【11/22 いい夫婦edition】
ああ、わたしって実は、逃げ場がないんだわ、と、ぼんやりと川の流れを目で追いながら思った。
最初はもちろん、実家に帰る気満々だった。だって、旦那さまとケンカをした新妻が逃げ込む先と言ったら、当然実家でしょう? 芝居がかった置手紙にだって、わざと大きな文字で『実家に帰らせていただきます!』なんて書いてきたし。ある意味形式美ともいえる通過儀礼だわ。
でも。憤然と歩いているうちに――ここがわたしの悪いところなのだけど――うっかり、我に返ってしまって。
もしもこのまま家に帰って、お父さまやお兄さまに愚痴を言って、慰めてもらったら。
……まず間違いないなく、家に連れ戻される。だって、そうでなくたって、お父さまは高校在学中の結婚には最後まで反対なさっていたし、お兄さまだってしたり顔で「ほら見たことか」なんて言って、でも絶対にわたしがなあなあで戻るのは許さないはず。
それくらいの強い意志で――そして、周囲の反対を頑固に押し切って、わたしはキュアンの元に嫁いだのだから。
いまさら実家には帰れない。
じゃあ、どうしようって次に考えたのは、幼馴染のエーディンとブリギッドの家。シアルフィ邸とは目と鼻の先とはいえ、あのふたりにお願いすれば――そしてことさらわたしたちに甘かった、リング小父さまに目をつぶっていただければ――少しの間なら、かくまってもらえる。
そう考えて、足先をそちらに向けた瞬間、でも、と頭の中で声がした。
キュアンとケンカしちゃったの。そう言ったら、エーディンはきっとおろおろとする。他人のことを自分のことのように思いやる優しい子だから、わたしの早すぎた結婚生活を慮って、しなくてもいい気苦労をさせてしまう。そもそも、こんなに早く結婚すると言ったわたしに不安を見せたエーディンに、わたしは『結婚はわたしの方が先輩になるから、いろいろ勉強して、エーディンが結婚するときにはいい助言ができるようにしておくわ!』なんて、偉そうなことを言ってしまったのよね。
そんなエーディンに、まさかおめおめとすがれない。
ブリギッドにだってそう。きっと、ケンカの是非は二の次で、彼女はあの気風の良さと果断な性質上、放たれた弓矢よりも早くキュアンのところへ飛んで行って、彼の弁明や釈明は一切歯牙にもかけず、世にも恐ろしい報復行動に訴えるはず。……小学生のころ、いじめっ子だった男の子にしてやったように、後世の語り草になる騒動を思えば、決してブリギッドには頼れない。
じゃあ、と、案外に乏しい候補をひとつひとつ潰してゆく。
学校の友達は多いけれど、結婚そのものを卒業までは秘密にしている以上、すごく仲の良い人以外には頼れない。そう考えて、事情を知っている友達の顔を思い浮かべるけれど、やっぱりこと、夫婦間の問題となると、なんとなく級友には頼りづらいものを感じる。
お兄さま同士も仲がいい、ラケシスはどうかしら。エルトシャンさまも味方に引き入れて、キュアンをうんと困らせてあげようかしら。
そう思って、それがすごくすごくいい考えのように思えた。
そう、エルトシャンさまを懐柔すれば、もっといろいろわかるかもしれない。……今回のケンカの原因にしたって、きっとエルトシャンさまや、お兄さまならもっとよく知っている。
目的を定めた足取りで歩きながら、わたしはついさっきまでの興奮を思い出すように唇を噛んだ。
わたしとキュアンが結婚したのは、わたしが18歳の誕生日を迎えてすぐの、6月の末。高校在学中の結婚を強行したのは、全部わたしのわがままのせい。
17歳の誕生日に正式にプロポーズを受けて、もちろんキュアンは、わたしが高校を卒業するのを待って、結婚しようと言ってくれたんだけど、わたしが待てなかった。
だって、キュアンとは歳が5つも離れていて、それでなくともキュアンは、大きな会社の後継者としてわたしよりもずっと若い頃から大人の世界で生きている人で、わたしがもたもたしているうちに、どこのどんな素敵な人が、彼の心をさらっていってしまうか。わたしは、夜も眠れないほど不安だった。
