ニサンの心、きみのこころ
強く求めるココロ それぞれの気持ち
夜空に輝く星ほどの数 その細い腕に抱えて
それでも願うはただひとつ
それでも想うはただ ひとり
**********
緑豊かな丘に、甘い風が吹く。
小高いそこからニサンの町並みを見下ろすと、人々の静かな営みの中に深い信仰を感じて、マルーは無意識に手を組み、大空へと黙祷を捧げる。
祈ることしかできない自分を歯がゆく思いながら、それでも祈りを捧げることをやめられない。自分はここにいる以上、命を懸けてニサンのために、祈りを捧げるべきなのだ。
それが、ニサンの大教母としてのつとめ。今の彼女を支える誇り。
「…マルー様」
優しい呼びかけが風に乗る。マルーはその声に振り返り、組んでいた手を外した。穏やかな信仰に溢れていた瞳は、幼いころから見知った女性相手に、年相応の無邪気さを見せる。
「シスターアグネス」
「また、このようなところで…いけませんよ、大教母様ともあろうお方が」
言葉ほど気分を損ねているわけではないらしく、シスターアグネスは優しい微笑みを浮かべていた。まるで、小さな子供の他愛のない悪戯を叱る、母親のように。
「聖堂の方にお越しくださいと、申し上げましたのに」
「ごめんね、アグネス。今日はほら、こんなに天気がいいじゃない? だから、つい」
言って、マルーは大空に向かって思い切り伸びをした。華奢な彼女の、今にも折れそうな白い腕が露わになり、シスターアグネスはしかつめらしくたしなめる。
「マルー様、年頃の娘はみだりに肌を見せるものではございませんよ」
「もー、年頃の娘、なんてやめてよね、アグネス!」
子供のように頬を膨らませ、マルーはアグネスを軽く睨んだ。アグネスは穏やかに微笑み、どんなに幼い仕草をしようとも、年頃に近づいた彼女の無意識の女性性に目を細める。
「本当のことです。マルー様ももう十六歳、世の中が平和であれば、そろそろご結婚のお話だって…」
「アグネス!」
弾けたようにマルーが叫び、アグネスははっとして口をつぐんだ。マルーはじっとアグネスを見つめ、苛立ったように瞳をそらす。
「…そういうこと…言わないでよ」
「…申し訳ございません」
うなだれたアグネスだったが、マルーはすぐに彼女に駆け寄り、気を取り直すように明るく笑った。
「なんてね! いいんだよ、解ってくれれば! それより、どうしたの? 何か用事があったんじゃないの?」
「あ、ええ、そうでした。大切なご用事が」
アグネスも微笑んで、少しだけ悪戯っぽく眉を上げる。
「通信が入りましたの。ユグドラシルからです」
「若から?!」
「ええ。バルトロメイ様直々の通信で、すぐにこちらにいらっしゃると」
「よかった…! みんな、無事だったんだね!」
「あら、マルー様。皆がユグドラシルの心配をして混乱していたときに、絶対に大丈夫だと笑っておられたのはどなたです?」
アグネスは、からかいを含んででそう言ったのだが、マルーは思いのほか真剣な眼差しで、力無く微笑んだ。
「…あの時は、そうでも言っていないと、みんなより先にボクの方がだめになりそうだったから…。情けないよね、こんな教母なんて」
「……マルー様…」
「それよりも、若達がこっちに来るってことは、物資か何かの要請かもしれない。ユグドラの燃料や、貯蔵していた食糧なんかを準備しなきゃ!」
そう言って、急いで丘を駆け出すマルーの後ろ姿に、アグネスが声を上げる。
「いいえ、マルー様! バルトロメイ様達は…」
「―――え?」
振り返ったマルーの瞳に、ニサンの大空が鮮やかに映った。
**********
ニサンに続く秘密ドッグに、常にも増して慎重な機影が現れた時、迎えに出ていた尼僧、僧兵、一部の町民達の顔には、明らかな安堵と喜びがあった。
一時は仇敵シャーカーンの手で生死不明と報じられた、アヴェ王朝の忘れ形見は、未だ十分に高度を保つ戦艦のハッチを開けて、見上げる顔達に大きく手を振った。
「おう! みんな、無事だったか!」
「バルト様!」
