幾千万の夜
ひとりの司祭が、うなだれて立っている。
その正面の一段高い祭壇には、すっきりとした白い立ち姿の娘がいた。
彼女の全身を包むのは、この国の最高位の者と示す僧衣。神々しいほどの威厳を漂わせ、静かに司祭を見つめている。
ニサン正教大教母に付き従うのは、打ちひしがれてたたずむ司祭の直属の指導者である修道司祭の初老の男と、幼い頃から大教母を扶育してきた古参シスターのふたりだけだ。
部屋の中には、この四人の重苦しい沈黙が漂っている。
他聞を憚る事態を前に、完全な人払いがなされていた。時刻は二十一時を回り、普段ならば就寝前の自由な寛ぎの時間である。大教母はこの時間、遠く離れた恋人へ日々の徒然と淡い恋心を綴る私信をしたためるのが常だった。
今夜は、その時間を作れそうにない。
ひとつ吐息を漏らし、ニサン正教大教母――名を、マルグレーテ・ファティマと称する二十一歳の娘は、改めて正面の司祭に視線を向けた。
「――リドル司祭。今宵、なぜあなたがここに呼ばれたのか、事情はおわかりですね」
「……はい」
年の頃三十なかばほどの男は、司祭服に包まれた身体を小刻みに震わせながら、蚊の鳴くような声音で答える。ここに至るまで詮議は十分に行われており、今更なんの申し開きをする余地もなかった。
マルーは男の砂色の髪を見つめながら、さらに口を開く。
「あなたは、司祭職にあることを利用し、何人もの若い女性と不適切な関係を持った。中には、敬虔な信者として司祭であるあなたにこころからの信頼を置き、結果欺かれたことを苦に自傷までした娘もいたと聞いています」
「…………」
「相違ありませんか」
「……はい」
青ざめた顔に、冷たい汗がしたたり落ちる。男はこれ以上ないほど項垂れて、断罪の言葉を聴いていた。
マルーは一度くちびるを閉ざし、深く息を吸い込む。
「デニス・リドル。あなたの教区司祭としての職務を剥奪し、永久聖職停止処分とします。また、今後ニサン正教本部に足を踏み入れることも許しません。いまこの時より処分は執行されます」
淡々とした判決に、リドル元教区司祭は一瞬びくりと身体を揺らし、思わずのように顔を上げた。真っ青になった表情が強張り、目に涙を浮かべながら幼子のようにくちびるを震わせる。
「あ……だ、大教母……様……」
「――なにか言い残すことがあるのですか」
マルーの静かな問いかけに、リドルは一歩足を進めた。近づく距離に、マルーよりも先に両隣に控えた修道司祭とシスター・アグネスが反応する。そのふたりを目顔で制し、マルーは目の前で震える打ちひしがれた男を見つめた。
「大教母様……私は確かに、罪を犯しました……。幾人もの女性に甘言を弄し、おのれの欲望を満たしました……聖職者として、あるまじきことです――――ですが!」
突然に、男の語尾が甲高く跳ね上がる。殊勝なまでに従順だった様相は変わり、いまにもマルーにつかみかからんばかりに迫った彼は、口角から泡を飛ばすように叫んだ。
「男には、欲があるのだ! 僧服に身を包み神との対話を尊んでいればそれがなくなると思うのならば、あなたはとんだもの知らずだ、大教母マルグレーテ!!」
「デニス!」
「僧兵!」
修道司祭がマルーと男との間に身を挺して割って入ると同時に、シスター・アグネスがマルーを後ろ手にして鋭く叫ぶ。それと同時に懺悔室の扉を開けて入ってきた屈強な兵たちは、乱心した元教区司祭を鮮やかに制圧した。
床に押しつけられ、後ろ手に拘束されたデニス・リドルは、紫色の顔を仰向けて、シスター・アグネスの背後に隠れるマルーを睨みつけて叫ぶ。
「俺のしたことを、誰が罪と呼べるのか! 男が女を求め、女が男を欲することを罰するというのならば、この世は遠からず滅ぶだろう! ヒトの本能を軽んじる愚か者よ、その心の中を問うがいい。真実欲を持たぬといえる者だけが、俺に石を投げよ!」
絶叫する男を追い立てて、僧兵はほとんど風のように部屋を去った。けれどもその醜悪な捨て台詞は長くその場の空気を濁らせて、残された者たちの心をふさぐ。
おおきなため息をつき、壮年の修道司祭がマルーに向けて深くこうべを垂れた。
「……我が弟子、デニス・リドルの罪をお許しください、大教母様。彼のこころは深く病んでおり、もはや見境のない悪徳の信望者となり果てております……我が不徳の致すところです。この上は、私への厳重なる処罰を懇望いたします」
「ルドヴィーク司祭」
肩を落とす厳粛な司祭に、マルーは穏やかに声をかける。
「あなたを罰することは出来ません。デニス・リドルの罪は、彼自身が負うものです」
