JEALOUS DOG


 ココロ向くままほえて吠えて吼えて

 ただひたすらに自己主張

 単純に明快な本能の叫び

 難しいことは考えない

 犬のように純粋一途


 忠誠心にも似た  嫉妬





**********





 始まりは、何気ないエリィの一言だった。
「マルーの男の人の好みって、わかりやすいわよね」
 聞くつもりはなかった。ガンルームの階下で、ようやく解放された作戦会議の疲れを癒そうと、コーヒーブレイクなぞしゃれこんでいただけで、突如わき上がった華やかな少女たちのお喋りなどには、興味もなかったのだが。
「ええっ? そうかなあ…」
 少しだけ照れたような、上擦ったマルーの声を聞いた瞬間、無意識のうちに身体を縮こめ、上からは死角となる階段の下へと移動したのは、純粋な好奇心よりも少しだけ色のある感情からだった。
「そうよ。もう、一目瞭然。ね、マリア」
「そうですねえ」
「そっかなー? そんなことないと思うけど…」
 いまいち釈然としない風のマルーに、エリィは少しだけ意地悪そうに微笑む。
「じゃあ、当ててあげましょうか? マルーの好きなタイプ」
「う…うん」
「まず、義侠心が篤い」
「うん」
「豪放磊落で、細かいことは気にしない」
「うん」
「でも、結構繊細で、人の気持ちなんかは大事にする、兄貴肌」
「うん」
「でもって、みんなを引きつけるカリスマ性がある。…どう?」
 エリィの言葉に、マルーは素直に頷く。
「すごい! その通りかも知れないよ、エリィさん」
 心から感心したように言うマルーに、エリィは得意げに胸を反らした。
「えっへん」
「でも、それってまるで、『あの人』のことですよね」
 マリアの何気ない言葉に、階下のバルトが身を固くする。
 今、エリィが言ってみせたすべての条件を満たすのは…。
(…俺か?)
 自意識過剰とは思わなかった。ごくごく自然な感情でそう納得し、ごくごく自然な成り行きでヤニ下がる。
(まあ…何だな。ガキの頃から一緒にいるから、あいつの男の基準が俺になったとしても仕方がねえやな…)
 そう思いながらも、緩みっぱなしの頬をどうしようもなく、バルトはコーヒーを一気に飲み干して退散を決め込むことにした。話題が自分のことと解ると、盗み聞きが急にいたたまれなくなる。
 しかし、バルトはその長い足をひょいと踏み出した瞬間、ガンルームから聞こえた言葉に硬直した。

「リコさんも、マルーさんのお好きなタイプでしょう?」

(―――は?)
 思ってもみなかった名前に、バルトの思考回路が停止する。さらに驚くべきことは、そう言われたマルーの返答だった。
「ええ…っ? そ、それは…うん…実は、そう、かな…?」
 多分に照れを含む声に、バルトは目の前が真っ暗になった。と同時に、無意識に持っていた自信過剰の自分を恥じ、真っ赤になる。
「あー、やっぱりね。マルーって、結構リコと話したがってるから、そうじゃないかなって思ってたけど」
 エリィの言葉に、マルーは赤くなった頬を振る。
「そ、そんなことないよぉ! ただ、リコさんってあんまり自分から話さない方だし、だからボク、何となく話しかけたくなるって言うか…」
「リコがいた、キスレブのD区画にあった孤児院も、ニサン正教のものだったしね。そう言うところでも話が合うわけだ」
 エリィの、多分にからかいを含む声に、マルーはますます狼狽する。
「で、でもみんなだって、いいなあって思うタイプあるでしょ?」
「そうねえ、私の場合は…」
「あっ、当ててあげようか? 今度はボクが」
「えー、いいわよう、別に…」
 そのまま楽しげに話に花を咲かせる少女たちの声が、遠く響く雷のように聞こえてきて、バルトはくらくらと頭を振る。
 自分でも信じられないほど動揺していた。
「…リコかあ。なるほどねえ」
「っっ?!」
 その時、突然背後から声がして、バルトは思わず叫びそうになった。その口をぎゅっと押さえつけられ、さらに隅へと引きずられる。
「しーっ! 静かに!」
「フィ、フィイー!?」
 未だ少年じみた高い声に、バルトはぎょっとして目を丸くした。
 濃紺の柔らかな法衣に、少女のように美しい銀色の髪を持つ彼は、美少年ともてはやされるに足る愛らしい顔を皮肉げに歪めて、十数センチ高いバルトを睨みあげた。
「君の巻き添えで、盗み聞きの汚名を着せられるのはごめんだよ」
「ビ、ビリー、おまえ何でここに…」 
 狼狽したバルトが、それでもトーンダウンしたのを見て取ると、ビリーは可愛げのない笑みをその頬に張り付ける。
「ついさっき、コーヒーでも飲もうかと思ってここにきたけど、君がずいぶん熱心に立ち聞きしているのを見て、声をかけそびれたんだよ。まあ、熱中するのも解る話題だけどね」
「なっ…」
 相変わらず人を食った少年の言葉に、バルトは口をぱくぱくと開閉する。そのままビリーは上を見上げ、少女たちの話が、また他愛もないものに変わったのを確認すると、顎でバルトを招いた。
「行こう。いつまでもここにいたら、遅かれ早かれ見つかるよ」
「お…おう…」
 多分に圧倒されながらも、バルトは素直にそれに従った。階上では、どんな髪型が一番可愛らしく見えるかの議論が、盛り上がりをみせているところだった。





