝がユグドラシルの名物になった頃より、それは繰り返されてきた彼の癖。
 甲板へと続くハッチに手をかけて、ビリーは何かから逃れるようにそれを開いた。薄闇に追い立てられた身体が、外界の空気を求めて前に傾ぐ。
「………!?」
 瞬間、目の前に現れた透明な球体の群れに、ビリーは息を止めた。声を出すこともはばかられれるほどの驚愕に、少女めいた彼の顔が凍りつく。
 燦々と降り注がれる朝日の中、虹色に輝く球体たちは、悪戯な風に遊ばれて、めいめい思い思いの空へと舞い上がった。薄淡い朝焼けの中、夢のように美しいその光景に、ビリーはしばし見惚れてしまう。
「あ、ビリーさん!」
 無邪気な呼び声に、ビリーは夢から覚めたような面持ちで目を見開いた。
 ユグドラシルの甲板で、朝焼けにも負けない鮮やかなオレンジ色の法衣をはためかせ、茶褐色の髪の少女が嬉しそうに手招いていた。その傍らでは、薄桃色のストローから次々とシャボン玉を生み出している、銀色の髪の幼い妹がいる。
「プ、プリム…? マルーさんも、どうしてここに…」
 ぼんやりとした質問に、マルーはプリムを見下ろした。プリムはひときわたくさんシャボン玉を吹き出してから、その輝きを指差して、ビリーに笑いかける。
「綺麗でしょう? って。プリムちゃんが言ってるよ」
「え!?」
 マルーの言葉に、ビリーは驚いて叫ぶ。失語症を克服したとはいえ、まだまだ日常の会話はおぼつかない妹の声を、聞き逃してしまったのかと悔やむ彼に、マルーは明るく首を振った。
「違うよ、ビリーさん。言葉になんかしなくても、プリムちゃんの言いたいこと、わかるでしょう?」
 そう言って、プリムの頭を撫でてやるマルーに、プリムは嬉しそうに微笑んでいた。シャボン玉のストローをマルーに預けると、その小さな身体ごとビリーに駆け寄り、ぎゅっと抱きつく。
「起きたらプリムちゃんがいなくて、ビリーさん驚いたでしょう」
 マルーの言葉に、ビリーは軽く頷いた。腰に回されたプリムの腕を、優しい力で撫でながら、先ほどまでの自分の狼狽に苦く微笑む。
「慌てて探し回りましたよ。いや…探し回るところでした」
 そうしてまた、無鉄砲で短絡思考のユグドラシル艦長などに諌められた、普段ならば決して犯さぬ失態を思い出し、無意識に不機嫌な顔を作ってしまう。
「ごめんね。プリムちゃん、夜中におトイレに起きて、そのままボクの部屋に戻ってきちゃったみたいなんだ。ほら…夜だと薄暗くて、道もあまり解からなかったようだし、今まで寝起きしてたボクの部屋の方が馴染みがあったし…」
 ビリーの不機嫌の原因を勘違いしたのか、マルーは懸命にプリムをかばう。プリムは何も言わずに、じっとビリーの顔を見上げていた。その瞳には怯えや困惑の色はなく、この口数の少ない少女が、正確に兄の心情を理解していることに気づいて、マルーはほっと肩を落とす。
「えーっと…。とにかく、心配かけてごめんね、ビリーさん」
「あ、いえ、マルーさんに謝っていただくようなことではありませんよ。かえってご迷惑をかけてしまったみたいですし…」
 慌てたビリーがそう言うのに、マルーは明るく微笑んだ。
「んーん、全然! もともとプリムちゃんはボクの部屋にいたわけだし、それにとっても綺麗な朝日が見れたんだもの」
 爽やかな朝の風を大きなマントにはらませて、マルーは茶褐色の髪を揺らしながら笑った。ビリーはその光景に、今更ながら、なんと朝日の似合う人だろうと感心する。
「ビリーさんは、こんなに気持ちの良い朝を、何度も見ているんだね」
「え…」
