show you the shape of my heart




 ユグドラシルに乗っていた頃、バルトとマルーは些細なきっかけでキスを交わす関係になっていた。そこに、甘酸っぱい恋心がなかったとは言えない。お互いに照れくさくて言葉にしなかっただけで、彼らはどこにでもいるありきたりな恋人同士として、互いを求めていた。
 けれど、決して一線は越えなかった。十八歳と十六歳、大人でもないが子供でもない多感な年頃で、互いにそれを意識しなかったはずはない。
 しかしバルトは、どれだけ親密にマルーを抱きしめても、そのくちびるを味わっても、彼女を暴こうとはしなかった。マルーは、自分の未成熟な身体では彼もそんな気になれないのだろうと自虐的に感じていたが、大戦を境にバルトの様子が決定的に変わったことに、すぐに気がついた。
 復興に奔走する中でも、二人きりの時間はいくらでも作れた。けれどバルトは、ユグドラシル乗艦時のように気軽にキスを交わすことを段々に避け、忙しさにかまけていたマルーがそれと気づいた頃には、もうほとんど昔のような、清らかな従兄妹同士の空気感に戻っていた。
 そんなバルトの決断を、マルーは一瞬たりとも悪く思ったことはない。ただ、はっきりと言葉にしてほしかった。
 バルトの言葉なら、どんなことでも呑み込んでいける。彼の望むものを差し出すことが、マルーにとっての最大の喜びであり、それがたとえ別離だったとしても、バルトが幸せになるのならば喜んで耐えられる。
 だから、言葉にしてほしい。生殺しのまま手放さないで、しっかりとこの恋心の息の根を止めてほしかった。

