【11/22 いい夫婦edition】




 目が覚めるとそこは、応接室のソファの上だった。
 ややしばらくぼんやりと天井を眺め、それから耳元で微かに聞こえる小さな音に気づいて、視線を向ける。
 ソファテーブルを挟んだそこには、薄っぺらいノートパソコンのキーボードを恐ろしく素早く殴打しながら手元の資料を確認しているエルトシャンがいて、不思議な角度から眺めるその神々しいほどの美貌を、グラーニェはなかば朦朧としているような心地で堪能していた。
「気分はどうだ」
 キーボードから視線すら上げずに、エルトシャンが問いかける。グラーニェは初めて彼の存在に気づいたように目をぱちくりと開いた。ずっと眺めていたのは絵画ではなくもちろん生身の彼で、そうと気づいた瞬間急速に視界がぼやけた。
「……なにも見えません」
「眼鏡をかけろ」
「眼鏡……」
 ぱた、と目元に手をやれば、あるべきはずのレンズの感触はなく、よくこの状態で彼の顔を認識できたものだと、我ながら感心する。特徴的な色彩なので、ぼんやりとした輪郭を捉えれば、その容姿を思い起こすことは容易いが、それにしてもリアルな再現率だった。
 グラーニェはゆっくりと上半身を起こして、すぐ傍のテーブルに乗っていた眼鏡に手を伸ばす。それをかけると視界がクリアになって、ついでにようやくこちらに視線を向けたエルトシャンと目が合った。
「……おはようございます?」
「……ああ」
 互いに間の抜けたやり取りの後、グラーニェは改めてソファに座り直した。いつの間にか脱がされていた靴が、足元にちょこんと揃えられていたので、丁寧にそれを履く。いつもよりもゆっくりと時間をかけて動くと、さて、と息をついた。
「話し合いましょう」
「そのつもりだ」
 まっすぐに視線を向けるグラーニェに、エルトシャンは無表情に返す。それから、だが少し待ってくれ、と言った。
「急ぎの分だけ片づけたい。それからゆっくりと、将来の話をしよう」
「まあ……」
 はっきりとしたエルトシャンの先制攻撃に、グラーニェがわずかに眉を寄せる。それから、小さなテーブルいっぱいに広がった文書をちらりと見やり、小首を傾げた。
「……これを片付けるのに、朝までかかるんじゃありません?」
「見くびるな。日付は越えん」
「でも、相当夜遅くになりますね。わたし、そんなに待てません。順序を逆にしてくださらない?」
「逆?」
「話し合いを先、お仕事は後。そうしたら、わたしはすぐに帰れますし、あなたのお仕事も、多分15分くらいの遅延で片がつきます」
「却下」
 タン、と軽やかにキーボードを打つ。視線を上げないエルトシャンに、グラーニェはむっとしたように唇を尖らせた。
「なぜですか?」
「15分で片がつく問題ではない。将来の話、と言ったはずだ」
「ええ、それはわかっています。でも、だからこそ15分もあれば充分です」
「根拠を聞こう」
「わたし、あなたと結婚します」
「……」
 ピー、と、パソコンから不吉な音が響いた。エルトシャンは暫し固まったようにグラーニェを見つめ、それからゆっくりと手元を見やる。どんな時も崩れない鉄壁の美貌が、その瞬間わずかに歪んだ。
「……君…は……なんというか、本当に、面白いな」
 ため息をつきながら、エルトシャンがノートパソコンを閉じる。のろのろと書類を片付け始めた彼に、グラーニェはにっこりと微笑んだ。
「奇をてらうつもりはないんですけれど、わたしの思考速度は、よくひとを面白がらせます」
「……後学のために尋ねるが、俺との結婚を望んだ理由を知りたい」
「まあ。承諾を得ずに女性の唇を奪って、そのご質問は少々不埒ではありませんか?」
 微笑みながらも、いつもの数倍鋭い速度で切り返してきた彼女の言葉に、エルトシャンは一瞬言葉を失った。確かに、責められても文句は言えない。それでも、この切り口上の反応に、どこかが苛つく。
 テーブルを挟んで真っ直ぐに対峙した許嫁同士は、つい1分前に互いに結婚の意を確認し合ったとは思えないほど険悪だった。
「では、俺の不埒な行動への抗議として、結婚を決めたということか?」