 言われた言葉に、ビリーの表情が固まった。マルーはそれに気付かずプリムに歩み寄り、その手にシャボン玉のストローを渡してやると、そのまま嬉しそうにシャボン玉を作り出す姿に目を細める。
 ビリーは、そんなマルーの姿にこそ目を奪われて、知らずに両の拳を握っていた。
「…どうしてあなたは、そんな風に簡単に、朝日を美しくしてしまうのでしょう」
「え?」
 呟かれたビリーの言葉に、マルーはきょとんと振り返る。そこには、少女めいた美しい顔を困惑に曇らせている、銀色の髪の少年がたたずんでいた。
 頬にかかる朝の風に、そっと長い睫毛を伏せて、ビリーは普段の彼らしくもない歯切れの悪い調子で続ける。
「僕は…今まで本当に、朝日を見ていたのでしょうか。少なくとも僕は…今、ここで見ている朝日以上に美しい空を見たことがない…あんなにも美しい光を…」
 そう言って、気鬱げに瞳を伏せるビリーに、マルーはしばし口を閉ざしていた。少し離れた場所で、プリムは無心にシャボン玉を飛ばしている。その虹色の輝きが、きらきらと朝日を吸って瞬いていた。
「ねえ、多分さ、ビリーさん」
 ようやく口を開いたマルーの声音に、ビリーは誘われるように瞼を開いた。目前でたたずんでいる小柄な少女は、とても穏やかな眼差しを向けている。そのトパーズブルーの瞳の色に、ビリーは微かな既知感を覚えた。
「ビリーさんの目に、今日の朝日がとても綺麗に見えるのは、プリムちゃんのおかげじゃないかな」
「プリムの…」
「うん。これはボクの話なんだけどさ、一人で綺麗なものを見るよりも、誰かと一緒に見た方が何倍も綺麗に見えるんだ。それで、その相手が自分の好きな人なら、何倍も、何十倍もさ」
 こぼれる微笑が朝日以上にまぶしくて、ビリーは微かに瞳を細める。
「…だとしたら、それはあなたのおかげでもありますね」
「え?」
「僕では、プリムをこんなに喜ばせてやることはできない。…プリムのあんなに嬉しそうな笑顔を、僕はいつぶりに見ただろう…」
 言いながら握る拳の固さは、そのままふがいない自分への憤り。誰よりも笑顔が見たいと思っている妹を、いとも簡単に喜ばせてみせた少女に、いわれのない嫉妬すら感じてしまう。
 誰かのせいにして自分の未熟さを、弱さを隠してしまいたい。それは醜い自己防衛。
「どうしてあなたはそんなに簡単に、プリムの喜ぶことを見つけてやれるんですか?」
 情けない問いかけを、ぎりぎりの虚栄心で繕って、喉から手が出るほど焦がれる答えを、プライドが邪魔をして素直に訊けない。
「どうしてって言われても…」
 困ったようにマルーが微笑んだ。その瞬間、ビリーは顔から湯気を出すほど赤くなり、ひたすらに自分の愚かさを呪った。
「す、すみません…突然変な質問をしてしまって。あ…じゃあ、そろそろ僕は…」
「ビリーさんは、好きじゃなかった? シャボン玉」
「えっ?」
 突然問われ、ビリーは紅潮の名残に薄桃の色を刷いた頬を震わせた。怪訝そうな顔の彼に、マルーは真面目な顔で問う。
「ボクはさ、好きだったんだよね、シャボン玉。特に、こんな風に天気の良い日に、穏やかな風に乗せてたくさんシャボン玉を飛ばすの、好きだった。だから今日、ビリーさんをここで待つ間に、プリムちゃんと一緒にシャボン玉をしようって思ったんだよ」
 その滑らかな茶褐色の髪を、風の悪戯から守るように押さえて、マルーは遠くの水平線に目をやった。
「だからね、ボクは別に、プリムちゃんを喜ばせようって気を回したわけじゃないんだよ。たまたま、ボクが好きだったものが、プリムちゃんも好きだってことで…」
