幾千万の夜
夕食後の寛ぎの時間。
常ならば、バルトがマルー用に調えられた賓客室に入り浸るか、マルーがバルトの私室に招き入れられるか、どちらかだった。
公言していないとはいえ、彼らの周囲を固める側近たちの間では、アヴェ国王とニサン正教大教母の親密な関係は筒抜けである。ふたりともことさらに人目を忍ぶことはしないが、あからさまに見せつけるような真似もしない。
ただ、ふたりきりになった時。従兄妹同士の気安さでもない、為政者同士の信頼でもない、ひたすらに男と女としての愛しさを、隠そうとしないだけ。
そんな夜を、今宵も迎えるはずだった。
「ごめん。今日はちょっと、疲れたんだ」
晩餐室から引ける途中、マルーが少しばかり蒼い顔で囁いた。夕刻、視察先から戻ってきて顔を合わせた時から、その表情の浮かなさは気になっていた。あまりの強行軍に、体力が持たなかったのだろうと眉を寄せる。
「だいじょうぶか」
ふたりきりで進んでいた回廊の途中、足を止めて改めてマルーを見やった。
石造りの城のそこここに配置されている淡い電飾が、青白い顔色を一層際立たせている。なにげなく手をあげて、そのやわらかな濃茶の髪をすくうと、秀でた額にかすかなしわが寄っていた。
「今日はもう休め。明日も視察があるんだろう」
「え……」
バルトのいたわりの言葉に、マルーは一瞬目を瞠った。
バルトとしては、数か月ぶりの恋人同士の逢瀬である、今宵はもちろんどちらかの部屋のベッドを一緒にあたためるつもりでいた。ともに過ごせる貴重な時間は、互いの熱と肌に溺れたいといつも願っている。
けれど、そればかりを目的と思われるのも心外だった。男の自分はともかく、女であるマルーには繊細な事情がいくらもあるだろう。それを無理やり押してまで想いを遂げたいとはさらさら思わない。やせ我慢だとしても、こころは満たされる。
そんなバルトの内心を知ってか知らずか、マルーは少しだけ考えるふうにくちびるを閉ざした。肌理細やかな白い肌は再会した瞬間から甘い香りでバルトを誘い、なにげない挙措すら彼の男を刺激する。ふっくらとした白い頬に映る長い睫毛の影さえも、これほどに慕わしく感じるなんて、幼馴染の従兄妹同士だったころ、想像もできなかった。
「無理して倒れでもしたら事だろ。俺もおまえも、びっちびちのスケジュールなんだからよ」
ことさらに軽い口調で、マルーの背中を押す。触れた肌に反応しそうになって、さすがに自分でも呆れた。これでは、発情期の犬かと我ながら情けない。
理性の伴う人間であるところを見せつけるように、バルトはそのままマルーを賓客室までエスコートし、お休みのキスをしておとなしく退散した。軽く触れたくちびるの感触に、呼び起こされそうになった欲望を鎮めるため、今夜は強い酒が必要だ。
やがて寝支度が済んだころ、秘蔵の酒をちびちびやりながら手慰みに陳情書などを読んでベッドに寝転がっていたバルトの耳に、かすかなノックの音が届いた。
「――――? シグか?」
闇をはばかるようなその音に、バルトは眉を寄せる。寝入り端の時間、王の私室を訪れる者などいくらもおらず、仮にシグルドならばまたぞろ面倒な問題でも出来したのかと、一気に胸がふさいだ。
呼びかけに、けれど扉は閉まったままだ。その反応をますます訝って、バルトはのそのそと起き上がる。もう寝るつもりだったので上半身は裸で、下もゆるりとした部屋着だ。その恰好では王の威厳もあったものではないが、こんな夜中に訊ねてくる相手に気を遣う必要などない。
面倒臭そうな足取りで扉に向かい、ほとんど躊躇なくそれを開けた。仮に刺客かなにかでも、不覚を取るなどあるわけがないという歴戦の動きだ。
そこにいたのは、あまりにも小柄であまりにも可憐な刺客だった。
「――――へ」
視線を下げると、わずかにうつむいて立つマルーは恥じ入るように胸元を押さえている。厚いガウンを着てはいるが、その下は頼りないほど薄い寝間着であることは間違いなく、彼女にあてがわれた賓客室からここまで、直線で五十メートルはあるだろう道行に、哨戒兵などいなかったか高速で頭をよぎった。