輝く金色の髪をなびかせた隻眼の青年に、感極まった喝采があがる。満足そうに頷いた彼は、碧玉の右目を忙しなく動かして、薄暗いドックの中を見回した。
「…やっぱ、いねぇか…」
ごく小さく呟かれたバルトの言葉に、彼のすぐ背後でたしなめる声があがる。
「若! 完全に機体が停止するまでは、危険ですからユグドラのハッチは開けてくれるなと、あれほど…」
「あーもー、解ったよ、シグ!」
久しぶりに見る顔ぶれに、延々と小言をいただく進歩のない姿を見せるのは情けないと、バルトが大きく肩を竦めた瞬間、
「若!」
ひときわ大きく、高い声音があがった。
「あっ?」
驚いたバルトは、ハッチを囲う柵すれすれまで身を乗り出し、聞き慣れた声の少女を薄闇に捜す。
「マルー!」
「若、おかえりーっ!」
嬉しそうに叫んで、一生懸命手を振るマルーに、バルトはほっとしたような、気の抜けたような顔で肩を落とした。
「なんだよ…。ちゃんと、解ってんじゃねえか、あいつ…」
「……」
マルーに応えて手を振りながら、思わず漏らしたバルトの囁きに、背後のシグルドは僅かに愁眉を寄せていた。
やがて機体は完全に停止し、若き総司令官は誰にもとがめられることなく、堂々とその足をニサンの地に着けた。
「若!」
駆け寄ってきた細い腕が、子猫のように軽い身体が、勢いよく自分に抱きついてきて、バルトは正直に慌てふためいた。
「マ、マルー!」
「無事だったんだね、若! よかったよう」
「あ、あったりまえだろ! お前、変な心配とかしてたんじゃねーだろうな」
「心配なんか、してないよ!」
無邪気にじゃれ合う二人を、周囲は温かく見守っていた。まるで兄妹のように仲が良い彼らの、年頃の男女にしては行き過ぎたスキンシップを咎めるような無粋者は、ここにはいない。そのスキンシップが、真実甘やかなものであればと嘆息する者は、掃いて捨てるほどいようが。
「マルー様、ご無事で何よりです」
「シグ!」
バルトの背後から、穏やかに声をかけてきた褐色の青年に、ぱっと太陽のような笑顔を見せたマルーは、いとも簡単にバルトの両腕から抜け出して、ためらいなくシグルドへ抱きついていく。彼女の暖かい温もりに、シグルドはほっと安堵して、今更ながら自分が緊張していたことに気付いた。
己自身よりも大切な少女の無事を確認し、心も身体も一段落ついたシグルドは、そのころになってはっと我に返る。幼いころからの延長線上にあるスキンシップを、バルトの時同様周囲は咎めない。咎めているのは彼のたった一人の主君だけで、意識か無意識か、その碧玉の隻眼が不機嫌な色でこちらを睨んでいることに、今更慌てた。
「シグも、怪我がなくって何よりだよ! 若を無事に帰してくれて、ありがとうね」
頭の上で繰り広げられている微妙な視線の応酬にも気付かず、マルーは本当に嬉しそうにシグルドを見上げる。その言葉に、バルトは憮然と唇を尖らせた。
「おい、マルー! なんでそこでシグに礼するんだよ!」
「だぁって、若の暴走を止めてくれるのは、シグじゃないか」
「暴走ってなぁ、俺は…」
「若は昔から、無茶ばかりなんだもん。ボクはいっつも、気が気じゃないよ」
「それは、俺の台詞だっつーの!」
「あー! 言ったね、若!」
お互い楽しそうに舌戦を繰り広げる少年少女に、シグルドは和む心を引き締めた。艦長があてにならない以上、ここは副官である自分が楽しい再会の瞬間に終止符を打たねばなるまい。
「若もマルー様も、その辺にしてください。早々に出発しなければ、混乱に乗じて敵の目をくらませた意味がありませんよ。マルー様のご用意は、もうお済みですか?」
その言葉に、無邪気に従兄と口喧嘩をしていたニサンの大教母は、くるりと振り返って微笑んだ。
「あ、平気。だって、ボクはユグドラには乗らないから」
「え?」
あまりにもあっさりとしたマルーの言葉に、シグルドは思わず目を丸くする。マルーはにっこりと無邪気に(それでいて隙のない)笑顔を見せる。
「シグ達の気持ちは嬉しいけど、ボクはニサンを離れるつもりはないんだ」
「おい、マルー!」
声を荒げたバルトに、マルーは振り返る。その顔はもう、笑ってはいない。
