show you the shape of my heart




 ユグドラシルのギアドッグ。凱旋の喜びに沸くクルーたちの真ん中で、もみくちゃになっているバルトが見えた。
「……っ若!」
 万感の思いで叫び、マルーが人垣をかき分けてそちらへ向かおうとするけども、勝利に沸いた群衆は興奮のるつぼと化して行く手を阻む。ちいさなマルーのオレンジ色は、人の波にあっけなく埋もれた。
 そんなマルーの声は届かず、バルトは仲間たちの真ん中で、意気軒高と笑っていた。
「若、おかえり……っ」
 傍に行きたくても行けないもどかしさに、マルーは必死に声を上げる。バルトはそれに気づかず、すぐ傍らにいたフェイへと満面の笑みを向けている。
 死線を共に潜り抜けた彼らは、互いの無事と健闘を讃えるように、固く抱擁した。そしてバルトのくちびるが、フェイの浅黒いほほに軽く押し付けられる。
「っ」
 ニサン正教ではごくありふれた、親しい者同士の親愛の表現だったけれど、雑駁な海賊暮らしで繊細なコミュニケーションを恥ずかしく感じるようになったバルトは、思春期以降滅多に交わさなかった挨拶だ。当然、親密にじゃれ合うような友情を育んでいたフェイとも初めて交わすもので、フェイはきょとんとした顔を見せたと同時に、楽しそうに破顔して、同じようにバルトへキスした。
 親友同士の微笑ましいやり取りに、周りは嬉しげな雰囲気に満ちた。我も我もとバルトに寄っていく仲間たちへ、バルトは上機嫌のままくまなくキスを贈る。
 よほど親しい仲間以外には、ほほとほほを合わせるチークキス、年かさの女性にはきざったらしい仕草でその手を取って、洗練された手の甲へのキス。恥ずかしそうなマリアとプリムには、彼女たちを丁寧に抱き上げてその額へとくちびるを押し付けた。
 そんなバルトの振る舞いに、人垣の中でマルーは顔を真っ赤にしていた。なにあれ、なんだあれ。あんなの、到底許せない!
 なにがどう『許せない』のか、何故そんなに『許せない』のか、細かなことはなにも浮かばずに、ただひたすらマルーは、そのくちびるを大盤振る舞いする従兄に向かって、こころがよじれるほどの痛みと怒りと悲しみを、叫んだ。
「わか!!」
 バルトは上機嫌に、フェイの傍らに立ったエリィへと向かう。
「わかってば!!」
 妙齢の女性に対する礼儀のような微笑みを浮かべながら、バルトは背中を預け続けた仲間への、最上級の感謝と親愛を表すべく、エリィのほほに手を添えた。
「――っ」
 ニサン正教の祈りの聖句とともに、そのくちびるへ、祝福を吹き込む――