もちろん、彼の気持ちを疑ったことは一度もない。彼が、数多いる美しいひとたちの中から、どういうわけかわからないけれども、確かにわたしを妻にと望んでくれたことを、疑ったことは一度もないの。
でも。やっぱりわたしは子供で、なにもわからないお嬢さんで、一歩も二歩も先んじて歩く彼の背中にさえ追いつけない未熟者で…そう考えると、ただ無邪気に彼に恋をしていればよかったころよりも、正式に結婚の約束を交わしたあとの方がずっとずっと不安で、切なくなって、こらえきれなくて、わたしは一世一代のわがままを、お父さまにも、お兄さまにも、そしてキュアン本人にも、貫き通してしまった。
そのせいで、結婚から3か月もたった今でも、キュアンはお父さまに頭が上がらない。
お父さまは意地悪な方ではないけれど、でも、『娘を奪い盗られた父親の嫌味』なら、わたしが生まれた時からせっせと考えていた、と豪語するほど娘びいきなひとだから、なかば面白がってキュアンに意地悪をしている節がある。キュアンの親友であるお兄さまも、なんだかんだでわたしの早い結婚に渋い反応だったこともあって、その点はお父さまの味方。
だから――キュアンにとって、わたしはすごく面倒くさいお嫁さん。
無理矢理、脅すみたいに強引に結婚したくせに、ちっとも可愛くない、やきもち焼きの手のかかる子供妻。その父親や兄には、いわれのない嫌味や文句を甘んじて浴びせられて、きっと辟易しているでしょうに、当の妻本人にさえ、こんなふうにわがままをしでかされて。
……きっと今頃、どうしてわたしと結婚しちゃったんだろうって、後悔しているわ。
その昔……きっとわたしに出会ってすらなかった昔に、彼とちょっとだけ親密だった方から言われた他愛のない当てこすりを真に受けて、八つ当たりして、挙句に勝手に家を出て、実家にすら帰れなくてさまよい歩いているなんて、子供も子供、赤ちゃんみたい!
そう思うと、ラケシスの家に向かっていた足もいつのまにか止まった。きっと、エルトシャンさまに事情を話したって、お説教されるに決まっている。キュアンはわたしよりも5つも年上で、その上大企業の御曹司なのだから、過去にあった火遊びのひとつやふたつ、笑って許すくらいの度量がないのかって、そんな子供じゃキュアンも大変だろうって、あの怖いくらいに整ったお顔でそう諭されたら、わたしその場で泣き崩れてしまいそう。
……実際にエルトシャンさまとお話したことなんて数えるほどしかないし、いつもお兄さまやキュアンが一緒だったから、本当のところ、あの方がこんなふうに厳しいことを仰るかどうかはわからないけれど。ラケシスのお話では、厳格だけれどとてもお優しい、って聞いているし、きっとこれは、わたしの心が作り出す弱さが言っていることなのだけれど。
……でも、万が一。キュアンの親友である方の口から、キュアンの過去の女性遍歴なんかを聞かされてしまったら、わたしは本格的にどうしていいかわからないから。
やっぱり、どこにも行けなくて。
わたしの足は、完全に止まってしまった。
そして、運河にかかった大きな橋の欄干から、もうすぐ滑り落ちる真っ赤な夕焼けをぼんやりと見つめて、これからどうしよう、って思う。
どこにも行くあてがない。……ううん、本当は、行きたいところはひとつしかない。
キュアンのところに帰りたい。
どんなにたくさんの逃げ場があったって、どれほど多くの味方がいたって、結局は、わたし自身が本当に帰りたいところは、たったひとつしかないのだから。
だったら……もう、意地なんか張らないで、不安なんか見ないふりして、なにもかも覆い隠して、それでも傍にいたい人のところに帰ろう。
そう決心して、わたしはにじむ涙でぼんやりと揺れる夕陽から目をそらした。
「――エスリンっ……!」
振り返ると、夕焼けを受けて真っ赤に染まった髪を乱しながら、こちらに駆け寄ってくるキュアン。その声を聞いただけで、姿を見ただけで、わたしの中がまっしろになって、まっさらになって、なにも考えられなくなって。
腕を伸ばしたのか伸ばされたのか、それすらわからないほど勢いよく、キュアンの胸に飛び込んでいた。
