show you the shape of my heart
頭の痛いことばかりが立て続けに出来する、なんとも間が悪い時がある。
小さなミスの重なりや、些細な感情のもつれ、日常に潜む吹けば飛ぶような齟齬は、ひとつひとつは全く重要ではないけれど、重なれば被害は大きい。
まさに、塵も積もれば山となる、だ。
その、塵芥のような懸案事項は、最終的に戦艦の責任者であるバルトへと雪崩を打って集約する。日ごろ、数多ある責任からのらりくらりと身をかわす要領のいいバルトだが、年貢の納め時というものは確かにあった。
そんなこんなで、山と積まれた報告書を前に現実逃避のコーヒーブレイク。メイソン卿お手製の、キリリとした苦味のあるアイスコーヒーを傾けながら、バルトはげんなりとしていた。
原則、自室に仕事を持ち込むのはタブーとしているが(どうせ寝に帰るだけの部屋だ、仕事があるならブリッジで徹夜する)それですら追いつかない量のあれやこれやを抱え、休息ともいえない時間を確保するためにやって来た。ベッドに寝転びながら報告書を読み、合間にサイドテーブルのコーヒーをちびり。自堕落を絵に描いたような就労状況だが、自室なので問題はない。
そんな状態が数時間も続き、普段使わない頭をフルに回転させた結果、書類の山がようやく終わりを告げた頃、力尽きたバルトの耳にタイミングの良い来訪チャイムが響いた。
「若、おつかれ。差し入れもってきたよ!」
チャイムと同時に踏み込んでくる、その無遠慮な声はひたすらバルトの心身を癒す。ベッドに大の字になった彼に、トコトコトっと軽い足音が近づいてきた。同時に、甘い香りも鼻腔をくすぐる。
「はい、シフォンニサーナ・マルースペシャルっ。いつもより甘くしております」
「おお」
頭脳労働に酷使された身体は、糖分の登場に一気に息を吹き返した。腹筋だけで起き上がったバルトの目前に、たっぷりと生クリームの添えられた鮮やかな色のシフォンケーキが迫る。
「ありがてぇ、サンキューマルー!」
「どういたしまして。ホントにお疲れ様、若」
バルトの傍らに腰を降ろし、膝の上にシフォンニサーナの乗ったトレイを置いたマルーは、疲労でカサカサになったバルトの頬を柔らかく手のひらで包み、小鳥のように軽く唇を合わせた。
「いっぱい頑張ったねえ。えらいぞ」
悪戯っぽく笑いながら、バルトの金の髪を撫ぜる。その労わり深い愛情表現に、バルトの精神はすっかりと疲労を忘れた。
そのままいつも通り、甘い唇を堪能しようかとバルトが身を傾けた瞬間、マルーの膝上から立ち上る魅惑的な香りに反応して、腹の虫がぐぐぅっと鳴る。肉体は疲労を忘れていなかったらしく、バルトはガックリと項垂れた。
「――腹減った……」
「はいはい、たくさんあるからね。あ、切って取り皿にわける?」
ワンホールの大きさはバルトの顔くらいあるが、所詮シフォンケーキだ。バルトは首を振り、マルーの膝にあるトレイへと手を伸ばすと、添えられたフォークで無造作にそれを突き刺した。
抵抗なく崩れたシフォンニサーナに、添えられたたっぷりの生クリームを絡め、バルトは一息でそれを呑み込む。泡のように軽い口当たりだが、しっとりと滑らかな食感と、バルトの好みよりもほんの少し強い上品な甘味が味蕾を刺激する。そこをすぐに複雑な香辛料の味が追いかけてきて、得も言われぬ満足感が生まれた。
「うめェ」
心からそう言って、バルトが目を輝かせると、マルーは嬉しそうに破顔した。
「ホント? よかった! いっぱい食べてね、若。あっ、そうだ、コーヒーでも淹れよっか。それとも、爺のアイスコーヒーのお代わりもらってくる?」
甲斐甲斐しく世話を焼こうと、立ち上がりかけるマルーの肩に手をかけて、バルトはそれに力を込めた。ほんのわずかな負荷で、小柄な身体は難なくバランスを失い、たくましい胸へと倒れこむ。
「わっ? なに、どしたの若」
「いいから、座ってろ」
そのままマルーの肩を抱き込むようにして腕を回し、彼女の膝からすくい上げていたケーキ皿を器用にその手で持ち直す。反対の手にあるフォークがすごい勢いでケーキを攻略していくのを、マルーはそのままの体勢で大人しく見ていた。
もぐもぐと咀嚼し、満足そうに笑みをこぼすバルトの顔を、至近距離で見上げる。最近ではだいぶ大人の男らしくなっていた頬の線が、冬ごもり前のリスのように膨らんで、唇の端についた生クリームが一層愛らしい。
たまらなくなって、マルーはぎゅっとバルトにしがみついた。自分の腕では回り切れないほどに厚い胸板にほほをあてると、ケーキを呑み込むたびに、ぴくぴくと満足そうな震えを伝えてくる。筋肉量の多い高い体温が、ほかほかとマルーを包み込んでいた。
嬉しそうに自分の胸先に懐く従妹のつむじを見下ろして、バルトはようやく心身ともに回復していくのを感じていた。そうなってくると、先ほどお預けになった甘いくちびるが恋しくなってくる。
けれど手には、まだ半分ほどシフォンニサーナが残っていた。このまま一気にかきこんでしまうのはもったいなく、さりとてゆっくり堪能しているのも歯がゆい。腕の中の柔らかな獲物は、すっかり蕩けているようなのに。
バルトはしばし思案して、やがて妙案に瞳を輝かせた。
「なあ、マルー」
「ん?」
声をかけると、素直に顔を向ける。その無防備なくちびるに、一瞬だけ触れるキスをすると、こぼれそうなほど大きな碧玉の瞳が瞬いた。
「え、なに?」
「こーゆーの、やってくれ。俺が一口食うごとに」
「ええ?」
甘ったるい催促に、マルーが頬を染める。けれどもまんざらでもなさそうに、仕方ないなあ、などと呟いて。
かくしてバルトは、望みのものを同時にふたつ手に入れることに成功した。マルーがくれる羽根のように軽いキスは、心身ともに疲れ切っていたバルトにとって、糖分高めの極上シフォンニサーナと同等以上に心地よい。
だが、もちろん。
その無邪気なキスを終えた頃、彼が本格的に回復した後のキスは、軽やかとは程遠いものになるだろう。
ひとりほくそえみながら、バルトは最後のケーキにフォークを入れた。