幾千万の夜
その夜、マルーはなんとなく寝付けずにいた。
自室の窓辺で細いランプの灯りを頼りに、日課になっているバルトへの手紙を書いている。否、書こうと思って机に向かい、それからずいぶん長い間黙考していた。
この不思議なこころのざわめきは、きっと大教母として初めて教会の『暗部』に関わったからだとわかっている。いままでこの類の問題は、マルーの目に触れることなく秘密裏に処理されていたのだろう。
ひとえに、マルーが無垢で幼かったゆえに。
薄い寝間着の上にガウンを羽織り、ぼんやりと窓の外に浮かぶ月を眺めながら、マルーは羽根ペンをインク壺の中に戻し入れた。今夜は、書きたいことがまとまりそうもない。
本当は、事の次第をすべてバルトに伝えたかった。自分の感じたことや、彼の感じることを話し合いたかった。
男女の生々しい痴情に関わる話なんて、幼馴染の時分には交わしたことがない。交わしたいと思ったことすらない。
けれど、いまならば。
お互いが、お互いの唯一無二である男女としてならば、自分の意見も、彼の意見もすべて知りたいと思った。
そう、思っているのだが――
「…………」
ふう、とちいさくため息をついて、マルーは机に頭を預けた。冷たい机上の感触が、頬に伝わって気持ちいい。そうしていると、自分の中の感情が、少しずつはっきりと形づくられてくるようだった。
マルーはデニス・リドルの最後の言葉を思い出していた。
『ヒトの本能を軽んじる愚か者よ、その心の中を問うがいい。真実欲を持たぬといえる者だけが、俺に石を投げよ!』
彼の言い分は、あまりにも身勝手で醜悪だったが、真実を突いてもいる。
この世に、欲のない人間などどれほどいるだろうか。清廉と謳われる正教大教母の自分だとて、怖ろしいほどの欲にまみれているのだ。
ことに――彼と結ばれてからは。
幼い頃から、ずっとこころは彼だけに捧げていた。恋とか愛とか、そんな生々しい言葉さえ知らなかった頃から、ずっと一途に思い続けた。
それは歪んだ愛情だったかもしれない。不自然で醜い、エゴだったかもしれない。
恋とか愛とか、そんな綺麗であたたかな感情とは、まったく違う性質のものだったのかもしれない。
それでも、マルーはバルトを選び、バルトはマルーを選んだ。
互いが互いの翼でもって空を飛ぶ。教会の教えのように、一対のものとして生きることをふたりが望んだ。
だから――身もこころも、結ばれたのだ。すべて明け渡し、そして受け容れた。
けれど、現在マルーとバルトはともに暮らしを営んでいない。いわゆる、婚姻という形はおろか、恋人同士であるということさえ公にはしていない。
マルーにもバルトにも、それぞれに難しい立場があった。重すぎる責務があった。感情のままに動くことを、彼らは本能的に忌避していた。
それでも――互いを求めずにはいられなかった。離れれば離れるほどに恋しく、成熟を迎えた男女として、当然求めるものを求めあい、それを隠すことで秘密の共犯者になった。
けれどふたりに近しい者たちには、隠しようもないことだった。彼らはみな、あたたかくふたりの恋を見守ってくれている。公にはできないまでも、最大限の配慮をもって、その想いを汲んでくれる。
そんな状態で、五年が過ぎていた。
ひどく中途半端で、愚かしいほどに不器用な恋。向かう先になにがあるのか、決して見渡せない綱渡りをしているような恋は、マルーにとって命綱のようなものだ。
重責を担う日々の暮らしの中の、たったひとつの命綱。何万という民たちの希望であるマルーに許された、かけがえのない拠り所。
それほどに大切なものがあることを――今宵はなぜか、ひどく恐ろしく感じられた。
おそらく、それは。
「…………」
マルーは指を組み、静かに目を閉じた。真白の月の光の下で、熱心に祈りの聖句を唱える。
この世に生まれ出ることが叶わなかった、かけがえのない命を想って。
