show you the shape of my heart




 砂気混じりの陽が当たる回廊を、マルーは足早に進んでいた。
 掃除の行き届いているファティマ城とはいえ、おもに使用人たちが使うその裏回廊は、吹きさらしの風が運んでくる砂塵ですぐに床が覆われる。マルーは、旅装が汚れるのも構わずにその中を走っていた。
 今更どれほど砂埃にまみれようともかまわない。バギーによる強行軍で砂漠を横断してきたいまのマルーよりも汚れたものなど、この城の中にあるわけもないのだから。
 普段は城に着いてすぐ、マルーは湯を使わせてもらう。年頃の乙女らしく、身ぎれいにしてから愛しい恋人に会いたいのだと、周囲の者も心得て準備を整えてくれる。
 けれど、いまだけは、マルーは取るものもとりあえず、周囲の制止さえ振り切って走っていた。行儀よく表玄関から広い城を渡っていては、目当ての部屋まで果てしなく遠い。だから、勝手知ったる城の、普段は自分たちのような者が足を踏み入れてはならない、使用人たちの活動導線の合理性を利用して、掟破りの暴挙に出ている。
 髪を振り乱して走るマルーを、幸いなことに目にした使用人の数は少なかった。それでも、幾人かの泡を食ったような顔を振り切って、マルーは最後の階段を駆け上がる。
 扉を開くと、落ち着いた内装の見慣れた回廊が目に飛び込んだ。哨戒兵がこちらに気づき、すぐに警戒を露わにしたけれど、現れた小柄な娘の正体に気づいた瞬間、さすがの胆力で頭を下げた。
「大教母様」
「入ります」
 兵たちの目の前をすり抜けて、マルーは簡潔に言って扉に手を伸ばした。重厚な取っ手を華奢な手が掴む前に、素早く兵がそれを開ける。
 転がるように入った部屋の奥で、驚いた声が上がった。
「……マルー?」
 その声の、存外しっかりとした張りに、マルーは喘ぐように息をつく。それから、夢中で駆け寄った枕辺で、バルトが目を丸くしているのを見下ろした。
「わ、か……っ」
 はぁ、はぁ、と息が上がる。砂埃で薄汚れた顔の中、おおきく見開かれた碧玉の瞳だけが、爛々と輝いていた。強張ったマルーの表情と、その散々に乱れた姿を改めて目にして、バルトは呆れたようにくちびるを曲げて笑う。
「なんだよお前、そのカッコ……焦りすぎだぜ」
「……っ、焦るよ!」
 その途端、目の前で元気な様子を見せるバルトに、マルーは混乱の極みで怒鳴った。無事とわかって嬉しいのと、ずっと心配のし通しで疲弊したのと、様々な感情が混ざり合って収拾がつかなくなっていた。
 バルトはそんなマルーを見つめて、わずかにこけたほほをゆがませる。よく見れば、金色の短い無精ひげがその顎を覆って、肌はすっかり潤いを失くし、隠しようもない疲労が目の下をどす黒く染めていた。
 それは、復興の途上である現在の状況では死病に近いといわれた病で、たった数日前まで生死の境をさまよっていた名残。それを目にして、マルーは改めて恐怖に震えた。
 一歩間違えれば、この人を喪うところだった。その現実をまざまざと見せられて、へなへなとくずおれる。
「おいおい」
 枕辺に膝をついたマルーに、バルトはさらに苦笑した。砂埃でぐしゃぐしゃの棗の髪にそっと手を伸ばし、普段のそれとは大違いのごわついた手触りに指を絡ませる。
「心配すんな。お前を残して死なねぇよ」
 大変に甘い睦言を口にしているバルトに、マルーはけれどちっとも喜ばなかった。自分の髪を撫でる手をぱしりと掴んで、強い眼差しを上向ける。
「そんなの、わかんないじゃんか!」
 興奮気に言った瞬間、マルーの碧玉がぶわりと膨張した。あとからあとから溢れてくる宝石のような涙が、砂で汚れたやわらかなほほに筋を作る。ぶるぶると震える手で、バルトの手をぎゅうぎゅうに握りしめながら、マルーは駄々っ子のように喚いた。
「だっ、だってっ、今回の、病気だってっ、た、助からない、かもっ、て、みんな……っ、でも、それはっ、誰にも、どうしようもな、い、ことだっ、てっ」
 どれほど生きたいと願っても、誰よりも強くあったとしても、厄災を免れることはできない。
「そ、その時っ、ボクはっ、遠い国でっ……若が、生きるか、し、死ぬかの時、ぼ、ボクは傍にっ、い、いられない、なんてっ! もうっ……、やだぁ!!」
 顔中をぐしゃぐしゃにして、マルーが叫ぶ。その懐かしい光景に、バルトは胸に杭を打たれるような痛みを感じた。

 ――ばると、ばるとぉ……っ、ねぇ、ばるとをいじめないで……
 ――ばるとをぶつなら、まるーもぶってよぉ……っ
 ――やだ、やだぁ……っ、もうっ……、やだぁ!!

