はつこいのゆくえ
【1.恋の味を教えよう】
深夜のガンルーム。
常日頃はガンルームのあるじ、メイソン卿の居城であるそこには、ちいさいながらも整った設備のキッチンがあった。
五百人からなる乗組員の胃袋を請け負う巨大な厨房とは違って、個人がごく小規模の調理を行うそこには、最近製菓器具などが充実してきている。もともとメイソン卿の手慰みに甘味や軽食を製作することはあったが、その頻度が激増したのは、とある人物の乗艦がきっかけであった。
「で~きた」
弾む声音で宣言する従妹に、バルトが顔を上げる。キッチンの隅のスツールに腰を掛け、ギア整備報告書などを読んでいた彼は、声と同時にぐう、と鳴ったおのれの腹を軽く押さえた。
「やっとかよ」
「お待たせ、若」
憎まれ口をものともせずに、マルーがにっこりと笑う。かれこれ一時間近くもバルトを待たせていたとは思えぬ、やり切った様子に、バルトは呆れたように半眼を閉じた。
「俺は、軽くなにかつまめるものが欲しいって言ったんだけどな……」
「だから、作ったげたんじゃん」
「一時間かかるとは聞いてない」
「まあまあ、空腹は最高の調味料っていうでしょ?」
つんと澄まして言うマルーに、バルトはなおざりに頷いた。口げんかする時間も惜しく、とにかくなにかで腹を満たしたい。
そもそもこんな時間に腹を減らしているのは、ギアパーツの調整が長引き、正規の食事時間に間に合わなかったからだ。大所帯である戦艦の食事時間は厳密に定まっており、それに間に合わない場合の対処は完全に自己責任。
とはいえ、救済措置として厨房には携帯口糧の備蓄が解放されていて、当座の空腹は凌げた。ただし、エネルギーの補給だけを主眼としているものなのだから、味はお察しの通りである。
そんなわけで、今夜は味気ないレーションで腹を満たす覚悟をしていたバルトだったが、回廊でマルーに見つかり、引っ張られるままガンルームへやってきた。そこで彼女が得意げに振舞った料理が、最近エリィからレシピを教わったらしい謎の一品、というわけである。
「さあ、召し上がれ」
「……」
ことん、と正面に置かれた皿の上に鎮座する、黄色と緑の物体。所々焦げ目が見えるが、そこは致命的ではない。問題は、十分に火が通っているはずなのに何故かぶよぶよと揺れる土台部分だ。
バルトは恐る恐る、物体にフォークを差し入れた。どろりと中から流れてきた黄色い液体は、ほんのりと香ばしい香りと、食欲を減退させる発酵臭がする。
「……なんだ、こりゃ」
「パンプディングだよ」
「……」
聞いたことも見たことも食べたこともある。けれど、目の前の物体Xをそれと称するのは、バルトの本能が断固として拒否していた。
ちらりと目をあげれば、目の前ではマルーがてかてかと顔を輝かせている。食べて食べて、と、全身で甘えてくるような従妹に、バルトは苦々しくため息をつきそうになり、慌てて呑み込んだ。
そういえばこいつ……ニサン正教大教母、だったっけ……
今更のように、従妹のだいそれた肩書を思い出す。宗教国家の頂点に立つ彼女は、基本的には清貧を旨とした慎ましい暮らしを送っているとはいえ、衣食住のすべてを、他者の手を借りて行うのが当たり前の特権階級だ。当然身の回りの雑事、特に炊事や洗濯などのスキルを習得する機会などなく、辛うじて簡単な菓子類を作ったことがあるくらいだろう。
そんなことをいまさら思い出しても、盛大な後の祭りである。せめて、成功例がある菓子などを作ってくれればまだ救われたが、聞いたばかりのレシピを意気揚々と実践する度胸は、さすがファティマの血か、と投げやりに納得した。
突き刺したフォークが一向に動かない様子に、マルーはようやく気づいて眉を寄せた。
「若……? 食べないの?」
「……いや、食うけど……」
胃薬、あったかな……いや、これ、もしかしてシタン先生の世話になるレベルか?
などと、バルトが戦々恐々としているのに、マルーは拗ねたように頬を膨らませた。
「もー、なんだよその嫌そうな顔は!」
そう言って、皿を取り上げようとするマルーに、バルトは慌てた。
「いや、食うからっ。ちょっといま、心の準備をしてたんだよ」
「なんで料理を食べるだけで、そんなたいそうな心の準備がいるんだよっ」
「それはおまえ、これを食っても天に召されませんようにっていう……」
「なにー!? いいよ、食べたくないなら食べなくて!」
思わず漏れたバルトの本音に、マルーは完全にへそを曲げて叫んだ。それから乱暴にバルトの手からフォークを奪い、あっという間にプディングを自分の口に入れる。
「あっ馬鹿!」
「っっっ」
アツアツのプディングは、表面がカリカリに焼けていて、中はなぜか生焼けのようだが、とにかく一気にかきこむものではない。マルーは目を白黒とさせて顔を赤くすると、素早くバルトが差し出した水のグラスを一気に煽った。
「……っぷぁっ!!」
「あーおまえ、馬鹿……」
慌てたマルーがグラスを受け取る時に、盛大にこぼしてしまった水がプディングの上にかかり、じゅうう、と音を立てている。気のせいか、発酵臭がさらに強まった気がして、バルトはやれやれとプディングの残骸を眺めた。
マルーは、火傷してしまった舌を出しながら、ヒリヒリとするそれに涙を浮かべている。その情けなくも可愛らしい失態に、バルトは呆れると同時になんともいえない気持ちになって、思わず彼女の顎に手を伸ばし、赤い舌先を確かめた。
「どれ、見せてみろ」
「あぅ」
ちょこん、と差し出されたちいさな舌は、可哀そうなくらいに赤い。同じように赤く染めたほほで、涙を浮かべながらこちらを見上げる従妹の顔を見下ろすと、バルトは妙な気分になった。
目の前で打ちひしがれるマルーは、大変に間が抜けている。子供の頃から共に育ち、お互いの失敗や失態は腐るほど見てきたが、最近では随分と落ち着いてきて、大教母らしい振る舞いとやらも板についていた彼女の、こんな無防備な姿を見るのは、なんだかずいぶん久しぶりだ。
思いがけず親密な気分になり、バルトは幼い頃の常套句を思い出しながら言った。
「なあマルー、まじないかけてやろうか?」
「うぅ……」
眉を寄せて小首を傾げる彼女の舌先に、バルトは視線を向ける。けがをしたり病気になった時に、ちいさな従妹がよくかけてくれた、おまじない。
「痛いの痛いの、飛んでけ~」
間の抜けた合いの手とともに、患部にそっとくちびるを寄せた。マルーは、ヒリヒリとする舌先に、ちょっとだけ触れたバルトのくちびるの感触に驚いて、思わず硬直する。子猫が毛を逆立てるような様子に、バルトは愉快そうに笑った。
「飛んでったか?」
「……っ」
口元を覆って真っ赤になるマルーは、従兄の暴挙に言葉もない。バルトは衝動的に動いてしまった自分に今更気づいて、取り繕うように顔をそむけた。
「これに懲りたら、今度は味見くらいしてくれよな」
早口に言って、さっさと退散するバルトのおおきな背中を見送ると、マルーは口元を押さえたままその場にへたり込む。
痺れる舌先に残るのは、失敗作のパンプディングの苦い味、それと……
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