「ボクはニサンの大教母だもの。この国から離れるなんてできないよ」
「けどなあっ」
「マルー様、」
バルトの言葉を遮って、シスターアグネスが前へ進み出た。いつも控えめな彼女の差し出た行動に、バルトは思わず言葉を引っ込める。
「マルー様には、ユグドラシルに乗艦していただきます。ご準備も整えておきました」
「な…アグネス!?」
鼻白んだマルーに、アグネスは落ち着いた眼差しを向ける。それは、主に仕える者の目ではなく、限りなく家族に近い者の眼差し。
「マルー様、あなたはニサンの大教母です。この国になくてはならないお方だからこそ、今は、何が何でも生き延びていただかねば」
「そんなの…! 詭弁だよ、アグネス!」
マルーは興奮し、詰るようにアグネスを見つめた。
「そんなこと言って、この国が…自分たちが犠牲になってでも、ボクだけ生き延びさせようって思ってるんでしょ!?」
「犠牲になるつもりはありません。私たちだとて、手をこまねいてニサンの崩壊を迎えるつもりは毛頭ないのですから」
「だったら、なおさらボクはみんなと…」
「大教母様、あなたがニサンにいる以上、あなたを守るために、どれほどの者が無駄にその身を盾にするかお分かりですか?」
「……!」
僅かに、マルーの唇が震えた。アグネスは、厳しい表情で幼い少女と対峙する。マルーはアグネスのこんなに厳しい瞳を、今まで見たことがなかった。
これほどまでに母性溢れた、彼女の眼差しを。
「お分かりですね、マルグレーテ様。私たちの力は、残念ながら儚く脆い。そして、あなたという存在は、私たちの中で大きく膨らみすぎている…」
「…だけど…っ」
「それとも、マルー様は大教母としての重責から逃れるために、他の者と共にここで朽ち果てるおつもりでしたか?」
「……っ!」
「おい、シスター!」
言葉を失ったマルーを庇うように、バルトは二人の間に割り込んだ。金色の美しい髪が、胡乱なマルーの眼前で揺れる。
「訂正しろ! マルーを侮辱する気か」
その怒りを讃えた碧玉に、アグネスは確かに王者の資質を見つけて、誰にも見とがめられぬ小さな微笑みを浮かべた。そして真摯な眼差しで、己の胸で手を組み合わせる。
「…お叱りならば、マルー様がユグドラシルに乗艦されました後、いかようにもお受けいたします。マルー様のお気がすむならば、この命を差し上げても構いません」
「な…っ」
凛としたアグネスの言葉に、バルトが言葉を飲み込む。命を賭しても構わぬと言う彼女は、全身でマルーを愛していた。それが解るからこそ、バルトは詰ることも認めることもできない。
「……何、それ…」
その時、バルトの背後でくぐもったマルーの声があがった。俯いた彼女の、ほの暗い囁きは、水を打ったように静まりかえっていた周囲の耳に重く響く。
「…どうあっても、アグネスは…みんなは、ボクをユグドラに乗せて…ニサンを見捨てさせたいんだ」
「……」
アグネスは沈黙し、静かな瞳をマルーに向ける。マルーは顔を上げて、アグネスの瞳をまっすぐに見据える。そのトパーズブルーの双眸には、悲しみ、怒り、絶望、そして…僅かな贖罪の光があるように、アグネスには思えた。
「ここにいても…ボクなんか、役に立つどころか、足手まといにしか…ならないって、そんなこと、解ってる。解ってるけど…!」
「マルー…」
差し伸べようとしたバルトの優しい手を振り払い、マルーはありったけの感情を込めて叫んだ。
「だったらボクは、どうして大教母なの!? ニサンが大変なときに逃げ出した大教母なんて、誰が認めてくれるの? ボクは、ニサンのために、…っこんな時だからこそ、ニサンだけのためにって、やっと……っ」
「マルー様っ」
周囲を振り払うように、マルーは勢いよく駆け出した。バルトの長い腕がそれを追いかけ、捕まえようとして一瞬ためらう。
小さな彼女の瞳から、涙の滴が見えた気がして。
「……っ」
行き場のない怒りを、アグネスにぶつけようとバルトが振り返ったとき、静かな眼差しのシスターアグネスが、逆にバルトの蒼い隻眼を捕らえて、引き絞るような声を上げた。