急いで回廊に頭を突き出し見渡すと、薄暗い石畳のそこにはひとの気配はない。そもそも、賓客である大教母と国王の私室をこれほど近い位置に配し、さらに室外の哨戒を必要最低限まで減らしているのはいまに始まった気づかいではなく、バルトはこころ利いた側近たちの手配りに改めて感謝を念じながらマルーの細腕を引き入れた。
おとなしく従ったマルーは、室内履きのふかふかした足元を少しだけもつれさせるように部屋に入った。うしろ手で扉を閉めて、改めて彼女に向き合ったバルトがなにをいう前に、彼の裸の胸に飛び込んでいく。
「ま、マルー?」
情けなくもつれる舌でそっと相手の名を呼ぶと、マルーは熱のこもったバルトの腹筋に顔を埋めるようにして、ぎゅうと強く腕を回した。
その直接的な要求に、さしものバルトも気づかないわけにはいかず、彼は流れるような動きでマルーの身体を横抱きにすると、そのまますたすたと歩きだす。マルーは俯いて顔を伏せたまま、子猫のように従順にバルトの腕に身を預けていた。
バルトはそのまま巨大なベッドに歩み寄り、腕の中のちいさな身体をそっとそこへ横たえさせる。身をかがめて枕に頭をつけてやると、仰向いてこちらを見つめる瞳とかち合った。
「わか」
うるんだように揺れる碧玉の瞳が、まっすぐバルトを捉えると、彼女の細い腕がバルトの後ろ首に絡む。そのまま、引き寄せるように力を籠める動きに逆らわず、バルトはマルーからのくちづけを受けた。
性急に舌を絡めてくるそのキスに、バルトは合わせるようにくちびるを開く。教え込んだ動きを重ねる舌先が、彼の熱い口内を泳いだ。迷子のようなそれを厚い舌ですくい上げてやると、彼女はほっとしたように吐息を漏らす。
薄く目を開けて様子を窺うと、マルーは必死な様子で顔を赤くし、くちづけを深めていた。試しに厚いガウン越しにわき腹をさすると、くすぐったい快感にビクンと跳ねる。
どこを触ればどうなるか、マルーのすべてを知り尽くしたバルトは、けれど次の瞬間少し強引に顔をあげ、キスの名残で赤く染まったマルーのくちびるに銀の糸を垂らした。
「あ……」
濡れたくちびるがわなないて、マルーが悲しげに眉を寄せる。それを見下ろしながら、バルトはゆっくりと彼女の上から身を起こした。
「……若?」
おずおずと呼びかけながらマルーが起き上がると、彼女に背を向けてベッドに座ったバルトは、長い足を高く組んでそこに片肘をつき、これ見よがしにおおきくため息をついた。
「はぁ~~~…………」
「あの、どうした、の?」
「……マルー。俺を見くびんなよ」
「…………」
低い声音に、マルーがびくりと身体を揺らす。バルトはじっと部屋の隅を見据えながら、淡々と続けた。
「どうしたのは俺の台詞だ。おまえ、どうしたんだよ。なにかあったんだろ」
「……別に……」
「嘘はつくな。無駄だから」
冷たいほどの冷静な声に、マルーは観念したように息を呑んだ。
そのまま沈黙する彼女に、バルトは強情を張るように無言を貫く。チェストの上の置時計が、コチコチとちいさな針の音を響かせる静寂に、やがて彼は耐えきれなくなって呻いた。
「――――降参。なんでもいいから、もう寝ろ」
「若……」
「夜中にグダグダやったって、いいことなんざひとつもねぇんだ。また明日……次に会う時でもいいさ。おまえの気持ちが落ち着いたら話せ」
そう言って立ち上がるバルトに、マルーはほとんど縋るような声をかける。
「ど、どこ行くの?」
「あ? どっかそのへん……執務室か仮眠室で寝るさ」
「待って、そんなんじゃ休めないよ、若」
「気にすんな。おまえこそちゃんと寝とけよ、明日に響く……」
そこまで言った時、バルトのズボンがぐいと引き寄せられた。下着ごと脱がされるようなその勢いに、慌ててバルトが引き返す。
「おいっ、なんなんだよ、脱げるだろうが!」
「脱がすんだよ!」
「……へ?」
ポンと返ってきた思いがけない台詞に、バルトは驚いたように目を丸くした。見ると、マルーは真っ赤になった顔で必死にズボンを掴み、涙すら浮かべてこちらを見上げている。
