【11/22 いい夫婦edition】
これは、とある女の子の物語。
その女の子は、にぎやかで楽しいことが大好きなお父さんと、優しくて穏やかなお母さんとの間に産まれた、たった一人の娘でした。
お父さんとお母さんは、その昔手に手を取って駆け落ち結婚したという情熱的な夫婦でしたが、残念なことに長く子宝に恵まれませんでした。それでも、お互いがいれば幸せだといつも噛みしめながら、子供の代わりにせっせと大きくした会社が、一流企業として名声を得てきた頃、思ってもいなかった授かりものとして、女の子が生まれたのです。
お父さんもお母さんも、たいそう喜びました。けれども、もともと身体の丈夫な方ではなかったお母さんは、高齢出産の危険と引き換えに、女の子を生み落してからはますます病がちになってしまいました。
それでも、お父さんとお母さんは、まるで掌中の珠のように女の子を慈しみ育て、女の子は類稀な頭脳と、美人というのではないですが、見ているとなんとなく微笑んでしまうほど愛くるしい容姿に育ちました。たった一つ残念なのは、生まれつき近視がひどく、度のきつい大きな眼鏡が手放せない点でしたが、それすらもまた、女の子のチャームポイントといえました。
女の子が8歳の誕生日を迎えた頃、お母さんの病状は次第に重くなっていきました。年齢とともに心臓が弱くなり、ちょっとした風邪でも長く寝込むような日々が続きます。女の子はそんな時、じっとお母さんの枕元に座って、たどたどしい声で本を読んだり、静かに過ごすことが多くなりました。
やがて女の子は、自分が他の子供たちよりも、ずいぶん賢いことに気が付きました。そして、せっかく天から授かったこの頭脳を生かし、一日も早くお医者さんになって、お母さんの身体を治すのだと、一生の目標を決めたのでした。
女の子が目標に向かってまい進していた頃、女の子のお父さんとお母さんもまた、ひとつの重大な決意をしていました。
お父さんとお母さんは、駆け落ち結婚をしたために、お互いの親族とは縁を切っていました。だから、血縁者として女の子の将来を支えてくれるような人はいません。お父さんとお母さんは、遅くに産まれた女の子の、自分たちがいなくなった後を心配していました。
そんな時、お父さんは仕事を通じて交流を深めたある会社の社長に、とても利発な男の子がいることを知りました。その会社は、大きなグループの傘下にあるものでしたが、母体企業は新社長の器量不足で弱体化しているのに対し、ぐんぐんと業績を伸ばし続け、業界内では遠くない将来、必ず独立して母体グループを飲み込むだろう、と目されていました。
お父さんは、自らの培った会社の命運を、その新進気鋭の子会社に託す決心をしました。そしてまた、目の中に入れても痛くないほど大切な大切な一人娘の将来も、その男の子に賭けることにしたのです。
お父さんは、子会社の社長と業務提携を結ぶことを条件に、子供たちの婚約を調えました。その時、女の子はまだ9歳で、男の子の方も、ようやく13歳といったところです。もちろん、今すぐに本当の婚約を交わすことはできませんでしたが、いわゆる親同士の決めた許嫁として、二人は初めて出会いました。
なにしろ子供のことですし、どちらも一癖ある性格でしたので、出会って早々意気投合というわけにはいきませんでしたが、お父さんも、子会社の社長も、長い目で見て将来的に、二人が力を合わせてくれたらいい、と思っていました。
けれども、それから間もなくのことです。男の子が15歳になる年の春、思いがけない事故で、子会社の社長は亡くなってしまいました。社運を一手に担ってきた稀代の経営者だった社長を失い、業界のトップを走りかけていた子会社は一転、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされました。
男の子は、幼い頃から次代の当主となるべく帝王学を学んできましたが、なにぶんまだ中学生でしたので、会社の浮沈に関わることはできませんでした。それでも、このまま手をこまねいていては、一家の命運が尽きてしまいます。
そんな男の子に手を差し伸べたのは、女の子のお父さんでした。お父さんは、自分の会社と提携していた子会社が倒れてしまっては、もちろん打撃になるとも思いましたが、それよりもなによりも、一度は娘を託すと決めたほどの男の子を、このまま見捨ててしまうことは、どうしてもできなかったのです。
男の子は、お父さんの助けの手を借りて、とにかくがむしゃらにがんばりました。破たんしかけた経営を立て直し、母体グループからの厭らしい圧力も跳ね除けて、高校に進学すると同時に、正式に子会社をグループから独立させ、実質経営者として業界に高らかに名乗りを上げました。
その陰には、いつも女の子のお父さんの惜しみない助力がありました。高齢になっていたお父さんは、自分の会社の経営も、少しづつ男の子に任せるようになり、男の子はただ黙々と、自分の会社とお父さんの会社を豊かにしていくことだけを目指していました。
二つの提携会社が完全に軌道に乗り、業界内でトップの地位を盤石にした頃、男の子は久しぶりに女の子に会うことになりました。