「…バルト様、どうか…どうか、マルー様をお願いいたします。あの方は、ニサンの…いいえ、私たちの希望なのです」
白いアグネスの顔容が、わずかに強張る。怖いほど真摯な瞳が、バルトの動きを止めた。
「あの方にとって、それがどれだけ重く、辛いことなのか、解っています。けれど、私たちはそれでも、あの方を慕わずには…お守りせずにはいられない。あの方の望みがどこにあるのか、気付かない振りをするのは私たちのエゴです…」
「……」
その言葉に、周囲のニサンの民は無言の同意を示した。うっすらと涙を浮かべながら、自分たちの希望の象徴である青年を見つめる。
この世でたった一人、彼だけが、尊い少女を救ってくれる、と。
わかっていた。
バルトは何かを言いかけて、ぐっとその言葉を飲み込む。そして、放たれた弓矢のように俊敏に、少女を追いかけて疾走した。
残されたシスターアグネスは、何か大事なものを引き剥がしたような心の痛みに、胸の前で組んでいた指を震わせた。
「シスターアグネス」
そんな彼女に、ユグドラシルの若き副長が声をかける。
それは、慰めると言うよりは確認するような声音だった。
「心配はいりません。我々が思っている以上に、あの方は…あの方達は、ご自分の立場をよく理解している」
「…ええ…。けれどそのお心の深さに、清さに、ずっと甘えている私は…あの方の幸せを願う資格が、あるのでしょうか…」
問いかけるような、けれど否定するような言葉に、シグルドは涼しげな目元を細めて、確信に満ちた言葉を返した。
「…あの方の心を、深く清く育てて差し上げたのは、他でもないあなた方です、シスター。そして、あの方の幸せを共に喜ぶことができるのも、あなた方をおいて他にはない。
そのことを、理解できないマルー様ではありません」
「……はい」
静かに瞳を閉じて、シスターアグネスはそっと祈りを捧げた。
おそらくは、彼女たちが信仰する「神」に対して、懺悔にも似た祈りを。
**********
緑鮮やかな丘に立つ、一本の桜の木。
四季の移ろい豊かなニサンの、春爛漫の頃ならば、孤高の大樹はその枝一杯に薄桃の衣をまとい、霞けぶる青空へ花吹雪の舞を見せる。
けれども今、時機を逸した桜の木には、若々しい緑だけが残り、華やかな時を過ぎた堅牢な趣でもって、ニサンの町並みを見下ろしていた。
その大樹に寄り添うように、一人の少女が立ちつくしている。
穏やかな風にその茶褐色の髪をなびかせ、トレードマークの大きな帽子を、ぎゅっとその手に握りしめて。
風に乗って、彼女の声が聞こえてきた。それは、ニサン正教の賛美歌。神を讃え、人を助け、その心の拠り所となる内なる願いを捧げるように、大空へ向けて少女は唱う。とても、小さく、憚るように。
大声で、泣きたいだろうに。バルトは、感情を押し殺す少女が痛々しく、目に見えない傷を見せつけられたように胸を痛めた。
「…マルー」
彼女のすぐ傍らまで歩み寄り、そっとその背中に呼びかける。自分の胸までしかない小柄な肩が、びくりと一瞬、僅かに揺れた。
痛々しい。
「あ…のな、マルー…」
こんな時にかけてやれる、気の利いた言葉が見つからない。口下手に輪をかけて気の回らない自分が、心底恨めしく思えた。
沈黙してしまったバルトに、マルーはくるりと振り返る。その仕草は何故か軽やかで、無邪気ささえ窺えた。
「ね、若! ユグドラのボクの部屋って、前使っていたところで良いのかな?」
「へ?」
思いがけない言葉に、バルトの目が点になる。マルーは構わずに、楽しそうにすら見える顔で言った。
「えへっ、何か、変なところ見せちゃってごめんね。若達がせっかく迎えにきてくれたんだから、ボクはやっぱりユグドラに乗るよ。アグネス達もそうしろって言ってくれてることだし」
「あ、ああ……」
「じゃあ、行こう。ぐずぐずしてらんないもんねっ」
そう言って、自分の腕を掴む従妹の小さな手が、ほんの僅かだが震えていることに気付いた瞬間、バルトは思いがけない力でマルーの腕を引いた。
