幾千万の夜
デニス・リドルの事件から三か月後、マルーはブレイダブリクを訪れていた。
表向きは、ブレイダブリク内に点在するニサン正教の教会、及びウェルス化後遺症患者の療養所の視察のためとするその外遊は、こころ利いた側近たちがお膳立てた半年ぶりの恋人同士の逢瀬でもある。
その心遣いに感謝しつつも、マルーはこの三か月の間ずっと頭から離れなかった懸案をひとまず忘れるよう努めた。
何度考えても、どれほど悩んでも、やはりマルーだけで解決できる問題ではない。いつかはバルトと向き合って、きちんと話し合って決めるべきことだ。
そう思うだけで、胸がふさがるような憂鬱を感じながらも、マルーは懸命にいつも通りの振る舞いを心掛けていた。
「マルーさま、ようこそおいで下さいました」
アヴェの王宮でマルーを出迎えたのは、バルトの執政補佐官として王朝を支えるシグルド・ハーコートの姿。マルーは、気心の知れた者たちだけになった応接室で、嬉しげにシグルドへと駆け寄った。
「シグ、久しぶり! 元気そうで嬉しいよ」
「お陰様で、こちらはつつがなく。若も、マルー様のお越しを楽しみにしておられたのですが……」
わずかに表情を曇らせたシグルドの様子に、マルーは思わず眉を寄せて問うた。
「なにかあったの?」
「あ、いえ……ただ、少々面倒な懸案事項が持ち上がりまして、そちらの方に忙しく、マルー様のお出迎えに間に合わないことを詫びておられました」
「なんだ、そんなこと……気にしないでいいのに。ボクだって、遊びに来たわけじゃないんだし、これから視察に出るから、夜にしか会えないと思ってたんだよ」
「これから?」
少しばかり驚いたように、シグルドが碧玉の瞳を瞠る。それに、マルーの背後に控えていたシスター・アグネスが、如才なく進み出た。
「シグルド卿には、事後報告となりましたことお詫びいたします。大教母様のご視察の予定を明日の午前中とお伝えしておりましたが、諸般の事情を鑑みまして本日近在の教区を視察し、明日は療養所へ向かう段取りとなりました」
「しかし、それではアヴェの護衛の手筈が間に合いません」
「護衛でしたら、ニサンの僧兵を配備しておりますので、ご心配には及びません。もとより、できるだけ少人数での行動をご希望されておられますので」
「…………」
シスター・アグネスの言葉に、シグルドは難しげに沈黙した。その様子に、マルーが訝しく首をかしげる。
「シグ? どうかしたの?」
「ああ、いや……」
軽く首を振ると、シグルドはいつもの穏やかな表情でマルーを見下ろした。
「あまり遅くなられませんように。夕食を共に摂らなければ、若が拗ねてしまいますので」
「ふふっ、はーい。わかってるよ、シグ」
相変わらずの口ぶりに、マルーはくすぐったそうに笑って頷く。シグルドはそれ以上になにも言わず、着いたばかりで慌ただしく視察に出向くニサン一行を見送った。
アヴェ国の首都ブレイダブリクは、先の大戦の影響で都市部の大半が壊滅的被害を被ったが、この五年の間にだいぶ復興が進んでいた。
とはいえ、生き残った人口が大戦前と比べると約六割まで落ち込んでいる現状、ようやく最近になってインフラ整備の水準が国内で安定してきたというレベルである。
一次産業から三次産業まで、大戦はすべての基本を破壊した。それをもう一度いちから作り直し、たった五年でここまでの立て直しを図れたのは、人々がアヴェ王朝とその忘れ形見である王太子、現国王バルトロメイ・ファティマに命と希望を託した証だ。
ところどころ破損されてはいるが、きちんと整備された石畳をバギーで進みながら、その窓から映る街の光景を見やって、マルーは改めて恋人の偉業を噛みしめていた。
「マルーさま。この区画には、現在ふたつのニサン正教教会がございます」
傍らで資料に目を通しながら、シスター・アグネスが説明する。
古くからアヴェの国教として信仰されていたニサン正教だが、先の大戦でその施設はことごとく破壊されたため、二国間の共同事業として国内に教会の建設が進められていた。
当初は仮設住宅の一角に設けられた有志の祈りの場が、人々の信仰はもとより、難民の避難所やウェルス化の後遺症に苦しむ者たちの療養所となり、規模が大きくなったことで国家事業に直されたのだ。