初めて会ったあの日から、数えて6年目のことです。男の子は19歳の青年となり、大学で学びながら経営者としての実力を日に日に高めていました。高校で出会った悪友は、不思議と境遇が似ていたこともあり、お互いに背負ったものは違えども、血よりも濃い兄弟のような交わりで、彼の精神を密かに支えていてくれました。
女の子は、相変わらずずば抜けて高い知性を持ちながら、不思議とあまり目立たないように成長し、学年も飛び級などはせず、聖ユグドラル学園高等部に進学していました。もちろん、ユグドラ学園は都内でも指折りの進学校ですし、その中でも特進コースもあり、女の子の知的欲求は十分満たされる環境でしたが、彼女がそれ以上のスキルアップを目指さなかったのは、やはり家で療養しているお母さんの傍を離れたくないとの思いがあったのでした。
19歳の青年と、15歳の女の子は、初めて会った日と同じく、あるグループ傘下の主催する園遊会で顔を合わせました。
女の子の目から見て、青年の美しさは眩いようでした。幼い頃に出会った時ですら、神々しいような美貌だったのが、成熟した大人に近づいた今、責任ある立場という男の魅力も加わって、手に負えないようなゴージャスな男性に成長していました。
青年の目から見て、女の子は相変わらずぱっとしない外見の娘でした。ただ、幼い頃にこちらをやり込めてきた小生意気さは、きらきらと輝く好奇心旺盛な瞳の中にまだ見つけられました。自分が気まぐれに付き合う女性たちのような、派手さも華やかさもない代わりに、なぜか目が離せない、そんな不思議な吸引力のある娘になっていました。
お互いに成長し、幼い頃のような、不躾な丁丁発止こそありませんでしたが、不思議と互いの一挙一動が癇に障るような、気になって仕方がないような、なんだかとっても居心地の悪い時間を過ごし、別れ際、青年は女の子に言いました。
「君の父上には、本当に感謝している。父上の期待に応え、君の将来を護ると、改めて約束する」
女の子はそれを聞いて、これは大変、と思いました。
この神々しいほど綺麗な青年は、なんという大きな目隠しをされているのでしょうか。父親同士が定めた一方的な婚約、という時代錯誤な話を、その後の恩や義理に絡めて、のっぴきならないところまで思い詰めてしまっているのです。
女の子は、彼が陥っている境遇を知っていながらも、お母さんの看病を理由に、積極的に手を回してこなかったことを、その時初めて悔みました。
いいえ、本当は、小さな頃に初めて会った時に、この綺麗で性格の悪い少年は、遠くない将来、きっと自分の力で、親の決めた馬鹿げた婚約などは反故にし、健全な将来を掴みとるだろうと楽観していたのです。誰かの敷いたレールに乗って生きるなど、この野生の王者のような風格の青年には、誰より一番似合わないことなのですから。
もしも、青年の父親があんなに早く亡くならなかったら、きっと女の子の予想通りの運命だったでしょう。けれども、運命の神様は時になんて残酷なことをするのでしょうか。女の子は、ここまでの数年間の過ちを取り戻すべく、一大決心をしました。
「エトルシャンさま。わたし、あなたにお願いがあります」
「なんだろう」
「わたしに、経営学を教えてください」
女の子の言葉に、青年は驚いたように目を丸くしました。それから彼は言葉を尽くして、女の子の考えを変えようと努力しました。経営は安定しているから、自分に任せてほしい。君のお父さんは、君には自由に生きてほしいと願っている。まだ高校生なのに、経営になんて携わる必要はない。などなど。
それに対して女の子は、にっこりと笑って決して後ろに引きませんでした。あなたに任せた経営に、不安なんかあるはずありません。これは、わたしの自由意志です。同じ高校生のころ、立派な経営者として業界トップに躍り出たあなたにだからこそ、お願いしているのです。などなど。
ふたりはいつも通りの平行線で、けれどもほんのちょっぴり、女の子の方が頑固だったので、それから2年の間、月に一度の割合で、青年が会社の経営を女の子に伝授し、女の子は独学で、経営学から帝王学まで、すべてを学び取ってゆきました。
そして、青年が21歳、女の子が17歳の年の春。
女の子は満を持して、青年の綺麗な綺麗な紺碧の瞳を覆い隠していた、強固で悲しい目隠しを取り去ったのです。
「エルトシャンさま。もうわたし、あなたに教えていただくことはありません。父の会社の経営も、すべて譲り受けました。父も納得しています。あなたはもう、自由です」
「なんの話だ?」
「幼いわたしたちに押し付けられた口約束で、あなたの将来を拘束するなんてばかなお話、わたしがそのまま納得すると思って? さあもう恩も義理もありません。あなたは十分に、わたしと、わたしの父に報いてくださいました。あなたを縛るものはなにもないんです。どうぞ、ご安心ください」
「……なんの話だ?」
不機嫌そうな青年の問いかけに、女の子はちょっと不思議になりました。この方、こんなに物わかりの悪い方だったかしら?