「っ?!」
捕まれた二の腕が、痛みさえ訴える。マルーは怯えたようにバルトを見上げ、その強い隻眼に息を呑んだ。
「何、我慢してんだよ! 言いたいことがあるなら言え!」
「……っわか…」
「俺は、お前のそんな顔を見るために、ここに来たんじゃねえんだ! …そんな顔のために、来たんじゃねえ!!」
願わくは、笑顔。
笑った顔が、見たかったんだ。
それがだめなら、せめて。
「聞き分けのいい顔は、シスター達にだけで十分だろ? 俺にくらい…わがまま言ってみろ。なんでも好きなだけ、吐き出しちまえ」
バルトの真摯な言葉に、眼差しに、マルーの双眸が揺らぐ。泣くまいと噛みしめた唇が薄い吐息を漏らし、逸らすことのできない碧眼がゆっくりと閉ざされた。
逃げるように。
「…マルー!」
「…だっ…て…」
噛みしめた唇から、震える声が漏れる。閉ざされた瞼が小さく痙攣した。
「だって…アグネスの気持ちが、解るもん。ボクのわがままなんだって、解るもん…。ユグドラに乗ることが、一番いいんだって、解るもん…」
正しいことは、いつでもわかる。自分が選ぶべき選択肢は、望むと望まざるとに関わらず、いつだって目の前に横たわっている。
「…でも、お前は何か引っかかってんだろ? 言えよ。全部言ってみろ」
「…言えない! ホントに、ボクのわがままだもん! 若は、ユグドラに乗って、みんなの期待を背負っている人だ! ボクのわがままなんか………聞いてちゃダメだよ!」
その言葉に、バルトは掴んでいた腕に力を込めた。苦痛に眉を寄せたマルーが、痛いと訴える直前に、それは力強く引き寄せられ、身体は胸の中に包み込まれる。
突然溢れた暖かさに、マルーは言葉を失った。ただ、懐かしいバルトの香りが、日向の温もりが、力を込めて自分を抱きしめる、その感触にめまいがした。
「…俺は、バルトロメイ・ファティマだ」
やがて漏れ聞こえた声は、くぐもった男の声。低いその声音に、マルーは耳の奥で熱い鼓動を感じた。
「ユグドラシルの艦長なんかじゃねえ。アヴェ王朝の生き残りなんてもんでもねえ。一人の、バルトロメイ・ファティマって男が、お前の話を聞くっつってんだ」
抱きしめた腕に、きしむ力がこもる。
「ニサンの大教母なんて肩書きのない、マルグレーテ・ファティマの素直な声が聞きてえんだ」
真摯な、ひたむきすぎる声が、マルーの耳朶を打ち、心を揺さぶった。
本当なら、こんな言葉を吐かせて良いはずがないのに。
背負わされた肩書きは、確かに自分たちを苛むだろうけれど、それを放棄すれば愛しいものがすべて、砂の城のように崩れ去ってしまうことを、お互いに解っていたから。
これは、言ってはいけない一言だったのに。
大切な、何よりも大切なこの従兄に、ここまで言わせてしまったことに、マルーは心臓を針で刺されるような痛みを感じた。後悔の二文字が重くのしかかり、包み込まれた暖かさが切ない。
でも。
もう、かかえてはいられない。このぬくもりに浸されては、マルーのかたくななど、ひとたまりもないのだ。
いつだって。
「…若が…」
やがて、ぽつりぽつりと語られたマルーの囁きに、バルトはじっと彼女を抱きすくめたまま、身動がずに耳を澄ませた。
「若達が…、行方不明って聞いたとき、ボク、本当は、心臓が凍るほど心配だった。若達のことしか考えられなくなって、ただずっと、それだけしか考えられなくて…。ニサンのことなんて、頭から消えてた。ユグドラの失踪で不安だったのは、ボクだけじゃなかったのに。シスターも、僧兵も、町の人たちも、みんなすごく不安で、こんな時こそ「大教母(ボク)」が必要だったのに…!」
「マルー…」
「ボクは、大教母の仕事とか、責任とか、解っていたつもりだった。十二の時から、ニサンの大教母になるために様々なことを学んで、シスター達の助けを借りて、この国に住む人たちにとって、最良の道を示すことのできるような、そんな大教母になりたいと思っていた。…けど…そんなのは全部傲慢で、ボクは本当は、何も解っちゃいなかったんだ。若達のことしか考えられなくなったとき、ボクは大教母の資格を全部失ったんだ!」