**********




「しかし、意外だなあ。マルーさんって、リコみたいなタイプが好きなんだ」
「……」
 停泊中のユグドラシルの甲板に、奇妙な組み合わせがあった。
 普段は犬と猿もかくやというほどの反目ぶりを見せながら、そんな他愛のない諍いを本人同士が楽しんでいるような節のあるバルトとビリーだったが、それでもこうして二人でいる機会は珍しい。
 しかも、言い争いもせずに、だ。
 さらに珍しいのは、いつもならば意味もなく自信ありげに見える砂の海の男が、どこかしら意気消沈していることだった。
「でも、そう言われてみれば、思い当たる節があるなあ」
「…なにが」
 ビリーの独り言じみた言葉に、バルトがのっそりと反応する。
「マルーさん、リコに何かと話しかけるの見るよ。リコもあれで、満更でもなさそうだし…」
「…別に、俺にゃ関係ねえ」
「…あっそう?」
 そう言って、くるりと踵を返すビリーの服を、むんずと掴んだ二の腕に、ビリーは小悪魔のような顔で振り返る。
「…なんだい?」
「…リ、リコとマルーって、そんなに仲がいーのか?」
 恐らく、ありったけの理性を総動員して、何事もないように振る舞っているのだろうが、落ち着かなげな視線がそれを見事に裏切っていた。
 いい意味でも悪い意味でも分かりやすいこの砂の海の男の、愛すべき特性はそのまま意地の悪い少年の格好の獲物となる。
「そうだね。君は知らないだろうけど、結構一緒にいるね。もっぱら、君が会議かなんかに出てる時だけど」
 バルトがいる時は、マルーは必ず彼の傍にいることは、あえて教えてやらない。勝手に話をこじらせているのは、当のご本人なのだから。
 そんな底意地の悪さを巧妙に隠した少年は、押し黙る青年の無造作な金の髪を眺めやり、にやにやと微笑した。
「気になるなら、今度から注意して見てれば?」
「き、気になんて…!」
「リコは寡黙だけど信頼に足る男だし、マルーさんが憧れる気持ちも分からないではないなあ」
「……」
 真剣に悩み始めたらしきバルトを横目に、ビリーは少しだけ気の毒に思ったけれど、本気でマルーがリコに惚れていると信じるならば、この男は相当の馬鹿だなと酷評し、しばらくは成り行きを傍観して暇をつぶそうとほくそ笑むのだった。





