薔薇はまだ枯れない




 Last Scene. 薔薇はまだ枯れない



 ロンド・ロゼの最上階にある広大な迎賓会場を出ると、眩いシュートシティの夜景を一望できる展望ラウンジがある。バーカウンターには好みのカクテルを調合するバーテンダーが常駐し、少人数で休憩するためのソファやスツールには、思い思いの客たちが寛いでいた。
 その中に、目当ての黄昏色を見つけられず、ダンデは視線を巡らせる。すると、奥の回廊からこちらに向かってくるルリナの姿があった。
「ルリナ」
 声をかけると、彼女は鮮やかなアクアマリンの眼差しを向け、ランウェイ上を歩くように、優雅な身ごなしで近付いてくる。ダンデが再び口を開く前に、彼女はさっさと答えを差し出した。
「ソニアなら、もう少し休憩してるって奥の談話室にいるわ。あなた、彼女の酒量をちゃんとチェックしてた? 結構飲んでたようよ」
「そうか……すまない。ソニアのことはオレに任せて、ルリナは会場に戻ってくれ」
「もとよりそのつもりで、あなたを呼びに来たの。パウダールームの傍の部屋よ」
 クイ、と顎を向けて、ルリナが言う。ダンデはそのまま彼女の傍らを抜けようと歩を進め、鋭く呼び止められて止まった。
「ダンデ」
「なんだ?」
「……ソニアを泣かせたら、流し去ってやるからね。念入りに、二度と浮かばないように、これ以上なく丁寧に」
 『流し去る』は、好戦的なルリナのバトル上での口癖だ。けれどこの時の彼女は、いつものような軽口めいた勢いではなく、深刻で、真剣な瞳をダンデに据えていた。
 ソニアを泣かせた覚えも、泣かせる予定もないダンデだったが、その忠告は不思議と芯に響いた。
「……わかったぜ」
 真面目に頷くダンデを二秒ほど睨んで、ルリナはにっこりと艶やかにほほ笑む。どちらかといえばツンと澄ました顔を見せることの方が多いルリナの笑顔に、ダンデは若干面食らってから、ニッと笑い返した。
「じゃあな、ルリナ」
「ええ、お願いね」
 満足そうなルリナの声に背を押され、ダンデは颯爽と歩き出す。展望ラウンジをぐるりと迂回して、細い回廊の先に、スイートルーム仕立ての談話室がいくつかあった。商談や込み入った会話をする空間だったが、人いきれから逃れたい客のための用意でもある。
 ダンデはソニアの酒量を思い浮かべ、それほど飛ばしている様子はなかったが、と思う。けれど、慣れない公的なパーティー、主催のパートナーというプレッシャーで、体調が優れなくなったのかもしれない。
 今日のソニアは、充分以上にダンデの力になってくれた。そつのない会話、ウィットに富んだ処世術、煌めく笑顔、ダンデを支える姿勢。どれをとっても、オリーヴが求めていた水準の、完璧な『パートナー』だ。
 けれど、ダンデにとって、ソニアの価値は、そんなものでは測れない。
 たとえ彼女がなにもできず、なんの役割も果たせなくても、ずっと隣にいてほしいと願うのは、ソニアだけだ。
 そのことを、どうしても彼女に告げたい。
 たとえそれで、いままでのような気安い幼馴染に戻れなくとも――蘇った恋心を、再び殺すことになっても。
「……」
 その時、パウダールームに近い個室の方から、ソニアらしき声が聞こえてきた。ひとりで休んでいるはずの彼女が、誰かと会話していることに、ダンデの胸がわずかに騒ぐ。
 足早に近づくと、扉を潜ったすぐ先に立つ男の背中が見えた。部屋に入ろうとしているのを、ためらうような位置だった。
「……ですから、わたしももう戻るんです。どいてくださる?」
「そうは言いますが、ソニア博士。顔色があまり良くないですよ」
 その声の調子に覚えがあった。先ほど、ソニアが『要注意』との烙印を押した、他地方のリーグスタッフ。そうとわかった瞬間、ダンデのうなじがざわりと逆立った。
「パートナー不在のようですし、介抱させてください……。ところで、オーナーダンデは、あなたの恋人なんですか?」
 ずけずけとした男の言葉に、ソニアが鋭く答える。
「結構です。オーナーとの関係は、それこそあなたに関係あります?」
「いや、恋人なら諦めもつくけど、そうじゃないなら僕にもチャンスがあるんじゃないかと……」
「ありません。わたしは、ずっと昔から愛している男性のために、ここにいるんですから」
「ずっと?」
「ええ、もうずっと長いこと。だから、あなたにも、他の誰にもチャンスなんかありません。わたしは、そのひと以外興味がないので」
 スパっと言い切るソニアに、他地方の男は鼻白んだようだった。彼はごにょごにょと言い訳のようなことを口にして、さっさと踵を返す。ダンデが立っているのとは逆方向を向いて、彼には気づかず立ち去っていく後ろ姿を見送って、ダンデは静かにたたずんでいた。
 そのまま、どうしても動けずにいる。談話室の中にいるソニアの様子を、すぐにでも見に行かなければいけないのに。
 明らかに怖気づいている自分に気づいて、ダンデは絶句した。
 十年無敗のチャンピオン。どれほどの難敵、どれほどの劣勢を前にしても、決して怯まずに、ただ前だけを、勝利だけを信じて進んでいた、バトルの申し子が。
 たったひとりの幼馴染の、本心を知ることにこれほどの恐怖を抱くとは。
 華やかで立派な装いの、誰の目から見ても文句のつけようもない伝説の男の手が、ちいさく震えていた。
 ――ずっと昔から、愛している
 ――そのひと以外、興味がない
 潔いほどはっきりとしたソニアの意思。たおやかに見えて頑固、軽やかに見えて慎重な彼女が、唯一無二と選んだ男が、この世のどこかに存在している。
 ずっと昔から――ダンデが、ソニアに恋をして、拒まれて、彼女を忘れる努力をしていた、そのころから?
 ダンデの脳裏に、先ほど会場でソニアに会釈していた青年の姿が蘇る。出席者リストに載っていた、ソニアの旧知の先輩。
 彼に会うために、ここに来た?
 点と点が繋がり、すっと目の前が暗くなる。ダンデは俯いたまま、ぐしゃりと手の中の薔薇を握りこんだ。茎が折れ、花弁がわずかに散らばる。
 決定的な一撃。手の中のボールに戻る、瀕死の相棒。
 ――勝負は、決まった。