 そこでいったん言葉を区切り、マルーはビリーに向き直った。素直なトパーズブルーの瞳が、大きく輝いて彼を捕える。
「ビリーさんも、昔好きだったこと…プリムちゃんくらいの時に、夢中になったことを思い出してみて。それはきっと、プリムちゃんを喜ばせることができるんじゃないかな」
「……」
 その言葉に、ビリーはしばし沈黙した。幼い頃の思い出は、決して開かれることのない記憶の箱に、厳重にしまいこんでしまっている。その鍵の場所すら、今の彼には思い出せないのに…。
「…僕には、そんな思い出なんて…」
「ない? 本当に? よく思い出してみて」
「…僕は幼い頃から『エトーン』になるべく修行してきました。子供の頃の楽しい思い出なんて…」
 言いかけて、ビリーははっとした。目の前に立つ少女の、自分に勝るとも劣らない悲惨な過去を、唐突に思い出してしまった。無邪気な笑顔に癒されすぎて、彼女の痛みに鈍感になってしまっていた。
「あ…すみません」
 唐突に詫びたビリーに、マルーはきょとんと目を丸くする。そして、聡い彼女が少年の心の機微に気づいた瞬間、屈託のない笑顔を向けた。
「どうして謝るの?」
「僕は、あなたの過去を知っていたはずなのに、無神経なことを…」
「…ビリーさんは、ボクがどんな経験をしたか知ってる。でも、ボクがどんなことに喜んで、どんなことに楽しいと感じたかは、知らないでしょう」
「え?」
 虚をつかれたようなビリーに、マルーはその小さな手を胸の前で組んで、祈るように続けた。
「ボクだってさ、自分の歩んできた道が、決して穏やかなものじゃないって自覚はあるよ。ボク自身、客観的に自分の過去を振り返ってみたら、とてもじゃないけど楽しかったことなんて思い出せないもんね。…でも、さ。人は、悲しみだけで生きているわけじゃないんだよね。どんなに辛い事があっても、悲しいことがあっても、必ず救いはあるんだ。たとえそれが、他愛のないシャボン玉ひとつだってね、あの頃のボクには、とても美しいものに見えたんだ」
 例えばほんの小さな幸せ。そんなものに癒されるほど、凄惨な現実にうちのめされていたとしても、素直に潤った心を忘れない。
「辛いことに目隠しをされて、楽しいことを見逃すなんて損じゃない。過去を忘れるって言うんじゃなく、自分から過去に捕らわれることないんだって、ボクは思うんだ」
「……」
 目の前を覆っていた得体の知れない感情が、霧が晴れるように消えていくのが解った。
 決して押し付けず、それでいてすがりつきたくなるほど強く、暖かな少女の言葉に、ビリーは魔法にかかったような面持ちで唇を僅かに開く。かさかさの言葉を吐き出すために、それは少しだけ震えた。
「…エトーンになりたての頃の、僕の靴音を覚えているんです。僕は歩調を正確に響かせるのが好きで…颯爽とすればするほど、自分に自信が持てた」
 ほんの些細なことだけど、それは確かに暖かな思い出。
「本当は今も…そんな自分の足音で、自分を勇気付けているはずなのに…僕はいつのまにか、それすらも歪んだ思い出にしてしまっていた。初めて法衣に袖を通した日…初めて誰かに感謝された日…あの頃の僕が嬉しいと感じた気持ちを、いつのまにか灰色に塗りつぶしていました」
「じゃあ…、初めて朝日を美しいと感じた日は?」
 マルーの問いかけに、ビリーは静かに微笑を向ける。呼び戻された色鮮やかな記憶が、眩しいくらいに溢れ返る。
「僕がまだ幼い頃…両親と、赤ん坊だったプリムと一緒に海岸に日の出を見に行った時です。広大な水平線から上る朝日があまりにも美しくて、僕は母の手を強く握り締めながら、放心していました」