**********




 改めて気をつけて見ると。
「リコさん! ギアのことで整備士の人が呼んでたよ」
「リコさん、この間の紅茶をまたいれたから、飲まない?」
「リコさん、あのね」
「リコさん、」
 マルーとリコの、その驚くほどの接触率に、バルトは閉口した。
 勿論、マルーはリコに限らず、誰彼となく世話を焼いたり、明るく話題を振ったりしている。リコだけ特別に見えるのは、よけいな邪推を頭に入れたバルトの、色眼鏡によるものだったが、当の本人はそれと気づかない。
 しかしこうして見ると、確かにマルーはリコに対して好感を持っているようだった。決してお似合いの二人というわけではなかったが(その意味では、バルトの方がよほどお似合いだろうが、自覚はない)普段は寡黙を決め込むリコが、人なつっこく好意を寄せるマルーには、幾分表情を和らげているのもまた気になる。
 はっきり言って、疑い始めればどんな些細なことも神経に障るのだ。普段、物事の裏をかくような心理戦にはからっきしのバルトなだけに、一つこうと決め込んだらとことんまでこだわり始める。
 だからといって、面と向かってマルーに詰問するわけにもいかない。マルーが誰に好意を寄せていようが、どんなタイプの男に惚れようが、バルトには関係のないことなのだ。少なくとも、今まで彼らは積極的にそんな関係を築くことはなかった。
 言うに言えない不満というのは、どうしても人をぴりぴりさせる。根が快活で後腐れのない男だけに、そのストレスは周囲に多大な影響を及ぼした。
「おい、バルト。何かあったのか?」
「若、お体の具合でもお悪いのですか?」
「若くん、悩み事ならばいつでも相談に乗りますよ」
 こんな風に、周囲が彼を案じるのは、ひとえに彼の人望のたまものである。けれども、バルトはこれらの好意に甘えることもできず、だからといって無下にもできないまま、慣れないジレンマの時を過ごした。
「おい、バルト」
 従って、ついにリコがその重い腰を上げた時、バルトのストレスはピークに達していた。いつもならば、お互いの性質上実に気の合うところを見せるバルトとリコだったが、この時ばかりは違った。
「なんだ、今の戦闘は。からっきし気が入ってねえじゃねえか。そんなんじゃいつか、怪我するぜ」
 言葉は悪いが、リコは本気でバルトを案じているのである。いつものバルトならば、そんなリコの不器用なやり方を理解できたはずなのに、神経のささくれだった彼には、言葉そのものがナイフのように思えた。
「…うるせえな、余計なお世話だ」
「なにい?」
 後ろ暗いところのあるバルトは、けしてリコと目を合わせようとはしなかった。険悪な二人の様子に、フェイが口を挟む。
「おい、仲間割れはよせよ」
 そんなフェイにも答えずに、バルトはさっさと歩き出した。自分の言葉に後悔はあったが、今更引っ込めることはできない。
「おい、バルト!」
 追いすがるリコの声に、バルトは億劫そうに振り返る。そして、真っ正面からリコと対峙して苛立った声を上げた。
「ほっといてくれよ! あんたにゃ悪いが、今あんたと話をしたい気分じゃねえんだ!」
 言い捨てたバルトがさっさと歩き去ると、リコとフェイは顔を見合わせて首を傾げ合う。
「なんなんだ、あの野郎は」
「なんかこのごろ変だよな…」
 そんな二人を背後に感じ、バルトは心底自分が情けなく思えた。
 今ならば認められる。
 自分はリコに嫉妬している―――相当に。
 その事実は、明朗快活なバルトに、暗い影を落とした。
 こんな風に悩むのは、男らしくないと解っている。ついでに、マルーへの気持ちも、この期に及んでうやむやにしているのも、心底みっともない。
 けれども、バルトにとってこれは、とても重要で、かつ繊細な問題だった。
 リコへの嫉妬は、確かにマルーが関係しているが、だからといって彼女に対するこの感情を、なんと表現していいかが解らない。
 物心つく前から、傍にいてマルーを守るのが当たり前のバルトにとって、今更彼女が他の男に守られる姿など、どうしても想像できないのだ。
 それは単純な恋愛感情とも違っていた。だからといって、単なる妹のような家族愛とも違う。
 マルーはマルーでしかなく、他に代わりはいないのだ。その複雑な感情を、口下手なバルトは上手く表すことができなかった。
 ただ一つ解るのは、そんな煮え切らない自分を棚に上げて、周囲に当たり散らすことの愚かさだけ。
「……クソッ!」
 バルトは思い切り己の頬を殴り、自分に喝を入れた。薄暗い物思いなど、そぎ落としてしまえ。
 もう一度、豪放磊落な砂の海の男に戻るために。