アヴェ国内のニサン正教教会には、ニサン正教から正式に司祭やシスター等が派遣されている。圧倒的に人手不足だが、雑役などは現地のアヴェ国民である信徒が担っているとのことで、今回はそのあたりの人員についてもきちんと確認し、対処案を検討する目的もあった。
アヴェ王宮からほど近い区画にある教会は、街の中心街から一本それた路地に立っている。そこは静かな場所で、住居が少ない分大戦の爪痕がそこかしこに残る裏寂れたところだった。
バギーから降り、出迎えた教区司祭の歓迎を受けたマルーは、教会の現状をひとつひとつ丁寧に確認しながら対話を続けた。
この地区の教区司祭は壮年の男性で、どことなく面差しがメイソン卿に似ている。穏やかな話しぶりも好感が持て、マルーは小一時間もするとすっかりリラックスしたような雰囲気になった。
「では、ハルヴァート司祭。今後の人員については、ニサン本部の担当部署と緊密に連携を取ってください。できるだけ、アヴェの地元信徒に負担がかからないように」
「はい、大教母様。しかし、この地に住まうニサン信徒は、みな教会をこころの拠り所とし、進んで雑役を行うことにも信仰を見出しているのです。負担と思うものはおりません」
「それは嬉しいことですね」
ハルヴァート司祭の柔和な言葉に、マルーはふっくらと微笑んだ。
教会自体は粗末なもので、大戦を経て残った廃屋に手を入れている状態であり、いま行われている別地区の教会の建設が終了したら、こちらも新たに建てる手はずになっている。それまでは、みすぼらしいが祈りの場としては十分な広さを保つこの二階家でできるかぎりのことを行うのだ。
「大教母様、こちらでしばしご休憩ください。のちほど簡易療養所へとご案内いたします」
「ありがとう、ハルヴァート司祭」
案内された部屋は、おそらくこの寂れた建物の中でも一番日当たりがよい上等な部屋。二階の角部屋であるそこは、粗末ながらも清潔を保たれ、壁に掲げられたニサン正教のタペストリーには、日常の祈りを彷彿とさせる調えられた祭壇が設けられていた。
深く一礼し部屋を辞した壮年の司祭とシスター・アグネスを見送り、マルーは椅子の上でおおきく背伸びをする。
「ん~……」
慣れていることではあるが、砂漠を横断する強行軍の旅程の末、現地の視察を行うハードスケジュールにさすがのマルーも疲労を感じていた。
ことに、『大教母』としての公務の間は、できるだけ完璧な聖職者を心掛けているため、気持ちの休まる隙がない。
そのことを理解しているシスター・アグネスは、折に触れこんなふうにマルーがひとりきりになれる時間を作ってくれていた。その心遣いに感謝をしながら、立ち上がったマルーは日差しの強い窓辺へと歩を進める。
二階家の向こうには、裏街道が見えていた。一本南の町並みは賑やかだが、こちらは妙にひと気がなく、かといって無人とは思えない看板の掲げられた店が軒を連ねている。
看板の種類は酒を扱う店のそれで、ということは酒場街なのだろうか。昼日中にひと気がないことも説明がつくが、それにしてもずいぶん不便な場所にある印象だった。
どうせなら、表通りの方に出店した方が繁盛するのではと門外漢のマルーが思った時、教会の窓から見える店の扉が開かれた。
「……え」
出てきたのは、太陽の光を集めたような色合いの輝く金の髪。赤いターバンを無造作に巻いているが、長いみつあみはそこから漏れ出て、男の肩を流れていた。
簡素なアヴェ衣装に身を包んでもわかる、鍛え抜かれた長身。裏寂れた店先に立っていても、なおひと目を引くような堂々とした雰囲気。そしてなにより、その浅黒い顔の左側を覆う武骨な眼帯。
そんな明らかな特徴などなくとも、ひと目見ただけで瞬時に彼がバルトだと悟り、マルーの心臓がドクンと高鳴る。
数か月ぶりに見る恋人は、王宮やニサン大聖堂などの公的な目のある場所で見せる為政者然とした風格をかけらもまとっていなかった。大戦前、戦艦の艦長として日々を過ごしていた雑駁な印象に近い、どこか寛いだような慣れた様子で、いま出てきた店の中を振り返る。
窓辺に立ったマルーが見ている先で、扉の中から柔らかな曲線の女性がバルトを追って出てきた。
アヴェの民特有の褐色の肌を持つ彼女は、年の頃なら二十歳前後の肉感的な娘で、細い手足にいくつもの金の輪を飾る、華やかな身なりをしていた。店はまだ客を入れる時間ではなく、バルトひとりのために着飾ったのだろう。彼を見つめる視線が、甘い蜜を含んでいるようにマルーには思えた。