「キュアン……っ」
汗とコロンの彼の匂い。嗅ぎ慣れたそれを胸いっぱい吸い込んで、湿った腕と胸にしがみついて、いつもの何倍も早い鼓動を身体中で感じながら、荒い息を繰り返すキュアンのことだけで頭がいっぱいになる。
キュアンは、覆いかぶさるようにわたしを抱きしめたまま、未だかつて見たこともないほど息を切らせていた。全身水に濡れたように汗をかき、抱きしめたわたしに寄り掛かるように徐々に力を抜いていく。
「きゅ、キュアン……だいじょうぶ?」
彼の身体を支えきれなくて、わたしがその場にぺたんと尻餅をつくと、キュアンはそのままぐったりと身体を預けてきた。地べたに座って寄り添っているわたしたちはひどく滑稽で、でも夕焼けしか見ているものがいないのだし、わたしは気にせずに大きな身体に腕を回す。
キュアンをしっかりと抱きしめていると、少しづつ彼の息が整ってきた。わたしの首筋に埋められていた唇が、熱い吐息を吹きかける。濡れた大地色の髪に頬をすり寄せて、わたしが言った。
「ごめんなさい……キュアン」
「……エスリン……」
「わたし、悪い妻だったわね。あなたをたくさん困らせたわ。ごめんなさい、本当にごめんなさい……」
堪えきれなくて、最後だけ涙声になってしまったけれど、本当に反省していることを伝えたくて、ぎゅっと彼の頭を抱きしめる。そうしたら、キュアンはわたしの腕を強くつかんで頭から外させると、勢いよく顔を上げた。
「なにを言っているんだ、エスリン! 悪いのは全面的に私だ。すまない。心から反省している。どうか許してほしい……お願いだ、エスリン」
「キュアン?」
汗の浮いた顔を真剣に強張らせて、いつもの余裕や悪戯っぽさをどこかに置いてきてしまったキュアンは、呆気にとられているわたしの手を握りしめて、その指に唇を寄せた。
「君が優しいのをいいことに、私は君に甘えてばかりいた。仕事の忙しさを理由に、君に安らぎを求めすぎていた」
「そんなことないわ、キュアン。甘えていたのはわたしの方よ」
「いや、違う。君は本当によくやってくれていた……学校に通いながら、家のことまできちんとこなし、父や義父上、シグルドへの気配りも万全だった。その上私がどれほど無茶をしても、健気に耐えて、私を満たしてくれて……」
「ま、待ってキュアン。わたし、本当に無理なんかしてないわ」
キュアンの懺悔に驚いた私が言うと、キュアンはじっと紅茶色の瞳を向けて、低く囁く。
「ほんとうに?」
「……ほんとうよ」
「本当に、私に恨み言はない? 言いたいことは? 聞きたいことは? 知りたいことはない?」
「……」
悪魔のような囁きに、わたしはどんどん涙がにじんでくる。
ずるいわ。言いたいことも、聞きたいことも、知りたいことも山のようにあると、わかっているくせに。
それでも、あなたの傍にいたいから、そのすべてを捨ててもいい覚悟だと、わかっているくせに。
堪えきれなかった涙の滴が、一粒ぽろりと滑り落ちると、キュアンはそれを追いかけるように唇を寄せて、わたしの頬に何度もキスをする。
「エスリン……。私には、なにも我慢しないでほしい。なにひとつ、君に辛い思いをしてほしくないんだ……それでなくても、私の我儘で、君をこんなに早くさらってしまった……これ以上、君に負担を強いたくない」
「え……?」
その言葉に、思わず目が丸くなる。驚いたわたしの視線の先で、キュアンはどこかが痛いように目を細めた。
「本当は、君が卒業するまで結婚を待てばよかったんだ。それが本当の紳士だとわかっている。だが、私は誠実な男ではないから……君へのこの想い以外のすべてを、どうでもいいと切り捨ててしまえる不実な男だから、君の気持ちも、君を慈しみ育んでこられた方たちの気持ちも、すべてを巻き込んで思いを遂げてしまった。その償いは……いや、償いなどという殊勝な心がけですらない。私はただ、君を得た僥倖を一生貪欲に掴み続けるだけだ。信じられないようなその幸いを、いつもいつも、必死にこの手に掴み続けるだけなんだ。だから……どうか、我慢しないでくれ。私の知らないところで、辛い思いをするくらいなら、何でもいい、ぶつけてくれ。頼む……エスリン」