その様子に、バルトは毒気を抜かれたような顔でベッドに座ると、ぷるぷると震えるマルーのちいさな手をそっと包んで、ゆっくりとズボンから指を離させた。マルーは大人しくそれに従いながら、うつむいた頬に零れた涙を追うように手をあげる。
バルトはマルーの顎を細くつまむと、有無をも言わせずそれを持ち上げた。彼女の涙が手首に伝わり、顔をしかめるようにして上向くマルーの眼を見て言った。
「マルー」
たった一言、名前を呼ばれるだけで。
マルーは耐えきれないようにぼろぼろと涙を零し、そのまま子どものように声をあげて泣き続けた。
バルトは黙って彼女の身体を引き寄せ、自分の胸にかき抱く。素肌に流れる涙と熱が、いまここにいるマルーの命をあらわしているようで、そんな場合ではないのににじむような幸せを感じる。
泣いていようが、怒っていようが、この腕の中にいてくれるなら。
それだけで満たされる。自分勝手な本音に、バルトは自嘲のため息をついた。
やがてゆっくりと、マルーの激情が治まってくる。ぐずぐずに濡れた自分の胸板と、マルーの顔中を適当な布でごしごしと擦り、バルトはひと回りちいさくなってしまったような幼い顔つきのマルーを改めて見やった。
「……ごめんなさい、若……」
くしゅり、と鼻を鳴らして、涙の残る声音で言う。マルーのその様子に、バルトはむらむらとわき上がる庇護欲を押さえるように、ことさらざっかけない言い方で答えた。
「なーにが。ひとが気を遣ってゆっくり眠らせてやろうと思ってるところに、痴女まがいのお誘いしてきたことが?」
「ちっ……痴女ってひどい!」
「俺のズボンはぎ取ろうとしたのに?」
「そ……っ、それは……」
これ以上ないほど真っ赤になって、マルーはふるふると震えた。興奮して再び涙目になる彼女に、バルトはひどく男っぽい流し目をくれてやる。
「なにおまえ……そんなに俺に抱かれてーの?」
「……っ」
直截な言い方に、マルーは鋭く息を呑んだ。バルトは冗談のような口ぶりをして、けれどその目だけは炯々と光り、獲物を前にした肉食獣のような雰囲気をまとっている。
広いベッドの上、相手の肌の熱さえ伝わるような距離で、マルーはすべてをバルトに明け渡した。
「……抱かれ、たい」
「…………」
「若に、抱かれたい」
細かく震えながらも、はっきりとした口ぶりでそう言ったマルーに、バルトはわずかに目を瞠る。
一瞬の緊張の後、バルトがマルーに手を伸ばす前に、マルーは再び口を開いた。
「でも……っ、お願いが、あるんだ!」
「……ン?」
「やっぱり、まだ、ボク、覚悟できない……っ、頑張るから、できるだけ頑張るから……」
震える手をバルトへ伸ばし、マルーは必死のまなざしで言いつのる。
「まだ、他の人は抱かないで……ボクだけ、に、してほしい……っ」
「――――…………へ?」
ぽかん、とバルトが口を開く。とんでもなく間抜けな声が漏れた。
そんなバルトを見やって、マルーは泣くまいとまなじりに力を籠め、着ていた厚手のガウンに震える指を伸ばす。バルトが未だ立ち直らないうちに、するするとそれを脱ぎ捨てた彼女は、頼りないほど薄い夜着一枚になって彼を見つめた。
「ごめん。ホントはこんなわがまま言うつもりなかったんだ……でも、どうしてもまだ、呑み込めなくて……」
「…………」
「若を責めちゃいそうになって、それは違うって思って、でもどうしても苦しくて……わがままだよね……」
「…………」
「若が、ボクの見えない、知らないところでしてくれるのは、ボクへの思いやりだってわかってる。でも……ボク、まだ……いまはまだ、良いよって……言ってあげられないよ……」
「マルー」
「………はい……」
「なんの話してんだ?」
「え…………」
ぽろり、とマルーのおおきな瞳から涙が落ちた。
彼女の目の前で、バルトがいまにも吐きそうなほどとんでもなく苦々しげな表情をしている。
「えっと……若が、街のおねーさんと、エッチしてる話……」
「はぁ!?」
恐る恐るとしたマルーの答えに、バルトは思わずのように怒号を上げた。びりびりと肌を震わせるようなそれに、至近距離だったマルーが思わず肩を竦めるのに、バルトは構わず怒鳴りつける。
「なんだそりゃ!! どこのどいつだ、そんなガセネタをおまえに吹き込んだヤツは!! 細切れにしてブタの餌にしてやるから名前を言えっ!!」