「……いや、まだだ」

 ダンデは呟いて、握りこんだ薔薇からそっと力を抜く。花弁は不格好にひしゃげていたが、瑞々しさは失っていない。ボールにはまだ戻らない。
 ダンデはいま一度、気合を入れるようにほほを叩いた。それから、勝負に挑む黄金の眼差しで、颯爽と歩を進める。
 談話室の開け放たれた扉を潜ると、ソファに沈む黄昏の髪が見えた。
「――ソニア」
「え、ダンデくん?」
 振り返ったソニアは、酒のせいか、先ほどの男との問答のせいか、冴えない顔色をしていた。ソニアが座るソファへと近付き、ダンデはそっと傍らに膝をついた。
「だいじょうぶか?」
「うん、ごめんね、ちょっと休憩したら、すぐに戻るから……」
 健気に言って、青白くほほ笑むソニア。会場には、彼がいる。ずっと彼女が愛していたという、彼女の愛を手に入れる、世界で一番幸運な男。
 そして、いま彼女の目の前に跪くオレは、世界で一番滑稽な男だ。
 ダンデは赤銅を帯びる黄金の瞳で、まっすぐにソニアを射抜いた。
「――ソニア」
「なあに、ダンデくん?」
 真剣な眼差しに、ソニアはわずかに目を瞠る。彼女の戸惑いに気づかないふりをして、ダンデはすっと息を吸った。
 負けの決まった戦いに、それでも挑みたい。彼女の愛が手に入らなくとも、彼女を愛するオレを捧げたい。

「きみを愛してる」

 囁いて、ひしゃげた薔薇を持ち上げる。格好のつかない赤い薔薇は、ほろりと花弁を一枚散らした。
 ソニアはダンデの正面で、宝石のように輝くエメラルドの瞳をまるくしている。血の気の失せた顔色は、まるで白い陶器のようで、ダンデの胸をずたずたにするほど美しい。
 そんなソニアに向けて、ダンデは精いっぱいのまごころをぶつけた。
「きみに一度フラれても、どうしても諦められなかった。ずっと、自分自身をごまかして生きてきたが、もう、それもできない。きみが誰を愛していても、オレの気持ちは変わらない。だけど……オレは、きみの幸せを一番願っている。だから、この気持ちは受け取らないでいい。今夜限りで、忘れてくれ」
「え……」
 なにがなんでも彼女が欲しい。それでも、こう言うしかなかった。
 この世でダンデが知る人間の中で、おそらく一番誠実な女性。ともに育った子供の頃から、ソニアに対するダンデの信頼は、揺るぎないものだった。
 そんな彼女が選んだ男だ。敵うはずがない。
 清々しささえ感じながら、ダンデは蘇った初恋を再び墓穴に葬るべく、一途にソニアを見つめた。
 願わくば、この花を。
 思い出の一片を、ささやかに受け取ってほしい。
 ダンデの正面で、また一枚、花弁が散った。

