【11/22 いい夫婦edition】
幼いころから周囲のひとよりも頭の回転がすこしばかりはやかったわたしは、今日まであまり、悩むということをしたことがありませんでした。
生来、悩むほどのおおきな問題をかかえることがなかった幸運もありますけれど、やはりわたしの性質上、思いまようようなことにはあまり耐性がなく、どちらかといえば即断即決、よく考えずとも本能的に最上の一手を選びうる才能にめぐまれていたのだと思います。
そんなわたしですが、生涯最大といってよいほどのおおきな問題に直面した折は、やはり人なみに時間がほしいと思い、それを率直に願い、猶予を得ました。
わたしほどのせっかちな人間が猶予を、といったのですから、先様も当然、それ相応の時間をくださるものとばかり思っておりました。というよりも、それは当然のマナーだと思うのです。
ところが。ところがです。
どうしたことでしょう、今目のまえで優雅にお茶をたしなんでいる方は、わずか三日ほど前に、わたしに人生最大の選択をおこなうにあたっての猶予を、確かにくださった方のはず。
この方の猶予とは、たかだか三日、という意味なのでしょうか。
なんという、わたしを上回るほどのせっかちな方なのでしょう!
「ごきげんよう、エルトシャンさま」
それでも、わたしはとにかく、にっこりと微笑んで一礼をいたしました。それが、厳しくしつけられた作法であることももちろんですが、この方と対峙するときはいつも、必要以上に肩肘がはって、自分でもどうかと思うほどにかまえてしまうのです。
今までは、それはわたしがこの方のことを、あまり快く思っていないゆえだと思っていたのですが、三日前、これまでの人生を根底からひっくりかえされるような衝撃を受けたあとは、その認識を新たにせざるをえない事態となっていました。
その、新たな認識というものの検証もおこなっていない今、はっきりいってこの方と対峙する準備はできていません。これは、奇襲攻撃です。猶予を与えるとこちらを油断させ、まんまと攪乱させるなんて、なんて卑劣な作戦でしょうか。
わたしの光る視線の先で、エルトシャンさまはまったく憎らしくなるほど美しい所作で、ティーカップをおろしました。
「邪魔している」
ええ、そうですね。本当に、正しい意味で邪魔です。
けれどもそんなこと、まさか口には出せません。それでなくてもこの方の前で、醜態をさらすのはもうこりごりです。
わたしは、エルトシャンさまの差し向かいのソファに腰をおろし、スカートのひだをなおす方々、ゆっくりと次の言葉を模索しました。
この方はいったい、なぜ今日、我が家を訪問などしているのでしょう。そしてなぜ、応接間には父も母もいないのでしょう。父はともかく、母は奥の間でやすんでいるのかもしれません。でも、父は? 父がこの場にいないことが、ありえないほど不自然です。
「君の父上は、先ほど俺と打ち合わせをした後、急ぎの商談だと社に戻られた」
まあ、そうですか。それでは何故、その時一緒にお帰りにならなかったのでしょうか?
「俺は君に用があったので待たせてもらった」
「先ほどから、わたしの心を読むのが楽しそうですね」
「君は案外顔に出る」
ああ本当に、なんて憎らしいのかしら。
顔に出ている、とのお墨付きをいただいたのを幸いに、わたしは表情をとりつくろう努力をやめ、素直にふくれてみせました。だいたい、この美しい方の前で、どれほどつくろったところでたかが知れています。無駄な努力でしたね。
「わたしにご用とはなんですか?」
つっけんどんな問いかけに、エルトシャンさまはほとんど表情を変えることなく、爆弾発言をなさいました。
「結納の日にちが決まった」
「……」
ああ、待ってください。よもや、またこの方の前で気を失う醜態を演じるの?
いいえ、まさか。わたしは元来、そんなに虚弱な女ではありません。母に似て、多少は蒲柳の質ですが、それでも前後不覚におちいるなんて異常事態は、三日前に生まれてはじめて味わった屈辱です。二度も三度もかさねられましょうか。
わたしは、ぐらりと揺れる世界を立て直すように、唇をきりりと噛みしめました。
「エルトシャンさま」
「なんだ」
「わたしは三日前、あなたとの結婚を前向きに考えるための猶予がほしいともうしあげました」
「ああ」
「それに対しあなたは、ゆっくり考えろ、とおっしゃいました」
「違うな」
「はい?」
「俺は君に、こう言った。ゆっくり『慣れろ』と」
「……」
ゆっくり……慣れろ?
言葉の意味をいま一度かみしめて、わたしは当惑に眉をよせました。
慣れろ、とはいったいなんのことでしょう? なにに、慣れろとおっしゃるのでしょうか? 結婚を前向きに考えることに? 幼いころからずっと、わたしを無視してきた方の求婚を信じるふりをすることに?
それとも、幼いころからずっと、わたし自身が無視してきた自分自身の想いを認めることに?