「え……と……」
「なんで俺が、おまえがいるのに街の女なんかに手ェ出すんだよ! ンなことするくらいなら、王様業なんざぶっちぎってニサンにおまえを抱きに行くわ!」
「っ!」
怒りのあまりわなわなと震えるバルトの言葉に、マルーは息を呑んで目を丸くした。そんな彼女に構わず、バルトはぎりぎりと奥歯を噛みしめる。
「こっちが毎度、どんだけ苦労して時間作ってると思ってんだ。街の女で満足するくらいなら、二週間睡眠時間削って雑務こなして、空けた時間にニサンの視察なんざねじ込まねーよ!」
「……ホント……?」
「ッたり前だ! 大体おまえも、ンな下らねェ話真に受けてんじゃねえよ! 毎度毎度ひとが精魂込めて抱き潰してんのに、まだ愛され足りねェってのか? おまえの他に女がいるかなんざ、抱かれてりゃわかんだろうが!」
「わ、わかんないよ……」
思わず反論する。あとにも先にもバルトにしか抱かれたことがないのに、そんな高度なことを知る術などあるはずもない。
マルーの言葉に、少しだけ我に返ったようなバルトは、ガシガシと金の髪をかきむしりながらおおきく息をついた。
「わかんだろ……あんだけ俺を夢中にさせといて、わからねぇなんて言うな」
「っ!」
その言葉に、マルーの息が止まる。目の前で照れくさそうにそっぽを向く恋人は、激しい怒りが落ち着いたあとの、くすぶるような拗ねた表情でぶつぶつと続けた。
「だいたい……おまえもおまえだ。ンなバカみてーな噂を真に受けやがって……。俺が……おまえ以外の女を抱けるほど、器用じゃねえことくらい知ってんだろ」
「…………」
「いまさら、おまえ以外の女に触れたところで埋まらねーんだよ。――――ココが」
そう言って、バルトがトン、と自分の左胸を拳で叩く。
彼の命の鼓動を響かせるそこに、自分だけの居場所があった。それだけで、マルーはもうなにも言えず、再び大粒の涙をぼろぼろとこぼす。
「あーもう……なんなんだよ、ったく。泣くな、マルー」
「……っ、……っく……っ」
「泣くほど嫌だったのか? 俺が街のねーちゃんを抱くの」
「……」
バルトの胸に再び抱き込まれながら、素直にぶんぶんと首肯する。彼女のびしょ濡れの顔をごしごしと拭いながら、ようやくバルトは少し上向いた機嫌で笑った。
「よしよし。安心しろ、おまえだけだ。こんな手のかかる恋人がいるのに、他の女つまみ食いしてる暇なんざねーよ」
「……っ、わかぁ~……」
「おまえもな、変な焼きもち妬く前に、冷静になれ。俺が伊達や酔狂でおまえを抱いたと思うのか」
泣きじゃくるマルーを子どものように抱き上げて、足の間にすとんと座らせると、ゆりかごのように全身で彼女を包み込む。バルトの肌の匂いと熱い体温に、マルーは心底から安心して震えた。
「俺はなぁ、初めておまえを抱いた時から、もう決めてんだ。この先なにがあったって、この手を離さねえ……って」
マルーのちいさな手を握りしめ、バルトが言う。
「死ぬかもしれねえ戦いの前、おまえのところに還ることしか考えられなかったあの瞬間を思えば、どんなことだって耐えられると思った。だから抱いたんだ。二度とおまえを離す気はねェ」
その言葉に、マルーは熱くなったまぶたを震わせた。それからゆっくりと顔をあげ、潤んだまなざしで愛しい恋人を見つめる。
「……年に数回しか会えなくても?」
「ンなの障害じゃねえよ。会おうと思えば時間なんざ作れる」
「ボクがいない時……若がつらいことがあっても、慰めてあげられない。男の人は……女の人の肌が恋しくなるんでしょ?」
マルーの問いに、バルトは一瞬眉を上げた。それから、なにもかも腑に落ちたように苦笑する。
「――――お前、デニス・リドルに引っ張られ過ぎ」
「えっ?! な、なんで若がリドル司祭のこと知って……」
正真正銘の驚きに絶句しているマルーに、バルトは種明かしする奇術師のようににやりと笑った。
「女癖の悪さでニサン正教を追放された元司祭が、俺の膝元に来るってんなら、報告が上がらねぇわけねえだろ」
「で、でも、そんな些細なこと、若にまで報告が行くなんて……」