バルトは娘のしなだれかかるような仕草に抵抗するでもなく、ごく自然にふるまっている。その様子にマルーの胸が再びドクンと高鳴り、それは針で刺すような痛みを伴った。
けれどその時、店の中から中肉中背の男がわずかに身体を見せた。暗い店内にふたりきりではなかったことに、思わずほっとする。
その自分のため息が、妙におおきく響いた気がして、マルーは深く息を吸い込んだ。
暗い色のターバンを巻いた男が、扉の陰でぺこぺことバルトにお辞儀をしている。その傍らで、娘が肩をすくめて笑いかけた。バルトはそれを受け、腕を組んで頷いている。
気心の知れた同士のような雰囲気に、マルーが思わず見とれていると、手を挙げて踵を返そうとしたバルトの隙をつくように、娘が背伸びをして彼の頬にくちづけるのが見えた。悪戯な別れのあいさつに、バルトはまんざらでもないふうに笑って振り返り、通りの向こうへと歩いていく。
その後ろ姿を見送って、マルーがしばし呆然としているうちに、いつの間にか娘の姿は店の中に消えていた。
「…………」
再び寂れた裏通りに静寂が訪れると、マルーはいま見ていたものを噛みしめるように、ぎゅっとこぶしを握る。窓の外から漏れる日の光が急に明るすぎるような気がして、急いで踵を返した。
部屋の隅にあるちいさな祭壇と、正面に掲げられた正教のタペストリー。こころを落ち着けるように、マルーはその前に跪いて指を組んだ。
瞳を閉じ、いつもの聖句を口ずさもうとして、自分のくちびるが震えていることに気づく。見れば、胸の先で組んだ両手も、かすかにちいさく揺れていた。自分の動揺に、マルーは絶望のため息をつく。
自分はなににこれほど取り乱しているのだろう。冷静に自問し、マルーは再び目を閉じた。
寂れた路地で見かけた、バルトの姿。公務ではない、『アヴェ国王』としてではない寛いだ彼の様子で、それがお忍びのなにかだということはわかる。
一国の王という貴い身分とはいえ、バルトは歴戦の勇士であり、彼より強い護衛はこの国に存在しない。それゆえ、しばしば単身で出歩くことを、シグルドが嘆きながらも諦めていたことを思い出す。
バルトは王宮の奥で奏上を募るよりも、その目で肌で感じたことを最上としていた。破天荒ではあるが、どこまでも民衆に近い目線で行う施策はことごとく民の支持を得て、彼の為政者としての立場をゆるぎないものとしている。
だから、いまの場面もそんなバルトのフィールドワークに過ぎないのだろう。
頭では冷静に納得しつつも、こころを苛む痛みは、マルーの全身に[[rb:瘧 > おこり]]のような震えをもたらす。
いまさらだが、裏路地の寂れた空間に並ぶ店の正体を、マルーは思い当っていた。
そういった店は、ニサン正教のお膝元にも存在する。表向きは酒類を提供する酒場だが、その裏では公然と女性たちが客を取っていた。
もちろん、人権を損なう犯罪的な行為はご法度で、正教の法務部でも遂次監視の目を向けている。
働く女性たちも様々な事情を抱えながら、しかし最終的には自分の意志でその場所を選んでいた。ニサン法王府内にある店においては、おそらくどこの国よりも繊細な調査でもって女性の労働環境を整えている。皮肉なことにそれゆえに、男性を相手にする生業を求める女性たちが、ニサンの街に根付くことも多かった。
聖職者とはいえ、男性にも女性にも生きる上での欲はある。教義の上で婚姻を認め、男女の交わりを禁じていない以上、宗教がそれを否定することは出来ない。
ニサン正教にできることは、見て見ぬふりをすること。そして、その目をそらしたものに教義に悖る非人道的な悪がにじまないよう、監視すること。
まるでパラドックスのような現実を、マルーは最高責任者としてきちんと甘受し、噛み砕き、理解する必要があった。
だから。
バルトが、弱冠二十三歳の健全な若者が求める欲を、マルーは理解しなければならない。
恋人が自分の知らないところで知らない女性を抱くことが、正しいこととは決して思えない。
けれど、それでも。
為政者としての互いを捨てられず、遠く分かたれた国で何千何万の夜を重ねる未来しかないのなら。
互いを愛し、大切に想うこころだけでは、越えられない夜もあるのなら。
せめて、自分がいないところで。目の届かないところでならば。
あの腕に、他の誰かが抱かれたとしても――――
「………っ」
ぽろり、と真珠のような涙が頬を伝うのと、仕方がないのだ、とこころが唱えたのは、ほぼ同時のことだった。