「ほほほ、そんな。まさかそれほど自暴自棄ではありませんわ。それに、あなたの不埒な行動は、そこまでわたしの行動を制約するものではありません」
「ほう……」
 すう、と、エルトシャンの紺碧の瞳が細められた。その、肉食獣が捕食対象を見定めるような危険な動きに気づいたのか、グラーニェは背筋をぴんと伸ばして続ける。
「ひとつだけ、お願いがあるんです。このお願いをかなえてくださることが、結婚の条件といえば条件ですね」
「……聞こう」
 腕を組んでソファの背もたれに傲然と背を預けるエルトシャンは、まるで難しい商談をまとめるような真剣な表情をしていた。そこに妥協も油断もないことに、グラーニェは内心小さく舌を出す。
 見ていらっしゃい。ぎゃふんといわせてさしあげる。
「あなたは、わたしが経営学を学びたいとお願いした時、父はわたしに自由に生きてほしいと願っている、とおっしゃいました。それは今でも変わりはありませんか?」
「ああ」
「あなたご自身も、父と同意見でいらっしゃいますか?」
「概ね。だが、結婚の自由と同視してもらっては困る」
「結婚のことは、この際わきに置いておいてください。そうではなく、純粋に、わたしの将来の夢をかなえる自由を、あなたも認めてくださるのですね?」
「……ああ」
 ゆっくりと慎重に、エルトシャンが頷く。それを受けて、グラーニェはにわかに花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。わたし、子供のころからの夢があるんです。医師になりたいと思います」
「……医師?」
「はい。できれば脳神経外科。もしくは心臓移植を専門としたいと思います」
「ほう」
 夢を語るグラーニェの、まっすぐにきらきらと光る瞳を見つめて、エルトシャンは掛け値なく感心した。彼女ならば、その難関と言える将来も、必ず掴み取るだろう。それを、何故か自分のことのように誇らしく感じることに、エルトシャンは改めてぎょっとした。
 その彼の僅かな隙をついて、グラーニェは鮮やかに攻勢に出る。
「というわけで、その夢がかなった暁には、あなたとの結婚をよろこんで申し受けます」
「……」
 エルトシャンの瞳が、再びすうと細められる。彼の視線の先で、グラーニェはにこにこと、無邪気な風に微笑んでいた。その笑みに、隠しきれない勝者のそれを嗅ぎ分けて、獅子王の逆鱗がざわりと震える。
「却下だ」
「なぜですか? 先ほどあなたは、わたしが自由に夢をかなえることを許してくださいました」
「ああ、もちろん、君が医師を志すことには何の異論もない。全面的にバックアップする。一日も早い夢の成就を願っている。だが、それは結婚してからでも遅くはない」
「却下です」
 キン、と聞こえるはずのない鍔迫り合いの音を、二人は同時に耳にした。非常に殺伐とした空気が流れ、婚約者同士というよりは、まるで親の代からの敵同士のように睨み合いが続いた。
 その空気に先に音を上げたのは、グラーニェだった。彼女はもともと、こんな話し合いの必要性も現実性も全く感じていない。ただ欲しいのは、互いの――主に目の前に座る傲岸な美青年の、頭を冷やす時間だけだ。
「……おちついて話し合いましょう、エルトシャンさま。軽挙妄動は愚の骨頂です」
「俺は十分落ち着いているし、軽挙妄動については生まれてこの方犯したことのない愚だ」
「では、いま一度、もうしあげます。わたしが医師免許を取得するまでの数年間、お互いにじっくりと考える時間をもうけるのが賢明です」
「考える時間は、8年以上あったはずだが。君がそれほど愚鈍な性質とは知らなかった」
「本心をもうしあげれば、わたしは初対面の際に、あなたを許嫁と紹介されてからいままで、一度もそれを信じたことはありません」
 静かなグラーニェの言葉に、エルトシャンは唇を閉ざし、まっすぐに彼女を見据えた。グラーニェは、知性の宿る大きな暗緑色の瞳をじっとエルトシャンに据えて、真剣な表情で続ける。
「あなたは決して、誰かのしいたレールの上の人生を歩まれる方ではありません。それが、親心からの有益なレールでも、その上に乗ること自体、誇りが許さないでしょう」
