守りの手
夜は決して 一人で外へ出てはいけませんよ
闇の手が あなたを
暗い深遠へ
引きずりこんでしまいますから
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その夜、マルグレーテ・ファティマは、幼い頃から遵守していた言いつけを、初めて破った。
居住区の者がほとんど眠りにつき、起きているのは数名の見張りだけになった隠れアジトを出ると、ドッグに収容されていたユグドラシルの甲板へ、人目を盗んで忍び込む。
乾いた風が、砂気混じりにマルーの頬を撫でた。
上空には赤い月が浮かんでいる。深夜の無気味な静けさと、遠く聞こえる砂塵の唸りに、少しだけマルーは怯えていたけれど、もう、明日には離れ離れになってしまう戦艦への名残惜しさが勝って、彼女はそっと甲板に腰を下ろした。
若葉色のストールを肩にかけ、砂漠の夜の冷え込みに備えたつもりだったが、想像以上に寒気は強い。マルーは、ほんの少しの時間でかじかんでしまった指先に息を吐き、赤い月をじっと見上げた。
「―――風邪を、ひきたいのですか?」
その時、背後から突然たしなめるような声が上がり、マルーは驚いてわずかに肩を跳ねさせた。けれど、わざとなんでもない風を装い、振り返らずに答える。声の主は、顔を見なくても解っているから。
「…いいね。風邪をひいたら、予定は延期…かな?」
その言葉に、赤い月光に照らされた神秘的な銀髪をゆっくりと揺らして、シグルド・ハーコートは軽く肩を竦めた。ユグドラシルの副官であり、実質目前の少女の守り役でもある彼は、幼い子供に言い聞かせるような口調で続ける。
「聞き分けのないことを言わないで。さあ、約束違反ですよ。居住区に戻りなさい」
落ち着いたバリトンを背中で弾き、マルーは首を振った。
「いやだ。もう少し、ここにいるよ」
「マルー様」
「いいでしょう? どうせ…明日からはもう、こんなことしたくてもできないんだから」
その頑なな声音に、シグルドは聞こえるようにため息をついた。
どうしてこう、ファティマの血を継ぐ子供たちは、そろって聞き分けがないのだろう。彼は心底そう思うのだけれど、その気丈さが自分たちを魅了してやまない、未来の希望を象徴しているのだから手におえない。
「今日はわがままですね。シグルドを困らせて、楽しいですか?」
「………」
その言葉には応えず、マルーはただじっと夜風に身を固くしていた。彼女の柔らかい茶褐色の髪が、砂塵を乗せた夜風にさらされて、悲しげなダンスを踊る。
そんな頼りない後ろ姿に、シグルドは静かに嘆息すると、観念したように彼女に歩み寄った。
「…いらっしゃい」
「え?」
言葉と同時に、マルーの幼い身体は難なくシグルドの腕の中におさまった。背後から彼女を抱きこむように腰を降ろすと、シグルドは用意していた毛布で自分ごとマルーを包み込む。
「これで少しは暖かいでしょう?」
「…あ、ありがと…シグ」
マルーは、今宵初めて素直に口を開くと、シグルドの大きな胸に遠慮がちに身を預けた。規則正しい彼の鼓動が背中越しに伝わってきて、闇に怯えていた心がぽっと温かくなる。
「……あったかい、ね」
「…ええ」
頷いて、シグルドは瞳を細めた。久しぶりに腕に抱く小さな少女の温もりに、こんな風に一緒に過ごす時間は、もう長いことなかったなと、改めて思い返す。
歳よりもずっと幼く見える少女は、それでも今年で十歳になる。幼いころに受けた心の傷跡をおくびにも出さない、その天真爛漫な性質に、心身の傷を抱えてユグドラシルに乗艦した、どれほどの人間が癒されてきただろう。
マルーは、彼女自身の自覚に関係なく、人の心を暖かく救う。それはまるで、忘れたくとも忘れ得ない、その身体に流れる尊い血の存在を思い出させるように。
「最後にシグに抱っこしてもらったのって…いつだったっけ?」
彼の心を読んだように、マルーが小さく問い掛ける。シグルドは遠い月をゆっくりと見上げた。
「確か…鞭の修練のため、若がマルー様と過ごす時間をあまり取れなくなったころです。あなたは毎晩のように、私の寝室にもぐりこんでいましたね」