**********




 ユグドラシルに戻った後、バルトは気持ちが落ち着かなくて、リコの部屋を訪ねることにした。
 昼間の態度は、どう考えても自分の非だ。みっともないジレンマを打ち明けることになるだろうが、陳謝しなくては男がすたる。
 バルトは自分のプライドのために、相応の覚悟を決めた。 
 リコのためにあてがわれた客室に行く道すがら、バルトはどう切り出そうか考えていた。性格上素直に謝るのは極端に苦手だったが、そうも言っていられない。ただ、どうすれば自分の気持ちを表現できるかが、一番の問題だった。
 悩みに悩んだ末、一言もよい台詞が浮かばないまま客室への最後の曲がり角を一歩踏み出した瞬間、前方から明るい声があがって思わず立ち止まる。
「ホントに、ありがとね、リコさん!」
「こんなことならおやすいご用だ」
 仲の良いマルーとリコの声に、バルトの鼓動が跳ね上がる。何も気にすることはないと言い聞かせても、身体は正直に動揺していた。
「でも、変なこと頼んじゃってごめんね。できれば、その、誰にも内緒にして欲しいんだけど…」
「ああ、解った。いろいろ世話を焼いてもらった借りもあるしな」
「あっ、酷いなあその言い方は! まるで、このためにボクがリコさんのお世話してたみたいじゃないか」
「ははは!」
 快活なリコの笑い声に、マルーのそれも重なる。二人の様子にバルトの胸は痛み、いわれのない苛立ちがわき上がった。
「じゃあ、ボク自分の部屋に戻るね。あ、くれぐれも若には内緒だよ!」
 自分の名が出たことに、バルトははっきりと鼓動が跳ね上がるのを感じた。固く握った拳が僅かに震える。
「解った。しかし…ヤツはどうも、このところ様子が変なんだが」
「え? 若が…?」
 きょとんとしたマルーの声に、リコが重々しく頷く。
「ああ。…あいつは気持ちのまっすぐな男だからな、不調はすぐ解る」
「そっかあ…。うん、じゃあボクが若に聞いてみるよ。ありがとね、リコさん」
「頼む」
 無邪気なマルーの言葉に、リコが頷く。バルトはその会話も、こちらに近づいてくるマルーの足音も聞こえていたが、身体が鉛のように重くて、身動きができなかった。
「っ?! わ、若!」
 角を曲がり、そこに立ちすくんでいたバルトに気がついた瞬間、マルーは明らかに狼狽して、思わず声を上げた。その瞬間、素早く後ろに隠した紙袋に気づき、バルトが低く声を出す。
「……なんだよ、それ」
「えっ? えっと…これは、その」
 困惑してしどろもどろになっているマルーに、バルトは執拗な目を向ける。
「何だよ? 俺には言えないモノなのか」
「わ、若には関係ないものだよ!」
 その一言に、バルトの眉がすっと下がった。明らかに気分を害した彼に、マルーが慌てて言い訳しようとした時、背後からひょっこりリコが現れる。
「バルトじゃねえか。どうした?」
「別に……。たまたま通りがかったら、あんたらが俺のことを何か言ってたからさ。…邪魔したな」
「あっ、わ、若!」
 そのまま踵を返して歩き出したバルトに、マルーが追いすがった。暗く淀んだ彼の雰囲気を放っておけず、その細い腕で引き止めようとした瞬間、乱暴に振り解かれて、思わず固まる。
 怪我をした、とか、痛かった、とかではない。
 そのはっきりとした拒絶に、マルーは呆然としたまま言葉を失い、バルトはそのまま振り返らずに進んだ。
 ただ、心底自分が情けなくて、こんな余裕のない姿はマルーには見せたくはない。
 その一心で足を進めているバルトの背には、マルーのかすれた声は届かない。
「―――…」
 取り残されたマルーは、手にした紙袋をぎゅっと握りしめて、真っ青のまま立ち尽くしていた。リコはそんな少女になんと声をかけていいか解らず、大柄な巨体を居心地悪げに揺する。
「―――おい、」
 大丈夫か、と声をかけようとしたとき、とても大丈夫には見えない顔色の少女が、夢を見ているように呟いた。