 シャーカーンに捕えられ、マルーを庇ったバルトが幼い背中に幾筋も鞭の痕を作った夜、マルーはボロボロになったバルトの枕辺で、魂を溶かすように泣いていた。
 たった四歳だった彼女は、そのあと何度も過酷な運命に翻弄され続けたというのに、こんなふうに泣いて叫んで我を通すことは、それ以来一度とてなかった。バルトの生死が分からない恐怖も、己が身を挺して彼を護った時も、確たる未来などなく離れ離れになった時ですら、彼女は恐怖を微塵も見せずに耐えてきた。
 その彼女が、いま。
 再び、魂を溶かすように、泣いている。
 バルトの手に縋り、決して離すまいと爪を立て、ひたすら自分の感情だけで、泣いている。
 バルトは、そんな寄る辺ないマルーの姿に、本能のように手を伸ばした。
「――っ、わかった」
 抱き寄せたマルーの、砂ぼこりの匂いのする髪にほほを寄せ、呟く。ひぃん、と泣き崩れるマルーは、ただそのぬくもりと鼓動を求めるようにバルトの胸に取りすがった。
 まるで子どものように、肉親を求める幼子の泣き方で、マルーはただひとりの恋人に縋り続けた。
 やがてマルーの狂乱が収まったころ、バルトはマルーの背中を穏やかに撫でていた手を止めた。マルーはそれと気づき、不承不承、たいそう恥ずかしそうな挙措で恐々顔を上げる。
 泣き腫らした目は重たげに瞼を落とし、砂ぼこりで汚れていた顔は涙の痕でまだらになっていた。久しぶりに会う恋人の前で、散々な醜態をさらしたことに青ざめているマルーの顔に、バルトは優しく手のひらを添える。
「――結婚するぞ」
ごくごく平静に告げた言葉に、マルーは腫れた瞼で精いっぱい目を丸くした。それから慌てたように口を開く。
「――ごっ、ごめんなさいわかっボク、」
「いいから」
「違うんだ、違うの、ちょっといま、ボク混乱してて」
「マルー」
「だって、若が倒れたって聞いた時、もう、間に合わないかもって、ボク、すぐニサンを発つつもりだったんだけど、でもっ」
「おい」
「だから、すごく混乱しちゃって、悪い方にばっか考えちゃってたから、つい、ワガママ言って、恥ずかしい、ボク、わかってる、大丈夫、ちゃんとできるから、だいじょ……」
「おい!」
「っ」
 腹の底から響くバルトの声に、マルーはびくりと震えて固まった。そんな彼女のほほを掴み、無理矢理視線を合わせたバルトは、一言一句はっきり聞かせるように言った。
「お前が感じてる恐怖は、俺が感じてる恐怖だ。お前が耐えられねぇんなら、俺だって耐えられるわけがねえ。結婚するぞ。二度と離れねぇ」
「……若……」
 ぷわり、と、マルーの瞳から再び涙が溢れた。壊れた水栓のようになってしまった自分の涙腺が悔しくて、悲しくて、マルーはどうしようもなく泣けてくる。
 そんな彼女の顔を、バルトは愛おしそうに眺めた。
「おう、泣け泣け。いままでの分も、みんなここで流しちまえ」
「もっ、や、だぁっ」
「いいじゃねぇか。ついでに顔も綺麗になるぜ」
「やっ!」
 その言葉に、マルーは本当に今更ながら、自分の汚い身なりに思い至った。手も顔も、汗と埃で真っ黒で、こんな状態でバルトに取りすがっていたなんて。羞恥が湧き上がり、思いがけずに強い力で彼を押しのけてしまった。
「は、離して若っ、ボク、汚い」
「汚なかねぇよ。それを言うなら、俺はしばらく風呂に入ってねぇ」
「ボクもっ、あ、待って、ほんとにダメ……」
「いいから」
 引き寄せられて、マルーはバルトの濃厚な匂いに強く抱かれる。ほほを寄せられると、じゃりっとした髭の感触が柔肌を擦った。
「結婚するぞ」
 すがるようなくちづけの合間に何度もそう言われ、マルーはなにもかもぐちゃぐちゃのまま、ただ真っ直ぐにバルトに溺れた。





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