きょとんとしている女の子に、青年は苦々しく言いました。
「君は何か誤解をしている。俺は、恩や義理で君や君の父上と付き合っているわけではない」
「まあ。そんな。ではまさか、ゆくゆくはわたしたちの会社を乗っ取るおつもりで?」
「そんなわけがあるか! 大体、わざわざ外聞の悪い乗っ取りなど仕掛けなくとも、君と結婚するだけで、十分合法的に手に入る話だろう」
「では、会社のために結婚をするとおっしゃるの。まあ……意外です。あなたってもっと野心家かと思っていました」
「……野心家?」
「それこそ、あなたほどの美貌と頭脳と経営手腕があれば、わたしの父の会社なんて目じゃない、もっとずっと大きな会社の美しい社長令嬢や、美貌の女性経営者を手入れることだってできるのに。案外しみったれてますのねえ。がっかりだわ」
「……」
青年は、女の子のこの、急所をザクザク切りつけてくる口功者なところが苦手でした。彼女のぽってりとした小さな唇から、まるでマシンガンのように(いえ、速度は大分おっとりですが)ポンポン飛び出る小気味よいほどの暴言を聞いているうちに、なにかもう、全部うっちゃって、ただひたすらその唇をふさいでやりたいという、単純で野蛮な衝動が湧き上がってくるからです。
その衝動は、女の子が彼の元に経営を学びに来ていたこの2年の間に、揺るぎなく胸に居座る末期の病巣となっていました。そしてごく最近、とうとう自覚症状を伴ったそれに屈した青年は、野生の王者が潔く敗北を認めるように、その病と墓に入るまで付き合おうと決意したところだったのです。
そんな青年の決意など知らずに、女の子は大きな瞳をくりんと回して、さもばかばかしい、というふうに、大げさに肩を竦めました。
「エルトシャンさま。ふってわいた僥倖に、てれて狼狽してしまうお気持ちはわかります。責任感の強いあなたのことですもの、きっとおもいつめて、こうじゃなきゃいけないって、意地になっているんですわ。そんな必要ありませんのよ? たまには素直になってくださいな」
「ほう、素直に」
「ええ、素直に……っ??」
女の子の言葉に、青年は本当に珍しく、言葉通り素直に行動しました。だって、当の女の子が、そうしていいと言ったのです。女の子はすこぶる頭がよかったのですが、たまにこうして間が抜けたミスを犯すことがありまして、そういうところが青年にとっては、たまらなく可愛い、と思わせられるのです。
そうして青年は、常日頃から胸に居座る衝動を、堂々と、丁寧に、けれどちっとも優しくなく遂行しました。女の子はもちろん、何が何だかわかりません。どうしてこんなに近くに、こんなに長い睫毛があるのでしょう。どうしてこれほど強く、この人はわたしを抱きしめるのでしょう。どうして……これは……なんでしょう??
青年が、この2年というもの積りに積もらせてきた衝動のごくごく一部を解放し、とりあえずは人心地ついたかな、と思った頃、女の子はとっくに意識を失っていました。症状としては、酸欠で失神、という、あまりロマンティックではない状態の女の子を腕に抱いて、青年はやれやれ、とため息をつきます。
こうなってしまった以上、彼女はますます頑なに、青年に挑戦してくることでしょう。間違っても、女の子らしく、従順にしとやかに、青年に甘えてくる、なんてことはありません。そんなことを思うと、どうしようもなく面倒くさいな、と青年は嘆かずにはいられませんでした。
けれどもまた、その面倒くささが、青年を強く惹きつけてやまない魅力なのだと、目が覚めた女の子に囁いてみましょうか。きっと彼女は持ち前の頭脳をフル回転して、またまた青年の衝動をくすぐる文句の一つ二つをひねり出すこと請け合いです。
そのたびに失神させてはまずいな、と、青年は反省にもならない反省を心で呟いて、腕の中の小さな身体を、壊れ物のように丁寧に抱き上げました。