「大教母様……」
「それに、ことこういった問題は処し方が難しいもの。いみじくもデニス・リドルが言ったように、ひとの本能を罰することなど誰にもできないのだから……」
そう言いながら、マルーが長い睫毛をふせる。その挙措に、二十一歳のうら若い娘の恥じらいを見てとって、ルドヴィーク司祭はますます首を深く垂れる。
「大教母様……マルーさま。このたびのような恥ずべき失態を、貴女様の耳に入れることを、私はいまでも疑問に思います」
「ルドヴィーク司祭……」
「貴女様は、ニサン正教の長にして崇高なる母。大教母様の清き耳目を汚すことは、我らの本意ではありません」
心苦しそうに言い募るルドヴィークに、マルーは苦笑するように微笑んだ。
「ルドヴィーク司祭。私はもう、二十一歳の成人です。いままでは、あなたやシスター・アグネスら、こころ利きたる者たちの袖に隠れてのうのうと過ごしていましたが、これからは責任ある立場として、清濁を併せのむ覚悟です」
「マルーさま……」
ルドヴィーク司祭が、複雑な表情で顔を上げる。
目の前に立つ若い娘は、気品と美しさを兼ね備え、清らかな心根を持つ得難い宝だ。自分たちが掌中の珠として慈しんできた希望の星を、世俗の垢に塗れさせてよいものか。
けれど、一国の元首にして一宗教の長である彼女を、いつまでも温室の中で囲っていられるわけもない。少しずつ、この世の悪、正教の膿の存在を知らしめ、それを呑み込んでいく力をつけてもらわなくてはならない。それは、わかっている。
まるで、娘を持つ男親にも似た複雑な愛情と使命感の板挟みに苦しむ司祭に、マルーの傍らに控えていたシスター・アグネスが落ち着いた声をかけた。
「ルドヴィーク司祭。大教母様の仰ることももっともです。司祭のご懸念も十分に理解できますが、我々が掌中の珠の美しさを独り占めできる時はもう、過ぎ去ってしまったのですよ」
「シスター・アグネス……」
「なにもかも性急に事を運ぶなどとはいいません。ですが、今後も然るべき時節を読みながら、大教母様に正教の抱える様々な功罪をお伝えすることも、我ら側近の者の使命かと思います」
柔和なシスターの穏やかな言葉に、ルドヴィーク司祭は思慮深く沈黙し、それからゆっくりと頷いた。
「……そうですね。我々の役割は、大教母様をお助けすること。大教母様の行く先の露を払うことと、自分のマントで御身を隠し護ることの違いを弁えるべきでした」
そう言って穏やかに微笑む司祭の目の前に、マルーはわざと軽やかに足を進めた。弾むような仕草でトン、と床を踏むと、間近に迫った馴染み深い顔ににっこりと悪戯っぽく笑う。
「ルドヴィーク爺。もうボク、おとななんだよ? いつまでも子ども扱いしないでよね」
「あ……」
一気に『大教母』から『無邪気なマルー』に変わった彼女に、ルドヴィークは虚を突かれたように目を丸くし、それから照れくさそうに破顔した。
「いやはや……マルーさまには敵いませんな。爺は耄碌しました。そろそろ隠居願を出さねばなりません」
「なに言ってるの。これからも、ずっと頼りにしてるんだからね。爺も、アグネスも、今日は本当にありがとう。ふたりがいてくれたから、落ち着いて対応できたよ」
ふっくらと笑うマルーは、にこにこしているアグネスを振り返ると、それで、と少し声色を変えた。
「デニス・リドルはどうなるのかな」
「そうですね……。彼の毒牙にかかった娘は、都合四人です。そのうち三人は、一概に彼ばかりの責任ともいえません。最後の一人……リドルに袖にされ、絶望のあまり自傷行為に走った娘は、教区教会の支援のもと回復の道を探っています」
「その一人と、ほかの三人との差は?」
マルーの問いに、アグネスは少しばかり眉を寄せた。そっと目顔でルドヴィーク司祭をうかがうと、彼もまた渋面になっている。
扶育係二人の様子に、マルーは素早く頭を巡らせた。
「……もしかして、三人はつまり……」
なんという単語が適切か、乏しい知識をかき集めるように眉を寄せるマルーに、アグネスは少し考えるふうに目を閉じてから、ゆっくりと頷いた。
「……ええ、そうです。ほか三名は、リドルの受け持つ教区に住む、春をひさぐ女性たちでした」
男性を相手に、金銭の授受でもって身体の関係を結ぶ女たちの存在は、清く正しい宗教国家ニサンの中にあっても皆無ではなかった。最も古い職業とさえいわれる彼女たちの生業は、敬虔な信徒とはいえ決して神でも天使でもない人間にとって、必要欠くべからざる悪徳の象徴ともいえる。