 穏やかに…とても素直に、亡き母の思い出を語るビリーは、自分自身の変革に気づいていた。そして、黙ってこちらの話に耳を傾けている少女の、大きなトパーズブルーの瞳が、誰のものと重なっていたのか、ようやく思い当たる。
「僕は母の手を握り締めて…ただ握り締めて…。僕がその時持っていた、どんな言葉を使っても、あの感動は伝えられなかったから…ただ、その暖かな手を握り締めていました。そして母は…そんな僕に何も言わず、ただ黙って見守っていてくれました…あなたのように」
「えっ?」
 きょとんと目を丸くして、マルーは驚いたように自分を指した。それから苦笑めいた微笑を浮かべて、くるりと大きくきびすを返す。
「ほーら、ねっ? ビリーさんだって、ちゃんと楽しいこと、覚えているじゃない。だったらもう、解るよね?」
 肩越しに振り返ったマルーが、無言でプリムに視線を流す。プリムはいつのまにかシャボン玉を作り出すことをやめ、燦々と照りかえる壮大な朝日に目を奪われるように、静かにたたずんでいた。
 ビリーは暖かな眼差しを向け、小さな妹の傍らに歩み寄る。はっとしたようにプリムが顔を上げると、彼はその小さな手をそっと握って彼女を見つめた。
「…綺麗だね、プリム」
 そう言って微笑む兄に、プリムは一拍の後、輝くような笑顔を見せた。それは先ほどシャボン玉の中で見た笑顔に、勝るとも劣らないほど嬉しそうな顔。
 そしてそのまま、兄の手に甘えるように身を寄せる妹を見下ろして、ビリーはこみ上げてくる感情に、どうしていいか解らずにいた。必死にプリムの言葉を求めていた頃の自分には、彼女のこんな表情に気づいてやれる余裕さえなかったことに、改めて気づく。
「プリムちゃん、良かったね」
 顔を出したマルーに、プリムはこくんと頷いて、可愛らしく微笑んだ。ビリーはマルーを見やり、プリムを見やり、言葉にできない幸せをかみ締めて瞳を閉じる。
 このまま時が止まってくれたら、ビリーは恐らく幸せな感情以外、何も思い浮かばずにいられるだろう。
 しかしその刹那の幸福は、勢い良く響いたハッチを蹴破る音によって無残にも引き裂かれた。 
「マルー!!」
「わ、若ァ??」
 突然の闖入者に、ひっくり返ったマルーの声。ビリーは忽然と消え去った気分の良い空間に、名残を惜しむように拳を握った。
「おっ前、朝っぱらからこんなところに来やがって! 探しちまっただろーがよっ」
 ずかずかと足音荒く近づいてきた従兄に、マルーはきょとんと大きく目を見開く。
「え? 探したの? なんで?」
「なんっ…でって、それは…」
 はっと我に返り、バルトは思わずのけぞった。そして、マルーの背後にビリーの姿を見つけると、思いだしたように声を荒げる。
「あっ、ビリー! そう、こいつが朝っぱらからプリムがいないとかどーとか騒ぎやがってよ、仕方がねえから俺が、マルーの部屋に探しに行ってやったら、お前いねえし…」
「僕は別に、マルーさんを探してくれとは頼まなかったけど」
 冷ややかに言い捨てたビリーの、絶対零度の視線にさらされて、バルトはたくましい腕を組んだ。
「そ、そりゃあな。けど、プリムへの伝言は頼まれたぜ」
「僕は、もしいたら、って言ったはずだけど。いなかったらいなかったで、君にどうこうしてもらうつもりはなかったさ」
「だーっ! 何だよその言いぐさは! 俺がせっかくこうして、骨を折ってやったっつーのに!」