「あ…っ、あの時は、なんだかすごく悔しくてさ。だって、いくら言ってもシグも若も、ボクに鞭を教えてくれないんだもん」
拗ねるように言ったマルーに、シグルドは穏やかに微笑んだ。
「あなたに鞭は似合いませんよ。それに、私もやんちゃ坊主一人に仕込むだけで精一杯でしたから」
「あはっ! …そうだよね、若ならシグの教えること、ばっちり習得できたよね。それは…解ってたよ、あの頃から」
マルーは言って、小さなおとがいを上げた。幼さの残る顔立ちには、不似合いなほど強い眼差し。
じっと月を見上げる彼女の決然とした表情は、決して十歳のそれではなかった。
「結局、ボクに与えられた道は、最初からひとつしかなかった。それを知っていたから、シグはボクに鞭を教えなかったんでしょう?」
「……」
押し黙ったシグルドに、マルーは構わず続ける。その声音はどこかほの暗く、自嘲するような響きがあった。
「そうだよね、ボクがどんなにわがままを言ったって、若と一緒に行けるはずがない。ボクはニサンの教母になるべくして生まれて、故国ではボクの帰りを待つ人が…いる」
「不満…ですか?」
遠慮がちなシグルドの言葉に、マルーは弾けたように首を振った。
「まさか! 何で不満があるの? ボクには帰りを待っていてくれる人たちがいる。帰っていける場所がある。この戦乱の世の中で、これほどありがたい話ってないよ」
「けれど、あなたは必ずしもそれを望んでいるわけではないのでしょう?」
「望むとか、…望まないとか、そういう問題じゃないよ。若が、アヴェの最後の王太子として戦うことを決めたように、ボクはニサンの大教母として生きることに決めたんだ。だから…」
まるで、自分自身に言い聞かせるようだったマルーの声音が、不意に途切れた。夜風がいっそう冷たく二人を包み、シグルドは小さなマルーの身体を守るように抱きしめる。
その時、マルーは堪えていたものを吐き出すように口を開いた。
「シグ…ボクは、怖い…」
「…マルー様…」
「ボクの故国には、ボクを…ニサンの大教母を待ち望む人たちがたくさんいる。彼らが求めているものは、自分たちを守り導く存在で、決してちっぽけな女の子なんかじゃない。…自分と歳も変わらないような、小さな男の子の背中に隠れて、ただびくびく怯えているだけの、無力な子供なんかじゃないんだ…」
「マルー様」
シグルドの呼びかけにも答えず、恐らくマルーは、その小さな身体いっぱいで受け止めていた恐怖を、不安を、ぎりぎりの危うさで吐き出していた。
「だからボクは…ボクの中の弱いボクは、ちっぽけなボクは…、いつもいつもボクに言うの。わざわざ辛い目にあう所へ行かなくても、ここにいれば安全だよ、―――ここにいれば、傷つかないよ…って…」
ここにいれば、温かな腕に守られていられる。戦乱の最前線にあるといっても、小さな女の子一人くらい、いつでも誰でも守っていける。
ここは、『マルーの戦う場所』ではないのだから。
「そう…思っちゃうんだよ…」
泣きそうなその声に、シグルドは胸を詰まらせた。
少女の弱さを叱咤するには、彼女に与えられた運命は過酷すぎる。
成長を期待して突き放すには、シグルドは彼女を愛しすぎている。
「―――もう少し……」
思わずそう言いかけて、シグルドはため息をついた。
もう少し、ほんの少し。あと五年、いや、三年でいい。
彼女が彼女の運命に流されるまでの時を、どうにかして稼ぐことはできまいか。
「………」
叶わぬ望みを口にするほど、シグルドは愚かではなかったけれど。
たった十歳の少女が、戦乱という大きな不安に苛まれた一国を統べる教母となる。人々はマルーに癒しを求め、庇護を求め、彼女はその小さな手を惜しげもなく広げて、すべての民のために生きるだろう。
そしてまた、この幼い少女には、民の期待に応え得る大きな器が備わっていると、皮肉にもシグルドは確信していた。
この世のどこを探しても、またとは見つけられない稀有なひと。人々の心を、そっとすくいあげ癒すひと。
そんな中、誰が彼女の涙に気付くだろう?