「慣れろ」
もう一度、わたしの心をのぞくような怖いくらい美しい瞳をすえて、エルトシャンさまがおっしゃいました。慣れろ。そう命じるばかりのこの方は、いったいどこまで、わたしのなにを、どうして、どうやって、知ったのでしょう。
口を開くことさえできないわたしの視線の先で、エルトシャンさまはからになった紅茶のカップを持ち上げ、それに気づき、ねだるような目でわたしを見やりました。
「……お茶をいれてまいります……」
わたしは、その理由にとびつくように席をたち、せかせかと応接室をあとにしました。戦略的撤退ともいえる時間かせぎの間、とにかく、すこしでもおちついて、あの方に対峙するすべを手に入れなくては…
キッチンに入ると、ほとんど上の空でケトルを火にかけました。そうしてから不意に、あの方はわざと、わたしがひとりで考える時間を与えてくださったのかしら、と、あまりおもしろくない考えにゆきあたり、なんとなくむっとします。
どうしたことか、ここ最近、ずっとあの方の掌の上でころがされているような不快感がわきあがり、ためいきがでます。そのまま紅茶の缶をキッチンの棚から取り出し、ポットを用意しながら、癪ですがせっかくあたえられたこの時間を有効に使うべく、わたしはエルトシャンさまのことを思いました。
つい最近まで、わたしは彼のことを、まるで絵画の中にいるひとのように思っていました。とても美しく、目をうばわれるほど魅力的だけれど、決してふれることのかなわない、次元の違う方。
親のきめた許嫁、などという他愛もない間柄など、彼は歯牙にもかけません。そうわかりきっていましたし、一瞬たりともそれ以外の将来など、思ったこともありませんでした。
……そうですね、これはうそです。
わたしは、自問自答の中に目をむけたくはなかった真実を見つけてしまい、ためいきをにじませました。
ほんとうは、真実あの方が、わたしのことを想ってくださればいいのに、と、少女らしい夢想をえがいたこともありました。けれどもそれは、ちょうど少女たちが憧れのアイドルや俳優に想いをつのらせるのと同じように、現実味がないゆえにどこまでも自由に思い描けるたぐいの夢でした。
現実のあの方は、決してわたしのことを見ることはない。出会って8年、仮にも許嫁として傍にいて、わたしがあの方に分不相応の思い上がりを抱かずにいられたのは、決してゆらぐことのないその確信があったからです。
それなのに――これはいったい、どうしたことでしょうか。
あの方は、わたしを本当に妻に、と望んでくださっているようです。父への義理か、男性としての意地か、他のなんの目的か、わたしなりに推理しようとしてみても、あの方は決して本心を表にださない方。
わたしにわかるのは、あの方の決意を、翻すことは不可能に近い、ということだけ。
そして、あの方の真意はどうあれ、わたしはその決断を、心の底では恐れながらも喜んでいる――
「……っ」
どきん、と大きく心臓が高鳴り、思わず熱をもったほほに両手をあてたとき、ケトルがおおきな音をたてました。
はっとしてそちらをふりかえり、急いで火をけしてそれをもちあげようとした瞬間、
「――グラーニェ」
突然背後から声をかけられ、ケトルにのばしていた手をつかまれて、わたしは心底びっくりして思わず声をあげてしまいました。
「きゃあ!」
「……すまない、驚かせた」
至近距離で、宝石のような紺碧の瞳がしかめられるのを見上げ、わたしは驚きと動揺で暫時口がきけませんでした。
その間、エルトシャンさまはわたしの手を離し、一歩おさがりになってわたしを見おろすと、すまなそうな口調で、無表情のままこう言います。
「申し訳ないが、急用が出来てしまった。すぐに帰らなくてはいけない」
「……えっ、ああ、そうですか……」
ようやくまともに受け答えができるようになったわたしが、おおきく頷いてみせると、エルトシャンさまは少し考えるふうに小首をかしげ、じっとその紺碧の瞳をわたしにあてて沈黙します。
わたしは、今までとくになにも感じずに――表面上は――いられたはずの、その美しい視線にさらされて、二の句が継げずに絶句しました。ほほが勝手に赤くなっていくのを、どうやったら止められるのか、自慢の頭脳はフル回転していますが、もちろん妙案は得られません。
「……あまり悲壮な顔には見えない。むしろ嬉しそうだな」
「えっ?」
「すまない、君を試した」
「は?」
「結納の日取りはまだ未定だ」
「……」
その言葉に、ぽかんと口をひらいたわたしを見おろして、エルトシャンさまは本当に珍しく、おもしろそうに頬をゆるめてこう言いました。
「こう言って、君に考える時間を与えれば、多少は本音が知れると踏んだんだが……図に当たったようだ。思った以上の好感触で、喜ばしく思う」
「……」
「グラーニェ?」
「……あなた……見ていらしたの……?」
「君がひとりで百面相をしている様を? いや、見たと言うほどではない。声をかけるまでの数十秒、目に映っていただけだ」
シレっと悪びれないその美しいお顔を、わたしが渾身の力で殴りたおさなかったことを、彼は八百万の神に感謝すべきです。
とにかく、わたしはこれで、確信を深めました。
獅子は兎を狩るときも、全力をつくすというように、この方はいつでも油断ができず、狡猾で、決して隙を見せてはいけないひとなのだと――。
まるきりロマンティックではないけれど、それはわたしが初めて、絵画ではない、生身のエルトシャンという男性に抱いた、至極生き生きとした感情だったのです。