「――っ、ん……っふっ……」

 バルトの舌が、マルーの口内を犯していく。くちびる全体を使って、時には痛みを感じるほど強く。
 いままで交わしたキスは、本物のキスではなかったのかもしれない。これほどにこころと身体を揺さぶられる行為は初めてで、マルーは息をするのも精いっぱいのまま生理的な涙を零していた。
 欲望しか感じられない激しさに、胸の奥がぐらぐらと燃える。未だかつて感じたことがないほど生々しく、バルトの性を意識した。舌が痺れるほどきつく絡めとられ、かと思えば優しく宥めるような動きで翻弄される。舌先が上顎を撫でていくと、身体が小刻みに震えた。
 お互いの唾液が混ざり合い、開け放しのマルーの口の端から零れる。じゅぷりくちゅりと厭らしい水音が夜の空気に響いて、マルーの聴覚を犯し続けた。
 永遠のように思えたそのくちづけが、不意に途切れた。気が付けば全身に力が入らず、ぐったりとバルトの胸に寄りかかっていたマルーは、冷たい夜風が濡れたくちびるを撫でていったことで初めて解放されたのだと気づき、涙の幕が張った瞳をぼんやりと開く。
 相変わらず月の影になったバルトの表情は暗く、けれど炯々と光る碧玉が、細い針のようにマルーを射抜いていた。鼻先が触れるほど近くで、バルトが低い声を上げる。
「……おまえを不安にさせた俺にも非はある。それはわかってるが――ふざけんじゃねぇ」
「……若……」
「なにが責任だ。為政者だ。わかった風な口ききやがって。おまえがそうやって、俺のためにって言いながらこの手を離そうとするたび――当たり前みたいに自分を殺そうとするたびに、俺がどんだけキツイ思いしてんのか、わかってんのかよ」
「……」
 苦しそうなバルトの声音に、マルーは青白い顔で目を瞠った。抱きしめられた身体が、すうっと氷のように冷えていく。目の前でバルトは、その何倍も凍えているように眉を寄せた。
「俺にとっておまえは、替えがきかねえ片翼だ」
「……っ」
「ちゃんと言葉にしなかったことは謝る。けど、おまえもいい加減自覚しろ。いつまでも、俺のために犠牲になるなんて甘えたこと言ってんな。逃げんな、マルー」
 そう言われた瞬間、マルーの大きな碧玉の瞳がぶわりと揺れて、ぽろぽろと宝石のような涙が溢れた。
 ちいさなバルトが、その身を盾にして自分を守った時からずっと、その恩に報いようと必死だった。まるでそうしなければ、バルトによって生かされたこの命に価値がないような気がして。それを否定するために、バルトの役に立つことだけを願った。
 けれどそんな歪んだ愛情は、バルトにとってどれほど寂しく、哀しいものだっただろう。初々しい恋人として甘酸っぱいキスを交わし、胸躍るような心地で初恋に身を任せていてさえ、マルーの心のどこかでは、一方的にバルトの手を離すことを厭わずにいた。彼が望めば、という免罪符を掲げ、自分の運命を彼に委ね続けた。
 恋人として、なんと怠惰で傲慢だったことか。
 そのことに初めて気づき、マルーは激しい後悔にむせび泣いた。
 どれだけ若を傷つけただろう。どれだけ虚しい思いをさせただろう。こんなだから、若はボクと距離を取らざるを得なかったんだ。呆れられても仕方ない――
 けれどバルトは、マルーを『片翼』と呼んだ。替えがきかないたったひとりだと、言ってくれた。
 はっと気づいて、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、バルトの穏やかな瞳があった。普段の彼からは想像もつかないような慈愛深い眼差しに、マルーはなにも言うことができなくなった。
「……俺が、おまえを手離すって、思ったか?」
 優しい問いかけに、マルーがこくりと頷く。バルトは困ったように眉を上げ、それからくちびるの端を曲げてみせた。
「あー……最近、あんましキスしてなかったからか?」
 再び、こくり。
「まぁ……気づかれてるとは思ったけど。おまえ、ホントにわかんねぇ?」
「……」
「……そっか。男と女じゃ、感覚違うからなぁ……」
 ぽつりと呟いた言葉に、マルーは不思議そうな顔を見せる。バルトは遅ればせながらガウンの端でマルーの顔中を拭った。マルーがそれに慌てていると、頭の上から気まずそうな声が降ってくる。
「……あのよ。おまえ、気づいてねぇかもしんねぇけど、最近すげぇ色っぽくなってんの」
「は?」
 思いがけない言葉に、マルーが思わず声を上げる。バルトのガウンで視界を塞がれているから、いま彼がどんな顔をしているのかわからない。けれどその声色は、確かに照れているようだった。
「大戦が終わって、ひと段落して……新しい世界を作ろうぜ、ってなった頃から、おまえ、だんだん……綺麗になったっつーか、女になってるっつーか……」
「……」
「それなのに、おまえは相変わらず無防備に俺の周りちょろちょろするし……いっそ襲っちまうかって思ったこともあった」
「っ!」
 バルトの腕をとって、マルーは夢中でそれを引きはがした。クリアになった視界の中で、バルトが浅黒い頬を染めて気まずそうにうろたえている。
「わ、若、それホント?」
「おっまえ……こんな嘘ついてどうすんだよ!」
「だ、だって……ボクは、若がボクと別れるつもりで、キスしなくなったんだとばっかり……」
「逆だ、逆。クソッ、おまえな、少しは俺の立場にもなってくれ。あと数か月で絶対離れ離れになるってのに、無責任に抱けるわけねぇだろ」
 抱く、の生々しい一言に、マルーの顔が一気に燃え上がった。バルトは逆に、開き直ったようにふてぶてしい顔をしている。
「少なくともあと二、三年は、おまえを孕ませることも出来ねぇしな。そんな生殺し状態で手を出して、暴走しないほど俺も自信過剰じゃねえよ」
「は、はら……」
「っていうか、物理的に。……一回でもおまえを抱いたら、手離してやれるとは思えなかった。どんな手を使ってでも、たとえニサンを滅亡させたって、アヴェに囲って二度と出さねぇ。誰が泣こうが喚こうが、知ったこっちゃねぇ……って、そんな地獄絵図見たいか?」
 フン、と何故か自慢げに鼻で笑うバルトを見上げて、マルーは飽和状態のまま押し黙った。先ほどのキスの名残で赤く染まったくちびるが、わなわなと震えている。
 バルトはそれを、優しく静かに親指で拭って、大きな手のひら全体でマルーの頬を包み込んだ。
「だから、ずっと我慢してたんだよ。下手にキスなんかして、止まらなくなったら洒落にならねぇし。で、まあ、距離を取ってた……んだけど、それをちゃんと説明しなかった俺にも非はある。悪かった。不安にさせた。泣かせちまってすまなかった」
「……わかぁ……」
 再び目尻に涙を湛えたマルーのくちびるに、今度は優しい羽根のようなキスが降る。それはこころとろかせるような、甘美な恋の味。
 マルーはただひたすらに、純粋な愛情だけを捧げながらキスを返した。





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