「……なんで?」

 その時、ポツリとソニアが呟いた。血の気の引いた顔色のまま、それでもその、星のようなエメラルドだけは、燦々と輝いて。
 子供の頃、バトルに興じた対面で、この眼差しを見た。
 これは――高揚?
「……なんで? ねぇなんで、ダンデくん?」
「ソニア?」
「なんで、そんな嘘つくの?」
「嘘? 嘘なんかついてない、オレは本当にきみのことが好きだ!」
 受け入れられないにせよ、無かったことにはしてほしくない。ダンデはきっちりと引導を渡してほしいと声を張ったが、それよりもおおきな声で、ソニアが叫んだ。
「ちっがうよ!! わたしが聞いてんのは、なんで、わたしにフラれたとか言ってんの!?」
「えっ?」
 正真正銘、ダンデは唖然と目をまるくした。目の前で、夢の王子様のように颯爽と跪き、赤い薔薇を捧げる幼馴染の間抜けな顔に、ソニアは血の気の戻った真っ赤な顔で叫ぶ。
「いつ、わたしがダンデくんをフッたんだよぉ! あり得ないでしょ、そんなこと!」
「い、いつって、覚えてないのか? オレがチャンピオンになった時だ」
「はぁ!? 10歳のころ? 嘘だよ、わたし告白なんかされてない!」
「ひどいぜ、ソニア! オレはちゃんときみに言ったぞ、『ずっと一緒にいてくれ』って!」
 ダンデも声を荒げる。彼の心をずたずたにした幼いソニアの拒絶の言葉。
『……ごめんね、ダンデくん』
 目まぐるしく変わった環境、担ぎ上げられた重たい玉座。それらすべてに翻弄されたダンデが、自分を保つため、必死に縋りついた幼馴染は、涙に濡れるエメラルドを細めて、はっきりとそう言った。
 ソニアはダンデの言葉に、オレンジがかった口紅の刷かれたくちびるをぱかりと開いて、絶句した。
 それからぱちぱち、と長い睫毛を二度瞬かせ、稲妻のように激しく叫ぶ。
「そんっなの!! 当たり前じゃん、あの時のわたしが、ダンデくんといっしょにシュートシティで暮らすなんてできないよっ! お互い子どもで、自分の生き方を選べる年じゃなかったじゃん!」
 その言葉に、今度はダンデが絶句した。
 いっしょに――シュートシティで暮らす?
 ソニアの言葉と、あの頃必死に伝えようとした自分の気持ちとの、恐ろしいほどの乖離にめまいがした。
「――オレは……そういう意味で、言ったんじゃなくて。きみのことが好きだから、この先の人生も、いっしょにいてほしいと……物理的な距離のことじゃなく、精神的な……」
 一緒にいて、という願望を、そこまで厳密に、現実的に捉えられていたとは。確かにダンデも言葉足らずだったが、ソニアにはもう少し、男心の機微というものを感じてほしかった……
 そんなダンデの恨み節が伝わったのか、ソニアは泣きそうな顔で眉を寄せた。
「そ、そんなの知らないよぅ! わたしは、ダンデくんが一人でシュートで暮らすのが寂しくて、不安だからそう言ったんだと……でも、わたしだって寂しいけど、おばあさまたちと離れて暮らすなんてできないし、だから、それは無理って言ったんだけど……」
 わかってみれば、なんと他愛のないすれ違い。けれど、あの頃の極限状態のダンデは、たったひとりと縋った手を離されて、絶望に突き落とされた。そのまま、目まぐるしく状況に呑まれて、気がつけばソニアも、遠い異国へ留学していて。
 距離が、気持ちが、果てしなく離れた。
「……なんてこった……」
 はぁ……と、項垂れる。自分の早とちりで、どれだけの時を無駄にしたのか。ソニアがガラルに戻り、大人になって再び交流が始まった時には、幼い初恋は思い出に変わっていた。そう思い込んでいた。
 ――とんだ間抜けだ。
 珍しく、心底から落ち込んでいるようなダンデのつむじを、ソニアの指がつんつん、と軽く突いた。ダンデはのろのろと顔を上げ、ぼんやり幼馴染を見上げる。
 ソニアは、薄紅のほほを輝かせ、煌めくエメラルドを揺らしていた。
「……ダンデくん。わたしの返事、聞かないの?」
「え?」
「ダンデくんの気持ち、受け取らなくていい、忘れてくれって言ってたけど……本当に、そうしていいの?」
 その、期待するような眼差しに。一心になにかを求めるような、必死の声色に。
 ダンデは再び、力を取り戻した。
 もはや、ほとんど原形をとどめない赤い薔薇。蕾のようにやせ細ったそれを掲げ持って、ダンデは改めて片膝を立てる。
 騎士が姫君に乞うように、誠心誠意を捧げて言った。

「きみを愛してる、ソニア。オレの恋人になってほしい」

 哀れな赤い薔薇に、そっとソニアの白い指が添えられる。彼女の手の中で、ダンデのまごころは息を吹き返すように輝いた。

「はい。わたしも愛してるよ、ダンデくん。ずっと……ずーっと昔から」

 言いながら、ソニアはこころから嬉しそうな笑顔のまま、ポロリと涙を一粒零す。
 ダンデはそっとそれを指で拭うと、世界で一番幸運な男になった。




END.



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