「……それで」
「しかし、事はそう単純ではなくなりました。あなたのお父上が亡くなられ、わたしの父があなたの後見となって手助けしたことで、あなたはご自身の意思を曲げてでも、その恩と義理に報いるという高潔な道をお選びになった」
「それで」
「そのお志は、ほんとうに素晴らしく、気高いと思いますが、もう一度よく考えてください。高潔さと自己犠牲の上に成り立つ結婚は、はたして有益と言えますか?」
「君との結婚は有益なものだと確信している」
「言葉を変えます。わたしたちが結婚することで、あなたは本当に、幸せになれますか?」
 まるで剣戟のような問答の後、グラーニェが最後の一撃を放った。エルトシャンはわずかに眉を上げ、一拍の後答える。
「俺がその質問に何と答えようと、君は納得する用意はないようだ」
「あなたが本心でおっしゃることならば、どんなことでも納得します」
「いいや違う。君は俺に無理なことを押し付けようとしている。幸せになるかどうかなど、今この段階でどう言いつくろおうと、それは机上の空論だ。不確定な未来の話にどんな太鼓判を押そうと、空手形だと撥ね付ける。そういう不毛な問答はやめてもらおう」
「もう、いい加減にしてください!」
 とうとう、グラーニェが堪忍袋の緒を切らした。あくまでも冷静であろうと努力した彼女だったが、こういった交渉術においてはエルトシャンに一日の長がある。エルトシャンは、おっとりとした顔を興奮に赤らめたグラーニェを、至極淡々と見据えた。
 グラーニェは、生まれて初めてに近いほど大きな声で怒鳴ってしまった自分に一瞬だけぽかんとし、すぐに気を取り直したように表情を改めた。ゆっくりと両手で眼鏡のレンズを押し上げ、静かに口を開く。
「わたしは本当に、心からあなたのことを思っているのです。あなたにも、自分にも、決して後悔のある人生を歩んでほしくない。そのために、数年冷却期間をおきたいのです。その間、あなたもわたしも、今よりはもっと冷静に、大局を見て判断することができると思います」
「――いい加減にしてほしいのは俺の方だ」
 地を這うような低い声音に、グラーニェははっと目を上げる。エルトシャンは、まさに王者が睥睨するような傲岸な表情で、彼女を見やっている。その容赦のない視線の先で、グラーニェは思わず喉を鳴らした。
 彼女の緊張が一気に高まった瞬間を逃さず、エルトシャンが言った。
「俺との結婚が不服なら、御託はいい。ただ一言、結婚したくない、あなたが嫌いだと、率直に言え。いくら俺が不埒でも、惚れた女にそこまで言われて厚顔な真似はしない」
「……えっ?」
 強張っていたグラーニェの顔が、一瞬ぽかんと幼くなった。大きな瞳をますます大きく見開いた彼女の表情に、エルトシャンが目を細める。
「気づいていないのか? 君は最初から、俺がどうの、父親がどうのと他人の褌で相撲を取るばかりで、自分の意見は一切口にしていない。いいか悪いか、好きか嫌いか、ふたつにひとつの単純な話だろうに、全く面倒な……」
「ちょっ……ちょっと、待ってください。い、いま、なんておっしゃったの?」
「……君は自分の意見を口にしていない、と」
「その前です!」
「結婚したくない、あなたが嫌いだと率直に……」
「そのあと!」
「惚れた女」
「……」
 シレっとした顔でなんでもないように答えるエルトシャンの正面で、グラーニェの白い頬がじわじわと熱を帯びていった。こんなに無防備で、可愛らしい表情は今まで見たことがない。眉一つ動かさないまま、エルトシャンは内心で感嘆の呟きを漏らした。
 エルトシャンに言わせれば、口から先に生まれてきたような、まったくもって面倒臭い口巧者の彼女は、すっかり真っ赤になってしまった頬を震わせながら、はくはくと口を動かすだけで、結局一言も発することができずにいた。
 その小気味よい展開に、エルトシャンは満足げに背もたれに体重を預け、悪魔よりも美しい顔に勝利の笑みを浮かべてみせた。



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