「どうしよう…若を傷つけちゃった…嫌なこと、言っちゃった…」 

 それは本当に、今まで聞いたこともないほど暗く、悲しみに満ちた声だった。





**********




 苛立ったままベッドに身を預ける。胃の腑が灼けるようなむかつきに、眠ることはさらさらできない。
 こんな時こそがむしゃらに戦闘して、消化不良の気持ちを発散させたいのだが、ユグドラシルは運航中である。
 眠れない眠れない眠れやしねぇ。
 こんな嫌な気分は久しぶりだ。
 バルトは喉の奥で低い唸り声をあげながら寝返りを打った。
 暗い室内灯を浴びて、ぼんやりと映る鏡の向こうには、みっともない自分の顔がある。
 子供のように駄々をこね、自分にも周囲にも嫌な気持ちしか与えない、救いがたい男の顔。
「クソッ!!」
 吐き捨てて、バルトは枕に顔を埋めた。

 こんなのは俺じゃねぇ。
    ―――いや、間違いなく俺だ。
 こんなに小せぇ器かよ。
    ―――そうだ、俺の器なんざこんなもんだ。
 こんなちっぽけな男に、守る資格はあるのかよ。
 傷つけることしかできない男に、選ぶ資格はあるのかよ。
 
    ―――そんなことは、

 …コンコンコン

「っ!」
 小さなノックが聞こえ、バルトははっと身を起こした。扉の向こうから、か細い声が聞こえる。

<…若…、いるよね…。入っても…いいかな…>

「―――なんだよ」
 自分でも嫌になるほど投げやりな声。その声に怖じ気づいたのか、扉はしばらく開かなかったが、やがて覚悟を決めたように、プシュッという小気味よい音とともにそれは開かれた。
「…若…」
「……」
 マルーの囁きに、バルトはベッドに座って背を向けたまま答えなかった。
 自分が悪いことは、十分に自覚している。
 ただ今は、気持ちの整理がつけきれず、どうしても優しく接してやることができない。
 情けないと思う。意気地がないと思う。
 でもどうしても、どす黒い思いが消えてくれない。
 今まで疑うことなく、この腕にあると信じていたものが、離れていくことに目を向けられない。
 強烈な、嫉妬。
「―――なんなんだよ」
 どうしようもなくいらいらして、なんでもいいからぶっ壊したい衝動そのままに、冷たい言葉を浴びせかけてから。
 死ぬほど後悔した。
 一瞬の沈黙の後、マルーが泣き出すのではないかという不安にかられ、振り返ろうとした、その瞬間。

「っ?!」

 背中に抱きつかれたショックで、バルトの身体が硬直した。
 小さな腕が首に回り、柔らかい茶褐色の髪がうなじを滑る。
 そのまま、くぐもった声が耳の奥に届いた。

「…ごめんね、若…」

 泣いているふうではない。けれども、心の底から悲しげなその声を聞いて、バルトのすべてが反応した。
 そこには、意地も欲もなく。
 ただ、マルーが悲しんでいるという、歴然とした事実だけがあって。
 それだけが、バルトの全てを支配した。

「…すまん。俺こそ、悪かった…」

 何日も彼を苛んでいた幼い意地は、跡形もなく消えていた。
 あれほど彼を苦しめていた自責の念が、呆れるほど容易く言葉を放つ。 
 余裕のない自分が振り回した、本来何ら落ち度のない少女をここまで追いつめたことに、心からすまないと思った。
 その気持ちを伝えるように、自分の首にからみついた、簡単に折れてしまいそうな腕にそっと触れると、背中でぶんぶんと首が振られた。
「ううん…っ、ボクが悪いの。若に、変な隠し事なんてしなきゃよかった。若を傷つける気なんて、なかったんだよ…」
「違うんだ、マルー。俺が…」
 そう言いかけたバルトから、マルーは不意に身体を離した。振り返ったバルトの目前で、赤い目をした少女は手にした紙袋をごそごそと開ける。
 中から出てきたのは、小さな人形だった。
「…それ…」
「…バトリングの景品で、若の人形があるって聞いて、ボク、どうしても欲しかったんだ。だから、リコさんに無理言って獲ってきてもらって…。だけど、こんな人形を欲しがってるなんて、子供っぽくって若には言えなかった。ゴメンね、若…」
 素直にそう言って、大きな瞳を伏せるマルーに、バルトはなんと言っていいか解らなかった。
 なんて言えばいいんだ。
 こんなどんでん返しって、ありかよ。
 言葉の代わりに、そっと彼女の腕を引き、優しくその胸に抱きしめた。
「…マルー……マルー、ちくしょう、マルー…っ」
 まるで阿呆のように、マルー、と、ちくしょう、と、マルー、と。それだけを繰り返す男の腕は、力強く、そして温かかった。
「…わかぁ……」
 バルトに抱きしめられるなんて、何年ぶりだろう。それはまだ、兄妹に近い抱擁だったけれど、マルーは跳ね上がった鼓動を知られやしないかと、どぎまぎしていた。
 そんな彼女の懐かしい香りを、バルトは心ゆくまで確かめ、安堵した。
 自分の、この小さな少女に対する、言葉にできない気持ちを再確認し、わき上がった醜い嫉妬を昇華する。
 でも多分、俺はこれから先も、似たような嫉妬を感じて、似たように馬鹿になるんだろう。
 いつかこいつが―――本当に、俺の腕の中から、離れていく日まで。
 幼い従妹が、本当の居場所を見つける日まで。
 ―――その居場所が、ここ、であればいいと。
 性懲りもなくそんなことを思いながら、抱きしめる腕に力を込めた。
「今度は、俺に言えよ…。そんな人形、何十個だろうが獲ってやるから」
「……うん、解った…」
 素直に頷いて、マルーはことんと額をバルトに預ける。
 そんな彼女の暖かい重みに、バルトは呆れるような幸せをかみしめていた。