「だめぇっっっ!!」

 叫んだ瞬間、身体がビクンと震えた。その勢いに驚いて、マルーはドキドキとうるさい胸を押さえるように起き上がろうとする。
 その身体を、熱くて重いものがきつく拘束していた。
「……っ、え、あれ……っ」
 一瞬、身体の自由がきかなくてパニックに襲われそうになったマルーに絡みついていたものが、宥めるように彼女の肩を撫でた。目を開けていても薄暗いそこは、安心するような匂いがこもり、すぐ傍の熱い塊が発する熱で、身体の芯までぬくめられていることに気づいて、マルーはもう一度瞬きを繰り返す。
 そんなマルーの反応に、熱い塊が囁いた。
「……落ち着け、夢だ」
 吐息とともに耳に流れてきた低い声音に、マルーは反射的にビクンと震え、それから一気に弛緩する。この世で一番安心できる場所にいる、と、本能が理解した。
「わ、か」
「ん。まだ寝てろ……夜明け前だ」
 目の前の浅黒い肌が、発声とともに震えている。喉仏の先の、とがった顎に目をやると、剃り残しの無精ひげが宵闇に光っていた。ベッドサイドの淡い間接照明に助けられ、マルーはゆっくりと、視線を上げていく。
 この上なく親密な距離で、バルトの碧玉がやわらかにマルーを見つめていた。
「……ごめん、寝ぼけちゃった」
 ようやくのように、恥ずかしさが込みあがる。寝ぼけたこともそうだけど、見ていた夢のあまりの荒唐無稽さにも顔が熱くなった。
「疲れてんだよ。朝から砂漠の強行軍だったんだろ……」
 バルトは言いながら、マルーの腰をゆっくりと引き寄せた。これ以上ないほど密着したからだが、互いの熱を伝えてくる。バルトのそれは、溶鉱炉のように熱くて、冷えた砂漠の夜にはこの上なく心地よい。
 マルーは、拘束された身体中に感じるバルトの存在に、今更のように気恥ずかしくなった。
「う、うん……そうなんだけど……そう、だから、あの」
「ん?」
「や、やっぱり、別々に寝た方がよくない? 若、病み上がりなのにゆっくりできないだろうし」
「却下」
 唸るように言って、バルトはマルーの身体をさらにきつく抱きしめた。これ以上は苦しい、の一歩手前まで力を籠められて、マルーはそれ以上何も言えなくなる。ここ数日、バルトを喪うことに怯え続けていた心身が、容赦ない彼の熱に全力で癒されていた。
 さんざんに醜態をさらした後、マルーは遅ればせながら身ぎれいにするために枕辺を離れ、戻ってきた時にはバルトも小ざっぱりとしていた。まだ病後の心もとなさはあるが、きれいに髭をあたり全身を清拭した彼は、もじもじと枕辺に戻ったマルーを有無をも言わさずベッドに引きずり込み、すでに体力の限界だった彼女とともに、一気に眠りの世界に落ちていった。
 馴染み深い互いの気配に、夢も見ずに眠っていた……はずだったのだが、どういう精神の作用か、マルーは脈絡のない夢に生々しいほど感情を駆り立てられ、もう一度眠れるかどうか怪しい。
 そんなことを考えながら、もじもじとバルトの腕の中で身じろいだマルーに、バルトもまた、やんわりと覚醒したような声色で囁く。
「明日……いや、今日だな。忙しくなるぞ」
「え?」
「ニサン正教の体制を根幹から変える」
 穏やかな声音に似合わぬ断言に、マルーはピリリとしたものを背筋に感じた。昨日の夜、こういった面倒で重要な物事を話し合おうと思った矢先、ベッドに引きずり込まれたことを思い出して、今更のように威儀を正す。
「うん……ちゃんと、考えなくちゃね」
 自分たちが責任を放棄し、我儘を通すことで多くの人間に累が及ぶ。そのことを、以前のマルーはひどく恐れ、申し訳ない気持ちに苛まれていた。バルトを恋い慕う気持ちと、己に課せらてた責務を全うしたいと願う心、そのどちらもが、偽りのないマルーの真実だった。
 けれど、いまのマルーは――すべての虚勢を捨て、無様なほどに正直になった彼女は、貪欲なまでにバルトを欲していた。そのために、どれほどの犠牲を払おうとも……それを、一生背負っていく覚悟は、できていた。
 そんなマルーの決意を察したのか、バルトは強張った彼女の肩をひと撫でし、自分の肩に触れる彼女の棗の髪にくちびるを寄せた。
「気負うなよ。道はついてる」
「え?」
「俺だって、離れてた間呑気にしてたわけじゃないぜ。もう、ほとんど御膳立てはできてんだ。あとは、タイミングだけ、って時に、俺がつまんねぇ病気して」
「つまんなくないでしょ!」
「ああ、まあ、とにかく、ある意味ナイスタイミングっつうか」
「若!」
「わかったわかった」
 心配と不安がぶり返したのかピリピリと反応するマルーに苦笑して、バルトは腕の中の彼女を軽く揺さぶった。
「まあとにかく。大分待たせちまったが、ようやく俺んとこに来いって言える。だが、一度構築したもんをもう一度解体して作り直すのは手間も時間もかかる。お前には、しばらく苦労を掛けることになるな」
「……」
 その言葉に、マルーはもぞもぞと身をよじらせた。肘をついて上半身を起こし、バルトの胸にもたれかかるようにして彼を見下ろす。眠そうな目でこちらを見つめるバルトは、間接照明の淡い光の中で満足そうだった。
 マルーは、面窶れしてしまったバルトのほほに手を伸ばし、それを優しく包み込むと、こころを込めて彼のくちびるを塞いだ。
「……そんなの、苦労でもなんでもない。若の傍にいられるなら、ボクはなんだってするよ」
「……でかく出たな。その言葉、覚えとくぞ」
 にやりと笑いながら、バルトはマルーのうなじに手を伸ばし、そっと彼女の顔を引き寄せる。そのまま再びくちびるを重ねようとした彼に、マルーはわずかに抵抗した。
「ん?」
 甘ったるい空気を割くような違和感に、バルトが眉を寄せると、マルーはバルトの顔を真剣に見下ろしながら、あのね、と呟く。
「その代わり……いや、交換条件ってわけじゃなくて。その、約束してほしいんだ」
「約束?」
「うん。ボクは、若の傍にいるためになんだってする。だから、ひとつだけ、お願い」
「なんだよ」
 あまりにも真摯なマルーの眼差しに、バルトの表情も改まった。夜明け前の静謐の中、マルーはやわらかな照明に輝く潤んだ瞳で、こう告げた。
「……この先、一生、ボク以外の人にキスしないで。ボクだけに……ボクだけに、キスして」
「……」
「おねがい」
 かそけき囁きと、すがるような表情に、バルトは一瞬我を忘れた。その激情のまま、己の片翼となる女を我がものにしようと全身が緊張する。もはや、誰にはばかることもなく、マルーのすべてを暴けるのだと、こころは歓喜に叫んだけれど。
「……っ」
 病後の身体は、いましばらくの休養を切実に欲していた。心底情けなく思いながら、バルトはマルーのうなじを引き寄せる。
「……約束だ」
 激しいフラストレーションを抱えながら、腕の中の獲物の味見をするように、バルトのくちびるがマルーのそれを貪った。マルーは、夜明け前の悪夢を払拭すべく、ただひたすらに愛しい恋人の情熱に溺れていった。





END.
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