【11/22 いい夫婦edition】
「――ままぁっ」
甲高い絶叫に、バルトがはっと顔を上げた。
声の届く距離にある突き出たバルコニーに、軽い人だかりが出来ている。その中心で、声を張り上げて泣く少女がいた。
「ぱぱっ、ぱぱーーーー!!」
その声に、バルトが弾かれたように駆け出す。彼と対峙していた幼い息子も、慌ててその後を追った。
しなやかに駆ける野生動物のように、あっという間にバルコニーにたどり着いたバルトは、高さ2メートル弱の手すりに飛びつき、ひらりと身を躍らせる。着地したところでは、数人の女官が狼狽したように彼を迎えた。
「大統領!」
「大教母さまが……」
バルトはその声を無視し、ほとんどスピードを落とさずに人の輪に入る。
石造りのバルコニーの中央、簡易なテーブルセットの傍に、彼女がいた。
「マルー」
呼ばわると、くず折れるように蹲っていた小さな肩がぴくりと震える。そのすぐ傍らで大きな目をいっぱいに潤ませていた幼女が、父の登場に歓喜の声を上げた。
「ぱぱぁっ」
不安そうなエヴァに、バルトは素早く視線をやって頷いてみせる。それから、マルーの傍らに膝をついて、彼女の肩を抱き起こした。
「……わ……か……」
紙のように白い顔色で、マルーがすう、と細く目を開く。血の気の失った唇が微かな吐息とともに自分の名を呼んだことに、バルトは内心ほっとした。
「大丈夫か」
「……ごめ、ん……」
細い眉を寄せ、浅く呼吸をし、ぎゅっと瞳を瞑るマルーを、バルトは軽々と抱き上げる。ぐったりと夫の腕に抱かれた大教母を、女官たちは緊迫した様子で取り囲んだ。
「大統領。今すぐ医療班を手配いたします」
「ああ」
そのまま踵を返すバルトを追って、エヴァも走り出そうとした時、ようやくエドがバルコニーに到着した。小さな身体で身軽に手すりを飛び越えてきた息子を見やり、バルトが言う。
「エド。エヴァを頼む」
「えっ、お父さん、俺も行くよ」
くったりとした母の身を案じた息子に、バルトが厳しい声で命じた。
「いや、お前はエヴァと別室にいろ。マルーの具合がよくなったら呼ぶから。いいな」
「……はい」
しぶしぶ、エドが頷くと、彼は小さな妹の手をとって父の背を見送った。エヴァは心細そうに、兄の手にすがり付く。
子供たちの視線に送られ、バルトはそのまま館内を進み、自分たちの寝室へ向かった。
その間、腕に抱いたマルーの呼吸は大分落ち着き、それでもまだ青白い顔色のまま、ぽつりと呟きをもらす。
「……あの子達に……心配、かけちゃった……ね……」
「あいつらだけじゃない」
固い声音で返し、バルトは寝室の扉を押しやった。柔らかい光に包まれたベッドに、マルーの身体を静かに横たえる。
白い枕に頭を預け、マルーがふう、と安堵のため息をついた。それから、ゆっくりと碧玉の瞳を開け、傍らに座り覆い被さるようにこちらを見つめるバルトと目を合わせる。
「……ごめんね。心配かけちゃって」
「……見にくんなっつったろ」
「……ん」
心底悲しそうに微笑むマルーに、バルトはたまらず唇を寄せた。血の気の失った唇は、冷たい味がした。
唇を離すと、マルーは冷えた指先でバルトの頬を撫でながら、ゆっくりと囁く。
「……なんか、前にもこんなことあったよね……あれは、若が初めて鞭の訓練をし始めた時……」
シグルドによって禁じられていたにも関わらず、マルーはバルトの鞭の訓練を見て、やはり今日のように倒れたことがあった。
原因は、心因的なもの。過去の惨劇のフラッシュバック。
「……もう大丈夫だと思ってた……。今がこんなに幸せで、若が傍にいてくれて、子供たちも元気に育って……なのに」
一瞬、鞭の指南を受けるエドの姿が、遠い日のバルトに重なった。
血を滴らせ、傷を重ね、自分を庇い続けたあの日の。
その瞬間、世界の色が消え失せた。
「わか……」
震える声で囁いて、マルーがバルトに腕を伸ばす。バルトはそれに答えるように、ゆっくりとマルーの身体を起こし、その胸に抱き寄せた。
マルーは暖かいバルトの身体を、強いほどの力で抱きしめ、その命を確かめるように、ゆっくりと呼吸する。
バルトは、マルーの華奢な背を撫でてやりながら、小さく震える彼女の冷たい身体に、少しづつ、少しづつ、己の熱を分け与えていった。
「……ありがとう、若……」
心から安堵するように呟いて、マルーは自分の全てを預けるように、バルトの胸にすがり付いていた。