**********




「ほんっっっっとーーうにすまなかった!」
 翌日、開口一番リコに頭を下げ、バルトは男らしく断言した。
「言い訳はしねえ! あんたに対する非礼は、詫び賃として二・三発食らうことも覚悟してる。思いっきりやってくれ!」
 そう言って、潔く目を瞑るバルトに、リコは重々しく口を開いた。
「…言い訳はしねえ、ねえ…。正直なところは、みっともなくて話せねえってだけじゃねえのか? え? バルトよ」
「へっ?」 
 その意外な言葉に、思わずバルトが目を開けると、そこには苦笑しているリコがいた。
「大体の詳細は、ビリーに聞いたぜ。あいつも結構すまながってたな、面白がっておまえさんをたきつけたって」
「なっ…い、いや、別に俺は、そんなんじゃなくてだなあっ…」
 図星を指されて、しどろもどろになったバルトを見て、リコはにやにやと意地の悪い笑みを見せた。
「結局、俺はとんだとばっちりを受けたってことなんだろうがな。…まあ、長いことおまえさんの大事な宝モンを拝借しちまった借りもあるからな、不問にしとくぜ」
「た、宝物だぁ?」
「この期に及んでごまかすなよ、色男」
 気持ちのいいほど素直に狼狽するバルトに、リコは快活に笑ってみせる。バルトは何とか言い訳を考えようとしたが、腹をくくって言葉をのんだ。
「とにかく、俺が悪かった! 理由はいろいろあるが、あんたの言ってることも…まあ、一理あると認める! だがな、これ以上は…」
「はいはい、つつかねえでやるよ。そうしねえと、まーた変にねじくれそうだからな」
「……」
 どこまでも翻弄されるバルトは、口を開けば開くほど墓穴を掘ると自覚して、悔しそうに踵を返した。そんな彼の後ろ姿にリコが声をかける。   
「おい、バルト!」
「あ?」
 呼ばれて不機嫌に振り返ったバルトに、ぽんとリコが投げてよこしたのは、小さな紙袋。見覚えのあるそれに、バルトは怪訝な顔を見せた。
「なんだ? こりゃ」
「どうにもおまえさんの様子が変だったからよ、気を利かせて獲ってきてやったモンだ。そいつをやるから、少しは成長するんだな」
 言い捨てて、リコはひらひらと手を振りながら歩き去った。その大きな後ろ姿に、バルトは不思議そうに首を傾げて、手にした紙袋を開く。
「……!!?」
 中に入っていた、小さな可愛らしい少女の人形に、バルトは唖然と口を開いた。
 茶褐色の柔らかそうな髪も、あどけない微笑みも、見事なまでに再現されたそれは、オレンジ色の法衣をまとったニサンの大教母。
「…ったく…」
 余計なお世話だとうそぶきながら、バルトは誰にも見つからないように、その人形をそっと懐にしまった。
 そうして歩き出した足取りは、ここ数日の鬱屈など綺麗に忘れ去ったかのように軽やかで、浮かんだ微笑みは心底幸せそうな、ヤニ下がったものだったという。





 End.




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