「些細じゃねぇよ。ニサン正教がらみのことは、細大漏らさず俺に届くようになってる」
バルトの落ち着いた声音に、マルーはなぜか胸が熱くなった。そんな彼女を腕に抱き、バルトが続ける。
「それに、きっとおまえはこの先どこかで、リドルのことを調べると思った。ニサン正教から引き離されて、ブレイダブリクで穏やかに暮らせているのか、気になってな」
「…………」
図星をさされ、マルーは思わず黙り込んだ。
デニス・リドルの犯した罪に同情は出来ない。彼の行いで、命を絶つほどに傷ついた者がいる。彼はその報いとして、生まれ育った国からも、一度は仕えた神の教えからも追放された。
そんな彼が――――自分の罪を悔い、生涯をかけて改めることができるのか。その先々を、きっとマルーは案じただろう。
バルトはマルーの様子に薄く笑って、彼女の濃茶の髪をさらりと指に絡めた。
「だから、俺が直々に奴に会って、その性根を確かめた」
「えっ!」
思いがけない言葉に、再びマルーが絶句する。
「直に会って、箸にも棒にもかからねぇような奴ならそのまま野垂れ死にさせてもいいと思ったんだが、さすがに一度は神職についた男だ。女にトチ狂ってすべてを失って、ズタボロになってたどりついた先にもまた――――神を見たのさ」
「え……」
「いまヤツは、ブレイダブリクの教会で下男の仕事についてる。もちろん神職に返り咲くつもりはない。ただただ、ニサン正教の教えを信じ、犯した罪を悔いて改め、いつか傷つけたひとたちに詫びるため――我欲を捨てて、生きるってよ」
「そうなんだ……」
茫然と呟くマルーに、バルトは少しだけ悪戯っぽく続ける。
「その根性を試すため、あいつの寄宿先を教会の近くの娼館に決めたんだ」
「――えっ?」
「あの区画には、そういった商売が集まってる。そこで、春をひさぐ女たちの面倒を看させて、またぞろ悪い気を起こした時には、今度こそ放り投げてやろうと思ってな」
「あ……」
その時、マルーは昼間見た光景を思い出していた。教会の二階の窓から見た男は、きっとリドルだったのだろう。
「ま、俺の顔が利く娼館の主人に因果を含めて、根性叩き直してくれって頼んだんだ。あいつも、客として接した時には知らなかっただろう女たちの苦労や事情を学んで、少しは世の中を勉強するだろ」
「……顔が利く……?」
バルトの説明に、思わずマルーが口を挟む。それに、バルトはちょっと慌てたように目をむいた。
「ば、馬鹿野郎! 変な誤解すんなよ、顔が利くってのは、俺がフィールドワークとして町の治安を調べてた時に、色々な事情を聞いて世話してやったって話だ!」
「…………ぷっ」
その様子に、マルーは思わず噴き出した。いままでの話を踏まえて、それでも慌てるバルトが可愛らしく思えて、自然と肩の力が抜ける。
腕の中でくふくふと笑うマルーを軽く睨み、バルトはごまかすように咳払いをする。
「――とにかく。そんなわけで、デニス・リドルの件は知ってる。あいつの一連のやらかしで、おまえが色々考えて、悩んでたことも知ってる」
「えっ?」
「おまえの傍には、腕利きのスパイがいるんだ。なんでも筒抜けさ」
「……アグネスだなぁ……」
マルーとバルトのしあわせのためなら、どんなことでもするだろう古参シスターを思い浮かべて、マルーが力なく笑った。そんな彼女を改めて抱き直しながら、バルトが呟く。
「アグネスも……多感な年ごろのマルーさまに、このような痴情のもつれをお見せするのは忍びないって言ってたぜ」
「多感な年ごろって……ボクもう二十一歳なんだけど……」
「二十一歳になっても、五年も俺に抱かれてても、まーだおまえは、自分を犠牲にしようとするんだな」
「え……」
バルトの囁きに、マルーが声を失くす。バルトの言葉は穏やかで、ともすれば冗談を言っているように聞こえるほどだったが、彼がマルーを見つめるまなざしの中に、昏い炎が見え隠れしていることに、マルーは気づいていた。
「男の性欲が人生狂わせた生々しい事例を見て、急に心配になったんだろ。――そういえば若は、ボクと離れてても性欲とか大丈夫なのかな――」
「わ、わか」