「マルー!」
細い叫びをあげた少女を、バルトは力を込めて抱きしめた。細くて、今にも折れそうなほど華奢なマルーの身体が、柔らかく暖かい。こんなに小さな身体のどこに、「大教母」と呼ばれるだけの強さが秘められているのだろう。
わからなかった。けれど、小さな従妹は、間違いなく人の上に立つ毅然とした声音で、ためらわず続けた。
「…今、ユグドラに乗ってしまったら、ボクはきっと、若達のことしか考えられなくなる。遠くにいたときすら、心配でしょうがなかったのに、近くにいればなおさら、ボクはそれだけに捕らわれてしまう」
違う、本当は距離なんて関係ない。
たとえ星の遠さに隔てられても、何万年も会えなくても。
いつだって、四六時中、この心を捉えて離さない。
たったひとりの。
「…それが怖かったから、…ニサンの大教母という立場を裏切ってしまう、ボク自身が怖かったから、だから…」
「違うだろ…」
「え?」
バルトの囁きに、マルーは瞳をあげた。泣くまいと、無意識に張りつめてしまったものが、視界を薄ぼんやりと染め上げている。間近にある従兄弟の顔は、精悍で、力強くて、心の底から優しかった。
「マルーは、大教母の立場を裏切ってなんかない。資格を失ってなんかいない。マルーは、確かに大教母だよ。ニサンの人たちの、心の拠り所だ」
「う…嘘だよ!」
「嘘じゃねえ。お前が望むかどうかは、解らねえけど…マルーは確かに、この町の生きる糧になってる」
言いながら、バルトはそっとマルーの身体を離した。自由になった呼吸に、少しだけ荒い息をつき、マルーはおずおずとバルトを見上げる。バルトはその美しい隻眼を、まっすぐに眼下の町へと注いでいた。
「見ろよ、マルー」
「……」
丘からの一望は、壮麗だった。淡い色合いの空の下、若葉の萌える草原を越え、水晶のように輝く水面に囲まれた、荘厳なニサン大聖堂。そしてその周りには、まるで聖堂に従うように、尽くすように、穏やかな営みを抱えたニサンの町並みが広がる。
幼い頃から見慣れた風景。幼い頃に憧れた光景。当たり前のように存在するそれが、信じられないくらいあっさりと、消えてなくなる恐怖を知っている。
だからこそ、目の前にある現実が、痛々しいくらい実感できる。
「マルーは、この町が好きか?」
「…うん」
好き、嫌いでは言い表せない。何よりも大切で、何物にも代え難いもの。
「この空、緑、湖面、聖堂、町並み、人々…いや、アグネスをはじめとする、お前が世話になっている人間すべてが…好きか?」
「うん…好き」
素直に頷いて、従兄弟が何を言わんとしているのか、言葉ではなく空気で感じた。
「なら…お前は、立派な大教母だ。みんなに愛される、ニサンの希望だ」
「…でも、ボクはニサンだけを想うことは、できないよ…」
ニサンの人々の希望、安息、すべてのこころの拠り所となるならば、マルー自身も、何を引き替えにしてでもニサンを想うべきだ。
けれどもそれは、この従兄が生きている限り、不可能なことなのではないかと…マルーは、今回の事件を通して確信していた。
ニサンにだけに捧げる身体、ニサンにだけに捧げる心。こんな時だからこそ、大教母という立場にある者の責任は深く、大きい。戦乱の世に荒廃した人々の心に、自分という拠り所を…それが例え、人々の思うほど強くはなく、壊れやすい脆いものであろうとも、求められている以上、裏切りたくはない。心の宿り木たる大教母を失う辛さを、誰にも与えたくはない。
例えそれが、大好きな従兄から遠く離れることになっても。
「…なあ、マルー」
常にはない、穏やかなバルトの囁きに、マルーは冷え冷えとしていた心がぽっと温まるのを感じた。
どれだけ覚悟をしていても、彼との別離を想像するだけで、こんなにあっさり凍り付いてしまう、正直すぎる自分の心。
「マルーは、ニサンってなんだと思う?」
「え?」
真意の掴めない問いに、マルーは眉根を寄せた。普段、こんな謎かけのような問いはしない、直情径行の従兄が、必死に言葉を探すように、真剣な眼差しを向けて語る。