「……」
奔流のように迸るキュアンの切羽詰まった言葉に、わたしはなにも言えなくなった。本当に、なにも言うことがなくなってしまった。
さっきまで、どす黒くわたしの心を覆い潰していたなにもかもが、キュアンの強い紅茶色の瞳に囚われて、浚われて――過去への嫉妬も、未来への不安も、現在への諦めも、すべてが夢のように消えてしまって。
ただあるのは、ただ単純に。
このひとの傍で、一生を生きよう。
このひとの愛で、一生を過ごそう。
馬鹿みたいに素直に、そう思えた。
「キュアン……だいすきよ……」
だから、なんの飾りも衒いもなく、ありのままの気持ちを口にした。わたしの目の前で、キュアンの紅茶色の瞳が一瞬不安そうに揺れて、それから宝石のように輝く。その中に映るわたしの顔は、誰よりもなによりも幸せそうに見えた。
「……ありがとう……愛してるよ、エスリン」
「わたしも愛してる」
「さあ、……うちに帰ろう」
啄ばむようにキスをして、キュアンが柔らかく微笑んだ。わたしはその手を取って立ち上がり、彼の汗に濡れた髪をそっとかき上げる。
「ええ、帰りましょうキュアン。わたしたちのおうちへ」
「エスリン……」
わたしの手を取ってくちづける彼は、本当に心からほっとしたように肩の力を抜いていた。こんなになるまで心配をかけてしまったのかと、わたしの胸が後悔に痛む。
「キュアン……ずいぶんわたしを探してくれたようね。ごめんなさい」
「ああ……うん。あちこち探したよ。そして、あちこちで怒られてきた」
「え?」
目を丸くするわたしの肩を抱いて、キュアンがゆっくりと歩き出す。熱を持って熱い掌が、なにかを確かめるように肩を撫でる。
「最初はもちろん、シアルフィ家へ――ここでは小一時間絞られた。エスリンを見つけなければ明日の朝日は拝ませない、と」
「えっ?! ご、ごめんなさい、父がまた冗談を……」
「いや、これはシグルドの台詞。義父上には実際にティルフィングを突き付けられた。明日まで待って頂けなさそうだったので、卑怯だが早々に退散させてもらった」
「なんてこと……!」
まさか、冗談でしょう。そう思いたいのは山々だけれど、家宝の神剣を毎晩手入れしているお父さまの姿を思い浮かべれば……簡単に想像がつく。
「次はユングヴィ嬢たちを訪問した。ここでも罵倒の集中砲火。ブリギッド殿はそれでも手加減してくれたらしい。間一髪、弓矢をかわすことが出来たからね」
「うっ、うそ!」
「それから、きみの級友にはあたりさわりなく電話で探りを入れて――大丈夫、こちらは大分理性が戻ってから対応したから、怪しまれなかった。次に向かったのは、エルトのところだ」
「……そ、それで……?」
「ラケシス嬢には花瓶を投げつけられた」
「!」
「エルトには、自業自得だと冷たくあしらわれたな……返す言葉もなかったよ」
「キュアン……」
「ついでにグラーニェ嬢には、にっこり笑って女の敵と断定された」
あまりの惨憺たる冒険に、わたしは呆気にとられるやら、同情するやら、申し訳ないやら……でも、途中からキュアンが開き直って、なんだか威張った風に話しているのが面白くて、彼の身体にしがみついて歩きながら、くすくすと笑いが溢れた。
「ひどいな……同情してくれないのか、私の奥さんは」
「ふふ……ごめんなさい。キュアン、みんなには後で、わたしからも謝っておくわ」
「いいや、その必要はないよ」
「え?」
驚いて顔を上げると、屈みこむようにわたしの顔を覗いたキュアンは、蕩けそうな微笑みを浮かべてこう言った。
「君のことが大好きな人からの罵声は、甘んじて受けよう――なんと言われても、君を手放すことなど出来ないんだから。そのかわり君は、傷ついた私の傍にずっと寄り添って、思う存分慰めてくれればいいよ」
「……まあ、キュアン。もちろん、お安い御用だわ」
笑っていいのか泣いていいのか、わからなくなるほど幸せだった。
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