大教母である前に、たった十歳でしかない少女の、誰にも責めることはできない幼い涙に。
おそらくは、誰も。
(―――気づくはずが、ない)
おそらくは、誰も。何者も、シグルドほどマルーを想える者はいまい。
あの国には。
(―――マルー様)
大教母になるという道は、マルーにとって決して楽な道ではないから、望んだ道ではないから、シグルドは喉もとまで出る言葉を堪える。
『…もう少し、ここで、このままで…この腕の中で…』
喉もとの、一番胸に近いところでくすぶる思い。
それは、純粋にマルーのためを想って出る言葉ではない。
最愛の少女をみすみす悲しませたくないが故の、彼自身のわがままでしかないのだ。
けれど、そう言ったところでマルーは頷くことはないだろう。彼女は必死に前を向いて、その細い身体で立ち向かっている。
彼女をいたわる言葉は、逆に彼女を傷つけ、守ろうとする気持ちは、生きる彼女を追い詰めるものとなる。
たった十歳の少女が、そこまでの覚悟を決めたのは…幼い頃、小さな身体で彼女を守り通した、勇敢で一途な少年に、何とか追いつき、彼を守ろうと心に決めているから。
それが解るからこそ、シグルドは何も言えない。
「でもね…シグ」
小さな囁きが、マルーの唇から零れた。シグルドは、少女の茶褐色の髪に鼻先を埋め、まるで彼女に守られているような錯覚の中、その言葉を聞く。
「ボクは、若が立ち止まらない限り、進もうと思う。ずっと、まっすぐ若の後ろをついていけば、安全かもしれないけど、それじゃいつまでたっても若に追いつけないから。ボクは、若の背中は追わないよ」
彼に守られていた頃は、いつも背中ばかりを見ていた。だからもう、背中を追ったりはしない。
まっすぐに彼と向き合い、肩を並べられる存在になりたいから。時には彼を胸に庇い、慈しんで癒せるような、そんな存在になりたいから。
「ボクは、ようやくここから進むことができるんだ」
その言葉に、シグルドは何も返す言葉はなかった。
いつの間に、こんなに大きくなっていたのだろう。庇護を必要とし、暗闇に怯えていた小さな子供はもういない。
ここにいるのは、自分の進むべき道をしっかりと見定め、その道を歩むことにためらいを見せない、誇り高い女。
もう…何者にも傷つけられないよう、二度とその心を壊されないよう、この腕で彼女を守る必要はなくなった。シグルドは、誇らしいような、そしてどこか寂しいような、複雑な心境で瞳を閉じた。
「…マルー様は、立派になりましたね」
「え?」
シグルドの言葉に、マルーが肩越しに振り返る。彼女を胸に抱いたまま、シグルドは碧玉の両目を静かに開いた。そこには、暖かい慈愛の光と、僅かな寂寥が浮かんでいる。
「もう、シグルドがお守りする必要はありません。マルー様は、自信を持って、あなたの信ずる道を進めばいい。あなたならば、望む未来を勝ち得ることもできましょう」
「………」
その言葉に、マルーは不意に瞳を伏せた。シグルドは、そんな彼女の変化に気付き、小首をかしげる。
「どうしました?」
「…シグ…」
小さく囁いて、マルーは少しだけシグルドから身体を離すと、正面からまっすぐ彼に向き合った。その大きな双眸は、何故かとても悲しげに…いや、寂しげに潤み、わななくように唇が開かれる。
「シグ、ボクは…、いつも、シグに甘えてばかりいたよね。若には絶対に言えないような泣き言も、シグになら言えた。…シグは、ボクの憧れの存在だった。ボクは、シグのようになりたかった」
「……」
「シグ、ボクね、ボク…いっぱいえらそうな事言っちゃったけど、やっぱりホントは…少し、怖い。ボク、今まで自分ひとりで何かしたことないから、いつも若やシグに助けてもらっていたから、だから、一人で上手くやれるか…すごく、怖いんだ」
恐らく、自分の運命に覚悟を決めた十歳の少女の、それは最後の弱音だった。
これから先は、どれほど辛くとも、苦しくとも、彼女は誰にもこんな気持ちは打ち明けないだろう。それほどの覚悟がなければ、あの少年には追いつけない。
マルーは静かに言葉を切って、そっとシグルドの胸に寄りかかった。それは、幼い頃からの彼女の癖で、不安を癒してほしいという合図。
これを最後に、もう二度と、送ることはない。
マルーとシグルドだけの、合図。
「…心配ありませんよ、マルー様」
シグルドは、常の何倍も優しく囁いて、そっとマルーの髪を撫でた。茶褐色の癖のない髪は、幼い頃に比べてずいぶん伸びているけれど、その柔らかい感触は今も変わらない。
「あなたはいつだって一人ではありません。傍にいることはできなくとも…シグルドはいつも、あなたを想っております。それを、忘れないでください」
小さな頭を胸に抱き、不安を取り除くように優しく撫でるシグルドの手は、いつでもマルーを癒してきた。時には父のように、そして母のように、幼い頃に奪われた、肉親のような大きな愛を、この青年は惜しみなく与えてくれる。それは、彼の主として戦艦を統べる、従兄弟の少年にも同じように与えられていた。
マルーはその手の感触に安堵し、静かに瞳を閉じる。砂塵を含んだ冷たい風は、もう彼女を脅かすことはなかった。
「……ありがと…シグ…」
小さく囁いたあと、ほどなくして規則正しい寝息が聞こえてきて、シグルドは優しく苦笑する。
やはり、まだまだ子供だと、言い訳のように呟いた。
「……今はまだ、シグルドの腕で眠るマルー様でいてください…」
過酷な未来は、すぐそこまで迫っているから。
だから今だけは、あなたのために差し出された、この守りの手の中で。
End.
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