きっと自分と同じように、唯一無二だと信じたものを失った娘の、深い嘆きを慮って。
その絶望の果てに視た、死という誘惑を振り切る強さをどうぞお与えください。
『大教母様……私は確かに、罪を犯しました……。幾人もの女性に甘言を弄し、おのれの欲望を満たしました……聖職者として、あるまじきことです――――ですが!』
鞭のようなデニス・リドルの叫び。はっとして目を見開いたマルーの耳奥に、まさにいま聴こえているほどの臨場感でそれは続いた。
『男には、欲があるのだ! 僧服に身を包み神との対話を尊んでいればそれがなくなると思うのならば、あなたはとんだもの知らずだ、大教母マルグレーテ!!』
はっ――と、鋭く息を呑む。
最前から胸の中に渦巻いていたざわめきが、不意に形づくられはっきりと視えた。
何人もの女性と関係し、一途な思いを袖にさえしたデニス・リドルのような男は、一般的とはいえないが、決して珍しいわけでもない。ことに、ルドヴィーク司祭が目をかけていたほど優秀な信徒だった彼のように、勤勉な性質の人間が些細なかけ違いで道を踏み外した時、その反動は極端に大きくなるだろう。
ひとは、禁じられているものにほど強烈な誘惑を感じるものだ。
ことに――男性は。欲があるのだ。
リドルにも――そして、バルトにも。
「……っ」
慌ててぶんぶんと首を振り、なにを考えているの! とおのれを叱った。
マルーは組んでいた指を離し、落ち着かないように立ち上がる。自分の思考が辿った道が、ひどくやましいような気がして、遠い地にある恋人に対して罪悪感が募った。
デニス・リドルのような男と、誰よりも信じられる存在であるバルトとを同じく考えるなんて、愚かにもほどがある。それはバルトへの最大級の裏切りだし、侮辱にほかならない。
――――果たして、本当に?
まるで他人が反論するように、頭の中に冷静な声が響いた。
マルーは立ち上がった腰を再び椅子に落ち着け、茫然と月を見上げる。
思考は千々に乱れ、手に負えないほど乱雑になった。バルトに対する申し訳なさと、いつの間にか――おそらくここ五年ほどの間に、知らず知らず胸に巣食っていた思いもよらないほどの昏い不安が、火花のように弾けている。
マルーは、今夜の眠りを妨げていた本当の気持ちを覗いた。深淵を覗き込むような気持の先に、こちらを見つめる彼女自身の本当のこころが見えた。
マルーとバルトが恋人同士になったのは、人類の存亡をかけた大戦の直後、それぞれの国の復興さえままならない頃。まるで転がり落ちるように身体をつなげたのが始まりだった。
それまでは、家族として過ごしてきた。揺るぎない絆を持ち、互いが互いの唯一無二だと知っていた。
けれど、決してそこに色も欲も混じらなかった。マルーは自分の無力さを呪い、女性としての脆さを憎んだ。おのれに呪詛をかけるように、その成長を阻み、叶うならば一生無性別の人間として、バルトの傍らで彼の役に立ちたいと願っていた。
いまにして思えば、恨んでいたのは自分の女性性ではなく非力さだったのだが、いくら成長してもバルトのような屈強な身体もこころも手に入れられないと絶望した時から、女性として成長することそのものに嫌悪感を抱いた。
結果、いつまでも子供じみた体躯と振る舞いが、より一層非力さを強調するという本末転倒に気づいたのは、皮肉にも自分の女性性が彼の拠り所になると知った時だった。
最後の戦いに赴く時、バルトはマルーにおのれの還るところであってほしいと願った。いみじくもそれは、目的を同じくする仲間だったフェイが、愛しい女性であるエリィに望んだことと同じで、男としてのバルトが、マルーになにを望んでいるのかがはっきりと分かった。
バルトの願いを、マルーはこころから嬉しいと受け容れた。そこに女性性への嫌悪はなく、おのれにかけた呪詛もまた、木っ端みじんに消え失せた瞬間だった。
バルトたちは勝利し、彼は望み通りマルーのもとへ還ってきた。