「デニス・リドルは、この中のひとりの女性と関係するところから道を踏み外しました。相手は商売上の付き合いに終始したようですが、リドルはいままでの教会の教えとは真逆の世界に魅惑され、関わる人数を増やすとともに、倫理観をも摩耗させていきました。その結果、教区の敬虔な信者であり、リドルにほのかな好意を抱いていた娘を毒牙にかけるに至り、結果彼女を追い詰めることになりました」
事前に得ていたデニス・リドルの罪状を、より詳しく説明する。アグネスの言葉を、マルーは静かな表情で聞いていた。
「娘は身ごもっていました」
「――えっ」
思わず声を上げ、マルーは目を見開いた。そのことは、事前の報告にもなかった。
「それゆえ、リドルとの未来を望んだ彼女は、何人もの商売の女性とも関係を持ち、自分との関係もその延長上としか捉えていないリドルの本性に気づき、絶望したのです。……そして、手首を切りました」
「あ……赤ちゃんは……」
マルーの問いに、アグネスは痛ましげに眉を寄せ、静かに首を振る。マルーは青ざめた顔色でそんな、と呟く。
「母体は一命をとりとめました。けれど、決して無事とはいえません。彼女の父親は――母親は、先の大戦で亡くしているそうです――決してリドルを許さず、叶うならば彼を殺すと公言しています。ですので、リドルは教区に戻すことはもちろん、このニサン法王府の中で暮らさせることも危険だと判断しました」
アグネスの言葉に、マルーは密かにくちびるを噛んだ。
事前の報告では、教区司祭が複数の女性と関係を持ち、痴情のもつれで自らを傷つけた娘がいる、とだけ聞いていた。正教の司祭やシスターは、婚姻を禁じられてはいない。けれども、あまりにも奔放な倫理観が問題視され、司教の地位を剥奪するべきとの奏上が届き、自分は深く考えることなくそれを認めた。
その実情は、目を覆いたくなるほど生々しい。けれど、決して珍しくもない。マルーの、大教母の膝元ですら、最初ではなく、最後でもないだろう醜聞だった。
強張った表情のマルーを思いやるように、ルドヴィーク司祭が重い口を開いた。
「――そういった次第でしたので、我らはデニス・リドルを国外追放する段取りをつけました。着の身着のまま放り出せばよいとは思いましたが……あれでも、もとは優秀な信徒でした。私が手塩にかけて育てた……善い青年だったのです」
一気に老け込んだような面持ちの司祭に、マルーは慰めるように頷く。
「うん……爺、それでいいよ。間違ってない……」
「件の娘には、教会からも手厚い看護をさし向けています。父親のこころの救済も、私が責任をもって執り行うつもりです」
「うん。お願いします」
「……それで……、デニス・リドルの受け入れ先なのですが……」
ここで少し、司祭の言葉が途切れた。マルーが小首をかしげると、ルドヴィーク司祭はなにかを憚るように言葉をつなぐ。
「……ニサンのほか、流入する民を受け容れる都市となると……選択肢は、あまり多くはありません。彼はもう、神職につくことは適わず、向後は生計の道を模索することとなるでしょう。……その際、脛に傷を持つ人間を懐に入れるほどの規模となると……」
ルドヴィークのためらいに、この時マルーが気が付いた。正確には、彼がなにをためらうのか、その本質までは察することができなかったが、本能的に、胸の奥に苦いものが広がる。
それを振り切るように、マルーはことさらなんでもないように声を上げた。
「アヴェに……ブレイダブリクに連れて行くんだね」
「……はい」
こんな場面で口にするとは思ってもみなかった、大切な名前。誰よりも愛しいひとが住まう地に、教会の恥部とさえいえる者を送り込んだ。
清濁併せのむ覚悟といえど、自分の大切にしているものを汚されたような不快感を感じ、マルーは一旦口をつぐむ。そんなふうに感じる事こそ、自分がまだ精神的に成熟していない証だと、わかっていた。
マルーは、純粋培養で育てられた高貴な立場の若い娘としては当たり前の、けれども一国、一宗教の長としては決して許されない潔癖な倫理観をわきに追いやるように、ゆっくりと微笑んだ。
「一応、アヴェ王室に連絡はしてください。いち民間人の移住なので、それほど大事にすることもないですが……経緯が、経緯なので」
「はい」
『大教母』の指示に、ルドヴィーク司祭は背筋を伸ばすように一礼した。傍らのシスター・アグネスも、なにも言わずに控えている。
マルーはわずかに肩を落とし、懺悔室の暗い色の床を静かに見つめた。
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