「なんとかしてあげたいけど、ボクも若も国を背負ってる立場だし、自由に会うこともできないし――」
「……」
「だったら、ボクがいない時、若を慰めてくれる女の人がいればいいのかな。ボクさえ我慢すれば、若が苦しまずに済むのかな――」
「……」
「図星だろ」
うつむいたマルーのつむじに顎を乗せ、バルトは心底呆れたような声で呟いた。
「……馬鹿野郎」
「……ごめん」
「許さねぇ。おまえ、人のことなんだと思ってんの? 俺は女とみれば見境ない種馬か? 惚れた女一人満足にしあわせにしてやれねぇ腰抜けか?」
段々と低くなる声音。バルトの怒りを肌身で感じて、マルーは心底から後悔した。
結局、自分の空回った気持ちは、誰のことも尊重しなかった。勝手にバルトの気持ちを量り、勝手に自分の気持ちを殺し、その挙句に耐えきれなくなって泣き出す始末……自分はいつから、こんな愚かで弱い女になったのだろう。
きっと、バルトに抱かれた時から。
バルトのために、一人の人間として彼の役に立つべく奮闘していた頃は、彼がどう思おうとも、この身を盾にして彼を生かすことをためらわなかっただろう。自分の命なんかよりも、バルトの命の方がはるかに尊い。ちっぽけなこの命を懸けることで、彼が生きてくれるのならなにを迷うことがあるのか。
そんな傍迷惑な一途さは、彼に女として愛され、この身をすべて捧げた時から消えてしまった。
いつのまにか、自分の命をちっぽけだとは思わなくなっていた。
取るに足らない自分だけど、バルトにとっては唯一無二の人間なのだと信じられたから。
いまもし、彼の命と自分の命を天秤にかけたら――多分まだ、その身を盾にしてしまうだろうけど、それでもきっと、命を閉じるその瞬間まで、彼を想って泣くだろう。自分を喪った彼の、この先の生を思って泣くだろう。
自分を喪った彼の嘆きを、哀しみを、間違いなく理解できるから。
だから今回も、バルトのためを思えば、自分以外の女性に触れることも理解しなくてはいけないと、頭では考えていた。自分が我慢することで、バルトがしあわせになってくれれば、それで――
そんなふうに思ったはずのこころは、彼の眼を見て腕に抱かれた瞬間、どうしようもなく崩れて溶けた。
ボク以外の女のひとに触らないで。
ボク以外の女のひとを抱かないで。
ボクだけを見て、ボクだけに触れて、ボクだけを――
愛して。
その身勝手な欲望は、きっと幼馴染の頃は考え及びもしないこと。
バルトに抱かれて、バルトの熱を感じ、バルトの命を受け止めたから生まれた願い。
その願いに振り回される自分を、マルーはどうしようもなく愛おしいと思った。
「……若」
静かに呟いて、マルーが顔をあげる。至近距離で、探るようにこちらを見つめるバルトの碧玉の瞳をまっすぐ見返して、彼女は世にも美しい笑みを浮かべた。
「愛してるよ、若。ボクを愛してくれるなら、一生ボクだけを抱いていてね」
「――――上等」
バルトは心底満足げに笑い返して、恋人の甘いくちびるを奪った。マルーはバルトの首に手を回し、引き寄せるように彼の髪をまさぐる。
バルトの舌に自分のそれを絡めながら、マルーはもぞもぞと動いた。彼の足の間で体勢を変え、向かい合うようにして大きく足を開く。正面から抱き合う形になると、軽い水音を立ててくちびるを離した。
「――――わか、ゆるしてくれる?」
熱を持った舌先が痺れて、舌ったらずな声が出る。甘く蕩けたまなざしで、上気した頬に笑みを浮かべるマルーに、バルトはひどく男っぽい仕草で濡れたくちびるを舐めた。
「……許さねぇ」
「どうしたら許してくれる?」
「許さねぇ。……許す気になるまで、許さねぇ」
「どうしたら、許す気になる……?」
「さぁ……」
意地悪気に答えながらも、バルトは自分の上に乗るマルーのやわらかな部分に、これ見よがしに硬いものを押しつける。マルーは蕩けた表情のままその感触に瞳を細め、やわらかくバルトの金の髪を握った。
「わか、だいすき」
明日の予定は頭から締め出して――今宵はただ、夢にまで見た肌に溺れた。
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