マルーはバルトを受け容れ、その想いの深さと確かさに比例するように、どんどん時を取り戻していった。みなが目を瞠るほどの速さで花開くように成長するマルーを、バルトはほとんど躊躇なく奪った。
ためらう理由など、互いに持ち得なかった。十六年もともにいたのだ。一秒だって待てなかった。
そうして、五年。バルトは二十三歳になり、マルーは先月二十一歳になった。
バルトは父王の遺志を継ぐことを望んだが、時勢に逆らうことなく王の座を継いだ。荒廃した民を平らかにするには、王家の復興が最善手だったのだ。
マルーもまた、ニサン正教大教母として変わらず民を導く道を選んだ。その道以外を選ぶことなど、考え及びもしなかった。
その時点で、二人の道は遠く離れた。
少なくとも、起居を共にしていた戦艦の暮らしとは比べ物にならない。それ以前の、逃亡者とその従妹という立場の時と比較してさえ、悲しいくらいに疎遠になった。
それぞれが懸命に復興を目指していた最初の一、二年は、ほとんど会えなかった。手紙や電話も思うに任せることは叶わず、顔を見られるのは公的な場でのほんの数時間のみ。それだって、片手にも満たない回数だった。
それからまた数年。わずかずつでも復興が進んできて、少しは自由が手に入った。とはいえ、国が違う。気軽に行き来できる距離とはいえず、決して頻繁とはいかなかったが、それでも季節が変わるごとには会えた。
それだけでマルーは満たされていたし、恵まれていると思っていた。
本当なら、自分たちの想いを断ち切らなければいけない立場のふたりだ。バルトがまだ戦艦に暮らし、仇討ちを大義としていたころとは状況がなにもかも変わっている。彼らの側近たちがノスタルジックに願っていた『ファティマの血』の結びつきは、大戦を経たいまとなっては、ほとんどデメリットしか生み出さない。
アヴェとニサンは滅亡に瀕した全人類を牽引する二大国家であり、その国主の婚姻は個人的感情で決めることは難しい。高度な政治的判断が必要とされ、場合によっては未婚であることが求められることすらある。
だから、いまのマルーにとってはどれほど距離が開こうと、会える時間が少なかろうと、バルトと気持ちを通わせ、彼の恋人だと思えることだけが唯一の望みであり、生きていく希望だった。
これ以上のことは望まない。
マルーはそれだけで、十分満たされる。
――――けれど、バルトは。
バルトは、弱冠二十三歳では考えられないほどの重責を担い、常に極度の重圧にさらされている。生まれながらに背負わされた業は、どれほど彼の心身を苛んでいるだろう。
本来、それを癒してやれる恋人は、遠い異国の地にあって、なんの役にも立たない。
そのことは、男性である彼にとって、女性であるマルーとは比べ物にならないほどの苦しさなのかもしれない。
ぼんやりと月を見上げ、マルーはここ数年ずっと自分のこころの中にたゆたっていた想いと初めて向き合った。
自分はずっと、バルトにとって役に立つ人間でありたかった。
幼い頃、身を挺して庇われた恩義がそう思わせるのか、自分に流れるファティマの血がそうさせるのかはわからないけれど、彼の幸せが一番大切で、自分のことは二の次、三の次でよかった。
そんないびつな自己犠牲の精神を、けれどもバルトは軽々と飛び越えて、マルーを世界で一番しあわせな娘に変えてくれた。
だからもう、十分ではないか。
マルーは再び、バルトの幸せを第一に考えて動く時ではないのだろうか。
年に数回、慌ただしく抱き合うような恋人ではどうしても癒せない。そんな欲を、きっとバルトも持っているだろう。
日々の重責に押しつぶされそうな夜、ただなにも考えずに彼を眠りにつかせるためのぬくもりを、やわらかさを、与えてあげたい。
たとえそれで、――――彼を失うことになったとしても。
マルーにとって、バルトのしあわせが一番大切なのだから。