「マルーにとってのニサンって、一体なんだ?」
「…? それは…ニサンに住む人々や、町や、信仰…とか…」
「じゃあ、元々ニサンに住んでいたヤツが、他の町に移り住んだら、お前はそいつがその後どうなろうと構わないのか?」
「そんなこと…」
「お前は、生涯一度も顔を合わせることのないようなニサンの信仰者と、ずっと一緒にいたアグネス達とを、同じように考えられるか? ニサンの町に住む人間、一人一人の将来や希望のことを、お前一人で抱えきれると思うか?」
「……」
沈黙したマルーの頭を、バルトの大きな手が撫でた。
「一度に全部、ってのは欲張りだぜ。それに、一つのことに熱中したら、他は全部切り捨てるって考えも、間違ってる。お前は、ニサンの「人々」って言う、曖昧で、馬鹿でっかい言葉に惑わされたんだ」
「まどわ…された…?」
呆然と、呟く。もうずいぶんと、光の射し込まなかった暗い部分を、バルトの声が切り裂いていく。
「ああ。さっきお前は、ユグドラに乗っちまったら、俺達の心配ばっかして、ニサンのことなんて忘れちまうって言っただろ?」
「…うん」
「それはねえよ。心配しなくても、お前はニサンを忘れねえ。例え、俺達の心配で忙しかろーがな」
「でも…!」
反論しようとしたマルーの唇を、固い指でそっと閉ざして、バルトは自信げに破顔した。
「名前も知らねえような、ニサンに住む全ての人間の心配までしろなんて、誰も言わねえよ。お前が、アグネスや、仲のよかったシスターや、僧兵や、言葉を交わした町の人間や、この青い空、ニサンの緑、大聖堂、桜の木…そういうものを想うことが、ニサンを想うってことなんじゃねえのか?」
「……!」
マルーは、大きな瞳をますます見開いて、バルトを見つめた。見つめられたバルトは、少しだけ照れくさいようにその蒼い隻眼を逸らして、気持ちのいい風に金色の前髪を揺らす。
「お前の心はでっかくて、沢山の人間に分けられてんだ。今さら俺や、ユグドラの乗員の心配をしたところで、何も変わらねえよ。お前はいつだって、周りの人間を好きでいるだろう? そんな…単純だけど温かい心に、みんな救われるんだ」
バルトの大きな言葉に、マルーは幻でも見るような瞳で、そっと呟く。
「そうか…なあ…」
「そうなんだ。俺が言うんだから、間違いねえよ」
そう言って、強引に納得させようとするバルトの胸に、マルーは自分から頬を寄せた。今更ながら、抱き合っていた自分たちに気がついたのか、バルトは焦ったように身体を固くするが、柔らかい茶褐色の髪が肌をくすぐるのに、ぎこちなく手を伸ばす。
大きな手に頭を撫でられて、マルーはうっとりと瞳を閉じた。
「…かなわないなあ、若には」
「ん?」
「そんな風に…単純に言われちゃったら、悩んでたこっちが馬鹿みたいだよ!」
「あぁ? 単純ってなんだよ! 俺がせっかく…」
子供っぽい抗議の声に、マルーはぱっと身体を離した。見上げたバルトの瞳に、極上の微笑みが映る。
「へへっ! 嘘だよ! ありがとね、若。若はいつだって、ボクを助けてくれるね!」
「……!」
その無邪気な一言に、バルトはかあっと耳のあたりを赤くする。
それは幸運にも、日光に眩しげに細められたマルーの瞳には映らなかったものの、ぎこちなく歩き出した彼の傍らで、マルーはきょとんと小首を傾げた。
「若? どうしたの?」
「何でもねえよ…っ。おら、早く行くぞ! ユグドラに置いていかれちまう」
「うんっ」
晴れ晴れと答えたマルーをそっと盗み見て、バルトは心の中で呟いた。
(……ま、相手がニサンじゃしょうがねえよな…)
自分以外の存在に心を砕く従妹に、子供っぽい嫉妬を感じていることは、多分一生誰にも明かせない。
大事な少女が、これ以上大きな心を育む前に、自分自身の男の器も育てなければと、バルトは一人、青空に誓う。
「ま…急ぐこたねぇよな」
「え? 何が?」
「―――何でもねぇよ」
きょとんと問いかけてくるその小さな頭を軽く小突き、バルトはマルーと肩を並べて、ニサンの丘を下っていった。
End.
1/1ページ