「だから、僕はこれっぽっちも頼んじゃいないって言うんだよ。大体、人には朝っぱらから人探しなんかするななんて偉ぶっていたくせに、自分はどうなのさ。その分じゃ、だいぶみんなに迷惑かけてきたんだろ」
「すっっ…少しだけだ!! それに、お前の方が取り乱してたぞ!」
「嘘だね。さっき君がここに来たときの顔と言ったら…」
「おまえだって、あの時!」
「違うね!」
「何だとっ!」
 喧々囂々と繰り広げられ始めた『ユグドラシルの名物』に、マルーは呆れたように肩を竦めた。その傍らでは、さっさとシャボン玉遊びに興じているプリムが、たくさんのシャボン玉を生み出して微笑んでいる。
「うわあ…綺麗だね、プリムちゃん」
「……」
 二人の少女の無邪気さに、一瞬毒気を抜かれたように舌戦が止まった。朝焼けの中、にこにことシャボン玉を追うマルーの姿に、あからさまに視線を奪われている男を見やり、ビリーは湧き上がる非友好的な感情に従う。
「マルーさん、良かったら明日から、一緒に礼拝しませんか? これからはプリムもつれてくるつもりですし」
「え? いいの?」
「ええ、もちろん」
 嬉しそうなマルーに、ビリーは極上の微笑みを向ける。
「それに僕も、あなたと一緒の方が、朝日をもっと美しく見れるでしょうから」
「え?」
「おいっ! なんだそりゃ!」
 きょとんとしたマルーと、人好きのする笑みを浮かべたビリーとの間に強引に割ってきたのは、金髪の青年。ビリーは上背で負けている彼に冷ややかな視線を投げかけ、お義理の微笑みを唇に浮かべた。
「気になるなら、君も来れば? もっとも、起きられたらの話だけどね」
「何をーッ!?」
「じゃあ、そろそろ行こうか、プリム」
 バルトの憤慨を鮮やかに無視して、ビリーはプリムを手招いた。プリムはシャボン玉のストローをマルーに手渡すと、急いで兄の元へ駆け寄って、振り返りながらマルーに手を振る。
 軽い会釈と共にハッチに消えていったブラック兄妹を見送って、マルーはぴりぴりと機嫌を損ねている従兄に振り返った。
「わーか? 機嫌直してよ」
「機嫌なんざ、悪かねえ!」
 吠えるように怒鳴ったバルトに、やれやれと肩を竦めたマルーは、大分高くなりつつある朝日に目をやった。その眩しい光に目を細めながら、ポツリと呟く。
「もう…、せっかく、さっきよりも、何十倍も綺麗な朝日なのになー…」
「? なんだよ、それ」
「べっつにー。子供みたいに拗ねてる人には、教えてあげないよーだ」
 ちろりと舌を出したマルーに、バルトは何かを言いかけて、すぐに口を閉ざした。不貞腐れた気分を改めて、ここは一つ素直に従妹の言葉に従って、美しい朝焼けを拝むとしよう。
 傍らに立つ彼女が、美しい朝日に照らされて、いつも以上に可愛らしく見える、この瞬間だから。
「……明日から、俺も来る」
「ホントにー?」
 唸るように呟いたバルトに、マルーはくすくすと微笑んだ。寝つきはいいのに寝起きが悪い、従兄の特性を知っているから、仕方が無いなあと肩を竦めて。
「しょうがないなあ、じゃあ、ボクがモーニングコール、してあげるね」
「…おう」
 不機嫌そうに答えたけれど、バルトは内心『悪くないな』とほくそえんでいた。朝起きぬけに、従妹の声で目覚められれば、どれだけ眠かろうが二度寝をしない自信があった。
「今日は、いい天気だね」
 朝日に染め上げられた青空を仰いで、マルーが囁く。ユグドラシルに吹き付ける潮の香りが、しばらくの間二人を優しく包んでいた。





 End.




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